日本刀の考察 010
日 本 刀 の 常 識 を 問 う
日本刀と云えば「玉鋼、折り返し鍛錬、皮・心鉄構造」という偏った常識が大手を振って歩いている
そこで、この三大要素に就いての考察を試み、日本刀の実質に関する俗説の誤りを糺(ただ)したい
永山光幹師の現代刀への提言
人間国宝・永山光幹
|
『
戦後の作刀は、云うまでもなく美術品を主眼にしてきた。武器としてではなく、
見て美しい物を作る、古名刀を研究して現代に相応しい作品に仕上げるというのが
一貫した目標であった。然し、根本的な処で誤っていないだろうかと時折考える。
それは「美術品を作る」という事に関してである。
誤解されると困るが、今時「武器を作れ」といっているのでは無い。
日本刀が武器として出発し、発達してきたものであり、その結果として美術性を
備えてきたことを考えると、現代刀の原点も「美術品」ではなく「武器」に置か
なくてはならないだろうと思う。
・・・その理由を研ぎの観点から例を上げて具体的に述べられている(略)・・・・
仮に古刀の再現を目指すので有れば、新刀以降の作り方を捨て、別の方法を探る必要が
ある。
|
新刀以降の刀には、伝法ごとの差がほとんど無い。特伝で地金を作り、刃文のみ相州伝なり備前伝で焼くという行き方である。
従って決まり切った作風しか現れて来ない。
南北朝期の相州伝に皆焼(ひたつら)という作風がある。あれは地金に工夫があり、それ故に生まれた刃文である。
性質の異なる鋼が様々に混じっており、刃中でも焼きの入っていない部分もある。丸焼になっていても差し支えない。
後世、焼こうとして焼いた皆焼とは違う。
遡(さかのぼ)って初期の日本刀や上古刀を見ると解るが、刃の中にシミや焼の入っていない箇所があったりするのは珍しくない。
それは用いた材料によるものである。鋼を品質によって選別して使うのは、ずっと時代が下がっての事である。
古い時代の刀の原理を、機能という観点に立って意識的に応用し、相州伝という作風に大成したのが正宗である。
このように見てくると、古名刀の時代には意外に稚拙な作り方が行われていたと思われる。現代刀は美術品を作るという観念にとら
われるあまり、新々刀の鍛法の延長で、厳密すぎる作り方に陥ってしまったように思えてならない 』
(土子民夫著「日本刀21世紀への挑戦」より)
永山光幹師は、稚拙な作り方と異種鋼の混在(異なる炭素鋼の練り合わせ)で古刀ができ、その刀身美が表現できていると述べられて
いる。現在云われている新々刀に準拠した「鋼材と作刀の常識」を捨てることを提言された。この言葉の意味は重い。
再度、師が提言されている一字一句を注意して読むと、古刀の深淵に言及されている事に気が付く。
製鉄技術が低い古刀期までは塊錬鉄〜銑鉄が得られた。刀匠達は、この母材を卸し(卸し鉄)、焼にも工夫を凝らして古刀を作った。
江戸時代、製鉄技術が進み、刀匠達の情報の交換が進んだが、刀のレベルはどうしても古刀に及ばなかった。
古刀の質は軟らかいが、粘りがあって強靱である事が実戦で証明された。研師の方々の多くは、古刀の地鉄は軟らかで、砥当(とあ)た
りが良く、刀身の肌は見事だと指摘される。
古刀に比べて、新刀→新々刀と地鉄は硬くなり、地肌は無機質で単調になった。
新刀以降、同じ鋼材(量産鋼)を使い同じ作刀法で刀を造るようになった。
刀匠の違いと刃文の付け方が違うだけで、刀の個性は失われた※。量産(玉)鋼が、変化に富んでいた日本刀の奥深さと地肌の美を退化
させてしまった。 ※ 永山光幹師言
これに関連して、Web上で真摯な日本刀の解説がある。古刀の研究をされている真鍋純平(すみひら)刀匠である。
今まで、このように謙虚に、且つ、実態を述べられた日本刀解説にお目に掛かった事がない。
ここで、他の作刀解説書には見られなかった部分のみご紹介する。
〜 鍛冶工房へようこそ 〜
|
『 刀がだいたい今の姿になったのは平安時代の中頃のようですが、それ以降も時代により戦闘様式
が変わり、それに伴い道具としての刀の姿は少しずつ変化しました。
又、素材の鋼の生産方法も変わり、それに伴い、加工技術が変化し、その時代時代の様々な刀の造り
方が工夫されたようです。
