戦史 アッツ島の玉砕0

         ア ッ ツ 島 の 玉 砕    附: 辰口信夫日記

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戦 略 無 き 作 戦


元々、アリューシャン作戦は海軍が主導するミッドウェイ攻略の陽動作戦だった。
ところが、昭和17年6月5日、日本海軍はミッドウェイ海戦で大敗を喫し、アリューシャン作戦はこの時点で意味を失った。
山本五十六連合艦隊司令長官はアリューシャン作戦の中止を決定し、アッツ、キスカ両島に迫っていた第一次攻略部隊に反転命令を出
した。
ところが、第五艦隊指令長官細萱戊子郎(ほそがや ぼしろう)中将は万難を排してキスカ、アッツを占領すべきと強硬に進言した。
山本長官は細萱中将の進言を受け入れ、再びアッツとキスカの攻略部隊に攻略の急電を発した。
統帥部はアリューシャン作戦を「ミッドウェイの陽動作戦」として一時的占領しか考えていなかったから、初期の目的を失った本作戦
に何の戦略も持っていなかった。

かくして昭和17年6月8日、陸軍穂積部隊(独立歩兵第301大隊)がアッツ島に、キスカには海軍舞鶴第三特別陸戦隊が上陸した。
自国を占領された米軍は急遽アダックに航空基地を建設してキスカ島の空襲を始めた。
これに危機感を募らせた統帥部は占領後三ヶ月足らずで、穂積部隊にアッツ島を放棄させ、キスカ島の応援に向かわせた。穂純部隊は
構築中の陣地や施設を徹底破壊、一物も残さずアッツを後にした。
後のアッツ第二次攻略部隊(玉砕した山崎部隊)にとっては痛恨事となった。

統帥部は米軍の本格攻勢の気配に驚き、再びアッツ島の再占領を決定した。統帥部の方針は猫の目のように変わった。
占守島を守備していた米川中佐が率いる北千島第89要塞歩兵隊の主力は、10月30日アッツ島に上陸した。
日本から2,000キロ離れた北海の孤島への輸送は、悪天候と制空権の問題で大変困難であった。初めから解りきった話である。

終 始 臆 病 な 海 軍


昭和17年11月24日、セミチ島攻略の渡辺少佐率いる独立歩兵第303大隊は、第五艦隊護衛の下、幌筵(ほろむしろ)島の柏原を出航した。
セミチ島を目前にした28日、敵のB-24爆撃機一機が船団の上空に飛来した。
前日、アッツ島北海湾に入港中の輸送船チェリボン丸が、敵の爆撃によって沈没していた。
第五艦隊司令官は不安に駆られ、作戦を直ちに中止して反転、幌筵に帰投した。
富士川で水鳥の羽音に怯(おび)えて崩れ去った平家の故事にも似た醜態だった。複郭防衛構想は脆(もろ)くも崩(くず)れた。
その当時、北太平洋に米空母は一隻も存在せず、二流の北太平洋艦艇が僅かに遊弋(ゆうよく)するに過ぎなかった。

アッツ島沖海戦と輸送の挫折

昭和18年3月27日、第三次増強部隊と山崎部隊長を乗せた浅香丸・崎戸丸・三興丸の三隻の輸送船団は駆逐艦4隻を伴う重巡「那智」・「摩耶」、軽巡「多摩」・「阿武隈」の合計8隻からなる第五艦隊の護衛でアッツ島の直前に迫っていた。


