軍用日本刀の考察 軍刀論0

軍 刀 論

士官にとっての軍刀の意義  | 戦ふ日本刀 | 軍刀の実戦使用率 | この日本刀と共に
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軍 刀 の 意 義



昭和20年2月21日、前・後部甲板に5基の人間魚雷「回天」を係留して山口県光基地を出撃する伊號第370潜水艦
     「回天」上で軍刀を振り、故国の山河に最後の別れを告げる回天特別攻撃隊千早隊の隊員
     右側は、学徒出身の岡山(海機)・市川(早大)・田中(慶大)各少尉の中の二人、左側二人は浦佐・熊田二飛曹


士 官 軍 刀 の 本 質


士官軍刀の意義は、海軍刀によって端的に表象されている。白兵戦と無縁な海軍士官が何故(なにゆえ)軍刀を佩用したのか。
軍刀、短剣は士官の「身分の象徴・栄誉と誇りの象徴」であった。それ丈ならば短剣でも目的は充分に果たせた。
内地では、軍刀、短剣とは異なる装備品として、儀仗・指揮刀(模擬刀身)があった。
戦地では軍刀がこの用途を兼用した。その用途には細身刀身、片手握りのサーベル軍刀が遙かに適していた。
然し、サーベル軍刀の時代にも、士官達は本身に日本刀々身を好んで選択した。
これは陸・海軍士官共通の傾向であり、その結果、太刀型外装への改変が行われた。

士官軍刀は、戦地では武器であると共に、儀仗・指揮刀を兼ねるが、それ以上に重要なことは、軍刀を佩用する事による「精神の鼓舞
(こぶ)・精神的充足感」の要素が極めて大きかったことであった。武人としての「魂の拠(よ)り所」といってもよい。

日本海々戦の連合艦隊旗艦「三笠」の副砲鋼材から造られた三笠刀、三笠長・短剣が、海軍士官憧れの的だった事などはそのことを裏
付けるに充分である。
又、大戦末期に、特攻出撃する飛行士官が軍刀と共に爆装機に搭乗する姿や、人間魚雷「回天」の特攻隊員達が軍刀を携えて潜水艦で
出撃する姿などは、軍刀の意義を端的に顕していると云えよう。

士官達の精神的支柱となり得た日本刀とは何であろうか。
神代の昔、「剣」は武器でありながら武器を超越した信仰の対象であり、祭祀(さいし)・儀礼の重要な神器であった
刀と日本人参照
やがて剣は太刀、刀へと姿を変えてゆく。これらの刀剣が醸(かも)し出す神秘的な雰囲気は、人々を魅了するに充分であった。
刀は単なる武器では無く、富と権力の象徴であり、霊的な命を宿した特別な存在と見なされた。

以来、日本人は後の世で「日本刀」と呼ばれる刀に対し畏敬(いけい)・崇敬(すうけい)の念を連綿(れんめん)と抱き続けてきた。
程度の差こそあれ、伝家の宝刀、守り刀の意識は今に至るまで日本人の感覚に生き続けている。
士官が佩用する軍刀々身に何故日本刀が多いかの理由の一つがここにある。

古作の日本刀に加え、拡大する軍刀需要に応える為、近代に相応しい軍用刀身が多く造られた。
明治の廃刀令による刀匠の壊滅、和鋼の枯渇、劣悪な戦場での使用環境を考慮した刀身性能の改善、量産性などへの対応から、新たな
軍用刀身が開発された。 
士官達は、こうした実用軍刀身も、時代に応じた紛(まぎ)れもない「日本刀」として佩用していた事実を忘れてはならない。

「刀」の本質は、鈴木眞哉著「刀と首取り」で見事に喝破(かっぱ)されている。
源平の集団合戦では、前哨戦を弓射で始め、混戦の主武器は薙刀だった。戦国時代の主武器は「弓・槍」→「鉄砲」に代わった。
戦国の世、刀がもし実戦の主たる武器ならば、合戦で必ず破損・遺棄(いき)される刀身を豪華な拵えで装うことの矛盾がある。
武士がそこまで不合理であったとは思えない。

