日本刀の考察 刀と日本人2  0
戦国〜昭和時代

刀 と 日 本 人 2

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戦 国 時 代 

応仁元年(1467年)足利八代将軍義政の時、10年に亘る大乱が起こった。これを契機に下克上の戦国時代が始まった。
源平時代の集団戦では何より弓矢であり、次いで実用の武器は薙刀(なぎなた)だった。
騎馬戦や地上から騎馬武者を斬り伏せるにも薙刀が太刀より遙かに効果的だったと思われる。南北朝時代の長巻きも同様である。
戦国時代の中期、長篠の合戦(1575年)で、鉄砲が合戦で実用化され、織田信長は最強といわれた武田騎馬軍団を打ち破った。
鉄砲は集団戦の画期であった。戦の主武器は槍と鉄砲に移行した。
薙刀や長巻はそれまで有力な武器であったにも拘わらず簡単に姿を消した。小振りな薙刀のみが女性用の武器として残った。






         薙刀を持つ騎馬武者(細川澄元像)              槍を持つ騎馬武者(山内一豊像)

武器としての太刀は集団戦の脇役となり、個人の守護・護身刀の色合いを強めた。
集団戦で脇役の太刀は、それでも平時の武将が常に身に帯びる重要な武器であることに変わりはなかった。
武将・武士達は太刀に固執した。武士達は決して太刀を手放そうとはしなかった。一廉(ひとかど)の武将は歌を詠み、能や茶の湯で花を
識っていた。
神仏への思いも重なってそれらの心が太刀を単なる武器ではない存在にさせた。武将達はそれに相応しい太刀を求めた。
鎌倉武士の心か、後鳥羽院の心かは偏(ひとえ)に武将の素養による。
そこには抜き難い刀剣信仰の存在が確認できる。弓・槍・鉄砲にはそれがない。

郎党、足軽、雑兵の刀も鉄砲・槍の補助武器であったろう。刀剣観は武器としての鋭利強靱が全てだった。これらは膨大な需要に応え
る為の数打ち物と称される刀である。実戦刀として、戦国期には充分に合理的な存在だった。

安 土 桃 山 時 代

安土桃山時代に豊臣秀吉が行った兵農分離に伴う天正の刀狩り(1588年)は、武士身分以外の帯刀・武装を許さない政策で、武士と庶民
との間に厳然とした身分差を作った。こうした背景から、刀に「武士の魂」という観念が生まれた。

刀は戦国期の量産数打ち物を主とした消耗品から、武士達の魂に相応しい入念作が求められるようになった。
合戦毎に破棄されていた数打ち物の需要が激減して、刀匠達は武士の精神的支柱に相応しい刀を鍛造するようになった。
 
戦国の争乱が終わり、鎧を脱いだ武士達には、未だ戦塵の余韻があった。
蒙古の革鎧をも断ち斬る相州伝写しの刀が好まれた。戦いに耐えられる「鋭利・強靱性」を根底とした刀剣観が継承されていた。
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江 戸 時 代

江戸幕府(1603年〜)による士農工商の身分制度の確立と元和偃武(げんなえんぶ)の政策で、刀は官僚化した武士階級(人口の7%)の象徴
的色彩を帯びるようになった(庶民も脇差しは帯刀できた)。                           武器を納める                                                                          
刀は武器としてより「身分の象徴」として別の意味で尊重される事になる。江戸期、武器の使用は仇討ちに限られていた。
武士という官僚が、旗本と雖(いえど)も、府内で抜刀し闘争する事は家名と自らの命を賭ける覚悟を要する非常な行為であった。
切り捨てご免の特権が与えられていても、この特権を行使する武士はいなかった。
だからこそ刀は「武士の魂」という象徴になった。
「象徴」としての刀には武器としての意識が薄れ、現実の観念化であった為に時代と共に「武士の魂」の観念そのものも薄れていっ
た。


永い泰平の世に元禄文化が花開いた。武士は官僚・文官化し、庶民も享楽に溺れていった

元禄(1688)から天保年間(1843)の約一世紀半の間、武士も庶民も享楽の怠惰に流れ、刀剣は全く不振の時代であった。
庶民には刀は無縁の存在だったが、江戸の中期には貨幣経済が多くの豪商を生み、彼等は愛玩用又は資産の対象として名刀・業物と
称される刀を蒐集した。
この時代の名刀逸話はこうした風潮から創出され、名刀の商品価値を高める為に意図的に伝説が流布増幅された。
武士達も刀に刃文や彫刻の美を求め、工芸的な美術刀を愛玩した。精巧な小道具に依って拵えが飾られた。