第五艦隊  妙高型重巡の旗艦「那智」、「摩耶」も同型

早朝、4隻の駆逐艦を伴う米海軍の旧式重巡「ソルト・レーク・シティー」、老朽軽巡「リッチモンド」と遭遇した。
敵将マックモーリスは劣勢を顧みず、輸送船を狙って攻撃を開始した。近代海戦史上4時間半に渡る最長の砲撃戦が始まった。
アッツ島沖海戦 (別名コマンドルスキー島沖海戦)である。
海戦が始まって間もなく両軍は航空支援を打電した。米軍アダック基地は「キスカ爆撃準備中、爆装を対艦用に換装するのに時間を
要す」だった。日本軍幌筵の答えは「目下、貴官の要請に応える飛行機は無し」との返事だった。
戦闘海域には幌筵の方がアダックより100キロ近かったが、幌筵にとっては他人事の話だった。航空支援も想定していない作戦には何
等一貫性が無かった。杜撰(ずさん)な作戦内容がこの一事を以てしても明らかである。
戦力は第五艦隊が圧倒的に優勢だった。重巡「那智」が被弾したが、敵の重巡は魚雷での処分を要する大破だった。
敵の司令官は全滅を覚悟し、煙幕を張って身を隠した。ところが第五艦隊は突然踵(きびす)を返して幌筵に逃げ帰った。
旗艦「那智」の小破が気になり、米軍爆撃機が飛来するという誤判断に怯えたものである。
敵将は「全く思いがけなく敵は突然変進すると南方に遁走(とんそう)した。奇蹟だ」と、北太平洋艦隊司令長官キンケード提督は
「敵は間違い無く我が重巡を海底に葬ることが出来た。だが彼等は企図を放棄し我が艦隊はアダックに帰着した。この海戦は我が軍の
勝利に終わった。何故なら、これ以降、日本艦隊はアリューシャンへの遠征の挙に出なくなったからだ」と述べている。
米軍爆撃機が戦闘海域に到達したのは戦闘終了の3時間後である。
これがアリューシャン作戦を「万難を排して実行すべき」と主張した第五艦隊指令長官細萱中将その人である。
この無様で卑怯な行動は何なのか。
「万難を排した」形跡など微塵も無い。劣勢の米旧式艦隊と長時間の砲戦を交えながら決定打を与えられず、長蛇を逸して逃げ帰り、この海戦に怖れをなして二度と出撃しないとは・・・・帝国海軍の恥辱であった。
本来「軍法会議」ものの細萱中将は、重なる失態で予備役に編入された。
作戦上の損失は、一提督の更迭で済まされるような小さなものでは無かった。
軍事作戦の要諦は補給である。陸・海軍共に伝統的に「補給」の認識が欠落していた。
日本軍に戦術論はあっても戦略論が無いと言われる一つの例である。

三隻の輸送船の550名の増加部隊と大口径砲や必要物資もアッツ島に届く事は無かった。
アッツ守備隊長の山崎保代大佐が潜水艦でアッツに上陸したのは、実に米軍上陸直前の昭和18年4月18日である。
この時、北千島と北海道には増派予定の約5,700名の部隊と武器弾薬・糧食・資材が、望みの無い輸送を待っていた。

2

ア ッ ツ 島 の 現 状 と 米 軍 上 陸


アッツ守備隊は海軍の飛行場建設を最優先させられていた。工兵隊や建設資材が未着の中で、将兵達は雪と氷に覆われた堅い溶岩と
暴風雨に悪戦苦闘して飛行場の建設に全力を挙げていた。その為に防御陣地の構築も出来なかった。
統帥部は米軍の反攻を米本国に近いキスカだと思っていた。ところが米軍は空中偵察の結果アッツの日本軍を過小評価した。
アッツを先に奪還してキスカを孤立させる作戦を決定し、5月2日から、米軍は攻撃の重点をアッツ島に変更した。
強力な艦艇(戦艦・巡洋艦他)を差し向け、アダックの空軍と共に連日、山容が変わる程の艦砲射撃と猛爆撃を繰り返した。
大本営はこの間無為・無策であった。



5月12日、ヴラウン少将指揮の下、日本軍に5倍する11,000名の米軍が東部の南北から上陸を開始した。
日米初めての地上戦が始まった。ヴラウン少将は数日で日本軍を駆逐すると広言していた。
装備も防衛陣地も整わず、身を隠す場所もない溶岩の戦場で、日本守備隊は熾烈な防御戦を展開し、実に能(よ)く敢闘した。
上陸した米軍は殆ど前進出来ず、米軍の損害が増え始めた。
荒井峠の激戦では米軍の中隊長二人が戦死、他の中隊長二人も負傷して大隊は算を乱して退却した。
優勢だった米軍は何度も増援要請を出している。上級指揮官アール大佐が戦死するに至り、戦闘開始の6日目、ヴラウン少将は罷免さ
れた。日本守備隊が如何に善戦していたかが窺(うかが)える。
3
 大本営、アッツ島守備隊を見捨てる

