戦史 知覧特攻基地0

陸 軍 特 別 攻 撃 隊

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知 覧 特 攻 基 地 (特 攻)

Chiran Special-Attack Unit base ( Tokkō )






知覧: 山間の小さな町は薩摩の小京都と云われる雰囲気を漂よわせている。
武家屋敷の庭や側溝の清流に放たれた鯉が心を和ませる。
この町外れの小高い台地に陸軍知覧特攻基地があった。

この特攻基地の一角に建立された知覧特攻平和会館の敷地に二つの像がある。
隊員と我が子の霊を胸に抱かんとする母の姿であった。
万感胸に迫るものがあり言葉を失った。この二つの像には何の説明も要らない。

Chiran-chō

 The small town of the place between mountains at the southernmost end in Kyūshū is called small Kyōto in Satsuma.
 The carp released in the clear stream of a sewer and the yard of a samurai residence softens people's heart. The Army  Chiran Special Attack Unit Base was located on the slightly elevated plateau of these city limits.
 Two bronze statues are in the site of the Chiran Tokkō Peaceful Hall built by one corner of this base.
 The bronze statue of the member who died from the suicid attack, and the mother who holds the son's soul in a breast.  My heart was too full for words. 
 Explanation of what is not needed for these two statues, either.
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特 攻

日本海軍は開戦劈頭、真珠湾とマレー沖で航空攻撃の優位性を実証した。衝撃を受けた米国は直ちに航空兵力中心に軍の体制を切り替
えたが、日本は昭和18年に入って漸く航空機の重要性に気がついた。
日本は熾烈な航空消耗戦で熟練搭乗員の大半を失った。飛行搭乗員は一朝一夕に養成出来るものでは無い。
速成搭乗員の技量低下は物量の差に追い打ちをかけた。海軍では、空母着艦訓練で毎回殉職者を出す有様だった。

新鋭機を繰り出す敵の物量とレーダー防御網の前に有効な攻撃が困難な状況に立ち至り、且つ搭乗員の練度向上を待つ余裕が無いとい
う背景の中で昭和19年秋に入り、組織的「特攻」という最終手段が採用された。
爆弾や魚雷諸共、敵艦に体当たりする攻撃を「特攻」と呼ぶ。大戦末期、日本軍に残された最後の手段であった。

敗色濃い昭和19年10月25日、比島作戦で、マバラカット基地を発進した海軍・神風(しんぷう)特別攻撃隊「敷島隊」(指揮官関行男大尉)
の爆装零式戦闘機5機により実施された。
海軍の政略上、これが特攻の最初とされているが、実際は10月20日、セブ基地を発進した海軍・神風特別攻撃隊「大和隊」(指揮官久納好孚中尉)の爆装零式戦闘機2機が特攻の最初だった。

陸軍も時局の趨勢に依り特攻隊を編成した。陸軍は「特別攻撃隊」、海軍は「神風特別攻撃隊」と呼称した。
比島作戦に敗退した後、米軍の沖縄侵攻により、沖縄海域の米艦船が特攻の目標となった。
陸軍特攻の中心は鹿児島の知覧だった。この時期には、操縦を習い終えたばかりの少年航空兵や学徒航空兵が特攻の中心となった。

Special Attack Unit

 In the final stage of World War II,, the Japanese military composed the suicide attack unit called the "Special Attack Unit(called a Tokkōtai in Japan)".
 This attack is a inevitable death attack to which a crew dashes himself against an enemy's naval fleet together with the airplane which held the bomb. The special attack unit's mission is a suicide attack.
 A suicide attack is called a "Tokkō" in Japan. The suicide attack was the last means in the Japanese military.
 October 25, 1945 when defeat was expected, the first suicid attack was carried out in the Philippines strategy by five Zero-fighter which hold the bomb of Nnavy Shinpū (kamikaze) Special-Attack-Unit "Shikishima party" (commander: Captain Yukio Seki) which departed from the Magracut base. This is made into the beginning of a suicid -attack for the naval policy. However, they were two Zero-fighter of the "Yamato party" (commander: First lieutenant Kuno Yoshifu) which departed from the Cebu base on October 20 at the beginning of a suicide attack. The army which was negative to the suicid attack also depended on the trend of a situation, and composed the suicide attack unit. The army called it
"Special Attack Unit" and the navy called "Shinpū(kamikaze) Special Attack Unit". After being defeated with the
Philippines strategy, the suicide attack's target was American United States Ship of the Okinawa ocean space by the
Okinawa invasion of the U.S. Forces. An army suicide attack's center was the Chiran base at Kagoshima in Kyūshū.
 This time, the suicide attack's leading role was the boy pilot or the pilot of a student graduate who just finished learning operation, They died in order to protect a homeland and a family.
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陸 軍 特 別 攻 撃 隊



