日本刀地鉄の科学的考察 0

日 本 刀 の 地 鉄

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古 代 鉄

弥生時代後期 (紀元前1世紀〜紀元1世紀) の鉄素材
2000年前の鉄の輝き


              平成24年に発掘された鉄塊(インゴット)           切断面の輝き
(左写真は切断前に正確な外観を残す為に造られたレプリカ。右写真は切断された現物の鉄塊)

 平成24年、福岡市博多区・比恵遺跡群の125次発掘調査で、メタル成分をほぼ完璧に残した鉄塊(インゴット)が発掘された。
 随伴出土品の編年から、紀元前1世紀〜紀元後1世紀(弥生中期末〜後期前葉)の金属遺物と推定された。
 今から約2,000年前、卑弥呼の邪馬台国が成立する以前の金属遺物である。
 土中から発掘される古代の鉄系遺物は、ほとんどが錆び化していてメタル成分が残るのは希(まれ)であった。
 この鉄素材の重量から、内部にメタルが残存していると確信されたので、金属成分を分析する為に勇断をもって切断された。
 予想通り、この鉄塊は表面の錆びを除けば完璧なメタルを残し、2,000年前の鋼の輝きを今に現した。
 こうした事例は珍しく、将に奇跡的な発見であった。
 紀元前後、鉄素材が渡来して国内鍛冶が始まったことを裏付ける有力な証拠となった。




成 分 々 析
C
Si
Mn
P
S
Cu
Cr
Ti
V
As
Co
0.28
0.01
0.51
0.06
0.048
0.22
0.02
< 0.01
< 0.01 0.03
< 0.01
日鉄住金テクノロジー(株)・大澤正己氏分析

 成分々析の結果、大陸の炒鋼法で造られた高純度の軟鋼(炒鋼)と判明した。
 鉄塊周辺の断面から、切り取られた残塊と推測され、渡来した最初の鉄塊はこれより大きなものであったことが窺える。
 この鉄塊素材を適宜に切り取り、赤熱鍛打して各種の鍛造鉄器が造られた。焼入れをして刃物も造られたと思われる。
 鉄質の純度の高さと銅の含有量の多さも錆びの進行を食い止めた要因と見做される。

(資料提供: 福岡市埋蔵文化財センター 田上勇一郎様)


大和・飛鳥・奈良・平安時代 = 4世紀初め〜12世紀末 (古代刀〜古刀初期)



埼玉県将軍山古墳の大刀 (六世紀前半) 炒鋼を鍛えた鎬造り。焼入され刃文がある (古代刀と鉄の科学)より

 国内製鉄の開始時期を6世紀中頃とみれば、それ以前の刀剣は渡来品か渡来鉄を使った国内鍛冶刀剣という事になる。
 我が国は積極的に朝鮮半島の鉄資源を求めていた。(異説・たたら製鉄と日本刀 参照)

 渡来刀剣には国宝「七枝刀」(369年)、十握剣(とつかのつるぎ、4〜5世紀)など、ともに奈良・石上(いそのかみ)神宮の所蔵刀がある。
 埼玉・金鑽(かなさな)神社古墳出土大刀(5世紀)、 韓国・公州土壙墓(どこうぼ)出土の古斧などを分析した新日本製鐵第一研究所によれ
ば、古代の比較的清浄な低炭素鋼は、鉄鉱石を溶融還元し、銑鉄(ずく)を更に溶融精錬して脱炭した大陸産の炒鋼(しょうこう) だった。

 昭和47年、埼玉・稲荷山古墳から「百練利刀」と金象嵌のある辛亥銘鉄剣が出土した。        古代製鉄と刀剣地鉄参照
 銘文から 471年に我が国で製作された物と言われる。
 これも同研究所でCMA(コンピュータ制御X線マイクロアナライザー)という最新の解析装置で分析され、炒鋼との推定結果になっ
た。推定炭素量は0.2〜0.3%の鋼で、炒鋼を使った国内鍛冶刀剣と推定された。
1

古 代 〜 中 世 の 鉄

法 隆 寺 の 鉄 釘
(日本刀地鉄の参考)
 当時の日本における鉄市場の実態を知る上で大変貴重な鉄器の成分々析データがある。
 法隆寺(創建607年)の昭和大修理の際に得られた古代鉄〜近世鉄の釘と鎹(かすがい)を分析した京大と、日本鋼管の二つの報告がある。

京 都 大 学 (西村秀雄・青木信美氏)


時     代 C Mn Ti Cu 備  考 (一部筆者の見解を含む)
五重塔 @ 再建時 (708〜714年頃) 0.30 0.092 0.025 0.02 高炭素鋼の中心を低炭素鋼が取り囲む。細長い鉄滓が介在。
半島岩鉄鉱 ?
 〃 A 中世 (古刀全盛期) 0.23 0.070 0.036 0.03 鉄滓少し、軟鋼組織は微細均質。高融点鉄滓の大きな巣。
半島岩鉄鉱 ?
 〃 B 近世・慶長(新刀期) 0.60 0.056 0.015 tr 南蛮鉄と砂鉄素材の混在 ? 鉄滓の介在最多、鍛錬の手抜き
が認められる
  〃 C 近世 (元禄) 0.25 0.230 - tr 鉄鉱石系、南蛮鉄 ?
金 堂 D 再建時 (708〜714年頃) 0.30 0.084 - 0.06 鉄鉱石系の特長
  〃 E 中世 (古刀全盛期) 0.45 0.037 - 0.01 鉄鉱石系の特長、硬鋼組織は均質
  〃 F 近世・慶長 (新刀期) 0.10 0.065 0.006 0.29 含銅磁鉄鉱、炒鋼 ? 灌鋼 ?


日 本 鋼 管 技 術 研 究 所 (堀川一男・羽目沢義信氏)

時     代 C Mn Ti Cu 備    考
G 創建時 (607年) 0.10 微量 <0.01 0.008 砂鉄系の特長、極軟鋼主体で炭素量の違う二〜三の鋼を鍛接
H 中世 (1283年、古刀全盛期) 0.09 微量 0.01 tr 砂鉄系の特長、極軟鋼主体で炭素量の違う二〜三の鋼を鍛接
I 近世 (1603年、新刀期) 0.25 0.23 <0.01 0.062 鉄鉱石系の特長

筆者注釈: @とAは鉄鉱石(岩鉄)系と砂鉄系原料の両特長を合わせ持っている。砂鉄系は必ずしも国産とは限らない。生産能力が
 低い為、国産、舶載の鉄素材を複合した結果か、又はチタンを含有する南部朝鮮の岩鉄鉱、或は砂鉄を銑鉄の脱炭材材に使った可
 能性も否定できない。そのいずれかとすれば@とAの矛盾は解決する。只、砂鉄系の鋼は意外と少ない。
 砂鉄製錬が開始された初期なので、朝鮮半島からの渡来品の可能性は充分にあった。

 両分析チームは、「釘の組織に著しいムラがあり、いずれも明らかに炭素量の異なる数種の粗鉄を鍛接して造られていた※1
 鉄滓等の介在物は多いものの固溶元素は少く、極めて純粋な低炭素鋼である」と指摘する。
 この純鉄に近い成分が錆び難い古代鉄の特性となった。
 低温還元の為に、炭素以外の元素が固溶しなかったのであろう。
 但し、高温製錬でも大陸の炒鋼は和鋼と変わらず極めて清浄だった。
 注目すべきは、千種・出羽鋼などが普及していたとされる新刀期に、C・F・Iに見られる含銅磁鉄鉱 ( 炒鋼又は灌鋼 )、南蛮
鉄、岩鉄鉱の使用である。
 権勢を誇る法隆寺の金具の組成は時代毎の鉄需給の状況を反映している。当然、日本刀にも反映したと見るべきであろう※2

