戦史 海軍特攻(2) 0

神 風 特 別 攻 撃 隊

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第 一 神 風 特 別 攻 撃 隊 出 撃


昭和19年(1944年)10月21日 「敷島隊」・「朝日隊」マバラカット基地出撃

 昭和19年(1944年)10月21日の天候は快晴だった。マバラカットの敷島・朝日・山桜の三隊が出撃待機に入った。
 海軍には索敵機が足りないので、陸軍から新司令部偵察機(新司偵)が早朝から索敵に飛び立っていた。
 敷島隊は昨夜指名された長峰肇飛曹(丙飛15期)が加わり五名となった。
 マバラカットには報道班員が詰めかけ、特攻隊の進発を待っていた。永い時間が過ぎた。その間、隊員達は報道員に囲まれていた。
 午後4時頃、漸く新司偵が帰って来た。レイテ湾に米機動部隊発見の知らせだった。
 「搭乗員整列」の号令が掛かった。出撃は「敷島隊」、「朝日隊」の二隊に決まった。
 玉井副長は前日大西長官が残していった水筒を取り出して一人ひとりと別れの杯を交わした。(日英新社・稲垣浩邦カメラマン撮影)



 敵の位置の確認や攻撃の注意などで一時間を費やした後、隊員たちは西飛行場に行き、「朝日隊」はそこからトラックに載せられ
て東飛行場に向かった。広い草原には250キロ爆弾を抱えて準備を終えた零戦が大地を揺るがすようなエンジン音を響かせていた。
 関大尉は玉井中佐に挨拶をして遺髪の入った紙包みを渡した。関は部下達が機に乗り込むのをじっと見ていた。
 見送りの列にいた副島軍医大尉(体調の悪い関の面倒をみていた)は思わず関の傍に駆け寄って涙を流しながら関の手を握りしめた。
 関も固く握り返し「必ずやってきます」と答えた。

  敷島隊 爆戦隊: 関行男 大尉、谷暢夫 一飛曹、中野磐雄 一飛曹、山下憲行 一飛曹、長峰肇 飛長 5名 (出撃4名)
      直掩隊: 谷口正夫 飛曹長、桜井幸一 一飛曹、政本利幸 一飛曹、森(某)飛長 4名   ( エンジン不調で発進中止)
  朝日隊 爆戦隊: 上野敬一 一飛曹、崎田清 一飛曹、磯川質男 一飛曹 3名
      直掩隊: 箕浦信光 飛長、他1名(氏名不明) 2名 (甲飛10期・高橋保男一飛曹の証言)       (搭乗員の階級 参照)

 東西の飛行場から別れて発進した爆装零戦7機と直掩零戦6機は基地の将兵に見送られて次々と出撃して征った。
 両隊は空中で合流して進撃した。偵察情報から、敵の位置は約1時間半の飛行距離だった。
 予定地点に到達したが、天候不良で敵機動部隊が見当たらなかった。「陸軍の奴め」と洋上航法に未熟な陸軍偵察員を苦々しく思
い乍ら報告位置を基点にして三角形の索敵を開始した。一時間を過ぎても敵は発見されなかった。海上は既に闇を深くしていた。
 増槽を抱えている直掩の零戦ですら基地へ帰れるかどうかの限界を超えていた。まして、重い爆弾を抱えた爆戦の燃料は後1時間
も持たないと思われた。直掩の谷口機が関大尉の機に近づいて手信号で捜索の限界を告げていた。
 関は敵を見つけようと燃料の限界まで粘ったが、漸(ようや)く反転のバンクをして爆弾を投棄した。列機もこれに従った。
 眼下にレガスピーの飛行場が見えたので、関大尉機と列機、直掩隊も暗闇の飛行場に向け不時着態勢に入って行った。
 直掩の谷口機は敷島隊の結果を報告する義務があったのでマバラカットに向かうと桜井機に合図をしてきた。既に燃料計はゼロを
示していたが桜井は谷口機に従った(直掩隊・桜井一飛曹の証言)

  レガスピー不時着 「敷島隊」「朝日隊」全機。翌22日、マバラカットに帰着。
  マバラカット帰投 「敷島隊」直掩隊2機(谷口・桜井)

 盛大な見送りを受けて出撃したにも拘わらず、おめおめと基地に引っ返さざるを得ない結果は、誇り高い関大尉にとって耐え難い
屈辱であった。

     


昭和19年(1944年)10月21日 「大和隊」セブ基地出撃

 久納中尉以下爆装隊員3名、直掩隊員2名の5人が出撃待機に入っていた。
 敵情が入らないまま、出撃待機が永く続いた。
 徹夜で特攻機の整備に当たっていた中村少尉は午前中に指揮所を訪ね、特攻の死を目前にして普段と変わりがなかった久納中尉を
目撃し「胸を打たれた」という。
 午後三時になって漸く「スルワン島東方洋上に敵機動部隊発見」の知らせが入った。
 直ちに木の下に隠されていた零戦5機が引き出され、ガソリン補給と爆装の準備に入った。
 中島中佐は「搭乗員整列」の号令を掛け、簡単な水杯を交わし攻撃の打ち合わせに入った。発進準備は15分で完了し、整備員達は
爆装機の傍で今や遅しと搭乗員達を待っていた。
 搭乗員整列の直前、久納が自分の飛行帽を脱ぎ「もし届けられたらこれを家族の者に」と従兵に渡した(波田野二整曹)

 10分以上経過しても搭乗員達が来ない。「ノンビリしているな。こんな時に奇襲を喰らえば9月12日のセブ大空襲の二の舞を踏む。
 燃料を満載して爆弾を抱いた戦闘機はひとたまりもない。早く発進しないと危ない」と中村少尉は苛立(いらだ)った。
 その苛立ちは指揮所前にいた波田野義高二整曹も同じだった。
 水杯の後、中島飛行長は延々と搭乗員に精神訓話を垂れていた。既に死を覚悟している隊員に、今更口先だけの訓話に何の意味が
あったのだろうか。中島中佐の単なる顕示欲と自己陶酔に過ぎなかった。精神訓話は更に続いていた。

 その時、「敵らしき爆音が聞こえる」と見張員が絶叫した。
 直ちに搭乗員達は整列を解き、列機まで走ったが、既にグラマン戦闘機群は基地上空に侵入して機銃掃射を始めた。
 列線に行儀よく並んだ零戦5機は極めて都合が良い標的だった。零戦のガソリンが火を噴き、爆弾が誘爆して一瞬に貴重な5機が
破壊された。徹夜をして完璧に整備した機体である。中島中佐は9月12日の空襲に続き二回目の過ちを犯した。
 波田野二整曹は「中島飛行長は敵のスパイか ! 」と同僚の整備兵が吐き捨てるように言った言葉を耳にした。
 いたずらに訓示を長引かせた中島飛行長に対するやり場のない整備員の憤りだった(中島少佐の失態参照)

 整備長の桶泉大尉が「予備機を出せ」と叫んだ。昨夕、マバラカットから進出してきた8機のうちの残り3機である。
 ヤシやマンゴーの木の下から3機が引き出され、直ぐに発進準備が整った。

