製鉄と日本刀 (1) 概説と目次 0

異 説・た た ら 製 鉄 と 日 本 刀

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ページ内検索  目次 | 大陸とヨーロッパの製鉄推移 | 中国大陸の製鉄 | 朝鮮半島の製鉄 | 欧州の製鉄の革新

本稿は、中世までの刀身地鉄とそれに密接するたたら製鉄に就いて少しく考察を試みて、各々の定説の真偽を確かめようとするもの
である。

製 鉄 に 就 い て

 鉄は自然界に存在しない。酸化鉄として鉄鉱石やその粉鉱(砂鉄)の状態で存在する。

製 錬 (製 鉄)
 酸化鉄(鉄鉱石・粉鉱)を薪・木炭・コークスなどで燃焼して酸化鉄の酸素を奪って(還元)鉄を造る。これを「錬」という。
 400〜1,000℃の低温還元だと海綿状低炭素の塊鉄(海綿鉄)、1,150℃前後まで上昇すると銑鉄と半溶融した粘い錬鉄が生じ、更に
温度が上昇すると流動性銑鉄(ずく)が生成される。又、低温還元では固溶元素が少く、高温還元すると固溶元素が増加する。

精 錬 (製 鋼)
 製錬された塊鉄や銑鉄の鉄滓・鉱滓の不純物及び不用元素を除去し、脱炭・吸炭して鋼や鉄を造る。これを「錬」という。
 大陸と西洋では反射炉や転炉による化学精錬法が開発されたが、和鋼精錬は終始、人力に依る物理的折り返し鍛錬だった。
 人力鍛錬では、物理結合した元素の除去は出来るが、化学結合した元素の除去は出来ない。


鉄 の 種 類   (鉄は炭素との合金)


鉄( 錬鉄・鍛鉄 )

銑 (鋳鉄・銑鉄)
炭素含有量
0.02%以下(Wrought iron) 0.02〜2.1%(Steel)
2.1%以上(Pig iron)
硬  度 
軟らかい 中間の硬さ 硬い
融  点 
1,530℃ 1,400℃ 1,200℃
展延性・(性質)
大 (粘りがある) 中間 (適度な粘り) 小 (脆い)


た た ら 製 鉄 解 説 の 実 情
 
 (凡例: 和鋼製錬を「鑪」、「たたら」と略記する。但し、前後に平仮名がある場合は識別を容易にする為に「タタラ」を使うこともある)
 
 和鋼製錬(製鉄)は、出雲の粉鉱(砂鉄)と江戸中期末の永代鑪(たたら)の解説が総てと言っても過言ではない。
 その為、出雲の玉鋼で日本刀は造られるとのイメージを創りあげてしまった。
 古くには、筑前、山陽、近江、東北に鉄鉱石製鉄の拠点が存在した。

 欧州では、原始製鉄原料としてケルト族(原住民)のつる草の鉄が有名で、欧州を席巻したバイキングの武器材料として知られる。
 これは褐鉄鉱の一種で、葦などの水草の根に堆積する。日本の「高師小僧」、阿蘇のリモナイトなどもその一種である。
 世界で有名なスウェーデン鋼も、原始製錬ではベンガラ(泥状沼鉄)が使われ、独特の紋様を持つダマスカス剣に使われたインドのウーツ鋼も「黄金の水(湖沼鉄)」から採れると古書に記録されている。

 アナトリア(現:トルコ)のカマン・カレ(城塞)ホユック(遺跡)の第Vc層から「鋼」と共に「赤鉄鉱」が検出された。
 これらの「赤鉄鉱」、「褐鉄鉱(針鉄鉱)」はどこにでも大量に存在する製鉄原料だった。
 技術未開の時代に、原料採取の簡便さ、低温還元の特徴は、原始製鉄原料として重要な意味を持つ。

