軍刀抄 満鉄刀の全貌  0
「興亜一心」誌

満 鉄 刀 の 全 貌

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表紙
                興亜一心刀
         The whole aspect of the Koa Issin sword

 昭和14年7月25日、南満洲鉄道株式会社大連鉄道工場刀剣製作所によって発行された「興亜一心」とい
 う満鉄刀の解説書が発掘された。
 試作後の初期には「満鉄刀」と呼称されたが、昭和14年、松岡総裁により「興亞一心刀」と命名された。
 表紙の揮毫(きごう)は満鉄総裁を務めた松岡洋右(後の外務大臣)の手になるもので、茎銘に類似字体が切ら
 れた。
 昭和14年春以降は「興亜一心刀」が正式名称である事がこの資料で明らかになった。
 日本刀を分析し、近代科学の力を駆使して、従来の日本刀を凌駕(りょうが)する性能の刀身を安定的品質
 で、且つ大量的に生産した処に「興亜一心刀」の真髄がある。
 満鉄の威信を賭けたこの刀身の実態は、世上の俗説を一掃することになった。
 この満鉄刀の実態は、「日本刀とは何か」という問題を我々に投げ掛けている。
 研究者が発掘された本誌と、満鉄刀に関する資料を纏めてここにご紹介します。

満鉄『興亜一心』について

(About a sword book titled " Kōa Isshin" published by South  Manchuria Railway Ltd. in Dalian China in 1939.)

-- 自 序 --

 昭和十年代から終戦まで、南満州鉄道株式会社(満鉄)が「興亜一心刀」と名命した刀剣を大連で製作していた。
 鉄道会社が刀剣を製作した事実を奇異に思われるかも知れないが、巨大知識技能集団としての当時の満鉄にとって、独自に鋼を開
発し、新工法による量産可能で高性能な刀剣を開発し製作する事は、さほど困難な事ではなかったであろう。
 一つの研究成果の応用として、又、大陸での当時の刀剣需要に応ずるべく、刀剣製作に着手したものと思われる。
 刀といわず、すべからく金属は極寒地帯では脆くなる特性があるから、戦闘時のそうした危惧を払拭する為に、興亜一心刀が極寒
地対応の耐寒刀としての性能を併せ持つ刀として開発されたのも事実であった。

 伝統的鍛錬法と材料によらないで製作された刀剣は、戦後日本では昭和刀・粗悪刀の範疇で括(くく)られ、法的にも所持が出来ない
ことになっていて、興亜一心刀/満鉄刀もこの範疇に入れられている。
 その上、興亜一心刀が満鉄の鉄道レールを原料として製作されたとする謂われのない噂話が、戦後60年を経過した今日でも流通し
ているのは何とも残念である。

 興亜一心刀/満鉄刀について興味を抱いてから、何ら知る資料が無く過ごしていたところ、櫻本富雄氏の著書である『戦時下の古
本探訪 こんな本があった』(平成9年発行)を読み、興亜一心刀の事について書いた『興亜一心』という題名の本が存在することを私は初めて知った。氏がその本の内容を部分的に引用され、ご紹介下さったお陰である。
 その本は昭和14年に南満州鉄道株式会社大連鉄道工場刀剣製作所によって発行された本であった。
 興亜一心刀の製造元が発行した本であれば、これほど確実な資料は他に無いはずだ。
 私は何としでもその本が欲しくなり、探し、そして見つかる事を願った。
 それから何年か経ち、願いが天に通じた為か、『興亜一心』を今年の7月(2005)に遂に入手できた。
 一途に探し求めていれば、本の方から姿を現して来てくれるものだと云う奇縁を正に実感した。また、櫻本氏の著書に出会わなけ
れば、私は『興亜一心』の存在を今も知ることが無かったであろうし、入手する機会も失していたに違いない。

