日本刀の考察 刀と日本人4
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三笠艦橋の図と東郷海軍大将
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海軍長剣「吉房
」
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東 郷神社
日本海々戦の図(東城画伯)
先頭は戦艦「三笠」主砲発射の瞬間、水柱は敵の着弾
明治38年5月27日、日本海々戦・戦闘開始直前の帝国聯合艦隊旗艦「三笠艦橋の図」
東城鉦太郎画伯作(三笠保存会所蔵)
中央、左手に長剣を突いて立つのは帝国聯合艦隊司令長官東郷平八郎海軍大将。刀身は「一文字吉房」。
戦闘中、砲弾と水飛沫
(しぶき)
を浴びながら、東郷司令長官はこの位置を一歩たりとも動かなかったといわれている。
強大なロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ日本将兵の決死の奮戦は、世界海戦史に例を見ない完勝で終わった。
この勝利により、日本は国家存亡の危機を救われた。
「三笠艦橋の図」は、艦橋にいた記録魔の「三笠」艦長伊地知大佐が、各艦への伝達を終わった「Z信号旗」(皇国ノ興廃此ノ一戦ニ
在リ各員一層奮励努力セヨ )が降下されつつある戦闘開始直前の午後1時57分頃、艦橋上の各将兵の位置を正確に書き留めた記録を元
にしている。
後に、東城画伯は東郷大将を始め各士官にその時の姿勢を取ってもらい、その構図を細密写生、尚且つその姿勢を写真に撮り、実際の
戦闘海域まで赴いて研究した結果、この大作(六尺X四尺)を完成した。
この時最上艦橋にいなかった二人の士官を記念になるから加えようという意見が出たが、伊地知艦長は「自分の記録に誤りが有れば別
だが、そんな事をしては画の価値が無くなる」として頑として受け入れなかった。
それ程事実に重きを置いた絵である.。
決死の大海戦を控えて、艦橋上の士官が矜持の為の長剣を佩用していないのは、最上艦橋には大きな羅針盤(絵の中央やや左の釣床で囲われた物)があり、鉄類が近づくと誤差を生じる為、士官の長・短剣や信号兵の短剣まで、最上艦橋に上がる時は戦闘中も下の艦
橋に置いておくのが慣わしだった。
然し、そうした慣例の中で、東郷長官は一人長剣(刀身: 吉房)を握りしめている。決死の覚悟の顕れと思われる。
この「一文字吉房」は、日本海々戦の前年、黄海々戦(l旅順口閉鎖作戦)時、東宮殿下=後の大正天皇から東宮武官を通じて旅順沖で作
戦中の「三笠」艦橋上で東郷大将に下賜された御物。
これを両手握りの長剣外装に仕込んで佩用した。
「一文字吉房」は700有余年前(建保年間1213年〜)の吉房の作。
後鳥羽上皇が水無瀬の離宮に全国の名刀匠を集められ、御番鍛冶として御前で作刀を命じられた。上皇自ら作刀された太刀には菊紋が
入り、御番鍛冶には「一の字」が許された。 その為、「一文字吉房」と称す。
武器の整備が急がれる時代の背景から、御番鍛冶の鍛った太刀は実戦用の実用本位の業物で、後の世の儀仗化した刀や鑑賞美術刀など
の刀とは異質の物であった。
(定期刊行誌「東郷」昭和49年5月号より、聯合艦隊参謀飯田久恒少佐=絵では左隅ラッタルを登ってきている人物(後に海軍中将)の掲載文引用)
帝国連合艦隊は、強大なバルチック艦隊に対し、捨て身の肉迫攻撃を展開した。
艦隊決戦に、長剣(軍刀)は無用であった。
然し、近距離砲戦は艦隊の白兵戦である。その為に武士の魂たる日本刀は手放せなかった。
近代戦に軍刀を携えた事は、武人としての心意気、洋夷を滅する日本刀を携える事で己の「大和心」とした。
日本刀を握りしめ、国難に死を賭して立ち向かう武人の姿は国民に深い感銘を与えた。
東郷海軍大将を聖将にした要因の一つは、「三笠」艦橋に軍刀を握って立つその姿に、国民は武人の典型を見ていたからである。
士官軍刀の意義はここに定まったといってよい。
これは明治人の大多数の日本刀観であったろう。この感覚は大東亜戦の終結まで続くことになる。
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東郷平八郎海軍大将
(後に元帥府に列せらる)
佩用の長剣「吉房」
「三笠艦橋の図」で描かれている大変貴重な長剣現物外装写真(東郷神社所蔵)
刀身(重文)は東郷神社から「刀剣博物館」に委託保管されている
この長剣の外装と刀身は
海軍長剣「吉房」
参照
2
東 郷 神 社
東郷神社
東郷神社を表敬参拝したチリ海軍士官達 →
全士官が指揮・儀仗刀を佩用している。各国海軍の表敬参拝は現在も絶えることが無い。「Admiral Tōgō」が世界の海軍から崇敬され
ている事の確かな証である。
(「三笠艦橋の図」、刊行誌「東郷」及び「長剣外装」写真は「東郷会」野尻勝馬様ご提供 )
2013年9月21日より
(旧サイトから移転)
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