軍用日本刀の考察  実戦刀譚00

実 戦 刀 譚

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成 瀬 関 次


  本書は、昭和13年2月13日に出立し、軍属(尉官待遇)として、北支、蒙疆(もうきょう=蒙古の境)の全戦場を
 9ヶ月間に亘って軍刀の修理を行った記録「戦ふ日本刀」の姉妹編として昭和16年1月27日に刊行され
 た。「戦ふ日本刀」は「花」であり、この「実戦刀譚」は「実」 であって二つは不可分であると述べ
 ている。
 前者は「陣中日記」が、本書は「日本刀修理の記録と日本刀の考察」が中心となっている。

 徐州・胡山々麓、黄河陳留口渡河点、蘭封縣の激戦で、兵器部に従った修理班は部隊と共に全滅を覚
 悟している。
 大敵に重囲され、家人知人に別辞(遺書)を書き錻力缶(ぶりきかん)や雑嚢(ざつのう)の底に入れ、「これだけ
 は世に残れ」と念じ、三度死に直面して、不思議に命を永らえ得た記念物であり、この「命がけの記
 録」から「戦ふ日本刀」と本書が生まれたと述べている。
 14項目に亘り、軍刀及び日本刀の考察を詳細に記述している。
 日本刀の本阿弥鑑定、山田浅右衛門家の欺瞞(ぎまん)の実態が良く解る。
美術鑑刀・鑑識に偏重した「作為された常識」の目を覚まされる筈だ。
(旧漢字再現不可のものが多い為、要約は新漢字・仮名遣い表記とした。以下同様)

成瀬氏は、激戦での日本刀の実戦使用は二件しか目撃していない。
徐州・胡山、開封・原武の二つの戦場で各々曹長が使用し、決着は兵の銃剣の助けを借りている。
「戦ふ日本刀」も本書も、軍刀戦果は修理に来た本人又は代理人の話や自慢話、部隊での伝聞であり、「戦果」は過大になる事を前提
に斟酌(しんしゃく)して読む必要がある。

時代背景から、「軍刀成果」は戦意昂揚にも配慮された内容である事も勘案する必要がある。
「戦ふ日本刀」には断片的にしか出てこない刀銘も240例が出てくる。
中心(茎)を外して修理した物は全修理品の二割(約400振り)で、銘の記録はその一部である。
茎を外さずに修理した物、記録に漏れた物が多数ある。
中心(茎)を抜いて銘を改める余裕は殆どなく、いずれも一刻一秒を争う緊急修理が多く、刃こぼれ、刀身の曲がり、柄巻き替え等は、
大抵そのままで修理を施してさっさと渡して了った為である。
記載刀銘例は最後の数十刀を除いて、南下徐州戦線陣営中の刀である。
又、記録した「これ等の事は詳細な統計として軍に報告し、各部隊の戦況と軍刀破損状態等も統計に現したのであるが、それ等は今の
ところ全部を発表する自由を有しない」、「軍機上其の他から、内容の一部には削除した部分がある」と述べ、当時の世相から、当
然、軍の検閲を受け、記述に制約があった。
1

軍 刀 修 理 の 観 察 考 究


軍 刀 種 別

軍 刀 三 様 式 佩用数比率 内        訳
将校 准士官 下士官
  新制式(新軍刀) 40.8% 60.0% 18.5% 16.5% 5.0%
  旧制式(サーベル軍刀) 8.8% 72.7% 11.4% 13.6% 2.3%
  古様式(江戸期以降の打刀)  50.4% 26.4% 9.6% 46.8% 17.2%


軍 刀 柄 三 様 式 の 損 傷 比 率

軍 刀 柄 三 様 式 損傷比率
  新制式(新軍刀) 41.5%
  旧制式(サーベル軍刀) 10.0%
  古様式(江戸期以降の打刀)  48.5%


外 装 損 傷 の 概 要

修理の実際より見て、上記三者中堅牢なるは旧制式にして、新制式は最も新しき割合に、各部分にわたりて毀損率多く、且つ重量も重
くして、将来改良すべき点多々認められたり。
古様式に至りては徳川中期以降のもの多く、柄鞘共に虫穴のあきたるものありて、毀損数相当に多かりしが、年代の割合より見れば、
新制式軍刀よりも寧ろ堅牢なるが如し。武士が立ち合い、吟味して造られた古様式柄は強い。