  大和隊 爆戦隊: 久納好孚 中尉、中瀬清久 一飛曹 2名
      直掩隊: 大坪一男 一飛曹 1名

 指揮所から走り出した久納中尉は「(エンジンを)回せ ! 回せ ! 」と叫んで列機の先頭に飛び乗った。
 敵の戦闘機を追って行けば必ず敵の空母に辿り着ける。一刻を争っていた。残りの2機もバラバラに発進した。
 報道員もいない、帽ふれの儀式もない実に呆気(あっけ)ない慌(あわ)ただしい出撃だった。これが久納中尉の最後の姿だった。

 途中エンジン不調と悪天候に阻まれて、中瀬機と大坪機は久納機を見失ったまま基地に引き返した。戦果の確認は出来なかった。
 久納機は、久納中尉の言葉通りに還ってこなかった。


 久納は学徒出身の同僚に「空母が見つからないとレイテ湾に行く。そこには必ず艦船がい
 るから自分は絶対に還ってこない」と言っていた。

 出撃前夜、久納は「機銃を外してくれ。一度飛び立てば還ることはない。体当たりするか
 ら機銃は必要ない」と整備分隊士の日笠中尉に頼んだ。
 日笠は「若し途中で敵戦闘機に出会ったら空戦せねばならんし、それもせずに落とされた
 ら犬死にじゃないか」と制した。
 久納は「空戦は大丈夫だ。それよりも敵が上陸したら陸戦隊に武器が必要だろう。機銃一
 丁でも助かるはずだ」と食い下がった。
 結局、日笠は機銃を外さなかった(浜松高等工業卒、第6期整備予備学生・日笠中尉の証言)

 最後の身辺整理では「死への旅立ちという異常な状態の夜に、士官なら整理を従兵に頼む
 のが当然だが、久納中尉は自分の手で洗濯し、自分で倉庫に返却に行った。衣料倉庫係り
 からそれを聞いた時、その崇高な精神に打たれ、陰で男泣きに泣いた」と機関科分隊士の
 下島敏也兵曹長は回想している。
 こうした、死の前夜に示した久納の冷静な態度は、高潔な武士の姿だった。
 久納中尉の模様を克明に辿った森史郎氏は「まるで古武士の出陣と錯覚させる床(ゆか)しさ
 と潔(いさぎよ)さである」と評した。
 出撃に際し、久納中尉は「直掩機や戦果確認機は無駄だから、他の方面に使って下さい。自分たちは戦果の発表や名誉など一切関
心を持ちません。ただ、空母の甲板に突っ込めば足りるのです」と中島飛行長に語っていた。香り立つような青年だった。

  特攻死 爆戦隊: 久納好孚 中尉(法政大・予備学生11期) 1名

 この日、レイテ湾内で豪州の重巡「オーストラリア」が日本特攻機の攻撃で被害を受けている。豪州の資料によると、久納機突入
と重巡被害の時刻が合わない。又、突入機の機種(2回訂正されている)も合わない。
 然し、戦場での戦闘記録の齟齬(そご)は幾らでもあり、珍しいことではなかった。
 いずれにしても神風特別攻撃隊の特攻一号は「大和隊」久納好孚(こうふ)中尉であることは紛れもない事実であった。

     


昭和19年(1944年)10月22日 「山桜隊」 マバラカット基地出撃

 この日の早朝、第一撃に失敗した関大尉以下が、レガスピーからマバラカットに還って来た。
 関は玉井副長に経緯を報告し、申し訳ないと謝った。余程悔しかったとみえ、やつれた表情で副島軍医大尉に止むを得ない事情を
説明したという。
 「敷島隊」関大尉は、中島、谷、中野、山下、長峰の五人と「朝日隊」は東飛行場で再度の出撃に待機した。
 午後三時頃、敵の情報が入り、「敷島隊」・「朝日隊」に替わって「山桜隊」一隊だけが午後の四時に出撃した。

  山桜隊 爆戦隊: 宮原田賢 一飛曹、瀧澤光雄 一飛曹、藤本寿 一飛曹 3名
      直掩隊: 柴田正司 一飛曹、原田一夫 二飛曹 2名 

 出撃した山桜隊は、途中、悪天候に阻まれて全機がマバラカットに帰投した。
 これで初期の特攻四隊は確実な戦果を挙げることができなかった。

 その夜、関大尉はマバラカットに進出して来たばかりの二航艦の艦爆隊長・江間保少佐と会っている。
 関はこの歴戦の艦爆乗りに、爆弾を抱えた戦闘機による急降下爆撃の要領を訊(たず)ねた。関が体当たり攻撃をすることを知り、江
間少佐は、戦闘機と九九式艦爆との相違を考慮した上で細かい注意点を関に教えた。関は静かに聞いていたという。

 江間少佐は高雄の時と同様に、この日の夜、クラーク中基地での二航艦の作戦打ち合わせで、福留長官や参謀達が「九九棺桶」と
呼ばれる九九式艦爆による昼間集団攻撃が未だに効果があると決めてかかっていることに腹を立て「今この会議に集まっている指揮
官の内で、明日出撃して征くのはこの私一人ではないか。艦爆が攻撃の主力だから敵機動部隊を沈めて来いというなら、それはお断
りする。単に犬死にするだけだ。お前達が敵の戦闘機を引きつけて犠牲になれ、その間に別の優秀な部隊が敵空母を沈めるというの
なら自分達は喜んで死地に赴き犠牲になる」と二航艦の首脳達を見据えて言った。
 自らは安全地帯に居て、最前線の現状を知ろうともしない無為・無能な上層部への激しい怒りと告発だった。
 開戦前から親しかった大先輩の航空参謀・嶋崎重和中佐が仲裁に入ったので江間は鉾を納めた。
 旧式の九九式艦爆による「白昼の大名旅行」では、いくら機数を揃えても生きて還ることはあるまいと江間少佐は覚悟した。

 同日、「捷一号作戦」の中核である栗田艦隊(第1遊撃部隊第1部隊)が、戦艦「大和・武蔵」を従えてブルネイ泊地を出撃した。
 特攻四隊の攻撃失敗は大西中将に深刻な打撃を与えた。「X」日は目前に迫り、手持ち戦力は余りにも過少だった。
 この日に台湾から進出してきた二航艦の戦力に頼る他はなかった。
 この夜、大西は福留と話し合ったが、福留は台湾での時と同じく「正攻法」の考えを変えなかった。この是非は、24日に実施され
た二航艦の総攻撃の悲惨な結果が答えを出すことになる。艦爆隊長・江間保少佐が予言した通りになった。(江間少佐の訴え・参照)

 この日、マバラカットで新たに 葉桜隊菊水隊若桜隊 の三隊が編成された。
 菊水隊 加藤豊文、宮川正、高橋保男の各一飛曹(20日指名)、直掩の塩盛実 上飛曹、他1名で新しく編成された。
      22日にミンダナオ島カガヤン陸軍基地に進出。24日夕刻、ダバオ第二基地に移動。
 若桜隊 爆戦隊: 木村繁 一飛曹、中瀬清久 一飛曹、勝又富作 一飛曹、崎田清 一飛曹の4名。
     直掩隊: 新井耕平 上飛曹、日村助一 二飛曹の2名。25日早朝セブ基地に進出。

