異説・たたら製鉄と日本刀 (7)00 |
中世〜近世まで |
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欧州では縦形の塊鉄炉((bloomery)が出現した。この炉は酸化鉄から鉄を製錬するのに広く使用され た炉の型式であり、鉄を造ることができる最も初期の製錬装置であった。 塊鉄炉の生産物は鉄とスラッグの多孔性の塊で、塊鉄(bloom = 日本では海綿鉄)と呼ばれている。 八〜九世紀になると炉の高さが約4.9mにもなっていた。炉高を高くする程還元距離が長くなり、製錬 効率が良くなるからであった。欧州では炉が徐々に高くなって行く方向に進んだ。 日本の製鉄起源は未だ定かではない。 遺跡の確認によって、六世紀末に西日本の箱形炉による鉄鉱石製錬から始まったとされている。 湖沼鉄(褐鉄鉱)を使った可能性もあるのでもっと遡る可能性もある。これは別章で述べた。 日本で上部がすぼまった半地下式竪形炉が出現したのは奈良時代に入ってからである。一時期広く使 われたが、やがて箱形炉に全て置き換わった。 ![]() |
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↑ 古代の炉形分布図 古墳時代末〜平安時代中期末までの 始発鉄原料と炉形の分布表 → 遺跡名: 青字= 箱形炉、赤字=竪形炉 ●=鉄鉱石 関清氏が一部修正したものを借用し、左の年代は筆者が加筆した→ |
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鉄鉱石には大別して以下の三種がある。 赤鉄鉱 (Fe2O3)、磁鉄鉱 (Fe3O4)、褐鉄鉱 (Fe2O3?nH2O)。鉄分含有量40〜50%以上が必要とされる。 たたら製鉄初期に使われたのは、成分々析から磁鉄鉱とされているが、赤鉄鉱に比べて還元温度が高いと 思われるので不思議である。九州、山陽道の安芸や備前、近江などのタタラ場で使われていた。 意外と知られて居ないのが美濃である。美濃の赤坂には赤鉄鉱が多く産出した。「赤坂」の地名はこれに 由来する。この赤鉄鉱は鉄の含有率が50%を超える高品質な鉱石だった。美濃鍛冶はこの鉄から刀を造って いたが、ある時期から作刀場所を移動した為に忘れ去られてしまった。 砂鉄は大別して真砂と赤目砂鉄に別れる。 鉄鉱物の供給源はおもに花崗(かこう)岩や安山岩などの火成岩類である。火成岩中に1〜2%含まれている 鉄鉱物が、岩石の風化によって分離し、現地で堆積するか、もしくは河川などによって運ばれ集積したも のである。前者を山砂鉄、後者を集積した場所によって川砂鉄、浜砂鉄と呼ぶ。 |
鋼
材 名 |
炭
素 (C) |
満
俺 (Mn) |
珪
素 (Si) |
燐 (P) |
硫
黄 (S) |
備 考 |
.日下純鉄 |
0.57 |
0.05 |
0.17 |
0.018 |
0.003 |
.満洲産鉄鉱石使用の軟鋼 |
.水素還元鉄 |
1.36 |
痕
跡 |
0.016 |
0.009 |
0.001 |
.洋鉄を水素還元した鋼(小倉陸軍造兵廠)含むCn0.02人工元素 |
.和鋼(最上鋼) |
1.33 |
痕
跡 |
0.04 |
0.014 |
0.006 |
.伯耆国砥波たたら生産鋼 |
.造鋼(つくりはがね) |
1.23 |
痕
跡 |
0.01 |
0.021 |
0.006 |
.伯耆国近藤家生産鋼 最上鋼(玉鋼) |
.頃鋼(ころはがね) |
1.84 |
痕
跡 |
0.021 |
0.021 |
0.006 |
. 〃 二級鋼 |
.南蛮鉄 |
1.44 |
0.01 |
分析せず |
0.108 |
0.005 |
.各種ある中の瓢箪形(い) |
國 | 地
域 |
純鉄率 |
酸化チタン含有率 |
.満洲國 | .奉天省本渓縣牛心臺 | 72.00% | ナ シ |
.奉天省遼陽縣弓長嶺 | 69.06% | ナ シ | |
.北支那 | .山東省金嶺 | 61.51% | ナ シ |
.日本國 | .島根縣仁多郡島上村 | 61.85% | 4.42% |
.広島縣此婆郡小奴可 | 60.42% | 5.79% |
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これは「木炭高炉法」と呼ばれ、銑鉄(せんてつ=ズクテツ)と錬鉄(れんてつ)を抽出できる本格的な製錬法だった。 ところが、大量の木炭を作るのに深刻な森林破壊という状況に陥った。そこで燃料を石炭に変更した。 火力は強くなったものの、思いがけない事態が起きた。 石炭の燐が高温の為に鉄に混入して鉄を脆くしてしまったのである。 兵器製造で興隆した南部イギリスの製造業は深刻な打撃を受け、必死に解決策を模索することになった。 石炭を高温乾留(かんりゅう=むしやき)してコークスにすることで、1709年に高炉の操業に漸く成功した。 近代製鉄法の完成だった。(こちら参照) |
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←寛政三年〜文化四年の16年間で定位置に 在ったタタラ場は19ヶ所しかなかった。 あとのタタラ場は野タタラのように場所を 変えていた。永代タタラは定まった場所で 稼業していた訳ではなかった。 |