 泰平の世に、戦いは遙か遠い記憶の彼方に去っていた。
 幕藩体制の中で、武士は「軍事技術者」としての意味を失い、忠実な官吏(文官・行政官)の能力があれば良
 かった。
 武器であった刀は装身具と化した。刀身にも盛んに彫刻されたが、それは刀の装飾にしか過ぎなかった。
 鎌倉武士が太刀に祈った彫刻とは自ずと別のものであった。
 拵えも華美を極めた。
 拵えに工芸の贅を尽くし、刀身に華麗な彫刻を施し、涛乱刃、富士山の刃文、五の目乱れ、皆焼刃などの華や
 かな刃文が喜ばれた。刀は「武士の魂」とはほど遠い存在になった。

 刀剣の聖性には程遠く、鎌倉の刀剣観からしても、将に堕落以外の何ものでもなかった。
 そこには戦国期の武器観も、後鳥羽院の刀剣美学も、古代神話の刀剣信仰も程遠い存在であった。
 刀と刀剣観が堕落したのは江戸泰平の中期である。
その一方で、戦国期から江戸初期に見られた利刃・強靱な刀が希少になっていた。
そうした愛玩品化する刀剣観の中にあって、武器の機能を持った刀を鍛造した井上真改、肥後守忠吉らがいた。
その代表的刀匠が寛文期(1661〜1673)にかけて新刀の頂点を極めた長曽祢虎徹である。
虎徹の鍛えた刀は鋭利強靱な実用刀であって美術刀ではない。これらが僅かに鎌倉期の刀剣観を引き継いだ。
然し、そこでは鋭利強靱のみが語られて、古来より信じられて来た刀剣が本来持つ異類悪霊を払う聖性の思いは欠落していたと言って
よい。
只、徳川家に忌み嫌われた「村正」の妖刀伝説は、未だに刀の呪術性が生き続けていた事を示してる。


 一方、武士の官僚化によって、武士らしい武士像を求める庶民の希求が仇討ち物
 の本や演劇を流行らせた。
 「仮名手本忠臣蔵」、「道中双六伊賀仇討」は江戸庶民に圧倒的に支持された。
 それは現代にも及んでいる。
 不条理に物言えぬ弱者の庶民は「勧善懲悪」に喝采した。
 武士である主人公の「義・忠・孝」に感銘した。
 懲悪物語に日常の鬱積(うっせき)を晴らし溜飲を下げた。

庶民に刀の実感は持てなかったが、武士と刀に自らの願望を仮託した。
その反面、武士にとっては魂だが、刀は庶民にとっては禍々(まがまが)しい凶器という認識も根強かった。
庶民が、馴れない刀を抜刀した為に逆上し、惨劇をもたらす刀の魔性と凶の恐ろしさも予感していた。
弱い人間ほど、刀を持つ事で人格が一変する。この刀の凶への戒めが、浄瑠璃や歌舞伎で語られている。
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桜 再 び 蘇 る

再び「桜」が脚光を浴びるのは、平家の武将・薩摩守忠度の死後約600年後の江戸後期である。
江戸後期、駒込染井村で新種の桜が発見される。この桜は「吉野桜」と名付けられ、瞬く間に東国に普及した。
この桜が後に日本中の桜景観を変え、桜観をも変えた。
古来の桜と違い、開花期が短く、花吹雪となって一斉に散ってゆく美しさは、後に「散り際の潔(いさぎ)良さ」を美とする日本人の精神
文化を形成していった。

外圧が日本民族を覚醒させようとしていた時代、国学は時代思潮を主導する尖鋭な学問の位置を占め始めていた。
日本の精神文化に多大な影響を及ぼす国学者の本居宣長(もとおりのりなが)は、寛政2年(1790)、日本男児の心性を桜に譬(たと)えた一編の詩
を世に問うた。

敷島の 大和心を 人とはば 朝日に匂う 山桜花


 日本人の心性を譬えれば、朝日に輝く山桜のようだと説いた。宣長は桜を讃(たた)えた。
 何よりも民族の花として桜を宣揚した。
 桜が、人の死生観の象徴として譬えにされた。
(この詩の言葉は大戦末期の海軍・神風特別攻撃隊の隊名に使われた )
 万葉の桜児※1、 大伴家持の桜歌、八代集※2の桜歌とは異質な桜観の成立だった。
 桜の新しい観念は、この宣長より始まった。