 鉄鉱石に含有するマンガンは鋼の焼入性と強靱性を高める元素。然し、硫黄と化合した硫化マンガンは錆びの原因となる。
 砂鉄に含有するチタンは製錬を阻害する元素だが、刀材に存在する場合、切れ味、靱性を増し抗張力な特殊鋼になる。
 古刀地肌の青味の冴えはチタンに起因しているとの説がある (後述)

 ※1 @は別として、意識的に炭素量の異なる鉄を鍛接したという説には疑問がある。原始製鉄で得られた素材そのものが不均質
    ( 銑・鉄・鋼が不可分のまま混在 )で、鍛錬でそれらが混合された結果、自然の「練り材」であった可能性が高い。
 ※2 日本刀と一般鉄器用の鉄原料を選別して精錬したとはとても考えられない。

 古い鉄ほど介在物が多く組織にムラがあるが、不純元素の固溶が少ない純粋な鉄である。
 時代が新しくなるに従って介在物は減少し、組織と硬度のムラは少なくなっている。
 これは製鉄技法の変化と精錬技術の進歩を表している。

 法隆寺の昭和大修理をした最後の宮大工・西岡常一氏は、「創建当時の釘は、表面の錆びを一皮剥けば中の鉄は錆びに侵されてお
らず叩き直して使う事が出来る。
 しかし、慶長の大修理に使った鎹は同じ鍛造鉄でありながら錆びの固まりで、鉄の役割を全く失っている。
 現在の鉄は、五寸釘の頭が10年も経つと無くなってしまう」と述べている。
 千年以上も土中にあった古代刀が姿を留めているのは、鉄の清純さに理由がある。
 日本鋼管は薬師寺の修復に使う為、今後1,000年は耐えられるという和釘用純鉄を開発した。電気精錬で丁寧に造られた可鍛鉄で
ある。これと同性能の鉄が得られた古代は、例え偶然の結果であるにせよ、ある面で驚異的であったと言えよう。

2

古 代 刀


正倉院 銅柒作大刀第11号(中倉8) 身長: 62.4p

 奈良・正倉院の伝世刀剣類を精査した本間薫山氏は「鉄滓の目立つ物が多い中にも地鉄が美しい焼刃の良さと相俟(ま)って、後の
日本刀の上作に匹敵する剣がある」という。
 天王寺の「丙子椒林剣へいししょうりんけん」・「七星剣」(ともに切 刃造りの大刀)をみた天田昭次刀匠は「七星剣はやや鉄滓が目立つが、
丙子椒林剣は完璧で見る者全てが感銘を受ける。
 造り込み以外では後の日本刀の作風と変わらず、山城などの上工にも劣らぬ作位」と評している。

 正倉院と四天王寺の刀剣を全て研いだ小野光敬研師(人間国宝)は「地鉄が最も良いとされる平安・鎌倉時代の名刀よりも、共通し
て遙かに素晴らしい砥当たりである。軟らかくて砥石に(刀身が)素直に食い付き、粘って腰がある」という。
 この刀身は少なくとも室町以来、全身が黒錆びに覆われて裸身で放置されていたという。
 そういう錆身だと普通はどうにもならないが、朽ち込みも残らず千数百年を経て蘇った。
 古代地鉄の不思議であり、地鉄の優秀さが窺える。残念ながら渡来鉄か国産鉄かが解らない。
 因みに、この奈良時代の名作の砥当たりに共通する日本刀は後の正宗、貞宗、行光などの本筋相州物だという。
 又、切刃造りの直刀の時代に、既に鎬造りが萌芽していた。
 剣の後期から、大刀(たち)・横刀(たち)に移行する奈良時代、古代刀の地鉄と鍛法は、既に古刀の水準にあったと言えようか。


蕨手刀〜舞草刀・・・草創期の日本刀

 蕨手刀の起源は7世紀前半の中部・関東地方と見られ、東北地方から北海道にかけて広く普及した。特に岩手県・北上川中流域に
集中して出土する。中央集権を強める大和朝廷に反抗する一大勢力が関東以北に存在した。
 渡来人と見做されているその勢力は蝦夷(えみし)と呼ばれ、陸奥(みちのく)に独自の高度で豊かな鉄文化を築いていた。
 「突き」の剣に対して「斬る」を主とする刀剣を日本刀と定義するならば、日本刀の原点は柄反りを持った蕨手刀(わらびてとう)とい
う事になる。
 蝦夷(えみし)は、奈良時代後期 (774年〜) から平安時代初期にかけて、朝廷軍と屡々(しばしば)戦闘を繰り返した。
 朝廷軍に対して一部の蝦夷は恭順した(俘囚と呼ばれた)が、優勢な朝廷軍は789年、衣川(平泉)の戦いで大敗する。
 蝦夷はその後第二次・第三次討伐軍と熾烈な戦闘を展開した。
 征夷大将軍坂上田村麻呂の策略で蝦夷の族長アテルイとモレが謀殺(802年)され、争乱終結の811年まで、劣勢な蝦夷軍は朝廷軍4
万と同等以上の戦いを展開した。蝦夷軍が如何に精強であったかを物語る。(「続(しょく)日本後記」)
 その秘密は、蝦夷軍の騎馬と、蕨手刀にあると云う見方がある。朝廷軍の剣に対して、蕨手刀が実戦で優位を証明した事になる。



8〜9世紀初頭の毛抜型蕨手刀 (岩手県衣川)


茨城県高根古墳出土 蕨手刀 材料成分表

年  代 試料 T,Fe Cu P Ti 炭 素 量 非鉄金属介在物
7世紀中前葉 錆片 61.02 0.104 ※1 0.033 0.010 0.1〜0.2 非昌質珪酸塩
                                                「古代刀と鉄の科学」より

 最古の蕨手刀が高根古墳から出土した。鋼材は含銅磁鉄鉱だった。当時の状況から、舶載品の炒鋼と判断される※1
 その後、北関東を除き、東北〜北海道の蕨手刀の鋼材は砂鉄系に転換した。「砂鉄系」とは始発原料が砂鉄とは限らない。
 精錬工程で砂鉄が脱炭材に使われた可能性がある。又、南部朝鮮の磁鉄鉱は屡々チタンを含有する。砂鉄系と混同され易い。
 国内製鉄が始まっていても、その生産量は少なく、依然、鉄素材は舶載が中心だった。
 それと、8世紀以降の奈良〜平安にかけて、砂鉄製錬遺跡が激減する。
 その一つの例を玉名市に見ることが出来る。
 古代、邪馬台国30ヶ国連合を南から常に脅かした狗奴国は阿蘇山以西に存在したとみられている。
 この地域は褐鉄鉱(リモナイトはその生成途上の物質)の一大埋蔵地だった。
 その西北端の菊池川流域には多くの製錬遺跡が出土し、古墳の副葬品に多くの鉄素材が埋葬されていた。
 邪馬台国が舶載鉄器を使い続けている頃、九州中部のこの地域から早々と舶載鉄器が姿を消した。これは、邪馬台国が敵対する狗奴国への鉄器の流入を妨げたか、狗奴国が褐鉄鉱を使った国産製鉄を始めたかの双方が考えられる。
 現在の玉名市は、邪馬台国に接する狗奴国の北端の前線であったと見做される。
 玉名地域での製錬遺跡は、平安時代を最後にぱったりと姿を消した。製鉄原料の褐鉄鉱の枯渇ではない。又、鉄素材が不要になった訳でもない。それでは国内の他の地域から鉄素材を調達したのであろうか。
 この時代の国内製錬は規模の小さい零細自給タタラだった。国産鉄が商業的に流通する環境には無かった。
 これは何を意味するのであろうか。
 東北での平安時代全期の鉄器用具50点の分析で、37点が「岩鉄鉱系」、「砂鉄系」は僅か3点に過ぎなかった※2
 砂鉄製錬の衰退が鉄器の成分分析からも裏付けられた。蕨手刀も再び岩鉄鉱系に転換した。

