日本刀の考察 8

日 本 刀 の 刀 身 構 造

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刀 身 構 造 の 解 明


地刃、体配などの外見上の情報は世の中に横溢しているが、刀身の構造、強度に関する刀身の実質内容は殆ど解明されていなかった。
その理由は、研究の為に試料(刀身)の破壊が不可避であり、その為に経費、歴史遺産の保全の観点から試料確保が困難であった。
加えて、鉄の芸術と讃えながらも刀身の実質に関心を寄せる金属、冶金科学者が極めて少なかったことに因る。

一方、市井の日本刀研究家、刀匠、研師として刀身を破断して独自に研究された方達は、本格的検査・分析装置が個人で手軽に利用
できない為に、残念乍ら散文的観察に止まっていた。

日本刀の実質に関する科学的分析の嚆矢(こうし)は明治39年〜大正13年の東京帝大・俵國一博士であり、次いで昭和4年の京都帝大理学
部近重研究室・足田輝雄講師の刀身断面のスケッチ図である。これは近重眞澄著「東洋錬金術」に収録された。
この時代の刀身組織観察は光学顕微鏡が唯一であり、刀身腐食の断面普通写真が一部撮られたものの写真品質が悪く、炭素濃度の分
布が大まかに分かる程度であった。
従って組織の観察は顕微鏡目視の結果を手書きで描画するしか手法がなかった。
中でも、以下に掲載する京都帝大理学部・足田輝雄講師に依る刀身断面のスケッチ図は異彩を放っている。「東洋錬金術」に掲載さ
れた足田講師の刀身断面図は白黒印刷であるが、足田講師は刀身断面スケッチの結果を京都の浮世絵師に依頼して自費で四色木版画
に記録された。A4版の高級和紙に印刷された断面スケッチ図は浮世絵風な味が出ていて見事なものである。
この中の「壽命作」の断面図一葉が、北田正弘著「室町期日本刀の微細構造」に四色刷りで掲載された。

    
  
  
  俵國一著「日本刀の科學的研究」   近重眞澄著「東洋錬金術」     足田輝雄講師の刀身断面木版画

本格的拡大顕微鏡写真を目にするのは、昭和14年の陸軍小倉造兵廠・将校用軍刀の研究からであった。
戦後、顕微鏡、鋼材分析装置などは格段の進歩を遂げた。旧来の技術環境とは雲泥の差がある。
その中で、東京工大製鉄史研究会、新日本製鐵第一研究所のCMA(コンピュータ制御X線マイクロアナライザー)に依る刀身の構造と鋼
材成分の分析事例が発表された。然し、何れも古代刀の範囲に止まり、古刀以降の研究は放置されたままだった。

平成20年、東京芸大・北田正弘教授が最新の走査、透過型電子顕微鏡を駆使した古刀材料の科学的研究を発表した。
この研究は未開の分野(従来の散文的認識)を科学的に明らかにし、種々の課題を提起している点に於いて極めて意義深いものがある。
ここで、戦前の近重教授の「東洋練金術」の最終章にある足田講師の刀身断面スケッチ図、足田講師の個人的木版画、最新の北田教授の「室町期日本刀の微細構造」に於ける日本刀の構造を考察する。
1

断 面 観 察 で の 刀 身 構 造

(昭和4年、近重眞澄著「東洋練金術」及び 足田講師の刀身断面木版画より)


著者は京都帝国大学理学部教授で理学博士。当該著書は、元素の発見と変遷を主に解説し、日本刀は最終章に紹介された。
近重教授他関係者の日本刀認識は、同大採鉱冶金学教室が実施した新々刀最後の刀工・高橋信秀翁の口述記録(出版)、高橋刀工から
鍛刀を学んだ田崎正浩理学士の著述(未出版)が基本である。
「古刀の古法は一旦戦国時代に失われたが、幕末の水心子正秀の研究で古法が明らかになり、工夫を加えて新々刀が生まれた」と
述べ、古刀 ≒ 新々刀と認識している。 これは間違い。正秀の作刀結果は古刀とは程遠いものだった
東京帝大・俵博士もこれらの記録を参考にした。当時の刀剣界の認識では、この過ちも止むを得ない事だった。
又、著者は化学者でありながら刀材の成分々析に一切触れていない。和鋼で日本刀は造られると信じて疑わなかった故であろうか。


