日本刀の考察 慶長期の地鉄の変化
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日本刀地鉄が慶長期に変化した要因
釉薬と刀身地鉄の変革
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まとめ
緒 言
古代製鉄に関しては、大学、民間研究者、果ては小学校に到るまで様々な古代の製鉄実験が行われている。
然し、その中身は、砂鉄を原料とする江戸の永代タタラを小規模にしたいわゆる「たたら製錬」が全てと言っても過言ではない。
砂鉄以外の原料に着目した研究者は極めて少ないのが現状である。
今回ご紹介する山内裕子氏は、固定観念にとらわれず全ゆる可能性に挑戦している希少な古代製鉄の研究者である。
弊サイトの「たたら製鉄と日本刀」の項をご縁に知己を得た。
先ず驚いたのは、山内女史の国内外を問わない貪欲な情報の収集力と、その根拠を裏付ける為の飽くなき実験の繰り返しだった。
そして何よりも重要なことは、一切の先入観を排除したその研究姿勢にある。
5年間に及ぶ製鉄実験の結果、女史が最初に辿り着いたのはリモナイト製錬だった。
これは数年前のことである。
筆者はこの実験成果を世に問うべく、女史の背中を押して福岡金属遺物談話会でこの成果を発表して戴いた。
発表後、さる大学の考古学者と製鉄研究者から直ちに反応を戴いた。これを機に、考古学会誌への論稿掲載の段取りをつけた。
2013年10月、福岡大学考古学教室・武末純一教授の監修を得て「古文化談叢・第70集」に「古代製鉄原料としての褐鉄鉱の可能性」〜 パイプ状ベンガラに関する一考察 〜と題して上梓された
(「
古代・褐鉄鉱製練の可能性
」参照)
。
山内女史の研究は多岐に亘るが、今回、慶長期前後に渡来した窯業
(ようぎょう)
の釉薬
(ゆうやく)
が刀剣鍛造に及ぼした影響を考察された。
これまで、天文の商業和鋼の誕生、南蛮鉄の輸入にも拘わらず、これらが刀に使われるまでの60年間の空白は謎だった。
筆者は、刀匠の作刀習慣と国内流通鉄種の完全置き換え時期に理由を求めてきたが、山内女史のウスタイト系ノロと、鍛接剤としての藁灰
(わらばい)
・粘土汁の考察に依って、慶長期日本刀の地鉄の変化の理由が別の視点からも浮き彫りにされたと言える。
※
(本論稿は2014年6月、舞草刀研究会「舞草刀研究紀要第二十二号」に掲載されました)
慶長期前後に日本刀の地鉄が変化した要因について
〜 藁灰・粘土汁がもたらした技術変革 〜
山内 裕子
1.はじめに
1
新刀とは刀剣史上、慶長期(1596年―1615年)以後、すなわち17世紀以後に作られた刀剣を指す。この新刀は刀身地肌、刀身性能などにおいて、古刀と異なると一般的に認識され、古刀期に見られる地鉄の地方的特色がなくなり画一的な地肌になったと言われる。
ではなぜこのように古刀と異なる「新刀(あらみ)」が誕生したのであろうか。
その理由には、天文時代の千種、出羽などの商業鋼の出現と、南蛮鉄、慶長前後における大陸からの熟鉄などが挙げられている。
然し、鋼材の変化だけなら、国産商業鋼が出現したとされる天文時代に、一部の日本刀は新刀に移行を始めていなければならない。
ところが、国産商業鋼が刀に使われ始めたのは出現して60年後の慶長期からだと言われている。
何故60年間も刀に使われることがなかったのか。この60年というブランクの理由にも着目した。
今回、陶芸(焼き物・窯業)においても慶長期以降、作風・作品が変化し、それ以前の作風(桃山陶器)が再現できなくなったという事例
が、古刀の地金の変化が起きた時期と重なることに着目し、文禄・慶長の役以降の歴史的背景から、窯業が受けた技術的影響によっ
て、刀の鍛造工程において藁灰・粘土汁を使用するという応用技術の発見こそが刀身地鉄の変化を支えた大きな要因ではなかったかと
推測した。
すなわち、古刀期(慶長期以前)には粘土汁・藁灰を組み合わせる人工釉薬を日本人は知らなかった
(
筆者注:
唐
三彩、木灰などは別)
。
従って刀の鍛造に用いることもなかったのではないか。
また、積み沸かしや卸鉄の鍛造工程も、古刀期には存在しなかったのではないかと推測し、その理由について科学的に考察した。
2.
