軍刀抄 軍刀身の研究  0

柴田 果       軍 刀 身 の 研 究

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 「国工」 という刀匠最高位の称号を持つ柴田果が、「軍刀身の研究」という著書を昭和12年8月20
 日、柴田 果作品頒布会より発行した。
 これは、陸軍技術本部発行「軍事と技術」(昭和12年6月号)と憲兵司令部発行「憲友」(昭和12年8月
 号)に掲載した論文を改めて一つに纏(まと)めたものである。
 この時の柴田 果の肩書きは大日本刀匠協会常務理事となっている。

 「軍刀身の研究」となっているが、軍刀身とは軍用に使われた刀身の意味である。
 日本刀の原点と本質は「武器」である。
 「軍用刀身の研究」とは、取りも直さず「日本刀身の研究」に他ならない。
 日本刀に「美術刀」等という分野は元々存在する筈が無かった。
 公家が朝儀用に佩(は)く太刀に僅かな例外をみる丈で、日本刀は全て「戦う為の刀」であった。
 柴田 果が披瀝する「軍刀身」への見識は、従来の日本刀の常識とは異なる興味深い内容である。
      陸軍技術本部發行「軍事と技術」(昭和12年6月號)、憲兵司令部發行「憲友」(昭和12年8月號) より轉載
 
                                           大日本刀匠協會常務理事 刀匠 柴田 果

軍 刀 身 の 研 究


序 言 (筆者要約)

昨年12月、知人である陸軍技術本部のS大尉から、軍刀身に就いて相談を受けた。
私は兼(かね)て軍刀身に就いて聊(いささ)か考えていたので、作って差し上げることにした。
此軍刀身には従来の日本刀に對して、多少私の創意を加え、本年2月完成した。戸山學校に於いて試刀を行った結果、切味其他非常に好成績との報告を頂いたので、此際私の軍刀身に對して抱いてゐる考えを發表することは、決して徒爾(とじ=無意味)でないと考え、勸められるまゝに筆を執り大方の御批判を仰ぎたいと思った次第である。

現 代 軍 刀 身 に 就 い て (全文)

軍刀は折れず曲がらずよく斬れて、且つ持った調子が良いといふのが要件であります。
併し乍らこの四拍子完全に揃ったものはなかゝありませぬ。恐らく無いと言っても過言でありますまい。
詰まりこのことは、刀に對する理想であって、如何なる名匠と雖も困難として居ったところであります。
例えば折れず曲がらずに作れば、重いものとなって持った調子が悪くなる、斬れる様に作れば折れ易いものになると言う様な譯であります。
由来名匠の苦心は如何にして其理想に達するかにあったのであります。
私は出来るだけ此理想に近いものを作りたいと考へ設計致したのでありますが、現代の軍刀の負ふべき任務から考へ、更に此理想に
一項を加へる必要があると信じたのであります。

それは零下何十度と言う様な寒地に於いても折れないと言ふことであります。
鐵は零下何十度と言ふ様な寒地に於いては彈性を失ひ、硬さを増すものであるが、現代日本刀研究者としての權威である、文學士工學士岩崎航介先生は極寒地に於いては是までの日本刀では折れる危険があると申されました。
また私の知ってゐるある理髪師の話しでは、冬季剃刀は冷たいまゝで使ふのと、一度び湯に入れて暖めてから使ふのとは、切れ味に就いて餘程違ふものであるといふことであります。
このことが間違ひなしとするならば、古来日本國内に於ける戦争を目的としてのみ作られた日本刀は、西比利亞(しべりあ)、満洲の如き極寒地に於いて或いは完全であると言へない虞(おそれ)があるのではあるまいか、此點に就いて、私は今回の軍刀身に特に注意を拂った次第であります。

材 料 (全文)

この軍刀身の材料は普通鋼に比して更に軟かい。けれども「撓(しな)ひ鋼」を適當に鍛錬して刃部に用いました。
これは所謂「甘斬」を主とすると共に刃に耐久力を持たせたい意味であります。
又 棟部は「卸鋼(おろしがね)」の焼が入るか入らぬかと言ふ程度の軟らかいものを適當に鍛錬して用ゐてあります。
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鍛 錬 と 組 立 (全文)