     


昭和19年(1944年)10月23日 「敷島隊」・「大和隊」 マバラカット及びセブ基地出撃

 ルソン島中部は快晴だった。早朝7時頃から二航艦の攻撃隊約150機がクラークとマバラカットから二隊に分かれて通常攻撃に出
撃した。マバラカットから「敷島隊」5機と直掩4機、セブ基地から「大和隊」2機が特攻出撃した。

  敷島隊 爆戦隊: 関行男 大尉、谷暢夫 一飛曹、中野磐雄 一飛曹、山下憲行 一飛曹、長峰肇 飛曹 5名 マバラカット出撃
      直掩隊: 谷口正夫 飛曹長、桜井幸一 一飛曹、政本利幸 一飛曹、森(某)飛長 4名 
  大和隊 爆戦隊: 佐藤馨 上飛曹(丙飛十二期)、石岡義人 一飛曹 2名  セブ基地から早朝5時出撃
      直掩隊: 2名(不明: 直掩機2機がいたとの高橋保男証言)            (出撃途中、エンジン不調で引き返す)

 出撃した中部は快晴だったが、比島東岸に進むと雨雲に覆われて視界は10キロになった。その為、二航艦攻撃隊の総指揮官・江間
少佐は索敵攻撃は不可能と判断し、全機反転して引き返した。「敷島隊」も同様に反転帰投した。
 然し、「大和隊」の佐藤上飛曹は未帰還となった。二番機の石岡一飛曹がエンジン不調で引き返した為、佐藤上飛曹の最期は不明
のままとなった。佐藤上飛曹には新婚半年の妻がいた。

  未帰還 佐藤馨 上飛曹(丙飛4期) 1名
  負傷  谷口正夫 飛曹長(発進時、グラマン戦闘機に銃撃され負傷)

 この日、栗田艦隊はパラワン島西方水道を北上している時、重巡「愛宕」・「摩耶」が米潜水艦の雷撃を受けて沈没し、「高雄」
が航行不能になる大被害を受けた。沈没する旗艦「愛宕」を脱出した栗田中将は戦艦「大和」に移乗して将旗を翻した。

 戦闘第三一一飛行隊長・横山岳夫大尉は、既に編成済みの「朝日隊」上野敬一、崎田清、磯川質男の各一飛曹3人と「山桜隊」宮
原田賢、瀧澤光雄、藤本寿の各一飛曹3人を率いてミンダナオ島ダバオ第一基地に進出して両隊の指揮を執ることになった。

     

1
昭和19年(1944年)10月24日 航空総攻撃と特攻出撃 (マバラカット、他)


 栗田艦隊のレイテ湾突入を翌日に控え、一航艦と二航艦の総力を
 挙げて米・ハルゼー機動部隊(第38任務部隊)への攻撃を決めた。
 24日0:50分、前夜から夜間索敵に出ていた九七式飛行艇3機の
 内、 幸田飛曹長から「電探により、マニラの90度402キロ洋上
 に敵大部隊探知」の報告が入った。
 これは第38機動部隊の四群の一つ「第38-3任務隊」だった。
 正規空母X2、軽空母X2、戦艦X4、軽巡X4を含む大部隊だった。
 敵への更なる接触を図った索敵機3機はそのまま消息を絶った。

 二航艦の福留中将は夜明けの出撃を下令した。
 誘導隊の「天山」艦攻8機と「瑞雲」水上爆撃機が先発した。
 午前6時半から、ルソン島中部の各基地から188機が発進した。
 制空隊(指揮官・小林実少佐)の「零戦」・「紫電」75機、艦爆隊
 (指揮官・江間少佐)の九九式艦爆38機、艦爆隊を護衛する直掩隊
 (指揮官・鴛淵孝大尉)の零戦51機が続いた。
 更に、別働隊として単機索敵攻撃の「彗星」艦爆10機が出撃し
 た。
 一航艦の「敷島隊」5名もこれに呼応して出撃した。
 敷島隊 爆戦隊: 関大尉、谷一飛曹、中野一飛曹、山下一飛曹
         長峰飛長 5名
     直掩隊: 松本勝正上飛曹、本多慎吾上飛曹、管川操飛長
         馬場良治飛長 4名
 前日、谷口飛曹長が負傷した為、直掩隊は替わっていた。

 この日もマニラは晴れていた。ところが、比島の東方洋上に出ると雨を含む雲が進撃路に立ち塞がり、視界が殆どない悪天候に変
わった。北東の偏西風がもたらすフィリピン特有の気象条件だった。その為、連日の特攻出撃も思うに任せない状況だった。
 この悪天候が机上の作戦計画を瓦解させた。
 艦爆隊を直掩する指揮官機がエンジン不調で艦爆隊から遅れ始めた。艦爆隊が速度を落としてもその差は開く一方だった。
 高速の制空隊は、艦爆隊とその直掩隊を残して更に距離を引き離して前進した。
 一体で作戦する筈の各隊はバラバラになってしまった。その各隊にしても悪天候で編隊を組むのが困難な状況にあった。
 米軍機は無線で連絡を取り合うが、日本の編隊では手信号の確認しか方法がなかった。荒天ではそれも通じなかった。
 そうした混乱の中、突然、制空隊と直掩隊は各々個別に米戦闘機の大群に襲いかかられた。列機に知らせることもできなかった。
 艦爆隊を護る直掩隊も空中戦に引き込まれ、艦爆隊は丸裸になった。どうする事もできなかった(誘導隊「天山」艦攻の永田徹郎大尉)
 江間少佐と第二大隊指揮官の松井清大尉の九九式艦爆も被弾して火を吹き、たちまち艦爆隊は半数を失った。
 制空隊・直掩隊にも大きな被害が出て、敵空母に到達する前に進撃を阻止されて、各隊は各々引き返した。
 制空隊指揮官・小林実少佐が戦死、二五二空戦闘三一七飛行隊は出撃24機の内23機が未帰還。1機が不時着した。
 不時着した斉藤少尉が漸くマバラカットに辿りついて、二五二空の飛行長・新郷英城少佐に報告すると「小林少佐を知らんか。秋
山大尉も帰って来ない。帰って来たのはこの一機だけだ」と暗然としていたという。

 ハルゼーの第38-3任務部隊は、日本の攻撃隊を迎撃して帰艦した戦闘機群を収容していた。
 午前9時半過ぎ、雲の上で機会を狙っていた別働隊の艦爆「彗星」一機が、空母「プリンストン」めがけて急降下投弾し、その飛
行甲板に250キロ爆弾を見事に命中させた。
 爆弾は格納庫に待機中の魚雷を装着してガソリンを満載した雷撃機の爆発を誘った。この誘爆が原因で後に沈没する。
 消火に横付けした軽巡「バーミンガム」もあおりを受けて損傷し、戦場から離脱した。
 この艦爆「彗星」は投弾後、対空砲によって撃墜された。搭乗員名は不明。別働隊「彗星」10機の内、5機が未帰還となった。
 たった一機の艦爆が空母一隻を沈め、軽巡一隻に損害を与えた。