            ※1 乙女の名、二人の男性に愛された為に命を絶った物語
            
※2 平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて撰集された8つの勅撰和歌集
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頼 山 陽

(思想の象徴・日本刀)

江戸後期、外圧が日本に押し寄せ始めた頃、一編の詩が時代の風雲を呼んだ。
頼山陽が顕した『日本楽府』の「蒙古来る」の漢詩である。元寇を防戦した鎮西武士団の活躍を詠(よ)んだ武勲詩である。
若き詩人に武勲誌を書かせた情動は、十八世紀末の日本に対する外圧だった。
安永8年(1779年)、ロシア船が北海道に来航、松前藩に通商を求めた事に始まる。幕府の北方防備策が緊急の課題となり、異国船打ち
払い令が公布された。
この外圧が多感な若き詩人に元寇再来の危機感を抱かせた。山陽の予感通り、通商を求め、或は漂流の外国船が相次いで来航した。
外圧の緊張は当時の知識人の間に国防意識を醸成していった。

やがてこの国防意識は、寛永十六年(1639年)の鎖国令を国是と誤認し、「攘夷(じょうい)思想」に収斂(しゅうれん)した。「蒙古来る」の山
陽詩はこの時代の思潮となった攘夷思想をより過激に、より広く浸透させる発火点となった。
特に、この詩の終句「羶血(せんけつ=生臭い血)を尽(つ)くして日本刀を膏(あぶら=なめらか)せしめず」の「日本刀」という新語と、時代
の思潮である攘夷思想が結び付き、同時代及び以降の知識人に大きな衝撃を与えた。

元和偃武(1615年)以来、次第に形骸化し、遂には武士身分の装飾刀と化した刀に、改めて「戦(いくさ)人の魂」との精神性を注入させ
た。山陽の新語「日本刀」は愛国者達に例えようもなく魅力的であった。時代は「日本刀」という新語で急展開して行く。

実は「日本刀」という言葉は頼山陽が初めてではない。十一世紀後期、中国・北宋の詩人欧陽脩が「日本刀歌」で使っている。
中華思想からすれば中国以外は全て夷蛮(いばん = 野蛮)であり、蛮刀の蔑称として使われた。
勿論、日本では自国の刀を態々「日本刀」と呼称することはなかった。
それ故、諸国の郷土をも含む士籍の憂国者や庶民にまで鮮烈な印象を与えずにはおかなかった。
国防攘夷は時代を主導する思潮となった。この思潮の象徴が日本刀であった。
彼等は敢えて「打刀」いう従来の呼称は使わず「日本刀」という鮮烈な語を選んだ。
この語は明らかに外国と相対する日本の国家という意識を初めて鮮明にした。そして攘夷としての思想が「日本刀」に凝縮した。
日本刀はここで文字通りの「武士の魂」に昇華した。           日本刀を賞賛していると誤解した解釈が今も横行している

頼山陽以降、漢詩人達が「日本刀詩」を好んで詠むようになった。
外圧に対する危機感が、彼等に「日本刀詩」を詠ませた。
然し、同時代の和歌・俳諧に日本刀は出てこない。これは和歌が王朝・公家の教養であり、俳諧が庶民の嗜みである事に依る。
それに対して漢詩は武士の学芸という教養基盤の相異からくるものだった。
日本刀詩は、近世武士階級の学芸である儒学教養によって詠まれた詩である。
一夕、吉田松陰と憂国を談じた橋本左内は、松陰に送った漢詩の終句に「腕を扼(やく)し頻睨(ひんげい)す日本刀を」と書いた。
佩刀をしきりに睨(に)らんで、いざとなったら、この刀をもって侵攻する洋夷を一刀のもとに断つという姿勢を見せた松陰に感銘を
受けて詠まれた。
吉田松陰が腕を扼して睨(にら)み見た日本刀は攘夷思想となり、若き尊皇攘夷武士達の政治行動となっていった。

