た た ら 製 鉄 と は 何 か
注)
弊サイトは、「たたら」という固有名詞の前後に平仮名がある時、或は固有名詞を判り易くする時に「タタラ」と表示する
製 錬 と 精 錬 に つ い て
鉄は国家なり
プロイセン(ドイツ)の鉄血宰相・ビスマルクが演説に使った「鉄は国家なり」という言葉がある。国家や社会の構築に鉄が果たす役割
を端的に言い表した格言である。現在も、鉄の生産量は国力を示すバロメーターと認識されている。
小アジアで起こった「鉄造り=製鉄」 はやがて世界に広まって行った。(
こちらを参照されたい)
最古の製錬(製鉄)は土を掘り固めた炉からスタートして、やがて立体的な炉を使うようになった。
鉄作りには二段階がある。砂鉄や鉱石からヒ塊を造るのを「製錬」といい、ヒ塊から錬鉄、鋼を造るのを「精錬」という。
|
欧州では縦形の塊鉄炉((bloomery)が出現した。この炉は酸化鉄から鉄を製錬するのに広く使用され
た炉の型式であり、鉄を造ることができる最も初期の製錬装置であった。
塊鉄炉の生産物は鉄とスラッグの多孔性の塊で、塊鉄(bloom = 日本では海綿鉄)と呼ばれている。
八〜九世紀になると炉の高さが約4.9mにもなっていた。炉高を高くする程還元距離が長くなり、製錬
効率が良くなるからであった。欧州では炉が徐々に高くなって行く方向に進んだ。
日本の製鉄起源は未だ定かではない。
遺跡の確認によって、六世紀末に西日本の箱形炉による鉄鉱石製錬から始まったとされている。
湖沼鉄(褐鉄鉱)を使った可能性もあるのでもっと遡る可能性もある。これは別章で述べた。
日本で上部がすぼまった半地下式竪形炉が出現したのは奈良時代に入ってからである。一時期広く使
われたが、やがて箱形炉に全て置き換わった。
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※ 江戸中期の元禄13年頃(1,700年頃)に生まれた全天候形高殿永代タタラ製鉄は山陰を中心に約40年をかけて普及して行った。
永代タタラが生まれて約50年後(1,750年頃)、硬球を天井から落としてヒ塊や銑鉄塊を破砕する大胴(金偏に胴)が開発された。
ヒ塊や銑鉄塊は鍛冶場で鋳造品や鍛造品を造るのに小割破砕が必要で、それ迄は、金槌や斧を使って人力で破砕していた為に
生成する鉄塊の容量には自ずと限界があった。この大胴装置の開発で生成鉄塊の容量を増やす事が可能となり、炉容積の拡大
が図られた。大胴開発前の永代タタラ一基当たりの生産量は大胴開発後の最終的永代タタラ炉の約1/3程度と推定されている。
従って、永代タタラ製鉄炉は前期と後期の二種類に分けて認識する必要がある。
製鉄遺跡の分布は時代に依って異なる。本章は遺跡の分布を主題にしている訳ではないので古墳時代と鎌倉時代以降の分布図は省
略した。上図で見られるように奈良〜平安時代は九州から東北地方まで比較的万遍に遺跡が分布していた。
図では明細が判りづらいので以下に関係する概要を示す。
1
た た ら 製 鉄 の 実 態
炉の形式
炉の形式は「箱形低炉」と「竪形炉」の二種類に大別される。
箱形炉は平面で丸形、四隅にラウンドが付いた正方形、長方形があり、寸法も様々だった。
三国志・魏書東夷伝韓の条に「國出鐵 韓・濊(わい)・倭皆從取之 諸市買皆用鐵 如中國用錢 又以供給二郡」とある。
朝鮮半島南端は3世紀中頃から倭国領土の狗邪韓国(くやかんこく)が在り、古墳時代後期には任那(みまな)日本府を置いた。
中南部の韓族、濊族と共に倭族(日本)は盛んに弁辰の鉄を求めていた。
こうした関係で製鉄炉は朝鮮半島から伝来した可能性が高い。然し、朝鮮半島の製鉄遺跡の発掘は14世紀が最も古く、それ以前の
製鉄炉は未だ発見されていない。朝鮮半島の古い製鉄遺跡が発掘されれば、日本の製鉄開始の状況が分かってくると思われる。
下に古代〜中世初期の二種類の炉の分布と、始発鉄原料の分布を示す。
|
|
↑ 古代の炉形分布図
古墳時代末〜平安時代中期末までの
始発鉄原料と炉形の分布表 →
遺跡名: 青字=
箱形炉、赤字=竪形炉 ●=鉄鉱石
関清氏が一部修正したものを借用し、左の年代は筆者が加筆した→
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左上の製鉄炉分布図は視認性が良い為に掲載した。大凡の感覚が容易く理解出来ると思う。右上の編年表は左の分布図よりサンプ
ル年代が広く、炉の形式と始発原料が年代と地域の相関で理解できるようになっている。
日本最古の製鉄遺跡は広島県のカナクロ谷遺跡と認識されている。箱形炉で磁鉄鉱石を製錬していた。
平成7年初頭、広島県三原市の小丸遺跡で製錬炉が見つかり、紀元三世紀の日本最古の製錬炉として騒がれた。結局、確証がなくて