山崎大佐の増援要請に、北方軍司令官樋口中将は腐心し、可能な支援策を陸・海軍の関係部署に迫っていた。
然し、戦闘開始7日目の5月18日、大本営は早々と「アッツ島放棄」を決定した。
海軍主導で始めた作戦なのに、海軍々令部は終始冷淡で臆病だった。
この日からアッツ島守備隊(北海守備隊第二地区隊)は「捨てられた軍隊」となった。
この決定は北方軍にもアッツ守備隊にも知らされなかった。
大本営が北方軍に「アッツ島放棄」を通告したのは5月20日になってからである。樋口中将は激怒した。
更に大本営は、作戦失敗の責任を逃れる為、責任転嫁の策略に北方軍を利用した。
アッツ島の放棄は大本営の失態を曝け出す事になる。
大本営は、北方軍ーアッツ守備隊の自発的発案に依る玉砕という筋書きを作り上げて北方軍司令官に圧力を掛けた。
日本守備隊が血みどろの戦いを展開している23日、北方軍司令部(札幌)でアッツ島守備隊に玉砕を命じる会議が開かれた。

北方軍はアッツ島守備隊に「・・略・・・軍ハ海軍ト協同シ万策ヲ尽クシテ人員ノ救出ニ務ムルモ地区隊長以下凡百ノ手段ヲ講シテ
敵兵員ノ燼滅(じんめつ)ヲ図リ最後ニ至ラハ潔ク玉砕シ皇国軍人精神ノ精華ヲ発揮スルノ覚悟アランコトヲ望ム」と打電した。
「放棄」を決定しながら「万策を尽くし・・・救出に努めるも」とは空虚と欺瞞に満ちている。
北方軍司令官は大本営に逆らえなかった。
アッツ守備隊は軍人精神など言われるまでもなく必死に戦っていた。大本営が万策を尽くした形跡は全くない。
軍人精神に悖(もと)っているのは前線に出ない統帥層である。こういう連中に限って、「軍人精神」や「武士道」を声高に叫ぶ。
自らは命の危険が無い安全地帯にいるから、実戦部隊の将兵達を平気で消耗品と考えていた。旧軍の病根がここにある。

山 崎 大 佐、 玉 砕 を 覚 悟

増援を要請した山崎大佐は、北方軍司令官の返電の「真意」を直ぐに理解して「国家国軍の苦しき立場は了承した。
我が軍は最後まで善戦奮闘し、国家永遠の生命を信じ、武士道に殉じるであろう」と返電した (樋口北方軍司令官回想禄)
増援を期待した山崎大佐の胸中は如何ばかりであったろうか。

大本営、天皇をも欺く

大本営の圧力により、北方軍司令官がアッツ島山崎大佐に実質上の玉砕命令を発した翌24日、参謀総長は参内して、アッツの戦況と
山崎大佐の覚悟を上奏した。大本営は自らの作戦指導の失敗を糊塗(こと)し、責任回避をする為に天皇をも欺(あざむ)いた。
参謀総長の上奏で、玉砕の覚悟を北方軍ーアッツ守備隊の自発的決意と受け取られた天皇は「アッツノ守備隊ハ非常ニ克(よ)ク寡兵(かへい)ヲ以テ勇戦奮闘シテ克クヤッテイル ドウカ北方軍司令官ニ克ク伝ヘヨ」と下命された(眞田参謀本部第一部長日記)
大本営がいくら糊塗しても天皇は大本営の作戦指導の失敗を見透かされていた。次の侍従武官の日記がそれを裏付けている。