 二航艦司令部は、性懲(しょうこ)りもなく、帰投して来た残存機を合わせて、午後1時50分から第二次攻撃隊を出撃させた。
 ガソリンを大量に吸いながらかろうじて帰還した江間少佐に代わって、深掘直治大尉が25機の艦爆を、鴛淵大尉が残存の零戦22機
を率いて発進した。早朝出撃した時の1/3以下の機数だった。
 洋上の視界は10キロしかなかった。敵の発見を困難と判断して、130キロ進出した地点で第二次攻撃隊は全機引き返した。
 福留司令部が計画した「昼間の編隊攻撃」は全て失敗に終わった。単機攻撃の「彗星」艦爆が挙げた戦果が唯一のものだった。

 一航艦の「敷島隊」は三度目の出撃だったが、この日も天候不良で関大尉以下が引き返して来た。

 深夜から翌未明にかけて、索敵機からサンベルナルジノ海峡沖に別の敵空母部隊が存在するという知らせを受けた。
 正規空母X1、軽空母X2、戦艦X2、軽巡X3、駆逐艦X16からなる「第38-2任務隊」だった。レガスピー東方沖に当たる。
 福留長官と参謀達は驚愕した。レイテ湾に明朝突入する栗田艦隊に直接脅威を及ぼすからである。25日未明に攻撃隊を発進させた。
 この新たに発見された敵を夜間に攻撃出来る兵力は、一式陸攻と陸上爆撃機「銀河」を合わせて20機ほどだった。
 一式陸攻12機は天候不良の為、目標を発見出来ずに引き返した。「銀河」8機は敵戦闘機の迎撃を受け、全機が未帰還となった。


 この日、シブヤン海に入った栗田艦隊は、朝から米軍機の波状攻
 撃を受けていた。約束された味方の航空援護は一切なかった。

 戦艦「武蔵」・重巡「妙高」が被爆して落伍、戦艦「大和」「長
 門」・駆逐艦「清霜」が被爆、軽巡「矢矧」が損傷した。

 小沢機動部隊は、24日12時頃にアメリカ機動部隊に向けた攻撃隊
 のうち、帰投したのはわずか3機で、既に攻撃力を失っていた。

 午後7時半、遂に巨艦「武蔵」がシブヤン海に空しく没した。
 満身創痍となった栗田艦隊は21時45分に「25日1時にサンベルナル
 ジノ海峡通過、11時レイテ突入予定」と打電した。

 明朝の栗田艦隊のレイテ湾突入に残る時間はなかった。二航艦の作戦失敗をみて、大西長官はダバオ第一、セブ、マバラカット各
基地の司令官に「明早朝、栗田艦隊のレイテ湾突入に呼応して、既に編成済みの体当たり攻撃隊の全機を発信させよ」と命じた。

 この夜、大西は「二航艦側も特攻作戦に協力してほしい」と要望した。
 本日の失敗にも拘(かか)わらず、福留は「大編隊による集団攻撃の正攻法でいく」という従来の主張を繰り返した。
 江間少佐が、血を吐く思いで訴えた旧式艦爆による昼間編隊攻撃の無謀さを歯牙(しが)にもかけていなかった。
 実戦で旧式艦爆隊がどのような運命を辿ったか、現実に対する認識は全くなかった。都合の悪いことには目をつぶり、甘い期待と
幻想だけを持っていた。

 特攻を指名されて、今日までの五日間、出撃しては引き返す関大尉は針のムシロに座らされていた。
 関大尉は、士官控所で他の士官と言葉を交わすこともなく、独り離れて腕を組み、じっと一点を凝視していた(上原定夫上飛曹)
 「25日の最後の出撃の日まで、関はほとんど一睡もしていなかった」(菅野直大尉→宮崎富哉、副島泰然軍医大尉の証言)
 死を決意した後の五日間の永い時間は、関に取って地獄の苦しみであったに違いない。
 「死ぬなら早く・・・・苦悩の時間を少しでも短くしたい」とは特攻生存者の赤裸々な言葉だった。
 強靱な精神力がなければとても耐えられない苦悩だった。他の特攻隊員達も同じだった。

 この日、戦闘三一一の大黒繁男上飛(丙飛十七期)が横山大尉の指名で「敷島隊」に加わった。

     

2

昭和19年(1944年)10月25日 「朝日隊」・「山桜隊」・「菊水隊」出撃 (ダバオ地区) 

 昨夜、大西長官から在ダバオの第六十一航空戦隊司令官・上野敬三少将に届いた攻撃要領は次の通り。
   一、明二十五日神風攻撃隊ハ左ニ依リ敵空母ノ索敵攻撃ヲ実施スベシ
     朝日隊  ダバオ第一基地 二八度ニ六三浬(かいり)、ニ九九度二七〇浬
     山桜隊  ダバオ第一基地 二五度ニ八五浬(かいり)、ニ九五度二五四浬
     菊水隊  ダバオ第二基地 二二度三〇〇浬(かいり)、ニ九〇度二四〇浬
   二、発進時刻 〇六三〇
   三、飛行機隊ハ「レガスピー」着後急速補給「マバラカット」ニ進出待機

 6時30分、ダバオ第一基地「朝日隊」はミンダナオ島東方海上に向け出撃した。
 出撃の際、水杯の儀式もなく、激励の言葉もなかった。
  朝日隊 爆戦隊: 上野敬一 一飛曹(20日指名)、磯川質男 一飛曹(20日指名) 2名
      直掩隊: 箕浦信光 飛長(丙飛15期)
       横山大尉は「もし敵空母を発見出来ない時はレガスピーに飛び、燃料補給の上マバラカットに帰投せよ」と命じた。

 6時30分、ダバオ第二基地「菊水隊」もミンダナオ島東方海上に向け出撃した。
  菊水隊 爆戦隊: 高橋保男 一飛曹(22日指名)、宮川正 一飛曹(大和隊より)、加藤豊文 一飛曹 3名
      直掩隊: 塩盛実 上飛曹 1名             ※離陸後に脚故障。基地に着陸。遅れて発進する「山桜隊」と共に出撃

 7時頃、ダバオ第一基地「山桜隊」はミンダナオ島東方海上に向け出撃した。
  山桜隊 爆戦隊: 宮原田賢 一飛曹、滝沢光男 一飛曹、藤本寿 一飛曹 3名 故障で引き返す(翌26日初桜隊編入→29日特攻死)
      直掩隊: 柴田正司 飛曹長、原田一夫 二飛曹 2名


「朝日隊」と「菊水隊」は第一、第二基地と別々に出撃したが、上空でほぼ同じ行動
 をとった。

 午前7時30分、レイテ湾南東沖で第七艦隊護衛空母群第1集団 "タフィ1"(護衛空母
 6隻、駆逐艦3隻、護衛駆逐艦4隻)を発見した。
 「菊水隊」と「朝日隊」の三機が急降下攻撃に入った。
 菊水隊の一機が護衛空母「サンティ」の飛行甲板に体当たりした。
 護衛空母「スワニー」を狙った一機が右舷側に体当たりした。他の一機は同艦の対
 空砲火で撃墜された。
 菊水隊の宮川、加藤一飛曹、朝日隊の上野一飛曹の三人だった(菊水隊直掩機・塩盛
 上飛曹の証言)