鍛錬は所謂『笹掻き鍛(ささがききたえ)』と稱する方法によりました、其結果は切斷面は、第一圖の如き切斷面となるのであります。
刀は大抵硬軟二種の鋼を組合せて作られてあります。

 
 そして其組合せ法のうち最も多いのは甲伏(かぶとぶせ)、捲(まく)り等であります。
 此二種の組合せは共に第二圖の如き斷面となるものであります。
 更に四方詰、三枚鍛、折返三枚鍛等がありますが此等は何れも刀匠が、鋼材及労力節約の爲の簡便方法であり
 まして、軍刀として完全なりと申されないのであります。

 古來の刀身斷面圖を見て、此等の組合せによるものと思はれるものゝ多くは、硬軟の鋼は十中八九までは不平
 均に渡ってあります。
 此等の組合せは理想としては最もよいけれども、これが實際に當っては非常な刀匠が、非常な手數をかけぬ限
 り平均に配られることはないので、この硬軟の鋼配置が不平均な結果として、刀身の各部分に強弱の箇所の出
 来ることは免るゝことの出来ないものであると考へられます。

 餘談になりますが、古來硬軟鋼の配置に當って、現在わかってゐるもので比較的完全なりと見るべきものは、
 第三圖關傳の組合せと第四圖相州傳の或一種の組合せ法とのみであると思われます。

 筆者注 
 「四方詰、三枚鍛、折返三枚鍛等は、何れも刀匠が鋼材及び労力節約の為の簡便方法であって、「軍刀」とし
 ては適当ではない。
 この組合せは理想としては良いが、硬軟の鋼を均一に配分するには非凡な刀匠が非常な手間を掛けないと実現
 は不可能である。
 古来のこの方式の刀身断面を見ると10中8〜9まで硬軟鋼の配分が不均質になっていて、刀身各部に強弱が生じて
 戦える刀にはならない。現在比較的完全と言えるものは関伝の組合わせと相州伝のある一種の組合わせしかな
 い」と柴田刀匠は断じている。
皮・心鉄構造に於ける刀匠の目論見と実際の結果との差は、「満鉄刀の全貌」の中の古刀々身断面顕微鏡写真、小倉陸軍造兵廠の現代
刀断面写真でも、硬・軟鋼の乱れた配分が確認できる。
理論と実際の隔たりから、四方詰、三枚鍛、折返三枚鍛等は実用的な刀身構造ではなかった。

 
  關傳は是まで、軟鐵を中に入れ、それに棟金を添へた一種の捲り鍛である様に傳へられて居ります。
  勿論、此種の組合せも多いことゝ思ひますが、私の見るところでは、研ぎ減りの爲に中に入れてある軟鐵が
  刀身に現れて來たものはあまりない様であります。

  又私が折って見た二三本のものも同様であります。
  殊に試刀して見ると、薄いものであっても割合に弾力がある、これによって見るに恐らく關傳のものは、棟金
  として軟鐵を添へたのみのものが相當多いではなかろうかと思はれます。

  果して然らばこれはいくら研減らしても硬軟兩鋼の割合變化を來さないもので、實用刀として適當であると言
  へると思ふのであります。

  筆者注
   柴田刀匠は「関伝はこれまで甲伏せ、又は、捲り鍛えと言われて来た。勿論この様な鍛えも多いと思うが、
自分が見たところでは研ぎ減りした刀身で心鉄が刀身に現れたものはあまり無い。
自分が折って見た2〜3本の刀身もそうである。試刀してみると研ぎ減りして薄い物でも弾力がある。
この事から、関伝の物は、第三図の様に棟金に軟鋼を添えただけの物が相当に多いと思う。
これだと研ぎ減りしても、硬軟の鋼の配合に変化が無いので、実用刀として適当である」と述べている。
この合わせ鍛えは、「日本刀の刀身構造」の項で述べた、近重眞澄著「東洋練金術」に記載の、関・二代兼元(古刀)の刀身断面の観察
記録でも窺い知ることができる。実戦刀に求められた刀身構造だったと言える。

 
栗原昭秀先生
鍛法諸流秘傳による
  次に第四圖に示した相州傳の或る種の組合せでありますが、これも關傳同様いくら研減らしても硬軟鋼の割合
  は同じでありますので、これ亦實用刀として適して居ると思へるのであります。