現在は、主に玉鋼(たまはがね)を使うようになった江戸時代以降の刀、新刀(しんとう)の作り方が伝承され
ていて、一般的には、刀といえば玉鋼から造ると思われていますが、実際には室町時代以前の刀、古
刀(ことう)の造り方は、ほとんどわかっていません。
安土桃山時代はその過渡期に当たります。私は古い刀の作り方や製鉄方法を主に研究しているのです
が、まだまだ総てが判っている分けではありません。
そこで、ここでは一般的な江戸時代以降の刀の造り方を紹介いたしましょう。
もちろん刀鍛冶には色々な流派があり、各々特色の有る刀の作り方をしているので、以下の手順は一
つの例でしかありません。(左写真は真鍋純平刀匠)
|
(上記文章の書き出しから始まり、以下作刀の鋼材
造り、鍛錬、造り込み、焼き入れ迄の過程が写真と共に解説してある)
鋼材造り・鍛錬
注:古刀など古い時代の刀は、はたしてこの様な段階を踏んで作刀したかは、甚だ疑問です。
現存する古刀と新刀を見比べると、古刀の地鉄は、自然に地鉄の変化が現われているのに対し、新刀の地鉄はいかにも作られた様な
地鉄の変化が目につきます。
おそらく古刀は、材料の地鉄自体が不均質で、その地鉄に必要以上に鍛錬を加えずに刀にしたため、あの様な自然な変化に富む地鉄
が出来たのではないかと思われます。
造り込み
注:古刀などの特に古い時代の刀は、総てこの様な造り込みをしたのか甚だ疑問です。
古い刀でも明かに芯鉄と思われる地鉄が刀の表面に顔をのぞかいて(ママ)いる場合もありますが、全てがそうではありません。
そもそも芯鉄を入れるのは、刀が使用中に折れるのを防ぐのが目的です。
ところが古い時代の刀の地鉄は総体に柔らかく、そういう目的で芯鉄を入れる必要はあまりありません。
どちらかというと、焼き入れで刀全体の剛性を高める工夫がしてある物が有るぐらいです。
刀が折れるのを防ぐために芯鉄を入れると云うのは、おそらく硬い玉鋼を使うようになって、刀が折れる心配が出てきた、新刀以降
の工夫ではないでしょうか。』 (以上原文から必要部分のみ引用、字句は原文のまま。原文は推奨リンクよりご覧下さい)
真鍋刀匠は、作刀解説に先立ち「これは新刀以降の一般的な造り方で、且つ、一つの例にしか過ぎない。古刀の造り方は解らない」と日本刀の普遍的作刀法ではないと云う前提を明確に述べている。
新刀の作刀解説と対比して古刀の注釈が随所に設けられている。
これらの前提文や古刀注釈文の有・無に依って、読者の日本刀の認識は大きく違ってくる。
「古刀が解らない」というのも重要な情報である。
真鍋刀匠は「新刀以降の刀は一つの分野であって、日本刀とはもっと巾広いものである」という明確な所信を述べられている。
「古刀とは違うから新刀と言うので、そんな事は解りきっている」という声が聞こえて来そうだが、現実はどうであろうか。
刀の解説書は、先ず、「玉鋼や皮・心鉄構造が如何に素晴らしいか」から話しは始まり、このような前提説明や但し書きにお目に掛
かった事がない。今も、刀剣界や愛刀家達の多くは「玉鋼と心鉄構造の日本刀神話」に呪縛され続けている。(日本刀神話参照)
その条件の一つでも当て嵌(は)まらない古刀や新刀があったら、それらは何という刀剣なのであろうか。
支那鉄、南蛮鉄、阿蘭陀鉄などを鍛えた古の刀匠達の刀剣は日本刀ではなかったのであろうか。
刀剣界の風潮はそのようにしか受け取れない。
日 本 刀 常 識 の 非 常 識
1
鋼 材 (玉 鋼) に つ い て
平安前期迄の鑪(タタラ)製鉄は炉内温度が低く、得られた鉄塊はヒ(ケラ)、銑(ズク)又はその中間物質が混然とした素鋼塊だったと推定さ
れる。原料が鉄鉱石か砂鉄かも判っていない。
低温還元の結果として有害元素(P, S)の固溶が少ない清浄な鉄塊であった。(古代直刀で証明されている)
東京帝大の俵國一博士は、古代刀10点を化学分析した。その内9本が銅を多く含有し、丸鍛えの末古刀(祐定)も同様だった。
戦後、これらは大陸の含銅磁鉄鉱※1と判明した。造り込みは丸鍛えが半数を占め、意識的に三枚合わせにした物もあった。
古代刀以来、舶載鉄が古刀に至るも長期に使われ続けていたことが実証されている。
古代刀丸鍛えは三段焼入という複雑な焼入れ処理を施していた。