欧州の伝統的「白兵戦」に対し、日本では早くから「遠戦」思想であった。
永い歴史のなかで、武器である刀が個人戦や小集団の局所戦、近接戦に当然使われた。
然し、「合戦=組織的集団戦」での刀の意義は、武将の地位の象徴であり、守護・護身刀であった。
もしも主武器であったなら、柄・茎(なかご)の構造や、刀身・外装はその後当然に改良されていなければならない。
現に、支那戦線の実戦使用に依って、茎の短さに起因する古来の日本刀の柄廻りの危弱さなどが露呈した。
実用に耐えられない種々の弱点を抱えていた。

軍は、士官、下士官、兵で構成される。各々の責任と役割は厳密に規定されていた。
下士官・兵(帯刀本分兵) には軍刀が兵器として官給されていた。                       九五式軍刀参照
最前線で戦う下士官・兵用軍刀は、「兵器」として頑丈に造られていた(長い茎、金属製柄)
下士官・兵を指揮する士官の服制令による個人装備軍刀とは役割の違いから自ずと性能と強度に差が有った。

(むし)ろ、近代戦で本当の白兵戦があったのであろうか。
互いに銃弾を撃ち尽くし、最後に行う銃剣や刀剣での戦いが白兵戦である。
長さ二尺余の日本刀の有効距離は僅か1mにしか過ぎない。銃を持つ敵には全く無力であり、銃剣にも敵(かな)わなかった。
当時の中国戦線での軍刀用法を史実に見ると、偶発近接戦、便衣隊の制圧、敗走する敵の掃討戦、銃弾不足に依る止むを得ない白刃戦
はあるが、用兵上想定された白兵戦とは凡(およ)そかけ離れている。
ましてや、日中戦と異なり、質・量共に格段に近代装備をした米英軍相手に軍刀は兵器とはならなかった。
弾薬が尽き果てた日本軍が、軍刀と銃剣で最後の突撃を行った例はあるが、これは白兵戦とは意味が違う。
戦国時代ですら主たる武器ではなかった刀が、銃火器や航空機の近代戦で有効な武器となり得る筈が無い。
又、士官軍刀が実戦に不向きな証(あかし)は、前線で軍刀修理を行った成瀬氏がその著書で、構造と用法の両側面から詳述している。                                       (柄周りの脆弱性、真剣操法の未熟等「実戦刀譚」他参照)
戦国時代、既に、「組織戦闘」に於ける刀の意義は定まっていた。

従って、士官軍刀の本質は指揮刀であり、佩用者の「身分の象徴」・「守護刀」・「魂の拠り所」であったと云える。
それ故(ゆえ)に、士官軍刀の具備要件は「畏敬に足(た)る 刀身」※1であり、それに相応(ふさわ)しい「装い」であった。
(いにしえ)の太刀や打ち刀の拵えは、現代的実用性とはかけ離れ、洋刀拵えは日本人に馴染(なじ゙)まなかった。
「日本刀※2と近代的太刀型外装」がその一つの答えであった。

       ※1 「畏敬に足る刀身」とは各々の士官の心の持ち方で決まる。玉鋼の日本刀だけを指すものではない。三笠刀などはその典型である
       ※2 此処で云う日本刀とは、「俗説日本刀」を指すものではない。「日本刀考及び軍刀雑抄」の日本刀の考察他を参照
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士 官 軍 刀 論


明治の時代、英国始め伝統ある欧州の国軍士官の条件は貴族出身者であった。
日本は維新になって四民平等となったが、士農工商に代わり、華族(貴族)・士族・平民という新たな階層が生まれた(皇族は別格)
この階層意識は終戦まで続いていた。
帝国陸・海軍は平民にも士官登用の門戸を開いた。
明治に訪日した貴族出身の英国士官が、これを聞いて驚いたという逸話が残っている。

士官は、明治以前の武士の身分を意味する。
江戸期では、平民が士分になることは考えられないことであった。
旧軍では、厳然たる階級区分の下、軍刀が佩用できるのは陸・海軍士官と、陸軍上級下士官のみでる。
こうした状況と社会の背景は、士官軍刀を識る上で重要な意味を持つ。

白兵戦に伝統を持つ欧州の各国軍では、兵器の発達と戦法変化で、指揮・儀仗刀を除き軍刀は早くに姿を消した。
近代国軍として最後まで軍刀を装備した軍隊は、世界で唯一、大日本帝国陸・海軍だけであった。
これは民族の歴史上、刀に対する特別な思いが日本人にある事と無関係ではない。             刀と日本人参照



第六方面軍視察の支那派遣軍畑総司令官(中央)と岡村方面軍司令官(右)及び幕僚達(昭和19年)