 昭和50年、弥生時代〜古墳時代の遺跡とみられる岡山県・門前池遺跡(炉底は20 X 30cm)で沼鉄(褐鉄鉱)が発見された。
 同じく、津山市沼住居跡群の発掘調査(昭和二十七年)でかなりの板状沼鉄が発見されている。
 又、赤坂千手院鍛冶が栄えた美濃国赤坂(大垣市)にある金生山は、石灰岩の山塊である。その名の通り、銅や赤鉄鋼を産出する。
 岐阜の塚原古墳群で発掘された刀子の成分々析では原料は赤鉄鋼を示していた。
 日本でも、鉄先進国と同様に、赤鉄鉱・褐鉄鉱を原料とする製錬が行われていたことを如実に示している。
 一般的に、地形の窪みを利用した自然通風の原始的沼鉄製錬は炉跡らしきものが認識出来ない為に、製錬の証明が出来ていない。
 これらの褐鉄鉱の遺物はもっと注目されなければならないが、その後の話題の広がりがない。 
 日本では磁鉄鉱粉(砂鉄)の固定観念に囚われるあまり、砂鉄以外の原料をほとんど無視してきた。正しい考察の姿勢であろうか。
 世界の原始製錬で、褐鉄鉱、赤鉄鉱を原料とした地域が広範に及ぶのに、製鉄後進国の倭国が、ある程度の製錬技術(炉温や築炉)
を必要とする磁鉄鉱やその粉鉱の砂鉄を原料としていきなり製鉄を開始したというのも、矢張り不自然だったと言える。 


 褐 鉄 鉱 (リモナイト)

 左の写真は、小川の底や水辺に体積した土状の褐鉄鉱。日本でも至る
 所に体積している。特に阿蘇山周辺に大量に産出する。
 卑弥呼の邪馬台国を常に脅かした狗奴国の武力の源だったと目されて
 いる。考古学的には、北部九州が舶載鉄器に依存していた中で、早い
 段階で、中部九州から舶載鉄器が姿を消した。
 狗奴国がリモナイト製錬を始めたという見方がある。

製 鉄 原 料  (ヨーロッパ古代褐鉄鉱製錬の実験)


(上掲写真: 山内裕子氏ご提供)

製 錬 炉
 
 紀元前15世紀のエジプトに於ける製錬図
 地面を浅く掘るか、周囲に低い壁を立て
 鉄原料を薪で燃やす

 紀元前14世紀のエジプトに於ける精錬図
 土器を使った一種の坩堝(るつぼ)製練

 8〜9世紀頃と思われる型炉
     (シャフト炉)
  (東京工大製鉄史研究会復元)
  埼玉県児玉町金屋製鉄炉
  茨城県八千代町遺跡など
  同類の炉は関東に多い

 国内製鉄の説明は、砂鉄材料と同様に、これもいきなり堅型炉や箱形炉から説明が始まる。
 上掲左のエジプトの想定図で分かるように、古代原始製錬では、地表を少し掘り固めたものか、周囲を土壁で少し高くした単純な
炉(?)が一般的だった。金の製錬を応用した土器を使った坩堝製錬もあった。
 それに比べれば、我が国は実に立派な炉を使ったものである。製錬炉に付随するものとして、羽口と鞴(フイゴ)が必ずセットにな
っている。
 我が国の原始製錬の出発は、果たしてこんな立派な炉を使ってスタートしたのであろうか ?
 これも江戸・元禄時代の天秤フイゴの固定観念が強すぎて、古代製鉄にまでそれを追い求めた観がある。
 粉末状褐鉄鉱の製錬では、フイゴによる送風は厳禁である。炉高も低く抑え、高温還元してはならない。
 そういう製鉄史の部分は本当に我が国でなかったのであろうか ?
 又、たたら製鉄は我が国独特の製鉄法と賞賛されている。果たして独特なものであろうか。
 これらの検証の為に世界の製鉄史を概観する。

1

大 陸 と ヨ ー ロ ッ パ の 製 鉄 推 移


製 鉄 前 史

 人類が金属と出会った歴史はかなり古い。それは地表に露出した自然の金、銀、銅、地球に落下した隕石だった。
 イランやトルコの高原地帯の遺跡(ホユク)から紀元前7,000〜6,000年前の銅製ビーズ、錐(きり)、ピンが発掘されている。
 これらは自然銅を鍛造したものだった。
 時代が下がった紀元前6,300〜5,500年の銅製品はガラス状の鋼滓の付着から、自然銅を坩堝(るつぼ)で溶解したものと判定された。
 日本では縄文時代・初期〜中期にかけての時代だった。
 日本の縄文土器の焼成温度は800℃と言われているので、小アジア(現トルコ)ではかなりの高温で土器を焼成していたことになる。チグリス・ユーフラテス河三角州地帯の前5,000〜4,000年の遺跡から斧、槍先などの中型銅製品が見つかった。
 同地の前4,000〜3,500年の遺跡から、少量のヒ素とニッケルを含む斧などの銅製工具が発見された。
 自然銅より硬度の高い銅だった。
 死海南方の山岳地帯で、前3.500年の製銅炉が発見された。純銅の溶融温度は1,085℃である。
 この時代から、自然銅ではなく、地表に近い地中の銅鉱石から製錬を開始したと見られる。
 出土する土器の表面に黒鉛層が生成されているので、土器焼成窪は高温の還元性雰囲気であったと判断された。
 メソポタニアのウル第一王朝(前2,800年頃)の墓から、青銅器が発見された。
 錫(すず)石を銅に加えると溶融点が下がり、硬くて強い青銅が生成される。
 銅製錬の試行錯誤の中から偶然発見されたにしろ、合金の利点を知っていた。錫は中央アジアからの供給と推定されている。
 前2,000〜1,000年にかけて、メソポタミアの青銅技術が伝播したと見られる西シベリア地方にアンドロノヴォ文化という青銅器文
化があった。
 東アジアの中国の最古の銅器は前2,200〜1,500年とされ、このアンドロノヴォ文化が中国に伝播したとの見方がある。
 然し、黄河下流域の龍山文化層(前2,310年〜1,810年)から青銅片が発掘されたので、中国の青銅器の出現は更に遡(さかのぼ)るとみ
られる。
 いずれにしろ土器焼成窪が銅製錬を実現し、やがて鉄の製練に繋(つな)がっていった。

