日本刀の考察 5

南 蛮 鉄・洋 鉄 考

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水 心 子 正 秀 と 南 蛮 鉄


 水心子正秀は、新々刀(江戸後期〜明治廃刀令)の開祖として、刀剣理論と実践、門人育成に卓越
 した刀工。
 江戸泰平の世で、衰退しつつあった日本刀に大きな影響を与えたことで知られる。
 華美を戒め、実用刀を重視して古刀(特に鎌倉刀)への回帰を提唱した。

 新刀の名工は大坂新刀の「津田越前守助廣」とされ、彼の涛瀾刃(とうらんば)が盛んに写された。
 助廣の涛瀾刃は打ち寄せては引く大波の状況を表した大胆な刃文で、この美しい刃文を焼くのは大
 変難しく、現在でもその鍛造方法は南蛮鉄説など多数の説があって、確固たる結論を見るに至って
 いないという。
 水心子正秀もこの涛乱刃を非常に上手に焼いていたが、ある時を境にぱったりとその作風を取りやめた。
 それは何故なのか? 
 通常は古刀回帰(復古刀)をその理由として挙げるが、人間国宝の隅谷正峯刀匠は材料面からのこの変節を考察している。
 隅谷刀匠は、正秀は涛乱刃の鍛造に南蛮鉄を使用したという見解を示し、その根拠として、正秀自身が書いた「剣工秘伝志」に南
蛮鉄の不足を記した箇所1があることを挙げている。
 南蛮鉄とは、室町末期、鉄砲・刀の鉄の大量需要に伴いポルトガル貿易2で輸入した舶載鉄。

           ※1 文政四年1821著述、「しかるにこの品近来は渡らざる故、若き輩にはついに見る事も無きようになるべし」とある
           ※2 この船を南蛮船と呼んだ。これで輸入された各種の鉄を南蛮鉄と総称したようである。従って、鉄の産出国は複数ある


 寛永十年(1633)の鎖国令によってポルトガル人などの来航が禁止されるまで、輸入は
 90年間続いたというが、鎖国令以降は国内在庫の南蛮鉄を消費し続ける事になる。

 隅谷刀匠は、正秀の作風変化は、南蛮鉄が不足した為に涛乱刃の華やかな作品が出来
 なくなって作風を変えざるを得なかったという見解である。非常に興味深い説である。
 南蛮鉄は焼き入れの際、熱に対する感度が鈍いと云われ、大きく乱れる刃文を焼くには適さないと考えられていた。
 涛瀾刃は大乱れの刃文であるが、南蛮鉄を使用した時に特別の手法を用いたものと思われる。
 この隅谷刀匠の見解が正しいとすれば、従来の常識が的外れということになる。
 人間国宝の隅谷刀匠は職人としての見識から述べられた訳で、刀匠から見ると、鋼材や作刀法など的外れの「常識」が結構あった
のではなかろうか。その意味は重い。
(大野正著「日本刀職人職談」より)

   参考: 水心子正秀著「鍛錬秘録」より
     ・・・ 異國の鐵も、製法に依りて皆同様なること。
     一、南蛮鐵、露西亜鐵、和蘭鐵は、各其の産する処異れりと雖、卸して用ゐるときは、我國出羽、千草の鐵と同様なるも
       のなり。但南蛮鉄には銅氣多し。予考ふるに、之は鐵に銅を加へて吹きたるものなり3
       外科道具、時計錫鐵の鐵より強し、故に南蛮鉄は少し宛赤めて打ち延ばし用ふるなり・・・・略・・・。
       一説には和蘭にては、竹の炭にて鐵を沸す共云へり。又焼刃を渡すに、油の中へ入るゝと云ふこともあり、余は未だ
       試ず・・・・・略。
     一、南蛮鐵に瓢箪形、木葉形、短冊形、等品々あり・・・・・・・・・略。

