軍刀抄 満鉄刀の全貌(3)  0
鋼材と製造法

       満 鉄 刀 の 鋼 材 と 製 造 法      附: 刀身性能

技術者の証言 | 興亜一心刀 | 満鉄刀の時代的意義 | 銘の変化と特徴 | 満鉄刀の内容と所見
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昭和39年、満鉄刀に深く係わるお二人の方が満鉄刀の回想記を「滿鐵會報」に発表された。
日下純鉄を開発された日下和治博士と、満鉄刀製作の実際に最初から携わった元大連鉄道工場工具職場主任・渡辺義雄氏(下右写真)である。渡辺氏が満鉄刀の資料・図面・写真を日本に持ち帰られて保存されていたという驚くべき事実が判明した。
それを知った筆者は懸命な探索を行ったが、時間の壁に阻まれて頓挫した。
今となっては、お二人の回想記と、当時の「滿洲グラフ」に掲載された写真が、鋼材と製造法を知る上での唯一の貴重な資料となっ
た。以下に内容をご紹介する。

  
   刀剣製作所 研磨外装場
                           
    

満鉄大連鉄道工場工具職場主任
      渡辺義雄
 
  
   
  初期満鉄刀茎

          満 鉄 刀 物 語

                                           渡辺 義雄
                まえがき

  昭和十二年支那事変勃発から大東亜戦争にかけて、満鉄は陸軍正式(ママ)軍刀を大量に作った。
  その数はおそらく五万振に及ぶと思う。
  世間では之を満鉄刀と称(よ)んだが、この刀銘を昭和十四年三月、松岡総裁は興亜一心刀と名づけた。
  敗戦と共に大部分はその姿を消したがまだ相当残っていると思う。
  この満鉄刀は当時満鉄大連鉄道工場に勤めていた者達の共作であるが、その刀はどうして作られたか
  について、その概要を記述しておきたい。
  本来なれば専門語や図面が必要であるが、之を略することをお許しねがいたい。

                満鉄刀の由来

  昭和十年頃、中央試験所の日下和治氏が東辺道大栗子(だいりっし)に優良鉄鉱石があるのを発見し、沙河口研
  究所に実験炉を作りこの鉱石を精煉し不純物の少ないスポンヂ鉄の開発に成功。
  続いて撫順に本格的ロータリーキルン式(横型セメント炉の如きもの)の製鉄工場を建設しスポンジ鉄の本
  格的製造に成功した。之を精煉して所謂日下純鐵を作った。
  その使途は高級特殊綱、工具、溶接棒、スプリング等の資材として、斯界に寄与することが出来た。
  私は当時(昭和十一年頃)軍事情勢により日本刀の需要が必至であることを見越し、この純鉄を用いて日本
  刀を作ることを提言したのが、満鉄刀の端緒となった。
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満 鉄 刀 の 試 作

昭和十一年中央試験所より大連鉄道工場に刃物という名称で二尺二寸の日本刀一振りを製作するよう依頼があった。
古来の日本刀は硬い鋼に軟らかい心鉄を入れて鍛造するのであるが、当時そのような事は出来ぬので、炭素量○・二%程度の軟らかい
日下純鉄を使って、刀を鍛造し仕上げた後、滲炭(表面のみ炭素量を増して焼入れする)し焼刃土を塗り水で焼入をし仕上げ研ぎ
をして白鞘に納めた。
之が始(ママ=初の誤植)めて大連鉄道工場で作られた日本刀であった。
その頃大連遼東ホテルで刀剣会があって、之を出品した処、之を評して「名刀」で初代忠吉の作であろうという人があった。
後で大連鉄道工場の作品であることを明らかにした際、一同は大変驚くと共に、吾々の技術を高く評価された。
日下氏は之を中西理事に贈りしところ、大連の愛刀家の間に評判となり、注文が殺到した。