旧日本軍の軍刀装備を時代錯誤と云う人がいるが、それはあまりに浅薄と云わざるを得ない。
全将兵が軍刀を装備していたのならその見解は一理ある。然し、軍刀佩用は上級下士官(曹長)以上の少数である。
軍の組織編成から見れば士官の占める割合は極めて少ない。
海軍に至っては、陸戦隊を除けば、軍刀の武器としての意味など全く見い出す事が出来ない。
後の陸・海軍飛行士官達も同様である。
軍刀を単なる武器と捉えていれば、時代錯誤という見方をすることになる。
組織戦闘で、武器としての刀が火器の前で如何に無力であったかは、既に戦国時代に立証され、幕末の動乱を生き残った新政府の顕官
達も充分にそれを承知していた筈である。
 
近代戦でも、戦況に依り白兵戦は確かにあった。
然し、組織的白兵戦が現出したのは日露戦争迄であろう。日露の地上戦では、白刃に依る塹壕戦が展開された。日本軍の重砲と小銃弾
不足が原因している。彼我が入り乱れての塹壕戦では銃火器は扱い難い。然も、その白兵戦の主武器は兵が装備する銃剣である。
兵員比率で数が少ない士官の軍刀が、如何ほど戦力に寄与できたと云えるであろうか。

士官の本領は下士官・兵の指揮にあり、自ら戦わざるを得ないのは終局の状況である。
士官軍刀は、服制令で義務付けられた私的装備品であり、あくまで「服制令」の範疇であった。
必須の武器ならば当然官給されるべきで、「服制」ではなく「兵器」でなければならない。
ここに士官軍刀への軍の認識が如実に現れている。

国軍草創期(幕府軍も薩摩藩も幕藩時代、既に外国の指導を受けていた)、陸軍は指導を受けた仏軍の影響を受けて、白兵戦の可能性も
想定した。軍刀は野戦指揮刀であり、不測の事態に於ける武器となる事は云うまでもない。
武器としての軍刀は消耗品である。軍はゾーリンゲン社の刀剣鋼で洋刀身を準備した。
それにも拘わらず、多くの士官達は家伝の宝刀や高価な日本刀を好んで軍刀に仕込んだ。
それが叶わぬ下級将校達は、砲兵工廠製の村田刀を選択した。
これは日本刀が洋刀より優れているという思い込みだけであろうか? 
否、生死を賭ける戦場で、洋刀には何の精神性も見い出せなかったからである。
槍と鉄砲が主武器であった戦国の世に、武士達が太刀・刀に祈った同質の思いをそこに見る。


シンガポール・ブキナ
抜刀して皇居遙拝をする近衛連隊将校
 その後の兵器の進歩は目覚ましく、第一次世界大戦(大正3年1914)では重火器・戦車
 ・航空機が登場した。
 こうした兵器の出現は地上戦闘の様相を一変させた。
 軍刀の武器としての要素を一段と後退させる事になる。

 満洲事変の後、満洲に出かけた刀剣鑑定家の本阿弥光遜は、「接戦になったらピスト
 ルより日本刀が有利」と公言している。
 「ピストルの弾には限りがあるが、日本刀仕込みの軍刀は目釘の続く限り、体力の続
 く限り斬りまくれる」との論旨である。
 近代戦は云うに及ばず、戦国期以降の組織戦に於ける刀の有効性など全く念頭にない
 講談の世界での話である。
 刀剣専門家と称する人達のこれが実態であり、こうした事が一部の軍人の軍刀妄想を
 助長した。これこそを時代錯誤という。

 この延長線上に荒木貞夫陸軍大将がいた。
 この考えが軍上層部の大勢であったとは思えない。
 荒木大将の対極に山下奉文(ともゆき)陸軍大将がいた。
 徹底した合理主義者の山下大将は、何かというと軍刀を外したがり、側近参謀を困ら
 せた。山下大将は、自身、凡そ軍刀の持つ精神性や有効性を一切認めていなかった。
 陸軍には希有な将軍であり、最高指揮官として必要な合理の精神であったともいえ
 る。

多くの士官達がサーベル拵えに日本刀を仕込む実態から、陸海軍は新軍刀外装を制定した。
デザインは後鳥羽院が好まれた「兵庫鎖太刀拵え」が基本となった。
外装金具に「大和心」の象徴である「桜」が鮮やかに装飾された。
海軍長剣では明治9年から施されていたが、陸軍も金具全てに桜花葉の高彫りが施される事になった。