 遅れて出撃した「山桜隊」は "タフィ1"の上空に到達した。海面に重油が流れ、
 小型艦艇しかいなかった。
 空母を求めて北上を続けたが空母を見つけることができなかった。
 爆装一番機の宮原田一飛曹が索敵を諦めて爆弾を投棄して反転した。
 これを見た 直掩隊は攻撃失敗と判断し、レガスピー基地に不時着した。
 「菊水隊」高橋一飛曹も機体不調で単機でダバオにそのまま引き返した。
 然し、反転した爆戦隊はそのまま未帰還となった。復路で駆逐艦を発見したらし
 く、体当たりしたか、機銃掃射で攻撃中に被弾した可能性がある。



 「サンティー」は中破。戦死16名、負傷27名。2時間後に応急修理で戦闘に復帰。
 「スワニー」は後部エレベーターが使用不能の大破。71名の戦死者と82名の負傷者を出した。2時間後に応急修理で戦闘に復帰。

 「朝日隊」は目標地点でバラバラになる。爆戦の磯川一飛曹は天候不良で列機を見失い、グラマンに襲われて空中戦となった。
 それを振り切ってルソン島南東部に不時着。その時に機の脚を折った。直掩の箕浦飛長は機体不調で途中から編隊を離脱して不時
着(場所不明)した。この二人は別々にマバラカット基地に辿り着いた。磯川一飛曹が基地に辿り着いたのは約 1ヶ月後だった。
 上野一飛曹は単機の進撃となったが、「サンティ」又は「スワニー」に突入した一機とみられる。 


 特攻死 朝日隊: 上野敬一 一飛曹(甲飛10期)
     菊水隊: 宮川正 一飛曹(甲飛10期)、加藤豊文 一飛曹(甲飛10期)
     山桜楯: 宮原田賢 一飛曹(甲飛10期)、滝沢光男 一飛曹(甲飛10期)

 行方不明 朝日隊: 磯川質男 一飛曹 (甲飛10期)、箕浦信光 飛長 (丙飛15期)
         (後、二人とも生存して帰還)

    

3

昭和19年(1944年)10月25日 「敷島隊」出撃 (マバラカット) 

 基地は黎明から慌ただしく緊迫した空気に包まれていた。天候は思わしくなかった。
 二航艦の零戦12機(指揮官・春田三郎大尉)、彗星艦爆5機(指揮官・橋口又造大尉)の出撃準備が進められていた。
 午前6時50分、二航艦の通常攻撃隊が昨夜の索敵情報に基づき、レガスピー東方沖に向けて発進した。
 春田大尉の零戦隊、マバラカット東飛行場から深掘直治大尉の九九式艦爆隊X24機、バンバン飛行場から鴛淵(おしぶち)孝大尉が指揮
する零戦隊X35機、マルコット基地から爆装零戦隊X22機の合計104機が次々と出撃した。


 昨日退院したばかりの山本司令が松葉杖をついて見送りにきた。不自由な脚を
 引きづり、関や隊員に激励の言葉を掛け、固い握手を交わした。
 関は見送りの副島軍医大尉と固い握手を交わしながら「かならずやってきます」
 と言った。

 「敷島隊」は比島東岸を南下してレイテ島のタクロバン、ミンダナオ島東岸東方
 洋上の索敵攻撃に向かうよう指示されていた。
 爆装隊員は体当たりで必要がなくなった落下傘バンドを外している。
 これが「敷島隊」六人の最後の写真となった。
 
  関大尉(左端)以下六人の隊員に決別の辞を述べる山本司令(松葉杖の後姿)
   山本司令を介添えしているのは副島軍医大尉

   六人の隊員はどのような思いでこの山本司令の言葉を聞いていたのであろうか
   直立不動の姿勢に律義で純真な心が滲み出ている


 整備兵や同僚搭乗員達は各々の隊員を手伝って操縦席に着かせ「頑張って下さい」と声を掛けた。
 午前7時25分、爆戦隊が離陸を開始し、直掩隊がその後に続いた。既に「菊水隊」と「朝日隊」が突入している最中だった。
 初回出撃のような盛大な儀式はなかった。これが敷島隊五人の今生の別れとなった。



 敷島隊: 爆戦隊: 関行男 大尉、谷暢夫 一飛曹、中野磐雄 一飛曹、山下憲行 一飛曹※1、長峰肇 飛長、大黒繁男 上飛
                                                 6名(※15名)
      直掩隊: 西澤廣義 飛曹長※2、本多慎吾 上飛曹、管川操 飛長、馬場良治 飛長 4名
                     ※1 山下一飛曹機はエンジン不調で途中レガスピーに不時着。午後セブ基地に帰投
                     ※2 ラバウルで海軍の撃墜王と勇名を馳せた二航艦二〇三空の西澤飛曹長が直掩隊指揮官となった

 比島東岸を南下する敷島隊は、2時間を経過しても敵は発見できなかった。
 小沢機動部隊の囮作戦に誘われて、24日夕刻から、ハルゼー・第38機動部隊の三つの空母群は北に向けて進撃していた。
 日本側は何も知らなかった。既に存在しない敵を求めての出撃だった。
 栗田艦隊がサンベルナルジノ海峡を突破してサマール島東岸を南下中、米第七艦隊の"タフィ3"と偶然出くわした。
 栗田司令部はこれを正規空母※1部隊と思い込み、「大和」の主砲の出番が来たと小躍りした。タフィ3は護衛空母※2群だった。
                ※1 正規空母= 最初から空母の機能を前提に造られた航空母艦。攻撃力・防御力に優れる
                
※2 護衛空母= 商船などを改造して補助空母として造られたもの。日本では改装空母と言い攻撃力・防御力も弱い
                  搭載機も30機位で、対潜・対空哨戒、上陸支援、戦艦などの水上艦艇の直掩を任務とする。

 この情報がマニラの大西と福留に届いたのは「敷島隊」が発進をしている頃だった。
 福留長官は、既に進撃している攻撃隊の進路を南に変更して敵に向かわせようとしたが、九九式艦爆では距離が届かなかった。
 またしても二航艦の通常攻撃は無為に終わった。

「敷島隊」突入

 南下していた「敷島隊」は午前10時10分頃、サマール島沖で航行序列がバラバラになった栗田艦隊を発見した。グラマン戦闘機群
も確認された。関大尉以下の隊員には、敵機動部隊の攻撃に晒される栗田艦隊の危機と映った筈である。
 神風特攻の目的は、栗田艦隊のレイテ湾突入を成功させる為であった。
 隊員達の五日間の懊悩は想像を絶するものがある。自らに死を納得させるせめてもの願いは「犬死にしたくない」であったろう。
 午前10時45分頃、「敷島隊」は米空母群(タフィ3)を発見した。
 栗田艦隊の苦戦を眼下に見ていた彼らは、敢然と敵空母への攻撃を開始した。
 この時の特攻隊員達の心奥を知るべくもないが、自らの死と引き替えに栗田艦隊を救えるという思いが、理不尽な特攻命令への懐
疑を一瞬でも和らげてくれたのではないだろうか。