製 鉄 の 始 ま り

 世界最古の鉄器は北イラクのサマラから出土した前5,000年の長さ4.5pの工具とされる。
 次いで、西イラン、テペ・シアルク出土の小球三個(前4,400年)、エジプト・ゲルゼー墓のビーズ九個、同アルマント墓のリング
(いずれも前3,300年)、トルコのアラジャホユクK号墳から黄金装鉄製短剣(前2,300年=日本の縄文中期)などが出土した。



 青銅期中期の前2,000〜1,600年の期間にアナトリア(現:トルコ)、キプロス島、クレタ島から8件の鉄資料が出土した。
 前1,600〜1,200年にかけてヒッタイト帝国はアナトリア半島を中心に勢力を誇っていた。
 1986年からアナトリアの遺跡発掘に取り組んでいる(財)中近東文化センター(東京都三鷹市)によって、2001〜2002年にかけてカ
マン・カレホユック(城塞遺跡)の第Vc層(紀元前1,930〜1,200年)から鉄片と粘土板文書「ボアズキョイ文書」が出土した。
 発掘された三点の出土鉄片は、岩手県立博物館・赤沼英男上席専門学芸員(文化財科学)により分析された。
 鉄片は長さ約2〜6センチで、金属考古学的解析結果から1点は鋼。出土した粘土板文書や炭化物の放射性炭素年代(C14炭素法)
などから、現地にメソポタミアのアッシリア商人が植民地を築いたり、鉄の帝国として知られるヒッタイトが建国されるより400年
以上前の紀元前 2,200〜2,000年の遺物と推定された。
 鋼以外の2点は、鉄の原料である赤鉄鉱と、焼けてガラス化した粘土の中に固着したごく小さな鉄と判明した。
 焼けた粘土は、鉄生産の際に使われた炉などの一部とみられる。
 粘土板に刻まれた楔形文字の古文書に鉄の記述があり、鉄は金の8倍もする貴重品だった。
 この鋼の含有元素濃度分布測定によって、結晶は鉄(Fe)と炭素(C)を主成分とするセメンタイト(Fe3C)で、鋼を構成するパ
ーライト中のセメンタイトが残った組織と判定された。
 同様の組織は、1982年、新日本製鐵(株)基礎研究所(現:先端技術研究所)によって実施された国宝・稲荷山鉄剣摘出錆片の解析
において確認されていて、その後も日本列島内から出土した数多くの鉄器に見出されているとの指摘に注目しなければならない。

 この期間、メソポタミア、シリア、アナトリア、パレスチナ、エジプト、キプロス島、クレタ島、エーゲ海諸島、ギリシャの各
地から74件の鉄資料が出土した。
 化学分析された12試料中、6例が隕鉄を原料とし、他の6例は明瞭に人工鉄と分析された。
 カマン・カレホユックの検証により、ヒッタイト帝国成立前の人工鉄が確認され、製鉄は各地で自生していたと判断される。