(24日尾形侍従武官日記)
アッツの戦況を記した中「現地守備隊長、北方軍司令官共ニ最後ヲ完シ玉砕スヘキ悲壮ナル訓辞ヲ下シアリ 中央統帥ノ欠陥ヲ第一線
将兵ノ敢闘ヲ以テ補ヒ第一線ノ犠牲ニ於テ統帥ヲ律シアル実情トナリアリ 甚タ遺憾ナリ・・・」と大本営の失態を厳しく批判
している。天皇陛下側近の尾形侍従武官は陛下からその日聞かされた内容を書き留めたものである。

4

山 崎 部 隊、最 期 の 夜 襲 を 決 意


24日の天皇陛下の聖旨は直ちにアッツ島に打電された※1
                     ※1「参電第六八七號」24日22:00時アッツ受信、聖旨は絶望的戦況の25〜26日全線に伝達された
25日、アッツ守備隊から「二十五日早朝聖旨全線ニ伝達 全将兵感激其ノ極ニ達シ志気愈々軒昂タリ」・・・・との返電があった。
だが、日本守備隊には最後の時が近づきつつあった。兵員の消耗は激しく、弾薬・糧食は尽き果てていた。
キスカの北海守備隊28日の戦闘詳報には、アッツに関して「交信07:00以降途絶、状況不明。17:07感度良好ナル状況ニ於テ交信完了。爾後連絡不能ニ陥レリ 無線機破壊セラレタル模様ナリ」とある。
陸軍独立無線第十一小隊の無線機が破壊されたか、予備電池が底をついた。
只、アッツに分駐していた海軍・第五十一通信隊の無線機は健在だった。
アッツ守備隊からの交信は極端に少なくなっている。逼迫(ひっぱく)した戦況を物語る。
山崎大佐は残存兵力で持ち堪える限界を5月29日と判断し、最後の夜襲を決意した。
5
二 回 目 の 聖 旨 と ア ッ ツ 守 備 隊 最 後 の 無 電

29日朝11時、参謀総長が参内して上奏の際、陛下から24日に続き2回目の「将兵への御言葉」があった。
陛下はそれを「アッツに伝えよ」と参謀総長に命じられた。2回も御言葉を賜わるのは異例の事である。天皇のアッツ将兵に対する
御心が推察される。陛下も参謀総長もこの時点では、アッツ島守備隊が最後の夜襲をその日の夜に決行する事を知らなかった。
この頃、アッツ島守備隊は最期の時を迎えつつあった。山崎大佐は最後の無電を14時35分から4通発した。

戦闘詳報最後の無電 (1435※2海軍五一通発信完了。1930在キスカ北海守備隊本部受領)   ※2 凡例 : 1435=14時35分の意味、以下同様

一、二十五日以来ノ敵陸海空ノ猛攻ヲ受ケ第一線両大隊ハ殆ント潰滅(全線ヲ通シ残存兵力約一五○名)ノ為要点ノ大部ヲ奪取セラレ
   辛(かろう)シテ本一日ヲ支フルニ至レリ
二、地区隊ハ海正面防備兵力ヲ撤シ之ヲ以テ本二十九日攻撃ノ重点ヲ大沼谷地方面ヨリ後藤平敵集団地点ニ向ケ敵ニ最後ノ鉄槌ヲ下
  シ之を殲滅(せんめつ)皇軍ノ真価ヲ発揮セントス
三、五月二十九日、野戦病院ニ収容中ノ傷病者ハ其ノ場ニ於軽傷者ハ自身自ラ処理セシメ重傷者ハ軍医ヲシテ処理セシム 非戦闘員
  タル軍属ハ各自兵器ヲ採リ陸海軍※3共一隊ヲ編成 攻撃隊ノ後方ヲ前進セシム 共ニ生キテ捕虜ノ辱シメヲ受ケサル様覚悟セ
  シメタリ                                      ※3 飛行場建設で海軍参謀や海軍軍属112名が駐留
四、攻撃前進後無線電信機ヲ破壊 暗号書ヲ焼却ス
五、状況ノ細部ハ江本(海軍)参謀及沼田陸軍大尉ヲシテ報告セシムル為残存セシム※4     ※4 両名とも潜水艦を待ち侘びて自決 
六、最後ノ拠点トシテ「島原」(柳岡湾ヨリ駒ヶ嶽ニ至ル間)附近ニ拠ルモ一案ナルモ最早補給ノ途ナク且(かつ)狭隘(きょうあい)ナル地
  域ナルヲ以テ長期ノ持久ハ望ミ得サレハ之ヲ抛棄(ほうき)