日 本 刀 断 面 組 織


以下の刀身断面組織図は、近重金相学研究室・足田輝雄講師が光学顕微鏡での目視を基に作画した。
(足田輝雄講師略歴)
明治20年(1887年)大阪に生まれる。明治40年(1907年)、大阪商工学校(現:関西大倉高等学校)夜間部卒業。明治41年(1908年)、大阪
高等商業学校(現: 大阪市立大学)卒業。明治41年4月からの5年間、イギリス及びドイツに留学、主として冶金工学を学ぶ。
明治45年、ドイツのErlangen大学にて学位(ドクトル・オブ・フィロソフィー)取得。明治45年頃フランスに滞在。欧州の政情不安に
伴い、大正元年にシベリア経由で日本に帰国。帰国後、京都帝大近重眞澄教授の下で金相学の研究に従事。大正12年、父親の死去に
伴い「足田鉄工所」の経営を継ぐ。昭和9年(1934年)、「高温測定法」を著す。日本刀多数を収集し、書斎には束になって積み上げら
れる量だった。大東亜戦争中、出征される知人には軍刀装に仕込んでこれらの日本刀が贈呈された。戦後、残余の日本刀はGHQに接
収されたが、自身が鍛造した短刀が一振り残された。昭和49年(1974年)歿。輝雄氏が作刀した短刀一振りは平成17年(2005年)、ご長
男の八州雄氏から交友関係にあつた東京芸大・北田教授を通じて同大学に寄贈された。
刀身断面組織の観察に寄せて足田輝雄氏は以下のように述べている。

日本刀の材質と焼入れ研究の一部
                               1967年5月記 ドクトル・オブ・フィロソフィー 足田 輝雄
ここに示す図は、日本刀或いは外国刀の切断面を、顕微鏡を通して検査したるものを、手書きしたるものである。顕微鏡的組織を手
書きすることは、写真以外に種々の利点がある。この手法は、かって、英国セフィールド大学鉄鋼研究室に於いて習得したるもので
ある。なお、200倍の組織を約10倍の範囲内に配分し、サンプルを動かしながら全面観測するのと同様の感じを与えんとする方法は、
独創のものである。
白色の結晶はferriteで炭素量は0.1〜0.2%、灰色はpearliteの部分であるが、比較的早く冷却された故に、sorbiteまたはtrooth
-tite状となっている。炭素量は平均0.85%である。黄色はmartensiteであり、焼入れされた部分である。小さき粒の如きものは錵
(にえ)又は匂(におい)と称するものである。青色はslagで酸化鉄と硅酸鉄の混合物である。
木版は京都のある浮世絵師により印刷され、四度ずりである。和紙を用う。


(足田輝雄講師の刀身断面組織の説明を木版画に対応して示した)

足田講師の刀身断面図の銘を基に年代の古い順から並べた※1
刀匠銘の真贋を斟酌していないので偽名であれば作刀年代の順列は当然異なることになる。









                    注釈
          ※1
 原画は左図のようにA4版和紙に四色木版刷りされている。
 ここでは刀身断面組織を比較し易いように原画の断面組織部分
 のみを抜き出して羅列した。
 又、来國■と備前春光の木版刷り原画二葉が散逸している為に、
 この刀身断面については「東洋錬金術」に掲載されている白黒
 断面スケッチ図を援用した。

      
      
 ※2
 「東洋錬金術」誌では、備前春光の刀身構造をマクリ鍛えと説
 明している。そうだと顕微鏡写真のような断面にはならない。
 筆者は、
大陸の刃物鋼として使われた「灌鋼」と同様な硬・軟
 鋼を数回練り合わせたものか、或はズク卸しの不均質鋼の丸