 古代人は鉄の造り方をどのようにして知ったのだろうか。
 銅製錬の経験から、銅原鉱の含有鉄分、或は溶剤の鉄鉱石粉が溶鉱炉内で偶然還元して塊鉄が生成したとの説がある。
 又、古代エジプトの金の坩堝(るつぼ)製錬で、混入した砂鉄から塊鉄を得たとの説もある※1
※1 この仮説は炉温からしても無理との否定論がある
 ベンガラ(酸化第二鉄)が顔料に使われていたので、木炭炉で偶然にそれを還元して鉄を得たという説もある。
 その他、森林火災説、鉱石や砂鉄の上での焚き火説などが入り乱れている。
 民族や地域に依って恐らく製鉄の発見は様々であったと思われる。
 只、この当時の海綿鉄や塊錬鉄から得られる錬鉄は、青銅より強度が劣っていた。主に装飾品に使われる貴重品だった。
 前1,190年、ヒッタイトが海の民に滅ぼされた。
 この混乱が東部地中海地域の交易を分断して、中央アジアからの錫の供給を困難とした。
 青銅製造に支障を生じ、鉄が改めて見直された。青銅に替わる鉄には硬度と強度が求められた。
 従来、ヒッタイト帝国が製鉄を独占していたとの説は誤りのようである。
 ヒッタイトが秘匿したのは製鉄技術ではなく、既に知られていた鉄の生産方法を改良し、強靭な鋼を「定量的に確保する為に新た
に確立した生産手法」であった可能性が高い。
 この製鋼手法が明らかとなり、前12世紀以降、東部地中海を中心に青銅が急速に実用鉄器に替わっていったと見做(みな)される。

 最初の製錬は小さな炉で、鉄鉱石や砂鉄を薪や木炭で燃焼し、自然通風の炉内温度が800℃前後であれば海綿鉄が得られた。
 銅製錬の実績があれば.1,100℃近い炉温を実現していたので、塊練鉄を得ていたことだろう。いずれも直接製鉄法であった。
 海綿鉄や塊錬鉄は、鍛冶に依って赤熱鍛打されて適当な錬鉄が造られた。日本のたたら製錬、人力精錬と同じである。
 紀元前10世紀頃、小アジアからヨーロッパ、インド※2、中国等に製鉄技術が伝播したと見られている。
 中国は紀元前6〜5世紀頃には溶融銑鉄の製造に成功していた。ヨーロッパでは、14世紀になるまで溶融銑鉄は出来なかった。
※2 インドでは紀元前1,500年頃の詩編「リグ=ヴェーダ」に鉄の名があり製鉄起源は古いとされる
 前12世紀頃の小アジアに於ける直接製錬の実用化と、前6〜5世紀頃の中国の溶融製錬は二大製鉄の流れとなった。

 製鉄技術を渡来技術とすれば、我が国に影響を及ぼした大陸と半島の状況を無視する訳にはいかない。
 日本古刀の鋼材と構造を推論する為には、先ず我が国の製鉄発祥に密接する大陸と朝鮮半島の古代製鉄の状況を概観する。

2
中 国 大 陸 の 製 鉄

 新石器時代に発達した製陶窪(くぼ)は1,280℃の高温を得ていたという。紀元前15世紀の頃、銅製錬が始まっている。
 製鉄の起源は春秋時代(B.C1000)とみられ、最初は直接製鉄法の海綿鉄製錬だった。

 ● 前6〜5世紀(前7世紀説もある)頃、華北地方(黄河の北)では、炉の改善で銑鉄製造(溶融冶金)に移行した。
  製陶、銅製錬技術を応用したものと思われる。赤鉄鉱、褐鉄鉱、砂鉄を製錬し、銑鉄から錬鉄が造られた。
  炉温の改善で磁鉄鉱からも製練された。
  時を同じくして、鋳鉄(銑鉄)の脆さを克服する焼き鈍(なま)し技術が発見された。可鍛鋳鉄である。

  漢代の紀元前2世紀頃、製鉄技術は完成の域に達し最盛期を迎えた。
  その画期は、溶融銑を撹拌脱炭して鋼を造る間接法の炒鋼法の開発にあった。


          炒鋼法
 シルクロードやインドを通ってペルシャの技術が伝播したとみられている。
 後の十八世紀に開発された西洋のパドル製鋼法と同じ原理の近代製鋼法を
 2,000年前に実用化していた事実は驚異的だった。製鉄技術では、世界の最
 先端を走っていたことになる。
 前漢代の遺跡から、これを裏付ける精錬用の炒鋼炉、反射炉、坩堝の他、
 直接法の海綿鉄炉が確認された。
 小型竪炉に依る溶鉱も実現し、滲炭法も開発した。
 又、薪・木炭を火力の強い石炭(無煙炭)に換えて、生産量を増大させた。
 鍛鉄を灼熱して水中で急冷する焼入法(刃金技術)もこの時代に盛んに行わ
 れた。
 生産効率が良い炒鋼法の実現に依り、鋳造鉄器に加え、鍛造鉄器の実用化
 が図られた。特に刀剣・武器類への影響が大きかった。
 刀剣・工具は鍛造(初期は鋳鉄と青銅併用)で、農耕用具・生活工具は鋳造
 で造られた。

