アッツ島は峻険な山々が連なる死火山の 溶岩島である。海岸線は切り立った山や 断崖で、浜辺、平地は極一部しか無い。 上図の黒い部分が日米の戦場となった。 |
辰口信夫:
明治44年8月広島県生まれ。中学卒業後渡米。昭和12年、エバンジェリスト医科大学を卒業して医師 となる。 敬虔なクリスチャンで、伝道教会の医師として帰日。昭和16年1月、陸軍に召集される。医師でありながら「曹 長」の階級とは敵国大学出身という偏見の故か。 アッツでの戦闘開始から玉砕まで、妻から贈られた聖書の余白に日記を残していた。 辰口曹長の遺体から米軍に発見され直ちに翻訳された。この日記は多くの米国人に深い感銘を与えた。 以下の記述は「辰口原本→英語→日本語」に再翻訳された為、正しいご家族名は不明。 日本側からアッツの戦況を識る唯一の貴重な日記である。 |
5月12日以来、激戦を展開していた北海(ホルツ)湾西浦地区隊は17
日迄に 全滅し、米軍北部々隊の舌形台(MOOR RIGH)への進出を許した。 この為に部隊本部を直接圧迫されることになり熱田地区(CHICHA-GOF)に 移動の止むなきに至った。 東浦に集積されていた乏しい弾薬糧食や高射砲も残置された儘、夜中に 移動が開始された。米川部隊の残存兵は北海湾からの敵を阻止する為 「馬ノ背」に最後の布陣をした。 これに伴い、旭湾(MASSACRE BAY)正面の敵の主力を釘付けにしていた 旭湾警備隊と荒井峠の部隊は、17日の夜陰に乗じて獅子山東側山麓の 防衛線補強の為、米軍に全く気づかれずに移動を完了した。 少ない兵員と貧弱な火器で、6日間に渡り圧倒的物量の優勢な米軍主力の 前進を荒井峠で釘付けにした日本軍将兵達の敢闘は驚異的だった。 米上陸軍総司令官ヴラウン少将はこの為に罷免された。 |
最後の夜襲進路 雀ヶ丘 ( ENGINEER-HILL ) 日本軍の夜襲で大混乱に落ち入った米軍は工兵隊が態勢を 立て直し、この丘で日本軍への反撃を開始した。 その為に工兵隊の丘 (エンジニアヒル) と呼ばれている が、筆者がコーストガードの隊長に聞いた話に依ると、 大正か昭和の初期、太平洋横断の飛行機がこの地に不時着 して、この丘で飛行機の修理を行ったことからエンジニア ヒルと呼ばれるようになったという。 現在、この丘には日本人戦没者の石碑 (昭和28年) とチタ ン製日米戦没者合同慰霊塔 (昭和62年) が建っている。 |
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チチャゴフ地区(?)で斃れた日本将兵達 本写真は米国ジョージア州フォートゴードンの社会問題 担当官James Hudgins氏を介して米国陸軍通信隊の使用許 可を得た。 同通信隊に依れば、ホルツ湾東岬とチチャゴフ湾の中間台 地とあるが、戦闘の推移からみて該当場所を見い出せな い。 前方の景色から、雀ケ丘ではないかと思われる。 This photograph obtained use permission of the U.S. Army Signal Corps mediating Mr.James Hudgins of the Public Affairs Officer for Fort Gordon, Georgia, U S.A |
雀ヶ丘で斃れた日本将兵達の遺体 → 雀ヶ丘に突入して斃れた日本将兵達の姿。 埋葬する為に米軍に依って雀ヶ丘の一角に集められた。 (中央右の人影は戦場処理の米兵) 米軍に依る日本将兵の墓地が各所にある。 前方の山は十勝岳、右の稜線は虎山。 写真提供: Mr. Frederick Messing family Photograph offer: Mr.Frederick Messing family. |
玉砕日本将兵2,638名 捕虜28名 陸軍関係 2,527名 27名 海軍関係 111名 01名 捕虜28名中、見習士官1名は海上移送中に投身自決。 従って生存者は27名。 生存者は殆ど仮死状態で捕虜となった。 生気を取り戻した彼等は例外なく自決を試みようとした。 (米軍記録) 生存率 1% という全滅だった。 |
雀ヶ丘のアリューシャン戦域日米戦没者合同慰霊塔(後方は虎山) 昭和62年(1987)7月1日、日米政府関係者・遺族代表者に依って チタン製慰霊塔の序幕式と合同慰霊式典が挙行された |
←左写真の右 戦没日本人之碑
昭和廿八年建立・日本国政府 (高さ約80p) |
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