昭和20年4月12日、250kg爆弾を抱え、沖縄に向け滑走を開始した陸軍・第20振武隊穴沢利夫少尉の一式戦闘機「隼」V型甲。
手前は、桜の小枝を打ち振って特攻隊員の死への門出を見送る知覧高女の女学生達。
穴沢少尉(中央大学卒23歳)は挙手の礼でそれに応えている。祖国や愛する人々との永遠(とわ)の別れであった。
陸・海軍約4,900有余名の若き隊員達が、レイテや沖縄の空に散華した。

    穴沢利夫少尉の日記  20年4月9日
     終日雨降りしぶく。長与善郎著「自然とともに」読み始む。万葉を読み度(た)し。詩を読み度し。
     ◯ 読み度き本
       一、万葉、芭蕉句集  二、高村光太郎「道程」  三、三好達治「一点鐘」  四、大木実「故郷」
     ◯ 観たきもの
       ラファエル 聖母子像   芳崖 悲母観音
     ◯ 聞き度きもの
       一、シュトラウスのワルツ集  二、懐かしき人々の声


Army Special Attack Unit
 The photograph of upper: A pilot is Second Lieutenant Toshio Anazawa of Army Special Attack Unitthe (20th Shinbu
party). A suicide aircraft is the Army Type 1 fighter "Hayabusa" III- type-Ko which held 250kg bomb under the body.
 He started take-off run towards Okinawa on April 12, 1945. This side is the schoolgirls of the Chiran girls' high school which shakes the sprig of a cherry tree and shelves the commencement to a pilot's death.
 Second Lieutenant Anazawa (Graduation from Chūō University, 23 years old) has responded to it for the greeting of a
salute. He said eternal good-bye to a homeland and people who love.
 About 4,900 young members of a Army and Navy died in the sky in Leyte or Okinawa.


    
      出撃直前、子犬と戯れる10代の特攻隊員達
  死の出撃を直前に控え、無邪気に微笑む少年航空兵達
  出撃前夜、母を想い枕を濡らした隊員もいたに違いない
  全ての相剋を超越した後の心は澄み渡っていたのだろうか

  The Boys members in their teens who play with a
  little dog just before a sortie. They are smiling
  innocently. Their mind is how.

昭和20年3月20日、知覧基地で軍刀を握りしめ、指揮官
長谷川実大尉の訓辞を受ける第二十振武隊(12名編成)
3月下旬徳之島に前進、4月1、2、12日に分けて出撃した

  The 20th Shinbu party which grasps a Guntō tightly
 and receives the last admonitory speech of a
 commander Captain Minoru Hasegawa (12-person
 organization). see: Together this Japanese sword




特攻隊員達の最後の憩いの場所となった「富屋食堂」の鳥濱トメさん (後列左より二人目)
親身となって死に行く者達の世話をし、隊員達から母のように慕われた
死を覚悟した隊員達の爽やかな笑顔が胸を締めつける

Mrs. Tome Torihama (She is the second person from the left in the back row) is a landlady of the "Tomiya Dining-room" used as the place of relaxation of Kamikaze pilots' last. She entertained members sincerely and was adored like a mother from them. The members who were ready for death are smiling freshly. Members' smiling face dyes our heart sadness.



 第29振武隊々長・中村實 大尉 (石川県出身、陸士57期)
 昭和20年4月7日、知覧より爆装一式戦「隼」にて出撃、戦死 (享年20歳)

 (絶筆)

 ・飛行機を作ってくれ ・君達丈は信頼する ・大楠公の精神に生きんとす
 ・お母さん お母さん 今俺は征く 母を呼べば母は山を越えてでも 雲の彼方からでも馳せ来る
 ・母はいい 母ほど有り難いものはない 母 ! 母 !