                  ※1 我が国でも近代になって、釜石と赤谷(新潟)の二ヶ所で含銅鉄鉱石が発見されたが、採掘の形跡は皆無。
                     然も、銅を0.1%以上含むものは我が国では考えられず、中国・山東半島で産出する含銅磁鉄鉱石と判断
                     せざるを得ない
 (佐々木稔氏、及び東京工大製鉄史研究会、他の見解)。
                   ※2 岩手県立博物館主席学芸員・赤沼秀男氏報告

 10世紀に入り、9世紀には既に登場していた柄の中央に樋を透かした毛抜型蕨手刀を基に、柄頭を方頭形にして、柄の形式だけを
踏襲した反りのある毛抜形太刀が政権中央に出現した。
 この初期毛抜形太刀 (長野県のべ沢遺跡) の鋼材は岩鉄鉱系と分析された。
 毛抜形太刀は12世紀まで「俘囚(ふしゅう) ※3の野剣(のだち)」と言われ、蝦夷の刀の様式を引き継いだ事になる。
 蝦夷が平定された後、蕨手刀は反りを持つ舞草(もうくさ、又は、もくさ)※4 に引き継がれる。
 この地域には磁鉄鉱の餅鉄(べいてつ)が産出する。
 餅鉄は銑にも鋼にもなり砂鉄よりも製錬が容易だった。舞草刀は姿を変え、遠く離れた都で「衛府の太刀」として使用された。
 その最盛期は奥州平泉文化が華開いた平安後期の頃だった。
 舞草(もくさ)鍛冶集団※4 は藤原氏の滅亡後、鎌倉・相州鍛冶の源流となった。
                 ※3 渡来工人・鍛冶も「俘囚」と呼ばれた
                 ※4
「刀 = もうくさ、地名 = もくさ、苗字・植物 = まいくさ」と言う (中鉢美術館・弘館長の見解)
                   
「刀・鍛冶名 = もくさ、地名 = もくさ、苗字・植物 = まいくさ」と言う (一関市博物館の見解)

 反りを持つ日本刀の原点が、都を遠く離れた奥州の地で開花した事はもっと重視されるべきであろう。日本製鉄史は、山陽、特に
山陰地方が強調され、刀剣史も五ヶ伝に偏重している。それらとは全く別の製鉄技術・刀剣鍛冶が早くに陸奥に開花していた。
 古事記・日本書紀が大和政権の正統性を記述する作為された史書である事も、現在の偏った製鉄史・刀剣史の原因と思われる。

 砂鉄の赤目は埋蔵量と分布状態は群を抜いて多い。自然通風の原始製鉄では一般的にヒ状になる。
 低温炉では川砂鉄、浜砂鉄が使われた。吹子等の通風改良で中温炉が出現して山砂鉄でも流動性の良い銑鉄が採れるようになった。
 山陰特有の真砂は還元性が悪い。低温炉では銑・鋼・滓が混沌としていて製錬にかなりの技術を要した。
 窪田蔵郎氏は「出雲風土記」を証拠として神話をそのまま現実のこととし、出雲こそ日本製鉄発祥の地なりと断定していいもの
だろうか。出雲に限った場合、この地の真砂砂鉄はある程度技術が進んでいないと原始的な野タタラで本格的な製錬が出来るはずが
無い と断じている。(「鉄から読む日本史」)

 鉄の需要は銑が圧倒的に多く、鋼の需要は極めて少なかった。この傾向は時代が下がっても変わらない。
 真砂によるヒ押しが主と錯覚されている山陰でも、商業鑪の生産量ではヒが20%、赤目の銑押しが80%とズクが主流だった。
3

中 世 の 鉄 事 情

文 献 史 学 か ら の 検 証

 明は日本との交易を禁じてきたが、明の要請と室町幕府の財政窮乏に鑑み、應永5年(1398)、足利義満は対明貿易を決意した。
 応永8年(1401年)〜天文16年(1547年)に至る約150年の間に19回の勘合貿易を行った。
 実態は、倭寇の取り締まりを条件とする明主導の朝貢貿易だった。明からは綿布、薬品、諸雑貨と共に「鉄」を輸入した。
 第1回〜第8回までは幕府の船2〜3隻、第9回から、守護大名、有力寺社、商人の船が加わり5隻位の船団だった(第12回は最大の10隻)。
 第13回からは10年間隔となり、1回に3隻程度の交易だった。
 13世紀後半から、倭寇(密貿易、略奪含む、以下同じ)が活発に活動し、強大な勢力となっていた。
 後述する倭寇・密貿易の活発な活動と比べると、勘合貿易は実に細々としたものだった。その貿易量には格段の差があった。
 倭寇の活動のピークは、南北朝期と、鉄不足が深刻な戦国期である(倭寇の活動内容は、時代によって極めて複雑)
 この倭寇の拠点には五島列島、平戸、博多、薩摩などがあり、瀬戸内沿岸にも広がった。九州の一部の大名も後ろ盾になっていた。
(わこう=私貿易・密貿易(海賊を含む)を行う武装貿易商人)

倭   寇


 鎌倉時代の二度に亘る元寇の来襲で、壱岐・対馬の島民は
 婦女子を含めてほとんどが惨殺され、田畑も壊滅した。
 食料に窮した生き残りの島民達は、糧食確保と復讐心から
 倭の海商人と組み、朝鮮半島へ食料の収奪に向かった。
 これが倭寇の始まりとされる。

 その後、南北朝の日本の戦乱は、糧食・物資の欠乏をきた
 し、倭寇は船団を組んで環シナ海を縦横に活動するように
 なった。高麗と明帝国を脅かす強大な勢力となった。



 王直は明の海商。彼は、日本・ルソン・ベトナム・タイ・マラッカ等に禁制品の生糸や硫黄を輸
 出して巨利を得た。明の洪武帝は、前期倭寇の取り締まりと朝貢貿易を確立する為、1371年に
 「海禁令」を出し、海外との交易、大船の建造などを禁止した。
 明の解禁政策が強化され、官の攻撃によって双嶼・月港の根拠地を失った王直は、倭・明の密貿
 易人を率いて戦国時代の天文10年代(1541年〜)に五島列島の福江に来航した。
 明朝からすれば、王直は海禁令を犯す海賊だが、日本にとっては支那の高度な先端商品をもたらす得がたい貿易商人だった。
 五島の領主・宇久盛定は王直と通商の密約を交わし、福江に居館を与えた。又、平戸の領主・松浦隆信も貿易商人の王直を歓迎
し、平戸に中国風の館を与えた。王直は、福江、平戸、博多、薩摩を頻繁に行き来していた。
 豊後の大友義鎮(よししげ = 宗麟)、周防の大内義隆などの大名も深く関わり、京や堺、各地の商人達も盛んに王直を訪ねて来た。
 1550年6月に王直の手引きでポルトガル船が初めて平戸へ来航した。南蛮貿易の始まりとなった。