本居宣長は「桜こそ日本男児の心性」と説き、頼山陽は元寇の役に仮託して武士の魂の覚醒と国防攘夷の思想の具象として日本刀
を讃えた。江戸漢詩の「日本刀詩」は武士達に、本居宣長の「桜と刀」を結びつけさせた。
この時代、武士だけではなく郷民までもが、洋夷を断つ日本刀によって桜花のような死を夢見た。
幕末の志士達は鋭利強靱な日本刀を求め、刀匠はそれに応えて刀も泰平の永い眠りから覚めた。
水心子正秀、源清麿、大慶直胤の復古刀・新々刀の時代が始まる。彼等の目指した刀は機能として頂点にある鎌倉刀だった。
後鳥羽院は桜美を写す事で太刀の神威・聖性を蘇らせようとした。
鎌倉武士は鋭利強靱の太刀に凶を浄化する祈りを籠めようとした。
幕末の志士達は日本刀に攘夷の思想を見い出した。

時代は、「大和心の桜」、「蒙古来る」、「復古刀」という三つの要素を重層化して行きながら攘夷の激流となっていった。
「蒙古来る」や「日本刀詩」で讃えられた日本刀は思想であり、心の在り様であった。日本刀はその象徴であった。
日本刀で近代火器に立ち向かえると本気で信じた志士がいたとすれば、それは解釈の幼さと云う外はない。
薩英戦争(1862)・四国艦隊下関砲撃事件(1863)でそれが実証されている。
近代火器を装備した欧米諸国の軍隊に、日本刀は武器として無力であった。
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明 治 維 新

 〜日 本 刀 と 大 和 魂〜


 慶應4年(1868)、倒幕の終結は、皮肉にも洋夷を討つ日本刀の時代を終焉  (しゅうえん)させた。
 明治新政府は武士階級を解体して帯刀を禁止し、西洋文明の導入を急い
 だ。これは旧来の日本文化の破壊であった。
 洋夷の日本刀で成立した明治新政府が、その日本刀を否定するという誠
 に皮肉な、そして倒幕運動に身を投じた武士達にとっては明らかな背信
 行為であった。「尊皇攘夷」とは一体何だったのかという疑念に苛(さいな)
 
まれたに違いない。
戊辰(ぼしん)の役(1868〜9年)は、日本刀に対する官軍洋式装備(洋夷)の優位性の実証であった。
新政府は仏(陸軍)・英(海軍)指導の基、国軍を創設して洋式装備を基本とした。軍刀は日本刀ではなくて洋刀サーベルを採用した。

明治10年、西南戦争が勃発した。これは火器主体の戦だった。然し、火器を装備した政府軍の徴兵々卒は、薩摩武士の白刃に怯(おび)
て屡々(しばしば)敗退した。政府軍は平民兵卒の限界を認識せざるを得なかった。政府軍は緊急の対策に迫 られた。
旧会津藩士族による警視抜刀隊が編成された。旧会津藩は京都で天皇守護の任に就いていた。会津士族は会津戦争で受けた薩長軍
の暴虐を決して忘れていなかった。特に薩摩軍に対しては会津の恨みを濯(そそ)ぐ為に、死をも怖れぬ敵愾 心(てきがいしん)を持っていた。
戦いの勝敗は、武器の優劣と兵の士気の総和で決まる。
薩摩軍の銃火を怖れず、白刃・白兵戦に挑んだ田原坂での抜刀隊の「捨て身」の奮戦は、西南戦役の帰趨(きすう)を決っした。
死をも怖れぬ抜刀隊員の強靱な精神力と旺盛な士気が窺える。


田原坂の激戦

この奮戦を讃え、「新体詩抄」(1882)に外山正一の創作詩「抜刀隊」が発表された。 (六連の長編詩の内第二連のみ下記する)

      皇国の風と武士の 其身を護る霊の 維新このかた廃れたる 日本刀の今更に 又世に出る身の譽れ
      みくに      もののふ                   たましい           すた                                   いず    ほま
      敵も身方も諸共に 刃の下に死ぬべきぞ 大和魂ある者の 死ぬべき時は今なるぞ 人に遅れて恥かくな
               やいば                         やまとだましい
      敵の亡ぶる夫迄は 進めや進め諸共に 玉ちる剣抜きつれて 死ぬる覚悟で進むべし
                         ほろ     それ                        つるぎ

          ※ とやままさかず 13歳で英語を学び、16歳で開成所の教授方になった英才。勝海舟の推挙で英国留学。
           帰国後、明治新政府外務省弁務少記として渡米。外務権大録に任ぜられたが辞職。ミシガン大学入学。
           帰朝後、官立東京開成学校(後の東京大学)で社会学の教鞭を執る。社会学者、文学者。明治15年、「新体詩抄」発表
 