 えと解釈する。
 
「東洋錬金術」誌は、日本刀の合わせ鍛えとして従来の新々刀
 に基づく五種を説明し、これに丸鍛えを加えて各々の造り込み
 の種類を説明している。 
然し、掲載12種の組織分布は、火造り鍛延に依る炭素の遷移を勘案しても、従来通念の構造分類に当てはまらないものが存在する。
明治以降から現在に至る刀身造り込みの認識は、新刀で出現し、新々刀期に多く見られた均質な硬・軟鋼を貼り合わせる構造である。
この認識が強すぎたのではなかろうか。この分類を不均質鋼が使われた古刀構造に摘要することに無理がある。
日本刀の造り込み(構造)はもっと多様であった。

2

刀 身 構 造 の 解 釈


 刀 銘    「東洋錬金術」誌説明(白字)
   
足田講師の木版画説明(黄色字)
筆 者 推 定
青江次忠 大火での焼け身。左側は焼き戻しでフェライト
結晶肥大。
皮金の一部が取り去られている。
フェライトの
針状組織は火災に遭ったことを示
している。

大火に遭って半面だけ焼けたという説に些か違和感あり
全身焼け身→外皮吸炭 ? 古青江の銘(即ち時代) は疑問。

将軍家佩刀
大阪城中で切断の伝説あり。
大阪城落城の際遺失せしねのと称せられる。
組織非常に密にして鍛えすぎの如し。
炭素量少く、美しき肌なれど実用的に非ず。

丸鍛え(一枚鍛え)。組織の粒状が極めて微細。
来國■ マクリ鍛えらしい。 中央鍛接面左右の粒状、刃金の軟鋼部への食い込みから見て
単純なマクリとは思えない。銘の欠落で来の何代目か解らない。

相州正廣
組織の粒状が微細。
相州鎌倉流にて非常に良く鍛えたる組織もち、
焼刃は大きな乱れである。

不均質鋼本体と棟部軟鋼の合わせ鍛え

関兼元
単純マクリ鍛え。
硬軟鋼合わせ鍛えて全体として硬質。棟(背部)
にも所々焼入れあり。

何代目か不明。練り材本体と棟部に焼入硬鋼の合わせ鍛え。
備前春光 マクリ鍛え。
硬・軟鋼のマクリ鍛えに異論あり。丸鍛え(練り材)と推量。
壽命 マクリ鍛え。
比較的正確な組織をしているが、中央部の鉄が
軟らかすぎて実用的ではない。
何代か不明。マクリ又は甲伏鍛え。皮鉄の棟側への展延が少ない
刃の損傷による研ぎ減りなら、棟〜刃側の皮鉄が先に減る。