毀損 (きそん) の個 所 程 度

外装の毀損最も多かりしは柄の部位にして、柄の折損、柄糸の摩滅、目釘穴を中心とする諸故障は其の数修理全部の七割に達し、
柄の如何に大切なるかを切実に感ぜしめたり。
しかも此の事実の新制式外装に殊に多かりしは、甚だ遺憾とする処にして、只徒に外装上の美に囚われ、戦闘に対処するの実質的方面
を閑却せるは、畢竟(ひっきょう=要するに)、治に居て乱を忘れたる外装業者の堕落なると同時に一面佩用者が営利に汲々たる御用商人に一
任して、注意と吟味とを怠りし自責また決して軽からず。
玩具の白虎刀の柄のような物に、化学漂白の質の脆い鮫皮を巻き、器械製のくるみ糸で巻いた柄では何になろう。
一撃で柄は折れ、然らずんば一戦で糸は切れてバラバラになって了うのである。
柄の折損は、新古ともに『中心(茎)』短き為其の先のあたり(筆者注茎尻) より折れたるもの、新制式にして柄頭金具の下部に柄巻き
止め (筆者注: 頭掛巻留) の穴を穿(うが)ちたるものに限り、その穴の辺より折れたるものに一の例外なかりしは、以て後車の鑑戒とす
るに充分なり。
目釘穴を中心とせる諸故障中の主たるものは、目釘穴の摩滅、目釘の折損、目釘と中心(茎)穴と柄穴の太さの不一致による鍔元の緩み
にして、其他鯉口、発條(筆者注: 駐爪装置)、鞘の故障も相当にあり。



 筆者注: 成瀬氏は内地出立の時、軍刀の損傷は刀身が大部分で、其他は極めて僅少なものと思っていた
 が、実戦では全くその逆で、外装故障が7割 (柄にまつわる故障6割、鞘の故障1割) に達している
 事に驚き、本書ではかなりのスペースを割いて柄の問題を詳述している。

 要 点: 柄長は7寸5分〜8寸が理想、中心(茎)も同寸で柄先まで通すようにすべき。
 茎の短い物は茎尻付近で柄が折れ、頭掛巻留の穴付近も同様で、例外無しに両方共、その部分で柄が
 折れている。茎を長くして、刀緒穴と茎尻の穴を一致させるのを理想とする。
 柄材の朴の木は弱い。厳選された柾目物は良いが殆ど確保が難しく、新軍刀に使われる斜め取りの不
 良朴(ほう)材は不可。柚(ゆず)、梓(あずさ)、胡桃(くるみ)、樫(かし)材が良い。
 目釘は竹の節の根本に近い太い物を用いる事。細い目釘は殆ど破損する。
 柄糸は木綿を絹糸で包んだ物が9割を占めていた。例外なく目貫の辺より切れ始める。
 諸捻り巻きは直ぐに捻りの部分から磨耗する。「一線巻(筆者注: 一貫巻)」が良い。
 目貫は大きく長い物が柄補強に有利。
 柄の形状は立鼓型が良い。柄巻鮫皮は水分に極めて弱いので漆を塗り、柄糸にはすき漆に片脳油をま
 ぜて薄めたものを塗ると丈夫になる。
 柄を金属薄板(筆者注: 旧軍刀の背金の様な物)で包むのが良い。
こうした成瀬氏の柄の損傷原因と改良提案の幾つかは、後の三式軍刀柄の改良に生かされている。


刀 柄 の 神 秘 性

「日本刀」という一般の概念は、刀身だけを指して云っているが、本当の業物としての刀の機能は、柄と刀身と鞘の総括されたものの
なす業で、「葉隠れ」の中には、切り死にした武士の刀のどこの部分よりも柄の破損していた事実を挙げて、後の人々の鑑戒としてい
る。
学会の権威、(東京帝大)俵工学博士が、日本刀の本質と、切れ味の神秘さとを科学的に究明せんがため、幾多の古名刀を犠牲として、
多年実験的研究に没頭したが、結局、所期したような成果は得られずに匙を投げ、「分析して見ても、科学では解決の出来ない点があ
る」と、科学者らしい率直な表明をしている。
遂に其の神秘の本体は解き得なかったのだ。