 水心子正秀は南蛮鉄を積極的に使い、特別の工夫をしていた。玉鋼と渡来鉄の差別意識は全く無かった事を窺(うかが)わせる内容で
ある。

   ※3 原料が元々含銅鉄鉱。「銅を加えて吹く」は知識が無い為の誤解。俵國一博士は銅を含む日本刀地鉄の判断に苦慮され、正秀の説を引用
     して銅を含む日本刀を「銅鐵鍛え」とした。これをそのまま引用する冶金学者もいるが、鍛冶鍛錬で銅と鉄は交わらない (石堂是一の実験)
     又、南蛮鉄の一部には燐を多く含む物もあるが、鍛造で燐は激減して微量になることがある。種類と組成は下欄の俵國一博士の研究参照

2

南 蛮 鉄 ・ 洋 鉄 考

 「日本刀は砂鉄製錬の玉鋼から造られる」と殆どの刀剣書に書かれている。これは明治以降の刀剣界が創り上げた寓話に過ぎない。
 古くに山陽、近江、関東以北には鉄鉱石製錬(製鉄)が分布していた。古代刀の殆(ほとん)どが銅を含有1するか、鉄鉱石(岩鉄)成分
を示し、砂鉄原料の刀剣は極めて少い。然も、その砂鉄系の鋼も我が国のものとは限らない。                 
 鉄鉱石製錬2が先行し、7世紀初頭に砂鉄製錬が出現したとみられる。その砂鉄製錬遺跡も、平安時代以降に激減する。 
 最古の蕨手刀は舶載鉄で造られた。7世紀初頭の蕨手刀に砂鉄系が出現するが、奈良時代以降の蕨手刀は再び岩鉄系2に替わった。

 10世紀後半の東京・多摩市別所遺跡の鏃(やじり)も岩鉄鉱を原料とし、11世紀前半の長野・塩尻市吉田川西遺跡の小刀子は含銅磁鉄
鉱(炒鋼)だった。
 平安時代全期に亘る東北地方の鉄器の分析で、砂鉄系鉄器は全体の6%に過ぎなかった。
 鍛冶の始まりは舶載鉄からだった。歴史上、舶載鉄を抜きにして刀材は語れない。
 後発の砂鉄製錬が拡大の一途を辿った訳でもない。国産鉄の生産は少く、古代より大陸・半島の舶載鉄が主流だった。
 南北朝〜室町末期の全国4ヶ所の鉄刀類の成分は圧倒的に舶載鉄を示している3
 又、製鉄原料には地域特性があり、砂鉄が全て良質だった訳ではない。東北の餅鉄(べいてつ)などはその良い例だろう。
 従って、鉄鉱石と砂鉄の両国産鉄と、舶載鉄で各々刀剣は造られていた。

    1 日本の鉄鉱石にも銅を含有するものがあるが、問題は含有率にある。東京工業大学 製鉄史研究会、新日鉄技術研究所、佐々木稔氏などは
       含有率 0.1% 前後を産地識別の指標にしている。
 銅の含有率 0.1%前後の磁鉄鉱は我が国では確認されていない。
       当時の流入鉄の状況
から、中国・山東半島の含銅磁鉄鉱から作られた「炒鋼」、「灌鋼」と推定されている
    
2 「製錬」、「精錬」、「岩鉄」など、これらの意味は「異説・たたら製鉄と日本刀」 参照  ※3日本刀の地鉄」参照

 現代の我々は「鉄」を当たり前と思っているが、「木器」・「石器」・「銅器」の時代に、自然界に存在しない「鉄の出現」が古
代人にどれだけ衝撃的な出来事だったことか。
 紅蓮の炎の中から出現する「銕 = 鉄」はそのことだけで充分に呪術性を伴う物質だった。
 鉄器は農耕文化を飛躍させ、鉄剣は外敵排除の重要な神器であった。
 悪霊・異族の「邪」を退け、部族の守護神として神威を顕す聖なる物と信仰され、神の「依り代」と思われた。
 刀剣の神秘性、霊性、畏怖の思いの原点はここにある。これは後に神話として伝承される。


洋 鋼 は 鍛 接 で き な い と 言 う 詭 弁 (きべん)

 鉄鉱石を溶鉱炉で溶かしてできる洋鉄は、鉄の中に不純物(ケイ素・硫黄・リン等)が多い為に、叩いても粘らず、折り返し鍛接
が出来ないと刀剣界は執拗(しつよう)に主張してきた。これは意図的な詭弁である。
 天文以降の出羽・千種などの新和鋼は、鍛接剤としてのウスタイト系ノロを含まない為に、鍛接剤が無いとそのままでは鍛接出来
ない鋼だった。(「日本刀地鉄が慶長期に変化した要因」参照)

