戦史 特攻の系譜 0

特 攻・決 死 と 自 己 犠 牲 の 系 譜

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自 己 犠 牲

戦いにおける極限の状況下、「自らの判断と意思」により、進んで死を選んだ将兵の例は世界戦史の中に多く見受けられる。
古くは紀元前509年、古代ローマを護り抜いた若き門番のホラティウスが、19世紀のイギリスの政治家・歴史家のマカレーにより長編
の詩に謳い挙げられた。
ローマ王政最後の専制・傲慢なタルクィニウス・スペルブス王は、非道を犯した息子のセクストゥスの為にローマを追われた。
彼はエトルシアに助けを求め、エトルシア人はタルクィニウスに軍勢を与えてローマに進軍する。
ローマ市に攻め込むにはティベル川の上に架けられた狭い木製の橋しかなかった。
ホラティウスは自らが犠牲になってこの橋を落とし、タルクィニウス軍のローマへの進入を防ごうとした。



橋の上のホラティウス Horatius at the Bridge 』

       (ローマの)執政官は顔を曇らせ 声も重く、ただ壁を見つめたまま
      「 奴らは橋を渡って襲ってくるだろう。橋が奴らの手に渡ったら、もう街を救える望みなどどこにあろうか 」

      すると門の守り手ホラティウスは声をふりしぼって言った

      地上のあらゆる人間に遅かれ早かれ死は訪れる
      ならば、先祖の遺灰のため、神々の殿堂のため、強敵に立ち向かう以上の死に方があるだろうか
      かつて私をあやしてくれた優しい母親のため
      我が子を抱き乳をやる妻のため
      永遠の炎を燃やす清き乙女たちのため
      恥ずべき悪党セクストゥスから皆を守るため以上の死に方があるだろうか

      執政官どの、なるべく早く橋を落としてくれ
      私は、二人の仲間とともにここで敵を食い止める
      路にひしめく一千の敵はこの三人によって食い止められるであろう
      さあ、私の横に立ち橋を守るのは誰だ? 

( by Thomas Babington Macaulay トマス・バビントン・マカレー 長編詩の一部 ) 

ホラティウスは、彼の呼びかけに応じた若者と共に、敵の攻撃を食い止めるため、ローマの人々が橋を壊し、効果的な防御策を講じる
までの時間を稼ぐために、自らの命を捧げた。
この若者達は、2,500年の時を経て今も尚、歴史にその名を留めている。
第二次世界大戦中の英国首相ウインストン・チャーチルはこの詩を好んだという。

戦いの中で自らの犠牲を厭わず、家族、仲間や祖国を護ろうとしたのは殆どが「無名の人々」だった。
世界の各国では、こうした自己犠牲の兵士達を「英雄」として崇め、今も語り継いでいる。
 
1
日 露 戦 争 の 決 死 隊

白 襷 隊


出撃直前の「白襷隊」
 日本帝国陸軍は、鉄壁を誇るロシア軍の旅順要塞を攻めあぐねていた。
 ロシアのバルチック艦隊の来襲が迫りつつあり、武器・弾薬で劣勢な陸軍に残
 された時間はなかった。
 中村歩兵第二旅団長の具申により、各部隊の志願兵から成る銃剣で夜襲をかけ
 る3,100名の決死隊が編成された。
 夜間の味方識別の為に全員が白い襷(たすき)を掛けたので「白襷隊」と呼ばれた。
 明治37年11月26日、壮絶な夜襲が決行され、ほぼ全員が散華した。
 司馬遼太郎は「坂の上の雲」で、第三軍司令官の乃木希典を無能と言い、白襷
 隊の突撃を無益な消耗と評した。果たしてそうであろうか。
 第三軍に与へられた貧しい装備で、外にどのような代替え策があったかを見い
 出すことが難しい。又、敵側ロシアの評価は違っていた。
ロシア軍将校の証言
「 日本軍の驍勇堅忍(ぎょうゆうけんにん)なるや分を得れば寸、寸を得れば尺と・・・営々倦(う)まざること即ちこれをや日本軍の精気なり
と言わん。実に、この精気に強き日本軍が、精気の弱きロシア軍を屈服せしめたるなり。
余は敢えて屈服という。白襷抜刀決死隊の勇敢なる動作こそ、まことに余らをして精神的屈服を遂げしめる原因なれ。
この日の戦闘の猛烈惨絶なりしことは、もはや従来のロシア文学にはその適当なる修飾語を発見するを得ず。
・・・数千の白襷隊は潮の如く驀進して要塞内に侵入せり。総員こぞって密集隊・・・白襷を血染めにして抜刀の姿、余らは顔色を
変えざるをえざるなりき。余らはこの瞬間、一種言うべからざる感にうたれぬ。曰く、屈服。」(岡田幹彦著「乃木希典」より)
そして、レーニンは、旅順の陥落を帝政ロシアに対する回復不能の打撃と評価し、次のように述べた。
「ヨーロッパの軍事専門家は、旅順要塞はセバストーポリ要塞を六つ合わせた強さを持つという。イギリスとフランスの連合軍はこの
セバストーポリ要塞を落とすのに一年を費やしたが、彼の東洋のちっぽけな日本軍はこの六倍も強固な旅順要塞を数ヶ月で陥落せしめ
たのである」
 