新外装は実用性を考慮しながらも古代に遡り、より雅(みやび)となった。新軍刀は古えの太刀の雰囲気を色濃く漂わすことになる。
これは、後鳥羽院が希求された太刀への願いに近づいたと解釈できないか。

海軍陸戦隊は、上海事変の戦訓から「速ヤカニ陸戦用トシテ至便ナル軍刀ヲ制定スルノ要アリ」と要求した。
その意識の下には古来の太刀や刀の姿が伏流水のように連綿と流れていた。
サーベル拵えの護拳が日本人の伝統的刀の操法に邪魔になると訴えた。
新軍刀の古式な柄は、背金と金線に巻かれたサーベル拵えの柄に比べて明らかに強度は落ちる。
二つの佩鐶は、実戦を経験した陸戦隊士官にとっては実用面で不便であった。
然し、それを凌ぐ満足感を新軍刀に感じたのではなかろうか。
軍の上層部が、士官軍刀に「大和心」の美を写すことをより強く求めたとみるべきである。


伊號第47潜水艦にて出撃する人間魚雷「回天」
多々良隊の福島中尉と八木少尉 (学徒兵)

 海軍の軍刀観には武器の要素は皆無である。
 それでも軍刀は矜持(きょうじ=誇りを持つ)の為に佩用された。

 陸軍と雖(いえど)も、士官軍刀の意義は承知していた筈である。
 何故なら、本阿弥光遜や荒木大将等の考えを士官軍刀に適用すれば、兵器・武器として
 の研究成果である下士官刀は既に完成していた。
 この外装構造、特に柄の構造と材質を何故将校軍刀に適用しなかったのか。
 何故士官軍刀が「兵器」の規定ではなく、終始「服制令」の範疇だったのか。

 将校達は軍刀に単なる武器の要素を求めた訳ではない。
 将校達は、士官の証として、軍刀に美観や精神性を強く求めた。
 人間は「心の律し方」を各々に持っている。
 軍刀は士官の心を律する為の重要な装備品であった。

 軍刀を携えて特攻出撃する飛行搭乗員や「回天」搭乗員達の多くの写真が、軍刀の意義
 を無言の内に物語っている。

 士官にとって軍刀は「心の拠り所」に他ならず、何にも代え難い「心の装い」であっ
 た。

大多数の一般軍人や国民は、東郷元帥の「三笠艦橋の図」に象徴される軍刀観を根強く持っていた      ※ 三笠艦橋の図参照
終戦迄の社会の仕組みと、民族の長い歴史の刀剣観を識れば、「身分の象徴」・「魂の拠り所」という士官軍刀の本質が理解出来るで
あろう。



余    録

戦後、連合軍 GHQ は、日本軍の武装解除にあたり、個人装備の士官軍刀の接収取り扱いで混乱を生じた。
日本文化に精通する連合軍接収官の中には、士官軍刀は武器ではないとの日本側の訴えに、一時それに傾いた節がある。
本国政府はこれに激怒して接収を命令した。
理由は、日本刀に象徴される「日本文化と日本人の心」を徹底的に破壊することにあった。
軍用日本刀は、軍国主義の象徴と見做された。
戦後の美術刀剣界は、鑑賞美術刀を目的にしている為に、占領軍のこの政策は自らの利益に適っていた。
だからこそ、軍や軍刀を徹底的に排除し蔑むことで、GHQの植民地政策の片棒を積極的に担ぎ続けている。
こういう人達が日本刀の専門家を自認し、日本の歴史的背骨であった日本刀を語るとは何とも皮肉な話しではある。
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戦後・自虐史観からの脱却