切れ味の神秘さが、日本刀の刀身に単独に質的に存在しているとは考えられない。
切れ味は刀の全体から、そして刀と人と合致した時に出る、そこに神秘さがある。
刀の切れ味の神秘の一片鱗を、自分は刀の柄に見い出した。

東京帝大の成形外科医局長で、軍医として今度の事変に出征した伊藤京逸博士は、聞こえた剣客で、実戦場裡から得て、斬るという
事の根元は、刀の柄を握る手のその“にぎり”にあるという事を発見し、「にぎり私考」と題して雄山閣の「刀と剣道」誌に発表し
た。伊藤氏はいう「どうすれば刃筋がよく立つかは、多くの伝書を繙(ひもと)いて見ても、結局“能々工夫あるべし”に終わっている。
力線の方向に刃筋を立てる事、及び斬り下げて行く間に於いて、刃筋を狂はす不慮の障害が蟠踞するとも、よく其の正しき軌を調整
し行くには、右手の拇、示、中指の三指が主体をなすのだと確信する。
腕力は第一、二、三掌骨から刀柄に移行する。日本刀全体を生かす所のものは、その人にあり、両手にあると認めた」と結語してい
る。
現行竹刀剣術と併行して、そうした真剣の扱い方を修行せしめなければならない。刀の切れ味は柄から出る。
 (筆者注: 「一に腕、二に刀」と項目名をつけ、腕の重要性を指摘している。このことは、古岡二刀斎師の言う「手の内」と同じ
      ことを述べている)

修 理 刀 身 比 率

  古刀 25%
  新刀・新々刀 60%
  現代刀・昭和刀等  15%
                         (著者は二三流刀工作が多いと云っている)

この二千振近い破損刀の中に、戦って折れたものは一振りもなく、又派遣出張三十二部隊中で、幸いにも戦って刀の折れた事を一回
も耳にしなかった。
上海方面に一二あったと聞いたが、全支(注: 支那全域)の皇軍中にもそう多くはなかった事と思われる
「折れず曲がらず、之を名刀という」・・・これも刀剣家十人が十人口を揃えていう言葉であるが、こうした刀が果たして実在するか
どうか、自分の乏しい経験を要約すれば、「折れぬ刀は曲がる」という点に帰結する。 
その程度はあるかも知れぬが、日本刀は必ず曲がる。もし曲がらぬ刀があるとすれば、それは必ず折れる刀でなければならない。
折れず曲がらずなどという事は畢竟(ひっきょう)理想論であって、そんな刀は在り得ない。

筆者注:上の文章で、成瀬氏は「戦って折れたものは一振りもなく・・・」と記している。
  同じ北支に派遣された日本刀の検証に熱心な軍曹は、これとは逆の見解を示している。
 当時、検閲の厳しい軍部、世論の雰囲気に対して、日本刀に不利な言辞を吐くことは相当な勇気が必要だった。
 軍属(民間人)の成瀬氏と、現役下士官の軍曹という立場の差が、発言の差を生み出したと見るのが妥当と思われる。
 以下に、その軍曹の忌憚のない所感を記す。軍部に対する民間人の立場の弱さを理解しておかねばならない。

 ※ 北支派遣・笹沼市三歩兵軍曹は雄山閣発行「刀と剣道」昭和14年9月号に「戦場の軍刀」と題して日本刀の体験と見聞録を記述
  している。本人は現地で色々な材料で刀を造って試験もしている。
  ○(伏せ字)位切るならば青龍刀、昭和刀や北支で造るスプリング刀で充分だと述べている。
  古刀良作が最も良く、新々刀と現代刀(戦中に造られた本鍛刀)の中に官給下士官刀に劣る物があって困ると述べて、この見解は
  成瀬氏と共通する。

