日本刀諸情報の検証 (1) 0

日 本 刀 諸 情 報 の 検 証 (1)

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日本刀文献・論稿に関する検証(1)

「軍刀本と刀剣専門家の資質」・「日本刀の科学的研究」・「満鉄刀の研究」・「南蛮鉄刀の分析」


日本刀に関する本・Web情報

これらの情報内容は『 日本刀は日本独自の砂鉄を原料にしてタタラ製鉄から出来る玉鋼で造ります。外国の鉄に比べて最も勝れた鋼
です。折れず、曲がらず、良く切れる為に軟らかい鉄を硬い鉄で包む二重構造になっています。
外国の刀剣には例がない日本が誇る最高の芸術品です』・・・・・・との趣旨が大半である。
更に、『古代刀は考古学の部類で、昭和刀・軍刀は粗悪刀で日本刀とは言わない』 と付け加わる。

これらの世の中に氾濫する日本刀の説明は、刀剣界の神話に付和雷同したいかがわしい宗教的次元の話である。
こうした情報の基は明治時代に台頭して、昭和に入ってほぼ完成した。
情報の発信源は刀剣界を牛耳っていた自称専門家の人達や愛刀家達であった。

軍刀本を例に、刀剣専門家と称する人達の資質を考察する。彼等の発信情報は、現在の日本刀信仰の総ての根源となった。
1

軍刀本と刀剣専門家の資質 

戦前・戦中に軍刀や軍刀の選び方などの本が数種出版されている。
その論調は概(おおむ)ね昭和刀を観念的に否定し、玉鋼の日本刀を至上としている。
「寒冷地では洋鉄刀がボキボキ折れ、古式日本刀に限る」等、事実と全くの逆説を臆面も無く主張している。
無責任な情報の流布・・・無知又は探求心の欠如からくる妄信の伝播。まさに刀剣界は無責任の連鎖である。
誤った情報が何の検証もされずに伝播し、斯界(しかい)で大手を振って罷り通る異様な世界に驚く他はない。
このように洋鋼を偏狭な先入観で全面否定するのが刀剣専門家達の風潮であった。
俗に、昭和刀と呼ばれる刀には、悪徳業者の粗雑な刀から、技術者達に依る古来日本刀を凌駕する刀まで巾広い品質があった。
日本刀にも、駄刀から利刀まで巾広い品質差がある。一括(ひとくく)りに評価するのは無知・暴論を証明しているに等しい。

「軍刀」という言葉がタイトルにあっても、内容は古作刀(古刀〜新々刀)の他人のありきたりの受け売りを羅列するだけである。
満州・上海事変から支那事変に突入して、市場流通在庫の古作刀が絶対的に不足していた。その為に各種特殊刀身が誕生した。
私蔵日本刀の供出運動が「軍刀報国」のスローガンのもと、偕行社・水交社・軍人会館の主催で昭和13年から始まった。
後に、将校軍刀監査委員会が引き継ぐが、供出の条件の誤解もあって成果は上がらなかった。

入手が困難な古作刀に就いて、刀匠銘や真贋、流派や刃文・地肌、検証もされていない伝世の評価等を並べてみたところで現実の軍
刀選択の何の役にも立たない。然も、品質に大きなバラツキのある古作刀の適否を、検証もせずに誰が見極められようか。
又、数次の実戦経験から、古来日本刀の弱点※1が浮かび上がっていたが、それらの情報には目もくれなかった。   
ただ単に、安直な日本刀神話の知識を得々と披露しているだけであった。
これらの類似本の共通点は、刀の本質※2が解らず、日本刀神話を妄信し、美術刀の視点でしか刀が見れない事である。
どこにも「軍刀 = 日本刀の本質」を納得させる主張は無い。
軍刀本は概ね空虚な玉鋼日本刀賛歌の布教書と思って間違いない。とりもなおさず、それは日本刀の解説書でもあった。
本来、地刃の鑑賞や鑑定に現(うつつ)を抜かしている人間が、埒外(らちがい)の刀の実質性能まで振り翳(かざ)すこと自体が無謀であった。

科学的な考察には全く無関心か、そうした資質が欠落した人達が「日本刀専門家」を自認していた。
彼等は刃文鑑賞屋、鑑定屋の範疇の人であって、少なくとも刀の本質など最初から念頭に無い人達だった。
軍はこうした人間を安易に嘱託で登用したのが間違いであった。この為に、軍刀行政の方針に大きな矛盾を生じた。