これは高温で丸焼した後、700度以下で焼戻し、更に焼刃土を塗って刃部のみ最も適当に焼を入れる方法だという。
刃部に充分な硬度を与え、棟部に靱性が備わる熱処理だったと言う。
これは古刀期にも引き継がれたと思われる。丸鍛え (無垢鍛え※2) の古名刀の片鱗が窺(うかが)える。
鑪の改良で、平安期頃にはズクの生産が始まったと見なされる。
刀匠達は銑鉄を卸す(脱炭、除滓して刀材を作る)のに大変な苦労をした。
水心子正秀に依れば、往時の卸し鉄(おろしがね)は加減が大変難しく、思うような地鉄はなかなか出来なかったと言う。
日本刀の絶頂期は鎌倉から南北朝にかけて造られた太刀である。機能、刀姿、地肌、刃文の頂点だと誰しもが認めている。
天文時代※3、鑪が変革して千種、出羽、印可の商業和鋼が出現した。その為に零細タタラは衰退した。
然し、これら商業和鋼の刀への利用は何故か60年近く遅れ、慶長時代に入ってからである。
以後の刀匠達は否応無しにこの量産鋼を使わざるを得なくなった。
この商業和鋼は含炭量が多い為に刀身折損の恐れが生じ、堀川国広は軟らかい心鉄を挿入する新たな刀身の造り込みを考案した。
それを可能にしたのは、文禄・慶長の役の後、朝鮮半島からもたらされた「藁灰釉薬」の応用技術の発見が大きな下支えになったと
いう研究がある※。( ※「日本刀地鉄が慶長期に変化した要因」参照)
ただ、歴史上、国内鉄市場は舶載鉄が主流だったので、和鋼の変革のみで新刀移行を語ることは出来ない※4。
江戸中期、徳川の鎖国政策で舶載鉄の国内在庫が底をつき始めた。国産鉄の大量生産の必要性に迫られた。
元禄四年(1691)頃、天秤鞴(てんびんふいご)を備えた量産タタラが出現した。
高温タタラの為、天文の鋼より更に硬い鋼だった。これが明治に玉鋼と通称される。
新刀以降の心ある刀匠の目標は、鎌倉・南北朝期の古名刀の再現にあったと言っても過言ではない。
これらの量産鋼が、武器性能と刀身美の向上に寄与して古名刀に近づけたのであろうか ? ・・・・現実は寧ろ逆に劣化した。
研師の方、武道家の方々の証言や実戦での検証から、古刀に比べて刀身の性能と美は明らかに後退している事が実証されている。
「鉄と人は時代が下がる程悪くなる」とは真理である。鋼として進化した和鋼は皮肉にも刀材としては退化した。
刀は未だに古刀のレベルに及ばない。和鋼神話がそれを阻んでいる。新刀以降の日本刀史は「日本刀衰退史」とも言えるであろう。
量産玉鋼は多岐に亘る日本刀鋼材の中の単なる近世鋼材の一つにしか過ぎない。中世古名刀の地鉄と異質の鋼材である。
天文以降、鋼の俗称となった出羽(いずわ)鋼(石州邑智郡出羽村=邑知(おおち)鋼)、千種鋼(播州宍粟郡千種村=宍粟(しそう)鋼)、印可鋼(伯州
日野郡印可村=伯耆(ほうき)鋼)の地鉄さえも実態は判っていない。
主流であった舶載鉄の時代に依る鉄種との相関々係にも考察が要る。
ヒを破砕する大胴(金偏に胴)が開発された宝暦年間(1751-1763)末から、銑・鉄・鋼を選別して出荷するようになった。
玉鋼※5、それに類する高品質の鋼が市場に出回るのがこの頃で、ほぼ新刀の末期に該当する。新々刀はこの新たな鋼で造られた。
その直前の頃、大炭山を求めて2〜3年を限度に移動していた鑪場が、牛馬の運搬力の増強で大炭(たたら製鉄に使う炭)を求めて移動し
なくて済むようになり、鉄穴流(かんななが)しの普及で砂鉄の採取量が増えてタタラ場は一個所に固定するようになった。
刀剣界はこの時期の新々刀(水心子正秀流)のみを取り上げて、これを古刀からの条件であるかのように意図的に喧伝した。
古代より刀材は舶載鉄が主流だった。幕末の玉鋼や作刀法を古来からとしたのは虚構である。(次ページ参照)
※1
炒鋼又は灌鋼などの支那鉄 ※2 筆者は一枚鍛えと呼称することがある ※3 文献史では未確認。修正の可能性大
※4 実態は下段、及び「たたらの認識」、日本刀諸情報の検証、南蛮鉄・洋鉄考、日本刀の地鉄など参照
※5 元禄の新鋼以降、鋼の極上品は造鋼(つくりはがね) 又は粒鋼と言われた。造鋼を取った残りの鋼を頃鋼 (ころはがね) 又は玉鋼と
いう事もあった。この江戸期の鋼の呼称は、桜ハガネの開発者で、元活タ来製鋼所(現:日立金属)社長の工藤治人博士の論稿に基づく。但し、