 双嶼(リャンポー)を拠点としている頃、王直は巨船を建造し、2,000人の部下と450艘の船を自在に操り、密貿易で巨万の富を築いた。
 15世紀の日本の総人口は800万人位と推定されているので、現在の人口比に換算すると30,000人、6,750隻の貿易組織を動かしてい
たことになる。如何に強大な組織だったかが判る。密貿易量の多さから、後期倭寇は「嘉靖の大倭寇」と呼ばれていた。
 王直の本名は金呈。また「五峯」とも称した。幾多の後期倭寇の頭目の中でも「倭寇王」と目されていた。
 後期倭寇の構成は「倭人3割、7割が明国人の偽倭寇、倭人に従う者の7割が明国人だった。(「嘉靖東南平倭通録」嘉靖32年10月の条)
明代第12代皇帝世宗の在位中の元号(1522年 - 1566年)
 「汪(王)直、諸々の倭と勾(むす)び大挙入寇す。艦を連ねること数百、海を蔽(おお)いて至る。浙東・西、江南・北、浜海数千里、同
時に警を告ぐ。昌国衛が破らる」(「明史」巻三二二 日本伝)
 数百隻を連ねる倭寇は、僅か2〜3隻の勘合貿易とは規模が隔絶していた。その勘合貿易も、嘉靖2年(1523年)、大内・細川両氏の
勘合船が寧波で朝貢権を争い、明国官吏を巻き込む騒乱に発展した。この事件を切っ掛けに、明は日本朝貢船の入港を禁止した。
 これで日・明の正規の貿易ルートは途絶えた。商人達が貿易を行う手段は密貿易とならざるを得なかった。
 明の有力者、豪商、奸商、官吏などが倭寇と手を結んだ。海禁政策が完全に裏目となった。

 明は倭寇討伐を繰り返し実施したが、武装した倭寇の力に為す術がなく、中期倭寇〜後期倭寇によって受けた被害は甚大だった。
 倭寇の跳梁によって明の国力は衰え、明朝滅亡の一因とも目されるに至った。

 日・明勘合(公式)貿易の主たる物品
  日本からの輸出品:
   硫黄、銅、太刀、槍、扇子、屏風、蒔絵(まきえ)、硯(すずり)、瑪瑙(めのう)、琥珀(こはく)、幕府の献上品
   明の朝廷が欲しがった物は上流階級の嗜好品、火薬の原料となる硫黄と太刀・槍などの軍事物資だった。
   明軍は和寇が振るう日本刀の優秀さを身に染みて知っていた。和寇の禁圧は明に取って切実な問題だった。
   和寇を迎撃する浜海・守備兵卒の武装強化策として日本刀を持たせる為に大量の日本刀を購入した。
   これに関して卑俗な諸説があるが、和寇が携帯する日本刀の数量は微々たるものである。調達に苦労することもない。
   それに、製鉄大国の明の状況をも勘案すれば、明が日本刀を買い入れたのは、明軍の武装強化目的以外はあり得ない。
  明からの輸入品:
   銅銭、鉄、銀器、磁器、生糸、織物、毛氈(もうせん)、薬剤、古書画、書籍
   日本で人気が高かった品は生糸や絹織物で、諸大名達は豪華な絹の衣装をまとうことがステータス・シンボルだった。
   「唐船の利は生糸に過ぐるべからず。西国の備前・備中に於て銅一駄の代は十貫文なり。唐土(もろこし)の明州・雲州に於て糸
   にこれを替うれば四十・五十貫文になるものなり・・・・」(「大乗院寺社雑記」文明12年12月の条)
   「重船三艘、当年帰朝すべきなり。各和泉堺の地下人(じげにん=商人)一万貫の雑貨を積む。三倍四倍になるべきの間、三艘は
   数万貫の足なり。(利益が)三倍・四倍になるべき」と莫大な利益を得ていた。(「大乗院寺社雑記」明応4年4月の条)
   「一斤250文で入手した唐糸を持ち帰ると、日本で二十倍の五貫文で売れる」という楠葉西忍の証言もある。
   日本の勘合船の寄港地は寧波の一港に限定されていた。船数、品目や数量も制限された中でもこれだけの利益を出した。
   これを倭寇が見逃す筈がない。 

 倭寇の扱う主たる物品
   勘合貿易の品目は当然扱うとして、倭寇には何の制約も無い。国家の禁制品であれば莫大な利益をもたらす。
   その典型が軍事物資である。明朝は室町幕府に禁制品の硝石(火薬材料 = 日本では産出しない)を出さなかった。
   硝石(焰硝=75%)・硫黄(10%)・木炭(15%)を混合すると黒色火薬となる。明朝は日本に硫黄を求めた。
   日本に交易を求めるポルトガル商人は、大型ジャンク船に乗って種子島に来航した(漂着ではなく意図的来航だった)
   この時の案内人通訳が五峯と名乗った王直だった。種子島の島主・ナウタキンは大金を払い火縄銃(鉄砲)二丁を手に入れ
   た。鉄砲は戦闘の形態を一変させる画期的な武器だった。ナウタキンは懇請して火薬の製法を教わった。(「東洋遍歴記」2)
           ※ 火縄銃の種子島伝来説の根拠は、60年後の慶長11年(1606)に薩摩の禅僧・南浦文之が書いた「鉄炮記」である。
             明治25年、
歴史学の大家、坪井九馬三・東京帝大教授が確実な史料と評価し、鉄砲伝来の根本史料として定着した
             然し、近年の火縄銃の実物検証と、平戸の史書の検証により、種子島に火縄銃が伝えられる以前、既に五島や平戸に火縄銃
             が伝わっていたということがほぼ判明した。世の中の定説や常識が如何に頼りないものであるかの査証である。


   王直は明から禁制品の硝石を、日本から硫黄を入手できる立場にあった。ここに軍事物資のブローカーの道が新たに拓けた。
   従来の鉄の需要に加えて、鉄砲製作に必要な鉄の需要が広がった。木綿は火縄の材料となった。利権の大幅な拡大である。
   豊後の大友氏に使した明の役人・鄭舜功(ていしゅんこう)は著書「日本一鑑」で次のように述べている。
   「手銃(鉄砲)、初め仏朗機(ふらんき=ポルトガル)に出ずる。国の商人、始めて種子島の夷に教えて作る所なり。次は坊津(薩摩)・
   平戸・豊後・和泉(堺)等の処、通じてこれを作る」(「日本一鑑」器用)
   日本に火縄銃が伝わって、短時間の内に鉄砲製作が始まった。鉄砲や火薬は、それ自体が倭寇の有力商品となった。
   江戸時代、国内で産出しない硝石は焰硝又は塩硝と呼ばれた。泰平の世になって火器の需要が激減したが、幕末になって再び
   焰硝(えんしょう)の確保が大問題となった。唯一のオランダ貿易や密貿易でこれを確保したと思われる。
4
鉄 の 需 要