  以上の外のものは、多くは研がるゝ度毎に硬鋼のみが減る様になってゐますので、何時とはなしに軟鋼の割合
  が多くなり、所謂(いわゆる)心金が現はれ戰鬪力を失ふて終(しま)ふのであります。

  此等の意味から今回の『笹掻鍛』は、いくら研減っても硬軟鋼の割合が同じであると共に、この二種の鋼が程
  よく組合はされてゐる、最も完全にして理想的な方法でありと信ぜられるのであります。

  筆者注
  「関伝の第三図、相州伝の第四図の硬軟鋼の組み合わせ以外は、研ぎ直される毎に硬鋼が減って軟鋼の割合が
   多くなり、所謂心金が現れて戦闘力を失ってしまう。
   その点で、「自分が考案した笹掻(ささがき)鍛えは理想的な刀身構造である」と柴田刀匠は主張している。
   こうした刀身構造に就いては、人間国宝永山光幹研師が話された「古名刀の時代には意外に稚拙な作り方が
   行われていた」 (「日本刀の常識を問う」参照) という見解と一致している。
第三図・第四図の造り込みは、古(いにしえ)の実戦の教訓から考えられた刀身構造だったと言えよう。
刀匠の労力軽減の為の四方詰・三枚鍛・折返三枚鍛等は「戦いに耐え得る刀身構造」では無かった。
装飾刀と化した江戸泰平の世で、四方詰等の造り込みはその弱点を晒(さら)さずに済んだが故に、現代に至る迄、「高級な造り」と錯覚
され続けている。                                            ※ 日本刀の常識を問う参照

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笹 掻 鍛 組 合 鍛 法 (全文)


此際参考として『笹掻鍛』の鍛法を申上ますと、第五圖の様な順序になるのであります。
先ず硬軟二種の鋼を第五圖(1)の如くに接合致します。それから(2)の様に打ち平めますと(3)の様になります、それに圖のやう鏨(たがね)を入れて矢の方向に折合せ之を繰り返して(4)(5)の如く鍛へるのであります。



  (1)硬軟鋼を接合す






  (2)矢の方向に打ち平める



(3)(4)(5)


折返しは3回まで・・・



硬鋼部を刃とし
軟鋼部を棟とす

此鍛法は、折返へし度數が多過ぎると、硬軟鋼の炭素交換が行はれる恐れがありますので、今回のものは七回折返へししました。
即ち硬鋼と軟鋼とは各壹百二十八の相對せる楔状に組合はされて居るのであります。

筆者注 折り返し鍛錬が多いと、硬鋼と軟鋼の炭素交換が行われ、本来の硬軟鋼の組み合わせの意義が損なわれるという事に注目し
   たい。「戦う刀」は必ず「研ぎ減り」が避けられない。
   その為に、研ぎ減りしても、硬鋼と軟鋼の配分比率が変わらない刀身の造りでなければならない。
   関伝、相州伝の一部と、柴田刀匠が工夫した「笹掻鍛」は「戦う刀」の理想であるとしている。
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刀 の 型 (全文)

折れず曲がらず調子がよく、それで斬味がよい、刀としての理想は、刀の型に依ることが多いのであります。
それで、刀の型として一番斬味の勝れたものは、相州傳のものであります。
それは俗に言ふ大段平(おおだんぴら)でありまして反り浅く、身幅廣く、重ね薄く、鎬高く、鎬幅狭く、平肉少なく、先身幅細らず、切先延び、ふくら枯れ、といふのが掟となって居ります。
これは所謂鎌倉末期に當り、それこそ今のラヂオが全国津々浦々に行き渡って居る様に、全國の刀鍛冶によって一齊に作られた型なの
でありますと共に、南北朝末期には、忽然と消えて終った型なのであります。
此間僅かに六十年前後であります。
これは何故でありませうか。わたしはこれに就て斯(こ)う答へたいのであります。
即ち相州傳の刀は、元寇(げんこう)の第三寇(第三波襲来) 、第四寇(第四波襲来)あることを豫想して、蒙古の甲冑に對して作られたものであるといふのであります。蒙古の甲冑は昔の消防手の刺子の如きものに眞鍮の鋲などを打った様なものであることは、蒙古襲來繪巻や遊就館等に飾られてあるもので見ましたが、あれを斬るなら、相州傳の型の刀は最も適當のものでありませう。
幸か不幸か弘安四年の役のあと、元寇はありませんので、かくて日本に於ける頑丈な甲冑には、相州傳の刀が不適當であり、結局また
元の型に返ったものであろうと言う考へは、あながち不自然でない様であります。