江戸期に書かれた原典は示されていない(刀剣ジャーナリスト・土子民夫氏より)。
明治の中期、鋼材商は陸・海軍工廠の坩堝鋼 (るつぼこう) の材料に下級品の頃鋼 (玉鋼) を納入した。兵器用に溶解精練するので極上の
造鋼は必要ないとされた。頃鋼を原料とした坩堝鋼が極めて優秀だった事から上等の鋼を「玉鋼」と呼ぶようになった。「玉」と「砲弾」
(たま)を掛けたという説もある。割鉄 (わりてつ) = 錬鉄をその形状から包丁鉄とも呼ぶようになった
2
作 刀 法 ( 造 り 込 み ) に つ い て
刀剣界は「心鉄を入れるから折れず曲がらずの刀身が実現した」と主張する。これは天文に出現した千種、出羽鋼が硬過ぎて刀身折
損の虞(おそれ)が生じた為に考案された各種硬・軟鋼の合わせの中の一つの作り込みにしか過ぎない。ここにも大きな勘違いがある。
古刀の前〜中期は丸鍛えが普通であり、刃部と刀身硬度は焼入で調整した。往時の地鉄は硬・軟鋼が「練り合わさった」複合材と
推測され、刀身に心鉄を合わせる必然性など全く無かった。それで刀身性能と美は充分に確保された。(斬鉄件・小林康宏参照)
やがて刃金技術を知り、硬い刃を差し込む割刃鍛えが萌芽した。
合わせ鍛えが現れたのは製鉄技術が進化した古刀末期からの現象と思われる。
合わせの一種である皮・心鉄構造は新刀の堀川国広の考案とされる。
これは、それまで心鉄構造の合わせが無かったと言う逆説的証明でもあった。
新たな鋼材では刀身折損が起きる為「止むを得ず軟鋼を合わさざるを得なくなった」というのが正しい実態である。
要は苦肉の善後策に過ぎなかった。
寧ろ、刀材として心鉄を必要とするような量産鋼の質こそが問題と云うべきである。
然も、心鉄を入れる事で結果として刀身性能は逆に後退してしまった。
心鉄を入れるから刀身性能が優れているというのは全くの幻想である。(地鉄の項の久我氏の見解、斬鉄剣・小林康宏参照)
又、三枚鍛え、四方詰めは刀匠の肉体的労力を軽減する為に採られた簡易手法であるが、皮鉄と刃鉄の合わせ目に割れが現れ易く、
その為、非凡な刀匠が大変な手間をかけて実現できるかどうかの矛盾を孕(はら)んだ作刀法であった。
作刀された刀身の8〜9割りは、鍛延火造りの段階で皮・心鉄の配分が物理的に錯綜し、化学的には皮・心鉄間で炭素の交換が行われ、
最早、皮・心鉄構造の意味さえ失い、目論みとはかけ離れた、硬・軟鋼の配分が偏った危ない刀身になってしまった。
この造り込みは、長刀を造る場合、又は腕力が無い刀匠が鋼材重量の関係上、なるべく小さい部分に分けた方が鍛錬し易いのでこ
の方法を用いたに過ぎない。手数が掛かる割には大きな危険を伴う為に、この造り込みはあまり使われなかった。
心鉄を皮鉄で包む構造が論理的に成功したのは、近代科学の力で造られた満鉄刀※1だけだと言っても良い。
然し、この皮・心鉄構造は研直しが必須の実戦刀には不向きであった。研ぎ直しで皮鉄が減り、硬・軟鋼の配分が崩れる為である。
これとは異なる、実用に優れた硬・軟鋼の合わせ鍛が数種ある。これらは研ぎ減りしても硬・軟鋼の比率は変わらない。
実戦の経験から生まれた知恵であった。装飾刀化した時代に頭で考えた空論と、実用刀との実際の優劣を混同してはならない。
丸鍛え(無垢鍛え)
志津三郎兼氏(硬・軟鋼の練り材)、備前長船政光(不均質練り材)、祐定(舶載炒鋼、焼入に工夫)、祐定は舶載鉄の長期使用を裏付
ける。備前春光(硬・軟の不均質鋼練り材)。信國吉包(本体は舶載鉄の割刃鍛え)、小林康宏(スウェーデン鋼とズクの練り材)。
丸鍛えは研ぎ減りしても硬軟綱の割合は変わらない。
志津三郎、備前春光、政光の鋼材成分不明。
同じ丸鍛えでも鍛え方に依ってかなり異なる複合組織となっている。
古刀期の丸鍛えと合わせ鍛えは、時代的な地鉄の変化、地域特性、流派の違いから造り込みの幅を広げたものと思われる。
(日本刀の構造参照)
二枚合わせ鍛え
関伝・兼元、相州廣光は硬・軟鋼合わせ。柴田果(笹掻き鍛え※2、撓(しない鋼=特殊練鋼 ?使用)。信國吉包は割刃金。
二枚構造の最も実用的な造り。研ぎ減りしても硬・軟綱の割合は変化しない。関伝には南蛮鉄混用の流派があった。