※1将校用軍刀の研究」参照  ※2刀剣の精神」参照

軍刀行政を誤らした元凶・将校軍刀鑑査委員会

軍用刀剣の要件は、均質な性能(当たり外れのない保証された品質)、保守性(;錆びや手入れからの解放)、量産性、価格である。
この発想の基に陸・海軍の工廠や民間でも優れた刀身が造られた。興亜一心刀、群水刀、振武刀、耐錆鋼刀、造兵刀などである。
こうした科学的な刀剣技術者達の発想と、刀剣界の権威者達で構成された軍刀鑑査委員との間には何の整合性も無かった。
それどころか、同じ軍組織でありながら、全く相反する方針が打ち出されている。

大戦末期、小倉・名古屋造兵廠が造兵刀を、南満造兵廠が満鉄刀を量産している時点で、兵器行政本部・将校軍刀鑑査委員会は
「特殊綱刀、造兵刀、満鉄興亜一心刀は代用軍刀として採用しているが、何れ本鍛錬刀に総て切り替える」と布告した。
狂気の沙汰である。

彼等は一体何をしたのか。
本阿弥軍刀製作所・専務取締役の宮形光盧著「軍刀屋敗戦記」が軍刀鑑査委員会の実態と彼等の資質を端的に物語る。
 前二回納品した百三十振りのうち実に八十余振りが研磨不良・不合格として研ぎ直しを命じられた。先方の不良点を直して納品
した。その後何回納品しても依然として不合格返品が六七割であり三ヶ月位の間は殆どこれを繰り返す状態だった。
私は所謂長いものには捲かれろ式に御無理御尤も言いなりに柔軟に対応していたが遂に腹に据えかねて造兵廠に出向き、係の某技手
に面会して強硬談判を行った。
「従来合格していたものがかくも不合格が多い理由を承はり度い」と迫った。
技手は「松葉先が揃っていない、肌の出方が足りない、横手筋が曲がっている、刃むらがある」等を力説した。
然し、私も負けてはいなかった。「研料十二円で打ち下ろしから研ぎ、然も大量に研げと云う、そのような微細の点に文句をつけて
不合格として返品し、研ぎ直しは我々として苦とするところではないが、反面、軍刀量産は刻下の急務ではないか。松葉先が不揃い
だの横手が曲がっているなど云ってるよりも光って日本刀に見えて然も能く斬れるように研いであればそれでよいではないか。
(軍刀調達ができず)丸腰で戦場に行く軍人だってある。松葉先が揃っていないのが何の戦力に影響があるのか。
一本でも早く造らねばならぬ現状ではないか」。約二時間白熱的論戦を続けて別れた。
その後、技手(ぎて)と私的に数回飲む頃、技手が本音を漏らした。
「僕の方は差し支えないと思うのだが、兵器行政本部に軍刀鑑査委員会と云う組織があって、それが君の方から納品された研磨上
り刀を鑑査する。ウルサイ老人連の集まりで、何しろ彼等は研磨料のことも量産と云うことも考えないのだから始末が悪い。
君の方も苦しいだろうが、当分の間、気を付けて研いで納品してくれ給え」と云う事だった 

これは軍刀不足が深刻な昭和19年の話である(軍刀需給の実情参照)。鑑査委員の輩は軍刀の多量供給と非能率な狭義・日本刀への切り
替えの矛盾も判らず、軍刀として具備すべき刀身の条件も知らず、寒冷地に弱い日本刀の対策等も眼中になかった。
軍刀の大量供給どころか、量産供給の妨害をしていた。
地刃の美を刀の目的と錯覚し、刀の本質(目的)すらも解っていない資質の連中が刀剣界の主流を占め、斯界の権威者と言われ軍刀行
政の中枢にいたのである。
こうした輩の自己満足の為に軍刀行政を大きく誤ってしまった。当時の世相の状況を勘案しても茶番劇であった。
憂慮すべきは、こうした美術刀の亡者達を営々と広め、実用刀の見方も忘れ、刀の本質を完全に見失ったことである。
彼等の資質を見抜けなかった軍や、彼等を専門家と見過ごした世間にも責任無しとは言えない。
それは今日に於いてもや・・・である。