 又、慶長や江戸中期の和鋼と、二十世紀の現代洋鋼を比較するとは話の次元が全く違う。
 古代〜中世の洋鋼は、木炭で還元する半溶解の塊錬鉄で、和鋼とそんなに変わるものではなかった。
 森林資源の破壊という深刻な問題から、コークスを使う溶鉱炉(銑鉄製造)がイギリスに出現するのは十八世紀になってからである。
 この世紀末、バドル製鋼法に依り鍛接性に優れたパドル鉄が造られた。
 近代溶鉱炉の製錬は、高温還元の為に確かに不純物を含むが、精錬(二次処理)で有害元素は除去された。
 和鋼精錬は人力の折り返し鍛錬だったが、洋鋼では、銑鉄を鋼・錬鉄に転換(精錬)するのに精錬炉、転炉を開発した。
 二十世紀の現代洋鋼は、用途毎に精錬(元素調整)された多品種の製品が準備されている。

 人力鍛錬しなければ使えない半完品の粗鉄(玉鋼)と、最早、鍛錬の必要が無い精錬された洋鋼を、鍛接の可否で比較する事自体が
全くの筋違いである。
 精製された製品を、生成途上の粗鋼と勘違いしているのであろう。
 又、硫黄・リン等の不純物を除去する洋式精錬を全く理解していない。
 スウェーデン鋼、東郷ハガネでも判るように、可鍛洋鋼もあるし、精錬に依って不純物の少ない刃物・刀剣鋼も製造された。
 用途毎に多品種を揃えた完成品の洋鋼に対して「鍛接出来ない。含有元素云々・・・」との洋鋼批判は、極めて恣意(しい)的で稚拙
(ちせつ)な悪意に満ちている。下段の南蛮鉄で述べるように、和鋼は燐、硫黄の不純物が少ないとは限らない。

 それよりも、鍛錬という原始的精錬手法※1を唯一と妄信していることこそが問題であって、その為に意味不明の珍説・奇説が生
まれた。
 刀剣界は「玉鋼至上神話」を創り上げる為に、臆面もなく、こうした珍説・奇説を平然と流し続けてきた。

 現代洋鋼は可鍛鉄は勿論のこと、どのような用途の鋼材でも製造出来る。只、需要が無い物は造らないだけの話しである。
 因(ちな)みに、日本鋼管は薬師寺の修復に使う為、1,000年の耐久性を持つ和釘用純鉄を開発した。 これは電気精錬で丁寧に造られ
た可鍛鉄である。文化財保護の観点から営業採算を度外視して造られた。どのような鉄でも必要があれば造れるという例である。

 又、小倉陸軍造兵廠では、洋鋼の水素還元鉄や電解鉄(いずれも純鉄)による卸し鉄(おろしがね)の作刀 実験を行った。
 例え洋鋼でも、刀材として有害な元素を精錬で除去した清純な鉄は、和鋼と同様に鍛接性に優れていて玉鋼と同等である事を証明
した※2
 精錬された洋鋼は、和鋼との隔(へだ)たりはなかった。
 和鋼は確かに、原始的製錬の偶然の結果による清純※3な鉄である。但し、清純と言われる鉄が、刀材として果たして最適かどう
かは別問題であった※4。和鋼でしか日本刀は造れないとの主張は、刀剣界の詭弁である。
※1※4日本刀の常識を問う」参照 ※2将校用軍刀の研究」参照  ※3 低 温還元の為、素以外の不要元素を余り含まないという意味 

3
南 蛮 鉄 ・ 洋 鉄 の 例


 西暦1,350年頃、西ヨーロッパで木炭高炉法に依る木炭銑(ずく)が製造され、更に精錬炉を用いて鍛造可能な洋鋼の生産が始まって
いる。
 應永5年(1398)、足利義満は幕府の財政窮迫を救う為、筑紫(博多)の豪商と相國寺の僧侶沖芳を明に派遣して対明貿易を開始した。
 日本からは主として刀剣を輸出し、明からは綿布、水銀、古書、諸雑貨と共に「支那鐵※1」を輸入した。
 備前や美濃の刀工達は、この支那鉄を使用して相当数の日本刀を造っていた。安綱にも支那鉄使用の刀がある。

