戦史 アッツ島の玉砕(2)0                                        辰口信夫日記

アッツ島の玉砕     辰 口 信 夫 日 記

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日 本 軍 の 防 備






アッツ島は峻険な山々が連なる死火山の
溶岩島である。海岸線は切り立った山や
断崖で、浜辺、平地は極一部しか無い。

上図の黒い部分が日米の戦場となった。


米軍北部上陸部隊の一部は芝台北部断崖のBerch Redから上陸。他の北西部Berch Scarletから上陸した一隊は狭隘な谷間を迷いながら
前進して北海湾地区に布陣する日本守備隊主力の背後を衝いた。↑ 
当時、日本軍が使用した地図は地形が極めて不正確だった。
正確な地図を作図し、日本守備隊の配置を附した。↓ 地名はアッツ島日本守備隊が命名した名称を使用した。



防 備 体 制

アッツ守備隊は兵員・武器が未完結だった。熱田港は岩礁が多く、水深が浅い。柳岡湾は両岸を切り立った山に挟まれた和田沼に阻ま
れて内陸部への侵攻が困難である。
従って米軍の反攻は北海湾か旭湾の可能性が高いと判断した。
然し、旭湾は上陸点が広範な為に少ない兵員での防御は不可能だった。
その為に飛行場建設の北海湾と熱田港の海正面を中心に布陣した。
旭湾からの米軍は北海湾地区への侵攻を荒井峠で、熱田港地区への侵攻をクレバシー峠 (Clevesy pass=雀ヶ丘と獅子山に挟まれた隘路)で阻止する布陣となった。戦闘が始まると、野砲未着の為に高射砲の水平射撃を余儀なくされた。

1

霧 の 日 記

守備隊第二地区隊野戦病院曹長・辰口信夫


 辰口信夫: 明治44年8月広島県生まれ。中学卒業後渡米。昭和12年、エバンジェリスト医科大学を卒業して医師
 となる。
 敬虔なクリスチャンで、伝道教会の医師として帰日。昭和16年1月、陸軍に召集される。医師でありながら「曹
 長」の階級とは敵国大学出身という偏見の故か。
 アッツでの戦闘開始から玉砕まで、妻から贈られた聖書の余白に日記を残していた。
 辰口曹長の遺体から米軍に発見され直ちに翻訳された。この日記は多くの米国人に深い感銘を与えた。
 以下の記述は「辰口原本→英語→日本語」に再翻訳された為、正しいご家族名は不明。
 日本側からアッツの戦況を識る唯一の貴重な日記である。

五月十二日 昭和18年5月12日1時55分 艦載機飛来、対空射撃。霧低きも山頂は明瞭。山頂に退避す。 十時まで空襲しきり。地鳴
      りを聞く。艦砲射撃なり。戦闘準備の為装具を着く。情報によれば敵輸送船約四十一隻、北海岬に上陸開始※1
      舟艇二十隻を以てマサッカル湾に上陸せりと。敵は重装備を揚陸中なるものの如し。
      一日中多忙。空襲、艦砲射撃、米軍上陸。

五月十三日 米軍、芝台及びマサッカル湾に上陸せり。芝台方面の敵は三角山麓に進出し、我が軍は之を邀撃中。マサッカル湾の守
      備は僅かに一小隊のみにありしを以て、敵の奇襲に会し我が守備隊は高射機関砲を破壊して撤退せり。
      夜襲では敵の小銃二十を捕獲せり。
      敵山砲の砲撃熾烈なり。傷兵約十五野戦病院に来たる。野戦病院は荒井工兵隊に配属せらる。

五月十四日 キスカから来援のわが潜水艦二隻、敵船に甚大な被害を与える※2。鈴木中尉敵小銃弾に当り戦死。野戦 病院に傷兵の
      流れ絶えず。
      夕刻、米軍はガス使用せるも強風のため被害なし。敵勢力は一個師なるべし。必死の応戦にて持ちこたふ。

五月十五日 敵の地上砲火、艦砲射撃で傷兵の野戦病院入り絶えず。敵は黒人、インディアンが多数。西地区隊は舌形台附近に撤退
      せり。逆襲の際、同地区隊行きを命じられるも中止。疲労のため暫く兵舎で横たはる。
      西地区より撤退せる兵の表情は緊迫しあり。彼等はすぐ前線に復帰せり。