 満鉄が興亜一心刀について活字化した物で遺してくれていた事と、水火の難にも遭わず、現在まで無事にこの本が伝わった事をあ
りがたい事だと私は思っている。今となっては、恐らくこの本はごく少数で、珍籍の部類であろう。
 『興亜一心』は、福永酔剣 氏、櫻本富雄 氏により、一部内容や書名が既にご紹介されている。しかしながらこの二書は、『興亜
一心』の口絵の白黒写真や興亜一心刀の刀身断面写真、顕微鏡写真、硬度測定表、鋼の成分分析表などを紹介されておられないので、このたび『興亜一心』を入手したのを機に、この本の全貌を示し、以て同好の諸氏とこれを共有したいと願うものである。

(引用に際しては旧漢字・かなは現行のものにほぼ改めた。また「P」はページの略である)


大連の満鉄本社
            工場全景 →



 大連の南満州鉄道株式会社鉄道工場は、その規模・設備・能力を以て東洋一と当時称されていたのである。
 ここに、「南満州鉄道株式会社鉄道工場概況」と題した昭和8年に満鉄が発行したパンフレットがある。
 これによれば、工場の沿革は、「明治四十年四月一日会社営業開始時に於ける工場は大連駅構内に在り、仮建物にして至って小規
模のものに過ぎず、作業上不便なりしを以て新工場を企画し、地を当時の大連郊外北沙河口(さかこう)(大連北方約四粁)に相し、明治四十一年七月起工、同四十四年竣工、新工場全部の作業を開始し以て今日に至れり」とある。

 面積規模としては、工場敷地 991,874平方米、水源用地 37,358平方米、計 1,029,232平方米である。
 この1,029,232m2を分かり易く換算すると、東京ドームの建築面積が46,755 m2として、この22倍の広さであった。
 この他に、この工場敷地に隣接して324,000m2(98,010 坪)の土地が社宅用地として附属していたのである。

 工場敷地に於ける建物は大小合わせ九十五棟、全ての建物内には暖房設備を有し、木工場には自動消火設備まで備わっていたので
ある。そこでは、事務所、組立職場、旋盤職場、製罐職場、金交(金偏に交)鋲職場、仕上職場、鍛冶職場、鋳鉄職場、鋳鋼職場、
模型職場、動力職場、貨車職場、製材職場、客車職場、塗裁縫職場、車台職場、電気職場、工具職場、倉庫、再生品職場などがあり、自社使用の工具類の製造から機関車や客車の大規模な修理は勿論のこと、あの有名な機関車パシハ・豪華な客車に至るまでこの工場でほぼ一貫製造していた。
 興亜一心刀は、この様な施設環境の一角で製作されたのである。
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-- 『興亜一心』について --

 『興亜一心』と題されたこの本は、昭和12年頃から終戦まで南満州鉄道株式会社大連鉄道工場刀剣製作所において製作していた興
亜一心刀、いわゆる満鉄刀とも称されている刀剣について詳しく解説した本であり、同所によって昭和14年7月25日に発行された。
 表紙の色は深緑色のハードカバー、表紙と背に金箔文字にて興亜一心とある。
 四六版、口絵写真5ページ(五枚)、目次のほか本文84ページである。
奥付によれば、著者名は元々無く、編集兼発行人として鈴木鷹信となっている。『栗原彦三郎昭秀全記録』の148Pに鈴木鷹信氏の写真と昭和12年時点で満鉄庶務課長という肩書きが載っている。
 昭和12年11月発行『日本刀及日本趣味』の23Pには、鉄道工場庶務課長とある。
 内容は、口絵の白黒写真が5枚のほか、前半(1P〜31P)は満鉄が興亜一心刀を製作するに思い至った経緯、命名の由来、現代的鍛
法によった興亜一心刀がいかに古作刀の硬度に近く、しかも理想的な形で心鉄が入っているかを刀身切断面の写真や顕微鏡写真を示
しながら説明している。鋼の分析表では興亜一心刀と他の古作刀との成分を比較している。
 鍛錬法や焼入れ法についても簡単に記してある。
 興亜一心刀による据え物や動物などの試斬りの結果についても記述があり大変興味深い。
 後半(31P〜84P)は刀身の名称、刃文の名称、刀の鑑かたや取扱作法についての一般的・教科書的な内容であり興亜一心刀に関す
る記述はない。
 記述もさる事ながら、特に口絵の写真、興亜一心刀の刀身断面写真と顕微鏡写真、硬度測定表、鋼の成分分析表などは貴重な資料
である。もし当時の満鉄の刀剣製作所の資料などが存在し今後発見されれば話は別だが、管見では、この『興亜一心』以上に詳しく
書かれた書籍は現在のところ皆無だと私は信ずる。 
 この本がどの様な動機で発行されたのか分からない上に、市販だったのか非売品だったのかも分からない。
 敢えて想像すれば、口絵写真の25年勤続者賞の豪華な糸巻き太刀拵えにこの本を添付したのか。
 或いは株主総会開催時の“お土産資料”的なものだったのか。
 とにかく、どの様な動機であったにしろ、このような資料が満鉄によって印刷された形で今に遺っている事が大変ありがたい。
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-- 口絵写真について --