敵のロシアは、旅順要塞を陥落させた(乃木)司令官を無能とは言わず、甚大な衝撃を与えた白襷隊の攻撃を無益とも言わなかった。

旅 順 港 閉 塞 隊


廣瀬武夫少佐(死後に中佐)
 帝国連合艦隊は、旅順湾港を母港とするロシア旅順艦隊(太平洋艦隊)の撃滅を企図した。
 世界最強と謳われたバルチック艦隊と旅順艦隊が合同すれば、日本側が決定的に不利になるのが解っ
 ていた。
 安全な湾内に留まる旅順艦隊に対し、水雷艇での奇襲や湾口への機雷の敷設を行うが、沿岸砲台で防
 備された旅順湾内の艦隊には決定的な打撃を与えられなかった。
 こうした状況から、バラストを積載した老朽船を旅順湾の入り口に沈める「旅順港閉塞隊」が志願兵
 を募って編成された。救出策が講じられていたものの、生還率が低いと目された決死隊だった。
 明治37年(1904年)2月24日、5隻の老朽船と77名の志願兵で第一次閉塞作戦を決行したが、沿岸砲台
 の反撃により失敗。機関兵1名を失う。廣瀬武夫少佐も参加。
 第二次閉塞作戦は3月27日未明、60名が分乗する4隻の閉塞船で決行。再びロシア軍に察知されて失敗
 した。閉塞船「福井丸」を指揮した廣瀬少佐は脱出時に船内で行方不明となった杉野孫七・上等兵曹
 の捜索に時間を費やし、脱出艇に移乗した時、敵弾に斃れた。信号兵曹、機関兵も戦死した。
廣瀬少佐はロシア駐在武官時代、ロシア海軍士官達との親交が深く、ロシア士官達に敬愛されていた。
そしてアリアズナというロシア人の恋人がいた。日露戦争がなければ二人は結ばれていたものと思われる。
廣瀬少佐がどのような思いで二度も閉塞作戦に参加していたか、余人には窺い知ることができない。

二回の失敗にも拘わらず、12隻もの閉塞船を用いた233名の決死隊により、最大規模の第三次閉塞作戦が5月2日夜に実施された。
然し、天候不順と陸上砲台からの迎撃で失敗する。この際、14名の士官と多数の准士官、下士及び卒が戦死又は行方不明となった。

決死の白襷隊の攻撃も、決死の旅順港閉塞作戦も、志願者を募って行われた。
軍は、長男を志願兵から除外する方針であった。しかし、家が断絶するのを覚悟の上で多くの長男である兵士達が志願してきた。
そして、彼らは祖国のために散っていった。

2
真 珠 湾 攻 撃 で の 決 死 と 自 爆


真珠湾フォード島に停泊するアメリカ艦艇を攻撃中の日本軍機
(画面中央右上と右上海岸線に沿って日本軍攻撃機二機が確認される。第一次攻撃隊の初期の模様)

真珠湾攻撃隊の航空機が被弾して帰投不能となった場合、ハワイ諸島のニイハフ島という小島が救助の集合点に指定されていた。
真珠湾から収容地点のニイハウ島まで約250kmある。この小島には航空機の不時着に適した平坦地があり、海岸線は直ぐに深い海となって救助の潜水艦が潜むのに適していた。不時着した飛行搭乗員をそこで潜水艦が収容する手はずとなっていた。

水中特別攻撃隊 特殊潜航艇(甲標的)
甲標的の研究は昭和7年から始まった。その後、用兵上の変更や試行錯誤の試作実験を繰り返していた。
日米関係の悪化に伴い、航空攻撃とは別個に運用目標が具体化した。
昭和15年(1940年)11月に制式採用され、34基の建造が命令された。
試験搭乗員の岩佐直治中尉と甲標的母艦「千代田」艦長の原田覚大佐はその実戦使用を連合艦隊司令部に再三働きかけたが、搭乗員の
収容に確実性がないとの理由で却下されていた。
風雲急を告げる昭和16年10月、攻撃後の乗員の収用法を講じることを条件に、真珠湾攻撃の特別攻撃隊として参加が認可された。
昭和16年12月8日、航空攻撃に先んじて、5隻の潜水艦(母艦)の甲板から発進した5艇の甲標的(乗員2名)は一路真珠湾を目指した。