三品宗次
四方詰め。
短刀。装飾的。硬質鋼を用う。皮金は軟鋼を折り
返し鍛造したるもの。

両側面の皮鉄は軟鋼。従来説の四方詰めとは違う。

備前祐永
軟、中硬、硬鋼を組合わせた特殊マクリ。
中央の中硬鋼材に軟鋼の背金を溶接し、外側を
軟鋼で包んで鍛造している。しかし、背金部が
横にずれている。

硬・軟鋼の単純練り材。

藤島友重
構造説明無し。
皮金の片方が欠けている。刃部の焼入れも完全
ならず。

従来概念で説明がつかない為か ?   硬・軟鋼の単純合わせ。

眞龍子壽茂
マクリ鍛えの皮鉄を棟に曲げた。
軟鋼のまわりを硬鋼にて包みたるもの。
モリブデンの含有を精密検査したるも含まず。

明治維新直前の作刀。四方詰めか。
無銘
最も簡単なる作り方で、脇差しと称するもので
ある。
硬鋼を軟鋼で挟んだものか。

日本刀の刀身構造に関して、天田 昭次刀匠は「朽ち込みの激しい数点の刀を切断してみた。鎌倉時代の大和物で、芯鉄を使っていな
い刀が出て来た。逆甲伏の軟鉄に刃金を僅かに差し込んでいる丈だ。
(戦後の私は)刃物を作り、鉈(なた)も鉞(まさかり)も作ったが基本はこの通りの割刃金だ。
この刀が例外かと思っていると、やはり古い時代の刀に割刃金が次々と出て来た。
古刀全般にわたって芯鉄を使わなかったとは断言出来ないが、少なくはなかっただろう。
加えて、折れや曲がりを防ぐ為に用いる芯鉄が逆効果をもたらすとは・・・・。同じ見解は、後に別の方からも聞く事になった」と
述べている(「鉄と日本刀」より)
         柴田刀匠も「軍刀身の研究」で、心鉄を合わせる鍛えは各々の鋼材の炭素交換が行われ、皮・心鉄の意味が失われる・・・と
          同じ事を述べている。これらの著述から、古刀を探究し続けた天田刀匠を以てしても、晩年まで新々刀の心鉄構造の呪縛から
          脱していなかった


参考: アジアの刀剣断面版画 (足田輝雄講師)

 
 
 
  鍛錬したあとなく、焼入れもなし。
  刃部には硬鋼を用いている。
  両刃の短刀。一方のみ焼入れ有り。
  屑鉄を集めて造りたるものの如し。
  しかし、少量の刃金もあり、焼入れも
  されている。

(足田輝雄講師に関する写真、刀身断面四色版画、経歴等は足田講師のご長男である足田八洲雄様からの提供に依る)




3

室 町 期 古 刀 の 刀 身 構 造

 (北田正弘著「室町期日本刀の微細構造」より)

著者は冶金を修めた工学博士。東京芸術大学大学院文化財保存学(保存化学・美術工芸材料学)専攻の教授である。(現:名誉教授)
前述したように日本刀の実質内容の科学的研究は明治以来僅か3〜4例に過ぎなかった。
古刀以降に限れば、東京帝大・俵博士と小倉陸軍造兵廠の研究だけだと言ってよい。然も、それらは研究の主題が各々異なり、未知
の分野が取り残されていた。
今回、従来の口伝、風評に過ぎなかった幾つかの内容が科学的に確認された。
引張り強度試験(小倉陸軍造兵廠の強度試験とは異なる)も実施された。最新分析装置によって微細構造が初めて明らかになった。
仮にこれらの得られたデータが「吉包」固有の特性であったとしても、従来通念を打破する多くの示唆を含み大変興味深い内容であ
る。
本研究は日本刀の科学的研究に大きな一石を投じたことは間違いない。そこで筆者の所見を交えて本研究の一部を考察する。

     

化学腐食断面写真


黒色=高炭素領域 
白色=低炭素領域 
灰色=中間炭素領域 
黒点・線=非金属介在物


最高含炭量: 刃金 0.6%C
最低含炭量: 棟部 0.1%C

古 刀 「信 國 吉 包」 の 刀 身 構 造


吉包諸元:刃長60p、最大身幅2.9p、最大重ね6o、刃文:五の目乱れ、最大焼入深さ11o
筑前・信國一派は南蛮鉄使用で知られている

刀身構造
著者は三種の合わせ鍛えの例を挙げ、芯金(ママ)中央部に大きい非金属介在物が多数存在することから「まくり鍛え」と見做(みな)
た。この断面写真は種々の課題を投げかけている点で極めて興味深い。

@ まくり鍛えでは鍛接線が識別されることが多い。鍛接が完全だと境界面の原子・不純物原子の拡散(移動)を生じて鍛接境界は識
  別できなくなるという。
  それは理解できるとしても、本例に見る左右に跨る連続性をもった炭素領域の分布をどのように解釈すべきであろうか。

A 表面の非金属介在物は赤熱鍛打で飛散除去されるのが普通ではなかろうか。若し鍛接にフラックス(鉄滓利用を含む)を用いたの
  なら中央接合面全域に非金属介在物が出現しても不思議はないが、本例では僅か上部にしか認められない。

