軍刀抄 士官軍刀使用率 0

士 官 軍 刀 使 用 率

支那戦線に於ける軍刀の実戦使用率  | 軍刀 | 軍刀について | 軍刀の評価 | 士官軍刀論

士 官 軍 刀 実 戦 使 用 率

「戦ふ日本刀」と「実戦刀譚」から推定する

 成瀬関次氏は根岸流手裏剣の名手で、桑名藩伝兵法山本流居合術の武道家である。
 当時の世相、軍刀修理軍属としての立場、軍の厳しい検閲を考慮して軍刀の有効性を訴えているが、これは止むを得ない事と思わ
れる。
 成瀬氏自身が武道家であり、本人もそのように思っていたのかも知れない。
 軍人に対して、剣道と共に居合いと真剣操法の教育の重要性を強く訴え、将校・下士官の軍刀操法未熟故の失敗例を嘆いている。
 小泉海軍大佐も武道の不振をいみじくも訴えている。
 この事は、軍刀操法が一般的な士官に如何に浸透していなかったかの逆説的証明でもある ※1
 士官軍刀の本質から見て、実戦使用は予想以上の事だったのかも知れない。
 柄損傷の多発もその辺に一つの原因があるように思える。[竹刀剣道 (打点) と真剣道 (斬る)は全く異質のものである]
 何故なら、叩き上げの士官は別にしても、士官は少尉任官時に初めて軍刀を調達装備する。
 それ迄に居合い・試斬などの実戦武道を修練した者以外は、軍刀操法に不慣れな事は当然であった。

 両書を読むと、支那事変は、恰も「白兵戦」であったかのような錯覚を覚える人がいると思うが、成瀬氏が軍刀修理軍属であって、使用軍刀の記録と各部隊の軍刀記述に限られるのは当然の事である。
 此の事を以て、支那派遣軍全てが、軍刀と銃剣の白兵戦を常時展開していた訳ではなかった事を蛇足しておきたい。

 支那事変時の支那派遣軍(北支那方面軍・中支那派遣軍等)は約60万人(満洲の関東軍を除く)である。
 軍の編成から、将校約16,000人、下士官約66,000人以上と推定される。
 この時、既に軍曹・伍長も帯刀しているので、支那大陸には約82,000本以上の軍刀があったと推定される。
 帯刀本分兵を入れると軍刀数は更に増え、90,000振りを超えるのではあるまいか。

 下士官は本来、官給下士官刀であるが、下士官刀の供給不足の為に日本刀仕込みの自前軍刀を暗黙の了解の基でかなり使っている。
 成瀬氏の軍刀修理班は9ヶ月滞在。1,681振りの修理時点での統計では、

 1.何らかの戦闘で損傷した物30% (約500振り)
 2.あとの70%は全く戦闘に関係ない無茶な試し斬りや行軍中の事故である

 柄に拘わる損傷は全修理数の60% (約1,000本)で、戦闘ではほぼ最初の一撃で発生しているようだ。
 軍刀修理班は当然戦闘前線に派遣されている訳で、これから類推すると、戦闘に使われた軍刀は総軍刀数90,000振りに対して、成
瀬修理班が担当したのは約500振り、0.5%と極めて少ないことがわかる ※2
 使用したが異常無い軍刀もあるという反論もあるが、日本刀形式の柄の危弱さ(官給下士官刀を除く)は成瀬氏も指摘している通り
で、ほぼこの推論で良いのではないだろうか。
 然も損傷刀の中の多くは下士官が使用した物である。
 将校軍刀は野戦指揮刀、又は守護・護身刀が本質だが、偶発戦や混戦・近接戦や戦局の悪化に依り、自己防衛上も突発的に使われ
る事は当然あった。
 然し、この数字から見ても、将校軍刀の実戦使用は、矢張り例外的であったと見て差し支え無いと思う。

 只、成瀬氏が言うように、当時、銃後で考えられていたような、容易く支那軍を制圧出来るという構図ではなかったようだ。
 支那軍の中には、日本将兵の証言からも、頑強な兵もいたと云う。これには督戦隊の存在が一因にある ※3
 又、モーゼル大型機関拳銃にも悩まされた。何より日支の兵員格差が大き過ぎる。日本軍はかなり苦戦した。
 