彼等を「玉鋼鍛錬教」という「一神教」の信者と思えば理解し易い。
日本刀認識の矛盾や破綻に平然として居れる理由も何となく頷ける。
科学で生まれた優秀な日本刀を認める事は、彼等が信奉して来た日本刀神話の崩壊に繋がる。彼等はそれを何よりも恐れた。
新刀以降にも多く存在する渡来鉄の日本刀に、彼等は口を噤(つぐ)んで決して触れようとしない。「日本刀は玉鋼で・・・・」との神
話が崩れるからである。
その一方で、闇雲に洋鉄を酷き下ろす刀剣界の「狂気」も、宗教的排他性から考えると当然だったのであろう。
それとも、そこ迄の信念すら持ち合わせず、刀身の化粧にしか関心がない単に美術刀呆けをした恍惚の人達だったのかも知れない。
何れにしろ、虚妄のベールを纏(まと)った信仰の世界といえる。それが罷り通る現代社会もまた不可解である。

尤も、明治以降、刀剣専門家達の歴史を重ねた折伏(しゃくぶく)の効果は絶大だった。
嘘も100回つけば真実になる」という例えを実証した。
刀剣に疎い世間や愛刀家達はいとも簡単にその話しに騙された。本やWebで氾濫する日本刀の解説内容はその偉大な成果と言える。
2

「日本刀の科学的研究」俵國一著


 
 東京帝国大学工科大学(学部という呼称は後世)教授の俵博士は日本冶金学の泰斗として有名で
 ある。
 初めて日本刀の解析に科学のメスを入れられた。
 博士の研究は明治39年〜大正13年の約20年の長期に亘る。
 日本刀の科学的研究としては唯一とも言える名著である。

 鋼材成分、肉取り、打撃中心、切味などの実質内容から地刃の発生原因など、学会誌や講演
 で発表された論稿と、博士に協力した工科大学(工学部)研究室の論文を、博士を敬う人々が
 後に纏めたものが本書である。
只、博士の日本刀認識及び研究された時代を斟酌(しんしゃく)しないと内容を的確に把握出来ない虞(おそれ)があるので所感を述べたい。
注意点は、刀剣界の偏狭した日本刀観に基づいており、国内外の考古学情報の不足や、分析技術などの時代背景が今日とは全く違う
点である。

造刀法
基本は、京都帝国大学採鉱冶金科の高橋信秀刀匠の実技と口述、俵博士が直接聴取した笠間繁継刀匠の口述である。
即ち、新々刀の製作法と刀剣界の日本刀神話が博士の日本刀の認識である。鍛錬法ではいきなり四方詰めが図示される。
後世の冶金学者が古刀構造を四方詰めと図示して憚らないのはここに原因がある。
これは俵博士の日本刀認識の前提を理解していない為である。

地金
刀匠の口述、刀剣界・愛刀家の進言、出雲の永代タタラの考察等に基づく。
従って日本刀は古来より砂鉄製錬の和鋼(玉鋼)で造られるという認識に博士は立たれていた。これが地鉄の分析評価の戸惑いを
博士に招いた。その一つの例に以下のようなものがある。

試料27号刀・末古刀の祐定(天正元年=1573)は丸鍛え物で、鋼材成分は多量の銅を含んでいた。
古来からの和鋼、南蛮鉄には銅成分は認められない。
我が国でも近代になって釜石(岩手)と赤谷(新潟)の二ヶ所で含銅鉄鉱石が発見されたが、採掘の形跡は皆無であった。
然も、産地指標の銅(Cu)の含有率 0.1% 前後を含むものは他で確認されていない。

その為に、博士は古代刀試料10本の内9本が銅を含み、古代刀以外の日本刀にも銅を含むものが相当ある事を確認され「理解に苦し
む」とされた。
困惑された博士は水心子正秀の「銅鉄鍛え」に着目され、銅合金を卸せば可能であろうと推論された。
和鋼しか念頭になかった為である。

火窪(ほど)の高温が得られない古(いにしえ)では、鉄と銅の溶融合金は不可能である。博士も別項でこの点には疑問を呈されている。
銅鉄鍛えに関しては、以下の三点のどれか一つに基因すると述べられ、「後日の研究に俟(ま)つ」とされた。

1.本邦に於いて砂鉄以外の鉄鉱より製造せしか (注: 鉄鉱石製練は早くに存在したが、上述したように含銅鉄鉱石の製練は無い)
2.銅鉄鍛えを施行せしものか (注: 博士は正秀の説にかなり拘られていたが、幕府筋の命により石堂是一が作刀実験を行い失敗だ
  った)
3.朝鮮支那よりの輸入品なるか (注: 大陸・朝鮮の含銅製鉄原料を意識されたが、我が国に流入していた史実はご存知なかった)