 この本の口絵写真の第一番目が”興亜一心”の墨書、署名は松岡洋右だけで肩書きは書かれていない。
 表紙題名の金箔文字がこれである。やや右肩上がりの特徴が興亜一心刀の銘に似てなくもない。
 松岡洋右とは勿論あの有名な松岡洋右(1880 - 1946没)である。 
 松岡洋右が満鉄の総裁だった期間は昭和10年8月2日から昭和14年3月24日迄であり、この本が発行された昭和14年7月時点では、
満鉄総裁は大村卓一氏であった。



この本の記述の中には、元総裁とか前総裁といった表現は無い。
満鉄刀剣製作所が前総裁であった彼に敬意を払ってこの本の為に揮毫を申し出たか、
或いは以前に何かの折りに認めてあった彼の書を撮影したのかも知れない。


二枚目の口絵写真は、九八式軍刀拵の写真。キャプションとして、
「満鐵製作軍刀 刀身 興亞一心刀」とある
 
 三枚目の口絵写真は、興亜一心刀の表裏の全身写真。銘は、(表)興亞一心 満鐵作之、(裏)昭和己卯春(昭和14年)である。



 四枚目の口絵写真は、興亜一心刀の切先から物打ち迄と茎の接写々真である。茎の興亜一心銘の「亜」が、旧字体の「亞」になっ
ている事に特に注目したい。経眼した興亜一心刀の銘は、ほとんど「亜」と切られているので、「亞」銘をこの写真でしか私は経眼
したことがない。興亜一心刀の最も初期は、「亞」銘だったのであろうか。
 二つの銘の比較を下の写真に示した。写真の左側が昭和17年製作の「亜」銘の興亜一心刀である。
 右側が4枚目の口絵写真の昭和14年製作「亞」銘の興亜一心刀である。

     「亜」銘と「亞」銘

左: 昭和17年製作「亜」銘 右: 昭和14年製作「亞」銘

 最後の五枚目の写真は、満鉄製の糸巻太刀拵えの写真である。
 キャプションには、「二十五周年勤續社員贈呈用満鐵製作 興亞一心刀身入太刀造」とある。
 さすが超巨大企業、立派な太刀拵えと興亜一心刀を贈られた社員は何人位だったのだろうか、気になるところだ。
 満鉄のロゴマークが、縁、目貫、鐔などのどこかに有りそうな気がするが、この写真からでは分からない。戦中・戦後の混乱を経
 て、果たして現在の日本にこの満鉄製太刀拵えが存在しているであろうか、大いに気になるところである。


この満鉄刀太刀の現物はこちらを参照
3

--  製作法の記述について --

 この本の鍛錬法と焼入れ法についての記述が短いうえに、しかも曖昧で説明足らずの感は否めないが、それは時節柄なのか、或い
は企業秘密の故か、そう易々と"軍刀"としての刀剣製作工程を具体的に公開する訳もいかなかったのか、或いは技術的な記述をわざ
と避けて平易な読み物とする意図があったのかも知れない。
 今更申しても詮無い事だが、わざわざ顕微鏡写真まで掲載しているのだから、設備や鋼材の簡単な絵図でも良いから載せて貰いた
かったと思うのが私の正直な感想である※1参照