複合構造
皮・心鉄構造が一般的と言われる新々刀の中に在って、抜群の強靱性を備えた実戦刀として名高い水戸・勝村徳勝の刀身構造が解
明された。硬・軟鋼を重ねて一回折り返した練り材二枚を左右に接合し、中央の隙間に鋼を配置した独特の構造となっている。
これは新刀、新々刀の構造分類のいずれにも当て嵌(は)まらない。
各々の刀匠が強靱な刀を目指して様々な工夫をした一例と言える。刀身構造は決して一律的なものではなかった。
皮・心鉄鍛え
藤原廣重(四方詰め?)、興亜一心(理想配置の心鉄)、紀政次(マクリ)、守次則定(本三枚)。
興亜一心刀を除き、心鉄が錯綜・偏在して危険な刀身となる。
心鉄構造ではマクリ・甲伏(かぶせ)が最も実用的な造り。マクリ〜四方詰めの性能差はない。
心鉄構造は研ぎ直しで皮鉄が減り、実用上使えない刀になる。
守次則定は戦時刀剣展で優秀とされた刀匠だが、これらの刀は造兵廠の強度試験で脆弱だった※3。
古代から、粘りと硬さの両立を硬・軟鋼の「練り合わせ」や、「張り合わせ」で解決して来た。これは洋の東西を問わない※4。
古刀の多くは異なる炭素量の鋼が練り合わさった複合組織だった。製鉄・精錬技術の稚拙さに依る結果と言える。
焼入に工夫を凝らしたこの丸鍛え(一枚鍛え)の刀身は、支那事変の実戦検証でその優れた性能が証明されている※5。
古名刀の「しなやかな強靱さと地肌の美」の秘密は、実に、硬・軟の異種鋼が練り合わさった不均質な刀身構造にあったと言ってよ
い。異種鋼の「練り合わせ」と、硬・軟均質鋼の「二枚合わせ」では性能が違う。
前者の方が遙かに優れていたと云う事である※6。
丸鍛えが駄目だと言うのは、均質化した量産和鋼や高含炭量の硬い玉鋼を使う限り・・・という条件付きでの話しである。
それでは皮・心鉄構造なら良いかというと、先述したように致命的な欠陥を孕(はら)んでいた。
従って地鉄の抜本的な見直しが必要となった。
古刀地鉄と鍛法が解明出来ないのであれば、化学的に粘硬性、強靱性を高めた刀剣用特殊鋼などはその一つの解決策であった。
丸鍛えを蔑視するのは、無知に依る日本刀神話の思い込みにしか過ぎない。(日本刀神話参照)
洋鋼丸鍛えのスプリング刀も、鋼材の粘硬さで武器性能は優れていた。丸鍛えの優劣は、偏(ひとえ)に刀身地鉄の性質に帰結する。
粘硬性の元素を添加した合金鋼であれば、異なる炭素鋼を合わせる必要は全くない。多くの特殊鋼がそれを証明している※7。
製錬の革新で和鋼が均質になって以降、実用的な合わせ鍛は上掲右図の他、割刃(逆甲伏)鍛え、捲(まく)り(甲伏)鍛えであった。
刀剣界は三枚鍛え、四方詰めを高級な造りだと未だに思っているようだが、それは認識違いの机上の空論に過ぎない。
幸い、江戸泰平の世で刀は使われなくなった。
若し新刀が戦国期に出現していたら、刀身の欠陥を露呈して早々に淘汰されていたであろう。
※4
下欄の捕捉、及び古代鉄剣の構造参照 ※5
実戦刀譚参照 ※6 斬鉄剣参照
※7
造り込みの総括は「斬鉄剣」の項2ページ目、二枚と一枚鍛えの得失比較表参照、素延べ刀、群水刀、鍛えと強度の各項参照
3
折 り 返 し 鍛 錬 に つ い て
折り返し鍛錬をするから強靱な日本刀が出来るという。これは「風が吹けば桶屋が儲かる」という話しである。
ここにも大きな妄想がある。
和鋼の鍛錬で強靱さが増すのは2回の折り返し迄。それ以上の折り返し鍛錬は素延べと同じ強度に落ちる。
調整された鋼では強靱性が変わらず、粗鋼でも十二〜三回の鍛錬に依る靱性の向上は僅か三割にも満たなかった。
「折り返し鍛錬」とは原始直接製鉄で出来る鉄素塊を「使える鋼にする人力精錬法」である。
昔は鉄滓の除去と、脱炭して「使える鋼」にするのにこの手段しか無かった。
これは総ての鍛造鉄器を造る為に、須(すべから)く万国で共通に行われていた普遍的精錬手法であった。
大陸の百錬鉄〜五十錬鉄等の呼称は鋼の折り返し鍛錬そのものを現している。然もこれは刀を造る為の特別の作業ではない。
「鍛える」と言う語彙に惑わされて「特別優秀な鋼が出来る」と勝手に妄想し、これを日本刀独特の手法と喧伝するのは無知も過ぎ
る。電気精錬炉は、人力鍛錬の目的と同じ事を炉内で科学的に実現する。