五月十六日 若し本夕刻までに舌形台を占拠さるれば東地区の命運決する為、書類焼却し、患者の処分を準備す。丁度地区隊命令に
      接し、明朝一時、馬の背経由チチャゴフ港に向かふべしと。独歩患者は帰隊せしめ重傷患者のみ同伴す。空襲あり。
      野戦病院洞穴に待避。ロッキード洞穴を狙って掃射、飛び去る。



5月12日以来、激戦を展開していた北海(ホルツ)湾西浦地区隊は17 日迄に
全滅し、米軍北部々隊の舌形台(MOOR RIGH)への進出を許した。
この為に部隊本部を直接圧迫されることになり熱田地区(CHICHA-GOF)に
移動の止むなきに至った。
東浦に集積されていた乏しい弾薬糧食や高射砲も残置された儘、夜中に
移動が開始された。米川部隊の残存兵は北海湾からの敵を阻止する為
「馬ノ背」に最後の布陣をした。
これに伴い、旭湾(MASSACRE BAY)正面の敵の主力を釘付けにしていた
旭湾警備隊と荒井峠の部隊は、17日の夜陰に乗じて獅子山東側山麓の
防衛線補強の為、米軍に全く気づかれずに移動を完了した。
少ない兵員と貧弱な火器で、6日間に渡り圧倒的物量の優勢な米軍主力の
前進を荒井峠で釘付けにした日本軍将兵達の敢闘は驚異的だった。
米上陸軍総司令官ヴラウン少将はこの為に罷免された。

五月十七日 十八時、闇を利用して洞穴を出づ。担架は泥濘(ぬかるみ)と急坂の無人の地を行く。行けども行けども峠に出ずる能
      わず。霧中に失われゆく思ひにて焦燥の感に堪へず。二、三十歩毎に座り込む。眠り、夢を見、また覚む。斯くの如き
      繰り返し幾度か。担架の患者は凍傷に罹りぬ。斯かる苦労の後地区隊長山崎大佐に会す。峠は狭い一本道にてチチャゴ
      フ港に向い急傾斜。台座に座りて足を上げ、軍刀にて方向を変えつつ極めて巧く滑降すること約二十分。
      チチャゴフ港地区に到着す。患者同伴にて約九時間を要す。直ちに新野戦病院を開設。
      峠で再発せし関節炎の為、歩行著しく困難なり。
      我が潜水艦、特殊潜航艇によるチチャゴフ湾一帯の十四日以来の戦果ー戦艦、巡洋艦、輸送船六※3
      東部戦線以来の勝利だ。芝台沖の敵予備兵が復帰、輸送船一を駆逐艦六が護衛。
                                  ※1、※2、※3 の内容は現実と相違。混乱した戦場では止むを得ない事である
五月十八日 米川部隊は東西両拠点を放棄せり。傷兵約六十入院。終夜一人治療に任ず。敵チチャゴフ湾上陸の報あり。
      各員戦闘準備で待機。各人手榴弾二発装備。大村(軍医)少尉北鎮山の第一線に向ひ出発す。決別の辞を述ぶ。
      夜、友軍の同士討ちに依る傷兵一人来る。手首に傷。合い言葉は「一死」「報国」と決定す。

五月十九日 夜、地区隊本部より電話。海岸数カ所に友軍水上機待機しありと※。アッツ部落の教会※4に入る。誰かの家庭の如き
      感じにて毛布散乱しあり。マサッカル湾で敵将校が落としたとみらるるスミス大佐副官のロバート・J・ワード大尉所
      有なる作戦命令書の翻訳を命令さる。疲労の為眠る。翻訳責任者は氏家中尉なり。
                        ※4 第一次アッツ攻略時、少数のアリュート族の部落があった。彼等は日本に移送された

五月二十日 三○三大隊マサッカル湾にて激戦中なるも戦況有利なるものの如し。霧に紛れて接近せし敵兵十を掃討す。
      我が兵五、衛生下士官一戦死。馬の背附近にては敵操縦士の顔見ゆる由。当野戦病院付近に対する艦砲射撃熾烈なり。
      着弾僅かに二十米の距離なり。