 誠第37飛行隊・小林敏男 大尉 (茨城県出身、幹候7期)
 昭和20年4月6日、新田原より九八式直協機(直接協同偵察機)にて出撃、戦死 (享年23歳)

 (遺詠) 死出の旅 
・古郷の海をながめてさまよひぬ これも遂に最後となりぬ
・死出の旅と知りとても母は笑顔にて 送りてくれぬ我くに去る日
・広き広きホームに立ちて見送るは 母と妹と共二人のみ
・捧げたる生命にあれど尚しかも 惜しみて遂に究め得ざりき
・我が生命捧ぐるは易し然れども  国救ひ得ざれば嗚呼如何にせん


  第56振武隊・上原良司 大尉(長野県出身、慶応義塾大学・特操2期)
  昭和20年5月11日、知覧より三式戦「飛燕」にて出撃、戦死 (享年22歳)

  (遺詠)  人の世ハ別れるものと知りながら 別れはなどてかくも悲しき

  遺書 (一部抜粋)
  栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ身の光栄これに過ぐるものなきと
  痛感いたしております。思えば長き学生時代を通じて得た 信念とも申すべき理論万能の道理から考えた
  場合、これはあるいは自由主義者といわれるかもしれませんが ・・・略・・・権力主義全体主義の国家
は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。
・・・愛する祖国日本をしてかつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。
真に日本を愛する者をして立たしめたなら 日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。 
世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人 これが私の夢見た理想でした。・・・略・・・
空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。
操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、 ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬ
ものです。 理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で しいて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。
一器械である吾人は何もいう権利はありませんが ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を 国民の方々にお願いするのみです。
こんな精神状態で征ったならもちろん死んでも何にもならないかも知れません。
ゆえに最初に述べたごとく特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。 飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、
一旦下りればやはり人間ですから、 そこには感情もあり熱情も動きます。
愛する恋人に死なれたとき自分も一緒に精神的には死んでおりました。 天国に待ちある人、
天国において彼女と会えると思うと 死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。
明日は出撃です。・・・略・・・明日は自由主義者が一人この世から去っていきます。
彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。・・・略・・・ではこの辺で




第77振武隊・相花信夫 少尉 (宮城県出身)戦死 (享年18歳)
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こ の 日 本 刀 と 共 に

They died together with this Japanese sword




特攻出撃を控え、抜刀した日本刀に見入る五人の特攻隊員達。左の隊員は誰に贈られたのか死に同行するマスコット人形を抱えてい
る。あどけなさが残る若き隊員達であった。彼等は日本刀に何を想い何を誓ったのであろうか。
日本刀は、死を賭してでも護るべき民族の魂であり、愛する人の住む故郷であり、愛する祖国そのものの象徴であったに違いない。

Five members of a special attack who refrain from the sortie of a suicide attack and stare at a Japanese sword.
The left member is holding the mascot doll which he who was presented to someone dies and accompanies.
They were the young members in whom innocence still remains. What did they consider to the Japanese sword, and what
swear? The Japanese sword was the racial soul which should be kept even if it risks death, was a hometown in which those who love live, and must have been the symbol of the homeland itself to love.



決  別
左手に軍刀を握りしめ、最後の決別を告げる陸軍特別攻撃隊員達
Farewell
The army special attack members who grasp a Gunto tightly to the left hand and tell the last farewell.




出  撃
再び還らぬ壮途につく爆装一式戦闘機「隼」。開聞岳の彼方に一機再た一機と飛び去って征った
Sortie
The "Hayabusa" Type-1 fighter in which the bomb was held which goes to the attack which does not return again


上及び二段目写真:第五十回知覧特攻基地戦没者慰霊記念誌「魂魄の記録」より(知覧特攻平和会館様ご提供)



陸軍特別攻撃隊第56振武隊三根耕造少尉


 東京帝国大学法学部在学、学徒出陣。特別操縦見習士官第二期生。
 (大正10年9月生、佐賀県多久市出身)。
 調布飛行場より知覧特攻基地に前進、試験飛行中不慮の戦傷死。
 昭和20年5月25日、三根少尉の遺骨は同期生の胸に抱かれて知覧から特攻出撃した
 写真は第一種軍装と略帽姿、軍刀鞘には野戦用皮覆いが付いている。

 Second Lieutenant 56th Shinbu-party Kozo Mitsune of army Special-Attack Unit.