人力作業を「鍛錬※ = 鍛打、打撃」と言い、工業炉での作業を「精錬」と言う。
両者から得られる鋼で刀を造った場合、強いて言えば「鍛え肌」の有無だけが相違点であろう。
日本刀の目的が「鍛え肌の鑑賞」にあるのであれば鍛錬信奉者達の言い分にも一理はある。
然し、日本刀の生い立ちと目的はそんな馬鹿な話ではない。
和鋼と雖(いえど)も作刀の効率を図る為、予め調製された鋼を製鉄山に造らせ、素延べで刀を造った新刀の著名刀匠達の例もある※。
彼等は「折り返し鍛錬」の意味を明確に理解していた。 ※ 振武刀の井上真改等の逸話参照
「鋼を造る」と「刀を造る」を完全に混同した結果、「折り返し鍛錬こそ日本刀」という誠に珍奇な迷信が生れた。
「鍛錬※」、「鍛え上げる※」と言う語感が、あらぬ妄想を生み出したとも言えよう。
※「鍛錬」、「鍛える」は精錬の科学的無知から生じた日本独特の異様な当て字。手動精錬内容の正しい表現は「鍛打」である
科学技術の進歩で、和鋼を折り返し鍛錬して得られる鋼を凌ぐ良鋼が電気精錬炉から造り出されるようになった。
工業炉から生まれた刀剣用調整鋼は、人力鍛錬の目的を総て炉内で完了しているから直ちに素延べの造刀に入れる。(素延べ刀参照)
スウェーデン鋼の東郷ハガネ、タハード鋼(日本特殊綱)、満鉄の日下純鉄、群水鋼はこうした精錬炉から生まれた。
これを刀剣界や鍛錬信奉者達は「素延べ」として軽蔑している。「折り返し鍛錬」の意味と目的すら解っていない為である。
工業炉の精錬が人力の折り返し鍛錬と同じ目的を果たしており、そこで得られた鋼には、最早、鍛錬など無意味である※。
蔑視されるべきは「素延べ刀」ではなくて、素延べ刀を根拠もなく批判している鍛錬信奉者達の「無知」であろう。
現代に相応しい精錬法から得られる優れた鋼材を総て否定するというのは如何なものであろうか。
刀というものに対する基本的認識の相違としか言いようがない。
水心子正秀は、古刀は銑を良く卸せた時は鍛えずに打延ばし「鋳刀=素延べ刀」を造ったと記している。
正秀は「精錬」と「造刀」の意味を明確に理解していた。 ※ 鍛えと強度・群水刀・振武刀・素延べ刀・満鉄刀など参照
4
日 本 刀 の 総 括
歴史上、国内の消費地鉄が和鋼を主とするようになったのは、早くとも幕末・宝永年間以降である。
幕末の一分野にしか過ぎない新々刀の地鉄と造り込みを、「日本刀」という言葉に置き換えて普遍性を持たせようとした処に全ての
問題が生じている。然も新々刀は日本刀としては退化していた。
玉鋼は、古刀鋼材はもとより、千種・出羽鋼に比べても刀材として一段と後退した鋼だった。
このままだと、古刀の深淵に迫る事は永久に不可能であろう。
又、玉鋼と皮・心鉄構造を絶対視するのは、舶載鉄を丸鍛え(一枚鍛え) した古の刀匠達の英知と作品を否定することであり、日本刀
の歴史そのものを否定することになる。そのような無謀な権利は誰にもない。
造 り 込 み に 就 い て
硬・軟鋼の合わせは日本刀が誕生する1,000年以上前から洋の東西で行われていた。(南蛮鉄」参照)
初期ヨーロッパのメロヴィング剣、小アジアのアドゼ、インドネシアのクリス、ルリスタン鉄剣などが硬・軟鋼の合わせ、束ね(錬り)
として知られている。
我が国に多大な影響を与えた大陸・朝鮮半島でも早くに硬・軟鋼の「合わせ」や「錬り」が行われていた。
これらは工具や朝鮮古斧で確認されている。日本と違い刀剣の伝世品が少く、研究も未開な為に顕在化しないだけである。
刀 身 美 に 就 い て
近藤守重は「劍文考」(内閣文庫所蔵)で、支那の古書「文選」を引用して、古くから刀剣鍛錬に際し、折返し鍛えたことを考証して
いる。大陸では上古から三国時代の頃まで、刀剣製作の技術が盛んで幾多の名刀宝剣が現れ、その中の著しい刀剣が「刀劍録」、
「名劍録」、「龍乗諸記」に記載されている。
刀身上に現れた地肌、文彩を形容した雅名が当時の經史子類の中に、亀文・漫理・縦理・亂理・蟠鋼・松文・梅花鋼・馬牙鋼・蓮花
鋼・芙蓉・龍藻・青萍・采虹・簾紋・渀文など、枚挙に遑(いとま)がない程に散見されるという。
これらは明らかに地肌と刃文を表現する言葉である。