発進時、羅針盤が故障していた酒巻少尉の艇は、真珠湾口近くで米・駆逐艦に砲撃され座礁。時限爆弾を作動させ、同乗の稲垣清二等
兵曹と共に脱出するが、稲垣二曹はその後行方不明、酒巻少尉は失神状態で海岸に漂着していた所を米軍に発見され、大東亜戦争での
最初の日本軍捕虜となる。
特殊潜行艇による真珠湾攻撃を立案した岩佐直治大尉以下9名の搭乗員と5艇全てが未帰還となった。



2002年8月28日、ハワイ海底探査研究所の潜水艇が真珠湾口の水深400mの海底に沈んでいた特殊潜航艇(甲標的)を発見した。
この甲標的は魚雷を発射していなかった。
軍事専門家で画像解析技師のピーター・フス氏らのチームが,攻撃を受ける真珠湾上空からの写真を四年を掛けて総合解析した.
その結果、特殊潜航艇によって戦艦「ウェストバージニア」と「オクラホマ」へ二発の雷撃が行われ、このうち「オクラホマ」はこの
特殊潜航艇による雷撃が転覆の原因との見解を発表した(2009/12/08【共同通信】これには更に調査が要るとの意見もある)



その後、マダガスカル島の攻撃、シドニー港攻撃、ガ島作戦でのルンガ泊地の攻撃など、泊地攻撃ではかなりの戦果を挙げて乗員の
生還率も向上したが、波の高い洋上運用での性能不備が搭乗員の不満を招き、後の人間魚雷「回天」の開発を促した。

空襲部隊



 第一次攻撃隊:183機(艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機)出撃
 未帰還:9機 搭乗員:21名
 空母「瑞鶴」「蒼龍」「飛龍」攻撃隊は全機帰着

 零式艦戦
 九九式艦爆
 九七式艦攻
 空母別
 赤城
1


1
 加賀
2

5 7
 翔鶴


1
1
 蒼龍




飛龍





3

6
9
 第二次攻撃隊:171機(艦戦36機、艦爆81機、艦攻54機)出撃
 未帰還:20機 搭乗員:34名
 空母「瑞鶴」攻撃隊は全機帰着

 零式艦戦
 九九式艦爆
 九七式艦攻
 空母別
 赤城

4

4
 加賀
2
6

8
 翔鶴

2

2
 蒼龍
3


3
飛龍
1
2

2+1

5 + 1
14

20

米軍の反撃体制が整った状況での第二次攻撃隊の被害は大きかった。被弾の状況は、火だるまになって墜落したもの、被弾しても暫く
飛行可能だったものなど様々であったろう。(は戦闘前の不時着機)
現在確認されている搭乗員の行動は以下の通り。(軍の階級: 一飛曹 = 一等飛行兵曹などはこちらを参照)

 ● 空母「赤城」第一次攻撃隊の第二制空隊(零戦)第一小隊二番機・平野崟一飛曹 (尾翼番号 AI-154)は、対空射撃で被弾。
   カメハメハ大通りの直上をかすめながら、カメハメハ要塞の兵器庫に突入した。

 ● 空母「加賀」第一次攻撃隊の雷撃隊(九七式艦攻)第二中隊第四十四小隊一番機・鈴木三守大尉は、敵艦への雷撃に成功、その
   まま敵艦に体当りした(享年27才)。

 ● 空母「蒼龍」第二次攻撃隊の第三制空隊第三中隊長・飯田房太大尉(尾翼番号 BI-151)は、カネオヘ海軍航空基地を銃撃した
   後、ベローズ陸軍航空基地を機銃掃射。再び、カネオへ海軍基地を攻撃中、燃料タンクに被弾した。飯田大尉は、隷下の第二
   小隊長・藤田怡与蔵中尉に燃料切れを意味する手信号を送り、列機に帰投方向を示した後、カネオへ海軍基地格納庫に向かっ
   て突入して行った(享年29才)。(藤田中尉の証言。燃料漏れではなく、別の理由を指摘する証言もある)

    
米軍の礼を持って埋葬される飯田大尉の遺体
   飯田大尉の四散した遺体は丁寧に収容され、12月8日 (現地時間)、カネオへ基地内に埋葬された。
   米軍の常識からすれば、被弾した段階で落下傘降下して生還できたにも拘わらず、格納庫に体当たり攻撃を図った飯田大尉の
   最期を見ていた米軍に理屈を超越した感動を与えた。その為、自爆の地に記念碑を建立してその勇敢な行為を顕彰した。
   地上に自爆したその他の日本軍搭乗員の遺体も各々丁寧に収容され埋葬された。

 ● 飯田大尉の二番機・厚見峻一飛曹は被弾して燃料漏れを起こし自爆。

 ● 同じく三番機・石井三郎二飛曹は空戦ではぐれ、帰投方向を見失ってニイハウ島付近で海面に突入し自爆した。
   単座戦闘機には航法士がいない為、洋上で単機はぐれると母艦への帰投方向を見失うことが多い。
   母艦に帰投無線の発信を要求できるが、それを要求した機は一機もない。