 He did departure of students for the war front during the Tōkyō Imperial
 University law department enrollment in school. He is an operation appren-
 ticeship officer's second term student specially. He moved forward on the
 Chiran Special-Attack Unit base from the Chōfu airfield. However, he was killed
 in the unexpected accident during the test flight. On May 25, 1945, Second
 Lieutenant Mitsune's ashes have been held in the breast of a classmate's
 Special-Attack Unit member, and sortied from Chiran.
 He was born to Taku-shi, Saga in September, 1921.
 He of the photograph is wearing the first-sort military uniform and an
 abbreviation cap.
 The leather cover for field battles is attached to the scabbard of his Guntō.

(陸軍飛行第244戦隊HP櫻井隆様ご提供) 

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知覧特攻平和会館 ( 知覧特攻遺品館 )




当時の隊員の多くは二十歳前後の若者である。特攻の母、鳥濱トメさんの語りのVTRに胸を抉(えぐ)られる。
毛筆で書かれた遺書の言の葉を追った。何故彼等はかくも毅然とし、かくも立派なのか。
三角兵舎での最後の夜、暗い灯りの下で書かれたこれらの遺書は、襟を正さずにはとても読めない。
彼等の胸中は如何ばかりであったことか。
親一人子一人の隊員もいた。妻子に心を残す隊員もいた。
愛する肉親との絆を信じ、祖国を信じ全ての雑念を断ち切って彼等は逝った。国民には是非一度は訪ねて欲しい場所である。

四式戦闘機「疾風」に想う

特攻機には旧式戦闘機「隼」が多く使われ、新鋭機「疾風」は、最初は特攻直掩機に使われた。
然し、終盤は特攻機となり、都城東・西両飛行基地から出撃して行った。知覧から4機が出撃して2 機が未帰還となっている。
此処の展示「疾風」は、米国で飛行可能に復元され、昭和48年、篤志家・後閑盛直氏が日本に買い取った。
当時、里帰り飛行するこの「疾風」を埼玉県入間基地まで見に行った事がある。
日本陸軍の優秀な新鋭重戦闘機であった。
祖国の空を鮮やかに飛翔した入間の情景を思い出す。
飛行可能であった「疾風」も、個人維持が不可能となり、静止機体に成り果てて各地を流浪した。
やっとこの知覧に安住の地を求めた事になる。最も相応しい場所であろう。
然し、経済大国日本が、技術史的にも貴重な飛行可能状態の「疾風」一機さえも保存できないとは・・・・・。
模型で蘇る四式戦「疾風」
昭和刀に想う

遺品の展示も多量にのぼる。見るも無惨に三分割切断された昭和刀も二振りが展示してあった。
それを見て、衷心より怒りが込み上げてきた。これが隊員の形見であったら、国家の所業は許せない。
資源の乏しい国が、刀匠不足、作刀の非生産性に鑑みて、軍刀需要に応える為の苦肉の策の刀である。
この刀でも、隊員達は心の支えとして佩用した。
形が残っているところをみると敗戦直後のGHQの仕業ではない。占領政策だった「銃刀法」を盾に、国は遺品の刀をここ迄破壊しなけ
ればならないのか。これが国に殉じた方々への国家としての回答なのか。余りにも心無い国の仕打ちである。
日本は「歴史的遺産」と「凶器」の区分さえも判断出来ない情けない国家に成り下ってしまった。
国家の為に何かを為そうとする国民が、こうした日本で育つ筈が無い。この国は何かが狂っているように思えてならない。
                                          
知覧特攻遺品館に想う

折田館長が黙って一冊の本を私の前に置かれた。第五十回知覧特攻基地戦没者慰霊記念誌「魂魄の記録」と記されていた。
関係者のみに配布された貴重本である。この本の中に、私が切望した「この日本刀と共に」の写真があった。門外不出と聞く。
私は、折田館長に日本人の心を見た。只々、頭(こうべ)を垂れるのみであった。

昨年の来館者数は60万人に及び、通算1,150万人を超える来館者とお聞きした。
今回、若者や学生が意外に多いことに私も些か驚いた。そういう人達が此処に来て、何かを感じ取ってくれるということは大変意義あ
る事だし喜ばしいことである。
九州南端の小さな町が、26年の歳月を費やして地道に努力をされてきた結果である。
国家が為し得なかった事を実現された知覧町、知覧特攻慰霊顕彰会、知覧特攻平和会館管理組合の方々の熱意とご努力に御礼を申し述
べたい。
「平和会館」に改称前の名称: 私はこの方がこの会館に相応しい名称と思う 


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  2013年9月13日より(旧サイトから移転)
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