ウヤムヤに終った。日本の製錬の始まりを紀元五世紀まで遡れるとの声もあるが、現在まで確実な炉跡は発見されていない。
古墳時代〜奈良時代は西日本の箱形炉による鉄鉱石製錬が製鉄をリードしていた。
奈良時代に入って、関東と東北南部に竪形炉が出現し、東日本を中心に普及した。この竪形炉は九州、東海、北陸にも伝播した。
この竪型炉は、平安後期から鎌倉時代初期にかけて箱形炉に取って替わられた。以降は全て箱形炉になった。
その理由は明らかではないが、13世紀に吹指しフイゴが開発されている。従来の足踏みフイゴに比べて送風量が向上した。
上部が窄(すぼ)まっている竪形炉では、上方への風圧が強まり、砂鉄の装入が困難になった為ではないかと思われる。
製鉄原料
製鉄原料には鉄鉱石と、その粉鉱である砂鉄がある。
|
鉄鉱石には大別して以下の三種がある。
赤鉄鉱 (Fe2O3)、磁鉄鉱 (Fe3O4)、褐鉄鉱 (Fe2O3?nH2O)。鉄分含有量40〜50%以上が必要とされる。
たたら製鉄初期に使われたのは、成分々析から磁鉄鉱とされているが、赤鉄鉱に比べて還元温度が高いと
思われるので不思議である。九州、山陽道の安芸や備前、近江などのタタラ場で使われていた。
意外と知られて居ないのが美濃である。美濃の赤坂には赤鉄鉱が多く産出した。「赤坂」の地名はこれに
由来する。この赤鉄鉱は鉄の含有率が50%を超える高品質な鉱石だった。美濃鍛冶はこの鉄から刀を造っ
ていたが、ある時期から作刀場所を移動した為に忘れ去られてしまった。
砂鉄は大別して真砂と赤目砂鉄に別れる。
鉄鉱物の供給源はおもに花崗(かこう)岩や安山岩などの火成岩類である。火成岩中に1〜2%含まれている
鉄鉱物が、岩石の風化によって分離し、現地で堆積するか、もしくは河川などによって運ばれ集積したも
のである。前者を山砂鉄、後者を集積した場所によって川砂鉄、浜砂鉄と呼ぶ。
|
真砂砂鉄は、黒雲母花崗岩を母岩とし、母岩中の鉄分は1〜2%、光沢のある漆黒色、やや粒が大きく(50〜100メッシュ)、分離し易い
特徴がある。出雲地方の山砂鉄にこれが多い。( 1メッシュ = 概1/50 インチ)
赤目砂鉄は主に閃緑岩を母岩とし、母岩中の鉄分は6〜9%と高いが、粒はやや細かく色は脈石によって赤味がかかり分離し難いという
特徴がある。赤目砂鉄は身近に存在するので古代からこの赤目砂鉄が使われていたと思う。
真砂が注目されるようになったのは出雲で本格的な永代タタラが始まった江戸中期末からである。真砂は赤目に比べて融点が高い。
鉄原料がなぜ鉄鉱石から砂鉄に替わったのか ?
一般的には砂鉄埋蔵量の多さを指摘するが、当時の人が砂鉄と鉄鉱石の埋蔵量の比率などを知る由もない。当時の鉄消費量の少なさ
からして、鉄鉱石埋蔵量の多寡などは論外の話しである。
これは多分、渡来した製鉄人の出身地、情報伝来ルートの差に基づいていたと思われる。両原料を使っているうちに情報交換がなさ
れ、砂鉄の方が採取が簡単と判ってその後に専ら砂鉄を使うようになったと思われる。
只、製鉄原料に砂鉄を使うことで、タタラ製鉄が技術革新できない原因となってしまった(後述)。
鉄 の 生 産 方 式
鉄を造るには二つの方式がある。直接方と間接法である。
大陸は紀元前二世紀の漢の時代に「溶融製錬」を完成していた。同時に「精錬」には「炒鋼法」という化学精錬法も実用化していた。欧州では、十六世紀(日本の戦国時代末期)に、木炭高炉を完成し、水車による強制送風を組み合わせて鉄の増産を行っていた。
近世までの日本のタタラ製鉄は、赤目砂鉄を使ってズク塊を造っていたのでこの範疇に入る。精錬工程で砂鉄を脱炭材に使ったと想定
されているが、詳細不明。近世の大鍛冶場と同じようなものだったのだろうか。
日本と一部の国を除き、中世の製鉄先進国はこの間接製鉄法を歩み、現代の鉄生産は全てこの方式である。
鋼一級(C=1.0〜1.5%)、鋼二級(C=0.5〜1.2%)、銑鉄(C=1.7%以上で完全熔解したもの)、大割下(鋼の下級品とほぼ同等で、
半還元鉄や木炭などが混じったもの)、大鍛冶用(C=0〜0.5%以上含有し、鋼、半還元鉄鉱滓、木炭などが混じったもの)、
黒茶に見えるものはノロや木炭カスの狭雑物。かなり多い。
日本の「タタラ製鉄ケラ押し法」がこの方法である。現代でも数カ国の未開地でこの方法が散見されている。
タタラ製鉄ケラ押し法のはしりは天文に出現した「商用タタラ」がこれに当たる。千草鋼、出羽鋼を生んだ。鋼や錬鉄を直接生成する
製鉄法である。本格的なものは江戸中期末に出現した永代タタラからである。真砂砂鉄が原料に使われた。
得られた鉄(鋼・錬鉄)の品質評価を次に述べる。
鉄 の 評 価 に 就 い て
鉄 の 成 分 々 析
鋼
材 名
|
炭
素
(C)
|
満
俺
(Mn)
|
珪
素
(Si)
|
燐
(P) |
硫
黄
(S) |
備
考 |