文禄・
慶長の役がもたらした産業技術への影響
2
慶長の役後、「焼き物」後進国だった山口、九州の大名が多くの朝鮮陶工を連行し、計画的に唐津、萩、薩摩、有田、上野、高取、伊万里、その他で窯業
(ようぎょう)
を開始した。それらが在来の日本の陶芸に様々な影響を与えた。
それまでは自然降灰
(
筆者注:
穴窯で焼成中に降りかかる灰)
からの自然釉
(ゆう)
であったが、役以降、人工釉薬を使用するようになった。
さらに、登り窯
(がま)
の導入により大量生産が可能となり、窯の効率の向上により高温での窯焚の時間が短縮され、失敗が少なくなったが、非効率的な穴窯で長時間の焼成により表現できていた自然降灰釉の雰囲気や釉肌が表現出来なくなった。
つまり、桃山期に焼かれていた焼き物が焼けなくなったのだ。
その理由は窯
(かま)
の性能の向上と、人工釉薬を利用することによるものであった。
このとき、朝鮮よりもたらされた代表的な人工釉薬
(ゆうやく)
の一つが『藁灰釉』
(わらばいゆう)
である。
特に唐津焼が『藁灰釉』を用いるようになったことで有名である。『藁灰釉』は高温下(1300℃)でしか融けないため、慶長の役以降に
もたらされた窯
(かま)
の性能向上とともに、『藁灰釉』もそれ以降に日本で広まった技術と考えられる。
言い換えれば、藁灰を一つの技法として用い始めたのがこの慶長期と言えよう。そして、刀の地鉄に変化が現れるのもこの時期であることから、藁灰・粘土汁を刀の鍛接に用い始めたのもこの時期からではないかと推察した。
3.釉薬と鍛接剤
3
藁灰と粘土(汁)の組み合わせは、粘土に含まれる長石をガラス化させるという釉薬の反応にほかならない。
藁灰を釉薬として用いる窯業
(ようぎょう)
の場合、灰汁を取り除く。
灰汁とは水溶性のアルカリ成分のことで、粘土生地に浸透し生地を破損する
(1)
。
しかし、この灰汁の成分はいわゆる製鉄工程における造滓成分である。
つまり、灰汁を残した藁灰にはシリカ(SiO
2
)と、ナトリウム・カリウム・アルミナ等の造滓剤(スラグ
※1
を作る成分)が含まれる。
これは釉薬の反応をうまく利用したものと言える。
(
※1
スラグ = 鉄滓、鉱滓、ノロ)
藁灰は他の灰と比べて格段にシリカ(SiO
2
)を多く含むため、ガラス化を促進する。
一方、シリカが多い分だけ融点が上がるため(1300℃程度)、鍛接材としては好都合なのである。
鉄と鉄とを鍛着する場合、表面同士が無垢の鉄は900℃程度で鍛着できる。
しかし、鉄の表面に酸化鉄皮膜が形成されている場合は、高温であっても鉄同士は鍛接することができない
※2
。
その為に鍛接材が必要となる。
(
※2
和鋼は洋鋼に比べて鍛接性に優れているとの論は誤解を招く)
表面の酸化鉄皮膜は1300℃程度で溶け始め、このとき藁灰・粘土汁がガラス化し始めることで、それらとともに酸化鉄はスラグ化す
る
(2)
。
そこを鍛打することで酸化鉄皮膜は除去され、鉄同士は鍛着でき、さらに藁灰・粘土汁のガラス化によって表面の酸化が防がれる。
「釉薬」という観点からみると、藁灰・粘土汁のガラス化する作用をうまく利用した方法だと考えられる。これは、藁灰・粘土汁がガラス化し始める温度と、酸化鉄皮膜が溶け始める温度の合致性が生み出した独特の鍛接方法ではなかろうか。
鍛打されることで、ガラス化された酸化鉄は除去されるため、鍛打回数が増えるごとに刀に残される非金属介在物は小さく、且つ少な
くなる
(3)
。
新刀期以降の日本刀鍛造に於ける藁灰(左)と泥水(右)の使用
酸化鉄皮膜の除去、鍛接の為に必要
(写真は関鍛冶伝承館資料より)
4.古刀期の鉄と新刀期の鉄
4
古代の鉄は低温還元製鉄によって作られた海綿鉄のような鉄であったため、大量のノロ
※3
を含む。
(
※3
ノロ
= 鉄滓、鉱滓、
スラグ
)
これは古代から中世までの遺跡で出土する鉄塊から推察でき、これらに含まれるノロはウスタイト
※4
系を主とする。
また、出土する鉄塊は低炭素鋼や銑
(ずく)
である。
(
※4
ウスタイト
= 酸化鉄(U)、酸化第一鉄、ferrous iron、融点:1370℃