 ● 空母「加賀」第二次攻撃隊の爆撃隊(九九式艦爆)第一中隊第二十一小隊一番機・牧野三郎大尉は、敵艦に急降下爆撃を敢行、
   命中と同時に吹き上げた猛噴煙のなかに機影を没して未帰還となった(享年31才)。

 ● 空母「飛龍」第二次攻撃隊の制空隊(零戦)・西開地重徳一飛曹(尾翼番号 BI-120)はエンジン不調の為、ニイハウ島に不時
   着した。西開地一飛曹を匿った日系二世・原田義雄と共に原住民との間でトラブルが発生し、西開地一飛曹は殺害(又は自決)
   され、原田は自害した(このニイハウ島事件には諸説あり)。
   不時着した零戦はほぼ原型を止めていたが(下記左写真)、米軍が解体して調査の為に主要部品を持ち去った(下記右写真)

搭乗員収容地点に指定されたニイハウ島に不時着した西開地一飛曹の零戦は、落下増槽を着けたままだった(写真左)。
制空戦闘機は機体運動を軽快にする為、戦闘前に必ず落下増槽を投棄する。落下増槽を抱いていたという事は、明らかに戦闘行動に
入る前を意味する。即ち、オワフ島上空に到達する以前に何らかのトラブル(エンジン不調)を起こし、進撃途中に不時着したことは
ほぼ間違いない。従って、戦闘で被弾した不時着機とは区別して捉えなければならない。

特殊潜航艇の最大航続距離は25kmしかない。脱出搭乗員を収容する潜水艦を出すということで認可された特殊潜航艇ではあったが、生還の可能性はゼロに近いと考えられていた(海兵54期・中島親孝)
空襲隊の未帰還機は被害の状況が様々であったろう。被弾後にも飛行可能な空襲機は、落下傘降下もせず、ニイハウ島にも不時着して
いない(西開地機を除く)。確認された状況から判断して、被弾して母艦への帰投が不可能と判断した搭乗員は自爆の路を選んだ。
救出潜水艦、及び帰投無線を発した場合の母艦が晒される危険性などを避ける思いが搭乗員に強かったと思われる。
後の各海戦で、戦艦、巡洋艦などの水上艦艇から発進した水上機が、帰投着水して収容作業を行った場合の母艦又は救助艦艇が晒され
る危険性を避ける為、自ら犠牲となって海面に激突して果てた例がかなりある。

3
珊 瑚 海 々 戦 に 見 る 自 己 犠 牲

昭和17年(1942年)5月8日、珊瑚海で日本空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合国軍の空母部隊が激突した。
歴史上初めて航空母艦同士が戦った海戦である。



前日の5月7日午前、空母「翔鶴」の偵察機が「敵空母発見」を知らせ、第五航空戦隊空母「瑞鶴」・「翔鶴」から攻撃隊が発進した。それは空母ではなく駆逐艦と給油艦の誤報だった。艦攻隊は引き上げ、艦爆隊のみで攻撃を開始した。
駆逐艦を撃沈、輸送艦を大破させたが、その時、

 ● 被弾した九九式艦爆1機が輸送艦に体当たりした(後に米軍で魚雷処分=米軍記録)。

 翌8日早朝、空母「翔鶴」の索敵機(九七式艦攻、機長・菅野兼蔵飛曹長)は米・機動部隊を発見、正確な位置情報を発信した。

 ● 敵発見を打電して母艦に帰投中だった菅野機は、空母「瑞鶴」・「翔鶴」から発進した攻撃隊に遭遇した。
   それが味方攻撃隊と知るや、「ワレ敵機動部隊マデ誘導ス」と無電を発し、反転して攻撃隊の前方に出て誘導を始めた。
   増槽を持たない九七式艦攻で再び敵の艦隊まで誘導するということは、燃料からみて帰投不能を覚悟した上での反転だった。
   菅野機の誘導により日本攻撃隊は空母「ヨークタウン」・「レキシントン」への攻撃を開始した。
   菅野機は予想通り未帰還となった。米側の記録により、F4F戦闘機に撃墜された模様。

 ● 「レキシントン」攻撃中の「翔鶴」九七式艦攻(雷撃隊)の矢野機は被弾後、「レキシントン」一番砲塔の下部に体当たりし
   た。

 ● 上空直衛戦闘で機銃弾を撃ち尽くしていた「翔鶴」零戦隊の宮沢武男二飛曹は、米・雷撃機が空母「翔鶴」の直前に迫ってい
   るのを発見して、咄嗟にその雷撃機に体当たりして母艦への雷撃を阻止した(日本側証言記録)。
   然し、米側調査によると、その雷撃隊に該当機がなく、F4F戦闘機への体当たりをした可能性が高い。

この海戦で連合軍の損害が正規空母「レキシントン」沈没・「ヨークタウン」大破、日本海軍の損害は正規空母「翔鶴」大破・軽空母
「祥鳳」沈没で、戦術的には日本海軍の勝利に見えた。しかし、日本海軍は多数の航空機と熟錬搭乗員を失い、戦略的にはポートモレ
スビー攻略という当初の作戦目標を放棄せざるを得ない敗北だった。