 鄭若曽(ていじゃくそう)著『籌海図編(ちゅうかいずへん)※1には、倭寇が好んだもの(倭好)として「鉄鍋」と「鉄錬」が挙げられ、謝杰(しゃけつ)の『虔台倭纂(けんだいわさつ)※2には「鉄鍋重大物一鍋価至一両銭、重古者千文価至四両、小鍋曁開元永楽銭二銭、及新銭不尚也」
と記し、倭寇が高価な大鍋は勿論のこと、小鍋に至るまで永楽銭2銭を出して手に入れようとした事が記されている。
 これについて、太田弘毅氏は、16世紀に西日本、特に倭寇とのつながりが強い九州や瀬戸内海沿岸に新興の日本刀産地が発生して
いる事を指摘し、戦国時代に増大する日本刀や鉄砲の需要(加工貿易の密輸出用を含む)を賄う為に、和寇による鉄鍋の中古鉄、シャム・福建の鉄を輸入したと論じている※3。日本では希有の洞察と言える。
 明の役人で、弘治2年(1556年)に倭寇の対策と日本の実情調査のために来日し、二年間に亘った調査結果を『日本一鑑』※4に著し
た鄭舜功によれば、「出豊後越中備中陸奥者佳、可為刀、不可作銃、蓋也」※5、「其鉄既脆不可作、多市暹羅鉄作也而福建
鉄向私市彼、以作此」※6と、鉄は「豊後」・「越中」・「備中」・「陸奥」に産出して、刀を造るには佳(よ)いが、この日本の
」は蓋(けだ)し脆(もろ)くて鉄砲に使えない。シャム(タイ)や福建からの密輸品の鉄で鉄砲が作られていたことを述べている。

 極めて重要なことは、日本の代表的な鉄の産地を四ヶ所挙げ、その鉄が「銑鉄(ズク)」らしきことが明記されている点にある。
 」とは「硬くてもろい鉄」を指す。即ち「銑鉄=ズク」を表していることである。
 又、天文以降、国産鉄生産の中心の一つになった「出雲」は、この時点で鉄の産地として未だ登場(或は認識)していない。
 これらの情報は、中世・国内鉄素材の実態を知る上で極めて重要である。

      ※1 鄭若曽著『籌海図編』上巻「倭利」(倭寇対策の海防書、捕らえた倭寇や被害者などの聞き取り調査による中世日本研究の根本資料)
      
※2 1579年に琉球への冊封(さくほう)副使に任命された謝杰の著書。鍋は溶かしてズク鉄材料として販売するのが目的
      ※3 太田弘毅著「倭寇が運んだ輸入鉄―「鉄鍋」から日本刀製作へ―」収録:明代史研究会明代史論叢編集委員会編『山根幸夫教授退休記
         念明代史論叢』上巻(汲古書院、1990年)。同著者「倭寇〜商業・軍事史的研究」春風社。 

      ※4 三部16巻からなる膨大な資料。歴史・地理・風俗・言語などを含む中世日本の実態を綿密に調査し、中世日本研究には不可欠の書。
        鄭舜功は嘉靖34年(1555年)〜同36年(1557)の滞在2年の内、豊後の大友宗麟の下に6ヶ月間滞在した。国産鉄の産地や鉄の種類も豊後藩
        の認識などが反映されていたと見るべきであろう。
 ※5 「窮河話海」「珍宝」の条「鉄」の項、※6 「器用」の条「手銃」の項

 中世後期から江戸時代にかけて、刀剣は輸出商品として長崎から輸出された。
 輸出先は中国やヨーロッパである。今日でもヨーロッパ各地の博物館で、当時の貴族達が収集した日本刀を見ることができる。
 この例を持って、日本の中世では、国産鉄が豊富に生産されていたとの説を見かけるが、大いなる勘違いと言わざるを得ない。
 若し、国産鉄が潤沢に供給されていたのであれば、危険を冒してまで、密貿易に走ったり、挙げ句の果てに、外国の鉄製品を略奪
する倭寇が跳梁するような場面が現出する筈がない。リスクを負って鉄器を確保しても、国内では売れないからである。
 即ち、日本の鉄需要を賄えるような国産鉄の生産量は無かったということである。
 鉄原料を安く入手し、その加工品(日本刀など)を高く売る加工貿易は、外貨獲得の上からも実に妙味のある商売だった。
 倭寇が略奪する鉄の原価はゼロである。船や労賃の経費を掛けても充分に旨味がある「商売 ?」だった。
 逆説的には、外国の鉄が入手できれば、日本国内で幾らでも高く売れるという需要があったからに他ならない。
 慶長に入ってからも、明の史書「明神宗実録」1612年の条に、日本では(熟鉄が)もとの値の二十倍になると記されている。
 舶載鉄は、いくら高くても、喉から手が出る程欲しかった物資だったということを物語っていた。
(同書・四九六、萬暦四十(1612・慶長17)年)

 尚、中世の輸入品目の「鉄」が、教科書などにないことを理由に、国産鉄が潤沢に生産されていたと主張する人がいる。
 代価を支払う密貿易や略奪(これらの比重は大きい)は、当然、教科書などの輸入品目に載るはずがない。

 もう一つ重要なのは、船のバラストとして持ち込まれた鉄である。中世の外洋帆船は常に沈没の危険と隣合わせである。
 船の重心を下げる為に、外洋船では船底に石、海水などの重量物を必ず積載するのが掟だった。
 石や海水を積んでも、それらは一銭の金にもならない。
 交易輸送の多大なリスクに引き合う為には、利に聡い商人が無駄な積載物を積む筈がない。
 その点、鉄はすぐに換金できる最高のバラストだった。日本からは、刀剣や玉などの重量物をバラスト替わりに持ち帰った。
 時代や船の大きさ※1にもよるが、一航海で積載される鉄の量は数百トンを下らない。まさに一石二鳥の商売である。
 元禄・永代タタラの一代(ひとよ)のケラ塊生産量は2.5〜3トン(天文時代ではその数分の一)である。
 たたら製錬のケラ塊は夾雑物を多く含む為、実際に使える鉄塊量は1/3に減少して約1トンに過ぎない。
 バラストとして持ち込んだ鉄は、そのまま使える完成された鉄素材である。
 一隻の貿易船が持ち込む鉄量は、永代タタラの生産量で数百基分に該当する。国産鉄の生産量と輸入鉄の物量差は歴然としていた。
 ただ、バラストは正面きった「商品」ではない。従って輸入品目に出ることもない。
 徳川鎖国政策の中で、鍋島藩や薩摩藩などが密輸の鉄を入手し続けることができたのは、バラストという隠れ蓑を巧みに利用して
いたからである。

 往時の鉄材料に関して、佐々木稔氏らによって国内産の鉄砲などに用いられた鉄の化学分析が行われた。
 「日本の砂鉄には含まれていない銅やニッケル、コバルトなどの磁鉄鉱由来成分の含有が確認されており、近世以前の日本国内
で、磁鉄鉱の鉱床開発が確認できない以上、国外から輸入された銑鉄などが流通していたと考えざるを得ない」と指摘している※2

 一方、国内製鉄に目を転ずれば、明治に書かれた出雲・田辺家の回想記などに依り、商業鑪の出現を天文としているが、これには
確かな裏付け証拠がない。伝承とは不確かなものである。数百年も前の出来事を、誰が確かに記憶伝承したのであろうか。
 確かな記録として、仙台藩・佐藤家文書では、むつ市田辺・釣屋浜鉄山の砂鉄製錬を承応元年から三年(1652〜1654)の創業と記し
ている。幼少な家綱が第四代将軍に就いた頃である。
 日本が、国産鉄の本格生産に取り組み始めたのは、俗説で言われる程早い時期ではない。
 江戸鎖国令により、国産製鉄の必要性が生じてから動き始めたとみるのが妥当といえる。