然らば、刀として丈夫な型とはどんなものかと言へば、先ず大和傳の型が第一であらうと考へます。
この大和傳の刀は、試刀などに當り特にズバ抜けて斬れるといふようなことはありませぬが、其地味な點は折れず曲がらずといふことに就いては一番心配がないと申してよいのであります。
それではこの大和傳とは如何なる型のものであるかと申しますと、鎬高く、鎬幅廣く、重ね厚く、平肉豊かに、といふのが掟とな
って居ります。
従って今日の軍刀として理想の上から言へば、相州傳の様に斬れて、大和傳の様に丈夫で、而も持った調子のいゝものであることが必要であると考へるのであります。
そこで今回作った軍刀身は、丈夫なところは大和傳に傚(なら)ひ、斬味は相州傳を模したのであります。
換言すれば、斬るところ即ち物打より上を相州傳とし、折れ易いところ、鍔元より約一尺位までを大和傳としたのであります。



即ち第六圖の如く切先に行くに従って次第に鎬幅を狭くしたのであります。
此型の利益とする點は、次の如くであります。

 (1) 一番に屈撓 《くつどう=曲がり撓(たわ)む》 を受ける鍔元は丈夫である。
 (2) 中間から上は切味がよい。
 (3) 持った調子が良い。
 (4) 反りの浅いので突きがよく利く。
 (5) 鎬幅が切先に行くに従って狭いので反りの深いものと、同様の調子である。
    故に片手切薙切(なぎきり)には彎刀(わんとう)同様である。

即ち、第六圖點線の刀と同一調子である。

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樋 に 就 て(要約)


此際樋(ひ)に就て申上げて置きたい。
樋を掻(か)くと、刀身が輕くなり、上手に掻くと調子がよくなり、曲がり難い殊になる。併しそれと同時に缺點(けってん)も相當にある。
現在残されてある樋を掻いた刀は、その十中の五六までは磨上げて短くした爲、調子を毀(こ)はしたものに調子をつける目的で掻いた俗に言ふ後樋である。即ち樋に依って刀身を削る量を加減して調子を整えるといふものである。
時には鎬筋の疵を削り取る目的で掻いたものもある。
次ぎに缺點を言えば、樋を掻いたものは一度曲がると元の型に直すことが非常に面倒である。大方その曲がった部分に節がついて了(しま)ふ。
手數をかけて原型通りに直った様に見えても、少し無理をすると一度曲がったところからまた曲がることが多い。
これは試刀の際などしばしば現れる。
樋のある刀を試した時、或部分が急角度に曲がったら、その部分は會て曲がったことがあると思って大抵間違いない。
樋を掻いた刀身は折線的に曲がるので全く始末が悪い。
樋を掻かないものは、會て曲がったことのある痕として「百足(むかで)しない」などを残してあるものでも、その部分が特に弱いと言うことはない。
樋を掻いた刀を振るとヒユヒユと笛のような音が出るので、古來夜討に忌むとされる。
樋の缺點は右の通りで、已むを得ないときに掻けばよいので初めから調子のよいものであれば、別に樋の必要は無い。
初めS大尉から樋を掻いてはとの相談があったが、以上の理由を以て今回の刀は樋を掻かないことにした。
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燒 刃 に 就 て (全文)