 彼らはレーダー探知を避ける為、海面すれすれの超低空で目標に迫った。目標の300〜900メートル手前から急角度で上昇し、高度1,800〜1,900メートルで切り返し反転して急降下の突入態勢に入った。
 米軍は全く彼らの接近に気がついていなかった。急上昇する日本機を見て慌てて対空射撃を始めた。
 二機の爆戦が「ホワイト・ブレーンズ」に向かった。一機は途中被弾して、進路を変更して「セントロー」に向かい、10時52分、
同艦の飛行甲板に激突した。「セントロー」は四回の断続的な大爆発を起こして11時23分に沈没した。戦死114名、負傷約400名。
 「ホワイト・ブレーンズ」に向かった一機も対空砲火に被弾しながら左舷艦尾に迫ったが、直前に海中に激突した。その大爆発で、同艦は小破した。
 別の一機は「キトカンベイ」を狙って急降下していた。機銃を乱射しながら艦橋を飛び超えて左舷外通路に突入し、機体は海に転
落した。爆弾は突入時に爆発を起こし同艦は小破した。
 他の二機は「カリニンベイ」に急降下していた。先頭機は対空砲火を浴びながら左舷飛行甲板に突入した(爆弾不発)。突入機はバ
ラバラに飛散して、そのガソリンで甲板は火に包まれた。その30秒後、二番機が左舷中央甲板に突入して大破。(以上、米軍記録)
 もう一機(直掩隊・管川飛長機)が同艦の左舷の海中に墜落した。六機の自殺機の内、目標を外れたのは一機のみと「ホワイト・
ブレーンズ」の戦闘記録に残る ( 直掩機を特攻機と間違えていた。各被爆空母の戦闘報告では、特攻機の機確認がまちまちだった)

 直掩隊・西澤飛曹長の報告によれば、10時49分に爆戦5機は一斉に上昇し、上空で二隊に別れた。
 関大尉に谷一飛曹が続き、直掩の管川飛長も二人の後を追った。他の一隊三機は各々に目標を定めて降下した。
 従って、「カリニンベイ」に突入したのは関大尉と谷一飛曹、それに対空砲火に撃墜された管川飛長だった。
 管川飛長は敵艦に接近して、敵の対空砲火を分散させることで関と谷の突入を成功させ、直掩の任務を全うした。



 特攻死 爆戦隊: 関行男 大尉(海兵70期)、谷暢夫 一飛曹(甲飛10期)、中野磐雄 一飛曹(甲飛10期)、長峰肇 飛長(甲飛10期)
          大黒繁男 上飛(丙飛17期) 5名
 特攻死 直掩隊: 管川操 飛長(丙飛15期) 1名



 この特攻々撃を最初に見た米兵は、爆弾だけを投下するものと思っていた。機体が激突したのは「操縦のミス」と判断した。
 ところが次々と行われる体当たり攻撃を目前にして「ただならない攻撃」であることに初めて気がついた。
 米軍にとっては信じられない恐るべき攻撃だった。

    


昭和19年(1944年)10月25日 「彗星隊」出撃 (マバラカット)

 25日当日に急遽編成された隊。出撃時間は午前8時頃(不明)出撃。
 彗星隊 彗星艦爆複座: 浅尾弘 上飛曹、須内則男 二飛曹 1機2名

 直掩機がいない為に詳細不明。「キトカンベイ」は11時前、敷島隊の一機の体当たりを既に受けている。
 「キトカンベイ」の戦闘報告によれば、11時10分、敵機15機が艦尾方向から迫る。同17分に迎撃戦闘機二機を発艦させる。
 11時23分、一機の「彗星」が艦尾方向から突入したが、対空砲火が集中して両翼が吹き飛び、爆弾も外れて海中に激突したとあ
る。時刻から見て、これが「彗星隊」と推定される。




 特攻死   浅尾弘 上飛曹(乙飛13期)
      須内則男 二飛曹(丙飛10期) 

              2名

    


昭和19年(1944年)10月25日 大和隊・二次出撃 (セブ基地)

 午前9時、「大和隊」出撃。
 大和隊(二次) 爆戦隊: 大坪一男 一飛曹、荒木外義 飛長 2名
         直掩隊: 国原千里 少尉、大西春男 飛長 「彗星」艦爆一機2名

 全員未帰還で詳細不明。「キトカンベイ」への二回目の攻撃を「大和隊」とする見方があるが、セブからの発進時間が正しいとす
れば攻撃までに2時間も掛かったことになり、飛行距離からして不自然である。又、キトカンベイの報告では「彗星」となっていて、被弾した時に爆弾が機体から離れたという。爆弾を抱えていたとすれば、大和隊の直掩・戦果確認の「彗星」とは考え難い。

 特攻死  爆戦隊: 大坪一男 一飛曹(甲10期)、荒木外義 飛長(丙飛15期) 2名
 特攻死  直掩隊: 国原千里 少尉(乙5期)、大西春男 飛曹長(甲飛5期) 2名

    


昭和19年(1944年)10月25日 「若桜隊」出撃 (セブ基地)

 午前11時40分、マバラカットからセブに到着。18時30分に出撃した。
 若桜隊 爆戦隊: 木村繁 一飛曹、中瀬清久 一飛曹、勝又富作 一飛曹、崎田清 一飛曹 4名 ( 帰投後、地上戦にて戦死)
     直掩隊: 新井耕平 上飛曹、日村助一 二飛曹 2名

 米機動部隊を発見できずに1名を除き帰投。

 


 特攻死 爆戦隊: 中瀬清久 一飛曹(甲飛10期)

 1名
 

    


特 攻 の 公 表

 特攻の第一号は学徒出身の久納好孚中尉である。その後、関大尉の「敷島隊」が突入する迄に少くとも8人が特攻死している。
 明確に確認された戦果でも、ダバオを発進した「朝日隊」・「山桜隊」・「菊水隊」の"タフィ1"の戦果が敷島隊より3時間早い。
 然し、「敷島隊」が特攻の最初として大々的に報道された。


 これには軍令部への報告電報の遅れなど、もっともらしい理由を言い訳にし
 ているが、例え電報が早く到着していても、海兵出身者が指揮する「敷島
 隊」以外を第一号にすることは絶対に無かった。関を指名した意味がなくな
 るからである。筋書きは13日までに軍令部で決まっていた。
 敷島隊以外の戦果確認に手間取ったという弁護説を多く見かけるが、全くの
 詭弁である。
 軍令部がそれだけ真実を追究していたとでも言いたいのであろうか。
 戦果の捏造など日常茶飯事で行っていた軍令部がである。

 神風特攻隊の中心は、予備学生と予科練出身の航空兵だった。
 隊員の構成からみても、海兵出身者の比率は極めて少ない。
 彼らにとって最も重要なことは、海兵出身者で占められる海軍指導層の対面を取り繕うことだけだった。 
 消耗品と見下していた予備学生や少年飛行兵に手柄を立てられたら、面子が丸潰れになるという歪んだ思考の結果である。
 関大尉はその生け贄だった。そうでないと言うなら、海兵出身者達を率先垂範として真っ先に特攻に出すべきであろう。
 国民への宣伝を達成した後、海兵出身者が特攻の指揮官で出撃することは殆どなかった。