 戦国時代(1493〜)に入り、鉄砲と刀剣需要が拡大し、作刀効率も求められた。
 戦国時代が幕開けした40年後に、鉄山ではヒの製鉄法に転換して千種・出羽鋼が出現した。商業用硬鋼と軟鋼である。
 この直後頃、ポルトガル船で南蛮鉄と称される舶載鉄※2の輸入が始まった。ズクを脱炭した硬鋼だった。
 然し皮肉な事に、これらの鋼材は60年近くも刀には使われなかった。戦国期の大量の刀の鋼材は何だったのであろうか ?※3
 慶長の頃、明の舶載ズクが「錬鉄」に鉄種を変えた※3。その為に舶載の硬、軟鋼と国産商業鋼とが市場の主流に置き換わった。
 これを契機として、これらの新鋼材が漸(ようや)く刀に使われ始めた※3
                          ※1 灌鋼、炒鋼と思われる  ※2 南蛮船で輸入される各国産出の鉄を全て南蛮鉄と称した 
                          ※3 日本刀の常識を問う 下欄の地鉄の変化、 慶長期・藁灰釉の渡来 参照
 
 南蛮鉄は慶長16年(1611)、オランダ人によって徳川家康や重臣に献上され、将軍家御用鍛冶初代康継は、この南蛮鉄を使って作刀
した。
 元和七年(1621)には松倉豊後守にも献上された。江戸初期の渡来鉄は金銀に準ずるような高価な贈答品でもあった。
 大名達の舶来品崇拝熱も高かった。この貴重な渡来鉄を使って、時の権力者達が競って刀を打たせた事は容易に想像出来る。
 それに応えた刀匠達の好奇心は新たな渡来鉄に向かった。
 新刀を代表する大阪鍛冶の井上真改がこの南蛮鉄で作刀している。和鋼の刀と地金の冴えが違っている為、真改は工夫を凝らして
和鋼と同じ美しい地金を造る事に成功した。
 鍋島藩でも出羽大掾行友の「以阿蘭陀鍛作之」の添銘の刀がかなりある。
 阿蘭陀(オランダ)鍛とは十七世紀に日本に輸入されたドイツ、ベルギーの可鍛鉄である。
 唐鉄では出羽大掾國路の「以唐鐵作之」、和泉守國貞(初代)の「唐鐵」添銘の刀がある。唐鉄は南京鉄とも言う中国産の鉄である。

 渡来鉄を使うということは一つの流行となった。
 「渡来鉄を銘記した物、無記銘物、其の儘或は和鋼と混合した物など渡来鉄が不言の中に頗(すこぶ)る広く各刀工に使用された」と
佐藤富太郎は「日本刀の秘奥」で述べている。
 肥前忠吉一派、筑前信國(吉包)一派、埋忠(明壽、重義)一族、無記銘物には大和守安定、越中の藤原重清、仙台の永重などが知ら
れる。
 渡来鉄の使用は限定的なものではなく、広範に使用されていた。 (日本刀の地鉄参照)
 大阪新刀にも多く使われており、前述したように幕末の水心子正秀も南蛮鉄を使用していた。

 舶来品に対する格差の意識は今日の比ではない。渡来鉄が遙かに高級品だったであろう事は容易に想像できる。
 誇らしげに添え銘は切られた。
 新刀以降、何故渡来鉄が日本刀に多く使われたかの理由も、こうした観点で見ると何となく辻褄が合う。
 「江戸中期(元禄四年=1691)、天秤鞴(ふいご)の登場で、和鋼が安く市場に出廻り、南蛮鉄の品質が悪いから駆逐された」との説を見
かけるが、これは無知からくる曲解である。
 寛永十年(1633)の鎖国令で鉄の輸入が止まった。以降、南蛮鉄を消費し続け、丁度この頃、国内在庫が尽き果てた。
 その為に、刀は和鋼でしか造れなくなった。
 これは正秀の「剣工秘伝志」でも明らかである。鎖国がなければ、その後の新々刀の地鉄は違った様相になっていた可能性が高い。
 南蛮鉄が刀に不向きなら、国内在庫が底を尽くまで新刀に使われ続けた説明がつかない。 (日本刀情報の検証」参照)