B 本試料の皮鉄はスケールで判るように極端に薄い。然も鎬の上で止まって棟まで届いていない。この皮鉄の薄さで強度保持の意
  味があるのであろうか ? 又、この薄さだと刃毀れの状況に依って1〜2回の研ぎで皮鉄は確実に消滅する。
  刀匠の目論見に反した失敗作だったのか ? 元々が研ぎ減りした刀だったのか ?
  足田講師のスケッチ図にある「壽命」のマクリ鍛えを観察すると「吉包」のみが特殊例とも言いきれない。
  刃毀(はこぼ)れによる研ぎ減りなら、鎬〜刃側の皮鉄が先に減る。従って研ぎ減りの結果とも一概に云えない。
  新々刀を基にした従来概念の皮鉄と言えるであろうか ?

C 割刃は刀身全体の強度保持の必要性から生まれたものではない。不均質複合材(刀工は当然無意識)で不都合は無かった。
  刀身本体(軟鋼)の側面を強力に滲炭させる・・・炭素交換(遷移)の理屈は当然知らない・・・手段に皮鉄を用いたという解釈は
  成り立たないだろうか ? 古刀の複雑な焼入で刀身強度への効用を経験的に知っていた。
  そうだとすれば鎬の近辺で皮鉄が途絶えていることや皮鉄が極端に薄いこともある面で頷ける。研ぎで皮鉄が摩滅してもなお実
  用性を保持出来る。現代感覚で推し量れない刀匠の知恵があったのではなかろうか。
     
D 刃金の低炭素部は折返し鍛錬で鋼表面に生じたスケールか ?  この分布状況は4〜5回の折返し鍛錬の鍛接面を現している。

 (以上5項目の筆者の疑問点と所見に対し、北田教授から、5ページを超える詳細なご説明のお手紙を頂戴した。機会を設けてご紹介する所存です)

 以上を勘案してこの刀身の造り込みを筆者の独断で推定して見た。本項ご訪問者の方々のご批判を切望するものである。



←左は本試料の「吉包」
 右は小倉陸軍造兵廠の委託で造られた
  優秀刀工「F」のマクリ鍛え
  
 ←右は玉鋼と包丁鉄の均質鋼を合わせた新々刀
  以降の一般的マクリ鍛え。
 当時の写真、印刷技術が粗悪な為に不鮮明だが、
 中央に鍛接面が確認される。
 「吉包」の造り込みを新々刀と同一の概念で捉
 えるには無理がある
「吉包」の皮鉄の役割と芯鉄の複合材を考慮して、刀身の基
 本を割刃鍛えと想定した。
 即ち、芯金を刀身本体そのものと捉えた。

 上図は三枚、又は甲伏鍛えに近似した例。
 下図は割刃鍛えに皮鉄の組合せ。皮鉄は滲炭材を兼ねる
 現代常識を超越する造り込みがあったことを想定した


現在流布されている代表的造り込み八種は主として新々刀の硬・軟均質鋼を前提としている。
従って、不均質鋼を使った古刀期の造り込みには、新々刀の分類に当て嵌まらないないものがある。
足田講師のスケッチ図にある「来國■」、「関兼元」、「相州正廣」などがそれに該当し、新刀以降も「三品宗次」の皮鉄は硬鋼で
はない。
「藤島友重」の造りは簡単に説明できないし、「備前祐永」も鍛え崩れとしては微妙である。

この「吉包」は従来の構造概念の三枚、甲伏、マクリと強いて解釈できないこともないが、その場合は新々刀に準拠する合わせ鍛え
の種類を根底から見直さなければならない。現在通念の枠を超える多様な日本刀の造り込みがあったように思われる。

4

刀 身 鍛 接 面 の 炭 素 遷 移


硬・軟鋼の接合部での炭素拡散(遷移)に関しては、日本刀研究家の佐藤富太郎、刀匠柴田果などが指摘していたが、散文的表現に止
まっていた。今回それが科学的に確認された。その意味は大きい。


