戦史 海軍特攻(3) 0

神 風 特 別 攻 撃 隊 (2)

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第一神風特別攻撃隊 葉桜隊

「葉桜隊」は昭和19年(1944年)11月26日にセブ基地で編成された。

 葉桜隊 爆戦隊: 崎田清 一飛曹、広田幸宣 一飛曹、山下憲行 一飛曹、山沢貞勝 一飛曹、鈴木鐘 一飛長、桜森文雄 飛長 6名
     直掩隊: 畑井輝久 中尉、角田和男 少尉、新井康平 上飛曹、大川善雄 一飛曹、藤岡三千彦 飛長 5名

10月30日13時30分、零戦に250s爆弾を抱えてセブ基地を出撃し、1時間ばかりの後の14時30分、スルアン島沖にいた第38-4任務群を
発見し、太陽を背にして次々と突入していった。
1・2機目はレーダー管制射撃で撃墜される。
正規空母「フランクリン」に向かった3機目は被弾して右舷至近海面に激突。
続く4機目が空母甲板に見事に突入した。
5機目は艦首至近海面に激突してフランクリンは大火災を発生させて大破した。戦死56名、艦載機33機を破壊されて戦場を離脱。

6機目は護衛空母「ベロー・ウッド」に緩降下し、後部飛行甲板に激突した。飛行甲板上は発進準備中の艦載機が並んでいた為に誘爆
を起こし、12機が焼失し、14機が破壊された。乗組員92名が死亡または行方不明となり、戦場を離脱した。

正規空母「フランクリン」へ突入




護衛空母「ベロー・ウッド」へ突入





 特攻死 爆戦隊: 崎田清 一飛曹(甲飛10期)、広田幸宣 一飛曹(甲飛10期)、山下憲行 一飛曹(甲飛10期)、山沢貞勝 一飛曹(甲飛10期)
         鈴木鐘 一飛長(丙飛15期)、桜森文雄 飛長(丙飛16期) 6名
     直掩隊: 新井康平 上飛曹(甲飛9期)、大川善雄 一飛曹(乙飛16期) 2名

     

1
第四神風特別攻撃隊 香取隊

昭和19年(1944年)11月25日、第四神風特別攻撃隊「香取隊」(艦爆「彗星」編成)は11時30分にマバラカット東飛行場を出撃した。

香取隊 田辺正 中尉、工藤太郎 少尉、山口義則 一飛曹、酒樹正 一飛曹 2機4名

クラーク基地の75度222キロメートル東南海上にいた正規空母「エセックス」を発見して体当たりを開始した。
一機は対空砲火で撃墜されたが、尾翼番号17の一機は弾幕を潜り抜けて「エセックス」の後方上空から緩降下攻撃に入った。


(写真左) 空母「エセックス」の艦尾後方から艦橋を目がけて緩降下する艦爆「彗星」三三型。この直後、対空砲火に被弾した
(写真右) 被弾して白煙を吹きながら突入する「彗星」。体当たりの瞬間まで正確に機体を制御していた。搭乗員の強靱な精神が窺える
(手前の黒い影はエセックスの飛行甲板)  
この時、機上の二人は生きていた。死の直前に脳裏を過(よ)ぎったものは何であったろうか。
若き彼等は母の名を叫びながら突入していった。                  

正規空母「エセックス」に突入




特攻機が突入した瞬間を、軽空母「ラングレー」の報道員が捉えた
この二人の搭乗員は、飛散した遺品から、七〇一空の山口善則一飛曹(甲飛11期・操縦)・酒樹正一飛曹(甲飛11期・偵察)と判明した


この特攻機の体当たりで15名が戦死、44名が負傷する損害を受けた。艦載機への誘爆が防げたので深刻な損害とはならなかった。

特攻死 田辺正 中尉(海兵72期)、工藤太郎 少尉(盛岡高等工業・予備学生13期)
     山口善則 一飛曹(甲飛11期・操縦)・酒樹正 一飛曹(甲飛11期・偵察)

この壮絶な場面は、「彼等が何を信じ、何の為に死んでいったのか」を我々日本人に厳粛に問いかけている。
彼等が死を賭して護ろうとした祖国は、今、何処にあるのだろうか。彼等は今の日本をどの様な思いで見ているのだろうか。
日本人なら、彼等への答えを自らの心に問いかけて欲しい。自ら考える事を放棄した日本人は余りに健忘に過ぎる。
彼等の思いを語り継ぐ事が生き残った我々の責務である。
我々は他国から歴史を与えられるのではなく、自らの手で歴史を創る事が彼等に報いるせめてもの道ではなかろうか。
彼等は 魂も文化も伝統も溶解した今日の日本の為に命を賭けた訳ではない・・・・・。

    

2
神風特別攻撃隊 第七昭和隊

正規空母「バンカー・ヒル」へ突入


昭和20年(1945年)5月5月11日に「菊水六号作戦」が発令された。

第七昭和隊 安則誠三 中尉、小川清 少尉、篠原惟則 少尉、高橋三郎 少尉、茂木忠 少尉、皿海彰 一飛曹 6名

午前6時40分、神風特別攻撃隊第7昭和隊の零戦6機は、500s爆弾を抱えて鹿児島の鹿屋基地を発進した。
午前9時21分、安則機から「敵部隊見ユ」のモールス信号入電。午前10時04分、南西諸島沖東方122kmにおいて小川機が「敵空母見ユ」
と打電した。
先ず、安則機が急降下してバンカーヒルの後部甲板に激突した。機体は右舷後方で激しくバンクした。
不意を突かれた米軍は対空砲の反撃ができなかった。



午前10時9分、小川機は「ワレ敵空母ニ必中突入中」と打電し、信号機のキィーを押し続けた。
小川機は発見されて猛烈な対空砲火を浴びながら、体当たり直前に「バンカー・ヒル」の甲板に500kg爆弾を投下した。
機体左翼先端が40o機関砲の直撃で吹き飛んだが、機体はそのまま甲板と艦橋の境に激突した。



安則機の突入に続く小川機から投下された爆弾と小川機の激突によってバンカー・ヒルは大破・炎上して死者396名、負傷者264名を
出した。
小川少尉が激突した30分後、更に一機の特攻機が低空でバンカー・ヒルに突入を図ったが、駆逐艦の対空砲で撃墜された。
バンカー・ヒルは第58任務部隊(高速空母機動部隊)の旗艦だったが、戦場を離脱し、戦争終了まで復帰することは無かった。