鍛 接 で き る ス ウ ェ ー デ ン 鋼

 現代に於いても、洋鋼が鍛造に向かないという説に異を唱える刀工がいた。
 昭和40年代以降、初代・小林康宏刀匠は、古刀を復活させようと研究を重ねた結果、銑鉄(ズク)とスウェーデン鋼を混合し、低い
温度から熱することで純度の高い鋼となり、これに適量の炭素を融合させる事によって驚異的な強靭さを誇る極めて高強度の日本刀
を造り出した。
 鉄をも斬れる「斬鉄剣」として武術界で知られている。
 小林刀匠の刀は試斬の専門家に愛用され、実用刀として、古刀の水準には到達していた。 (斬鉄剣・小林康宏刀匠参照)
 スウェーデン鋼は、明治に作刀された軍刀身の「村田刀」に使われた先例がある。
 日清・日露の実戦で、大変優秀な武器性能が実証された。ただ、刃文が無いというだけの理由で刀剣界から評価されなかった。
 刃文が無ければ刀ではないのか? 刀の目的は何だったのか・・・・という素朴な疑問が湧く。 (刀剣の精神参照 )
 小林康宏師のもとで修行されていた安藤広清(本名幸夫)刀匠のお話(情報ご提供: 備前刀職匠会小池哲様)

千 代 鶴 是 秀 が 使 っ た 鋼

 天田刀匠1が戦後鉋(かんな)などの刃物を作っている時、浅草の刃物店で目を見張る小刀を見つけた。それが千代鶴是秀の作だっ
た。早速、伝(つて)を頼って教えを乞う為に訪問し、是秀作の鉋で宮内庁御用の大工が削った10メートルも繋がっている鉋屑を見せ
られた。天田刀匠は言葉を失い、「単なる刃物鍛冶では無い。名匠だと直感した」と述べている。
 是秀の祖父は新々刀期の名匠・長運齊綱俊、叔父は固山宗次、もう一人の叔父は幕末の名工・石堂是一である。
 思い切って鋼の事を尋ねたら「私のは大体、大正頃」との答えだったという。

 長島宗則2さんの話でも、大正頃のヨーロッパの鋼は素晴らしかったそうだから、千代鶴さんの鋼も輸入品だろうと確信した。
 岩崎航介3さんも研究の為、千代鶴さんに鋼を尋ねたら、「国産の鋼は使わない。何十回も見本が届けられてきたが未だ一回も使っていない。切れ味が悪い」と答えている。
 白崎秀雄著「千代鶴是秀」には、千代鶴や従兄の石堂秀一が使った鋼は英国のワーランデッド・スチール社製やトーマスとある。
 木屋の加藤俊男さんが千代鶴さんに聞いた話として「スウェーデンです。鋼屋の河合さんから炭素量1/100の物を目安にもらった。
 明治三十年代のある年の出来が良かったので有り金はたいて買い、残り少なくなったが今も使っている」と載っている。

 天田刀匠は、千代鶴さんが「スウェーデンの明治三十年代のある年の出来が良かった鋼」と言っているのは、スウェーデンのダン
ネモラ鉱山の鋼と推定し、明治四十年代の記憶違いか誤記だろうと述べ、工藤博士が高品質の桜ハガネ(安来製鋼所)を開発する際に
強く意識したのも、この粘りのある東郷ハガネではなかったかと推測している。     (参考・引用:天田昭次著「鉄と日本刀」より)

1 戦前、栗原昭秀門 2 刃物鍛冶、戦中栗原昭秀門、海軍御用刀匠、天田刀匠が鉋の指導を受けた 3日本刀・刃物の研究者


優 秀 な 特 殊 綱

 上記のように、刀匠達は自らの信念に基づき、鋼材の固定観念には囚われず、より良い日本刀を目指して全ゆる可能性に挑戦して
いた。
 日本刀の鋼材は洋鉄、和鉄と極めて変化に富んでいた。こうした考えの延長線上に軍刀身への挑戦があった。
 作刀の効率化、均質性、コストの低減は大量需要の必須の条件であった。当然の事乍ら武器の本質が最優先された。