.日下純鉄
|
0.57
|
0.05
|
0.17
|
0.018
|
0.003
|
.満洲産鉄鉱石使用の軟鋼
|
.水素還元鉄
|
1.36
|
痕
跡
|
0.016
|
0.009
|
0.001
|
.洋鉄を水素還元した鋼(小倉陸軍造兵廠)含むCn0.02人工元素
|
.和鋼(最上鋼)
|
1.33
|
痕
跡
|
0.04
|
0.014
|
0.006
|
.伯耆国砥波たたら生産鋼
|
.造鋼(つくりはがね)
|
1.23
|
痕
跡
|
0.01
|
0.021
|
0.006
|
.伯耆国近藤家生産鋼 最上鋼(玉鋼)
|
.頃鋼(ころはがね)
|
1.84
|
痕
跡
|
0.021
|
0.021
|
0.006
|
. 〃 二級鋼
|
.南蛮鉄
|
1.44
|
0.01
|
分析せず
|
0.108
|
0.005
|
.各種ある中の瓢箪形(い)
|
直接法で得られた「和鋼」と間接法で造られた洋鉄の成分々析は上記の通り。
1.鉄を脆弱にする元素は「燐、硫黄」である。欧州は炉温が高温になった近代製鋼で、これの制御に多大な時間を要した。
和鋼の燐と硫黄の数値は決して良くない。
2.刀は比較的材質を問題にするが、小倉陸軍造兵廠の玉鋼刀と洋鋼の水素還元鉄刀の刀身強度試験で、切味以外は水素還元鉄刀
が玉鋼刀を全ての項目で圧倒した。(こちらを参照されたい)
3.単純炭素鋼の日本刀は寒冷地でガラスのように脆くなった。これを金属の「低温脆性」という。日下純鉄で造られた満鉄刀は
零下40度の極寒に耐え、そして折れ・曲がりのテストで、加州物の新々刀の五倍の強度を持っていた。(こちらを参照)
4.マンガン(Mn)は鋼に強靱性を与へ、焼入れ性を増し、ケイ素(Si)は硬さ・引張り強度(粘硬性)を増す。銅(Cu)は刀を錆び難く
する。上表の低級和鋼の珪素のみ例外であって、高級和鋼にはこれら有効な元素は殆ど含まれていない。
和鋼は清純な鋼と喧伝されるが、燐と硫黄の含有率が高く、むしろ汚い鋼である。(上表を参照)
5.南蛮鉄は燐が異常に多い。これで刀が造られた。これは使い物にならない刀だったのか ? ・・・・そんなことはない。
ここで言いたいことは、机上で僅かな元素の違いを弄んでも余り意味がない。宇宙に飛ばす宇宙船などはシビアな金属元素の
数値が追求されるが、日常生活に使われる鉄器でそんなに金属元素がシビアに要求される製品は殆どない。
和鋼の清純さのみが強調されるが、要は「実用的に使える」鋼であればどんな鋼でも構わない。
重要な事は、鋼の清純さなどではなく、「実用的に使える鉄をより大量に、より安く製造すること」である。
この観点でみると、タタラ製鉄と和鋼は果たしてどうだったのであろうか。
※ 「清純」とは何か? 科学知識の乏しい当時の人達が、「清純な鋼」など意識する筈がない。(こちらを参照)
後生の人間がタタラ製鉄と和鋼を礼讃したいが為に、願望と妄想をミックスさせて創られた評価であろう。
鐵鋼及砂鐵成分と純鐵率表
國
|
地
域
|
純鉄率
|
酸化チタン含有率 |
.満洲國 |
.奉天省本渓縣牛心臺 |
72.00%
|
ナ
シ |
.奉天省遼陽縣弓長嶺 |
69.06%
|
ナ
シ |
.北支那 |
.山東省金嶺 |
61.51%
|
ナ
シ |
.日本國 |
.島根縣仁多郡島上村 |
61.85%
|
4.42%
|
.広島縣此婆郡小奴可 |
60.42%
|
5.79%
|
(純鉄率60%を超える産地のみ抽出)
南満洲鉄道が分析した満洲及び北支産出の鉄鉱石と日本の砂鉄の鉄含有率の比較数値を上に示した。大陸の鉄鉱石は鉄の含有率が高
い(鉄鉱石として良鉱)。日本の砂鉄で鉄の含有率が60%を越す良質な砂鉄は表が示すニケ所しかなかった。
製鉄原料の鉄含有率は製鉄効率化にとって一つの重要な要素である。マンガンは鉱石の一つの指標、チタンは砂鉄の指標となる。
ただ、朝鮮半島南部の鉄鉱石は例外的にチタンを含有している為、成分々析で砂鉄と間違えられることがある。
精錬に就いて
鉄の需要は繰り返し述べるが「銑鉄80%、鋼(含む錬鉄=以下同様)20%である。世界的にこの割合はほほ共通している。
タタラ製鉄の説明は、需要の二割しかないケラ押し製鉄に偏りすぎている。
日本の山陰でも実際は「ズク押し製鉄」が経営上の柱だった。
ズク押し製鉄で重要な付帯工程に「精錬」がある。いわゆる「製鋼」の工程である。近世では「大鍛冶作業」と言われた。
大陸は紀元前に一種の化学的精錬である「炒鋼法」を開発していた。欧州はそれより2.000年遅れて日本の江戸時代後期、大陸の炒鋼
法と同じ原理のバトル法を開発した。更に日本の幕末の頃、バトル法を画期的に革新した転炉製鋼法を開発した。
これに対して、日本は終始人力精錬(大鍛冶作業)だった。作業効率を比較するには余りにも空しすぎる内容差だった。