 小川機が激突した艦橋基部には、小川機のエンジンとコックピットの
 一部が転がっていた。
 小川少尉の上半身だけの遺体は操縦席の傍に横たわっていた。
 彼の顔は青ざめていたが、汚れ一つなかった。
 鼻筋の通った西洋人と変わらないような顔立ちだった。

 通りかかって小川少尉の若々しい死顔を見る米兵は、当時の米国のプロ
 パガンダで描かれる日本人のイメージと違うことを感じていた。
 やがて一人の水兵が、小川の遺体から指輪を奪い取った。
 他の乗組員達も小川少尉の遺品を物色した。
 小川少尉の遺体が軍葬の礼を受けたかどうか、その後の遺体がどうなっ
 たか「特攻〜空母バンカーヒルと二人のカミカゼ」の著者 M.T.ケネデ
 ィーは知らないと述べている。

特攻死 安則誠三 中尉(旅順師範学校・予備学生13期、21歳)、小川清 少尉(早稲田大・予備学生14期、22歳)
    篠原惟則 少尉(立教大・予備学生14期、24歳)、高橋三郎 少尉(宇都宮高等農業・予備学生13期、22歳)
    茂木忠 少尉(台北大・予備学生14期、22歳)、皿海彰 一飛曹(乙飛18期、17歳)

  
             海軍少尉・小川清 遺書
 父母上様
 お父さんお母さん。清も立派な特別攻撃隊員として出撃する事になりました。
 思へばニ十有余年の間、父母のお手の中に育つた事を考へると、感謝の念で一杯です。
 全く自分程幸福な生活をすごした者は外に無いと信じ、この御恩を君と父に返す覚悟です。 
 あの悠々たる白雲の間を越えて、坦々たる気持で出撃して征きます。
 生と死と何れの考へも浮かびません。
 人は一度は死するもの、悠久の大義に生きる光栄の日は今を残してありません。
 父母上様もこの私の為に喜んで下さい。
 殊に母上様には御健康に注意なされお暮し下さる様、なお 又、皆々様の御繁栄を祈ります。
 清は靖國神社に居ると共に、何時も何時も父母上様の周囲で幸福を祈りつつ暮しております。
 清は微笑んで征きます。出撃の日も、そして永遠に。

     

3
神風特別攻撃隊 第六筑波隊
 
菊水七号作戦発動。
第六筑波隊  富安俊助 中尉、本田耕一 少尉、大木偉央 少尉、藤田鴨明 少尉、高山重三 少尉、折口明 少尉、小山精一 少尉
      中村恒二 少尉、大喜田久夫 少尉、荒木弘 少尉、時岡鶴男 少尉、西野実 少尉、黒崎英之助 少尉、桑野実 少尉
      柳井和臣 少尉 15名

昭和20年(1945年)5月14日午前5時27〜30分、零戦五二型丙に500s爆弾を抱えて鹿児島県鹿屋基地を沖縄海域に向けて発進した。
第十一建武隊(3名)、第八・七生隊(3名)も同じ頃に鹿屋基地を発進した。
第六筑波隊の柳井少尉は敵を発見できず帰投。他の爆戦隊は種子島東方沖にて敵戦闘機の熾烈な迎撃を受ける。

エンタープライズの戦闘記録より(浬、フィートはメートル法に換算した)
06時10分、本艦のレーダー上に最初の敵機影が数個、南西方向に出現。
06時23分、敵機数機、37q圏内に侵入。06時45〜49分、26機の日本機が飛来。6機を対空砲火で撃墜、19機が上空哨戒の戦闘機によっ
て撃墜された。
だが1機のみは集中砲火を避けて雲に隠れ、時々雲から顔を出してエンタープライズの位置を確認しつつ生き残っていた。
この機を20分前からレーダーで認識していたので、5インチ砲で砲撃するが、雲に隠れるなどしたために、効果的な反撃が出来ずにい
た。
06時53分、この機が右舷雲間から現れ、06時56分、本艦に向かって降下してきたので回避運動を行う。

正規空母「エンタープライズ」へ突入

 06時57分 回頭し艦尾を向けた時、左舷後部上方から斜めに降下してきた。
 集中砲火を浴びせたが、機体を横滑りさせるなどして巧みに回避。
 オーバーシュートする寸前に艦尾の真上で180度に左回転し、背面飛行の状態か
 ら40〜50度の角度で急降下して前部エレベーターの後端に激突した。

 機体はエレベーター孔の中を落下して、爆弾は5層下方の甲板で炸裂した。
 前部エレベーターは爆発で120m上空まで吹き上げられ、破孔からの浸水によって
 艦の前部は2.2メートル沈下し、艦は大破炎上した。

 飛行甲板は歪み、エレベーターの穴が開き、飛行機の離発着が不可能となった。
 戦死14名、負傷者68名。


特攻隊員の遺体は空母内エレベーターの孔の底で発見され、遺体のポケットに名刺が入っていた。
その名前は正確に読まれず、長い間「トミ・ザイ」として伝わっていたが、戦史研究家の菅原完氏によって富安俊助中尉であることが
特定された。富安中尉の遺体は、同艦乗組員と同様に水葬に付されたという。
3日前に被爆したバンカーヒルから旗艦を引き継いだものの、大破した為に旗艦を「ランドルフ」に譲った。
修理のため戦場を離脱。空母エンタープライズは再び戦場に復帰することは無かった。

 特攻死 富安俊助 中尉(早稲田大・飛行予備学生13期、22歳)、本田耕一 少尉(法政大・飛行予備学生14期)
     大木偉央 少尉(宇都宮高農・飛行予備学生14期)、藤田鴨明 少尉(東京農大・飛行予備学生14期 21歳)
     高山重三 少尉(同志社大・飛行予備学生14期)、折口明 少尉(専修大・飛行予備学生14期)
     小山精一 少尉(中央大・飛行予備学生14期)、中村恒二 少尉(早稲田大・飛行予備学生14期)
     大喜田久夫 少尉(大阪専門学校・飛行予備学生14期)、荒木弘 少尉(東京帝大・飛行予備学生14期)
     時岡鶴男 少尉(京都帝大・飛行予備学生14期)、西野実 少尉(拓殖大・飛行予備学生14期)
     黒崎英之助 少尉(慶応義塾大・飛行予備学生14期)、桑野実 少尉(慶応義塾大・飛行予備学生14期)     14名