本 格 的 製 産

当初は工具製作の片手間に作っていた処、間に合わぬようになったので、製作方法と工程を改め、硬鋼に軟らかい鋼を内部に入れ
(甲伏という)て鍛造したが、手間がかかって能率が昂(あが)らなかった。
最も重要な鍛造を受け持つ鍛冶工が足りぬため、内地より刀匠という人を二人雇ったが、その中の一人※1は仲々なじまず退社した。                                  ※1 筆者は、この人が件の鈴木虹堂氏であろうとみている
その内に総裁室より北支軍に贈る日本刀一○○振注文されたので、愈々(いよいよ)工程を分業化して多量生産方式に切り替えるに至っ
た。
私は日本刀製作については予(かね)て東大俵国一先生著「日本刀」を通読し、又東北大学村上武次郎先生を訪れ日本刀の現代的製法につ
いて教えを乞(こ)うた。又、加藤工場長、鈴木庶務課長、菅原工作長も色々援助された。

ある日松岡総裁が工場に来られ、私に次ぎの話をされた。
「正宗のような名工でも、一人で一生かかって千振の刀は出来ぬが、満鉄の資本と人材をもってすれば、勝(すぐ)れた名刀を大量に作り
得ると思う。日本は現在軍刀が不足しているから大いに研究して作戦に間に合うようにして呉れ給(たま)え。
研究の途上、失敗や困難もあろうが決して悲観することはない」と激励せられた。
このため幾多の失敗もあったが約半年後、昭和十二年十二月、流れ作業で日本刀の多量生産が軌道に乗ることになった。

古 来 の 製 作 法

古来、日本刀はどうして作られたか、それを簡単に述べて見ますと、先ず地鉄はどうして作ったか・・・・・・略・・・・・・・
そして出来た鉄は大きな固まりなので「タタラ」の炉を毀(こわ)して引き出し、之を玉鋼、銑鉄、炭素量の低い地鉄に分類する。
・・・・・・略・・・・・・「上鍛え」で出来た地鉄を炭素量で刀剣の刀部、側鋼、棟鋼、心鉄に分類する。
刀部は炭素量最も多く堅いもの、心部はは最も軽いもの、棟、側は夫(そ)れ夫れ柔軟性のあるものを組合せて之を鍛造して一本の刀剣が出來る。・・・・・略・・・・・以上のような方法で作られたもので、名刀になれば神秘的な作品になり工業製品ではない。
然し俵先生著「日本刀」によれば日本刀の炭素量分布状は頗(すこぶ)る不均質で焼入硬差も甚だしいものがあると云われている。

筆者注) 古来の製作法と言い乍ら、江戸末期に近い近世「永代タタラ」に依る玉鋼を想定し、刀身構造は四方詰めを前提として説明
    している。刀剣界は勿論のこと、世間も新々刀の造り方を古来からの日本刀と信じて疑わなかった状況が良く判る。
    この文節はありきたりの製作法の説明である為に大部を省略したが、最後の俵博士の件(くだり)の文章だけは注意を惹いた。
    この回想録で満鉄試作刀の姿が初めて明らかになった。
    この一枚鍛えは鋼材の性質が異なるものの、将に古刀の作刀法に近似している。
    日下純鉄の平板を刀の形に切り抜いたのなら話は別だが、軟鋼塊を火造り鍛延すれば当然鋼の折返しを何回か行う事にな
    る。その際、吸炭した表面層が内部に織り込まれて、ある面での不均質練り材になった筈である。
    この試作刀は刀剣会で高い評価を得た。
    この事と俵論文に何らかの関連があるのではないかと考えた。渡辺氏は俵論文を引用して何を言わんとしたのであろうか。
    俵国一著「日本刀」は見当たらない。
    昭和10年(1935)発刊の「日本刀講座」(全15巻)の事であろうか。
    筆者は、俵論文の炭素分布不均質の論旨を、「古代刀並びに卸し鉄の古刀一枚鍛えの刀身全体の炭素量不均質を指摘されて
    いる」と理解している。
    書名は兎も角、俵博士の本を通読したのであれば、刀身構造にも思うところがあったのではなかろうか。
    更に、渡辺氏が指導を受けた東北帝大・村上武次郎博士は、振武刀の開発者・本多光太郎博士が新設した金属材料研究所で
    特殊鋼を専門とされていた。
    刀剣鋼材や造り込みに関する巾を広げても不思議はないと考えたのだが、何故か古来の製作法を玉鋼の四方詰めと説明して
    いる。
    筆者は、「将校用軍刀の研究第五報」の終わりに満鉄刀構造の「if」を述べた。
    試作刀が丸鍛えで造られたという実態を知ったので、満鉄刀技術者に若し古来日本刀の固定観念が無かったなら、量産満鉄
    刀は古刀練り材に近い丸鍛えの刀身になっていた可能性が高かったと思えてならない。