炉材
タタラ製鉄はその火が消えるまでの1,300年以上に亘って終始粘土を材料に使った。
秀吉の朝鮮出兵後、国内で窯業が活発になった。その気にになれば煉瓦を造れる可能性はあった。
粘土炉であるが故に、一代毎に炉を破壊するという鉄の生産効率からみると、単に連続操業出来ないだけでなく、築炉に余分な時間
と多大なコストが掛かるという信じられない位の生産性の悪さだった。工業化には無縁の存在だった。
八世紀(日本の飛鳥〜奈良時代)の欧州では、既に耐火煉瓦を使っている。炉高が5メートル近くあったことは既に述べた。
燃料
大陸は紀元前二世紀の漢の時代、木炭より火力が強くて燐を含まない無煙炭を使っている。
日本のタタラ製鉄は初期には薪を使ったと思われるが、在る時期から木炭を使い始めた。この点は欧州も同じだった。
然し、欧州では膨大な木炭が消費され、森林資源の枯渇という深刻な状態に陥った。
十七世紀初め(日本の江戸開府頃)、英国では木炭を石炭に転換する研究が開始された。火力の強い石炭は鉄の生産量を増大させた。
亜熱帯の日本は木の再生に問題無しとされているが、実は永代タタラ製鉄の謳い文句である定置操業が森林破壊で揺らぎ、野タタ
ラと同様に高殿の場所を変えざるを得ないタタラ場が多く存在していた(後述)。効率的運用にも支障をきたしていたのである。
送風方式
タタラの送風は、皮フイゴ → 足踏みフイゴ → 吹指しフイゴ → 天秤フイゴと変革したが、基本的には人力送風で送風量には自
ずと限界があった。その為に炉は平面状で横に広がった。
大陸を除き、古代から中世まで、日本も英国も同じような送風方法だった。
製錬の効率化は、火力と送風に掛かっている。どの国もこれに悩み長い停滞が続いた。
欧州では、十六世紀(日本の戦国時代)になって、自然の力を利用した水車が使われるようになった。
水車という機械的送風装置と、木炭に替えて石炭という強力な熱源を使って熱風を炉内に吹き込んだ。
その熱風を効率良く使う必然として炉は縦(高さ)方向に拡大した。結果、還元距離が長くなり成果物の鉄の品質も向上した。
|
これは「木炭高炉法」と呼ばれ、銑鉄(せんてつ=ズクテツ)と錬鉄(れんてつ)を抽出できる本格的な製錬法だった。
ところが、大量の木炭を作るのに深刻な森林破壊という状況に陥った。そこで燃料を石炭に変更した。
火力は強くなったものの、思いがけない事態が起きた。
石炭の燐が高温の為に鉄に混入して鉄を脆くしてしまったのである。
兵器製造で興隆した南部イギリスの製造業は深刻な打撃を受け、必死に解決策を模索することになった。
石炭を高温乾留(かんりゅう=むしやき)してコークスにすることで、1709年に高炉の操業に漸く成功した。
近代製鉄法の完成だった。(こちら参照)
|
英国のコークス高炉と日本の永代タタラの生産効率には格段の差がついてしまった。
これは製錬に止まらず、精錬(日本では大鍛冶作業)についても圧倒的な差となった。
炉容積
製錬の効率化には炉の容積を増やすことも重要である。欧州は縦方向に容積を拡大した。
日本では、砂鉄と木炭の装入を簡単にするために作業員の背丈に合わせて炉高が制限された。
それでは平面積を無制限に伸ばせるかというとそうはいかなかった。
一つには、材料の装入と火力・送風の制御は「村下」 の人力による。制御できる炉の容量には自ずと制限があった。
もっと基本的な制限は、天秤フイゴの風力に原因する。(※ 村下=タタラ製鉄の指揮・制御の責任者)
特に、平面の拡大は送風量の弱さから、永代タタラ炉の最終寸法が人力と送風の両者で制御可能な炉容量の限界だった。
生産量を増やすには、タタラ場を増やす以外に方法が無かった。
タタラ場は高殿、大鍛冶場、諸材料の貯蔵庫、炭焼き小屋、作業員の宿舎など小さな村を造るようなものである。
その人員の確保、砂鉄や木炭などの流通の確保を含めて簡単に設置できるものではなかった。
人力作業
村下は、炉内燃焼の炎の色を見て作業の判断をしていた。将に神業に近い技能を持った職人だった。
製鉄はこうした彼等の経験と勘に全てを頼っていた。そのベテランの村下でも失敗することがあった。人の技能(技術ではない)に
しか頼れない製鉄法は不安定要素を残し、何よりも横の広がりが簡単ではない。
製鉄の要件は「鉄を大量に安定的に造る事。そして品質の良い鉄を安価に造る」ことである。その為には、人力に頼るだけではなく、
そこそこの人でも鉄が造れるような「製錬装置」の開発も必要だった。いわゆる工業化である。
タタラ製鉄は甚だしく工業化に向かない製鉄法であった。
2
中 世 タ タ ラ 製 鉄 の 衰 退
六世紀に始まった国産製鉄(タタラ製鉄)は、七世紀の白村江の戦いで朝鮮半島の鉄利権を失って以降、全国的に広まって行った。
然し、国産製鉄の遺跡数は平安中期から江戸開府前にかけて急激に減少した。中世タタラ製鉄の衰退を著している。