             海軍中尉富安俊助 遺言
父上様 母上様 姉上様
 突然、某方面に出撃を命ぜられ、只今より出発します。
 もとよりお国に捧げた身体故、生還を期しません。必ず立派な戦果を挙げる覚悟です。
 祖国の興廃存亡は今日只今にあります。吾々は御國の防人として出て行くのです。
 私が居なくなったら淋しいかもしれませんが、大いに張り切って元気で暮らして下さい。
 心配なのは皆様が力を落とすことです。
 海軍に入る前に、当然死を覚悟していたのですから、皆様も淋しがることはないと思います。
 秀雄には便りを出す予定ですが、家からもよく言ってやって下さい。
 近藤中尉が訪ねて行く予定故、会ってやって下さい。
 では                                  俊助
 大いに頑張りますから、その点御安心ください。

  ---------------------------------------------------------------------------------------------------------------


             海軍少尉藤田鴨明 遺書
 
御両親様
 本5月11日、鹿児島の鹿屋基地に転進予定の所天候不良の為12日に延期され候。
 さらばと別れし士官室に帰れば、御両親様よりの親書と、この大戦局の荘厳なる事実の中に
 「我」を見出したる喜びと併せて、特に天下一の幸運児なるを痛感致居候。
 筑波以来三ヶ月、苦楽を倶にせし同期の櫻の顔色益々明るく、意自ら通じ明朗且天真爛漫に
 て幸福なる一瞬を意義あらしめ居候。
 而して議を論ぜず将に淡如水、心境如斯次第に御座候。
 御両親様、睦重は優しい質素な貞淑なる暢明の妻たる故大事にしてやって被下度候。
 父上様、母上様、永い間お世話になりました。
 何時迄もいつまでも次の世も亦来る世も父上様、母上様の子にして下さいませ。
 では御両親様さやうなら、暢明元気で征きます。
 藤田家の隆昌と皆様のご幸福をお祈りします。
 昭和20年5月11日
  大日本帝国海軍 神風特別攻撃隊筑波隊 第10中隊第2区隊長 海軍少尉 藤田暢明
  身長 1米73糎 体重 18貫 9百匁 胸囲 97糎
 愛しい我が愛妻 睦重!
 来世も次の世もまた次の次の世も暢明の妻となってくれ。
 睦重、睦重、睦重。
 優しいおまえをだれよりもおれは愛する。睦重さようなら。
 むつゑ、睦重、睦重、睦重! 優しい優しいただ一人の睦重 さらば! 又の日
                                海軍少尉 藤田暢明

藤田少尉は出撃前に東京出身の睦重(むつえ)さんと結婚を望んだが、彼女の両親は娘が未亡人となることが明白なので結婚に反対。
然し、睦重さんが反対を押し切り結婚を望んだ為、ついに両親も折れて結婚を許した。
ところが結婚許可の出た3日後、藤田少尉は神風特攻・第六筑波隊として鹿屋基地から出撃し、不帰の人となった。
睦重さんは藤田少尉の戦死後、彼の実家で彼の遺影と結婚式を挙げた。
戦後は養父の説得に応じて帰京。大学へ進学し最後まで一人の人生を貫かれ、1993年に亡くなられた。
(資料ご提供: 筑波海軍航空隊記念館 様)

    

5

神風特別攻撃隊 第一神雷爆戦隊

6月8日以降、梅雨に入り特攻攻撃は中断していた。
6月11日夜半、海軍沖縄方面根拠地隊・太田実司令官は決別電報を最期に全軍突撃を命じ、13日、幕僚たちと共に自決した。
又、6月22日、陸軍第三十二軍の牛島満司令官は、大本営に決別の電報を送り、23日未明に摩文仁の丘で自決した。
こうして地上軍は玉砕し、83日間に亘る沖縄の地上戦は終結した。

6月21日、「菊水第十號作戦」が発動された。
翌22日、神風特別攻撃隊第一神雷爆戦隊は鹿児島・鹿屋基地を午前5時30分に出撃した。 
同じ日、第十神雷部隊桜花隊の「桜花」4機、「第十神雷部隊攻撃隊」の一式陸攻4機、
    陸軍第六航空軍の特攻「第二十七振武隊」の四式戦「疾風」6機、「第百七十九振武刀隊」の四式戦「疾風」5機
が沖縄周辺海域に向け出撃した。これが沖縄戦の最後の特攻出撃となった。

 第六筑波隊 川口光男 中尉、高橋英生 中尉、伊藤祥夫 少尉、石塚隆三 少尉、河 晴彦 少尉、溝口幸次郎 少尉
       金子照男 少尉 7名

全機未帰還の為、詳細は不明。
この日の米軍の記録には、特攻機が戦車揚陸船LST「五三四」に1機命中して中破、機雷敷設艦「エリソン」に1機命中して中破、
中型揚陸船LSM「ニ一三」に1機命中して大破とある。戦果を挙げた特攻機は特定出来ない。

  特攻死: 川口光男 中尉(東京物理・予備学13期)、高橋英生 中尉(大分師範学校・予備学13期)
      伊藤祥夫 少尉(明治大・予備学14期)、石塚隆三 少尉(京都帝大・予備学14期)
      河 晴彦 少尉(北海道帝大・予備学14期)、溝口幸次郎 少尉(中央大・予備学14期 23歳)
      金子照男 少尉(早稲田大・予備学14期)  7名


      海軍少尉・溝口幸次郎 残す言葉

 (一)
 美しい祖国は、おほらかな益良夫を生み、おほらかな益良夫は、
 けだかい魂を祖国に残して新しい世界へと飛翔し去る。
 我を思う吾が母上はいつかあらむ強きを信じて我はゆくらむ。
 日の本の早乙女達を知らざりし我は愛機と共にちるなり。
 (ニ) 略
 (三)
 私は誰にも知られずにそっと死にたい。
 無名の幾万の勇士が大陸に大洋に散っていったことか。
 私は一兵士の死をこの上なく尊く思ふ。

    
7

神風特別攻撃隊 第十二航空戦隊二座水偵隊

菊水十号作戦発動。
昭和20年6月21日23時半、第二次十二航戦水偵隊として零式水観に250s爆弾を抱え、指宿基地より沖縄海域への夜間攻撃に出撃。

 二座水偵隊

 
操縦: 根上行介 一飛曹・偵察: 野路井正造 中尉
 操縦: 立山敏教 二飛曹・偵察: 相馬昴 少尉
 操縦: 小林清吉 一飛曹 ・偵察: 山口輝夫 少尉
 操縦: 中島昭二 二飛曹・偵察: 乙津和市 少尉
 操縦: 内田徹 一飛曹・偵察: 氏名不明
                 5機10名