「昭和13年、清化鎮の戦いで、或る特科隊の将校の鎬にかかる大五ノ目の焼きの無銘新刀で敵の頭に切りつけたら切先一尺位で氷の
ように折れ飛んだ。驚いて残部の刀身で切りつけたら鍔元から再た折れた。
某部隊の軍曹の山城か大阪かと思われる焼出直刃の大五ノ目の新刀は、便衣兵の肩に斬り付けた時中央より折れた。
其他にも2〜3聞いているが皆な太い丈夫そうな刀だった。
私の実験して打折った刀は三本や四本ではない。野州住荒川行秀二尺五寸の巾広く重ね厚い豪刀で赤銅の小さい鍔を切ったら一撃で
三つに折れた。
全部とは云わないが、新々刀の見たところ豪刀が(実際は)豪刀でないのは以上の通りである。
現代刀匠の日本刀展で特選になった人の作が雑誌を切って中央から折れたこともある。
北支で私の見聞した三四の折れた数と云うのは全体から見て決して安心の出来る数とは思えない。
何故なら軍刀を振っての白兵戦がそれ程多くないからで、日本刀を以ての戦闘が充分(多く)あったなら相当の折損が出来た事と思
う」。

 ※ 一軍曹の見た狭い範囲でこうだから、北支全体では刀身折損が相当あったであろう事が想像出来る。
  当時の世相から、日本刀の不味い実態を公表するのは刀剣界と軍部への批判にも繋がりかねないので相当の勇気が必用だった。
  民間人の成瀬関次氏の著述は、軍部に対する配慮もあって、かなり自粛されているとみなければ本書は理解できない。
                                                    (筆者注: 終わり)
2
刀 身 概 要 (要 約)

焼巾三分以上もある荒錵(にえ)の新刀・新々刀には大きな刃こぼれがつき物であった。
細直刃中直刃、焼巾がせまく、匂い出来のもの、世間でよく云う焼の甘そうな刀、ねむそうだと云わるる刀には刃こぼれ少なく、
然も良く切れる物があった。そうした点では古刀は断然よい。
古刀は多少痩せ身でもよく切れて戦える。数打ちの無銘でも古刀は最も戦いよい。殊に備前物の古刀がよい。
祐定は新・古とも数に於いては第一位であり、先ず実用刀中の白眉であるように思えた。
新刀新々刀の中、カンカンしたかたい刀、焼刃の巾の広い刀は先が折れたり大きな刃こぼれが出来易い。
総じて、新刀・新々刀は、江戸や大坂の鍛冶の打った物に損傷刀が多かった。
それは、刀の本来の使命を忘れて、ただ泰平の世に迎合せんとする美術刀の製造に憂き身をやつした輩が多かったからである。
新刀新々刀中に、武用刀の多かったのは地方鍛冶であり、就中(なかんずく)九州鍛冶には平均して業物が多かったように思える。
刃こぼれは、新刀より新々刀に、現代刀に多かった。現代刀のそれは、所謂‘あらみ’であった為かも知れない。

3
鉄 の 神 秘
( 昭和刀、無垢鍛刀など )

昭和刀は一撃直ぐに折れるもの、という宣伝が一時相当にあった。
刀剣家の一概に昭和刀とけなしている物の中に、相当研究したらしい刀のある事を第一線の陣中で知った。
現代の剣聖中山博道先生の試し銘の入った、源良近という刀を戦線で見た。
将士はいずれも切れ味がよく強靱だと云っていた。
この刀は無垢鍛(むくぎたえ)、即ち一枚鍛が多くて、昭和刀と同列に論じられているらしいが、自分たちは相当慎重に之を研究した。
陣中では数振りに接したが、切っ先も元も折れたものはなく、刃こぼれしたものはあったが、それとても小さかった。
どうした造り方か、地鉄が非常にねちっこい。