大東亜戦争後の日本占領政策を終結させる為、1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコにて日本と連合軍諸国との講和条約が締結された。発効は、1952年(昭和27年)4月28日である。
これで日本の独立が回復した・・・ということになっているが、日本は本当に独立国になったのであろうか ?
日本を二度と立ち上がれない国にする為に、現行の日本国憲法(俗称: 平和憲法)を起草した米国の起案者の一人が、日本が独立した後、未だにその憲法を押し頂いている状況を聞いて「信じられない」と評したのは有名な話しである。
お人好しの日本人は「国連」という組織を過大評価して、その決定事項を免罪符のように思っているが、国連への拠出金二位の日本は国連憲章の中で未だに「敵国」と規定されている。
国連の実態は、核兵器を保有する五大戦勝国(但し、共産党の中華人民共和国=中共は戦勝国ではない。日本と戦ったのは台湾に亡命した国民党の中華民国)のエゴを丸出にした機関といっても過言ではない。五大国の一国でも拒否権を発動すれば何一つ決められない。
ロシアのウクライナへの武力介入、中共の傲慢な尖閣諸島への脅かし、シナ海への海洋進出、韓国の竹島奪取など、国連は全く機能を停止している。重要な案件ほど、加盟国の大半の意見があっても国連決議に反映されることは少ない。
そういう国連に何故いつまでも幻影を抱き続けるのだろうか。日本は、お人好しを通り越して愚かとしか言いようがない。
同じ敗戦国のドイツは、国家の根幹をなす憲法や教育などの理念に就いて、連合軍の軍門に決して降(くだ)ることはなかった。
戦後のドイツは独立国として早々に「国軍」を創設した。
それに引き替え、戦後70年を経過しながら、日本人は未だに占領軍の「日本解体政策」を唯々諾々として受け入れ続けている。

世界の古代国家は城郭都市から始まった。支那大陸の歴代の王朝国家、アテネ・ローマも城郭都市だった。
思想、宗教の異なる部族・国家間で争いが起こるのは常であった。だから、防衛の為に城郭を築いた。
城郭の建設と、戦士・軍団の整備は表裏一体の要素だった。
国軍を持たない独立国など存在しない。「国軍」を保有することが独立国の最低条件であることを歴史が雄弁に物語っている。 
ドイツ生まれで英国の歴史家ジョフリー・エルトンは、国家の政治史は外交と軍事を除外しては考えられないと述べる。
軍事的裏付けの無い外交々渉は、相手に土下座するか、さもなくば相手から鼻先で適当にあしらわれるだけである。
国際舞台では、動物の世界と同様に弱肉強食が大原則であることを歴史が示している。

日米開戦前、米国ルーズベルト大統領は、 英国チャーチル首相の懇請により、ドイツへ参戦した。米国政府を陰で支配する国際金融資本にとって、戦争ビジネスは膨大な利益をもたらす為である。英国に 戦時資金を貸し付けた米国は、英国が負けると資金の未回収に陥る。それを避ける為に英国を助けなければならない理由もあった。       ( 第32代フランクリン・デラノ・ルーズベルト)
ところが、米国内では80%以上が戦争に反対していた。 ルーズベルトは国内の厭戦世論を覆す為、ドイツと同盟を結んでいた日本に戦争を仕掛けさせることを極秘裏に策謀した。
米国政府内に食い込んでいたソ連の手先(コミンテルン)にとっても、日米を戦わせる事はソ連の国益に適っていた。

 ルーズベルトは、中華大陸の利権確保で日本に先を越され、日本を徹底的に憎んでいた。
 当時の中華民国(蒋介石政府)を米国が支援したのは、中華大陸での利権確保が目的であって、
 正義や人道などとは一切無縁であった。元々、有色人種の国々を殆ど侵略して植民地にして
 いた欧米列強に、正義や道義などある筈がない。
 第31代ハーバート・フーバー米国大統領は、「ルーズベルトは狂気の男だった」と回顧録に
 詳述している。ルーズベルトを知悉(ちしつ)するフーバー前任大統領の証言の意味は大きい。

 日米開戦前夜の対日外交々渉で、コーデル・ハル国務長官がまとめた「ハルノート」が有名
 だが、この案は、日本側でも妥結の余地を残すものだった。
 ところが、日本への最終提示案は、ソ連のスパイである財務省特別補佐官ハリー・ホワイト
 が作成した「ハルノート」だった。これは日本が絶対に妥協出来ない案だった。
 米国の中華大陸での利権を日本に邪魔されたルーズベルトは、日本を潰すことを決めていて、
 日本との外交々渉を妥結する考えなど、毛頭なかった。
  
 この策謀は、当時の共和党の有力議員であったハミルトン・フイッシュも米国の独立200周年
に当たる1976年に「ルーズベルトの開戦責任」として暴露し、国内外に大きな衝撃を与えた。(邦題:渡邊惣樹訳)
こうした米国の謀略は、Jeffrey Record 著「米国陸軍戦略研究所レポート」で、アメリカはいかにして日本を追い詰めたか」として紹介されている。(日米近現代史研究家渡辺惣樹氏訳)