北二區電第九二號 「五月二十九日決行スル当地区隊夜襲ノ効果ヲ成ルヘク速カニ偵察セラレ度 特ニ後藤平 雀ケ丘附近」
                                             (1840、海軍五一通ヨリ通報)
機密二九一四一○番電 「機密書類全部焼却 之ニテ無線機破壊処分ス」 (29日1410起案、1935海軍五一通経由ニテ受領)

北二區電第九一號 「従来ノ懇情ヲ深謝スルト共ニ閣下ノ健勝ヲ祈念ス」 (2110、海軍五一通ヨリ通報)

この第九一號電は、九二號電より前に発電されたが、解読受領が遅延。アッツ最後の無電は機密二九一四一〇番電であろう。
その事から推測してアッツ島の無線機は遅くとも夕刻迄には破壊されていた。
北二區電第九二號は、彼等を見殺しにした軍中央に対する山崎大佐の言外の抗議であった。
山崎大佐は、この地で果てた将兵達の無惨な姿を偵察し、確認する事を軍司令官に求めたのである。



アッツ島玉砕の圖  藤田嗣治 画伯

最 後 の 夜 襲


満足な武器も残っていない日本将兵達の最後の夜襲は凄惨だった。
軍刀と銃剣、それすら持っていない兵は棒きれをもって米軍陣地になだれ込んだ。
米軍前線は大混乱し、前線は300メートル後退した。キスカの海軍第五十一通信隊は三十日0153-0520の間、米軍の平文を傍受した。
暗号文も組めない米軍の混乱を表している。

    1.1時53分コールドマウンテン(獅子山)、サラナ(谷地)、マサッカル峠ヲ突破セラレタリ 
    2.3時40分出撃日本軍ハ約三百ナリ
    3.4時21分第二大隊ヨリ派遣サレタル第二捜索隊ハ千碼(ヤード)後退ヲ余儀ナクセラレタリ

この襲撃を受けて発狂した米兵も出た。痩せ細った日本兵の顔は幽鬼のようだったと米兵は証言している。
他の米軍資料では
「 日本時間29日22:30頃、アッツの戦いで最大の万歳突撃の一つが決行された。先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。右手に軍
刀、左手に日の丸を持っている。どの兵もボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。
最後の突撃というのに皆どこかを負傷していた。脚を引きづり膝をするようにゆっくり近づいて来る。我々アメリカ兵は身の毛をよだ
てた。一弾が命中して先頭の部隊長が倒れた。暫くするとむっくり起きあがり再た倒れた。
再た起きあがり一尺一寸と這うように米軍に迫って来る。再た一弾が部隊長の左腕を貫いた。
左腕はだらりとぶら下がり右手に刀と国旗とを共に握り占めた。
大きな拡声機で降参せい !  降参せい ! と叫んだが、日本兵は耳をかそうとはしなかった。遂に我が砲火が集中した 」。

この夜襲で尚生き残った少数の日本兵は散り々になり、自決する者、抵抗を続ける者がいて散発的戦闘は6月10日まで続いた。


最 後 の 夜 襲 ・日 本 軍 生 存 者 証 言

   三個隊が編成された。第一隊は元気な中隊。第二隊は負傷者で歩ける者。第三隊は野戦郵便局・建築隊などの軍属。
   二十時、故国に向かって「天皇陛下万歳」を三唱して夜襲を開始した。
   空腹と疲労にあえぐ人達とは思われぬ速さで進撃した。後藤平に向かった第一隊は遮二無二中央突破を強行。
   守備隊を見た米兵は、総てを投げ捨てて逃げた(米軍記録ともほぼ一致)
   十勝岳を突破した時は1/3以下に減耗。意識ある者は進み、倒れて前進不能な者は手榴弾で自決した。
   観武原に向かった第二隊は、中央を押し分けマサッカル湾を目指した。
   第一隊と第三隊の残兵が雀ヶ丘に達した時、米軍の重火器は全力を挙げて集中攻撃を加えて来た。
   30日の夜までに日本軍の組織戦闘は終わった。