  然し、華北地方の厳寒地では、鍛造品は脆(もろ)い為に鋳造青銅品が暫く重用され、華北地方は間接法が主で直接法は従だった。

 ● 江南地方(長江の南部)では、赤鉄鉱又は砂鉄を原料として直接製鉄法を主流に錬鉄を生産した。
  西南シルクロードや海上交易を通じたオリエント及びインドからの技術伝播と思われる。
  紀元前3〜2世紀頃より、皮鞴(ふいご)に替わり、手押し〜足踏フイゴが登場して炉温が改善される。
  前3世紀頃、個体脱炭鋼が生まれた。
  海綿鉄と鋳鉄は技術的には同じもので、単に製錬温度の違いだけである。錬鉄で武器を、鋳鉄で農・工具や生活用具を造った。
  この直接法=海綿鉄又は塊練鉄製錬が南部朝鮮と日本に伝播したと推定されている。

 ● 河南(中原=黄河中流域)地方は、直接法と間接法の両方式が混在した。
  北方と西南シルクロードの交点に四川(しせん)があり、早くに文化が栄えていた。北方と南方の両方式の技術が伝播しても不思議
  はない。
  山東半島から長江下流域の沿岸一帯に含銅磁鉄鉱床の存在が知られ、日本の古墳出土の鉄鋌(てってい)は、成分分析から、河南〜
  江南の含銅磁鉄鉱石に依る炒鋼と分析されている。
  又、大陸と日本との交易ルート(下図参照)からも河南が着目されている。
  そうであれば、日本への製錬技術の伝播は、直接製鉄法だけではなく、間接製鉄法の可能性も出てくる事になる。
  後世、入唐(唐に渡った)した僧侶達が製錬技術を習得して帰日している。技術の伝播は必ずしも朝鮮半島を経由するとは限らな
  い。

 広大な大陸の南北で、直接法と間接法の二つの製鉄法が併立していた。
 華北が間接製鉄法に移行していた頃、日本は弥生時代中期中葉だった。
 イギリスが間接製鉄法を完成したのは、漢代より約2,000年遅れて18世紀になってからである。
 中国は製鉄の先進国となっていた。鉄は武器・武具、農・工具を飛躍させ、国家の存立を左右した。鉄の大量生産が求められた。
 漢の武帝は朝鮮北部の楽浪郡他四郡を直接支配し、半島の鉄資源の確保を狙った。
 日本も鉄資源を求めて盛んに半島と交易した。



3
朝 鮮 半 島 の 古 代 製 鉄

 製鉄起源は明確ではない。無文土器時代の中期(前4世紀〜)、中国戦国文化と接触し、鋳造鉄器が出現する。
 その後、鋳造鉄器の製作が始まった。
 前漢(B.C202年〜)の武帝は朝鮮北部に進攻し、楽浪郡など漢四郡を設置した(B.C108年)。
 これが契機となって鉄資源の開発が促され、鉄生産が一層進展したと見做されている。
 これ等は中国植民地政権の影響が及ぶ朝鮮北部に限定され、且つこの時期から、鉄製品に鍛造品が出現する。
 中国・炒鋼法の影響に依るものであろう。半島北部の資源分布の特性で、鉄鉱石を原料とする間接製鉄法が主であったとされる。
 半島の高品位な鉄鉱石は黄海道西部から平安道の西北に集中し、東南部と南西部に高品質な砂鉄が分布していた。