島根県古代文化センター研究論集第24集製鉄炉数の変遷(東山信治2020)
日本列島縦配置の原画を横配置に変更、時代の炉総数、年代横軸は筆者の加筆に依る
6〜11世紀(製鉄の開始〜平安時代初期まで)の地域別遺跡数
陸奥(378)、吉備(191)、筑前(119)、武蔵(80)、出羽(74)、上野(58)、越後(39)、美作(39)、備前(31)、下総(30)、近江(28)、
備後(21)、甲斐(20)、上総(20)、上総(20)、越中(18)、丹後(18)、播磨(17)、常陸(7)、加賀(7)、能登(5)、伊豆(5)、出雲(4)、
伯耆(4)、尾張(2)、豊前(2)、越前(1)、石見(1)、伊予(1)、肥後(1)
11〜13世紀(平安時代中期〜鎌倉時代末期)の地域別遺跡数
陸奥(94)、肥後(21)、武蔵(18)、伊豆(18)、出羽(15)、播磨(12)、出雲(12)、上野(11)、越後(9)、越中(7)、備中
(6)、能登(5)、
安芸(5)、肥前(5)、信濃(4)、豊後(4)、加賀(3)、石見(3)、豊前(3)、常陸(2)、越前(2)、筑前(2)、
伯耆(1)、備後(1)、日向(1)、
14〜17世紀初頭(鎌倉時代末期〜江戸時代初)の地域別遺跡数
陸奥(40)、出雲(32)、播磨(11)、出羽(9)、石見(9)、備中(7)、安芸(7)、薩摩(7)、肥前(3)、美作(3)、伯耆(3)、信濃(2)、
筑前(2)、大隅(2)、備後(1)、豊後(1)
※ 出雲、播磨、石見の遺跡数には天文年間(1532〜1555年)に出現したケラ押し製鉄炉が加わっている
上図、地域別の遺跡数を見ると関東以北の遺跡数が圧倒的に多いが、どの地域をとっても平安時代中期以降から江戸開府時迄に製鉄
遺跡は平均的に最盛期の1/10に減少している。平安末期から江戸初期の天草の乱まで大乱は断続的に続いた。国内騒乱に加えて二度
の元寇、豊臣秀吉の朝鮮出兵もあった。戦国時代には鉄を大量消費する火縄銃や大筒まで登場した。この旺盛な鉄の需要に国産鉄の
生産は逆に減少していた。
このギャップを埋める答えは舶載鉄の流入に求める他はない。平安末期には日宋貿易が最盛期を迎え、元の時代にも貿易は続いた。
明の時代になって細々とした勘合貿易以外の民間貿易は途絶えたが、密貿易と倭寇の跳梁で鉄素材は確保された。その証に全国から
多数の棒状鉄素材が出土している※1。この棒状鉄素材は宋、元、明からの舶載品と見られている※2。
※1 (こちらを参照のこと) ※2 (こちらを参照のこと)
3
タ タ ラ 製 鉄 の 復 興 と 生 産 拠 点 の 集 中
中世タタラが衰退している天文時代に、山陽道の播磨、山陰道の出雲、石見で新たなケラ押し製鉄が始まった。
この約160年後に、中国地方、就中、山陰地方で広大な山林を保有する資本家が製鉄業に進出した。タタラ一代の操業に炭約15t前後、
森林面積にして1.5ha分の材木の伐採が必要だった。従って、たたら経営には膨大な森林の所有が条件でもあった。
中国山地でタタラ製鉄が盛んになったのは、これらの条件を満たす地域であったからである。
また、タタラ製鉄は、砂鉄や木炭の輸送、製品の輸送、労働者の食糧輸送など多数の輸送労働力を必要とし、周辺の農家が副業として
取り組んだり、需要を賄うために多くの労働者を集めなければならなかった。
全国に散在していた中小のタタラ場はそれに耐えきれずに淘汰され、全国への鉄供給の80〜90%を中国地方が担うことになった。
|
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←寛政三年〜文化四年の16年間で定位置に
在ったタタラ場は19ヶ所しかなかった。
あとのタタラ場は野タタラのように場所を
変えていた。永代タタラは定まった場所で
稼業していた訳ではなかった。
|
た た ら 製 鉄 の 数
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江戸末期の寛政三年(1791年)と文化四年(1807年)の金屋子神社の寄進帳に中国地
方のタタラ場の数が記載されていた。
寛政三年のタタラ場は分類不能を含めて110ヶ所、文化四年のタタラ場は126ヶ所
在った。16年間で15ヶ所増えている。
この時の製鉄の稼業国は、伯耆・出雲・石見・安芸・備後・備中・美作・播磨の
8ヵ国である。但し、18〜19 世紀には但馬国や因幡国、長門国においてもタタ
ラ製鉄が稼業されたので、中国地方におけるタタラ製鉄の稼業国は11ヵ国となる。
ところが興味ある実態が明らかになった。
寛政三年と文化四年の16年間に於いて同一地点に同じ名称のタタラが確認できる
のは、石見国に 12ヵ所、出雲国に6ヵ所、安芸国と美作国に1ヵ所ずつの計19ヵ所