 戦国の数打ち物や、研磨技術の発達で刀身の美が認識されるまで、「附帯的刀身の美」などは問題外であった。
 それが武器として出発した日本刀の姿だった。 
 特殊軍刀身はその基本を踏襲したに過ぎない。
 粘硬なスプリング鋼材、耐寒性能のタハード鋼、満鉄の日下純鉄、群水鋼等の優れた刀身鋼材が登場した。
 製鋼に科学の力(転炉・精錬炉、電気精錬炉)を利用し、作刀にも機械を応用して均質な刀身を作り出した。
 バラツキの無い品質、粘硬性、耐錆や耐寒性などの面で、古来の玉石混淆の日本刀よりはるかに安定した性能を実現している。
 刀の本質からみて、これは一大画期であったのに、刀剣界は無視し続けた。刀剣界とは鑑賞趣味人の集まりだった。
 刀身地刃の鑑賞にしか興味がなく、刀の本質を考えたこともなかったからである。
 刃文や地肌は見事でも戦いに使えない装飾刀と、錵・匂いが定かでなくても見事に戦える刀があったらどちらが真の日本刀と言え
るだろうか。
美術刀 しか念頭にないかららこうした蔑視した表現になる。武器としての刀はこれが普通であり、充分に存在価値があった

 本項は和鋼を否定し、洋鋼を賞賛する為に記したものでは無い。
 的確な評価や判断は「敵を知り、己を知って」初めて成り立つものである。
 「敵を知らず、己を知らず」して判断を誤り、国家を滅亡の縁に追い込んだ苦い経験が過去にある。
 美術刀剣界は「洋鋼を知らず、和鋼を知らずして・・・」の無謀な過ちを再び繰り返えしている。
 日本刀の大家と称する人達が、冷静な科学的論拠を持たない儘流した無責任な和鋼神話を多くの人達が検証もせずに妄信した結
果、刀剣界は普(あまね)く虚構に塗り固められた金太郎飴となってしまった。
 これは鋼材だけに止まらず、日本刀の認識総てに言えることである。

4

南  蛮  鉄


瓢箪形、木の葉形(未確認)、小判形、短冊形大(太條)、短冊形細(細條)  俵國一著「日本刀の科学的研究」より
 

瓢 箪 形 (ひょうたん)


長さ略80o、厚さ略9o、重量略120g

 上図は瓢箪形を形成する工程である。銑鉄を鋳型に流し左の形状の円塊が出来る。
 これを火床で加熱鍛打し一片を細長く延ばす。更に細長い中央を鍛延して右の瓢箪形が出来
 る。
 この鍛造の理由は、加熱除炭した状態の鍛接性を確認する為だった。
 円塊内部は約2.4%のズクだが、表面及び細い先端は純鉄に近い練鉄だった。 
 俵博士は、製練法などがウーツ鋼と一致するとして瓢箪形をインド産ウーツ鋼と判断された。
戦後、この判断は間違いとの指摘が出された
瓢 箪 形 南 蛮 鉄 と 和 鋼 成 分 の 比 較 表

南蛮鉄
炭 素
滿俺
マンガン
硫 黄

鋼中鉄滓
鉄滓中の
含有燐分
形 態
瓢箪い
1.44
0.01
0.005
0.108
0.54
0.008
材料
瓢箪ろ
0.92
0.03
0.002
0.126
 1.96
0.109

瓢箪は
1.96
0.04
0.005
0.123
分析せず
分析せず

和鋼
炭素
滿俺
硫黄


鉄滓
形態

1.33
痕跡
0.006
0.014
痕跡
分析せず
材料・上鋼

0.22
痕跡
0.008
0.001
分析せず
0.92
無銘刀

0.42
痕跡
0.004
0.035
痕跡
0.66
兼房刀

 瓢箪形は和鋼に比べて燐分が一桁高い。
 和鋼第一は伯耆國日野郡の最も上質な和鋼。然し有害元素の硫黄は南蛮鉄より多い。これは原料なので、そのままの値である。
 この分析値から、和鋼は南蛮鉄より硫黄を多く含むといえる。
 和鋼第二は銘不明な刀の茎の成分。有害元素の硫黄は南蛮鉄より多い
 和鋼第三は兼房銘の刀の茎成分。材料を鍛錬して刀にすると、鍛造過程で燐や硫黄は減少するので材料と同一比較出来ない
 従って、材料の段階では、南蛮鉄より燐がかなり多いことが分かる。