この刀に首をひねっている頃、それは昨年(昭和13年)の3月の事で、兗洲(えんしゅう)に川口隊という移動修理班がいた。
兵器修理班の鍛工場で、工員(制規上軍刀の吊れない人達)が、日に日に危険にさらされて来るので、必要に迫って、廃物の古自動車の
スプリングを利用して刀を打った。
勿論鍛えもせず、焼いて延ばした上一様に焼を入れ、それを適度に戻したもので、自分の助手をしてくれた加古という鍛工軍曹(其の
当時、伍長)が指導した。愛知縣小牧に住む刀匠で、造刀については深い研究を積んでいた。
白研ぎに仕上げ、そうした焼の刀であるから、勿論刃文もなく、若い人達の手に合うようにというので、ある刀の如きは元身幅が一寸
二分、重ねが二分二三厘もある大切っ先の浅反り二尺三寸、虎徹の大業物そっくりなものが出来、それに木工場で楊柳(ようりゅう=
柳の総称)
材の鞘をつくり、軍刀修理場で外装を引き受けて、実用堅固に外装した。
兎に角吊れるようにし、いつ敵襲があっても心配ないという事になったが、その刀が不思議に粘硬で何を切ってもよく切れる。
樹木や、本物の試斬りには、常に満点であったので、誰云うとなく兗洲刀の名が高くなった。

ある兵隊が戦場で試したが、骨までズンと切れたというので、にはかに“兗洲虎徹”の名が高くなって、あちこちで聞き伝えた人達が
ほしがって希望者が殺到するという有様であった。
どこかの工兵隊の人たちが、支那鍛冶の工場で、支那鋼で造って見たが、切れ味や刃性が遠く及ばず、材料は自動車の古スプリングに
限ると云って漁(あさ)りつくして刀にした。
間もなくこれが全支の日本軍に流行した。
自分等は暫(しばら)くこの隊に同居した後、濟寧に移動した。ある日、件(くだん)の兗洲刀を手に入れた下士官が持って来て見せた。
二尺二寸位の大だんびらで、刀の釣り合いもよく、既に敵を斬って血を見ていると云っていた。

加古伍長と福田上等兵と自分とで、市民学校の植え込みにあったヒバの直径一寸内外なのを三十本程伐(き)りまくったが、心持ち刀身
が曲がったのみで何ともなかった。この刀の粘硬さと、前記の良近(注: 現代刀匠)とは実によく似ている。
異なっているのは、前者に刃紋があり、後者にはそれが無いという点だけであった。

斯様な事については、既に水心子正秀が書き残している。
水心子曰く、「大工のてうな、斧(おの)・鉈(なた)などの刃味は、鎌・包丁の刃味より格別に甘く火を戻し候物にて大業にかけて能く切れ
候ものに御座候依て刀の刃味も斧・鉈の位にて可然候(しかるべくそぅら)へども、當今は真剣の勝負も希なる故にや鎌・包丁の如き
刃味を宜しと致し候 それ故にためし物にも頭或は脛(すね)などの堅き所を切ては刃損じ易く候」とあるのは、玩味すべき記述であ
る。
        筆者要約: 「実戦には、鎌・包丁のような鋭い刃ではなく、斧・鉈のように鈍い刃が向いていて良く切れるが、当今(江戸後期)は
               真剣勝負が無いので、鎌・包丁のような鋭い刃を良いとしているから、頭や脛の硬い処を切ると刃が損傷し易い」


要するに、美術刀の美術的鑑刀眼だけを以て、武用一切の批評をせんとするは、武用眼で美術刀を見るより、刀の本来性から考えて
無謀な事である。
実用日本刀の大量生産を必要とする今日、良近刀と兗洲刀の事実と、水心子の書き残した事とは、一脈の連携でもありはしまいかと
思われる程である。
こうした事情は、色々な事を考えさせた。
ずっと古い頃の古刀は、後世の如く鋼材を組み合わせずに一枚鍛えで、それでいて強靱であった。
無垢鍛の古備前等の名作は卸し鉄という複雑な手法を用いた物がある。
名刀と云はれている数々の刀の鍛法中には、或いはこうした物質の慣熟性を不知不識の間に応用して霊剣を得たものもあったのでは
あるまいか。
4