 こうした状況から、中世の国内鉄事情が浮き彫りになった。
 国産鉄の生産量は少なく、入手の手段が様々(正規、密貿易、略奪など)であったにせよ、外国産の鉄に多くを頼っていたことは明
らかである。



  ※1
支那の中世・外洋ジャンク船の一例で、積載量600トンを超えていた
   明の宝船の最大は、船長137m・船幅56mで、現代の15万トンタンカーと比較すると、 
    船幅は同じで船長のみが1/3という
現代人の想像を遙かに超える巨大帆船だった。
  ※2 佐々木稔/編『火縄銃の伝来と技術』(吉川弘文館、2003年)

5
鉄 の 交 易 資 料 と そ の 問 題 点

 古代から、環シナ海の交易は活発だった。民間貿易は古代から連綿と続き、平安時代の対宋貿易は隆盛を極めた。
 然し、日本の歴史を紐解く時、倭国・日本の交易を詳しく記述した資料はほとんどない。遣隋使、遣唐使、室町の勘合貿易を表層
的に述べるに止まっている。
 日本の交易の実態は朝鮮、及び支那※1の史書に求める以外に道がないのが現状である。
 日本に文字が入ってきたのが五世紀中葉としても、その後の日本史の記録、なかんずく交易の記録は余りに少なすぎる。
 記録魔の国・支那とは対照的であり、為政者、民族性の相違であろうか。

     ※1 日本では、平安時代初期の高僧・空海が「性霊集」に「支那」と記述している。これは多分にインドの仏教用語に影響されていた。
       以来、日本では、大陸で興亡した国家、及びその地域を指して「支那」と呼称して来た。
      
1548年ニコラオ・ランチロットの「第二日本情報」での呼称は「チナ」、宣教師ルイス・フロイスの「日本史」での呼称は「シナ」

 本項のテーマである「鉄」に関しても、鉄の輸入について記述した日本側資料は皆無に等しい。
 明朝の甘言によって王直が帰国し、嘉靖38年(1559年)12月、王直は斬首された。王直とその一党が滅んだ後も倭寇の活動は続いた。
 明の隆慶元年(1567年)、倭寇の跳梁を促した海禁令の弊害もあって、明の初頭以来200年間続いた海禁令が解除された。
 只、この海禁解除は南海方面(シャム等)だけで、日本への渡航は禁止されていた。
 輸出品も「硝石・硫黄・銅・鉄など」は輸出禁制品のままだった。

 禁制品とは、国内産で希少な物か、国防上で相手国の武力を強化する物が対象となる。明は特に倭寇を生んだ日本を警戒した。
 硫黄は南部支那で僅かに産出するが、日本・琉球からの輸入に頼る希少品だった。硝石・鉄は豊富に産出されるが、相手の武力に
関係し、且、相手が欲しがる物である。相手国が必要としない物であれば禁制品にする必要など無いからである。
 「籌海図編」・「虔台倭纂」でも明らかなように、倭寇は鍋などの鉄製品を欲しがった。
 「籌海図編」・「日本図纂」・「日本風土記」の「倭好」22品目に「鉄鍋・鉄錬」はあるが、何故か「鉄」が載っていない。
 然し、「日本一鑑」では「鉄・硝石」が和寇の重要な需要品と述べられている。鄭若曽の偏見による品目の疎漏と見られている。
 これは鄭若曽の関心が珍品・高級品(公家・上級武家・禅僧向け)に重きが置かれ、その他の商品に関心がなかった為である。
 実際、輸入が大量に確認されている安価な支那製陶磁器、硝石なども「倭好」に載っていない。「鉄」もその範疇であった。
 又、鄭若曽は、茶壷を懸ける鉄錬(くさり)や大型の鉄鍋を茶の湯の道具(珍品)と推定し、「倭好」の研究者・田中健夫氏もこれを
肯定しているが、これは間違った解釈であろう。庶民の日用品の鍋に比べて、「茶の湯」用の鍋などはたかが知れている。
 鉄鍋は、古くから回船鋳物師(かいせんいもじ)が全国を廻って供給し、決して珍しい希少な商品ではなかった。
 謝杰は「鉄鍋であれば大小を問わず争って買った」と述べている。
 鉄鍋としての需要ではなく、潰して銑鉄素材として供給したと見るのが自然である。

 禁制品ほど利益は大きい。ここに密貿易が継続する背景があった。
 日本はシャム、福建から盛んに鉄を密輸入した(「日本一鑑」)。支那の福建・広東(かんとん)は鉄の一大産地である。
 シャム鉄とは、福建・広東の鉄を一旦シャムに持ち出し、迂回して日本に持ち込んだか、シャムへの輸出と偽り、福建を出港して
直接日本に持ち込んだものと思われる。これらはやがてポルトガル商人による「南蛮貿易」の南蛮鉄に包含される。

 十三世紀中葉から始まった倭寇は、朝鮮半島の高麗を、中〜後期倭寇は大国の明を揺るがす程の強大な密貿易を展開した。
 十六世紀中葉の貿易回数は538回※2に及ぶ。当時の帆船が日・明間を運航できるのは偏西風の関係で春・秋の僅かな期間しかない。
 密貿易は一回の運航で、数十隻〜数百隻の船団を組んだ。倭寇が扱う物量は膨大なものだった。  ※2 田中建夫著「倭寇と勘合貿易」
 倭寇は物品に止まらず、多数の被虜人(捕虜)と商人を連れてきた。各地に残る「唐人町」の地名はその名残である。

中世後期(15・16世紀)に於ける鉄砲と日本刀の産地

九       州
山 陽・瀬 戸 内
畿 内
北 陸 道
東 海
鉄 砲

平戸

豊後 坊ノ津



和泉





日本刀
筑後
肥後 豊前
薩摩 安芸
備後
阿波
和泉
若狭 加賀 越中 越後 駿河
           ※ 鉄砲の生産地は「日本一鑑」によ。平戸 = 肥前、棒津 = 薩摩の坊ノ津、和泉 = 堺
           ※ 日本刀の生産地は「中世後期(15・16世紀)国別物産表」記載の「刀剣」製作地(井上光貞他三氏編「日本歴史大系」2 中世)

 上表は実に興味深い示唆を与える。
 1.鉄砲製作地の平戸・豊後・棒津・和泉(堺)は、支那から日本へ帰航するルートの停泊地・荷下ろし地及びその近郊である。
 2.和寇の倭人出身国には、薩摩・肥後・長門の三州多し、次いで大隅・筑前・筑後・博多・日向・攝摩津・紀伊・種島(種子
    島)
、そして、豊前・豊後・和泉の人もあり(「籌海図編」)
 3.日本刀の生産地は、ほとんどが国内外の有力な貿易港所在地である。特に、九州・瀬戸内・北陸が異彩を放つ。
   天文(或は慶長)以降の日本刀生産地とはかなり異なっている。これは一体何を意味するのであろうか。
   鉄素材は重量物である。然も、鍛冶加工しなければ商品とならない。当時の物流の手段からすると、鉄素材の集積地(産地)
   と加工地(鍛冶場)間が陸上で離れていると、その運搬の労力と経費は無視できない負担となる。素材用に潰す鉄器も同様で
   ある。
 4.千種・出羽などの商業和鋼の産地が出現するのは早くても16世紀の中葉以降である。
   然も、これらの商業和鋼は有用なノロを含まず、且つ、鍛接剤を不知の為、日本刀には使えなかった。
   それまで各地に点在した日本のたたら製鉄は、小さな炉の零細自給製錬だった。とても製品の量産などができる状況にない。