 343空飛行長・志賀淑雄少佐(海兵62期)は、特攻に反対だった。「自分が行かずにお前ら死んでこいというのは命令の域じゃな
い、どうしても行けというなら特攻を要求する参謀を連れて長官や司令が自ら先に行くべきだ」との意見を具申した。
 こうした真っ当な士官達が少なからずいたことも確かである。然し、海軍中央や実施部隊の司令層が耳を貸す筈がなかった。

     

4
特 攻 戦 果

 特攻七隊の突入隊員 17名、直掩隊員戦死 3名が挙げた戦果は、護衛空母 X 1隻撃沈、中・小破 X 6隻、駆逐艦他 X 7隻であった。
 米軍記録 (日米の時間差に注意)
 21日: 豪州の重巡「オーストラリア」損傷。久納好孚中尉機か?
 23日: 軽空母「ブリンストン」が第二航艦の「彗星」艦爆一機による通常攻撃で大破。軽空母「バーミンガム」・駆逐艦「ガット
    リング」・「アイアウイン」は巻き添えで大損害。「ブリンストン」は後に米軍の魚雷で処分。(日本記録: 24日)
    艦隊曳船「ソノマ」・歩兵揚陸船「1065号」沈没。
    駆逐艦「ロイツ」・「アルパートWグランド」、油槽船「アシュタブラ」損傷。
 25日: 護衛空母「セントロー」に一機突入。後に沈没。
    護衛空母「サンティ」・「スワニー」・「キトカンベイ」に特攻機突入。大・中破。
    護衛空母「サンガモン」・「ペトロフベイ」・「ホワイト・ブレーンズ」に至近突入。小破。
    護衛駆逐艦「リチャードMローウェル」特攻機の機銃掃射により損傷。

5
栗 田 艦 隊 の 反 転 と 特 攻 の 継 続

 最初の特攻目的は「栗田艦隊」のレイテ湾突入を成功させる事だった。その為に、敵空母の甲板を一週間位使用不能にするという
時限的、緊急的な処置だった筈である。
 然し、驚くことに、その肝心な「栗田艦隊」は、特攻の嵐が一段落した12時36分、「レイテ突入を止め敵機動部隊を求め決戦」と
打電した。敵機動部隊を求めて反転し、北上を開始した。既に存在しない敵空母を求めての謎の反転である(謎の反転参照)
 この時点で、命を引き替えにした「神風特攻」の体当たり攻撃は一瞬にして水泡に帰した。
 本来、この日の特攻々撃をもって「統率の外道」である特攻を止め、作戦を再度練り直すべきであったろう。


 正午頃、敷島隊を直掩していた西澤飛曹長達三人が、戦場から近いセブ基地に帰投した。
 これが西澤達の命運を決めた。 
 硝煙の匂いを漂わせている西澤は、乗機を降りると直ちに中島飛行長に「敷島隊」の戦果を報告した。
 西澤は直掩という制限の中で、迎撃する敵の戦闘機を二機も撃墜しながら戦果確認という直掩の任務を全うし
 てきた。
 事態の重要性を悟った中島飛行長は、12時5分、一航艦司令部に緊急電を打った。

 ※ 翌日、中島少佐は撃墜王の西澤飛曹長の零戦を取り上げ、丸腰の輸送機に乗せてマバラカットに送った。その輸送機
   戦闘機に攻撃されて西澤は敢えない最期を遂げた。西澤
飛曹長に対する中島少佐の扱いは許されざるものだった 

 この知らせを受け取った大西長官は「・・・甲斐があった。・・・何とかなる・・・」と呟(つぶや)いた(副官・門司大尉の証言)
 大西は直ちに二航艦の福留長官と会った。そして、体当たり攻撃の採用を迫った。
 正攻法の失敗を繰り返した福留は、体当たり攻撃の戦果を目の当たりにして、さすがに何も反論出来なかった。
 大西は両者の司令部参謀たちを集め、第一基地航空部隊を編成し、福留を長官に、大西は参謀長になると宣言した。
 20名足らずの特攻隊員達が挙げた大きな戦果は、皮肉にも「特攻の組織的継続」を大西長官に固めさせた。

 大西長官の特攻継続を判断した過ちは、25日の戦果の冷静な分析を怠ったことにある。 


 第一神風特攻の成果は、以下のような条件に支えられていた。

 @ 相手が第七艦隊という旧式戦艦などに付随する防御力の弱い護衛空母群であった。
   米軍に取っては「体当たり攻撃」という予想もしない新手の攻撃法に戸惑った。
 A 敷島隊に限るが、超一流の護衛戦闘機隊の傘に護られていた。
 B そして何よりも、栗田艦隊の状況を眼下に納めた特攻隊員達の烈々たる士気に支えられていた。

 @は、間もなく米軍が防御体制を整え、空母群には戦果を挙げ難くなっていった。
 Aは、質・量ともに満足な直掩隊を付けることが出来なくなった。
 Bは、基地司令、参謀や飛行長達の理不尽な態度が隊員の不信感を募らせ、士気を低下させていった。
  士気の低下はそのまま戦果の結果に反映される。大西や福留達が最も懸念していたことである。  

 10月27日、第二神風特攻隊「忠勇隊」で直援・確認を務めた菅野直大尉が特攻戦果を中島飛行長に報告した。
 中島は「戦果が大きすぎる。何か勘違いしていないか、レイテへ行って本当に体当たりをしたのか、本当に目撃したのか」と言っ
た。特攻の戦果を期待もせずに、平然と特攻命令を下し続けた中島少佐の性根が図らずも露呈した言葉だった。
 この中島少佐の言葉は、特攻隊員を冒涜(ぼうとく)し、命がけで直掩した自分達への侮辱と菅野大尉は受け取った。
 激高した菅野は、腰の拳銃をそのまま5発、床に向けて発砲した。他の隊員たちも、あの言いぐさはないと憤っていた。
 こうした中島のような心ない司令や飛行長の姿勢が、やがて特攻隊員達の士気を低下させることになった。
 大西や福留が最も恐れたことが、現場で既に始まっていた(零戦搭乗員の会『零戦かく戦えり』文春ネスコ)
 特攻初期にはあった幾ばくかの厳粛な雰囲気も、現場司令や参謀達の特攻隊員に対する狂気とも言える非人間的な扱いに、隊員の
心は次第に荒廃して行った。(これは別に述べる)

 然し、特攻を命令する上司達への不信感を吞み込んで、満足な護衛戦闘機の傘も無い絶望的な状況の中で、特攻隊員達は祖国を信
じ、各々の思いを胸に抱き、次々と任務に殉じて征った。
6

特 攻 受 容 の 傾 向


 二○一空戦闘三○六分隊長・菅野直大尉(海兵70期)
 敷島隊の指揮官に関大尉が指名されていた時、菅野大尉は零戦を受領する為に内地へ出張していた。
 海兵同期の関大尉の話を聞いて「俺がいれば関の替わりに征ったのに」と残念がったと伝えられる。
 然し、菅野大尉自身は特攻には反対だった。
 菅野大尉のように、腕に自信がある熟錬搭乗員達は、概して特攻に否定的だった。
 体当たりしなくても、爆弾くらい命中させるという自信があったからだ。
 それに、生きていれば何回でも敵を攻撃出来るのに、一回の体当たりでその鍛え上げた戦力を一瞬にし
 て無にする非科学的な発想は到底納得できるものではなかった。極めてまともな見解だった。