戦後、新日本製鉄が最新のCMA解析装置で地金を分析し、大陸の含銅磁鉄鉱(炒鋼)であることが解明された。即ち3が正解だった。
古代刀は勿論、末古刀の「祐定」も舶載の支那鉄(炒鋼又は灌鋼※1)だったという事になる。

又、二枚鍛えの心鉄と皮鉄の成分の違いを不審とした。概して心鉄に銅分を多く含有している。和鋼では考え難い。
舶載銑鉄を想定すればあり得る話である。最も簡単な推定は心鉄に舶載鉄を使った。
それ以外に、ズクを精錬して錬鉄と刃金を造る。
この時の精錬工程の違い、その後の心鉄と刃金の鍛錬回数の相違などに銅成分の差を生じる原因があったのではなかろうか。

明治末〜大正時代、我が国及び大陸・半島の古代製錬、舶載鉄関連の研究は未開であった。
当時に現在のような豊富な情報が有れば、俵博士の日本刀地金の考察はもっと明快になっていたであろう。
これは解析手法に就いても言えるように思える。

試料数
最終試料数は古代刀10本、日本刀が 29本である。古作の日本刀は貴重な為に提供数が限られ、博士は試料の確保に苦労された。
少ない試料故に一刀の分析データにも重い意味を感じる。筆者には末古刀の祐定は古刀を推論する有力な裏付けとなった。

成分々析
博士は定性分析を主にされた。工科大学研究室はスペクトル分析を行った。化学分析では現れない成分がスペクトル分析で抽出され
た。稀金属がかなり検出されている。以下の5刀の分析では、総て銅とマンガンが検出された。これは原料識別の指標である。

   7号刀・了戒、8号刀・村正短刀、10号刀・二王清貞、27号刀・祐定、29号刀・波平短刀

工科大学研究室と博士は27号刀・祐定を除き、検出量が微量なので和鋼の範囲と判断した。
古直刀は燐を含まず、古刀 → 新刀と時代が下がるに従って確実に地鉄が汚れてくることが証明された。
7号刀・了戒は有害元素の燐が多く、10号刀・二王清貞は銅と燐が多かった(国・内外の鉄鉱石製錬であろう)。
良工・名匠と言われる刀に燐と硫黄を多く含むものがあると分析所見は指摘した。和鋼にも意外と燐が多いものがある※2
 
不純物の燐・硫黄の少なさが和鋼の特徴とされた筈だが、現実は必ずしもそうではない。
又、当時と現在の解析手法には格段の差がある。
大陸・半島の製鉄原料の成分等も総合して現在の最新解析装置で分析したら、どのような結果が出ただろうかとの思いがあった。

古文書の考察
江戸期の古文書は約200種ある。大半は鑑定に類したもので、日本刀製作に係わるものは数種しかない。
造刀の秘伝が伝書で残ることは皆無で、口伝が原則だろう。
従って博士は、古文書類は豊臣・徳川家の政略の影響などもあって容易く信じられるものではないとの認識を示されている。
その上で、水心子正秀の「劍工秘傳志」を有力視し、対局に忠棟の「刀劍固癖録」を置いてその内容を精査された。
かなりの比重で述べられている。両者の主張は如何に古刀に迫れるかであった。

正秀は卸し鉄、忠棟は鍛錬回数を主張する。
当時は忠棟派が断然多かった。彼等は60遍〜70遍鍛えるから古刀の肌になる。手を抜いて15遍しか鍛えないから刀は駄目になったと
主張した。
博士は、「多くの人がそういうのだから何か理由があるかも知れない。今の世の人が知らない80〜100回鍛えても崩れず、精良になる
原料や鍛法が在ったのかも知れない」と述べられている。
普通は「何を馬鹿な」で終わってしまう処だが、疑いながらも真実を見つけようとされる博士の真摯な姿勢に妙に感心させられたも
のである。

所 見
科学的研究では唯一とも言える資料だが、刀の根本に係わる「折れ難く、曲がり難い」刀身強度の考察も望みたかった。
これは、博士に日本刀知識を進講した関係者が刀の根本認識を欠いていた事に起因する。
この為、折角の研究に「画竜点睛を欠く」傾(きら)いがあったのが惜しまれる。
勿論、博士の責任でもなければ本研究を些かも貶すものではない。総て刀剣関係者の責に帰すべきものであった。
刀剣界が村田経芳少将のように刀剣の本質的見識を持っていれば、博士は科学者として必ずそれに応えられていたに違いない。