昭 和 天 皇 と 届 か ぬ 電 波

アッツ島守備隊が最後の夜襲を決行している29日深夜、大本営杉山陸軍参謀総長と陸軍大臣は第二地区隊(アッツ守備隊)宛て「本二十
九日貴地区隊ノ奮戦状況更ニ上聞(じょうぶん)ニ達シ再(ふたた)ヒ優渥(ゆうあく)ナル 御言葉ヲ賜フ 恐懼(きょうく)感激ニ堪ヘス
今ヤ最後ノ関頭ニ立チ毅然タル決意ト堂々タル部署ノ報ニ接シ合掌シテ感謝ス 直チニ上奏スヘシ 必スヤ諸氏ノ仇ヲ復シ屈敵ニ邁進
セン 願クハ意ヲ安ンセラレ永ク北辺ノ守トシテ神鎮(しずま)リマサンコトヲ」と打電した。
                                              (5月30日04:40分、北海守備隊峯木司令官受信)
然し、キスカの受信時刻からみても、アッツの無線機は既に破壊された後であり、文面から、参謀総長も29日深夜に打電する時、既に
アッツ島の無線機が破壊され、最後の夜襲が決行されつつある事を知っている。
参謀本部は決して届くことがない無電を、深夜に何故、アッツに打電したのか ?
参謀総長はアッツ無線機破壊を夜になって知ったが、朝の上奏時、陛下のご下命があった為に打電せざるを得なかったからである。
陛下の二回に及ぶ異例の御言葉はアッツ将兵への陛下の思いであり、同時に、アッツを見捨てた軍指導部に対する陛下の厳しい叱責の
念でもあった。
それにも拘わらず参謀本部はアッツへの発電を半日間も怠る失態を犯している。
参内後、直ちに発電していれば、2回目の聖旨はアッツに届いていた可能性があった。
アッツを見捨てた参謀本部に戦況の切迫感は微塵も無かった。
この無電を知る術(すべ)もない将兵達は、電波が空しく流れる夜空の下で、祖国や家族に思いを馳せながら次々と斃(たお)れていった。


山崎保代大佐
陸士25期
僧籍に生まれ穏やかな指揮官だった


        霧に浮かぶ山崎大佐終焉地の碑                      碑 文

 碑文  アッツ島 第二次世界大戦 1943年
 日本の山崎大佐はこの地点近くの戦闘によって戦死せられた。山崎大佐はアッツ島に
 於ける日本軍を指揮した     
 場所 : エンジニアヒル(雀ヶ丘) クレバシー峠 
 第17海軍方面隊指揮官の命により建立した            1950年8月

玉 砕 の 後、 陛 下 お 言 葉 を 失 わ れ る

30日10時05分、参謀総長は宮中に参内して陛下にアッツ島玉砕を上奏した。「陛下からはご下問も何もなし」 (眞田日記)
悲惨な結末に陛下は言葉さえ失われたものと思われる。           陸軍少将眞田穣一郎(参謀本部第一部長、陸軍省軍務局長)


日本軍アッツ守備隊の評価と米軍に依る顕彰碑建立

この地上戦で日本人と日本軍がどのようなものであるかを米軍は思い知らされた。
米国従軍記者は「アッツ島の米軍は非常に困難な戦闘を続けているが、右作戦の経緯に徴(ちょう=証しを求める)しても米軍の太平洋反攻
作戦が如何に困難で長年月を要し且つ多大の犠牲を伴うかが明らかだ」と述べている。
重慶大公報の記事「日本軍は最後の一兵まで戦い抜く恐るべき軍隊だ」。