近年になって、米国の対日極秘情報や米国の本音が数々と明らかになってきている。
マックス・フォン・シュラー著 「太平洋戦争・アメリカに嵌められた日本」は、アメリカの実態と日本人に対する本音を赤裸々に述べている。戦後日本人の幻想とも言える甘いアメリカ観など木っ端微塵に打ち砕かれるに違いない。

大戦前夜、アメリカ国民の大多数は、日本を自動車も造れない国だと思っていた。
日米開戦前、既に、米国は合衆国義勇軍と称してフライングタイガース(Flying Tigers=飛虎隊)という名の米国陸軍航空隊を支那に派遣して中国国民党軍を支援していた。米国が中国に進出させた100機の戦闘機隊は、実質、義勇 軍の名を借りた米国の対日戦闘部隊っ
た。即ち、日米開戦前に、米国は既に日本に戦争を仕掛けていた。
Flying Tigersの隊長で米国陸軍航空大尉クレア・L・シェンノート(妻は支那人)は、昭和15年に支那に進出した日本海軍十二試艦上戦
闘機(後の零式艦上戦闘機)の性能を目の当たりして「恐るべき戦闘機」としてその詳細を米本国に報告した。
然し、本国の反応は「日本の戦闘機がアメリカの戦闘機より性能が優れているというのか。有能なシェンノートの報告を信じたいがそ
んなことはあり得ない」と笑い飛ばして無視された。又、ドイツ人パイロットが操縦するドイツの戦闘機が日の丸をつけているに違い
ないということまで囁やかれた。米国の対日観というのはこの程度のものだった。

ルーズベルトは暗号解読で日本の真珠湾攻撃を察知していたが、この極秘情報をハワイの太平洋艦隊司令長官にのみ伝えなかった。
事前に日本の攻撃を邪魔されると、日本に先制攻撃をさせるというルーズベルトの筋書きが狂う為である(諸公開情報を参照)
それには、イエロージャップの攻撃など「蚊に刺される程度」と甘くみていたことが根底にあった。
その日本が世界に先駆けて、斬新な空母機動部隊による大規模航空攻撃を実行するとは想定外であった。
黄色人種と蔑んでいた日本が、こともあろうに白色人種に大きな打撃を与えるとは・・・誇りを打ち砕かれた米国の衝撃は計りしれなかった。
国力と総合科学力(特に情報機器)で圧倒的に差を付けられた日本だが、進駐してきた米軍は、ジェット戦闘機「橘花」、艦載機を積む大型戦略潜水艦(イ=400型)などを捕獲して、先進的な兵器開発を行っていた日本を侮(あなど)りがたいと認識した。
超大国アメリカに敢然と立ち向かった黄色人種の日本人に恐怖を感じた。特攻攻撃も厭わなかった日本人の精神性も脅威だった。
これらのことが強烈な「対日トラウマ」となった。

これが背景となって、米国の日本占領政策では、「軍」や「武」は悪という洗脳を徹底して行ってきた。 
日本を支配する為に、又、二度と日本が立ち上がれないように、独立国の要件である国軍を日本に持たせないことにした。
日本人の精神性の徹底破壊を七年間も推し進めた。
現に、国防を米国に委ねた日本は実質的にはアメリカの属国と化してしまった。
本来、国軍の是非と、旧日本軍指導者の功罪は分けて考えなければならないのに、日本人はそれを混同してしまった。
独立時の首相だった吉田茂は戦前の外交官時代から軍が嫌いだった。戦後の朝鮮戦争時、米国から軍の打診を受けた時、経済を優先するからとの理由でこれを断った。その裏には軍への反感が根付いていた。
首相の吉田ですらこのような判断間違いをしたのだから国民が勘違いしても止むを得なかったのかも知れない。
吉田は死の床て「あれは(国軍を拒否したこと)一生の間違いだった」と述懐したと伝えられるが遅すぎた。