五月二十一日 傷兵の腕を切断中機銃掃射を受く。空襲はチチャゴフ港に移動して以来初めてなり。敵機はマーチン。大岩指揮官の
       神経質には参る。部下の将校、下士に明日自分は戦死すると最後の言葉を述べたら、所持品を皆持って行かれたなど
       と言う。軽率な男なり。
       前線の将校は立派にやっているに、斯かる事を聞かされなば、皆やけとなり、軍規乱る。

五月二十二日 六時空襲。機銃掃射にて衛生兵一名戦死。又、岡崎衛生兵は右大腿部破砕。夜、迫撃砲弾至近に落下。

五月二十三日 海軍中攻十七機、沖の敵巡洋艦一隻撃破※。敵艦砲射撃により傷兵用天幕の支柱破壊し天幕倒壊す。二名即死。
       午前二時半より午後四時まで蛸壷に潜む。給養日量一・五合。前線では、将校、兵とも区別なし。
       誰もが食べ物探し、又、何でも盗まる。

五月二十四日 霙(みぞれ)降りてひどく寒し。独り三角兵舎に残る。敵艦砲射撃の砲弾多数附近に落下す。屋根一面岩と泥。
       五米離れし蛸壷にも落下。早坂衛生兵、破片を心臓に受け即死す。

五月二十五日 艦砲射撃、爆撃。塹壕戦、最後の時近づきつつあり。敵は陣地構築中なり。大隊長※5戦死。
       馬の背地区では傷兵全員を収容しきれず。マサッカル方面では地区隊本部への道路切断されたりと。
       下痢にてフラフラす。                                  ※5 渡邊十九二少佐

五月二十六日 艦砲射撃にて三角兵舎は飛散。夥しき物飛散した瞬間、意識薄れる。焼夷弾命中にて天幕一つ炎上。
       機銃弾患者室に命中す。三角兵舎に命中せし五十粍口径弾二発の中、一発は天井に止まり、他の一発は我が部屋を貫
       通せり。部屋中屋根からの砂、小石で滅茶苦茶なり。広瀬軍医中尉負傷。聖旨※6伝達式あり。
       馬の背の最後尾線突破さる。援軍の望み無し。
       聖旨の大義に殉ぜん。
           ※6「陛下の優渥ナル御言葉」アッツ守備隊24日2200受信、25日早朝全線に伝達。部署に依って将兵への伝達日時がズレル

五月二十七日 下痢続き、腹痛甚だし。阿片、モルヒネ手当たり次第に採り、それにて可成り熟睡す。機銃掃射にて屋根破壊す。
       二千名以上の人員も今や一千名以下に減ぜり※。海岸守備隊の傷兵で野戦病院本部は満員。
       入院不能の者は前線に在り。

五月二十八日 残存糧食僅かに二日分※7のみ。我が砲兵は全滅。迫撃砲、高射砲の砲声を聞くのみ。
       アッツ富士山麓の中隊は一名を残し全滅。米川隊隊長及び若干の部下は生存の模様なるも疑わし。
       他の中隊も一、二名を除き全滅。第三○三大隊は既にやられ、米川大隊は尚馬ノ背を保持しあり。自決者続発す。
       地区隊本部の半分は吹き飛ばされたり。重傷者にモルヒネ四百を打ち全員を処置せりと聞く。
       半揚げの薊(アザミ)を食す。
       この六ヶ月で初めて口にした生鮮食品らしき物なり。美味なり。
       地区隊本部より野戦病院の島(原の欠字=島原)への移動の命ありたるも、後取り消し。
                                 ※7 野戦病院は例外である。部隊に依っては20日頃には糧食尽きる

五月二十九日 夜二十時、地区隊本部前に集合あり。野戦病院隊も参加す。
       最後の突撃を行うこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。僅かに三十三年の生命にして、私は将に死せんと
       す。但し何等の遺憾なし。天皇陛下万歳。聖旨を賜りて、精神の平常なるは我が喜びとするところなり。
       十八時、総ての患者に手榴弾一個宛渡し、注意を与える。
       最後まで優しかった妻耐子よ、さようなら。再た会う日までどうか幸せに暮らして下さい。
       丁度四つになったミサコ様健やかに育って呉れ。
       今年二月に生まれたばかりの睦子は、父の顔も知らないで気の毒です。マツエ様お元気で。コウちゃん、サキちゃ
       ん、マサちゃん、ミッちゃん、さようなら。
       敵砲兵陣地占領の為、最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり※8
       敵は我が攻撃を明日と予期しあるものの如し。
                                      ※8 残存兵力は公式戦闘報告で150名。日米証言者に依って幅がある
日記はこれで絶えた。
最後の筆を折った辰口曹長の胸中は如何ばかりであったろうか。短い日記であるが戦闘の臨場感が伝わってくる。
5月29日の最後の記述は将兵の最後の心情を語って余りある。魂の鎮まらんことを祈る。