 硬・軟鋼は約800℃位の鍛造温度で固体の状態のまま原子の
 相互移動に依って鍛接される。
 接合面では硬・軟鋼の両者の鉄(Fe)と炭素(C)が同時に拡散
 する。
 左図は身巾方向の炭素濃度の分布曲線で、当然の事ながら
 鍛接境界に近い程硬鋼の脱炭量と軟鋼の吸炭量は多い。
 炭素拡散の見かけ上の範囲(遷移の発生した距離)は9oに及
 んでいる。日本刀の平均的重ねより長い距離である。
 重ね方向(側面から側面)に関しては刃先から7o、8oの位
 置のデータはあるが何れも刃金の範疇である。
 刀身中央附近のデータは残念乍ら記載されていない。
 側面皮鉄の厚みと軟鋼との遷移の相関々係に興味を惹かれ
 る。    ←左図曲線上下の○は二点の測定値



5

鋼 の 結 晶 粒

@ は焼入による微細な針状マルテンサイト組織。長さは0.5-2μm、巾は50-200nm。
A はマルテンサイトとパーライト(フェライト=α鉄と針状セメンタイトの層状)の混合組織。パーライトは10μm以下の微細結晶
  粒。明るく見えるのがα鉄で炭素遷移が少ない所。
B は鍛接面に近いパーライト(暗い)とフェライト(明るい)の混合組織。
C は芯金(ママ)中心部の20〜80μmの多角形フェライト結晶粒。棟に向かう程大きくなる。黒い点状や線状の部分は非金属介在物。

 結晶粒の径は鍛練の加工度と温度の保持時間に関係する。加工度が低く、熱保持時間が長くなると粒径が大きくなる。

超 鉄 鋼 組 織 の 出 現

特筆すべきは、刃金と芯金の遷移領域に粒径0.3-5μmのフェライトと粒径0.05-0.5μmのパーライトが検出された。
現代鉄鋼の粒径の限界は20μmと言われ、それ以下の「超鉄鋼」と呼ばれる微細組織の鉄の生産は実験室の研究段階である。
多結晶金属の強度と靱性は結晶粒径の細かさに比例する。
「超鉄鋼」は従来の鋼に比べて強度で二倍、寿命が二倍という驚異的な性能を持つ。
この「吉包」は、超鉄鋼と言われる結晶を一部に備えた驚異的な構造だった。高強度と靱性に優れている事を意味している。

著者は、優れた刀匠が比較的低温で鍛錬し、短時間の作業で造った為と推定した。
これは桜ハガネを開発した工藤博士の古刀鍛錬法の信念と図らずも一致している

南北朝期の古名刀に関する工藤治人博士の見解

 この時代の備前のタタラの産物は銑鉄=白銑であった。(刀身地肌の)木目を見せる黒い筋は鉄滓である。
 今日は精鋼を得る為に、ヒを初めに高く焼いて鉄滓を流動状にし、鎚で絞って鉄滓を除去するが、古名刀は此の鉄滓除去
 をして居ないと思われる(鍛接剤として有用なウスタイト系ノロ)。
 炭素の高い鋼は低温鍛錬が出来ぬので、左下場で出来たヒと、本場で卸(さ)げた包丁鉄(錬鉄)を合わせ、何れもの持って居
 る鉄滓を逃がさぬ様、出来る丈低く焼いて鍛えたものと考えられる。
 低い温度で叩いて傷の出来ないためには鋼の炭素の低い事を要するので、ヒの炭素を低くするために包丁鉄を交ぜ、鉄滓
 をも増加して居るものと思う。
   @ 初め高温に熱して除滓する(新刀以降の)和鋼独特の作業をしない事   A なるべく低温に焼く事 
   B 低温鍛錬を可能ならしむるため、打上げた時 C 0.45〜0.5になるように低炭素の素材を選ぶ事
   C 心金を用いず丸ギタエにする事   D 折り返しは少なくする事