に限られていた。このタタラ場の多くは製品の搬出、砂鉄や木炭の搬入の便を考
えて河川の流域に設置されていて、周囲の砂鉄や木材を取り尽くしても外の地域
から船や牛馬を使って切目なく材料の仕入れができた恵まれた環境にあった。
山間部のタタラ場もかなり存在し、輸送手段の恩恵を受ける立地条件になかった。
両年の「勧進帳」に記載されているタタラ場の実数は計188ヵ所であるから、当時
のタタラ場の多くは短い年数で頻繁に移動していたことになる。
この理由は以下の事が考えられる。
輸送コストとの関連から「砂鉄八里に炭三里」という原則がある。
一代の操業で炭約 15t前後、森林面積にして1.5ha分の材木を使った。
輸送手段の恩恵に無縁な山間部のタタラ場は、12km圏内の木を切りつくすと、木
炭用の広葉樹が再生するまで操業を休止するか、他の土地へ移転して操業するし
かなかった。或は、30年ほど経過して炭木が育つのを待って再開するという方法
で事業の継続をしていたかも知れない。
← 鉄の道文化圏推進協議会編(2004) |
自然災害と鉄穴流し公害訴訟事件の頻発
|
← 大雨による山崩れと
河川の氾濫
鉄穴流しの公害と
訴訟事件の頻発 → |
|
タタラ場の自然災害や鉄穴流(かんななが)し公害訴訟による操業停止とタタラ場の移転があった。
河川の沿岸に立地していたタタラ場は、河川の氾濫によって屡々水害に見舞われていた。今日のように治山治水が発達している時代
ではない。少しの大雨でもタタラ場が水害で壊滅し、廃業するか他の場所に新たにタタラ場を造り直さなければならなかった。
山間部のタタラ場も雨による山崩れに遭えば同じことだった。
新たにタタラ場を設置するには小さな村を造るようなもので簡単でないことは先述した。
自然災害は致し方ないとしても、自ら起こした公害がある。
砂鉄を効率良く採取する手段として「鉄穴流し」が評価されているが、その濁水と土砂の周囲への拡散が深刻な社会問題となって
いた。鉄穴流しの川に近い住民に取って、この公害は生活を脅かす由々しき問題であった為、訴訟が相次いで起こされた。
この訴訟は中途半端な数ではなかった。
被害者住民と和解できてもその出費は鉄山にとってかなりの痛手だった。それでも同じ場所で従来通り砂鉄流しができれば良いが、
和解したとしても鉄穴流しの場所を移動しなければならないことが多かった。
まして、和解出来ない場合は住民が所属する各々の藩が調停に乗り出してきて、鉄穴流しの停止やタタラ操業の停止を言い渡す判例
もあった。
こうした自然災害と、鉄穴流しの公害問題が、山林の枯渇と複合してタタラ場の場所を変えざるを得なかった理由である。
永代高殿タタラは一ヶ所に固定されているというイメージが強いが、多くのタタラ場は野タタラのように場所を変えていた。
これ等のタタラ場の操業は不安定であり、鉄の生産量にもバラつきがあった。
タタラ製鉄を語る場合は、この負の部分に目を閉じてはならないと思う。
4
た た ら 製 鉄 と は 何 か
世の中には「たたら製鉄」賛歌の声が溢れている。「我が国独特の製鉄法」、「直接に鋼を創る素晴らしい製鉄法」・・・・等の声
が踊っている。言うまでもなく、製鉄は国家や社会の根底を支える鉄素材を造るものであって、鉄造りは趣味の世界ではない。
製鉄の要点は「大量生産、良質の鉄をより安く」である。換言すれば、鉄の生産効率を如何に上げるかが製鉄法の評価基準である。
製鉄に携わる人たちは等しく古代からこのテーマに取り組んできた。
この観点で「たたら製鉄」が世界の中でどのような位置づけにあるのかを概観してみたい。
ただ、タタラ炉の遺跡の発掘はかなりの数に上るが、古代の法面を掘って造られた炉以外は炉が破壊されているので炉高が判らない。炉底平面から容積を推測する以外に生産量を知る方法がない。その上、古代から江戸の永代タタラの出現まで、タタラ製鉄に関する
基礎資料が皆無である。かろうじて分かっているのは江戸中期に出現した永代タタラのみである。
幸いなことに(?)、少なくとも中世タタラから、その最終型である永代タタラまで、炉の容積とフイゴの方法が変わっただけで、砂鉄
原料、木炭燃料、粘土炉は何も変わっていなかった。
そこで欧州の代表として英国を取り上げ、生産効率の比較をしてみる。
大陸の製鉄は中世のある時期まで抜きん出ていたので例外とした。(これについてはこちらの各章を参照されたい)
以下に、日本と英国の中世以降の製鉄技術と生産量の比較を示す。
鉄市場の鋼対銑鉄の比率は二割対八割である。そこで石見国価谷(あたいだに)タタラ(1898年)のズク押しを例に生産量を割り出した。鋼が0.33トン、ズクが4.5トンの合計4.83トンである。狭雑物が多く混在するので1/2の2.4トンを有効量と仮定した。