守重は、我が国の鑑(定)法は支那の影響を受けたもので、呉・越・秦・漢より伝来したものではないかと述べ、これらを聞かなくな
ったのは三国時代以降なので、鍛法の伝承を失なったのではないかと推論している。
俵博士は、「古墳出土の直刀に杢目肌顕はれ、焼刃なども種々の文彩を施しあって、右「劍文考」に説くところの支那三國以前の刀劍
鍛法と殆ど差異なき方法に據ったもののように考へらるるのであるから、守重の説く如く、我邦の鍛法が、古く支那の右の國々から
傳來したものであらうと疑ふのも一面の事實に相違なからうかとも思はれる」と述べている。
ダマスカス刀を含め、地刃を持つ刀剣は日本刀だけではない。
刀 身 鋼 材 に つ い て
鄭若曽の『籌海図編』には倭寇が好んだものとして「鉄鍋」が挙げられ、謝杰の『虔台倭纂』には「鉄鍋重大物一鍋価至一両銭、重古
者千文価至四両、小鍋曁開元永楽銭二銭、及新銭不尚也」と記し、日本人が小鍋でも永楽銭2銭を出して手に入れようとした事
が記されている。
密貿易で小鍋を確保したり、倭寇は主に鉄鍋を略奪していた。倭寇の大々的な活動は、明の恐怖の的となった。
これらは、製品として転売するのではなく、溶かしてズク鉄材料として鉄器や日本刀の材料として販売するのが目的だった。
同じく、16世紀の明の役人で、倭寇事情を調べるために日本を訪れて『日本一鑑』を帰国後に著した鄭舜功によれば、「其鉄既脆不可
作、多市暹羅鉄作也、而福建鉄向私市彼、以作此」と述べて日本の鉄砲に使われていた鉄がシャムや福建からの密輸品(収奪を含む)
であったことを指摘している。
こうした状況は何を意味するのか。
日本では、鉄を持ち込みさえすればとにかく売れて、多大な利益をもたらしたということである。
若し、国産鉄が潤沢に供給されていたのであれば、危険を冒してまで密貿易に走ったり、挙げ句の果てに、鉄製品を略奪する倭寇が
跳梁(ちょうりょう)するような状況になる筈が無かった。
これらの実態は、国産鉄の供給が、国内需要を賄えるような量では無かったということである。
この鉄不足は、千種・出羽の量産鋼が出現した後も続いていた。
又、佐々木稔氏らによって国内産の鉄砲などに用いられた鉄の化学分析が行われた。
「日本の砂鉄には含まれていない銅やニッケル、コバルトなどの磁鉄鉱由来成分の含有が確認されており、近世以前の日本国内で
磁鉄鉱の鉱床開発が確認できない以上、国外から輸入された銑鉄などが流通していたと考えざるを得ない」と指摘している※。
※ 佐々木稔/編『火縄銃の伝来と技術』(吉川弘文館、2003年)
こうした状況から、中世から近世にかけての国内鉄事情が浮き彫りになった。
国産鉄の生産量は少なく、入手の手段が、密貿易や略奪を含む様々な手段があったにせよ、外国産の鉄に多くを頼っていたことが明
らかである。(詳しくは「日本刀の地鉄」参照)
5
古 刀 と 新 刀 の 変 化 に 就 い て
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明代末、宋應星の「天工開物」に溶融製錬と原料採取の方法が載っている。
この技術書は日本にも流入した※1。
←「天工開物」の図の右下に「生熟錬鐵鑪」と記してある。生=ズク、熟=錬鐵である
右が溶融製錬、左が精錬(製鋼=炒鋼法)の図
この間接製鉄法は紀元前200年頃の漢代には確立していた
西洋でこれと同じバトル製鋼法が出現したのは、中国に遅れて2,000年後であった
天文〜慶長にかけて、我が国で商業たたら製鉄が始まった。
鉄原料、燃料、炉の構造などが大陸と違っていたので溶融製錬には至らなかっ
たが、炉温の向上でヒが多く出来るようになった。
従来からの支那鉄に加えて南蛮鉄の輸入も始まった。
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これまで、戦国時代の鉄の大量需要の為に千種・出羽鋼などが出現し、この量産和鋼が刀質の変化に繋がったと言われて来た。
然し、商業和鋼の出現※2と南蛮鉄の輸入は、戦国時代が始まった40年後であり、これらが刀に使われるのは更に60年後の慶長以降か
らである。
それでは、戦国時代の大量な刀の地鉄は何を使ったのであろうか ?