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江戸末期の寛政三年(1791年)と文化四年(1807年)の金屋子神社の寄進帳に中国地 方のタタラ場の数が記載されていた。 寛政三年のタタラ場は分類不能を含めて110ヶ所、文化四年のタタラ場は126ヶ所 在った。16年間で15ヶ所増えている。 この時の製鉄の稼業国は、伯耆・出雲・石見・安芸・備後・備中・美作・播磨の8 ヵ国である。但し、18〜19 世紀には但馬国や因幡国、長門国においてもタタラ製 鉄が稼業されたので、中国地方におけるタタラ製鉄の稼業国は11ヵ国となる。 ところが興味ある実態が明らかになった。 寛政三年と文化四年の16年間に於いて同一地点に同じ名称のタタラが確認できるの は、石見国に 12ヵ所、出雲国に6ヵ所、安芸国と美作国に1ヵ所ずつの計19ヵ所に 限られていた。このタタラ場の多くは製品の搬出、砂鉄や木炭の搬入の便を考えて 河川の流域に設置されていて、周囲の砂鉄や木材を取り尽くしても外の地域から船 や牛馬を使って切目なく材料の仕入れができた恵まれた環境にあった。 山間部のタタラ場もかなり存在し、輸送手段の恩恵を受ける立地条件になかった。 両年の「勧進帳」に記載されているタタラ場の実数は計188ヵ所であるから、当時 のタタラ場の多くは短い年数で頻繁に移動していたことになる。 この理由は以下の事が考えられる。 輸送コストとの関連から「砂鉄八里に炭三里」という原則がある。 一代の操業で炭約 15t前後、森林面積にして1.5ha分の材木を使った。 輸送手段の恩恵に無縁な山間部のタタラ場は、12km圏内の木を切りつくすと、木炭 用の広葉樹が再生するまで操業を休止するか、他の土地へ移転して操業するしかな かった。或は、30年ほど経過して炭木が育つのを待って再開するという方法で事業 の継続をしていたかも知れない。 ← 鉄の道文化圏推進協議会編(2004) |
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← 大雨による山崩れと 河川の氾濫 鉄穴流しの公害と 訴訟事件の頻発 → |
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@埋蔵量、採取の簡便さで鉄鉱石から「砂鉄原料」に転換し、最後まで砂鉄に固執した事 側面から送る風圧に限界がある。強い風を送れば砂鉄が吹き飛ばされて炉に入らない。 A 燃料に「木炭」を使った事 木炭は火力が弱く、還元が不十分となる恐れが終始つきまとった。 B 終始人力フイゴで送風力が弱かった事 炉容積を増やすのに限界があった。AとCとも相関する。 C 炉高が低かった事。 還元距離が短かい事で還元不良の事故が発生することがあった。「牛の背」が失敗例。 D 粘土炉であった事 一代毎に炉を壊す「生産性がきわめて悪い」製鉄法だった。 E 全てが「村下」の職人芸(経験と勘)に頼る不確かな人力作業だった事。 神業的村下の技能には敬意を払うが、この方法での工業化は不可能だった。 |
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江戸末期、アヘン戦争(1840〜1842年)の情報が日本に伝わり、国防と近代兵器の整備は外圧に屈しな い 為の喫緊(きっきん)の課題となった。藩は兵器の整備を急ぎ、特に大砲の製造に力を入れた。 大砲製造には膨大な銑鉄が必要だった。24ポンドのカノン砲で約2.7トン/1門の鋳鉄を必要とした。 幕末は鉄需要の急増期だった。然し、砂鉄原料の「和銑」は脆くて流動性が無く、鍋島藩で造った十六 門の大砲はことごとく破裂して使いものにならなかった。 鍋島藩は安政五年十月(1858年)、オランダから購入した軍艦電流丸(排水量300トン)を日本に回送する 時、バラストとしての名目で数百トンの銑鉄を輸入した。 大砲の為だけの輸入ではなかったが、この洋銑を使って漸く大砲の製造に成功した。 幕末、西洋の科学知識を学んでいた南部藩の大島高任(たかとう)は佐久間象山にあてた書簡で「砂鉄から 生成した生鉄 (銑鉄)は脆弱で使えない。どうしても磁石又は岩鉄という鉄鉱から製錬した銑鉄でなけれ ば鋳鉄砲は出来ない」と述べている。 大島は製錬用の「洋式高炉」の必要性を強力に訴え、自らも高炉の建設に着手した。 全くの未知の分野でありながら、安政四(1857)年、釜石に「大橋一号高炉」(洋式高炉)を完成させた。 これに先立ち、開国と洋学振興を唱えていた薩摩の島津斉彬は「洋式高炉」を既に造っていた。 海防用の大砲の鋳造と量産が急がれ、銑鉄を鋳造するための「反射炉」が、鍋島藩、薩摩藩、伊豆の韮 山(にらやま)、水戸藩那珂湊、鳥取の六尾、長州の萩、田布施、岡山の大多羅・・・・など各地に築造さ れた。(写真左は反射炉の銑で鋳造された鍋島藩のカノン砲) ※ 鉄作りには二段階がある: 砂鉄や鉱石からヒ塊を造るのが高炉。ヒ塊から錬鉄、鋼を造るのが反射炉 |
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鉄山は急激な販売不振に陥り、倒産する鉄山が出始めた。この時、初めて社会 のニーズに気が付いた。 鉄山は必死の生き残りをかけて市場の開拓を行った。 新生・大日本帝国は、外国諸列強の植民地にならない為に「富国強兵」が国是 となった。良質の軍用鉄が大量に求められた。 明治の中期、鋼材商は陸・海軍工廠の坩堝鋼(るつぼこう)の材料にタタラ鉄下級 品の頃鋼(ころはがね)の売り込みに成功した。 兵器用に溶解精練するので極上の造鋼(つくりはがね)は必要ないとされた。 |
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