ズク押しは四昼夜必要だから一日当たり0.8トンの生産量となる(実際は、築炉や片付けが必要なので一代を最低七日とみなければならない。そうだとすると、日産は0.7トンとなる)。
タタラ炉 VS 西洋高炉
※ 後期永代タタラの例、前期永代タタラはこの約1/3
一代(ひとよ=一操業)毎に炉を破壊するタタラ製鉄と、連続操業が可能な洋式高炉の年間生産量との差は日産比較より更に拡大する。
日本の製錬と西洋の製錬との基本的な違いは鉄原料、燃料、炉材、送風方式に起因していた。
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た た ら 製 鉄 の 実 態
と 限 界
たたら製錬には、「古代から幕末の長きに亘ってタタラ製鉄の技術革新が何故実現できなかったのか ? 」との疑問があった。
前記したタタラ製錬の特徴(特長ではない)を再度整理して、たたら製鉄の限界を纏めてみる。
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@埋蔵量、採取の簡便さで鉄鉱石から「砂鉄原料」に転換し、最後まで砂鉄に固執した事
側面から送る風圧に限界がある。強い風を送れば砂鉄が吹き飛ばされて炉に入らない。
A 燃料に「木炭」を使った事
木炭は火力が弱く、還元が不十分となる恐れが終始つきまとった。
B 終始人力フイゴで送風力が弱かった事
炉容積を増やすのに限界があった。AとCとも相関する。
C 炉高が低かった事。
還元距離が短かい事で還元不良の事故が発生することがあった。「牛の背」が失敗例。
D 粘土炉であった事
一代毎に炉を壊す「生産性がきわめて悪い」製鉄法だった。
E 全てが「村下」の職人芸(経験と勘)に頼る不確かな人力作業だった事。
神業的村下の技能には敬意を払うが、この方法での工業化は不可能だった。
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結果として挟雑物を多く含む品質が悪いヒ塊ができた。
高温の溶融製錬であれば、鉄が一旦「湯」になるので、その段階で挟雑物が簡単に除去できた。
タタラ製鉄は、世界にみる製鉄初期の原始的塊鉄炉の延長線上の域を脱していなかった。
砂鉄原料と木炭、粘土炉、人力制御など、古代からの方式を惰性のまま延々と引き継ぐだけでは製錬の改革は不可能である。
1,300年の長きに亘ってタタラ製鉄の技術革新ができなかった第一の原因はここにあった。
国内の鉄需要が国産鉄で全て賄われていれば、生産効率が悪くても、価格が高くても「鉄山」は平然としておれたことだろう。
然し、少なくとも江戸中期末(幕末の膨張する鉄需要は後述)まで、国内の鉄需要は国産鉄だけで賄えていなかった。
※「鉄山」= タタラ製鉄の経営事業主
鉄山は、タタラ製鉄の作業効率の悪さを全く認識しなかったのだろうか。平安中期から、日本は大陸との貿易を盛んに行い、僧侶達
も多数が彼の国を訪れた。製鉄の情報は一切入いらなかったということか。
戦国時代が終わる30年前から「南蛮鉄」が流入した。徳川開府後迄の90年間も続き日本刀にも使われた。(※ 南蛮鉄はこちらを参照)
室町時代末期、明の宋應星の技術書「天工開物」(溶融製錬と原料採取の方法が載っている)が日本に流入していた。
江戸期に入って、藩医で儒学者の貝原益軒もこれを和訳して紹介している。
鉄山からすれば、舶載鉄は競争相手である。こうした情報は必ず鉄山に伝わる筈ではなかろうか。
鎖国をした徳川にも進取の気風に富んだ八代将軍吉宗(1716年〜)がいた。吉宗は進んだ西洋の知識を導入する為に1720年、実学振興
のために「洋書解禁」を行なった。様々な分野の知識人達が胸を膨らませて蘭学を勉強し、色々な翻訳書をまとめた。
固定式の高殿タタラが出現したのは十七世紀後半(江戸期中葉)と言われ、移動式タタラに代わって全天候型タタラとなった。
この時期、大きなヒ塊を破断する方法が無かった為に、一代の生産量は商用タタラと同じ位の量だったと思われる。
十七世紀末の元禄四年(1691年=江戸中期)に天秤鞴(ふいご)が考案され、タタラ炉の大型化が可能になった。
然し、大型炉で通年稼働が出来るようになるのは、半世紀余り遅れて十八世紀中頃(1750年頃=江戸中期末)に大きなヒ塊を破断する
大ドウ(金遍に胴)が開発されてからである。
貝原益軒が明の技術書を世に紹介して100年後のことだった。「天工開物」の情報は結局生かされなかった。
ようやく出現した大規模「永代たたら」も、原始たたら炉の容積を物理的に大きくしたに過ぎず、革新的な製鉄法ではなかった。
これに就いて、「日本人は解らないこと、面倒くさい事には目を逸(そ)らして知らないふりをするか無視する傾向にある」と評論
した著名人がいる。これは如何かと思われる。
製鉄の技術革新が出来なかったのは、我が国の民力度・技術力が低かったからとでも言うのであろうか・・・?