 和鋼第二、 第三は、マンガンが痕跡なので砂鉄原料と推定される。砂鉄は、有害な硫黄を含まないという俗説は完全に間違いと
いえる。ただ、刀という製品なので、先入観から和鋼と決めつけているが、和鋼ではない可能性も否定できない。

 

 俵博士は、小数試料の南蛮鉄が使えないので、別種鋼と和鋼を混ぜて元素の変化確認の実験をされた。
 原鉄塊(材料)の炭素と燐は鍛錬過程で激減するとの確認を得られた。但し、瓢箪形は刀となっても平均的和鋼より燐分は多いと推測された。

 
小 判 形

 
小判形は鋳型に流した溶融鋼
南 蛮 鉄
炭素
滿俺
硫黄

珪素
小判形
1.8
0.009
0.003
0.076
0.08
 
 瓢箪形とは違い高炭素鋼。燐は瓢箪形に比べて概ね半分近く少ない。
 他の成分は和鋼に等しい。 刀になると平均的な和鋼成分にかなり近くなる筈である。


短 冊 形


     短冊形大
  長さ略790o、厚さ略16o
  重量略2,300g

     短冊形細
  長さ略390〜120o
  厚さ略10〜12o四方
  重量データ無し

南 蛮 鉄
炭素
滿俺
硫黄

珪素
短冊大(太條)甲
0.06
ナシ
痕跡
0.101
0.07
短冊大(太條)乙
0.01
痕跡
-
0.012
-
短冊大(太條) 丙
0.03
-
-
-
-
短冊細(細條)甲
1.58
0.017
0.016
0.011
0.016
短冊細(細條)乙
0.49
痕跡 0.002
0.037
0.038

 短冊形大は折返し鍛錬した練鉄。乙は純鉄に近い。甲の硫黄分のみ異常に高い。検査部位のバラ
 ツキか固体差か不明。
 太條乙、細條甲は最上の和鋼より燐は少ない。
 太條甲の硫黄も同様である。断面はカマボコ形、含有炭素量は不均質。大型の優良な地金であっ
 た。 
 短冊形細は断面正方形の角材。鍛錬して焼入・焼き戻したマルテンサイト組成。鉄滓の観察では和鋼の練鉄とは違い後日の研究を
要すとの見解だった。
 和鋼の代用として輸入した樽鋼(東郷ハガネ?)と同様と見なされた。含炭量は不均質。
 甲は高炭素鋼(硬鋼)、乙は中炭素の練鋼だった。化学成分及び組織は和鋼との著しい差が無い。
 俵博士は何れの短冊形も産出国を決めかねられた。
 これら4種の形状で供給された和鋼の記録が無い。江戸の種々の文献には南蛮鉄として瓢箪・木の葉・短冊形の呼称が登場する。
 木の葉は小判形が該当するとも言われている。
 大陸の鉄は、山東半島の含銅磁鉄鉱が有名だが、大陸産が全て銅を含む訳ではない。地域に依り日本の岩鉄と同成分の鉱石も多く
あった。
 南蛮船で渡来した鉄を総て南蛮鉄と通称していたとすれば、これらは支那鉄、阿蘭陀鉄、露西亜鉄などの可能性も充分にあった。



5

古 代 金 属 遺 物


(さん)


全長137o、縦横32X50、重量1,387g

満州鞍山附近で発掘された穴を穿つノミ、キリの古代工具。四種の地金を各々鍛錬して重ね合わせ鍛接した構造。
断面顕微鏡の考察から鋼を鍛合した後に、日本刀と同じ折返し鍛錬をしたと見られた
異なる地金を鍛接するのに接合面に鉄滓を残留させている。将に日本古刀に見られる技である。
更に精査すれば鍛合作業法が解明出来るとして博士は研究を閉じられた。


(やじり)