)
しかし、ここでの「銑」(ズク)とは現代の輸入銑鉄や、銑押し法で作られる銑鉄とは異なり、ウスタイト系のノロを含み、「銑鉄に近い組織」であるとされている。つまり、炭素量の低い銑、「鋼に近い銑」ということである。さらには、低温還元で製鉄されることで、リンなどの不純物が鉄に固溶することはなく、極めて清浄な鉄となる。リンなどの不純物はノロの方に固溶するため、古 代の釘の分析からもその強靭性や耐蝕性はこのノロのおかげではないかとも言われている
(4)
。
新刀期以降の和鉄は現代の玉鋼からもわかるように、ノロは格段に少ない。また、ウスタイト系でもなく、高温還元であるため、不純物は鉄に固溶している。さらには炭素量に極度のばらつきがある鋼である。
(写真ご提供: 美術刀剣 刀心
・町井 勲 様)
5.藁灰・粘土汁を必要とした理由
5
藁灰・粘土汁が慶長期以降に刀に使用し始められたと仮定すると、なぜ、その時期に使用しなければならなくなったかである。
慶長期前後、輸入鉄(南蛮鉄など)や国産の量産商業鉄(出羽鋼、千種鋼など)の流通により、鉄そのものが変わってしまった。
それは古刀期のノロを多く含む鉄から、ノロをほとんど含まない鉄への転換と換言できる。
なぜなら、古代の遺跡から出土する剣や刀の金属学的調査報告書等からもわかるように、古代の鉄にはノロが多く含まれる。
この場合の鍛接剤とはノロと呼ばれる『非金属介在物』である。
ノロは何種類かあり、大きく分けて「ウスタイト系」と「シリケート
※5
系」がある
(5)
。
(
※5
=
珪酸塩、silicate)
古代の鉄には「ウスタイト系」(善玉)のノロが多く含まれ、このノロを多く含む鉄素材は粘土汁・藁灰を用いなくても折り返し鍛接
が可能である。
つまりこのようなノロを適量含む鉄が古刀期の鉄であり、鉄そのものに鍛接剤が含まれていたといえよう。
(「
中世地鉄は銑鉄
」参照)
このノロの効用は、元活タ来製鋼所社長で古刀研究の第一人者と目されている工藤治人博士の「
鉄滓を逃さないように鍛錬回数を少なくして低温で鍛える
」という古刀に対する洞察とも一致している。
鍛造工程で藁灰・粘土汁を用いなければならなくなったのは、鉄素材に鍛接材となるものが含まれていないか、もしくは少なくなったからであろう。
これら鉄質の変化(多様な鉄の流通)の時期と、粘土汁・藁灰の組み合わせ利用の時期が、丁度この慶長期前後である。
鉄素材そのものの変化が鍛接剤を必要とするようになっていた。
逆説的には、鍛接剤の出現により、新たに出現した商業鋼の鉄が、ようやく刀に使用できるようになったと言える。
5.藁灰・粘土汁を使わない鍛接方法
では、藁灰・粘土汁を使わない鍛接方法(折り返し鍛錬)とはどのようなものか。それは、介在物(FeOとSiO
2
との共晶体)の融点に近い温度である1120℃付近での鍛錬により、酸化皮膜を剥がして鉄同士を鍛着させる。
さらに低温鍛錬の場合、2次・3次と生成する酸化皮膜は高温鍛錬(1300℃程度)で生成する皮膜より薄いために容易に剥離する
(6)
。
また、鉄内部に含まれる介在物も鍛打により除去することができる。
この方法は北欧などで今でも低温還元製鉄によって作られる海綿鉄の鍛錬方法として用いられている。
つまり、低温還元(1200℃以下)による海綿鉄には、もともと鍛接剤(介在物)が含まれるため、鍛接剤(藁灰・粘土汁)無しで5〜7回の折り返し鍛錬が可能とされている
(7)
。
6.なぜ、藁灰でなければならないのか
6
藁灰には他の木灰などと比べて格段にガラス質(シリカ、Si)が多く含まれる。
この大量のガラス質が鉄の鍛錬過程で生じる酸化皮膜を剥がしてくれる。
では、なぜ大量のガラス質が必要なのか。
それは鉄質の変化により介在物が少なくなった慶長期前後の鉄や、高温製錬の銑鉄(古刀期の低温製錬のズクと組成が違う)、玉鋼のような炭素量にばらつきの大きい素材が流通し、それらを使用せざるを得なくなったからであろう(図1)。
介在物の少なくなった商業鋼はガラス質の多い鍛接剤を必要とし、高温で脱炭する銑鉄(左下工程)は介在物が抜け落ちる為に鍛接剤が必要となった。