 これは鎌倉・南北朝期の古名刀の地鉄に対する工藤博士の不動の考えだった。              ( )は筆者注


製作年代による刀身微細組織の違い

本試料と新々刀二口の組織が比較された。新々刀に比べて結晶粒径は一桁近く細かい。更に、熱感度が高い(敏感な)ことが解った。



「金属結晶粒の微細構造」と「熱感度」の結果は、古刀の謎、及び新刀・新々刀との差異を解く極めて重要な鍵になるのではなかろ
うか。

 ア、結晶粒の微細化は低温鍛錬と加工度だけで実現できるものか ?
 イ、鋼材の熱感度の相違は何に起因するのか ?
 ウ、製錬原料、含有元素との相関々係の有無、強度と刀身構造の関係は ?

など、新たな研究課題を投げかけている。
6

鋼 材 成 分

刃金は非金属介在物の分析でチタンを含有していた為に砂鉄和鋼※1と見做された。
然し、芯金(ママ)はチタンが検出されなかったので異なる鉱石原料を用いたと述べるに止まり、褐鉄鉱等の鉱石原料又は輸入鋼も想
定して今後の研究に俟(ま)つとした。     ※1 チタンの含有を以て始発原料が砂鉄とは一概に言えない(「中世地鉄は銑鉄」の項を参照)


 因みに、北田教授が調べた江戸期の日本刀では「刃金にチタンが含まれるが、芯金ではチタ
 ンが検出されないものがあり、三種の異なる原料が使われている刀もあった。
 また、古代の直刀ではチタンが検出されない。
 これらについては多くの試料を用いて引き続き検討しているが、本邦の砂鉄に由来する鋼以
 外の輸入鋼が古くから使われていた可能性がある」とも述べている。
 東京帝大の俵博士も、新刀の心鉄には銅成分の多い輸入鋼と見做される鉄が使われていること
 があると述べられている。

 肥前、筑前は南蛮船の主な寄港地だった。本試料の筑前信國(吉包)一派、肥前忠吉一派は
 南蛮鉄使用の流派として知られている。
 鍋島藩は幕末まで南蛮密貿易を行っていた。
 筑前・肥前の刀工流派に南蛮鉄が多く使われた理由が肯ける。
 この「信國吉包」の鋼材は舶載鉄※2の可能性が極めて高い。
                                  ※2 南蛮鉄・洋鉄考参照

 ← 本試料とは別の南蛮鉄銘を持つ信國吉包の刀。
   銘: 筑州住源信國吉包
   裏銘: 以南蛮鉄作之

戦後、金属、冶金学者が国内製錬及び精錬遺跡、鉄器、鉄刀類の分析を行ってきたが、刀剣の試料数は決して多いとは言えない。
特に鎌倉〜室町期の中世のたたら製錬、刀剣情報は極端に少ない。
又、成分々析も製練滓、鍛冶滓、刀剣の錆片に依る化学分析が中心だった。分析結果にも個人差があり、同一データでも発掘される
迄の環境や付着物の解釈を巡って必ずしも結論が絞られるとは限らなかった。
今回の北田教授の研究は、自身の日本刀を切断し、炭素濃度は電子プローブ微少分析、微少領域の元素濃度は電子分散X線分析、光学
顕微鏡のμmの世界は云うに及ばず、走査型、透過型電子顕微鏡を駆使してnmの世界での組織の観察と確認が行われた。
従前の日本刀分析とは次元を異にする研究だった。本研究は多額な経費を必用とした。簡単に行えるような研究ではない。
刀身の解明が経費の面でも如何に困難であるかを示している。本研究はそれだけに重いものがある。
他の貴重なデータは本項主題の関係で割愛した。


参考・引用文献:北田正弘著「室町期日本刀の微細構造〜日本刀の材料科学的研究」内田老鶴圃
近重眞澄著「東洋練金術」内田老鶴圃



7

時 代 に よ る 刀 身 構 造 の 変 遷


時代毎の代表的な刀身構造を次図に示した




2010年1月6日掲載。2021年6月20日大巾更新
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