戦果不明。全機未帰還。

 特攻死: 根上行介 一飛曹(甲飛12期)、野路井正造 中尉(大阪高等商業、予備学生13期)、立山敏教 二飛曹(甲飛13期)
     相馬昴 少尉(慶応義塾大、予備学生14期)、小林清吉 一飛曹(甲飛12期)、山口輝夫 少尉(國學院大、予備生1期 享年23歳)
     中島昭二 二飛曹(特乙4期)、乙津和市 少尉(大東文化大、予備生1期)、内田徹 一飛曹(乙飛17期)、氏名不明 5機10名

小林清吉 一飛曹(甲飛12期)が操縦する零式水上観測機で出撃した偵察員・山口輝夫 少尉 (國學院大、予備1期)は、遺書を残した。

海軍少尉・山口輝夫 遺書
御父上様
何らの孝養すらできずに散らねばならなくなった私の運命をお許し下さい。
急に特攻隊員を命ぜられ、いよいよ今日、沖繩の海へ向けて出発いたします。
命ぜられれば日本人です。ただ成功を期して、最後の任務に邁進するばかりです。
とはいえ、やはりこのうるわしい日本の国土や人情に別離を惜しみたくなるのは私だけの弱い心でしょうか。
死を決すればやはり父上や母上、祖母や同胞たちの顔が浮かんでまいります。
誰もが名を惜しむ人となることを希ってやまないと思うと、本当に勇気づけられるような気持ちがいたします。
かならずやります。それらの人々の幻影に向かって私はそう叫ばずにいられません。
しかし、死所を得せしめる軍隊に存在の意義を見出しながら、なお最後まで自己を滅却してかからねばならなかった軍隊生活を、
私は住みよい、世界とは思えませんでした。それは一度娑婆を維験した予備士官の大きな不幸といえましょう。
いつか送っていただいた大坪大尉の死生観も、徹し切っているようで軍隊の皮相面をいったに過ぎないような気がします。
生を亨けて二三年、私には私だけの考え方もありましたが、もうそれは無駄ですから申しません。
特に善良な大多数の国民を欺瞞(ぎまん)した政治家たちだけは、今も心にくいような気がします。
しかし私は国体を信じ、愛し、美しいと思うが故に、政治家や統帥の輔弼(ほひつ)者たちの命を奉じます。
実に日本の国体は美しいものです。
古典そのものよりも、神代の有無よりも、私は、それを信じてきた祖先達の純心そのものの歴史のすがたを愛します。
美しいと思います。
国体とは祖先達の一番美しかったものの蓄積です。実在では、わが国民の最善至高なるものが皇室だと信じます。
私は、その美しく尊いものを、身をもって守ることを光栄としなければなりません。
私は故郷を侵すものを撃たねばやみません。沖縄は今の私にとっては揺籃(ようらん)です。
あの空にあの海に、かならずや母や祖母が私を迎えて下さることでしょう。
だから、私は、死を悲しみません。恐ろしいとも思いません。
ただ残る父上や、多くのはらからたちの幸福をいのってやみません。
父上への最大の不孝は、父上を一度も父上と呼ばなかったことです。
しかし私は最初にして最後の父称を、突入寸前口にしようと思います。
人間の幼稚な感覚は、それを父上にお伝えすることはできませんが、突入の日に生涯をこめた声で父上を呼んだことだけは忘れないで
下さい。
天草は実に良い所でした。私が面会を父上にお願いしなかったのも、天草のもつよさのためでした。
隊の北方の山が松山と曲り坂によく似た所で、私は寝ころびながら、松山の火薬庫へ父上や昭といっしょに遊びに行った思い出や母の
死を漠然と知りつつも火葬場へ車で行った曲り坂のことなど、想わずにはいられませんでした。
私が死ねば山口のほうは和子一人になります。
姉上も居りますし、心配ありませんが、万事父上に一任いたしておりますから、お願いいたします。
歴史の蹉跌(さてつ)は民族の滅亡ではありません。父上たちの長命をお祈りいたします。かならず新しい日本が訪れる筈です。
国民は死を急いではなりません。
では御機嫌よう。

 出発前                                                   輝 夫

名をも身も さらに惜しまず もののふは 守り果たさむ 大和島根を

「特に、善良な大多数の国民を欺瞞(ぎまん)した政治家だけは、今も心憎いような気がします」との言葉は重い。極めて抑制された表現だが、無能と欺瞞に満ちた政治家、軍指導層に対する痛烈な批判が述べられている。   ※ 東條英機首相、陸・海軍大臣を含む
これは大多数の学徒兵達に共通する思いだった。それでも彼等は、祖国や家族を護ることのみを願って出撃して征った。   
    
10


人 間 爆 弾「 桜 花 」

「桜花」は機首部に徹甲爆弾を装着した小型の航空特攻兵器。母機(一式陸上攻撃機)に懸架され、目標付近で分離されてその後は桜花隊員が操縦して目標に体当たりする。
航空本部は、昭和19年(1944年)8月16日に発案者大田の名前から「〇大(マルダイ)部品」と名付けて研究試作を下命(詳細参照)
8月下旬、航空本部の伊東裕満中佐がこの人間爆弾を「桜花」と命名。10月1日、第七二一海軍航空隊(通称:神雷部隊)を編成した。

「桜花」を運ぶ飛行隊長・野中五郎少佐(海兵61期)は「必死攻撃を恐れるものではない。しかし桜花を吊った陸攻が敵まで到達できる
と思うか。援護戦闘機が我々を守り切れると思うか。糞の役にも立たない自殺行為に部下を道連れにするなど真っ平だ。桜花を切
り離したら帰れとのことだが、部下達だけを突入させて帰って来られるか、自分も体当たりする」」と語っていた(八木田喜好大尉)
鈍重な一式陸攻は被弾すると直ぐに火を噴く危ない機体だった。護衛戦闘機の機数も搭乗員の技倆も当てにならなかった。
現場の反対にも拘わらず、連合艦隊参謀長の草鹿龍之介少将が強引に進め、20年2月10日に神雷部隊は正式に特攻部隊となった。
野中少佐は特攻に懐疑的で「たとえ国賊と罵られても桜花作戦には反対してやる」と言っていた(整備分隊長・大島長生大尉)