米軍は1950年8月、第17海軍方面隊指揮官の命に依り、山崎大佐終焉の地に碑文を設置して玉砕した日本将兵を顕彰した。

山 崎 大 佐 の 悲 願

「将兵の果てた姿を速やかに偵察するよう」要求した山崎大佐の最後の悲願すら実現する事は無かった。
日本人が山崎部隊将兵の変わり果てた姿を確認したのは、昭和28年7月になってからのことである。
凍土に埋葬された日本将兵は蝋人形の様な姿を留め、肉親であれば本人の識別が出来たと云われている。
実に10年もの間、祖国は、アッツ島に死にさらばえた将兵の悲痛な訴えに報いることがなかったのである。

アリューシャン作戦とは何だったのか
アッツ島玉砕の後、海軍は駆逐艦を総動員してキスカ島の撤収作戦を強行した。キスカで強行出来た作戦が何故アッツで実行出来な
かったのか。
又、米軍の反撃で、いとも簡単に中止してしまったアリューシャン作戦とは一体何だったのであろうか。
この一件をみても、海軍々令部の不可解さ、及び軍中央の戦略なき作戦指導の杜撰さが図らずも浮き彫りになっている。





6

元陸軍参謀・瀬島龍三氏回想録の疑問


元陸軍参謀瀬島龍三中佐は「幾山河」・「日本の証言」等に以下のアッツ島玉砕関連の著述をしている。
 
                        (要点のみ略記)
 
5月29日の夜中に、山崎部隊長から参謀総長あてに、次のような電報が届きました。
「こういうふうに戦闘をやりましたが、衆寡敵せず、明日払暁を期して、全軍総攻撃をいたします。
@アッツ島守備の任務を果たしえなかったことをお詫びをいたします。武官将兵の遺族に対しては、特別のご配慮をお願いします」・・・  と結び、アッツ島の部隊は玉砕したわけです(日本軍の最初の玉砕)
翌日(30日)九時に、参謀総長・杉山元帥が、このことを拝謁して秦上するので私はお供をして参内いたしました。
別室に待機していた私は参内が終わった参謀総長と一緒に車に乗りました。
A御下問のお言葉と参謀総長のお答えを伺い記録として整理することが私の任務ですから、「閣下、本日の奏上はいかがでありましたか」 とお伺いしました。
そうしたら、杉山元帥は瀬島、役所に帰ったら、すぐにアッツ島の部隊長に電報を打て」と、いきなりそう言われ た。
それを聞いて、アッツ島守備隊は、無線機を壊して突撃してしまったということがすぐ頭に浮かんで、「閣下、電報を打ちましても、残念なが らもう通じません」 とお答えした。そうしたら、元帥は『たしかに、その通りだ。
Bしかし、陛下は自分に対し「アッツ島部隊は最後までよく戦った。 そういう電報
を、杉山打て」とおっしゃった。
だから、瀬島、電報を打て』 と言われた。

その瞬間、ほんとに涙があふれて…。母親は、事切れた後でも自分の子供の名前を呼び続けるわな。陛下はそう言うお気持ちなん
なあと、そう思ったら、もう涙が出てね、手帳どころじゃなかったですよ
(「幾山河」・「日本の証言」)
C役所へ帰ってから、陛下のご沙汰のとおり、「本日参内して奏上いたしたところ、天皇陛下におかせられては、アッツ島部隊は
最後までよく戦ったとのご沙汰があった。右謹んで伝達する」 という電報を起案して、それを暗号に組んで、もう暗号書は焼いてな
いんですが、船橋の無線台からアッツ島のある北太平洋に向けて、電波を送りました(「日本の証言」)
D私は、帰庁後直ちに電報を起案し、アッツ島に向け発電したが、普段だと約三十分後には電報受領の返電がくるのに、このとき
現地から何の応答もなかった。この旨、電話で侍従武官へ報告した
(「幾山河」)。    @ーDは検証文を引用する為に付加した

瀬 島 氏 の 著 述 を 検 証 す る

防衛庁防衛研修所戦史叢書を基に@ーD著述の基本的疑問点を以下に述べる。
@アッツ守備隊は部隊未完結の中、米軍が驚嘆する程敢闘した。アッツ守備隊には任務未達を詫びる筋合いなど無い。
  戦闘序列は北方軍(札幌)→北海守備隊(キスカ)→第二地区隊(アッツ)である。
  アッツ守備隊の報告は序列上位の北海守備隊司令官宛てとなる。
  従ってアッツから参謀総長宛てに直接打電する事はあり得ない。瀬島氏が述べる主旨の電文は公刊戦史の何処にも見あたらな
  い。