全長122o、最大幅38o、最大厚み7o、重量 30g

 満州大孤山で発見。硬・軟鋼二種を平に鍛合して鍛延した。鏃先端部に焼入を認める。
 刃部に多量の炭素を配し焼入をした手法は日本刀の夫れに匹敵するとの所見であった。


国 内 出 土 金 属 遺 物 の 成 分 々 析


小 札
(こざね)

小  札


上野國藤岡町出土
0.182
0.559
南満州鞍山出土
0.165
0.176
 上野国藤岡町出土品と南満州鞍山出土の鎧用小札が分析された。
 地金は0.25Cの軟鋼だった。熱処理の形跡無し。

 日本国内出土品は多量の銅を含み、鞍山出土品もかなりの銅を含有していた。

               (筆者注:鋼材は舶載鉄鋌を使用したと思われる )

 鑽、鏃、小札は何れも発見地域の鉱石ではない。銅の含有率が極めて高い。
 博士は理解に苦しみ「他より輸入したものと認む」とされた。この時代、大陸の製鉄法や含銅磁鉄鉱、鍛錬法などの考古学情報は
無かった。
 博士は、大陸の鑽・鏃の作成手法を日本刀と同じと判断された。
 この大陸の製品は日本刀誕生より遙か昔に作られた。
 「日本刀に製法が似ている」のではなく、「日本刀の作り方がこの製品に似ている」というのが歴史上からみる正しい表現である。
 歴史の経緯からしても当然の結果と言えよう。
 折り返し鍛錬や、鋼の複合化を日本刀独特というのが如何に間違っているかを証明している。

6

洋 鉄 の ま と め


 和鋼は燐や硫黄の不純物が無い世界で最も清浄な鋼だと云い続けて来た。短冊形渡来鉄には和鋼より清浄な鋼がある。
 短冊形の成分でも解るように、燐の指標が無いからといって南蛮鉄銘切りの刀に舶載鉄を使わなかったという証明にはならない。
 例え支那鉄、阿蘭陀(オランダ)鉄、露西亜鉄でも、それを南蛮鉄と思っていれば、銘は当然南蛮鉄と切られた。この可能性は極め
て高い。

 鋼の折返し鍛錬(除滓、脱炭等)は、餅をこねるも同じ事で、原始精錬では誰しもが思いつく自然の習いであった。相手が鉄だから
折り曲げた。
 大陸では、我が国より遙か以前に折り返し鍛錬(鍛打)や鋼材の会わせは普通に行われていた。
 百練鉄〜五十練鉄などの言葉がそれを証明している。
 古代「鑽」の例に見るように、鋼の折り返し鍛錬や鋼材の複合化は、我が国独特の手法ではない。
 又、独自性を主張するような技でもない。我が国より数百年前から東西の製鉄先進国では普遍の手法だった。
 「折り返し鍛錬」や「鋼材の合わせ」を独自と誇張すれば嘲笑を誘うだけである。

 同類の手段で造られた刀が 何故世界の刀剣との差異を生じたのか。    ※ ダマスカス刀のみは坩堝製法で鋼材の作り方が異な
 それは地鉄や造刀法ではない。民族の資質、習性、感性などから生み出されたものである。
 古の人達は渡来鉄を用いた刀でそれを見事に実証した。

 武器として極めて華奢な日本刀の特徴は、世界の刀剣との相対で認識すべきである。
 又、現代美術刀剣界は挙(こぞ)って洋鋼を否定している。洋鋼を使った刀は日本刀ではないという。実におかしな話である。
 玉鋼が世界で最も清純な鋼であるとか、折り返し鍛錬が日本刀独特とかの俗説には何の科学的な根拠もない。
 又、単純炭素鋼の和鋼が最も強靱というのも幻想である。 (「日本刀の常識を問う」参照)

 彼らの根本的誤りは、大東亜戦後の歪んだ「銃刀法」を楯にして、その身勝手な解釈で古刀からの日本刀を語ろうとしているとこ
ろにある。
 この間違いは正されなければならない。
 伝統を尊重すると言うのであれば、我々の祖先達が積極的に利用した渡来鉄(洋鋼)を闇雲に否定するのは大きな矛盾である。
 それは我々の祖先と民族の資質を否定することでもある。明治以前には無かった風潮だった。
 
 日本刀の鋼材、鍛錬、造り込み等に関しては改めて客観的な認識が求められる。



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