満 鉄 刀 の 量 産

支那事変が拡大するに従って、古来の製法では間に合わないようになって量産を要する時代が来た。
撫順のロータリーキルンで作った五百sの鋼塊を、機械ハンマーで鍛造丸棒に延し、中心に孔をあけ軟らかい心鉄を入れ刀の重量に
相当する長さに切断、加熱したものを一本毎に鍛造した。
グラインダーを使用して荒仕上げ、荒炉(砥の誤植)をかけ、五本を同時に加熱することにした。
炉温八○○〜八三○度、焼入水温二五度を保ち、焼刃土は大連神社裏山に良質のものを発見したので之を用いた。
置土は自然乾燥が間に合わないので己(や)むなく瓦斯(がす)※2を用いた。    ※2 こ れが、焼入れにガスを用いたという誤解を生んだ
刀身焼戻しは、二○○度の熱油中に約三○分間投入したる後空気中に放冷し、歪取り、反り合せ、第二仕上げ、研ぎ等各分業で加工した。
製品検査は、鉄道研究所岩竹氏の好意により、磁気探傷器を用いたので、肉眼で見えない傷を発見することが出来た。
強度試験は五sの重錘を落して強打を加え、又大連屠殺場で豚の試し斬りを行いその成績の良好なることを確認して自信を得た。
尚、零下三○度の冷凍室に一晩置いて棟打試験をして折れなかったので切断して破面を調べることにした処が、偶々(たまたま)来場された松岡総裁に、低温時の棟打試験をご覧に入れよと云われた。
私は相当疲労しているので辞退したが、強(た)って云われたので試験を行ったところ二つに折れて、恥かしい思いをさせられた。
然し総裁は「渡辺君飛行機の発達も墜落の失敗を重ねて今日こに到ったのだ、古い刀を多く集めてどしどし試験を行ひ、研究の資料に
するがよい、費用は惜しまぬ」と励まされ、大いに感激した。

製品に対する自信を得たので、作業工程を細分し、作業基準を定め、「ゲージ方式」を採用し、作業の単純化を図った。これがため従
業員の訓練が容易になり、中国人青少年でも充分役立つようになった。
工程は鋼塊の検査より外装完了迄十三工程に区分し、各責任者を置き、流れ作業により能率昂上し、毎日数十振が製作されるようにっ
た。

む す び

このように未曾有の成果を挙げ得たのは松岡総裁、中西、渡辺理事の激励、東北大の村上先生、中試の日下和治氏、歴代の工場長加藤仲二、赤松喬三、井上愛人、吉野信太郎氏等の指導、鈴木鷹信、國重久氏の対外折衝、藤原恒男、高橋享太、小林市太郎、玉置繁雄氏の技術指導による処大でありますが、直接の製作で庄垣内正一氏を始め数十人の人達が一筋に、戦線に通じる意気込みで努力されたこ
とを想い、過ぎし当時を振り返り感激に堪えない。

昭和十九年七月三笠宮殿下がご視察のため来場の際、満鉄は興亜一心刀を献上することになり、総裁より直接謹作を命ぜられたので、七月七日河野神官を招き作業場を潔め火入れ式の斎修を行い、作業を開始して七月十八日六振を製作しその一振りを納品したが、その献上品は直刃二尺一分で快心の作であったことを附記し、本稿をおきます。

あ と が き

・・・・略・・・・・本稿は渡辺君が一部持ち帰った資料より要約したもので沢山の図面や写真は紙面の都合で割愛しましたので意の尽せぬ点は御許し願います。
                                            元奉天鉄道工場長   高橋恭二

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 満 鉄 刀 の 地 鉄

                                              撫順製鐵工場長 日下和治

極寒時の満鉄車輌バネが時々折損するので、良質の鋼材を以って製作してみたいとの私の念願が達成されそうになったのは、昭和十二
年暮れであった。
沙河口の中央試験所の冶金工場に長さ八mのロータリーキルン炉を設置し、東辺道大栗子(だいりっし)産の鉄鉱石を使用してスポンジ鉄をつくり、これを小型のアーク炉に入れて、硬軟二種類の鋼を得た。
この鋼は試験の結果、靱性が高い良質のものであることが分かったので、日本刀にも好適であろうと考えられた。
即ち軟らかい方(純鉄)を芯金とし、硬い鋼を皮鉄とした古刀式の構造の刀劍とし焼入後研ぎあげたところ専門家から好評をうけた。