又、玉鋼のような鉄は介在物及び炭素量を均一にするために高温での鍛錬が必要となる。
その結果から生じる厚い酸化皮膜を剥がす目的と、鍛着剤として藁灰が必要となる。
しかし、木灰などの他の灰はガラス質が少ないだけでなく、1300℃には耐えられない。
7.「積み沸かし」や「卸鉄」は慶長期以降の技術であるという理由
慶長期以前の鉄は古代鉄の分析からもわかるように、ノロを多く含んだ鉄であるため、精錬という工程(過剰のノロを適正化し、ひとつの鉄塊にまとめる工程)でまとめることができる。
図1は、大阪府交野市が1997年に行った精錬・鍛冶実験で使用した炉である
(7)
。
鉱石系鉄素材から低温還元製錬を行い、ノロを多く含む海綿状の鉄を得ている。
この炉は直径約40cm、深さ20cm程度の炉(精錬炉及び鍛冶炉兼用)であり、得られた鉄塊から刀子を鍛錬している。
温度は平均1120℃程度であり、新刀期以降の固定観念で藁灰・粘土汁を用いているが、藁灰が作用する1300℃には達していないにもかかわらず鍛接できている。
ここで用いられた鉄素材はノロを多く含む鉄であった。
また、図2の刀子の組織の顕微鏡写真からも、非金属介在物の多くがウスタイト系であることがわかる。
このことからも、低温還元で作られたノロを多く含む鉄は、高温作業を必要とする卸鉄と異なる『精錬工程』によってまとめられ、
そして、鍛錬工程でほどよく吸炭していることがわかる。
慶長期前後の商業鋼は、ノロをほとんど含まないため、藁灰・粘土汁を用いた高温での「積み沸かし」や「卸鉄」という2次加工によって、結果的に古代の鉄に近づけようとしたのではなかろうか。
刀 子
8.まとめ
8
以上のことから、慶長期前後に鉄質が変化して、従来工法で鍛接出来なくなった鉄を、丁度文禄慶長の役前後にもたらされた藁灰・粘土汁を介在させる新たな工法を用いることで、新たに出現した鉄素材で作刀できる環境ができた。
古刀作刀の秘伝書が見つからないのは、古刀期には、簡単に鍛錬できた鉄であったために、あえて文書に残す必要性もなければ隠す必要性もなかったと推量する。その為に新たな工法の広がりとともに失伝・自然消滅した。
名刀匠・堀川国広は新素鉄(千草鋼、出羽鋼)を用い、新しい鍛え方を工夫して新刀を作った。
新しい鍛え方とは、それまで使っていた鉄とは違い、従来の作刀法では困難なノロの少ない鉄でも、藁灰・粘土汁を高温で用いることにより鍛接できるようになったという善後策的な工法であったと考えられる。
9.おわりに
この論文の発表に当たり、常に古代製鉄研究の背中を押し続けて下さり、原稿の助言と監修をして戴いた日本近代刀剣研究会・大村顧問に深く感謝の意を表します。
参考文献
1)大西政太郎 「陶芸の釉薬」
2)妹尾 与志木、小島敏男「鍛接に利用された土とワラ灰の高温構造と酸化物との反応性」
「鉄の歴史―その技術と文化―」フォーラム 第13回公開研究発表会(2009年度冬季)論文集
3)星 秀夫、高瀬つぎ子、入戸野 修「阿武隈川支流の川砂鉄を原料とした和鋼の鍛接回数と介在物の挙動」
「鉄の歴史―その技術と文化―」フォーラム 第13回公開研究発表会(2009年度冬季)論文集
4)古主 泰子 「備中国分寺和釘の酸化皮膜の調査」鉄と鋼 Vol 91 (2005) No 1
5)堀川 一男、梅沢 義信 「古代鉄釘の冶金学的調査」
鉄と鋼 第48年(1962)第1号
6)武田 実佳子、大西隆、向井陽一 「鉄鋼1次スケールの構造・密着性に及ぼすSi濃度の影響」
神戸製鋼技法/Vol.55 No.1 (Apr.2005)
7)「FRONTIDA JÄRN Ancient Iron」の著者であるCatrina Tangen氏に直接教示いただいた。
8)交野市教育委員会 「古墳時代の鉄製錬・鍛冶再現実験記録」 2002.3
注)
交野市教育委員会資料の図1・図2、刀子以外の写真、及び
※
印の注釈は、Web上で発表した論稿に限定して筆者が挿入した。
2014年3月29日より
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