4
ミ ッ ド ウ ェ ー 海 戦

早期決戦を目論む帝国連合艦隊は、米・空母機動部隊を誘き出す目的でミッドウェー島の攻略作戦を実施した。南雲忠一海軍中将率い
る正規空母四隻、後方に山本五十六連合艦隊司令長官座乗の新鋭戦艦「大和」を含む水上艦艇群を従えた大艦隊だった。
日本側は珊瑚海々戦の後でもあり、米国が動員する空母は軽空母を含めて2〜3隻と踏んでいた。
昭和17年(1942年)6月5日(日本時間)、索敵の結果、米・空母機動部隊は近辺に存在しないと判断して、南雲機動部隊は空母「飛龍」の
艦攻隊・友永丈市大尉を指揮官とする108機のミッドウェー空襲隊を発進させた(零式艦戦36機、九九式艦爆36機、九七式艦攻36機)
日本軍の暗号解読に成功した米軍は、攻撃対象をミッドウェー島と知り、同島の防御を固めた。
日本空母を発見した米軍は、同島配備の基地航空部隊を南雲機動部隊攻撃に向かわせ、直衛機隊は上空で日本軍を待ち伏せた。
地上部隊以外はもぬけの殻になった同島に日本空襲部隊は攻撃を始めた。この時、敵の対空砲火で友永指揮官機も被弾した。
日本空襲隊を迎撃した米軍機は、制空零戦隊にほとんど撃墜された。


地上攻撃を不十分と判断した友永大尉は「第二次攻撃ノ要アリ」と打電した。
友永隊の第二次攻撃要請の無電を受け、南雲司令部は魚雷を装備していた第一航空戦隊「赤城」・「加賀」の艦攻に対し、『第二次攻
撃隊ヲ編成セヨ。兵装ハ爆装ニ転換』と通知した。九七式艦攻のほとんどをミッドウェー空襲に出し、九九式艦爆しか残ってい
ない第二航空戦隊「飛龍」・「蒼龍」に対しては、爆装せずに待機するよう命じられた。

その頃、南雲機動部隊は米・攻撃隊の攻撃を受けていたが、直衛零戦隊に防御され、敵の攻撃はかろうじて回避した。
この間、帰投した第一次空襲隊は母艦上空で着艦待機をしていた。

ミッドウェー海戦の敗因を、米軍による日本の暗号解読に求める意見が多いが、それは理由の一つにしか過ぎない。
南雲司令部の奢り、油断があり、潜水艦の哨戒、偵察機による索敵などの重要施策は余りにも杜撰(ずさん)でお粗末だった。
投入する偵察機の数が少なく、一機が担う索敵放射角が広すぎて敵の発見を遅らせた。
偵察機を射出する重巡「利根」のカタパルト、通信機器の不具合など、日本の総合的工業水準の低さも露呈した。

南雲司令部の致命的な判断ミス

南雲司令部の命により、「赤城」・「加賀」では九七式艦攻の雷装を陸上用の爆装に換装を始めた。
この換装には約1時間半を要する大作業だった。
そうした最中、「利根」の偵察機から「敵機動部隊発見」の遅きに失した無電が入った。南雲司令部に切迫感はなかった。
「飛龍」の山口多聞少将は、第一次攻撃隊の収容を犠牲にしても「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」と南雲司令部に進言した。


 南雲司令部は、
  @ 艦攻・艦爆を護衛(直掩)する零式艦戦が満足に付けられない (反論 @)
  A 陸上用爆弾での空母攻撃は効果が薄い (反論 A B)
  B 帰投した第一次攻撃隊の乗員を見捨てられない (反論 C)
 などを理由に、山口少将の具申を却下した。

 ←左: 第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将(海兵36期)
 ←右: 航空参謀・源田実中佐(海兵52期)
 
航空戦の要諦は「拙速・先手必勝」の行動である。南雲司令部は空母航空戦の本質を全く理解していなかった。
南雲長官や参謀達(兵学校の机上優等生)は何の迷いも無く「教科書通り」の手順を踏んだ。この判断ミスが致命傷となった。
南雲司令部が挙げたこれらの理由は、判断ミスを糊塗し、自分達を正当化する為の後付けの言い訳だった。

