戦史に見る自己犠牲 | 陸軍特別攻撃隊 | 海軍特攻へ至る道 | 海軍神風特別攻撃隊 | 神風特別攻撃隊(2) | ホーム |
出撃直前の「白襷隊」
|
日本帝国陸軍は、鉄壁を誇るロシア軍の旅順要塞を攻めあぐねていた。 ロシアのバルチック艦隊の来襲が迫りつつあり、武器・弾薬で劣勢な陸軍に残 された時間はなかった。 中村歩兵第二旅団長の具申により、各部隊の志願兵から成る銃剣で夜襲をかけ る3,100名の決死隊が編成された。 夜間の味方識別の為に全員が白い襷(たすき)を掛けたので「白襷隊」と呼ばれた。 明治37年11月26日、壮絶な夜襲が決行され、ほぼ全員が散華した。 司馬遼太郎は「坂の上の雲」で、第三軍司令官の乃木希典を無能と言い、白襷 隊の突撃を無益な消耗と評した。果たしてそうであろうか。 第三軍に与へられた貧しい装備で、外にどのような代替え策があったかを見い 出すことが難しい。又、敵側ロシアの評価は違っていた。 |
廣瀬武夫少佐(死後に中佐)
|
帝国連合艦隊は、旅順湾港を母港とするロシア旅順艦隊(太平洋艦隊)の撃滅を企図した。 世界最強と謳われたバルチック艦隊と旅順艦隊が合同すれば、日本側が決定的に不利になるのが解っ ていた。 安全な湾内に留まる旅順艦隊に対し、水雷艇での奇襲や湾口への機雷の敷設を行うが、沿岸砲台で防 備された旅順湾内の艦隊には決定的な打撃を与えられなかった。 こうした状況から、バラストを積載した老朽船を旅順湾の入り口に沈める「旅順港閉塞隊」が志願兵 を募って編成された。救出策が講じられていたものの、生還率が低いと目された決死隊だった。 明治37年(1904年)2月24日、5隻の老朽船と77名の志願兵で第一次閉塞作戦を決行したが、沿岸砲台 の反撃により失敗。機関兵1名を失う。廣瀬武夫少佐も参加。 第二次閉塞作戦は3月27日未明、60名が分乗する4隻の閉塞船で決行。再びロシア軍に察知されて失敗 した。閉塞船「福井丸」を指揮した廣瀬少佐は脱出時に船内で行方不明となった杉野孫七・上等兵曹 の捜索に時間を費やし、脱出艇に移乗した時、敵弾に斃れた。信号兵曹、機関兵も戦死した。 |
第一次攻撃隊:183機(艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機)出撃 未帰還:9機 搭乗員:21名 空母「瑞鶴」「蒼龍」「飛龍」攻撃隊は全機帰着
|
第二次攻撃隊:171機(艦戦36機、艦爆81機、艦攻54機)出撃 未帰還:20機 搭乗員:34名 空母「瑞鶴」攻撃隊は全機帰着
|
← 米軍の礼を持って埋葬される飯田大尉の遺体 |
南雲司令部は、 @ 艦攻・艦爆を護衛(直掩)する零式艦戦が満足に付けられない (反論 @) A 陸上用爆弾での空母攻撃は効果が薄い (反論 A B) B 帰投した第一次攻撃隊の乗員を見捨てられない (反論 C) などを理由に、山口少将の具申を却下した。 ←左: 第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将(海兵36期) ←右: 航空参謀・源田実中佐(海兵52期) |
|
その時、護衛駆逐艦が爆雷攻撃を始めたので眼下をみると、米潜水艦から「松川丸」に向けて発射 された自く尾を引く雷跡3本を発見した。 石川機は隊長機に「ワレ攻撃ス」との合図を送ったあと急降下に移り、魚雷に向けて機銃掃射を続 けたが、三発目の魚雷に対して間に合わずと判断して体当たりを敢行し、「松川丸」に命中する直 前の魚雷爆破に成功した。(享年18才) それを目撃していた「松川丸」乗船の陸軍兵 1,300人と乗組員たちは涙を流し、散華した搭乗員を 拝んだという。 |
← 陸軍特別攻撃隊 戦史 ホーム | 神風特別攻撃隊(2) 海軍神風特別攻撃隊 海軍特攻へ至る道 → |
← Table of contents |
Meaning of a Guntō → |