これが松岡総裁の御耳に入り、今後は満鉄刀と命名し、少し多量に造る様にとの達示がなされたので、私は沙河口工場に加工を依頼し
たが、希望通りの本数が出来る様になったのは大分後々のことであったと記憶している。
ロータリーキルン式製鉄法は撫順で工業化されて、日産約七○瓲のスポンジ鉄が出來る様になり、又、相当する電気炉や圧延設備が次
々に完成し、昭和十七年頃は年間八千瓲位の高級鋼が生産されるに至った。
然し満鉄刀は陸海軍の要求が出たり、満鉄社員永年勤続者への贈品に採用されたり、又満洲国建国十年祭の記念品として満州国皇帝か
ら天皇陛下に贈られるに及んで段々と高名のものとなった様である。

当時撫順製鐵工場で製造した芯金材料は、炭素○・○六%内外の純鉄であり、又皮金は炭素○・五%くらいの良質の鋼であったように思う。また満鉄刀の焼刃の形は、粘土、石綿、水硝子を混錬したものを塗って直刃や乱れ刃としたので、色々の形式のものが自
由に出来た。
一般に鋼は焼入で硬化し切れ味がよくなるが、同時に脆くなる欠点をともなう。
満鉄刀は中心に純鉄が入れてあり、その外側に高級鋼が組合わせてあるので、焼入しても折損しにくい理(ことわり)である。
「満鉄刀は折れず曲がらず」という評判をもらったが、この風評に誤りはなかったと私は信じている。
撫順式の製鉄炉は今日、日本で三基、北欧や米国で数本稼働しているけれども、その多くは貧鉄鉱処理であり、従って満鉄刀の原料に
なったような良質の鉄はつくられていないように思われる。
私の手元に一振りの満鉄刀も残ってはいないが、社友の方で保存されているものもあると聞き、拝見出來る日を楽しみにしている。



満鉄刀物語、満鉄刀の地鉄は「滿鐵會報 36号」(昭和39年10月10日)より
資料ご提供: 「滿鐵會」様


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斯くして作られる興亞一心刀

昭和14年「滿洲グラフ」より 






   
@ 中心にドリルで孔を開けた皮鋼用丸棒に
  心鉄用丸棒を挿入。打延ばして定寸の
  刀になる長さに切断後、赤熱して
  スチームハンマーで鍛錬する

    
     B グラインダーで荒削り
       

    

         A 電気ハンマーで刀の形に鍛錬、鍛延する



C 刀身仕上げのヤスリ掛け

D 電気炉に依る焼入



E仕上げ研ぎ   この研磨場には約30名の研ぎ職人がいた



F ハバキの調整と装着


G 刀身最終仕上げ

H 柄巻き

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輝 く そ の 性 能


製作所に於ては幾多の性能テストを試みた。今その一旦を拾って見やう。

直徑七寸の巻藁の中心に五分丸の青竹を入れて、これを斜め斬りにやって見た。見事切斷された巻藁に、輕い微笑みを贈ったゞけ
で、少しの刃こぼれをも感じない興亞一心刀燦(さん)と輝いてゐた。
續いての對象にあげられたものは、重量二十六貫、首廻り二尺八寸の豚、厚さ五厘、幅一寸、長さ六寸の軟鐵板を重ねて四枚・・
何れも興亞一心刀の凝固した名刀の前には何等の障害ともなり得なかった。
だがこれ等は、刀たるものゝ備ふる當然の性能とも云へよう。

ここに面白い耐寒試験の結果がある。
室内の温度が零下四十度に低下して、抜身の刀を一晩その中に放置した。翌日鑄鐵製定盤上でこれが手打試験を實施したのである。
太いレールでさへ折れてしまふこの荒テストに、我が興亞一心刀はいさゝかの刃切れ、刃こぼれを見なかったのだ。
この事實は、大陸に使われる降魔の劍として、絶對的卓越性を實證したものであり、世界に誇示し得る科學滿洲の凱歌でもある。



2013年9月15日より(旧サイトより移行)
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