南雲司令部の判断に対する反論
 @ 一刻を争う作戦では応用判断が求められる。Bとも密接するが、臨機応変な作戦が出来ない硬直した思考だった。
   「飛龍」攻撃で、米軍は護衛戦闘機無しでの艦爆隊を急遽発進させて「飛龍」を屠(ほふ)った
 A 防御装甲の弱い空母は、撃沈しなくても飛行甲板を破壊するだけで戦力を減殺できる。陸上用爆弾で充分だった。
   装甲した戦艦・巡洋艦攻撃、及び艦船の「撃沈」の固定観念に囚われ、何が重要かの応用判断ができなかった。
   これがエリートと称される司令や参謀の実態だった。
 B 戦闘に入る空母で最も危険なのは、甲板や格納庫に雷・爆装した艦載機を留めることである。
   被爆よりも、これらへの誘爆が空母の致命傷となる(戦訓より明らか)。一刻も早く艦載機を発艦させなければならなかった。
   この兵装転換による戦術ミスは、セイロン島沖海戦の時にも見られたが、過去の失敗を研究することもなく、戦訓を導き
   出して次の作戦に生かそうとしない日本海軍の硬直性が、同じ失敗を繰り返すことになった。
   勝敗の原因を直ちに分析して、次の戦術に生かすという米軍との大きな違いであった。
 C 空母に着艦させなくても、海面に不時着させて駆逐艦などで搭乗員は収容できる。
   最重要なのは機材ではなく、養成に時間がかかる搭乗員の救出である。

帰投した第一次攻撃隊の収容と兵装転換に時間を費やしている中、雲の切れ間から米空母「エンタープライズ」の雷撃隊11機が突如
「加賀」を目標に急降下して来た。直衛零戦隊が10機を撃墜し1機に損傷を与えた。
次いで、空母「ヨークタウン」の雷撃隊12機は、最前面に離れていた「飛龍」に攻撃を仕掛けた。これも直衛零戦隊が10機を撃墜し
2機を不時着に追い込んだ。これらの戦闘で、日本空母の直衛零戦隊はほとんどが低空に降りていた。
13分後、「ヨークタウン」と「エンタープライズ」の艦爆隊49機が南雲機動部隊に襲いかかった。
「加賀」と「蒼龍」は上空直衛・零戦隊の燃料と機銃弾の補給で発・着艦をしている最中で、艦載機は格納庫に収容されていた。
先ず「加賀」が、続いて「蒼龍」が被爆した。低空に舞い降りていた零戦隊は気づくのが遅れて手の打ち様がなかった。
3分後に「赤城」は、補給を終えた零戦を発艦させようとしたその時、米・急降下爆撃機の爆弾が命中した。
格納庫で作業中の艦載機のガソリン、魚雷、爆弾が誘爆して致命的な被害を引き起こした。B の懸念が現実となった。



瞬時に、正規空母三隻が被爆炎上した。それらと離れていた「飛龍」は攻撃を免れ、山口少将は「我レ航空戦ノ指揮ヲ執ル」と打電
し、直ちに第一波攻撃隊(零戦6機、九九式艦爆18機の計24機)を敵の攻撃に発進させた。
山口少将は更に準備を整えて、友永大尉を指揮官とする第二波攻撃隊(零戦6機、九七式艦攻10機)を発進させた。

 ※ 発進に先立ち、ミッドウェー島攻撃で友永大尉の乗機は片翼の燃料タンクに穴が空いていた。それを心配した部下は機体の
   交換を申し出たが「これで充分帰れる」と何事も無かったように平然と出撃して行った。
   重い魚雷を抱え、片翼だけに燃料を積んだ不均衡な機体の操縦は難しく、既に死を覚悟していたと思われる。
   友永隊は第一波攻撃で被爆しながらも鎮火していた「ヨークタウン」を発見して攻撃態勢に入ったが、友永機(三座艦攻 =
   同乗:赤松少尉・村井一飛曹)は敵の対空砲火に被弾した。
   黄色い尾翼の友永機は炎上しながら「ヨークタウン」の艦橋付近に激突自爆した(第二中隊第二小隊機の証言)
   この攻撃で「ヨークタウン」は大破して航行不能となった。後に「伊-168」潜水艦が魚雷で撃沈した。


「ヨークタウン」を撃破した飛龍第一波攻撃隊は艦戦3機、艦爆13機を失い、艦戦1機、艦爆5機が「飛龍」に辿(たど)り付いた。
第二波攻撃隊は零戦2機、艦攻5機を失い、損傷した艦攻5機、被弾した零戦4機(1機が不時着救助)が正午頃に帰投した。
「飛龍」の残存兵力は艦戦6、艦爆5、艦攻4、十三試艦爆(「彗星」試作機)1機に減少していた。
この間、炎上した三空母所属の零戦は「飛龍」に着艦し、交替で「飛龍」上空を守っていた。
山口少将は、損傷した帰投機の修理を待って、全機挙げての薄暮攻撃を準備していた。
午後2時頃、米・急降下爆撃隊21機が護衛戦闘機無しで「飛龍」の上空に到達した。
この内6機の艦爆が飛龍を狙って降下してきたが、迎撃の零戦6機が舞い上がり、「飛龍」の巧みな操艦で攻撃を回避した。
その直後、太陽を背にした別の艦爆機群が飛龍に襲い掛かり、遂に「飛龍」に4発の爆弾が命中した。