冒頭で述べたように、博士の日本刀認識と、考察を支援する諸情報の乏しさや、時代の分析技術を勘案して読むと今尚光彩を放って
いる。
※1異説・たたら製鉄と日本刀」参照 ※2 和鋼とは限らない: 南蛮鉄・洋鉄考」、「中世地鉄は銑鉄参照
3

「満鉄刀に関する研究」茶園義男・安宅健 共著


阿南工業高等専門学校研究紀要第19巻、日本金属学会誌第43巻,第6号に収録されている5ページの小論文である。
これは満鉄刀の茎側破断片を基に、阿南高専で刀身断面の硬度を検査して発表したものである。
タイトルを見て大変な期待を以て本書を読んだ。

主題に入る前、2ページに渡り下記の記述がある。
実に全体の2/5を占める。書き出しから順を追っての要約は次の通り。
 満鉄刀による日本刀が製造された。世に言う"スプリング刀"である。車両に用いられるスプリングの材料又は生産技術から生ま
れた俗称であろうが、果たしてその材質はどうか。筆者らは、1941年に満鉄がつくった日本刀の破断片を入手、これを調べたので資
料として報告する 

「旧陸軍にあっては、下二等兵から上大将に至るまで、すべて刀を帯びた。これで戦争に参加し、占領地をのし歩いた。
本人は恰好が良く、武威を示せるので大いに気に入っていた。言わずと知れた首刎(くびは)ねか、刺殺の凶器である。
日本軍人は極めて異様で、恐怖心以上のショックを住民に与えたことは想像以上である」。
次いで、惣万巌雄元陸軍伍長殿(黒部市在、戦後、米軍の手先として戦犯特捜担当)の手記、大石操著「戦争製造工場・軍属物語」を
引用して「日本軍人は外出には必要もないのにその殆どが軍刀を着用している。これが住民の心に恐怖心を抱かせた。
英国軍はMPでも特別任務以外は拳銃を持たない。軍人が軍刀を吊りたがるから軍属も軍刀を下げていたいのだ・・・」
更に、復員局終戦時の資料「軍刀、銃剣の不足で自動車のスプリングで鍛造させたが、1/3程は丸腰の兵が生じた・・・」との引用が
続いた。
これらを読んで「反戦」雑誌と取り違えたのかと思い、慌ててタイトルを見直した。タイトルは間違っていなかった。

二等兵に至るまで軍刀をもっていたとは初めて知った。筆者が調べた陸軍服制の官報は嘘だったような気にさせられた。
硬度データを見るどころの騒ぎではない。
気も漫(そぞ)ろに、急いで終わりの結論を見た。全体の1/5のスペースには以下の通りの纏めがあった。

「スプリング鋼には一般にばね鋼が用いられる。満鉄刀に用いられたばね鋼はSUP3であろうと見なされる。満鉄刀はばね鋼に軟鋼を
巻き込み、刃先部のみに焼入した方法で製作された。
スプリング刀と言われる由来が明瞭になったことも興味深いことの一つだった
更に、急遽スプリング刀を造らされたと称する件(くだん)の惣万陸軍伍長殿のスプリング刀製造工程の箇条書きで締め括られていた。
完全な間違い
所 感
1.前段2ページは材質研究に全く無関係な内容。軍刀を佩用する軍人、軍属に対する著者の侮蔑が繰り返し述べられている。
2.硬度で材質を判定するという新(珍)学説を初めて知った。化学分析は時代遅れなのだろう。只、この珍学説だと、焼きの硬度の
  バラツキで、その都度満鉄刀の材質が変わる事になる。その時はSUPの何番を当て嵌めるのだろうかと下衆(げす)な勘ぐりをし
  た。
3.タイトルと中身の落差に驚いた。冒頭からスプリング刀との御説には我が目を疑った。
  ともあれ、鉄道レール説以外に、スプリングで造られたとの珍説と、金属学会誌と雖(いえど)も程度が様々であるのを知ったのは
  実に興味深いことの一つだった。流石(さすが)に国立高専は独創的である。
4