 会社独自の「モロ包み」(6P)と称した製作法や焼入れの「独特の加熱炉」(20P)という表現だけでは、どんな方法・設備・工程で刀剣を製作したのかまったく見当がつかないので、この本より少し前後に発行された戦前の書籍を参考にすると、いくぶん明らかになってくる。以下、これらの書籍から引用する※1参照

1. 昭和12年11月発行『日本刀及日本趣味』(第2巻第11号)は、この本「興亜一心」が発行される2年ほど前に発行されたものであ
  るが、同誌23Pに下記の記事が載っている。
  「アメリカより輸入する屑鉄三百万トンをシヤツトアウトする遠大な理想の下に松岡満鉄総裁の発意により前満鉄中央試験所
  日下和治博士が苦心研究の結果見事に完成した「日下純鉄」は、その洋々たる将来性を刮目(かつもく)されているが北支戦線の刀
  剣慰問旅行を終へて帰国の途にある大日本刀匠協会理事長栗原彦三郎氏の来連を機とし満鉄では「日下純鉄」の銘刀作成を同氏
  に依頼、快諾を得て十月十九日午後六時より満鉄沙河口場において荘厳に建淬(焼入れ)を行つた」・・・・・中略・・・・
  「三振水入を終わり同八時第一日を終わった、二十日も午後六時より引き続いて十振を完成した後、満鉄の手を経て関東軍首脳
  部に贈なれる(ママ)筈である。
  なほ満鉄では各戦線の勇士に日本刀が要望されるのに鑑み併せて復興途上にある日本刀熱を助長すべく最新科学の粋を集めて
  「日下純鉄満州鉄刀」と称する日本刀の大量作成に乗出すこととなり、一日約百振を目標に大童な準備を進めている」。
                                                        正式漢字は「火偏に建」


         満鉄刀の焼入式を執り行う衣冠束帯の栗原彦三郎昭秀(中央)。満鉄刀剣製作所の初代所長という鈴木虹堂氏や
         編集兼発行人の満鉄庶務課長・鈴木鷹信氏も参加していると思われる           (写真は栗原彦三郎.昭秀全記録より)

2. 成瀬関次著『実戦刀譚』(昭和16年発行)のP117に、「満鉄工場のやうな設備をして、焼きを入れるにも、瓦斯炉で温度計を用
  いてするといふやうにしたならば、より少ない労力で性能ゆたかな作刀をする事が出来、しかも安価で需要に応ずる事が出来る
  のである」とある。

3. 『大日本刀剣商工名鑑』(刀剣新聞社 昭和17年発行)(2005年 復刻版)、後述の同書引用部分を参照されたい。

4. 本阿弥光遜著『近代戦と日本刀』(昭和18年発行)のP69では、「満鉄刀の構造については、此処では詳細に発表することは出
  来ないが、概略は刀身の中央部に鋼を使用し、両側を軟鉄で挟む様にして製作されているのである」とあって、『軍刀』と異な
  る構造を述べている。しかし、この記述は明らかに光遜氏の誤解であろう。『興亜一心』の8Pの刀身切断写真と分析表から、
  光遜氏が記した様な三枚構造ではないのは明らかである。そのうえ、皮金を軟鋼、心金を硬鋼とした氏の記述も誤りである。

5. 陸軍兵器行政本部嘱託であった渡邊國雄 著『軍刀』(昭和19年発行)の7-8Pに、「興亜一心刀或いは俗に満鉄刀と称せられて
  いるものは、洋鋼のパイプに心鉄として軟鋼を用い、それを打ち平めたもので、日本刀に最も近い使用価値の高い物である」と
  し、209-210Pには「満鉄刀は、矢張り一種の特殊鋼刀であり、現在満鉄の大連工場に多量に製作しつつある、優秀な代用日本
  刀である。これは、特殊鋼のパイプの中に、軟鉄を流しこみ、心金とし、更にこれを打平めて刀の形を作り、土取を施して刃文
  を出す等、全く日本刀本来の製作に一番近く、ただ違ふ所は皮金を鍛錬していないことである。この刀は厳寒地帯には最適なも
  ので、長期間に渉る幾多の試験の結果「興亜一心刀」と名付けられ、推賞されて居る」と書いてある※1参照