駆逐艦を横着けしての味方の必死の消化活動も、艦内誘爆を起こした為、夕刻には消化作業を中止した。「飛龍」は長時間漂流を続け
たものの、機関員との連絡が途絶え、自力走行が困難と判断した山口少将は、午後11時30分に総員退去の命令を発した。
駆逐艦「巻雲」は飛龍の雷撃処分を6月6日午前2時10分に行った。
山口少将は加来艦長と共に、沈む「飛龍」と運命を共にした
「巻雲」の魚雷が命中してから数時間後の午前6時過ぎ、「飛龍」は完全に海面から没した。



 ※ 総員退去の際、部下は再三にわたって山口多聞少将と加来止男艦長に対して退艦を懇請したが悉(ことごと)く拒否された。
   また、ある部下が帯同(殉死)を申し出ると、これも断固として許可しなかった。
   部下の健闘を讃え、天皇陛下に艦を失うことを詫び、部下達の退艦を穏やかに見送ったと伝えられる。

重大な失策で、基幹空母四隻、重巡洋艦「三隈」、艦載機289機、空母熟錬搭乗員110名、総計3,057名を一挙に失った。
人員の損失は独り戦った「飛龍」が最も多く、航空搭乗員の72名が戦死した。
責任を取るべき南雲長官や源田実などの参謀達は艦を見捨てて脱出し、身を捨てて戦った山口少将と「飛龍」の加来艦長は艦と運命を
共にした。
敵機動部隊攻撃に関して、南雲司令部と山口少将のどちらの判断が正しかったかは、海戦の結果が明確な答えを出している。
山本連合艦隊司令長官、主席参謀・黒島亀人大佐始め、南雲司令部も誰一人責任を問われなかったし、誰も責任を取らなかった。
生き残った彼らは敗戦の検証や反省をすることもなく、その後も再び要職を歴任した。
一方、健闘した生き残り搭乗員や一般将兵達は、敗戦を隠蔽する為に内地で隔離された後、各々が過酷な最前線に追いやられた。
無責任体質、卑怯な保身の為の秘密主義、硬直した人事など・・・昭和の軍の指導部は、無能と愚劣の路を突き進んで行った。


5
自 発 的 体 当 た り

陸軍では昭和18年(1943年)に入ると体当たり攻撃の必要性を訴える声が現地から起こるようになった。
当時、敵の大型爆撃機 B-17を迎撃するのは昭和16年に採用され、既に旧式化した一式戦闘機「隼」だった。
「隼」は海軍の零式艦上戦闘機(零戦)と同じエンジンを搭載する軽戦闘機だが、7o7の機銃二丁という貧弱な武装だった。
この非力な「隼」は、重武装の B-17には歯が立たず、例え全弾撃ち込んでも撃墜できなかった。
昭和18年3月初旬頃、ラバウルの陸軍飛行第11戦隊・上登能弘准尉は、「隼」の武装が非力の為、体当たり攻撃が必要と現地司令部に
上申している。二式単座戦闘戦「鍾馗」は国内迎撃用に使われ、18年制式採用の三式戦闘機「飛燕」の配備は遅れていた。



敵の戦闘機や爆撃機に性能・武装で劣る「隼」の搭乗員達は、敵の爆撃機を阻止する手段として体当たり攻撃しかないという悲壮な状
況に置かれていた。昭和17年採用の二式複戦「屠龍」は運動性能の悪さから専ら爆撃機専用の迎撃機となった。

 ● 5月上旬に同じ飛行第11戦隊の小田忠夫軍曹は「隼」を駆ってマダン沖で B-17に体当たりして戦死した。

 ● ビルマ方面の防空戦闘に於て、彼我戦力の量・質の差を痛感していた陸軍戦闘機隊は、一式戦「隼」をもって大型爆撃機 B-29
   に数次の体当たりを行っていた。飛行機への体当たりは一部破壊でも撃墜する可能性があり生還する余地も僅かながらあっ
   た。

   ビルマ方面陸軍第五飛行師団九七式双発重爆機隊の中隊長・西尾常三郎大尉の昭和18年11月9日の日記に以下の記述がある。
    十一月初以来ブニ(ママ)ーゲンビル島方面の戦況
   海軍の体當(たいあた)り彷髴(ほうふつ)たり 我當面する作戰に於ても正ニ体當りすべし、
   決死隊を募(つの)る事有らば正に第一番にすべし 國家の安危なり 生を求むべからず
   通信手も要(い)らず機関係も要らず 射手も要らず 五○○瓩(キロ爆弾)を懐きて計画的体當を用ふべし決行すべし