刀 身 評 価


那須部隊某大尉※1(特に名を掲げ無い。以下同じ)は「不錆鋼以作之」と切った某氏作銘※2の所謂ステンレス刀を以て黄河渡河以来随
所で戦ったが大きな刃まくれが出来ても刀身は折れなかった。
筆者注: ※1 石田軍醫大尉(昭和14年文藝春秋時局増刊18号「刀剣修理班」より)、※2 藤原兼永 
安田部隊の某騎兵上等兵は、洋鉄素延の錵も匂いもないやつで、一挙に敵兵六名を斬って捨てたが、刃こぼれも刃曲がりもなかった。
後宮部隊の某少尉は、美濃の關で出来た、在銘の素延べ刀で戦ったが、相当に曲がったのみでこれも折れず、同部隊の某部隊長、某隊
長は、銘のある一枚物を用いていたが、両者ともこれまた曲がりと若干の刃こぼれはあったが、折損もせずに戦闘を継続する事が出来
た。
前野部隊の某准尉のは、古い偽銘を切った昭和刀で、これで激戦中武装した敵と渡り合ったが、切っ先に刃こぼれを出かし、刀身が左
へ曲がったのみであった。これ等の事実は他にも沢山あるが、此の位にして置く。

此の外に陸軍の工廠でつくる造兵刀(筆者注: 造兵廠の九一式下士用刀及び九五式刀身)、即ち新村田刀が相当使用されていたが、これ
も洋鉄素延の軍刀で、刀剣家に云はせると昭和刀の定義内に含まれ、錵も匂いもなく、この造兵刀は相当数に達し、部隊長級にも二三
見受けたが、矢張り折損した物は無かった。
世の刀剣家中には、何に起因してか「村田刀は皆目駄目だ。現代刀はポキポキ折れる。なんでもかんでも昔の日本刀に限る」などと書
いている者がある。
村田刀というのは、村田陸軍少将が発明した鍛法で造られた実用刀の呼称で、其の用鉄には特別の粘硬性を要したもので、少将はそう
した特殊鋼を手がけたり研究した事から、古刀と同じく、折れ易からず、曲がり易からず、而してよく切れるという三つの特徴を有す
る刀を、然も大量的に製出する方法、即ち一枚打ちで、火加減の作用により製作する方法を完成した物である。
実際、村田少将が直接鑑製した初期の村田刀はよく切れて刀剣家を驚かしたが、其の後、陸軍の工廠でこれを製作するに及んで、初期
のような名声はなくなった。これを新村田刀または造兵刀というのである。
 
昔の「軍陣用数打物」に匹敵する昭和刀については研究を要すべきであると考える。
一概に昭和刀をこき下す事をやめて、昭和刀を改良し、それから逆に工夫のヒントを掴もうとする者はないであろうか。
昭和刀の作刀家も一番奮起して、スプリング鋼のような粘硬度の高い鋼を用いて、適度に焼を戻す事を工夫研究し、或いは銅鍛鋼を実
験するなりして、本当に戦える‘昭和の数打物’を製作し、堂々と責任を明らかにした住所の裏銘を切る位の心意気を以て大量実用刀
の本道を進んで貰いたい。

現 代 刀

九段刀(筆者注: 戦後、靖国刀と俗称)、大阪の月山、高橋秀次、満鉄刀、常陸大掾勝利、無垢鍛の源良近、ステンレスの兼永外二三を手
がけたが、桑田部隊の須山少尉の佩刀九段刀某氏作には、遺憾乍ら大きい刃こぼれがあり、ステンレス刀はこれも実用的でない。
満鉄刀は本式の合わせ鍛で、地鉄はどちらかと云えば柔軟で、刃は中直刃、古刀のような‘しなやかさ’があってよく戦えたらしく、
後宮部隊の中村という曹長がこれをふるって相当に切ってのけたが、傷みがなかった。
一枚鍛の良近が案外切れて、よくよく調べて見ると理由がある。
これは優良なスプリング洋鋼で造り、相当にねちっこい。
総体に巧みに焼を戻して折れない程度にしてあり、焼刃は中直刃で殆どあるかなしかではあるが、それでいて切れ味がよい。
実用日本刀の大量生産を必要とする今日、既記兗州刀の事実と、頗る興味のある事と云はねばならない。
日本刀も象牙の塔を出でて、武用専一であった古刀時代に本当に復帰すると共に、進んだ科学の力を之に加えねばならぬ。
古刀復帰という事で古風な鍛冶場をつくる者がいるが、寧ろ、南満洲鉄道大連工場でやっている日本刀製作々業のように、製鉄、鍛
錬、焼き入れにもあらゆる文明の利器を用いてする研究的復古でなくては意義をなさぬ。
その理由は、長船の末期古刀は当今二百円から二百五十円。今日、現代刀に二百円を投ずる人はまことに少ない。
諸物価の高い今日、能率の上がらぬ古風鍛造で五十円から百円で刀を造ろうとすると勢い表面だけのごまかし刀を造る事になる。
それならば現代科学で、少ない労力で性能豊かな作刀が出来、然も安価に需要に応じられるからである。