 3世紀、魏書東夷伝弁辰の条に「国、鉄を出す。韓、濊(わい)、倭、皆従がいて之を取る。・・・・また以て二郡に供給す」とある。


文城里18号住居鉄鋌                         弾琴台土城出土鉄鋌

 半島南部は「韓」と呼ばれていた。三韓の内、実力がある辰韓は外国から多数の製鉄専門家を集めて最も鉄治の技術が進んでいた。
 辰韓・弁韓では鉄資源の開発と鉄生産が隆盛し、辰韓、弁韓の鉄が楽浪・帯方二郡に供給され、鉄生産の一大拠点となっていた。
 その理由は高品質な砂鉄にあったと言われている。
 江南からの技術伝播に依って南部朝鮮は直接製鉄法が主であったとされるが、最近南部朝鮮の直接製錬法が、いつかの時期に間接
法に転換したとの注目すべき報告がある。
 著名な砂鉄の産地は、江原道柄谷・温井里、全羅南道玉山里などが挙げられ、磁鉄鉱石は三和地方、尉珍地方、金海地方、定州地
方(含む赤鉄鉱)、忠州金谷、尉山、瑞山、開慶などがある。南部朝鮮の磁鉄鉱石はチタンを含んでいることで知られる。
 原料には当然、砂鉄と鉄鉱石が使われた※3                       ※3 後述: 福泉洞出土の砂鉄と鉄鉱石参照  
 日本に渡来した鉄器、製鉄技術、鉄素材などは、地理的条件、任那(みまな)日本府設置などの史実から見て、南部朝鮮の影響を多大
に受けていた事が容易に想像される。
 然し、半島での古代製鉄遺跡の解明は余り進捗(しんちょく)していない。我が国古代製鉄の謎を解く為にも、その解明が待たれる。


砂 鉄 成 分 (朝鮮半島三種と日本二種の比較)
                                                       長谷川熊彦著「砂鉄」より
産     地 鉄分 Fe Fe2 Si As Ca Mg Mn P S Cu TiO2
南部朝鮮 江原道温井里砂鉄(磁選) 69.92 28.45 68.35 0.66 0.39 - 0.30 0.087 0.018 0.010 0.85
南部朝鮮 江原道柄谷砂鉄(手選) 65.46 17.96 79.37 0.15 - - - 0.31 0.013 0.080 0.020 0.15
南部朝鮮 全羅南道玉山里砂鉄(磁選) 69.48 23.42 73.30 1.22 0.50 0.15 0.020 0.005 0.009
日  本 島根県仁多郡第4号・真砂 67.10 28.14 64.67 3.28 0.50 1.18 0.87 0.91 0.016 0.046 0.046 2.61
日  本 島根県仁多郡第3号・赤目 61.45 30.41 54.01 6.61 0.50 2.45 1.33 1.55 0.040 0.061 0.081 5.05

南部朝鮮の砂鉄は極めて高品質である。南鮮を南北に走る中央背梁山脈の純花崗岩を母岩とし、東西に堆積した山砂鉄の産地は
 多数あった。純鉄率が高く、TiO2 (二酸化チタン)、P(リン)、S(硫黄)、Cu(銅)、As(ヒ素)等の不純物が著しく少ない。
 上表の他、忠清南道稷山砂金地・成歓面南山里、全羅北道金堤砂金地、全羅南道島南元面、江原道三面三和里などの砂鉄産地が
 あった。朝鮮半島南部に産出する砂鉄成分は我が国砂鉄と同等以上の品質を示している。
 我が国古墳などからの出土品に、鉄の地鉄、即ち長方形の鉄塊(インゴット)、鉄の棒、鉄鋌(てってい) = 鉄板)等の鉄素材が多い。
 大陸と朝鮮半島の特徴は、製錬と鍛冶が早くに分離していたことにある。我が国では、天文の頃の千種・出羽鋼からであった。

 刀剣界は「洋鋼は燐や硫黄を含む不良鋼」と執拗に洋鋼批判を繰り返して来た。その為に、近世〜近代洋鋼を参考として概説する。
 近代洋鋼を知る事は決して無意味ではない。
 たたら製鉄や玉鋼を客観的に見つめ直す為には、どうしても必要なことであろうと思われる。
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近 世 〜 近 代 ヨ ー ロ ッ パ 製 鉄 法 の 革 新


 紀元14〜15世紀頃、ヨーロッパでは科学技術の新発見が相次いだ。
 ドイツで製鉄の新紀元を画す高炉製鉄法が開発された。日本の南北朝から室町時代の中期の頃である。
 水車鞴(ふいご)によって強力送風し、木炭燃料で炉内温度を従来よりも上昇させた。炉内で鉄鉱石から還元された鉄は、炭素を吸収することで融点が低下し、1,200℃位の温度に於いて溶融状態で流出するようになった。木炭銑である。
 この溶融銑を用いて鋳造品の製造が始められたが、初期の溶融銑は従前のあめ状の塊錬鉄と異なり、脆くて鍛造に適さなかった。
 この欠点を補う為、これを再び加熱して、酸素によって銑鉄中の炭素を除去し、炭素含有量の少ない可鍛鉄に変える方法が考案された。太古から続いた塊錬鉄(鍛冶屋)の時代から、溶融冶金の量産時代への幕開けだった。中国から約2,000年近い遅れであった。
 この間接製鉄法が約四世紀ほど続いた。日本に南蛮鉄が流入した頃である。