次ぎに燒刃に就て申上ますが、これは亂刃を燒きました。私は實用刀には是非亂刃でなければならぬと考へて居ります。
これは數年前の試刀會の時でありましたが、何時も同じ竹を入れた藁束ばかり斬るのも興味が薄いからと云ふので、三分厚二寸幅の眞鍮板と、毀れた刀掛からはづした鹿角とを試したことがあります。
その結果は亂燒のものは、刃の缺損の幅が狭く、直刃のものは缺損の幅が廣い事實を認めたのであります。
其後數回の實驗と、他の實例とによって亂刃のものは、硬い狭いものを切るに際しては、直刃のものより遙かに實用價値が高いと言ふ結論を得たのであります。
このことは昭和十年九月の中央刀劍會誌=東京九段遊就館内中央刀劍會發行=に詳細に書いて置きましたので御参照下されゝばはっきり致します。
元來亂刃の足入りに就ては、私等刀匠の立場から、是まで最初燒刃渡の際に刃切れを恐れての細工であって、それが却って美術的立場から鑑賞せらるゝことになったものと考へて居りました。
そして實用上亂刃と直刃との差異に就ては、従來何等關心を以てゐなかったのでありますが、試刀の結果より見て亂刃足入りのものは、最初から實用本意が主となって作られたもので、刃切れを防ぐことも、美術的立場からの見方も、要するに第二次的副産物として見ることが至當の問題であったのであります。

現に戰國時代頑丈に出來た甲冑に對して作られた實用一方と言ふ刀は、殆ど五のノ目丁字亂刃足入りであると言ふことは此點を暗示して居る様に思はれます。
又一方から言へば、元來刀は地鐵に硬軟の鐵を組合はせて作るといふことは、前述の如く折れず曲がらずと言ふことを主としたものであって、若し同一硬度の鋼を以てしたならば、硬きに過ぐれば折れ、軟に過ぐれば曲がると言ふことは當然の事であるので、其結果硬軟の鐵の組合せが、實用上から研究され改良されて發達したものなりとするならば、同様の意味で刃毀れに就ても、其性質上硬軟の部分があって、これを防ぐ方法が無ければならぬ。此爲め亂刃足入りと言ふ軟い線の部分を、硬化させた刃部に入れると言ふ工夫もあって然るべきと信ずるのであります。

筆者注 従来、実戦刀は直刃が良いとされていた。
  柴田刀匠は乱刃に軟らかい足を入れる事で直刃に比べて大きな刃毀(こぼ)れを防ぐという事を試刀と実例から結論付けた。
  焼刃渡しの刃切れを防ぐ目的で乱刃が着想されたが、結果として大きな刃毀れを防ぐ事になった。
  これは注目に値する。乱刃は実用の観点から生まれ、鑑賞の対象になると云う副次的効果をもたらし。
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(より)直 し (全文)


最後に軍刀として閑却 (かんきゃく=なおざりにする) することの出來ない最も重要なる一事があります。
それは燒入後の縒直(よりなお)しであります。
刀は如何によく鍛錬して、如何に入念に燒刃を渡しても、硬化した刃部は膨張しますので、刃部にのみ燒の入った刀身には鍛冶慣用語の『張り』に不平均なところが出來るのであります。
それで此最後の縒直しをしなかったなら、恐らく鈍刀と異ることは無かろうと思ふのであります。
一體刀匠は此縒直しに就ては比較的神經が太い爲であるのか、是までの鍛刀法を書いたものには閑却されて居る様であります。
 論私もその一人でありました。
然るに昨年製作しました新藤五國光寫の短刀を、折から來遊中の宮形光盧先生に所望されたので、喜んでそれを進上したのでありますが、その八寸に足らぬ短刀は縒直しを充分にやって無かったので、宮形先生は研上げに當って、非常な苦心を拂って、而も尚ほ完全に行かなかったと言ふことを本年一月の刀園『研の随想』として發表されたのであります。
僅八寸に足らぬ短刀、それでさえ此通りであります。
まして二尺二寸以上の刀にして縒直しを完全にして置きませぬと、あたら銘刀も臺無(だいな)しになるのであります。