非効率な零細たたらの生産量には頼れず、それすら商業鋼の出現で衰退の一途だった。
又、ズク卸しに慣れている刀匠達が、後から参入した新鋼材で造刀法の転換を図るには多大な混乱と時間が掛かる。
これでは大量需要に応えられない。和銑は期待できず、後の商業和鋼、南蛮鉄も使えなかった。
答えは一つしかない。
明の鄭瞬功は「日本一鑑」※3で「鉄砲鋳造用の材料はシャムや福建からの輸入(略奪を含む)に多くを頼っている」と述べている。
これは和銑の欠点を指摘した鉄砲の記述だが、当時の鉄需給の実態をよく伝えている。
解決策は支那鉄の輸入拡大に求めるしかなかった。
これらの事から、大陸の一次量産品で価格も安い銑鉄(ズク)※4や、溶融して鉄素材とする鋳造鉄器※5などが様々な入手経路で大量に流
入したと見做(みな)される。
ズクは、日本側の刀匠の作刀慣習と価格の面で時代要請に適っていた。需要・供給で双方の利害が一致していた。
自家製錬の刀匠達はこの既製ズクに切り替え、既製ズクを使っていた刀匠達は造刀法の工夫で大量需要に応えた。
戦国の世が終わり、明のズク流入は激減したが、地鉄の状況に変わりはなかった。
これが永続していれば新古の刀質差は生じなかった。
佐藤富太郎は切断刀身の検証から「慶長新刀の時代になっても、肥前忠吉、筑州信国、埋忠、大和守安定、越中藤原重清、仙台の永重
などは量産鋼を使わず舶載鉄を使っていた。天文の量産鋼は刀工間で余程の厄介物だったのであろう」と述べている。
新たな商業和鋼や南蛮鉄(新鋼材)は、そのままでは鍛接出来ない鋼だった※6。その為に従来の支那ズクを使い続けようとした。
新鋼材が出現してから60年近くも刀に使われなかった謎が解ける。
ところが、慶長を境に日本刀の刀質が変化を始めた。これは明らかに舶載鉄種の状況変化としか考えられない。
慶長前後、従来の支那ズクに替わり、明から「熟鉄=軟鋼」が流入した。
明の史書「明神宗実録」1612年の条に、日本ではもとの値の二十倍になると記されている。
戦国時代の終焉で、ズク鉄需要は激減した。その為に、貿易商人(倭寇を含む)の転売政策が「錬鉄」の高付加価値商品に転換したと
思われる。明の熟鉄(軟鋼)・南蛮鉄(硬鋼)は、千種(軟鋼)・出羽鋼(硬鋼)に近似していた。
商人達の扱い鉄種の変更で、以降の刀匠達はこれらの地鉄を否応なしに使わざるを得なくなった。
併せて同じ頃、窯業の「藁灰釉薬」が朝鮮半島から移入して、これらの新鋼材がようやく鍛接できる環境が整った。
主流であった明の銑鉄から、国内外の硬・軟鋼に交替する混沌とした過渡期に慶長新刀が生まれた。
主因は舶載鉄事情と、それに重なる「藁灰と粘土汁を組み合わせた釉薬」の応用技法の発見にあった。
※1 江戸時代、貝原益軒も流用して紹介している ※2 「古今鍛冶備考」・「剣工秘伝志」(各、江戸末期)、出雲・田辺家資料(明治の回想記)
などに依り商業鑪の出現を天文としているが、何れも確実な根拠が示されていない。新たな文献史学では発生時期を慶長とする見方がある。
新刀への移行完了を寛文とみればその方が自然と思える ※3 戦国時代に来日し、倭寇、風物や地理を詳しく調査した信頼性が高い希少資料
※4 錬鉄や鋼は二次加工品で、ズクに比べたら遙かに高価だった ※5 鉄製品は鍋、釜などの鋳造品が圧倒的に多い。溶かしてズク鉄素材に加工
するには最も安直な鉄原料となった。倭寇や密貿易商人が、鍋・釜を欲しがった理由である
※6 天文の商業和鋼や南蛮鉄は、古刀期の鉄と違い鍛接剤としての有用なノロ(鉄滓)を含まない鉄だった。従って、古刀期の造刀法では鍛接出来
ない為に刀に使われなかった。詳細は「日本刀地鉄が慶長期に変化した要因」参照。
2007年7月1日より
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