燃 料 の 変 革
 
 鉄の需要と高炉の増大に伴い、膨大な木炭が消費され、森林資源の枯渇という深刻な状態に陥った。
 木炭高炉の運営は重大な制約を受けることになり、木炭を豊富な石炭に切り替える二つの試みがイギリスで始まった。
 一つは、16世紀、量産高炉銑を可鍛鉄化する熱源に石炭を用いる研究が先発した。約二世紀の苦闘を経た後、1783年に反射炉式の
 精錬法が完成した。この方法は、硫黄を含む石炭を直接銑鉄に接触させないように火焔だけを溶解室に導く仕組みである。
 高温で銑鉄の炭素分が酸化脱炭されると、溶銑は溶融点が上がり、銑は次第に粘った状態に変わって行く。これを棒で撹拌して錬鉄に変えた。パドル法( Puddling = 攪拌 )と呼ばれる。2,000年前に中国で実用化されていた炒鋼法と同じ原理だった。

        パドル製鋼法
 得られた錬鉄を鍛造する代わりに、孔型ロールで圧延して、棒や帯などに形成する技
 術も同じ頃に開発された。
 二つ目は17世紀初め、木炭高炉を石炭高炉に転換する研究が開始された。
 然し、石炭中の硫黄分で鉄が脆くなり、スラグの発生や、より強力な送風機の必要な
 どの障害に遭遇し、成功する迄に約一世紀を費した。

 石炭の代わりにコークスを用いることで問題が解決されたのは18世紀の初頭である。
 このコークス高炉法が普及し始めたのは1750年以降である。
 日本では江戸中期頃にあたる。
 1735年には、可鍛鉄を坩堝(るつぼ)に入れてコークスで加熱溶解し、滲炭剤で吸炭させて鋳鉄に変える方法がイギリスで完成し、主
として刃物の製造に採用された。
 このようにして、18世紀初頭から石炭やコークスを熱源とする製鉄法がヨーロッパにおいて開発され、イギリス、フランス、
スウェーデン、ドイツなどにおいて次第に工業化されて、現代製鉄技術の基礎が築かれ始めた。
 18世紀頃、年間3〜5万トン程度の生産水準に達していた。
 ヨーロッパにおける科学の発達は、製鉄技術の科学的解明に貢献した。
 鋳鉄・練鉄・鋼の相違が、炭素含有量によって支配されることが解明され、従来の経験に基づく鉄の冶金と精錬の技術は科学的に
把握されるようになった。

産 業 革 命 と 近 代 製 鉄

 パドル法又は坩堝法の錬鉄や鋼はいずれも手工業的で小規模なものだった。19世紀の産業革命による鉄道、造船、機械、兵器製造
の為の鉄の大量需要に対して、供給量及び質の面で重大なネックとなった。その解決策の必要に迫られた。
 イギリスのベッセマーによって1850年代に転炉法が開発された。

ベッセマー傾注式転炉 (1860年)

 この精錬炉は、炉底に空気を吹き込んで酸素を補給し、従来の反射炉に比して炉内温度を300℃高い1,500℃近くまで上昇させ、こ
の高温によって溶融した鋼を、人力によらず精錬するものである。
 実験では、吹き込んだ空気中の酸素によって溶鉄の炭素含有量を任意に脱炭制御し、銑鉄から鋼、錬鉄へと鉄の性質を自由に変え
る事に成功した。溶融精錬では、不純物が綺麗に分離し、均質な錬鉄や鋼が得られた。

 ところが、実用化に躓(つまず)いた。実験と実用化で使った各々の原料銑鉄が違っていた。硫黄と燐が除去できなかった。
 この問題を解決したのがスウェーデンの製鉄家ゲランソンだった。
 コークス高炉銑を避け、木炭銑を原料にする事で回避した。同時に、硫黄を含まない良質な鉄鉱石が探索された。
 スウェーデンのダンネモラ地方に豊富に埋蔵されているダンネモラ鉱石が選び出された(東郷ハガネにも使われた鉄鉱石)。
 これを木炭精錬した銑鉄原料で、初めてベッセマーの転炉が実用化され、燐や硫黄を殆ど含まない良質の錬鉄や鋼を造れるようになった。
 ダンネモラ鉱石はマンガンを多量に含み、転炉法の鉄の過酸化に対しても決定的に有利だった。
 その後、脱硫技術の進歩、塩基性炉材の開発などで、コークス高炉銑を原料に使えるようになった。
 この転炉法は製鉄技術の一大革命の一つとされ、ベッセマー転炉を以て近代製鋼法の確立点とした。日本の幕末の頃である。