それでは一體縒直しとはどんなことをするのであるかと言ふに、刀は燒入の際、硬化した刃の部分、即ちマルテンサイド組織となった部分の鋼は、其體積(たいせき)が膨張して、此時初めて刀に反りのつくものでありますが、燒の入った處は延びて燒の入らぬ部分は其儘でありますから、そこに刀身中不平均な部分が出來る譯(わけ)でありま す。
しかも其體積の膨張に依って起った變形(へんけい)は、棟部を延ばし或は縮めて型を整へるのでありますが、此際にも又刀身部分の
『張り』に不平均なところの出來るのは當然のことであります。
此平均して居ないものに對して、神經の太いと言ふか迂闊(うかつ)と言ふか、多くの刀鍛冶は刃部を厚いまゝ眞直として置き、大抵この位にして後は研師の方でやって貰へるだろう位に考へて、そのまゝ研師に廻すのであります。
(もっと)も縒を完全に直して研師に廻す人もあるかも知れませんが、研の大家宮形先生は現代刀は殆ど縒れて居ると言って居られます。又恐らく古い刀も出來たときはこんなものであったものが、永い年代のうち、減るところは減って、適當なものになったものもまた多くあったのではなからうかとも思はれるのであります。

そこで此縒を完全に取らずに試刀して見ますと、打撃點に歪みが出來るのであります。即ち今までいゝ加減に刀身の機嫌を損じない様にしてある縒は打撃點に現れるのであります。
一體刀を素振りすると、歪みが直る場合と出來る場合とあるとよく言はれることでありますが、それは大抵この縒直しが原因すると思はれるのであります。
この歪みは、いくら『撓木(とうぼく=たわめぎ)』で直しても仲々うまく直らぬ。
右に縒れたと思ふて撓(たわ)めると左に寄り過ぎる。
これを直すと今度はまた反對に縒れ過ぎるのでありまして、宮形先生が『現代刀に限って歪みが取り去ることが出來ぬ全く途方に暮れる程のものがある云々』と言はれてゐるのであります。
詰まりこの縒れは鋸(のこ)の腰の抜けたもの同様でありまして、此刀身の不平均な部分を平均させて終(しま)はぬうちはどうにもならないのであります。而して此縒は刀の切味に大いに關係するのであります。

古い刀で試刀してみても、意外に丈夫な刀であって、それが打撃點から歪むものがあります。
割合に華奢(きゃしゃ)なもので歪まぬものもあるのでありますが、これは全く縒が完全に直されてゐるのか、ゐなぬかの結果であると思はれるのであります。
此點に就て今回の軍刀は非常に苦心致しました。先ず刀身の狂ひを直して大抵刃も棟もウネリが眞直になったところで、巻藁に棟部から或は刃部から(此時はまだ刃が付いて居りません)或は兩平ラから打って見ました。
其結果、此刀身の不平均なところは或は縒となり、或は刃のタゴミとなり、或はウネリとなって現れました。
そこで又此歪みをよく取って、更に又棟及兩平ラから巻藁に打ちつけて不平均なところを現して歪みを取り、かくして十数回この操作を繰り返しましたところ、刀身に彈力がついて中心を握ってゐる手に、巻藁に打ちつける度びにビンとはね返る彈力がついて参
ったのであります。
(こ)うした結果は『相當數多く切ったがビクとしなかった。大に自信を得た』といふ試刀の御報告を得たのだと信じて居ります。

試  刀 (全文)

次に試刀でありますが、今回の軍刀に刃をつけ天草砥までかけて行って見ました。
折から雪が降って居りましたので酒造會社の屋上で樽の上に板を渡し、その上に空俵に箍竹(こたけ=竹のたが)を入れて束ねたものを斬ったのでありますが何れも全斷致しました。また吊し斬を試みました結果も同様であります。
そこで全然心得の無いものにも斬らしてみたいと思ひ、酒屋の若衆に斬らしてみましたが、これも全斷でありました。
そして次第に斬れ味が冴えて來たのは面白い現象でありました。これは鋼の選定に關係して居ると思はれるのであります。

昔に燭臺(しょくだい)を切ったとか、兜を割ったとか言ふ刀は矢張り『甘斬れ』の刃味のものであったと思はれる節がありまして、鍛冶が生鐵を切る鏨(たがね)は最も硬度の低いソルバイト程度の燒入れをしてゐると同様の理由ではなからうかと思ふ次第であります。