昭和20年(1945年)3月21日、神雷部隊は第一回神雷桜花特別攻撃隊を編成し、沖縄を攻撃中の米機動部隊に向けて出撃させた。
出撃する前夜、野中少佐は「ろくに戦闘機の援護が無い状況ではまず成功しない。特攻なんてぶっ潰してくれ。これは湊川だよ」と
言い残し、指揮官として出撃した(飛行長・岩城邦広少佐の証言。「湊川」とは敗北必至を承知で出陣した楠木正成の故事を指)

部隊は進撃中に米軍のレーダーで捕捉され、F6F戦闘機の迎撃を受けて一式陸攻は18機(桜花を懸架15機)全機撃墜され、護衛の零戦隊
は55機(整備不良のため、25機が途中引き返す)中10機が撃墜されて目標にさえ届かなかった。野中少佐の言葉通りだった。
陸攻が全機撃墜されるのにかかった時間はわずか20分程度でしかなかった。 


 初陣の戦訓により昼間大編隊による攻撃を断念。薄暮及び黎明時に陸攻少数機に別れて
 の出撃に変更したが、4月1日の第二次桜花攻撃も全機失敗に終わった。
 米艦隊を捕捉できず、桜花のみを空中投棄して帰投する機も多かった。
 
 4月12日、第三次神雷桜花特別攻撃隊が出撃し、沖縄戦で初めて土肥三郎中尉の桜花が駆
 逐艦マナート・L・エベールを撃沈した。
 桜花が挙げた戦果は、この駆逐艦の撃沈1隻と、その他連合国の駆逐艦など数隻に損傷
 を与えただけに過ぎなかった。
 10回に渡る出撃の結果、所期の戦果が挙げられない為、7月に桜花の使用を中止した。

 桜花隊員55名と、その母機である一式陸攻の搭乗員365名が戦死した。
責任を取り、自ら特攻に赴いた佐官以上の士官は3名しかいない。有馬正文中将、野中五郎少佐、宇垣纏中将の3名のみである。
「俺も最後には征く」と言って特攻隊員を送り出した基地司令や飛行長達は、誰も部下達との約束を守らなかった。


11

人 間 魚 雷「 回 天 」

「回天」は九三式三型魚雷(酸素魚雷)を転用し、人間が操縦する特攻兵器として誕生した。
大型潜水艦(母艦)の甲板に係留して敵の艦船近くまで搬送し、そこで母艦を離れて艦船に体当たりをする兵器だった。
「回天」の着想は、真珠湾攻撃に参加した特殊潜航艇に端を発する。苦戦する潜水艦隊の現場から持ち上がった(経緯はこちら)
昭和19年(1944年)7月に2基の試作機が完成し、同年8月1日に正式採用された。
11月8日に初めて実戦に投入され、終戦までに420基が生産された。
      


実戦に投入された当初は、港に停泊している艦船への攻撃(泊地攻撃)が行われ、ある程度の戦果を挙げた。然し、米軍が防潜網で対策
するようになり、泊地攻撃が難しくなった。その為、洋上航行中の艦船を目標とする作戦に変更された。
この結果、動標的を狙うこととなり、搭乗員には高度な操艇が要求されるようになった。
併せて数々の性能上の問題が表面化した。結局、これは未解決のまま運用された。
この性能の欠陥と操縦の難しさが災いして余り戦果を挙げることができなかった。
又、「回天」を搭載した潜水艦は深度80メートルしか潜航できない為に、米軍の対潜哨戒で発見され易く、母艦である潜水艦の被害は
大きかった。出撃した潜水艦16隻(延べ32回)のうち、8隻が標的に辿り着く前に「回天」と共に撃沈されている。

搭乗員には、既に乗る飛行機も無い状況の学徒出身の飛行予備学生、予科練(甲飛13期)出身の飛行兵が多く当てられた。


「多々良隊」 左から 石直新五郎二飛曹、宮崎和夫二飛曹、福島誠二中尉(海兵72期)、八木寛少尉(関西大)、川浪由勝二飛曹、八代清二飛曹
二飛曹は全て甲飛13期。「伊號第56」潜水艦(乗組員122名)にて出撃。
昭和20年4月6日、母艦と共に散華する

出撃戦死者は87名(うち「回天」発進後戦死49名)、訓練中の殉職者は15名、終戦時の自決者は2名。母艦である潜水艦を含めると
戦死者は845名であった。実に38名が目標に届かず、途中で潜水艦と共に撃沈された。制空、制海権の無い悲惨な結果だった。


12

水 上 特 攻 艇 「 震 洋 」

小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬を搭載。搭乗員が操縦して、上陸艦船に体当たり攻撃する特攻艇。
昭和19年(1944年)8月28日に正式採用された。特攻部長・大森仙太郎少将が明治維新の船名を取って命名した。
一號艇(乗員1名)、五號艇(乗員2名)の二種がある。総生産数は終戦時までに各型合わせて6,197隻だった。



「震洋」は体当たり直前に乗員の脱出ができる為、特攻兵器ではなく、通常兵器として部隊に配備された。
陸軍もこれを採用して四式肉薄攻撃艇、通称「〇レ」と呼んだ。
レイテ、台湾、沖縄、日本本土の太平洋岸の各地に配備された。終戦までの連合国艦船の損害は4隻だった。
搭乗員は、学徒兵、海軍飛行予科練習生出身者を中心とした。震洋の戦死者は、陸戦の戦死者を含めて2,500人以上となった。



13

特 攻 の 意 味 を 問 う



 特別攻撃隊の英霊に捧げる  
     アンドレ・マルローの言葉

                          元リヨン大学客員教授 特操3期 長塚隆ニ

 思うに、日本人ほど安易に価値観を逆転させる国民もまれであろう。
 昨日の「善」が、翌日にはいとも簡単に「悪」に一変する。
 昭和二十年八月まて「生き神様」と仰がれた特別攻撃隊員も、八月十五日一夜が明ければ「特攻くず
 れ」である。
 十八世紀の大革命で価値の転換はすでに卒業したフランス人には、とうてい考えられないことかもし
 れない。
 祖国が戦いに敗れると、ダメな兵隊だったことを棚に上げて、軍国主義を否定するために軍務をでき
 るだけないがしろにしたと自慢する文士がいれば、生命の尊さを力説するために、「あたら若いいの
 ちを粗末にして」と特別攻撃隊員をとやかくいう進歩的知識人もいた。
途中でグラマンに食われることを承知で練習機にまで爆装して出撃させた軍上層部の無謀をあげつらうならともかく、特攻隊員の純粋
な心を傷つける言葉に、私は憤怒を覚えたことが一度や二度ではない。
昭和四十九年、パリ南方郊外のアンドレ・マルローの家を訪れた私は、ふとそんなことをぐちともつかず口にした。
すると、かすれがちだった彼の声がにわかにきびきびしてきた。 