辰口信夫日記は北海道放送により「霧の日記」として放映された。
本日記は、北海道新聞社→西日本新聞社経由で筆者の母に贈呈されたものである。
辰口原本→英訳→日本語変換され、且つ翻訳者に専門知識が無い為、戦闘地名、部隊名他の誤記を訂正して文章表現も極力当時の表現
に近づけた
2

最後の夜襲進路

         雀ヶ丘 ( ENGINEER-HILL )

 日本軍の夜襲で大混乱に落ち入った米軍は工兵隊が態勢を
 立て直し、この丘で日本軍への反撃を開始した。
 その為に工兵隊の丘 (エンジニアヒル) と呼ばれている
 が、筆者がコーストガードの隊長に聞いた話に依ると、
 大正か昭和の初期、太平洋横断の飛行機がこの地に不時着
 して、この丘で飛行機の修理を行ったことからエンジニア
 ヒルと呼ばれるようになったという。
 現在、この丘には日本人戦没者の石碑 (昭和28年) とチタ
 ン製日米戦没者合同慰霊塔 (昭和62年) が建っている。



この写真は昭和53年の真夏に筆者が撮影した。山頂には常時霧がかかり、残雪も消えない。左の道路と電柱は戦後に設営さ れたもの


山崎大佐はこの地で果てた将兵達の無惨な姿を偵察し確認する事を軍司令官に求めた。それ故に敢えてこれらの写真を掲載した。



← チチャゴフ地区(?)で斃れた日本将兵達 

 本写真は米国ジョージア州フォートゴードンの社会問題
 担当官James Hudgins氏を介して米国陸軍通信隊の使用許
 可を得た。
 同通信隊に依れば、ホルツ湾東岬とチチャゴフ湾の中間台
 地とあるが、戦闘の推移からみて該当場所を見い出せな
 い。
 前方の景色から、雀ケ丘ではないかと思われる。

 This photograph obtained use permission of the U.S.  Army Signal Corps mediating Mr.James Hudgins of the  Public Affairs Officer for Fort Gordon, Georgia, U  S.A


       雀ヶ丘で斃れた日本将兵達の遺体 →

 雀ヶ丘に突入して斃れた日本将兵達の姿。
 埋葬する為に米軍に依って雀ヶ丘の一角に集められた。
             (中央右の人影は戦場処理の米兵)
 米軍に依る日本将兵の墓地が各所にある。
 前方の山は十勝岳、右の稜線は虎山。

  写真提供: Mr. Frederick Messing family
  Photograph offer: Mr.Frederick Messing family.



     雀ケ丘に向かって後藤平で斃れた日本將兵              雀ケ丘で斃れた日本將兵


   玉砕日本将兵2,638名    捕虜28名
      陸軍関係 2,527名      27名
      海軍関係  111名      01名

  捕虜28名中、見習士官1名は海上移送中に投身自決。
  従って生存者は27名。
  生存者は殆ど仮死状態で捕虜となった。
  生気を取り戻した彼等は例外なく自決を試みようとした。
                       (米軍記録)
       生存率 1% という全滅だった。



雀ヶ丘のアリューシャン戦域日米戦没者合同慰霊塔(後方は虎山)
昭和62年(1987)7月1日、日米政府関係者・遺族代表者に依って
チタン製慰霊塔の序幕式と合同慰霊式典が挙行された




←左写真の右  戦没日本人之碑
 昭和廿八年建立・日本国政府
     (高さ約80p)



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            本HP表紙「アッツ桜」 「終わりに」の項「アッツ島雪景色・日本将兵の墓標」

               辰口信夫写真ご提供: 長谷川 寿紀 医師 (米国在) 青年医師辰口信夫

                 上掲玉砕将兵写真の出典元は「鳥飼行博研究室サイト」 様を参考とした




2013年9月12日より(旧サイトから移転)
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