「南蛮鉄刀の分析」某理工科大学研究室の報告


数年前、静岡県の某理工科大学の研究室が南蛮鉄銘の刀を分析し、結果をWebサイトに発表した。見られた方も多いと思う。
分析の結果、南蛮鉄が使われた形跡が無いとして、得意満面の説明だった。
静岡放送のTVでも取り上げられると言うようなことだった。
筆者は、俵博士の南蛮鉄の論稿が頭にあったので、一体どういう根拠で結論を出したのか確認したかったが、そのまま見過ごしてい
た。

今回思い立ってWebを検索したら既にその小論文はなく、それを発表したS教授研究室のPRページに姿を変えていた。
その中に「日本刀の科学的研究」という項目があった。タイトルのみで内容は確認出来ない。
連絡を取りたくても連絡手段が何処にも無い。情報発信するだけの一方的なページである。
責任あるWebなら通信手段を講じるのが最低の礼儀だと思うのだが・・・。

幾分の記憶違いがあるかも知れないが、「刀匠が南蛮鉄銘を切ったのは南蛮鉄が高価だから刀を高く売る為だった。実際は南蛮鉄は
用いず、刀は玉鋼で造られた」というような要旨だったように思う。
その時、「これは玉鋼を至上としている人が喜ぶだろうな」との思いが過(よ)ぎった。

案の定だった。「南蛮鉄銘の刀は、実際はみんな玉鋼で造られている。南蛮鉄は高くて品質が悪いから刀には使えない」との話をあ
る人達から聞く事になった。都合が良いように我田引水の尾ひれが付いて、話しが膨れ上がるのがこの種の情報の常であった。

所 見
南蛮鉄は五種がある。瓢箪形、木の葉形(未確認)、小判形、短冊形大、短冊形細。最も馴染み深いのは瓢箪形である
これは銑鉄を鋳型に流して一部を鍛造したものである。和鋼と比べて燐の含有量は一桁高い。
詳しくは「南蛮鉄・洋鉄考」参照
俵博士は一刀の茎を分析したが南蛮鉄の顕著な結果は出なかった。
南蛮鉄は高価なので茎などには用いられないのではないかとの見解を示された。次いで他の一刀の切先近い部分を検査された。
試料片が少な過ぎ、顕著な所見は得られ無かった。
博士は和鋼と他の鉄類の混合で実験された。
この結果から、燐を多量に含む瓢箪形南蛮鉄でも、刀剣鍛造の工程で燐は燃焼して激減するとの結論を得られた。
短冊形は練鉄。固体により燐の多いものと和鋼と変わらぬものがある。硫黄分は和鋼より優れている。
和鋼にも燐を多く含むものがある。これらの事から何が導き出せるだろうか。

1.南蛮鉄が含有する燐は鍛造工程で激減する。
2.高価な南蛮鉄は刀身の部分に使われた可能性がある。
3.短冊形南蛮鉄には和鋼と成分が変わらぬものもある。
4.和鋼が世界で最も清浄な鋼とは言えない。

従って、試料の刀にも検討を要するが、燐分は南蛮鉄の識別指標とは必ずしもならない。偽銘が常識の世界だから、中には刀を高く
売る為に偽銘を切ったものもあったかも知れない。
然し、一刀の例を以て総てと結論づけるのは軽率ではなかろうか。
況や鬼の首を取ったようにそれを利用する人達は自戒すべきだと思う。不信感を増幅するだけである。

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5

日 本 刀 参 考 文 献 の 注 意

A 高専も本例も、社会的信用度を背景にする人達は、社会に及ぼす影響を考えて情報発信には慎重を期すべきであろう。
本例とは関係無いが、特定の個人・団体の意を受けて、有利に結論を導く「御用学者」と呼ばれる人達が世の中にかなり存在する。
肩書きや権威を信用するのは大変危険である。
日本刀に限れば、寧ろ権威者と称される人達が虚構を流し続けた元凶である。

これだけ虚妄が罷り通る美術工芸の分野を他に知らない。
他の工芸研究家達が、日本刀の分野を「外道」と蔑(さげす)むのも宜(む)べなるかなである。
正常な感覚を取り戻さないと、この不名誉は回復されない。 


    日本刀諸情報の検証 (2) 「たたら製鉄と日本刀の科学」・「伝統的作刀技法」・「日本刀 Wikipedia」

    日本刀諸情報の検証 (3) 「日本刀の周辺」・「正宗の名刀は再現できる」


2013年8月28日より
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