  日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。
 これは、世界のどんな国も真似のできない特別特攻隊である。
 ス夕−リン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。
 日本の特別特攻隊員たちはファナチック(fanatic=狂信者)だったろうか。
 断じて違う。
 彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。
 代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズム(Fanaticism=狂
 気)とは根本的に異質である。
 人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ。 
戦後にフランスの大臣としてはじめて日本を訪れたとき、私はそのことをとくに陛下に申し上げておいた。
フランスはデカルトを生んだ合理主義の国である。
フランス人のなかには、特別特攻隊の出撃機数と戦果を比較して、こんなにすくない撃沈数なのになぜ若いいのちをと、疑問を抱く者
もいる。そういう人たちに、私はいつもいってやる。
「 母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見すごせるものだろうか? 」と。
私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、 いさぎよく敵艦に体当たりをした特別特攻隊員の精神と行為のなかに男の崇高な美学を見るのである(フランスの作家、政治家)

二十世紀の思想を代表するフランスの文人アンドレ・マルローは、こういうと床に視線を落としたまましばし瞑黙した。
まさに百の頌詞(しょうし)にまさる言葉であろう。(頌詞: 褒めたたえる)
私はこれをつつしんで特別特攻隊の英霊に捧げたい。
(公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会・会報[特攻」第8号より)

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ベルナール・ミローの見解  Bernard Millot「KAMIKAZE」 (フランスのジャーナリスト)


 自己犠牲を勇気づけるもの

 歴史の上で、我々の国にも古代から現代までを通じて、幾人かの人間がよろこんで自己の生命を捧げた
 事実のあることが知られている。
 どこの軍隊にも、またどこの戦場ででも戦士が勇敢に死ぬより他にはもはや解決法が残されていない、
 つまり死以外に結果をもたない状態に置かれた例は、余りにも数多くあった。
 これらの行為は、その瞬間には個人の(意思の)選択が行われていたし、また事故の発生した状況下での
 一つの帰結として実行された。
 このような場に立ち至った人間は、最早、賛美する以外にはない存在であり、彼等の行為は何人たりと
 も尊敬せざるを得ないであろう。
 それは純然たる偶発的な行為に過ぎず、どのような予定された場合ででもなかった。
特攻の真の特徴は、この行動を成就するために、決行に先んじて数日前、時としては数週間、数ヶ月も前から、予めその決心がなされ
ていたという点にある。そしてこの特殊な点こそが、我々西欧人にとっては最も受け容れ難い点である。
それは我々の生活信条、道徳、思想といったものとまさに正反対で、真向から対立してしまうことだからである。
我々の世界には、いまだかつてこれと同様のことも、似たようなことも事実としてあったためしがない。
あらかじめ熟慮されていた計画的な死 --くり返していうが、これは決して行為ではない-- そうしたものの美学が我々を感動させるこ
とはあっても、我々の精神にとってはそのようなことは思いもつかぬことであり、絶対にあり得ないことである・・・

日本の自殺攻撃は西欧の観念が発祥以来はじめて目撃し、はげしいショックをこうむったものであった。一種の恐怖だった。
然し、戦術上の目的に自分自身を捧げつくしてしまうというこの原理は、日本人にとってはべつに新しいものでも何でもなかった。
彼等の栄光とする伝統ある歴史は、それを古く遡った時代においても、これに類する実例をあまた有していたのである。
この攻撃手段は、実はこの極めて古い伝統の延長と応用なのである。 (原題:1.驚くべき日本 P31〜37 冗長なひらがなを一部漢字に変換)


 (特攻隊員の真の姿)

 ただもう一つだけ、大変重要な事を付け加えておきたいと思う。それは戦後かなりの広範囲に行われた
 アンケートによってこれら特攻に散華した若者たちの人となりに、新たな光をあてることになったある
 事実である。
 特攻隊員の真実を知りたいと願う有志の手で、多くの調査報告がなされている。
 これらの調査のほとんど全部が一致して報告していることは、特攻に散った若者の圧倒的な大多数のも
 のが、各自の家庭にあっては最も良き息子であったということの発見である。
 極めて稀な少数の例外を除いて、彼らのほとんどは最も愛情深く、高い教育を受け、すれてもひねくれ
 てもいず、生活態度の清潔な青年たちであった。
 そして両親に最も満足を与えていた存在だったのである・・・。 
このように優れた息子たちであっただけに、そのような者が特攻に散華したことは遺族たちの悲嘆と痛惜をいっそう深めたのであった
が、アンケートの結果判明したこのような事実は、我々西欧社会の間にあまりにも普及して通説になってしまっている観念、すなわち
彼らが人間らしい感情を持ち合わせず、人間の尊厳について無感動な、忌まわしい集団心理に踊らされた動物だったという見方に、真
向から痛撃を加えて、それがいかに甚しく誤っているかということを否応なく悟らしめるのである。  
ほんのひとにぎりの狂燥的人間なら、世界のどの国にだってかならず存在する。
彼ら日本の特攻隊員たちは全くその反対で、冷静で、正常な意識をもち、意欲的で、かつ明晰な人柄の人間だったのである。
多くの特攻隊員たちの書き残したものや、彼らを知る人々の談話の中からうかがい知られる勇気を秘めた穏やかさや理性をともなった
決意というものもまた、彼らの行為が激情や憤怒の発作であったとする意見を粉砕するに十分である。
彼らから憤怒のえじきになり、激情の発作にかられた人間を想像することは不可能である。
数日、いや時には数週間というものの間、ずっと憤怒の発作にかられ続けている人間など、この世に実在しはしない。
(原題: 9.永遠の日本 遺書 P353〜354 一部漢字に変換)
 (特攻隊員が教えたもの)
この日本と日本人が、アメリカのプラグマティズム(実際主義)と正面衝突をし、そして戦争末期の数ヶ月間にアメリカの圧倒的な物量
と技術的優位の前に、決定的な優勢を敵に許してしまった時、日本人は対抗手段を過去から引き出してきた。
すなわち伝統的な国家への殉死、肉弾攻撃法である。
このことをしも、我々西欧人は嗤(わら)ったり、哀れんだりしていいものであろうか。
むしろそれは、偉大な純粋性の発露ではなかろうか。
日本国民はそれをあえて実行したことによって、人生の真の意義、その重大な意義を人間の偉大さに帰納することのできた、世界で最
後の国民となったと著者は考える。
たしかに我々西欧人は、戦術的自殺行動などという観念を容認することができない。しかしまた、日本のこれら特攻志願者の人間に、
無感動のままでいることも到底できないのである。
彼らを活気づけていた論理がどうあれ、彼らの勇気、決意、自己犠牲には感嘆を禁じ得ないし、また禁ずべきではない。
彼らは人間というものがそのようであり得ることが可能なことを、はっきりと我々に示してくれているのである。
(原題: 9.永遠の日本 彼らの教えたもの P354〜) 
問題なのは、日本人以外の者たちの神風特攻に対する批判である。
それらはおおむね西欧精神に容認できぬ自殺攻撃を、狂気に発する所為として真っ向から否定している。
しかし、我々はこれをもう一度原点にたちかえって考えてみる必要はないであろうか。
まず第一には我々の態度であるが、世界の史上に前例のないこのような異常な出来事に対して、我々の態度に安易さはないであろう
か。西欧精神をもって自殺攻撃を不可能とし、狂信と決めつけるのはいと易い。問題はそのような我々の精神に抵触するものを排除
しょうとするところにある。
記述の通り太平洋戦争中における日本人の精神的風土は我々のものとは全然異質のものであった。
今一歩日本人の精神状態に踏み込んで考えるのでなければ、正しい批判はなされないはずである。
記述の通り日本人は自殺攻撃を論理的だと考えたからこそ実行したのであり、それにはちゃんとした根拠があった。