 内地から帰還した菅野大尉は「俺の隊から特攻隊員を絶対に出さない」と公言した。
 その代わり、特攻機の直掩・戦果確認を務める際は我々も特攻精神でいくと、自身と部下が落下傘を装
 備することを禁止した。
 菅野は人間味に溢れた痛快な士官だった。逸話にこと欠かない(菅野直)。
 酒で特攻の憂さ晴らしをしている搭乗員宿舎に司令部から「やかましい」と苦情が来た。菅野は「明日の命も分からない搭乗員に何を言うか」と怒鳴
 り返して黙らせたこともあったという。

 後、フィリピンを転出して三四三空(剣部隊=源田実大佐、紫電改部隊)に配属された。菅野大尉は「特攻へは行かない」と周囲に話していた。
 二○一空で特攻を指揮した中島正少佐(源田の腰巾着)が三四三空の副長に着任した際、搭乗員から中島を忌避する声が巻き上がった。
 司令の源田としては、腹心の中島を呼び寄せたものの、飛行隊長や搭乗員に反旗を翻されたら自分の立場に傷がつく。
 菅野大尉が源田実司令に働きかけて中島を早々に神雷部隊へ転出させた。源田司令が簡単にその要求に応じたのは保身の打算からだった。
 一方、神雷部隊に着任した中島は、隊員に特攻の急降下攻撃法を得意になって講義した。中島が退席した後、「あんな方法では駄目だ。爆戦では角度
 20〜30の緩降下で行く」と隊員同士が話しあったという。
(源田実の虚像に関しては、ヘンリー境田『源田の剣』ネコパブリッシング に詳しい) 

 特攻が始まる頃の飛行搭乗員は大きく三つのグループに別れる。

 @ 熟錬搭乗員(海兵出身者、古参予科練出身者、一部の予備学生出身者)・・・・・ 特攻に否定的
 A 一般の予備学生出身者・・高等教育を受け、ある程度の状況を判断できた・・・ 特攻に懐疑的
 B 一般の予科練出身者・・・若さ故の純真さ、血気にはやる一途な思い・・・・・ 特攻の受容度が比較的高い

航 空 特 攻 受 容 度 の 一 般 的 傾 向
階  層 特 攻 受 容 度
備    考
特攻初期
特攻中期
特攻末期
 熟錬搭乗員  X
X X  関大尉、菅野大尉の意見に代表される
 予備学生
X X  知的教養から単純に納得できなかった 
 予科練習生


△・X  少年のひた向きな純真さに負う 

 海兵出身者が巾を効かす海軍では、予備学生や予科練出身者は物が言える環境に無かった。
 特攻に指名されたのは、この物言えぬ予備学生や予科練生達がほとんどであった。海兵出身者からは消耗品と罵倒されていた。
 彼等の特攻への受容度は、受けた教育、育った環境などで様々だった。
 国を護る一念から純粋に志願した者もいたし、生きて戦い抜きたいと思う者もいた。
 特攻を俄には受容し難い者は、懊悩の中で死の意味を模索し、「この祖国存亡の時に、死を恐れるわけではないが、未だ生きて戦
いたいと願う人間の本能のために、自分だけが特攻に志願しないことはとてもできたものではない」というある種の悟りにも似た諦
観から最終的に特攻に従った(三四一空紫電戦闘機隊、甲飛10期・海保博治一飛曹 20歳)。これが搭乗員達の平均的な結論だった。
 志願であれ、指名であれ、彼らの最後の願いは敵艦への「必中」であり、それなりに意味のある死だった。
 絶対に「無駄死に」だけはしたくなかった。従って、特攻の成功率の認識が、特攻受容の多寡につながった。
 ところが、特攻の中〜末期には、古い爆撃機、偵察機、練習機、下駄履き水上機、果ては複葉練習機まで投入された。
 これらに重たい爆弾を抱かせたら、敵に到達する前にどのような運命を辿るかくらい、誰の目にも明らかだった。
 出撃する特攻隊員達は「特攻するならもう少しましな飛行機にしてくれ」と悲痛な声を上げた

  昭和20年2月、横浜の富岡基地(教育隊)で九三式中間練習機(中練)による特攻隊員の募集を行った。この中練は昭和9年(1934年)1月末に採用され
  羽布張り木製の複葉機だった。飛行搭乗員の訓練用機体で、実戦に使えるものではない。
  最高速度210q、これに機体強度を超える250s爆弾を抱えると時速120qと車並の速度しか出ない。これを特攻機に使うというのである。


 先任分隊長が特攻隊員を募ったが、練習途中の技倆しか無いことと、「中練」が嫌で誰も手を上げなかった。先任分隊長は「誰もいないのか、誰も!」
 と蒼白な顔でどなった。一人の練習生がやっと手を上げて、バラバラと手が上がり始めて漸く全員の手が上がった。
 少年たちは「せめて
練戦で征きたい」と思った(高塚篤著「予科練甲十三期生」)。零式練習戦闘機
 2月8日には、同じ高岡基地で予備学生に対する特攻隊員の募集も行われていた(小野田正光著「学徒出陣」)

 整備員達は「こんな機体で特攻させるとは余りに可哀想でひどい」と泣いて隊員の出撃を見送った。どこにでもある風景だった。
 特攻を命じる指導層の驚くべき愚劣さ・理不尽さが周囲にも知れ渡っていた。特攻隊員の最後の望みすら罵倒した。
 特攻末期に、実質的に自ら志願する者がほとんどいなくなったというのは当然のことであった。


神風特別攻撃隊(2) に続く →



  「神風特別攻撃隊」の名称は、海軍の空中特攻のみに付けられたものである。 陸軍特攻、及び海軍の水中・水上特攻には
   如何なる場合にも使われない。尚、「神風」を「カミカゼ」と呼ぶが、海軍呼称は「しんぷう」が正式である。

   本項は、第一神風特別攻撃隊が出撃する10月25日までの経緯と、関連する二航艦の状況を主に述べたものである。
   26日以降の神風特別攻撃隊(「桜花」含む)、水中特攻「回天」、水上特攻「震洋」の概括は神風特攻(2)に述べる。
   特攻を立案・容認した軍の指導層や特攻を命令した現地指令などの功罪に関しては別に述べることとする。

    参考資料: 防衛庁「戦史叢書」※3 大本営海軍部・聯合艦隊(7)・南東方面海軍作戦(3)・海軍捷号作戦(1)・海軍航空概史、他
         押尾一彦著「特別攻撃隊の記録−海軍編−」光人社、金子敏夫
※1「神風特攻の記録」光人社、森史朗「敷島隊の五人」光人社
         森本忠夫著「特攻」、別冊1億人の昭和史「特別攻撃隊」毎日新聞社、「写真集・特別攻撃隊」国書刊行会、他
         ※1 猪口力平/中島正を意図的に擁護しているので注意 ※2 猪口力平/中島正などの記述は、自己正当化と政治的思惑が強く、
         信用できない 
※3 防衛庁「戦史叢書」も特攻を命令した側の執筆者が大半なので信用できない部分が多々あり

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