 満鉄刀に言及した上記の著書中では、『軍刀』と『大日本刀剣商工名鑑』が当を得た分かりやすい説明であり、「モロ包み」と称
した鍛錬法製作法)は、初めからパイプ状になっている皮金へ心金を入れ、打延ばすことによって、正確に刀身断面の中心部にきれ
いに心金が入る理想造だと分かる。
 刀身の製作法が概念的には、ほんの僅か明らかになったけれども、私にとっては、まだ満足いく説明ではない。特殊鋼のパイプ
(皮金)は、心金を入れる前段階ではどんな形状寸法だったのか、心金をどのような方法で入れるのか、心金を入れた後の打延し方法はどうしたのかなど、まだ何も分からない。成瀬関次氏が記したように焼入れに本当に瓦斯(ガス)炉を用いていたのであろうか。
4                                                       ※1参照

-- 刀剣製作の関係者について --

 『興亜一心』では、満鉄の刀剣製作所の規模や実際の当事者達について何も言及していない。
 いかなる人達が興亜一心刀の製作に実際に係わっていたのか※1参照
 当然多くの工場技術者、刀工、種々の職人達が係わっていたと想像するが、私が知り得た範囲では下記の如くである。

1. 『大日本刀剣商工名鑑』(刀剣新聞社 昭和17年発行)(2005年 復刻版)は、戦時中の著名刀工や刀剣商の紹介記事、刀剣製作
  会社や刀工、刀剣商、研ぎ師、鑑定家などの氏名住所などについて書かれた本であり、当時の刀剣界・刀剣事情を知る上で一級
  資料である。この本の180Pに満鉄刀剣製作所の初代所長であったとする鈴木虹堂氏について次の様に紹介されている。
  重要な資料なので引用が長くなるが、ご勘弁頂きたい※2参照

 松岡洋右氏が満鉄総裁たりし頃、予算十万円を以て氏の新日本刀研究に資せしめんとしたが何かの事情で金が出なかったため氏は、之を機に満鉄を辞し、大連聖徳街に工場を設けて研究に没入、見事之を完成せしめ『日本刀の新方面的発展と云ふべきもので実用方面よりもまた鑑賞方面よりも相当の価値あるもの』と陸軍技師山本不二雄氏をして嘆賞せしめた。
 昭和十二年三月『在満州日本刀傑作集』なる名著を上梓して紙価を高らしめたのは人の知る処である」とあり、非常に興味深い記事である。
 鈴木虹堂 氏が満鉄刀の創始者、新工法の発明者とされているのが非常に興味深いし、この事を私はこの書籍によって最近知ったばかりである。はたして、虹堂は本名なのか雅号なのかも不明である。氏については『大日本刀剣商工名鑑』に書かれている以上のことは何も知らない。氏の昭和17年当時の肩書きとして、満鉄指定工場、鈴木日本刀製作所、日本刀正道会主事とある。
 満鉄指定工場とは鈴木日本刀製作所を指すのか、或いは別の工場か。また、鈴木日本刀製作所は、その名の通り刀剣を製作してし
てたのだろうけれども満鉄式に製作していたのか、満鉄の下請け的な製作をしていたのか、それとも何人かの刀工を抱えて鍛錬刀を
製作していたのか分からない。
 ちなみに、氏の著作『在満州日本刀傑作集』とは押形集だったようだが、私は未見である※2参照

2. 大野正編『現代刀工・金工・職方総覧』(昭和52発行)の116Pに山口県の刀工・竹島久勝氏の経歴として興味深い記述がある
  ので一部引用する。
  「十三年南満州鉄道株式会社刀剣製作所に赴任、終戦まで興亜一心刀の鍛造指導に当たる」とある。十三年とはもちろん昭和十
  三年のことである。同書では久勝は本名とあるが、大野正著『現代刀工名鑑』(昭和46年発行)の149Pでは本名は竹島政雄氏
  とあった。堀井俊秀門下であり、昭和九年に自らの鍛刀場を山口県田布施町内に開設した。
  氏は昭和33年から郷里で作刀を再開した。水竜斎とも号した。