次ぎに試刀の打撃點に就てゞありますが、これまでの經驗によると、切先の重い刀は打撃點は短い様に思はれまして、時には一寸に足らぬものもあるやうに見えるのであります。
打撃點の研究に就ては「昭和十一年十二月と同十二年一月の『刀園』=東京下谷區東黒門町十九、刀園社發行」に書いて置きました。
今回の刀身は切先を割合輕(かる)く使へる型とした爲か打撃點は餘程永くなって居る様に考へられました。
其學理上の理由はわかりませんが、此様なことも閑却(かんきゃく=なおざりにする)出來ない軍刀の一資格でありと考へられるのであります。
試刀の日は建國祭日に當って居りましたので神武紀元と建國祭日作の銘を鐫(き)った次第であります。

結 語 (全文)


以上は私の軍刀身に就て考へて居ったことでありまして、今回鍛造した軍刀は實に私の創意を具現したものであります。
幸い試刀の結果も三束全斷との御報告を得ましたので、私の考へに間違ひのなかったことを喜んで居る次第でありまして、勸められるまゝに御参考まで發表致したのであります。

          


世界に於ける鐵の權威             
本多東北帝国大學總長(右)と
柴田 果(左)氏

昭和11年10日17東北帝国大學
金属工學科教室にて
柴田 果氏鍛刀研究發表の時撮影
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柴 田 果 作 刀 の 斬 味

陸軍技術本部、S工兵大尉より試刀報告手簡 (全文)

・・・・御返事おくれてすみません。一昨日戸山學校に持参、T大尉、S大尉に見せたところ S大尉は次ぎの様な話しでした。
「・・・軍刀は切れるばかりではいけないと思ふ云々」全く先生と同じことを試刀の前に注意されました。
S大尉はまた「・・・切れるからと言うて軍刀の資格はそればかりではいけない」これまた先生と同じ様な事を言はれました。
そこで小生「この刀は切味は兎も角、日本一の刀鍛冶が作った自慢の刀なんだ」と申しました。
そして、三束の巻藁を重ねて先ず小生切りました。小生は気魄だけはそのつもりでも此處數年間やりませんので残念ながら二束半しか切れません、Tは切方の悪いところを直して呉れました。
今度Tが切ると見事に三束を切り尚餘裕ある状態、Tは切味に驚いたとの事です。
更に一名の教官が切ると、これも見事に三束を切って下の板まで切ってしまいました。
此外皆同様です。
T 曰く「Sさん、刀がよいからもっと腕を養ふことですね」 「そうか、刀の手前やらねばいかんな」
T 「しかしまさかSさんは二人を一刀の下で切ることもあるまいからそれで充分ですよ。切味を主としないで作った刀がこれ程切れるなら滿點です。
是まで戸山學校にて試した他の刀でこれ程切れる刀は先ずありません。大抵二束でやってゐるんですよ。」・・・「持った調子もよし、重さも適當で實に立派なものです。」・・・精神をこめて作った刀は古來上作として非常によいものがある、折角大切にせらるゝがよいとの事でした。
三十口も切ったがビクともしません、大に自信を得ました、早く外装しやうと思ひます。それから早く研いた(ママ)ところを見たいです。
外装してからにしますと白鞘は不要になるわけですね。右報告申します。
「有用の美」といふ言葉が建築、機械等に出て参りました。
最も機能的なるもの美なりといふ意味で、この刀はその極致を表はした様に思ひます、何れまた研をお願申上げます。

   柴田 先生 侍史


筆者所見 
刀匠柴田果は、特定の刀匠に師事した訳ではなく、独学で打ち刃物の鍛錬を習得した。
こうした背景が固定観念に囚われず、より良い刀身への発想を可能にしたのではないだろうか。
軍刀身が備える要件として、折れず、曲がらず、良く斬れて、持った調子が良く、耐寒性能を備える事を挙げている。
従来の日本刀は日本国内の使用が前提だった為、極寒では低温脆性で使い物にならなかった。シベリアや満洲での使用を想定すると
耐寒性能は必須の要件であった。これらの目的を達成する為の刀身構造に「笹掻き鍛え」を創出した。
従来、甲伏せ・捲りは四方詰・三枚鍛・折返三枚鍛等より拙いものと蔑視されていた。
柴田刀匠は、四方詰・三枚鍛・折返三枚鍛等は鋼材及び労力節約の為の簡便な方法であって、一つの理想ではあってもこれを実現するには非凡な刀匠が非常な手間を掛けないと実現出来ない鍛錬法であると断じている。