 これらを総合的に判断すると、倭寇によって大量の鉄素材や鉄器が持ち込まれ、その荷下ろし地で日本刀や鉄砲が造られていたと
読み解くのが自然の帰結であろう。(太田弘毅著「倭寇〜商業・軍事史的研究」)   

 「博多、播摩(播磨)、伊勢、若佐(若狭)。其の地方、街港・風景、宛(あたか)も中華の如し。又和泉一州の如きは、富者八万戸、皆
居して貨殖を積む」(「籌海図編」倭国事略 、和泉とは堺あたりを指していると思われる)
 これら地域の繁栄ぶりは、まるで中華の町を見るようだと述べている。いずれも貿易港の所在地だった。
 王直が居住した、五島の福江、平戸、及び棒津(薩摩 = 坊ノ津)の繁栄も同様だった。棒津は、海外交易の一大拠点港だった。
 密貿易が諸所の地域を繁栄させ、多くの富者を生んだということは、貿易量が如何に多かったかを証明している。
 こうした海外との交易、就中(なかんずく)、倭寇がもたらした物品と人は、日本の社会や文化に多大な影響を与えた。

 それにも拘わらず、日本の史書、及び歴史の研究者は交易、特に鉄に関わる情報をほとんど疎外している。
 日本にとっての嗜好品や日用品の珍品・貴重品には触れているものの、「鉄」を取り上げることはなかった。
 鉄は舶載・国産を問わず珍しくなかったからか、或は最終商品ではない素材なので関心を惹かなかったからであろうか。
 鉄材料・鉄器輸入の実態から目を逸らした結果、鉄は国産で全て賄(まかな)われていたという誤った認識を定着させてしまった。
6

古代〜中世の地鉄の主流は舶載鉄

金 属 分 析 か ら の 検 証

発掘遺跡の分布と原料鉄



「鉄と銅の生産の歴史」 (佐々木稔)

 上図は、14世紀前半(鎌倉時代末〜南北朝時代) 〜16世紀(室町時代)に亘る発掘遺跡の分布図である。
 これは将に、古刀期の大半の時期と符号しており、古刀期の日本国内の鉄市場を実証する有力な資料ということができる。
 ここで注目すべきは、原料銑鉄の現物が三カ所から出土したことである。「中世の鉄素材は銑鉄」との推論を明確に証明することになった。それでは、これらの鉄素材の産地はどこになるのであろうか。


中世(鎌倉末〜室町末)鉄刀類の化学組成


鉄 器
出 土 地
時     代
化 学 成 分 (%)
地   鉄
T.Fe Cu P Ti
1
刀 残 欠 大分県三光村深水邸遺跡 14C前半・鎌倉末〜南北朝 54.83 0.556 0.082 0.016  含銅磁鉄鉱
2
短   刀 54.91 0.599 0.072 0.002    〃
3
呑口式刀子 54.62 0.232 0.062 0.040    〃
4
刀   子 青森県八戸市根城跡 15-16C・室町 77.56 0.098 0.081 0.009  同上(近似)
5
小   柄 福井市一乗谷朝倉遺跡 16C代・ 室町 91.97 0.001 0.012 0.018  和鋼同類
6
槍   身 青森市尻八館跡 14-15C・南北朝〜室町 メタル 0.044 0.126 0.003  岩鉄・南蛮鉄 ?
7
鎧 小 札 北海道上ノ国町勝山館跡 15-16C・室町 63.38 0.010 0.141 0.003     〃
  銅の含有率 0.1% 前後が産地識別の指標。0.1% 前後の含銅磁鉄鉱は我が国では確認されていない。中国・山東半島産出の原料としか考えられない

 鎌倉末期〜室町末期の全国4ヶ所で発掘された鉄刀類7試料の内、3試料(43%)は全て大陸の含銅磁鉄鉱(炒鋼)で、2試料(28%)が
燐を含み(岩鉄鉱・南蛮鉄?)、1試料は含銅磁鉄鉱に近似、和鋼又は同類品と思われるものは1試料の14%に過ぎなかった。
 この状況は鉄器全体に共通していた筈なので、当時は大量の舶載鉄が流通し、国内鉄消費の主流だったことを表している。
 舶載の鉄種には銑、錬鉄、鋼があり、定型、不定型の形状があった。時代と供給ルートに依って種々の地鉄が流入していた。

 古くに在った鉱石製錬の播磨・近江、「延喜式」(967年施行)で鉄の調庸国だった伯耆・美作・備中・備後・筑前の鉄は、畿内の官営鍛冶工房で鉄器に加工され、主として公共用途(荘園農具 = 官の所有物)などに使われた。
 一般需要は各地に散在していた零細たたらの鉄と舶載鉄に依存していた。
 因みに、平安時代の箱型製鉄炉遺跡の数は、奈良時代の五分の一程度まで極度に減少している
穴澤義功論稿「考古学的に見た日本の製鉄遺跡の歴史」
 製錬遺跡の検証と共に、平安〜室町末期まで各地の砂鉄製錬が衰退していた状況が、これら鉄刀類の分析からも裏付けられた。

 これは原始零細たたら製鉄で造られる鉄が、鉄先進国の支那鉄に比べて生産性と簡便性で大きな差があった為と推測される。
 自然の市場原理であった。
 和鋼の本格的生産は、明の情報流入に刺激された天文の千種・出羽鋼からと見るのが妥当であろう。
 然し、この生産量も南蛮鉄の輸入が示すように、国内消費を賄えるものではなかった。前項の文献史学からも明瞭に読み取れる。
 日本刀にたたら製鉄のみを直結する風潮は、日本刀地鉄の判断を誤らせる。
7

国 内 ・ 鉄 市 場 の 総 括


国内鉄市場における地鉄の種別



     上図の下段は、日本国内の鉄材料の状況を模式的に示した。徳川の鎖国までは舶載鉄が大きな比重を占めていた

製 鉄 法 形 態 鉄 原 料 製 鋼 法 区 分 規 模 ・ 量
原始低温野鑪 (自然通風) 自家製錬 塊錬鉄素材 原始鍛打
古代刀 国産鉄少い、舶載鉄多い
初期低〜中温炉 (吹子) 自家・零細製錬 ヒ状〜銑状素材 卸し鉄 古代刀〜古刀 国産鉄少い、舶載鉄多い
中期高温炉 (踏み鞴) ヒ押し商業製錬 出羽・印可・千種鋼 商用既成鋼 新刀(慶長〜) 天文 ? 〜 ( 同上 )
高温炉 (天秤鞴、大) 大規模商業製錬 玉鋼 (造・粒・頃鋼) 分別既成鋼 新々刀 元禄・宝暦〜 国産多い
炒鋼、灌鋼、唐鉄、阿蘭陀(オランダ)鉄、露西亜鉄、支那鉄、南蛮鉄
など。鉄鋌 (古代)、ズク(中世)、熟鉄(慶長初期)、鉄原料用鉄器製品など
舶載鉄素材
及び鉄器
古代刀〜新刀 舶載鉄を恒常的に使用
鎖国後も密貿易が続く

 鍛冶の歴史は舶載鉄がもたらした。古代刀は殆ど舶載鉄で造られ、法隆寺大改修の鉄釘・鎹は創建時から江戸・元禄まで岩鉄鉱・
舶載鉄を大きな比重で使い続けた。
 平安時代全期の東北地方の鉄器の分析では、74%が岩鉄系で、6%が砂鉄系だった。この岩鉄系も和鋼とは限らない。
 全国的にも平安以降、砂鉄製錬遺跡が激減しているので考古学者は砂鉄製錬の衰退と見なしている。