3. 堤 章 著『軍刀組合始末』(副題、陸軍受命刀匠の周辺/平成6年刊 会津文化調査研究会発行)の106-107Pによれば、福島県
  会津の刀工だった若林重次こと本名:若林猪之吉氏は、満鉄刀の初期頃から、製作に係わっていたらしく、昭和16年の春に会津
  に戻りその後は陸軍受命刀匠として刀剣を製作した。


-- 参考文献からの『興亜一心』 --

 櫻本氏が『戦時下の古本探訪 こんな本があった』で、『興亜一心』の一部分を引用されご紹介くださった事は既に自序に書いた。
この外、下記の二書が『興亜一心』を参考資料として使用している。
 福永酔剣 著『日本刀大百科事典』(平成5年発行)では、第5巻の111P下段「まんてつとう満鉄刀」の項目に満鉄刀/興亜一心刀
について簡潔な説明が載っている。同事典第五巻の巻末に『興亜一心』が参考文献として書名が出ている。
 氏の厖大な資料の博捜能力に感嘆のほかはなく、既に『興亜一心』を資料として参照され、書名をご紹介されておられる事に敬意
を表したい。
 そのほか『刀剣と歴史』325号、『日本刀及日本趣味』が参考文献として載っている。
 残念乍ら私は『刀剣と歴史』325号を未見である。John Scott Slough著『An Oshigata Book of Modern Japanese swordsmiths 1868-1945』は、明治から終戦までの現代刀の素晴らしい押形集(主に茎)であり、英文の解説と共に非常に参考になる本である。
 同書94-95Pの興亜一心刀についての解説部分は、『興亜一心』又はそのコピー、或いは櫻本氏の中の『興亜一心』から櫻本氏が引用されご紹介下さった箇所を参照しなければ書けない文章があり、この何れかを参照し英訳されたものだと私は推測している。

                                                 平成乙酉夏  K.森田
                                                                      July,2005    K. Morita

筆 者 か ら の 注 釈

 森田氏が本項を執筆してかなりの時間が経過する。その後、新たな資料が発掘された。
 従って、森田氏の未見や疑問の部分に就いては、以下の新しい注釈情報と、満鉄刀目次の各ページを参照されたい。

  ※1 満鉄刀の鋼材と造刀法に関しては「満鉄刀の鋼材と製造法」参照
  ※2 鈴木虹堂氏に関しては別の情報あり。「満鉄刀誕生経緯」の筆者注参照
    鈴木虹堂氏が会員であった「日本刀剣保存会」の刊行誌「刀剣と歴史」昭和13〜14年によれば、「大連支部の鈴木虹堂君」
    と表現されている。
    同氏は満鉄に日本刀製作所が設立された約10ヶ月後に嘱託として採用され、僅か9ヶ月後に満鉄の嘱託を辞して大連の聖徳
    街に独立して鍛刀所を設けている。従って、満鉄製作所の初代所長ではない。
  ※3 同氏は「在満州日本刀傑作集」(押し形集)を満鉄の嘱託になる丁度1年前の昭和12年3月10日に在大連・刀剣之友社から発刊
    した。その時の住所は大連市聖徳街四丁目十四となっている。
    金八円の高価本で、虹堂氏が所蔵する津田越前守助廣と長曽禰虎徹の二口の押し形も納められている。

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満鉄刀の目次

     製作年代・銘の変化と特徴の考察(一覧表)  満鉄刀の鋼材と製作法  満鉄刀誕生と時代的意義   

        興亜一心刀の内容と所見  興亜一心刀の詳細   永年勤続者記念 満鉄太刀  受難の興亜一心刀

                    満洲國建国10周年記念謝恩刀
 

                興亜一心刀の実戦性能は、「実戦刀譚」現代刀の項を参照追加更新

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