本書の目的は、そのような皮相的な見方から一歩踏みこんで、西欧から見た神風に、新たな脚光を浴びせることであった。
また著者の意図したところは、この日本の自殺攻撃が集団的発狂の興奮の結果などでは断じてなく、国家的心理の論理的延長が到達し
た点であらわれた現象であり、戦局の重圧がそれをもたらしたものであることを明らかにすることにあった。
著者は日本において2,000年間眠り続けてきたハスの実が、栽培されて開華したことを耳にしたことがある。
たしかに日本人の実行したこの突飛な飛躍はむなしい。結果としての痛ましい敗戦に、この行為はあまりにも不合理とも見えよう。
そしてこの行為に散華した若者たちの命は、あらゆる戦争におけると同様に無益であった。
しかし、彼らの採った手段があまりにも過剰でかつ恐ろしいものだったにしても、これら日本の英雄たちは、この世界に純粋性の偉大
さというものについて教訓を与えてくれた。
彼らは1,000年の遠い過去から今日に、人間の偉大さというすでに忘れられてしまったことの使命を、取り出して見せつけてくれたの
である。                               (原題: 9.永遠の日本 彼らの教えたもの P358〜359)

注意) 戦闘の記述部分には取り違えや間違いが数ヶ所ある。それよりか、特攻隊員の志願の認識が猪口/中島の著述を基にしていて
実態とかけ離れている点が惜しまれる。ただ、それらを差し引いても、日本の歴史、日本の精神風土まで掘り下げ、特攻が生起する
に至る切羽詰まった戦況と、特攻を最終的に受容した搭乗員の死生観を浮き彫りにしょうとした姿勢は評価できる。

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"DANGER'S HOUR"の著者マクスウェル・テイラー・ケネディの言葉

私たちは、神風特攻隊という存在をただ理解できないと拒絶するのではなく、人々の心を強く引きつけ、尊ばれるような側面もあった
のだということを今こそ理解すべきではないだろうか・・・・・・彼らの最後の望みは、未来の日本人が特攻隊の精神を受け継
いで強い心を持ち、苦難に耐えてくれることだった。
Maxwell Taylor Kenedy著「特攻〜空母バンカーヒルと二人のカミカゼ」

    
14

と こ し え に


一 輪 の 花 と 咲 き た し

海軍一等飛行兵曹・高崎文雄 (甲飛10期、宮崎出身 享年19歳) が軍の検閲を避け、人を介して家族に届けた一首の和歌がある。

みんなみの 雲染む果てに 散らんとも くにの野花と われは咲きたし

高崎は特攻隊員ではない。昭和19年10月23日、二○一空搭乗員として爆装零戦で僚機一機(吉岡康一飛曹)と共に比島南方洋上へ通常索
敵攻撃に出撃した。出撃に際し、同僚に体当たりの決意を語っていたという。言葉通り未帰還となった。
特攻攻撃を繰り出す苛烈な戦闘状況の中で、もはや生きて帰れないことを悟っていた紅顔を残す航空兵は、望郷の念を絶ち難く、精一
杯の思いの丈を家族に届けた。
せめて家族や友人のいる故郷の、そして自分が幼い頃から遊んだあの野原で、小さな一輪の野の花として返り咲きたいと願った。
何ものをも期待できない絶望の中にあって、ささやかな、然しこれは少年にとって望外の哀しい祈りであった。
この願いは、野の花の姿を変えて、家族や友人達の心の花園に咲くことになった。

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母 の 想 い

海軍一等飛行兵曹・谷暢夫(のぶお)は甲飛10期に17歳で入隊した。「敷島隊」出撃直前に数種の和歌を残した(京都出身 享年20歳)

身は軽く 務(つとめ)重きを思ふとき 今は敵艦に体当たり
身はたとひ 機関もろとも沈むとも 七度生まれて撃ちてし止まむ


 谷はこれらの和歌を同期生に示し、「歌になんかなっていないなあ」
 と大いにテレていたという。
 谷がテレたように歌は確かに稚拙である。
 ある程度の状況を判断できる予備学生達の残した言葉とは趣を少しく
 異にするが、当時の少年達の若さ故の気負い立った純粋な心情を良く
 表している。 
 飛行機乗りは少年達の憧れだった。
 甲飛は兵学校なみの難関だった。
 彼らは敵と戦うことを前提として予科練習生を志願した。
 戦場に身を置くことは覚悟の上だった。
 戦時にあって、これは決して特殊な例ではなかった。