概 括 (筆者)
何時の時代にも刀の巧拙はあるが、新刀・新々刀は美術刀と実戦に耐えられる刀との差が大きかった。

成瀬氏は「一振り千何百円かを投じた正真正銘の井上真改の焼巾の広い錵の荒いやつが、一戦でボロボロ刃がこぼれて大鋸のように
なったり、そうかと思えば、無銘肥前物を三十円で求めたという下士官が、それで見事に鉄条網を裁り敵を弾帯ごと大袈裟にぶっ放
して刃こぼれも無かったというような実例もある。
桑田部隊では真改を二振り見た。その内の一つは小豆粒程の刃こぼれがあり、その欠け口は良くなく、二振りの刀身は硬直で、激し
く戦ったら或いは折れるのではないかと思われた」と述べている。

世に云う名刀より、無銘や名も無き刀匠の作に良い刀があった事を実例を挙げて証明している。
内地の刀剣家で評判の悪かった昭和刀には、焼の深い粗雑な物と、無垢鍛でも鋼材や焼戻しに工夫された物の二種類があり、「良
近」を例に挙げて15振りの由緒ある日本刀と比べて優れていたことを詳述している。
昭和刀も実戦に何ら問題なく、中でも優れた昭和刀を戦地で再認識した事が窺える。

江戸から昭和に至る迄、美術鑑刀・鑑識家の大家と称する人が流布した武器性能の良否には、なんの根拠も無い。その欺瞞と愚か
しさを水心子正秀の主張を随所に引用して説明している。
5

戦 へ る 刀


本当に戦える刀体、強い刀身、切れる刃、極端にいうならば、地刃の区別が判然たらずとも、地鉄に鍛い目が現れて居らずとも、
刃表に錵匂いがなくとも良い。“切れ且つ粘る刀即戦へる刀”とだけいって置く

戦える刀の条件には、“焼の戻し加減”が重要な役廻りを演じる。
彼の虎徹、忠吉等の強いという意味は、勿論地鉄の硬いという意味では無く、粘っこい事、即ち“粘硬”であって、“軟らかく切
れる事”の不思議な強さを云うのである。
自分は、陸軍で造っている「造兵刀」に、こうした意味で一段の飛躍を期待したい。将来を望みたい。
将来は軍の整備した組織ある機構の中で、“今虎徹”“今忠吉”でなくとも、“今國清”“今吉國”位は造って貰いたい。

水心子正秀は実戦で使える刀に地肌の美や錵・匂い等の刃文は何の関係も無いということを述べている











中蒙古の最前線に於ける成瀬関次氏(右)と
栗原彦三郎軍刀修理団の今野昭宗刀匠(左)