A瀬島参謀の任務を記している。かかる重要な話を何故記録に残さなかったのか ?
  30日の眞田第一部長の日記には「陛下からはご下問も何もなし」と記録されている。「ご下問なし」が普通の表現であろう。
  「何もなし」との追記は意味深長で、参謀本部は陛下の叱責がある事を覚悟していた節がある。陛下から何もお言葉が無かった
  為に思わず「安堵」が言わしめた言葉であろう。
  併せて、玉砕後のこの日、陛下からアッツへの聖旨打電のお言葉も無かった事を証明する。
  又、陛下の重要なご下命を、直属上官の眞田部長に内密にする理由などない。
ABは、陛下の感動的な玉砕秘話として本やWebなどに引用されている。然し「陛下からはご下問も何もなし」という眞田少将の日
  記の整
合性をどう説明するのか。どちらに信憑性があるだろうか。
CD「聖旨」は通常電文より重要に扱われる。キスカの北海守備隊本部には、30日〜31日にこの電文を傍受した記録が無い。
D瀬島参謀は遅くとも29日夜にはアッツの無線機破壊を知っている。この表現は明らかにおかしい。
  又、アッツ・キスカと内地の送受信には、電文起案→暗号化→発電→受信→暗号解読→電文確認に凡そ5時間を要している。
CDは同じアッツ向けの発電の事を言い乍ら、内容が全く矛盾している。著書が違うと内容も違う。


瀬島氏の虚構を糺す 「陛下の感動的な玉砕秘話」

@ーDを総合すると瀬島龍三氏のアッツ島回想、特に玉砕後(30日)の「陛下の感動的な玉砕秘話」は作り話と断定せざるを得ない。
統帥部の無策で犠牲となったアッツ島の悲劇を皇軍真髄の美談にすり替え、国民の視点を逸らせる意図が見え隠れする。
玉砕後の30日朝「それでも電報を打て」との陛下のお言葉は、参謀本部の筋書きの最後を飾るに必要な創作だったと推測する。

統帥の責任を回避し、陛下の温情を隠れ蓑にして参謀本部への批判を躱(かわ)す巧みな構図が浮かび上がる。
エリート官僚とはそういう能力に長けていた。
民間人になった戦後も尚、自己保身の為に虚飾を続けなければならなかったのだろうか。

仮に、瀬島氏が29日の陛下への上奏を30日と勘違いしたとすれば、帰りの車中での感動的な会話が全くの嘘だという事になる。
29日朝の上奏時、誰もその日の最後の夜襲を知らなかったからである。アッツ最後の無線を確認したのは夜7時半過ぎであった。

戦後、輝かしい経歴を持つ瀬島氏は、ソ連の侵攻時、本来守るべき満州の邦人居留民を真っ先に見捨てた関東軍の参謀だった。
生きて虜囚の辱めを受けずという「戦陣訓」を庶民兵・学徒兵、軍属にまで強要した軍指導者達は敗戦でおめおめと生き残った。
ソ連の捕虜となって自決もしなかった瀬島氏には、生き永らえた弁を是非聞かせてほしかった。
同氏には、天皇宛てルーズベルトの親電隠匿事件、台湾沖航空戦の虚報戦果訂正電報握り潰し事件、ソ連抑留密約などの数々の疑惑がある。
極東軍事裁判ではソ連側証人として日本側に不利な証言をした。「不毛地帯」(山崎豊子)の主人公とは違う側面である。

官僚は権力を行使するが責任は取らない。責任回避と自己保身が何よりも優先する哀しい習性を持っている。
アリューシャン作戦だけを見ても高級軍事官僚の無責任体質が浮き彫りになる。
今日、歴史の教訓は果たして生かされているのであろうか。



(瀬島龍三回顧録等の著述内容は 鳥飼行博研究室サイトの管理人様にご教示戴いた)




  2013年9月12日より(旧サイトから移転)
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