その結果、戦後70年を経た現在も、日本人は国軍を放棄したままでいる。
又、米国は「年次改革要望書」を毎年、当然のように日本に突きつける。
いやしくも独立国の日本に対して、米国が政治・経済の要望を当たり前のように突きつけて来ること自体、日本を独立国と認識していない何よりの証である。アメリカの意向を無視して国政が成り立たないのが現状である。
グローバリゼーションという名のもとに日本の主体性は完全に阻害されてしまった。
知 日派として日本で評価されている米国大統領補佐官や国務長官を務めたヘンリー・キッシンジヤー(典型的なパンダハガー、日本にとっては大変不都合な男) は、その「回顧録」の中で、佐藤栄作首相の事を「これから私が会う人間は、自国の国防も外交も全て他人にお任せするという国の首相だ」と完全に日本を蔑(さげす)み、軽蔑し切っていた。これが日本に対する米国の認識だった。
自国を護る気概も無い民族集団を、誰が国家として認めて尊敬するだろうか ? 自明のことである。
 
日本の戦後、独自の国策を構想して政治生命を絶たれたり、不審死を遂げた政治家は複数に上る。背後に必ず米国の陰があった。
この中でも、米国CIAの稚拙な工作で際立ったのは、2009年の中川昭一金融大臣の辞任とその後の謀殺だった。
米国にひれ伏している日本政治家の中にあって、中川昭一議員は日本の自立を目指す希有な憂国の士だった。日本を属国にしておきたい米国に取っては最も危険な政治家だった。米国の策略は、その年の2月に行われたローマでのG7から仕組まれた。いわゆる朦朧(もうろう)記者会見である。この記者会見に同席した財務官僚も米国の手先と見做されている。
稚拙な工作だった為に、状況証拠からして誰がみても謀殺だったが、政府や警察は「自殺」として処理をした。
そこまで日本は米国に支配されていた。
又、航空機や軍事に関わる技術の日本の独自開発もことごとくアメリカに潰されてきた。
日本の技術立国を阻むのは、米国の兵器・商品を買わせるという戦略が根底にあり、日本支配はアメリカの国益そのものだった。

占領軍の熾烈な洗脳工作で、「国軍」だけではなく、「武力」そのものをも否定する風潮が日本を支配した。
国軍と一切の武力行使を否定した現行日本国憲法は、日本が二度と米国に刃向かうことが出来ないようにする「米国にとって必要な憲法」であって、日本の独立と繁栄を願う「日本の為の憲法」でないことは明白だった。
世界の常識からかけ離れた日本の異常とも言える絶対平和主義を見透かしていた北朝鮮は、漁船を装った工作船を大々的に日本に侵攻させた。日本の巡視船は実弾を搭載せず、何をしても反撃されることがない事を知っていた。
北朝鮮の日本蹂躙(じゅうりん)は思うがままだった。
領海侵犯の不審船を日本巡視船が追跡しながら、武器を使えず取り逃がしていた。
その結果、何百人もの日本人が北朝鮮に拉致された。この疑いに対して、当時の社会党・土井たか子委員長は「そんなことはあり得ない」として北朝鮮を擁護した。
拉致被害者が必死の思いで脱北者に託した救いを求める手紙を届けられた土井たか子は、こともあろうにそれを北朝鮮に報告した。
救いを求めた当の拉致被害者がどのような扱いを北朝鮮から受けたか想像に難くない。これが「左翼」と稱する輩の実態である。
後の民主党の菅直人は、「人権」の名の下に、日本での拉致工作の指揮を執った首謀者の釈放要求書に署名をした。
日本の平和ボケはここまで根深く浸透していた。彼等が好んで使う「人権や民主主義」は自らの反日思想を正当化する為の単なる方便にしか過ぎない。

平成13年(2001年)12月22日、九州南西海域で不審船を追跡していた保安庁の巡視船は、不審船からロケット砲の攻撃を受け、漸く機銃で応戦した。この結果、不審船は自爆した。漂流物と不審船の引き上げから北朝鮮の工作船という動かぬ証拠が出た。
絶対に攻撃されないと高を括(たかをくく)っていた北朝鮮からすれば晴天の霹靂(へきれき)だったに違いない。
この事件の後、不審船の侵攻はピタリと止まった。これが国際社会に於ける国防の現実である。
日本が「普通の国」だったら、北朝鮮は我が物顔に日本を侵略する事はできなかった筈である。
日本の左翼と呼ばれる勢力は、一切の現実を見ようとせずに平和憲法があるから日本の平和が保たれたと主張する。
現実とかけ離れた平和憲法に酔い痴れている間に、数百人の罪無き同胞が拉致された。
米国の為の平和憲法を守る事が最重要で、その結果、国が侵略されても滅びてもお構いなしというのが左翼勢力の主張である。
国家の安全より憲法が優先するという倒錯は、もはや宗教の世界であろう。本末転倒もこれに極まれりと言える。