栗原修理団は今野刀匠一人を成瀬氏の元に残し移動した

成瀬氏は将来有望な刀匠として今野氏を評価した
成瀬氏が佩用する軍刀は應永備前二尺七寸五分という
大反りの長大な刀だった
6

斬 る 心


徐州陥落の直後、或る中尉と北支新郷の兵站(へいたん)宿舎で歓談した。
(かっ)て敵兵十数人を袋の鼠にした時、一人の敵兵が囲みの隙間から逃亡、中尉は兵隊若干と之を追跡し、ある池の岸に追い詰めた。
敵兵は立ち止まるや否や、くるりと後ろを向き、右手にぶら下げていた拳銃を投げ出すなり双手を高く上げて「アィヤァ」と一声叫
んだ。
「助けてくれ」という意味と思われる。そのまま両手を合わせて拝む様な格好をした。それはほんの咄嗟(とっさ)の間の事で、騎虎
(きこ)の勢いで追い縋(すが)った中尉は、ハッと思いはしたが、既に無意識の一刀を肩先深く切り込んでいた。
瞬間、「しまった」というような感じがぐっと動いたけれども、甚だしく殺気立っていた時の事だから、何とも致し方がなかった訳
であるのに、戦闘が終わってから後も、その時斬った敵兵の声や死顔が、いつまでも耳目について廻って困ったと述懐した。
戦って斬ったのなら、何人斬っても平気なものだが、斯様に「助けてくれ」というやつを誤って斬っただけでも、・・・・それが
戦闘中の出来事であっても、後々まで気色が悪いらしく、殊に病気などした時には、妙に気に病んで困るというような話は、至る処
で耳にした。

蒙疆某奥地の外園部隊へ今野(昭宗)軍属と共に派遣されて行った時、捕虜収容所があって、非常に残虐な共産匪の将校を二名取り調
べていた。何としても実を吐かず、帰順もせぬというので、結局処刑の外は無いと、別の監置所へ連行してゆくのを目撃した。
二人とも藍色の長い便衣を着て、小雨のそぼ降る夕暮れの街路を跣足(はだし)のまま引き立てられて行った。
翌朝我々軍刀修理班の世話掛りをしている軍曹がやって来て、浅右衛門の一役をやって貰いたいと言う。
酸鼻聞くに耐えぬその罪状であり乍ら、彼等が、ただ尋常の顔をして、便衣を着ているというだけの感じで、そうした気が全然起こ
って来ない。
今野軍属に、「君一つどうだ」と聞いて見たが、矢っ張り首を振ったので、折角のご希望ではあるが、今回だけは気が進まぬといって
辞退した。
“人間が人間を斬る”という殊の前には、一種名状の出来ない“潜在性の道徳”が微妙に働く。
我に刃向かう者以外は斬れぬ。
例え罪科を重ねた者とは云え、現在すでにその自由を奪われている人間だという殊だけで、妙に躊躇されるのである。
この特性は、武士道的教養を受けた日本人には殊に度が強いようだ。

将 兵 の 心 情

(筆者の所感)

成瀬氏は軍刀研究の為に、應永備前二尺七寸五分という大反りの刀を佩用していた。
5月1日、台兒荘の東方鍋山の下の戦闘で初めて敵兵を斬っている。首を斬って粟粒程の刃こぼれが出来た。
戦闘員でもない軍刀修理軍属が戦わざるを得ないという事から、当時の苦しい戦闘状況が解る。
成瀬氏自身、人斬りの経験があるだけに、「斬る心」、「斬られる心」という項目で、山田浅右衛門の例を挙げて両者の心境を詳
述している。それだけに、上記の中尉の話や、浅右衛門役を断った話には実感がある。

外園部隊には、当然、将校や下士官兵がいた。何故、態々民間人の軍属に処刑役を頼みに来たのか ?
ここに、当時の日本軍将兵の真実の姿を見る事が出来る。
例え、酸鼻聞くに耐えぬ罪状の便衣兵であっても、戦闘行為以外では、誰も斬首をやりたがらなかった将兵の心情が明らかに査証
されている。
この感覚が大多数の皇軍将兵の人間としての思いであったと断言してよい。敢えて軍紀とは言わない。

何処の国にも、何処の軍隊にも必ず例外的な人間は存在する。又、生死を賭けた戦場はそれ自体が狂気の世界である。
戦友が目の前で斃れ、自らも生死の幽明に晒されたら、復讐心が湧くのも無理からぬことと言える。
その為に、戦闘の中で、例外的事件が起こり得たことは世界の戦史が明らかにしている。

それでも、世界の軍隊に比べて皇軍の軍律は厳しかった。
天皇の名を汚すことは厳に慎まれたからである。
仮に例外が散見されたとしても、だからと云って、皇軍将兵の多くが、捕虜や非戦闘員の市民をやたら殺害したと喧伝する人達が
いるが、成瀬氏の記述で見る将兵の心情からは、そうした日本兵の姿は浮かんで来ない。



2013年8月26日より(旧サイトより移転)
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