 全国4ヶ所で発掘された鎌倉末期〜室町末期の鉄刀類の内、南北朝期(43%)の物は全て大陸の含銅磁鉄鉱、室町期(57%)の多くが燐
を含み(岩鉄・南蛮鉄 ?)、和鋼類推は14%に過ぎなかった※1
 これは鉄器全体に共通であろうから、当時の日本国内には舶載鉄が大量に出廻っていた証しである。
 大陸の溶融製錬と、一代(ひとよ)毎に炉が破壊される極めて非効率なタタラ製錬の生産性とは比較にならない。

 古代に比べて鉄器が飛躍的に普及したにも拘わらず、中世の製錬遺跡が激減した理由は舶載鉄の流入に求める外ない。
 舶載鉄器、鉄素材の国内流通ルートは、弥生時代後期〜古墳時代初期にかけてほぼ完成していた。
 鉄素材が身近に流通する環境で、誰が手間暇の掛かる自給タタラ製鉄に固執するだろうか。
 材木の伐採、燃料木炭の製造、鉄原料の採取、粘土による築爐、失敗のリスクを負う還元作業・・考えても気の遠くなる話である。
 今日的に言えば、専業の百姓でもない人が、スーパーで簡単に米が買えるのに、わざわざ田んぼの田植えから始めて秋の米の収穫
を待つようなものである。零細タタラ製錬は、生産性と簡便性で存在価値が薄く、その為に衰退した。

 古刀黄金期の地鉄は銑鉄(ずく)が主流であった。庶民の生活鉄器の鍋・釜や、製錬遺跡の分析も銑鉄製造を示している。
 全国を廻遊した回船鋳物師の活動は銑鉄市場の実情を物語る。

 應永の対明貿易で日本から刀剣を輸出し、見返りに支那鉄を輸入した。加工貿易は国産鉄の不足を物語る。
 刀剣を輸出したから、国産鉄が潤沢に生産されたとの説を見かけるが、加工貿易の本質が分かっていない表層的認識に過ぎない。
 又、天文の商業鋼の出現後にも、支那鉄に加えて高価な南蛮鉄を敢えて輸入し続けたということは、国内商用鑪(たたら)の生産量が未だ低かった何よりの証しであった。
 明の史料「明神宗実録」の1612年の条に「鉄は(日本で)もとの値の二十倍になる」との記述がある。
 この「鉄」は「熟鉄=軟鋼」を指す。
 慶長時代に、明から従来の「生=ズク」以外の「熟鉄=軟鋼」を輸入していた事実は、新刀の刀質変化に重要な意味を持つ※2
 その後、数次の鎖国令と国内銀生産が激減し、貿易決済用の銀が制限されて輸入は途絶えた※3
 舶載鉄の国内在庫は、新々刀の初期迄に底をついた。                             
 
 国産鉄の必要に迫られ、元禄に「永代たたら」が出現した。
 刀剣需要の低迷と重なって、和鋼を主にして表面的には何とか賄えるように見えた。
 ところが、江戸・紀尾井町遺跡の江戸・前〜中期〜明治初期の鋳鉄片と釘の7点が分析され、原料は磁鉄鉱石及び舶載銑鉄だった。
 又、島根県獅子谷遺跡一帯の大鍛冶場の中から、砂鉄とは違う磁鉄鉱石材料が検出された。17世紀後半〜明治初期とみなされた。
 砂鉄製錬の本場でも、密貿易の舶載銑鉄を使って密かに鋼の精錬が行われていた。
 和鋼製錬の最盛期でも、和鋼の不足を補う為に鉄の密貿易が必要だった。
 只、宝暦以降、国内の鉄消費で和鋼の占有率が高くなったのは確かであろう。恐らく有史以来初めての事だった。
 刀剣界は、この僅か数十年の現象だけを捉えて、日本刀は和鋼のみで造られると喧伝した。

 文献史学も進展した。仙台藩佐藤家文書は、むつ市田辺・釣屋浜鉄山の砂鉄製錬を承応元年から三年(1652〜1654)の創業と記した。
 この例から、山陽・山陰の製鉄先進地域の本格的砂鉄製錬の開始を17世紀前半(慶長〜)とする見方が有力に浮上して来た。
 明の技術流入が契機と指摘している。

 欧米列強の来航に備え、幕府は鍋島藩に大型大砲の鋳造を命じた。
 和銑で失敗した鍋島藩は「オランダからの密貿易のズクで鋳鉄大砲の製造に成功した」と記録に残した。
 この鉄は、船のバラスト(重心を下げる重り)として持ち込まれたもので、表面立った「商品」ではないのが「ミソ」だった。
 
 古文書の「銕=鉄」の解釈も見直された。古の「鉄」が意味するものは「生鉄=ズク」を材料として精錬した「熟鉄=軟鋼」を指していた。宋の沈括が「夢渓筆談」で記した「生」と「鍒=軟鋼」がそれである。
 江戸期の宝暦以降には「釰(けん、はがね)=刃金」の種別が新たに加わる。
 この古文書の「鉄」の曖昧な解釈も、古代から中世に至る国内製鉄の判断違いを生んだ。

 又、従来「砂鉄製錬遺跡」とされた遺跡の殆どは、金属学者の介入に依って舶載ズクを原料とした「精錬=製鋼遺跡」に次々と覆えされた。砂鉄を脱炭材に使った製鋼遺跡を考古学で砂鉄製錬と誤解した為である。
 これは遺跡の炉高(砂鉄還元に必要な距離)からも実証された。
 考古学的旧来の国内製鉄の実態は抜本的な見直しを余儀なくされた。
 従来、成分々析で和鋼と類推された日本刀の「刃金・軟鋼」には、舶載ズクを砂鉄で脱炭した地鉄が相当多いと推定される。

 又、改革・革新は、自然に生まれるものではない。国家や社会の強い要請があって、初めて技術・技能の改革が進むものである。
 鎖国に依る舶載鉄の払底が各地の近世砂鉄製錬の開始を促し、元禄・永代タタラの出現に繋がる要因となった。
 仮に、国産製鉄の始まりを6世紀後半とすれば、大凡1,300年もの間、原始直接製錬法から間接製錬法へと革新しなかったのは何故
なのか ? 良質な粘土を産出する我が国で、間接製錬に欠かせない耐火煉瓦の開発や、木炭に変わる石炭燃料を考えた形跡は皆無で
ある。一代(ひとよ)毎に爐を破壊するタタラ製錬のような原始的且つ非効率な方法で、国内の鉄を総て賄(まかな)える筈がない。
 大量生産向けの間接製錬(溶融製錬)に革新しなかったのは、鉄を国産化しなければならない社会的ニーズがなかったからである。
 そうでなければ、国産製鉄の技術革新※4が1,300年もの永きに亘り進まなかった理由の説明がつかない。 
 日本刀地鉄が和鋼を主とするようになったのは、幕末の僅かな期間に過ぎなかった。

              ※1「鉄と銅の生産の歴史」より  ※2日本刀の常識を問う」下覧参照  ※3 鉄の密貿易は幕末まで続いた
              ※4 江戸・元禄の「永代たたら」は、原始零細タタラを物理的に大きくしただけで、技術の革新ではない

参考・引用: 「日本刀地鉄の参考文献目録」参照


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