   西尾大尉はこの時すでに体当りする覚悟を固めていた。
   後に、西尾大尉は陸軍特別攻撃隊に志願、陸軍の重爆撃機による特攻「富嶽隊」隊長として特攻戦死した。

 ● 昭和18年(1944年)5月下旬、陸軍飛行第5戦隊長・高田勝重少佐はビアク島へ上陸した米軍攻撃のため二式複戦「屠龍(とりゅう)
   丙型4機に50kg爆弾2発を付けて出撃。敵艦船に全機が体当たり攻撃をしかけ、駆逐艦を撃沈した(戦隊長機の通信士1名が奇跡的に
   生還し、その最後の様子が明らかにされた)
。これは爆装戦闘機の体当たりで敵の艦船を沈める先駆けとなった。
   また、艦船攻撃に際し被弾して生還が望めない場合、敵艦に体当たりしていた例が多かったと語られている。

 ● 昭和19年(1944年)4月14日、陸軍飛行第二十六戦隊アンダマン派遣隊一式戦闘機「隼」の石川清雄曹長は、隊長機とともにアン
   ダマン諸島へ向かう陸軍輸送船「松川丸」(3,832t)の上空哨戒に当たっていた。
   
 その時、護衛駆逐艦が爆雷攻撃を始めたので眼下をみると、米潜水艦から「松川丸」に向けて発射
 された自く尾を引く雷跡3本を発見した。
 石川機は隊長機に「ワレ攻撃ス」との合図を送ったあと急降下に移り、魚雷に向けて機銃掃射を続
 けたが、三発目の魚雷に対して間に合わずと判断して体当たりを敢行し、「松川丸」に命中する直
 前の魚雷爆破に成功した。(享年18才)

 それを目撃していた「松川丸」乗船の陸軍兵 1,300人と乗組員たちは涙を流し、散華した搭乗員を
 拝んだという。
  
 ● 昭和19年(1944年)8月20日、中国・成都基地を発進した米軍の超大型爆撃機(B-29)61機が2回目の北九州・八幡地区を空襲し
   た。
   6月15日夜中〜16日未明の真夜中に行われた第一回空襲を夜間複座戦闘機の「屠龍」が迎撃した。空襲の被害は軽微だった。
   陸軍の「屠龍」は、海軍の「月光」と共に夜間迎撃の主力双発戦闘機だった。
   この時、「屠龍」は B-29より速度が遅く、20o(機種により37o)機関砲をもってしても B-29の撃破は容易ではなかった。
   高々度を飛行する B-29には高射砲も届かず、米軍は日本の迎撃態勢の不備を知り、2回目の空襲は夜間だけではなく昼間にも
   大胆に行われるようになった。「屠龍」で迎撃する搭乗員は、尋常な攻撃では阻止出来ないことを身に染みて解っていた。



   迎撃に出た陸軍第12飛行師団・飛行第4戦隊の二式複戦「屠龍」(操縦:野辺重夫軍曹、射手:高木傳蔵伍長)が北九州市折尾の上
   空で
一機の B-29に体当たり攻撃を敢行した。これが本土空襲で B-29に体当たり攻撃した最初だった。
   野辺機の体当たりにより、野辺機と被害機 B-29両機の破片が飛び散り、後続の B-29の尾翼に激突してこの機も墜落した。
   この後続機のパイロットは当時の米国大統領トルーマンの甥(おい)で、テニアン基地の航空中尉だった。
   この米軍中尉は落下傘で脱出したが、地上で日本軍に包囲されて戦死した。
   このことは米国内でも大きく報道され、戦略爆撃隊では日本の迎撃機「屠龍」を警戒せよの指示を出していた。



  
一年後、こうした背景が原爆投下で小倉に向かう B-29のパイロットに影響を与えていた。
   昭和20年8月9日、原爆搭載の B-29の攻撃目標は北九州の小倉だった。従来、小倉上空が雲の為、長崎に変更されたと言われて
   いるが、この日の早朝、下関市・小月基地の二式複戦「屠龍」2機が関門海峡上空3,000メートルを哨戒飛行していた。
   小倉に向かっていた
B-29この「屠龍」をレーダーで補足した。B-29は「体当たりの可能性あり,投下目標を長崎に変更」と
   テニアン基地に連絡した
。(戦後アメリカ戦略爆撃隊の追跡調査により判明)




以上、ここで述べた事は、確認された自発的自己犠牲の僅かな例に過ぎない。
大東亜戦争開戦の段階で、日米の国力の差は十数倍の開きがあった。
戦争が進む中で、物量の差、兵力などの質の差は絶望的に拡大して行った。そうした絶望的な劣勢を自らの肉体を犠牲にして少しでも
補おうとした日本将兵の姿が浮かび上がる。
陸・海・空の戦域で、多くの名も無き将兵達が各々置かれた状況の中で、家族や祖国を護る一念から、最善と信じる行動を起こして
散華した例は幾多もあった。

大戦末期、追い詰められた日本は「組織的特攻」に突き進んで行った。
「特攻」を考える時、統率(作戦)の外道と言われる組織的特攻を立案・容認した軍の指導層や、隊員に特攻を命令した現地指令などの
「特攻を命令した側」と、「特攻に身を投じた方々」は明確に分けて認識しなければならない。
特攻を実施させた側の功罪に関しては別に述べることとする。



2014年5月1日より
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