士官にとっての軍刀の意義 | 戦ふ日本刀 | 軍刀の実戦使用率 | この日本刀と共に |
シンガポール・ブキナ
抜刀して皇居遙拝をする近衛連隊将校 |
その後の兵器の進歩は目覚ましく、第一次世界大戦(大正3年1914)では重火器・戦車 ・航空機が登場した。 こうした兵器の出現は地上戦闘の様相を一変させた。 軍刀の武器としての要素を一段と後退させる事になる。 満洲事変の後、満洲に出かけた刀剣鑑定家の本阿弥光遜は、「接戦になったらピスト ルより日本刀が有利」と公言している。 「ピストルの弾には限りがあるが、日本刀仕込みの軍刀は目釘の続く限り、体力の続 く限り斬りまくれる」との論旨である。 近代戦は云うに及ばず、戦国期以降の組織戦に於ける刀の有効性など全く念頭にない 講談の世界での話である。 刀剣専門家と称する人達のこれが実態であり、こうした事が一部の軍人の軍刀妄想を 助長した。これこそを時代錯誤という。 この延長線上に荒木貞夫陸軍大将がいた。 この考えが軍上層部の大勢であったとは思えない。 荒木大将の対極に山下奉文(ともゆき)陸軍大将がいた。 徹底した合理主義者の山下大将は、何かというと軍刀を外したがり、側近参謀を困ら せた。山下大将は、自身、凡そ軍刀の持つ精神性や有効性を一切認めていなかった。 陸軍には希有な将軍であり、最高指揮官として必要な合理の精神であったともいえ る。 |
伊號第47潜水艦にて出撃する人間魚雷「回天」 多々良隊の福島中尉と八木少尉 (学徒兵) |
海軍の軍刀観には武器の要素は皆無である。 それでも軍刀は矜持(きょうじ=誇りを持つ)の為に佩用された。 陸軍と雖(いえど)も、士官軍刀の意義は承知していた筈である。 何故なら、本阿弥光遜や荒木大将等の考えを士官軍刀に適用すれば、兵器・武器として の研究成果である下士官刀は既に完成していた。 この外装構造、特に柄の構造と材質を何故将校軍刀に適用しなかったのか。 何故士官軍刀が「兵器」の規定ではなく、終始「服制令」の範疇だったのか。 将校達は軍刀に単なる武器の要素を求めた訳ではない。 将校達は、士官の証として、軍刀に美観や精神性を強く求めた。 人間は「心の律し方」を各々に持っている。 軍刀は士官の心を律する為の重要な装備品であった。 軍刀を携えて特攻出撃する飛行搭乗員や「回天」搭乗員達の多くの写真が、軍刀の意義 を無言の内に物語っている。 士官にとって軍刀は「心の拠り所」に他ならず、何にも代え難い「心の装い」であっ た。 |
ルーズベルトは、中華大陸の利権確保で日本に先を越され、日本を徹底的に憎んでいた。 当時の中華民国(蒋介石政府)を米国が支援したのは、中華大陸での利権確保が目的であって、 正義や人道などとは一切無縁であった。元々、有色人種の国々を殆ど侵略して植民地にして いた欧米列強に、正義や道義などある筈がない。 第31代ハーバート・フーバー米国大統領は、「ルーズベルトは狂気の男だった」と回顧録に 詳述している。ルーズベルトを知悉(ちしつ)するフーバー前任大統領の証言の意味は大きい。 日米開戦前夜の対日外交々渉で、コーデル・ハル国務長官がまとめた「ハルノート」が有名 だが、この案は、日本側でも妥結の余地を残すものだった。 ところが、日本への最終提示案は、ソ連のスパイである財務省特別補佐官ハリー・ホワイト が作成した「ハルノート」だった。これは日本が絶対に妥協出来ない案だった。 米国の中華大陸での利権を日本に邪魔されたルーズベルトは、日本を潰すことを決めていて、 日本との外交々渉を妥結する考えなど、毛頭なかった。 この策謀は、当時の共和党の有力議員であったハミルトン・フイッシュも米国の独立200周年 |
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