 ← 谷が首に巻く白いマフラーは母にねだったもの。
母の一枝は松山基地を三回訪ねている。最初訪ねた時は面会謝絶だった。途方にくれていた一枝に衛兵が声を掛け、何とかすると言って谷を短時間母に会わせた。谷は持ってきたトランクを母に渡し、もうすぐ外出日だから旅館で待つように言った。
母はトランクを開けて、大金の入った預金通帳を見た。それで息子の戦地への出立が近いことを悟った。
外出日に合わせて舞鶴から父親も呼び寄せて昼間だけの短い時間、親子三人で会った。
翌日、夫婦で隊への御礼に出向くと、一人の青年大尉が自分のことのように喜んで「遠いところをよく訪ねて下さいました。本人もど
れだけ励みになるか知りません」と深々と頭を下げた。飛行隊長の重松康弘大尉である。
もの静かで貴公子然としたスマートな士官だった。
25歳で真珠湾攻撃の分隊長、ミッドウェー海戦では空母「飛龍」に在り、小林道雄大尉による空母「ヨークタウン」への壮烈な艦爆隊
突入の直掩を務めた。「飛龍」退艦時には司令官・山口多聞少将に乞われて、自らの拳銃を自決用に差し出した経歴を持つ。
この大尉は決して自分の武勇譚を語ることはなかった。
「海軍士官がいるとすれば、こんな人をいうんだと思わせる隊長だった」(甲飛10期・笠井智一一飛曹の証言)
母の一枝は「誠実な、温情味溢れた言葉だった」と言い、この28歳の青年士官は忘れ難い存在となった。

谷は出撃が間近になった時、一晩だけ舞鶴の自宅に帰った。「近く内地を出発することになりました」と両親に挨拶した。
間もなく、松山の衛門前で知り合った別の隊員の母親から「豹部隊が征途に着く」という緊急の知らせが入った。
一枝は息子に頼まれていた「豹戦 谷暢夫」と書き入れた白羽二重のマフラー・他を持って急いで松山空に駆けつけた。
衛門前で、「昨日、大編隊が飛び立って征った」と衛兵に告げられ、間に合わなかったと落胆したが、谷と森本が衛門に駆けつけてき
た。「残っている搭乗員も僅かだから、自分達も間もなく出発になるだろう」と言った。
持参のマフラーを渡すと、谷は嬉しそうに受け取り、何を思ったのか、一枝と森本の母を飛行場につれて行った。
そして、三機編隊で離陸して自分達の華麗な特殊飛行を母親達に披露した。

母の一枝は、目前で繰り広げる息子の高等飛行に驚き、僅か二年足らずでこれだけの技術を得る為にどれだけの苦労があったのかに想
いを馳せ、涙を止めどなく流した。
着陸して機から降りた息子の腕にすがりつき「死ぬことだけがご奉公じゃないのよ ! ね、ノンちゃん。生き抜いて、生き抜いて戦う
こともご奉公なんだからね」と必死に訴えた。
谷はうなずき、母親をあやすように笑って見せた。これが最後の別れとなった。
母と面会した三日後の2月29日、谷はグァム島に向けて松山基地を飛び立った。その前日、次の句を残した。 

子を思う 御国の母は有難し 千里万里もわれを訪ねつ

この言葉通り、昭和50年10月25日、「敷島隊」が散華した三十一年後、一枝さんは生き残りの隊員とご遺族などと共に慰霊巡拝でマバ
ラカット及びタクロバンを訪ねられた。ご高齢の為、家族の反対を押し切っての慰霊行だった。
当時74歳の老いた母は、覚束ない足取りでタクロバンの海に向かって駆けて行かれ、腕に抱えた花束を海辺に投げられた。
その時、大きな波が押し寄せて、老いた母の膝のあたりに波のしぶきがかかった。
「ああ、暢夫が来た ! 」とその老いた母は思わず叫んだという。

「お母さん、来てよかったな」と息子が出迎えてくれたと思い、言うにいわれん気持ちで胸一杯で御座いました。そして花束が波に
乗って寄せては返し、だんだん遠ざかって消えていくのをじっと眺めておりました・・・と母は語った。
白い波ですら、死んだ息子の霊魂と信じる母の姿がそこにあった。何十年経とうとも、母の心の中で暢夫は生き続けていた。

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春 を 思 へ ば

海軍飛行兵長・長峰肇 (丙飛15期、宮崎出身 享年19歳) は、戦地に進出した最初の手紙に一首の和歌を記していた。

 
 南海に たとえこの身は果つるとも 幾年後の 春を思へば

 これは、特攻隊員に指名される以前の歌である。
 死亡率が高い飛行機乗りの決意を謳っている。
 連日の戦闘で、出撃したらほとんどが未帰還となるのが日常だった。
 従って、皆、死は覚悟していた。通常戦闘の死は誰も恐れていなかった。
 特攻指名前の少年の面影を残す左の写真の表情は実に屈託なく明るい。

 20日夜、司令部に呼ばれ、特攻隊員に指名されて宿舎に帰って来た長峰の顔は蒼白で、
 言葉も満足に出なかったという。
 通常戦闘で死ぬことと、最初から死が前提になる特攻では心の持ち方に天と地の差が
 あった。
 長峰はこの夜、先任搭乗員の上原定夫上飛曹を訪ね、愛用の尺八を「貰って下さい」と
 手渡した。この夜、長峰は心の葛藤をどのように超越したのであろうか。
課業のない休日、静かに尺八を吹くのが長峰の唯一の楽しみだった。
長峰の家は農家で貧しかった。高等小学校を卒業して航空兵を目指したが、佐世保海兵団に採用されて落胆した。
ところが業務成績が抜群だったことから17年11月上旬に予科練に合格した。
長男である働き手が我が儘で飛行兵になったことを常に気にしていた。同じ分隊の青柳茂に良く母のことを語っていた。

  (森史郎著「敷島隊の五人」より) 


我々は特攻で散華されたあなた方を決して忘れることはありません



 本項は、神風特別攻撃隊の数例を主に述べたもので、人間爆弾「桜花」、水中特攻「回天」、水上特攻「震洋」は概括するに
 止めた。 水中・水上特攻には「神風」の名は使わない。
 組織的特攻を立案・容認した軍の指導層や特攻を命令した現地指令などの功罪に関しては別に述べることとする。

  参考文献: 押尾一彦著「特別攻撃隊の記録−海軍編−」光人社、森史朗著「敷島隊の五人」光人社、金子敏夫著「神風特攻の記録」光人社、
       Bernard Millot 著「KAMIKAZE]内藤一郎訳 早川書房森本忠夫著「特攻」文藝春秋、
        Maxwell Taylor Kenedy 著「DANGER'S HOUR 特攻〜空母バンカーヒルと二人のカミカゼ」中村有以訳 ハート出版、



2014年6月12日より
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