 一方、パドル反射炉の熱源を換え、炉内を1,500-1,600℃の高温にして、人力に依らない溶鋼法をイギリスのシーメンスが研究した。然し、炭素量の制御等に問題があった為、フランスの製鉄家マルチンはこの溶鋼法に冶金学的改善を加えて、1864年に良質の
溶鋼の製造に成功した。これは平炉法と呼ばれる。ベッセマーの転炉法と並んで製鋼技術上に新紀元が画された。
 こうした平炉及び転炉によって従来の錬鉄及び鋳鋼に比べて、強度の著しく高い良質の鋼の供給が可能になった。
 鉄鋼は品質的にも急激な飛躍を遂げた。蒸気機関の発明は送風量の飛躍的改善をもたらした。

 ところが、高温精錬に際して思いがけない障害に遭遇した。鉄鉱石中の燐は、パドル法における1,300℃前後では五酸化燐として
滓(スラグ)の中に残って鉄から除去され、鉄の材質の劣化が自動的に防がれてきた。然し、炉内温度が1,600℃位に高められると、
五酸化燐は還元されて鋼と結合し、鋼の材質を著しく劣化させる現象が発生した。
 原料銑鉄中の燐を脱離させるには、酸化されて滓中に溶出した五酸化燐を石灰と結合させればよいとの原理は知られていた。
 この為、塩基性の耐火炉材の開発が、含燐鉱石の溶鋼精錬を完成する上の必需品として求められるに至った。
 然し、塩基性で強度と耐久性の高い耐火炉材の開発は容易ではなかった。
 イギリスのトーマスは1878年に、困難な塩基性耐火炉材の開発に成功した。
 この炉材を用いることによって、含燐銑の転炉精錬で、燐を固定除去して優良な鋼を造る技術が完成された。
 ベッセマーの転炉製鋼法(1856年)、シーメンスおよびマルチンによる平炉製鋼法(1864年)、トーマスによる塩基性転炉法と相
次ぐ新製鋼技術の開発によって近代製鉄の基礎はほぼ完成した。
 その後現代に至る迄、洋鋼の品質改良は日進月歩の進化を遂げている。


洋 鋼 は 粗 悪 鋼 か ?

 前述したように、近代洋鋼が燐や硫黄を含む粗悪鋼との刀剣界の主張は的外れである。鉱石やコークスには有害元素が含まれるが、精錬法の新たな技術開発によってこれらは除去された。洋鋼批判に根拠は無い。

た た ら 製 鉄 は 独 自 か ?

 世界の古代原始製鉄は直接法で出発し、インド、中国・江南地方、朝鮮半島では砂鉄製錬も行われた。
 又、我が国のたたら製鉄の始発原料には鉄鉱石も使われた(製鉄開始の項で触れる)。 
 日本のたたら製鉄に近似した砂鉄直接製錬法(原始製鋼)は、アフリカのマンダラ地方で現在も行われており、東洋の鉄文化の拠点
となり有名なウーツ鋼を生んだインドの中央部では、たたら製鉄と同じ原始製鉄が最近まで行われていた事が確認されている。 
 我が国の製鉄起源は不明であるが、5〜6世紀頃と見られる。小アジアから1,700年以上、中国大陸から1,000年以上も遅れていた。
 古墳から出土した鉄素材、鉄製品の分析から、製鉄技術は渡来と見做(みな)され、先住民の独自製鉄発祥説は否定されている。

 東洋・西洋の原始直接製鉄法と比較して、我が国古代たたら製鉄が独自であるとの理由を見い出す事が困難である
 強いて言えば、製鉄先進国が製鉄技術の化学的革新を実現したのに対し、我が国たたら製鉄は終始稚拙な原始直接製鉄法の域を
脱しなかったのが独自と言えるかもしれない。後世のヒ押し法もその範疇でしかなかった(「たたら吹き」を含めて改めて後述する)
 和鋼の清純さのみが強調されるが、生産効率、量産性も国家の根底を支える鉄生産の重要な要素であることを忘れてはならない。

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たたら製鉄と日本刀目次  

 技術の伝播と古代考察の陥穽   古代の刀剣鋼材と刀身構造  鉄素材と国内鍛冶  舶載鉄と国内鍛冶刀剣 (附:灌鋼)

 古代・褐鉄鉱製練の可能性   (以下予定稿) 古代たたら製鉄 刀と刀身構造 古刀の地鉄・刀身構造 中世たたら製鉄 

 古刀と新刀の優劣比較 他

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