実例から、8〜9割は硬軟鋼の配分が偏っていて「戦いに耐える刀」にはなっていないと洞察した。
簡便な手法にも拘わらず、非凡な刀匠が大変な手間を掛けてやっと実現出来るかどうかという矛盾を孕んだ造り込みであるという。
これらの造り込みは頭で考えた机上の空論に過ぎないという事であろう。

鋼材は刃部に普通鋼より軟らかい「撓(しな)い鋼=しなやかな鋼」を、棟部には「卸鋼=おろしがね」を用いている。
戦う刀の致命傷は折損である。刀身の折損防止と耐寒性能の確保からこうした鋼材を選定したものと思われる。

焼刃に就いては乱刃足入りでなければならないと結論付けている。直刃が実戦向きとの通念を完全に覆した。
刀の形は頑丈な大和伝と斬れ味の相州伝の長所を組みあわせて独自の形状を創り出した。
大段平でありながら片手の薙斬りは湾刀と同じ調子を持たせている。

柴田果が刀匠に師事し、流派の掟に縛られていたら、こうした独創的な発想は出来なかったに違いない。
又、刀匠達が殆ど気に留めていなかった刀身の縒(より)は、刀身の歪みと斬れ味に影響する為に、この縒を取る事にかなりの腐心をしている。

柴田刀匠は「刀の目的」を明確に見据えて一つの結論を導いた。
日本刀は装飾品ではない。戦いの道具であり当然に実用品であった。
この柴田刀匠の「軍刀身」に対する考え方は、日本刀を追求した一つの姿に外ならない。
現在通説となっている刀身鋼材、構造、刀の姿五ヶ伝などと云う観念を超越した日本刀の姿がここにある。
冒頭にも述べたが、日本刀の本質は「戦いの刀」であり「戦いに耐え得る刀」でなければならない。
断じて美術装飾品等ではないし、又、そうであってはならないと思う (今どき日本刀を武器として使えと言っている訳では無いので誤解無きように)。
そう言う意味で、ここで言う「軍刀身」は「日本刀身」と同義である。

日本刀は五ヶ伝の為にあるのでもなければ鋼材の為にあるのでもない。
この事はいずれ別項で述べたいと思う。
刀匠柴田果が投げかけたこの研究は、日本刀とは何かを考える大きな一石であると云えよう。

    柴田果 鍛刀經歴 (全文)

 ▼幼時より鍛冶に興味を持ち刃物製作に従事す。
 ▼東北六縣聯合工藝品競技會に、商工省嘱託にて、二回打刃物の審査員を勤む。
 ▼昭和九年帝展入選。
 ▼昭和十年三月東京白木屋にて個人展覧會開催、全部賣約。
 ▼同五月、秋田放送局より、日本刀に就いて放送。
 ▼同六月、第一回新作日本刀展覧會に審査員を勤む。
 ▼同出品刀五百點、入選貳百點中より、特別最優等賞授與せらる。
 ▼同大倉男爵家より、本渓湖神社奉納刀二振御下命、鍛錬。
 ▼同十一月、文部省公園、第一回日本刀展覧會審査員を勤む。
 ▼同出品短刀、總理大臣賞授與せらる。
 ▼同、最優等の故を以って、大日本刀匠協會の名によりて皇后陛下へ御献上御嘉納あらせらる。
 ▼同、東京金鶏(原文はにわとりの旧漢字=webで再現不可)學院にて刀劍鍛錬に就て講演。
 ▼昭和十一年八月、伊勢國、猿田彦神社御神刀二振ご下命、鍛錬。
 ▼同、九月、大日本刀匠協會第一部副部長推薦。
 ▼同、十月、東北帝国大學工學部金属工學科教室にて、鐵鍛錬と、燒刃に關する研究發表。
 ▼同、文部省後援、第二回日本刀展覧會にて創設陸軍大臣賞授與せらる。
 ▼昭和十二年一月、大日本刀匠協會、最高の名譽たる『國工』の稱號授與せらる。
 ▼同、帝國在郷軍人會長鈴木荘六閣下より、伊勢國天照皇大神宮、尾張國熱田神宮奉納刀二振御下命、鍛錬。



2013年9月16日より(旧サイトから移転)
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