我が国は、政治、社会、宗教、思想、文化(書画・工芸など)、言語などの全ゆる分野の情報を大陸から吸収してきた。
これら移入されたものは我が国の風土に合わせて練り上げられ、大半は発信国のそれよりも高い次元に昇華させた。
基本となる言語すら、漢字の母国が逆に日本の漢字を見直すという現象まで起きるような状態だ。
技能・技術の勃興と発展は、自然に生まれるものではない。必ず社会・国家の要求が契機となって興(おこ)るものである。
我が民族は必要とあらば巨大鋳造仏(大仏)を造立し、大仏殿・出雲の空中神殿等、世界最大の木造建築物を造った実績を持つ。
火薬も鉄砲も知らなかった時代、移入された火縄銃を元に創意工夫して大量の火縄銃を造った。
母国のポルトガルは言うに及ばず、当時、世界最大の鉄砲保有国となった。
6
幕 末 の 製 鉄 改 革
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江戸末期、アヘン戦争(1840〜1842年)の情報が日本に伝わり、国防と近代兵器の整備は外圧に屈しな
い為の喫緊(きっきん)の課題となった。藩は兵器の整備を急ぎ、特に大砲の製造に力を入れた。
大砲製造には膨大な銑鉄が必要だった。24ポンドのカノン砲で約2.7トン/1門の鋳鉄を必要とした。
幕末は鉄需要の急増期だった。然し、砂鉄原料の「和銑」は脆くて流動性が無く、鍋島藩で造った十
六門の大砲はことごとく破裂して使いものにならなかった。
鍋島藩は安政五年十月(1858年)、オランダから購入した軍艦電流丸(排水量300トン)を日本に回送す
る時、バラストとしての名目で数百トンの銑鉄を輸入した。
大砲の為だけの輸入ではなかったが、この洋銑を使って漸く大砲の製造に成功した。
幕末、西洋の科学知識を学んでいた南部藩の大島高任(たかとう)は佐久間象山にあてた書簡で「砂鉄
から生成した生鉄 (銑鉄)は脆弱で使えない。どうしても磁石又は岩鉄という鉄鉱から製錬した銑鉄
でなければ鋳鉄砲は出来ない」と述べている。
大島は製錬用の「洋式高炉」の必要性を強力に訴え、自らも高炉の建設に着手した。
全くの未知の分野でありながら、安政四(1857)年、釜石に「大橋一号高炉」(洋式高炉)を完成させ
た。これに先立ち、開国と洋学振興を唱えていた薩摩の島津斉彬は「洋式高炉」を既に造っていた。
海防用の大砲の鋳造と量産が急がれ、銑鉄を鋳造するための「反射炉」が、鍋島藩、薩摩藩、伊豆の
韮山(にらやま)、水戸藩那珂湊、鳥取の六尾、長州の萩、田布施、岡山の大多羅・・・・など各地に
築造された。(写真左は反射炉の銑で鋳造された鍋島藩のカノン砲)
※ 鉄作りには二段階がある: 砂鉄や鉱石からヒ塊を造るのが高炉。ヒ塊から錬鉄、鋼を造るのが反射炉
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高炉建設には耐熱煉瓦が必須である。彼等は耐熱煉瓦も開発した。驚く程短時間に実現された近代化の波だった。
技術の習得と革新は、国家・社会の要請が最大の動機づけであると共に、未知の分野であっても挑戦する意思さえあれば実現できるということを如実に示していた。
タタラ製鉄のみが独り取り残されていた。
徳川の鎖国令の後も、オランダは長崎に商館を設け、各雄藩は独自に貿易を続けていた。
大量生産の永代タタラが出現して、国内の鉄市場は国産鉄だけで賄われていたという論調が多いが、若しそうであれば、幕末の急激に膨張する鉄需要に対応する為、国家や社会は鉄山に対して切実な要請を当然した筈であろう。
一方では、各藩が洋式製錬・精錬にチャレンジしていた。それにも拘わらず、鉄山は大正の末まで製錬方式を変えることはなかった。鉄市場の拡大や新分野の需要は舶載鉄で賄われていたが故に、改革の要請は鉄山には届かなかったと見るのが妥当であろう。
鉄山にすれば、製鉄の革新など思いもよらなかったに相違ない。これがタタラ製錬の技術革新が進まなかった第二の理由である。
唯我独尊の途を歩いたタタラ製鉄は、幕末の国防という国の一大事に何等貢献することができなかった。
中世から多量に流入していた舶載鉄は、日本のタタラ製鉄の革新を結果として阻害したと言えなくもない。
明治に入って間もなく、3,000トンの洋鉄が輸入された。価格は国産鉄の1/4だった。
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鉄山は急激な販売不振に陥り、倒産する鉄山が出始めた。この時、初めて社会
のニーズに気が付いた。
鉄山は必死の生き残りをかけて市場の開拓を行った。
新生・大日本帝国は、外国諸列強の植民地にならない為に「富国強兵」が国是
となった。良質の軍用鉄が大量に求められた。
明治の中期、鋼材商は陸・海軍工廠の坩堝鋼(るつぼこう)の材料にタタラ鉄下級
品の頃鋼(ころはがね)の売り込みに成功した。
兵器用に溶解精練するので極上の造鋼(つくりはがね)は必要ないとされた。
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頃鋼を原料とした坩堝鋼が極めて優秀だった事から上等の鋼を「玉鋼(たまはがね)」と呼ぶようになった。「玉」と「砲弾=たま」を
掛けたという説もある。
軍用鉄の大量需要に、鉄山はやっと息をつき、これで漸く間接的にではあるが国家のニーズに応えることができた。
本節は、製鉄が具備すべき「安価な鉄を大量生産する」という大原則の観点でタタラ製鉄の実態とその限界を述べた。
尚、製鉄及び鉄に関しては本サイトの別の章で様々に触れていますので、「 日本刀考目次」からご参照願いたい。
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