 先述したように、成瀬氏は派遣先の部隊で三度全滅の危機に瀕し、徐州戦では我に十数倍する20万の敵兵に包囲され、糧食弾薬が
尽き果てて、生還を期する者無く、全員銃剣と軍刀による肉弾戦を展開した。
 戦闘兵科でもない獣医部の高橋大佐や、軍属の成瀬氏達も軍刀を以て最後の斬り死にを覚悟した。
 凄まじい肉弾戦を展開して、奇跡的に全滅の危機を何とか切り抜けている。
 成瀬氏をして「白兵戦こそ皇軍の真髄」と言わしめた事は、この状況からして本心から出た実感であろう。

  ※1 これは、士官軍刀の本質論に関係する。士官軍刀は服制令の範疇であって「兵器」ではない。
    士官の要諦は指揮能力にあるのであって、士官学校での軍刀操法は短期間の速成教練で、歩兵・騎兵科が中心であった。
    真剣操法では「居合い三年」と言われる修練期間に比べて、士官学校本科で習う付属的短時間の教練成果が如何なるもので
    あったかの想像は難くない。
  ※2 支那派遣軍に軍刀修理班が全て付いた訳では無い。
    成瀬修理班が北支一帯の北支那方面軍である事を勘案すると、当然もっと実戦使用率は上がる。
    それでも、北支那方面軍の兵力を按分しても1.5%〜3%位であろうか。
    軍刀実戦使用率は相対的に少なかったと云わざるを得ない。
    実戦の中軸は下士官であり、当然、将校の軍刀実戦使用率はこれより更に低くなる。
  ※3 督戦隊: 「戦いを督促」する支那軍のみに存在した特殊部隊。
    支那兵は不利になると直ぐに敵前逃亡する為に、前線の後方に位置して、逃亡する自軍の支那兵を射殺した。この恐怖心に
    よって、直ぐに逃げたがる支那兵を強制的に戦わせるようにし向ける世界の軍隊にも類例のない支那独特の軍組織。
    督戦隊の存在そのものが、烏合の衆である粗末な支那軍の実態を雄弁に物語っている。
    支那軍は地方軍閥の寄り合い所帯であって、練度や士気は低く、統制も取れていなかった。
    近代国軍の統一されたイメージとはかなり違う。
    軍閥同士が殺し合いを演じ、支那民衆が最も怖れたのは日本軍ではなく、逃亡する支那兵の自国民衆に対する暴虐行為であ
    った。多民族国家故の現象とも云える。
    戦後、彼等の暴虐の罪を日本軍に擦り付けようとした事実を忘れてはならない。



軍旗を奉じて北支某地点を渡河する陸軍○○部隊の将兵
旗手の将校は柄に白布を巻き付けた軍刀を左手に握り締めている


 広大な支那戦線では、補給が思うに任せず、各所で大敵に包囲され、或いは多発するゲリラ戦で、銃弾不足に陥った日本軍の台所
事情によって、肉弾・白兵戦を余儀なくされたように見受けられる。
 「斬る心」の記述にもある、態々銃剣と軍刀で逃げる敵を追い駆けて行く状況自体が異様である。
 敵は拳銃を持っている。歩兵銃で撃てば済む事であるのに、何故その様な労力を掛け、危険を冒すのか。
 概して日本軍では、銃弾の無駄使いを厳に戒めていた。薬莢すら回収させた例もある。
 資源の乏しい国の悲しい現実だった。
 銃弾が欠乏していた状況が窺える。「日本軍神髄の白兵戦」だけでは、この不合理は説明できない。
 只、蒋介石が自軍の将兵に布告した「模範とすべし」と謂う日本軍将兵の練度と士気は極めて高かった。
 白兵戦が散発した真因を知りたい処だが、軍機密もあってその点は触れられていない。
 逆に、武士道の発露として、白兵戦こそ皇軍の神髄と賞賛している。
 事実、肉弾戦で支那軍を退けて、近代戦では凡そ考えられない結果をもたらしている。
 まさか銃弾不足とは云えないだろうし、それにも増して、支那兵そのものの質に問題があったのだと思う ※1
 従って、弾薬補給の欠乏から、白兵戦が散発し、勝敗の結果から白兵戦賞賛論が生まれたと解釈すべきであろう。


浙江戦線で廃墟に立て籠もる陸軍部隊

 ところが、成瀬氏は一方では、軍刀は「精神的武器」という表現もしている。

 日本支那派遣軍と支那軍双方の実情も勘案しながら、且つ、実戦使用軍刀の比率の少なさをも念頭に置いてこれらの本は読まなけ
ればならない。そうでないと支那事変は白兵戦であったかの如く勘違いをして仕舞う。

 「実戦刀譚」は単に軍刀に止まらず、日本刀とは何かを見直すのに大変貴重な資料である。A6版、335ページのこの本は、全く別の日本刀観を見せて呉れる。




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