  (日本には正常な「左翼やリベラル」等は存在しない。彼等は日本を正常な国にさせたくない「占領政策」の落とし子であり、
    日本を正常にさせたくない近隣三国(支那、南北朝鮮)の意向を何よりも尊重する「売国奴」にしか過ぎない。残念ながら、
    こうした売国奴や外国工作員達が日本の全ゆる分野に深く浸透している。日本国民の多くが真実を知らない為である)

民主主義の根底は、国民の自立心と知的レベルに支えられなければならない。
思えば、日本の民主主義は国民自らが勝ち取ったものではない。連合軍の占領政策で棚ぼた式に降って来たものである。
その為に、日本国民の知的訓練は充分とは言えない。
自ら考え、判断をするには多角的な情報の収集が前提だが、五十歳以上の団塊の世代では殆どがインターネットに無縁だという。
その世代では新聞とTVしか情報源がない。特定の偏向したイデオロギーに支配されたマスメディア・法曹界・学者などの情報操作(プロパガンダ)を何の疑いもなく信じている国民が多く存在しているのも事実である。
自ら判断する為の情報収集を怠って(或は全く無関心で)、何かあると「説明が足りない」と他人のせいにする。
「説明が足りない」のではなく、「自ら何も勉強する積もりが無かった」と言うべきであろう。
他人に責任を擦(なす)り付ける段階で、既に自らの知的判断を放棄していることに他ならない。この姿勢一つをとっても日本の民主々義は未成熟と言わざるを得ない。その未成熟な人々に対して、現実の国際情勢を無視し、本質的な問題提起をする訳でもなく、耳に心地良い「平和」・「人権」・「友好」などの空虚なアジテートを連発して大衆に迎合する政治屋の如何に多いことか。
市民運動家と称する輩はほぼこの範疇と言える。民主党の鳩山
首相、菅直人首相など、稀代の愚かなサンプルが存在する。
彼等の悪口を言うのは簡単だが、天に向かって唾を吐くようなものである。

何故なら、彼等を首相にしたのは他ならぬ国民だからである。これは国民のレベルを表すバロメーターだった。
亡国の闇は深く日本の真の夜明けは遠い。

近年の中共(支那)・韓国の反日は度を超した異常さである。その裏には米国の策謀があることを忘れてはならない。
米国は、日米開戦の策謀、日本への無差別都市爆撃、及び不必要な原爆投下による民間人の大量虐殺など、米国の極めて悪質な戦争犯罪を正当化する為に、日本を永久に「悪者」にして置かなければならない事情がある。
日本への原爆の人体実験は、明らかに人種差別が根底にあった。この事を完全に誤魔化さなければならない事情もある。
支那・韓国が反日を叫んで戦前の日本を貶めるのは、米国の日本に対する戦争犯罪を糊塗するのに誠に好都合なのである。
米国に依って封殺された歴史の真実、中共・韓国が捏造する「日本近代史」の真実を、今こそ日本国民は学ぶべき秋である。

アメリカの占領政策に同調し、「反日亡国」を目的とする左翼、反日勢力が席巻している教育界、法曹界、新聞・TVなどの偏向マスメディアから史実を学ぶことは不可能である。
幸い、インターネットの普及で、偏向マスメディアから決して得られない豊富な情報を一般国民も閲覧できる環境が整ってきた。
永い亡国の眠りから日本人は覚醒しなければならない。

 ( アメリカを自由で民主主義の「国家」と思うのは幻想にしか過ぎない。その実態は、戦前も戦後もコミンテルンや国際資本家達
   に支配された「国家」を名乗る株式会社であって、大統領はその背景に支配された雇われ社長にしか過ぎない)
 
戦前の日本が戦争に踏み切った背景や、正常な国家になることを拒否する戦後の異常な政治や国民意識を理解するには以下の本と
YouTube が参考になります。
関係者の証言、解禁された政府の機密文書などをベースに判り易く解説されています。世の中に常識とされている情報が如何に間違っているかが良く解ります。


江崎道朗著「コミンテルンの謀略と日本の敗戦」(PHP新書)

江崎道朗「コミンテルン」(YouTube) 
2019年2月22日現在


2013年9月6日よ(旧サイトより移転)
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