この詩で、宣長の「大和心の桜」が日本刀と結びつき、初めて「大和魂」という言葉で蘇生した。
帯刀禁止令は士族の精神的支柱を失わせたが、「大和魂」にかっての「武士道」の再生を見いだした。
士族達にとって、山陽と宣長に依って覚醒された民族意識の象徴たる「日本刀」と「大和心」は遠い過去の事ではなかった。

この「抜刀隊」詩は、士族で構成された明治政府の要人に感銘を与えた。詩語「大和魂」は新鮮であった。
日本刀はその大和魂の発露そのものに写った。

戦いは武器の優劣だけで決まるものでは無く、兵士の強靱な精神力も重要な要素であるとの認識を新たにした。
とりわけ新設間もない国軍の高官に与えた影響は大きかった。洋夷を討つ刀は天皇への忠誠を示す日本刀となった。
それは太古から連綿と続く天皇に対する民族意識と切り離せない心情の上に成立している。
「大和魂」という言葉は、軍人や士族に衝撃を与えた。
日本刀で捨て身の戦いを挑んだ抜刀隊の強靱な精神力は、大和魂そのものの象徴と写った。
帯刀禁止令で忘れ去られようとした日本刀が再び蘇った。
政府顕官達は、洋式装備を推進しながら、武人の精神を攘夷の時代に遡(さかのぼ)らせた。
山縣有朋と幕僚達は新設国軍の精神的支柱を、宣長の桜と山陽の日本刀が凝縮した「大和魂」に見い出した。
大義の為に命をものともしない「大和魂」は、明治10年以降の軍人や国民に忘れがたい記憶を刻印した。


 三笠艦橋の東郷司令長官
 その後の日清、就中(なかんずく)、 日露戦争で、この「大和魂」が大国相手の劣勢な日本軍を勝利に導
 く事になる。
 大国ロシアを迎え討つ日本軍将兵達はね血反吐を吐く猛訓練を繰り返した。
 旅順口閉塞作戦では決死隊が編成された。将兵達の国を護る一念は死をも超克(ちょうこく)していた。
 
 東郷平八郎海軍大将は、日本海々戦時、海軍長剣「吉房」を左手に握り、砲弾の飛来する露出艦橋
  に立って艦隊の指揮を執った。                               (三笠艦橋の図と東郷海軍大将参照)
 
敵艦隊への捨て身の肉迫攻撃である。
 艦隊決戦に長剣(軍刀)は無用であった。
 然し、近距離砲戦は艦隊の白兵戦である。その為に武士の魂たる日本刀は手放せなかった。

 近代戦に長剣を携えた事は、武人としての心意気、洋夷を滅する日本刀を携える事で己の「大和
 心」とした。 
 日本刀を握りしめ、国難に死を賭して立ち向かう武人の姿は国民に深い感銘を与えた。
東郷海軍大将を聖将にした要因の一つは、「三笠」艦橋に軍刀を握って立つその姿に、国民は武人の典型を見ていたからである。
山陽の「日本刀」と、宣長の「大和心」が「大和魂」となってここに見事に凝縮されている。

軍刀は「大和魂」の象徴となった。士官軍刀の意義はここに定まったといってよい。
これは明治人の大多数の日本刀観であったろう。この感覚は大東亜戦の終結まで続くことになる。               


古代〜後鳥羽院(王朝)〜武士の時代〜明治維新後と日本人の刀剣観を概括した。
当然、時代と立場によって刀剣観に大きな差がある。只、何れの時代でも、日本人は刀剣を単なる武器とは見做していなかった。
武器に魂や美を求める感覚は日本人しか持ち得て居ない。
これは長い歴史の中から生まれた刀の文化によって醸成された日本人固有の感覚と云える。

文藝評論家の小川和佑著「刀と日本人」の巻頭に
『 日本刀を手にした時、私達日本人は、外国人には説明し難い固有の感覚を持っている。戦慄にも似たある種の怖れと、憧れの情熱
が心の裡(うち)から湧いてくる。
この刀を眺めていると、誘いこまれるような澄明な魅惑と、いわれのない怖れによる緊張感が精神に注入される。
おそらく、これは日本刀を実際に手にした誰しもが実感する情感であろう。武器特有の重量感、禍々(まがまが)しさがある。
刀というものは本来、日常の用具ではなく、非日常の武器なのだ。重量がそれを教えてくれる。
然し、この情緒は刀剣愛好という嗜好とは全く異なったものである。
鉄を鍛造した武器になぜこれほどの美しさがあるのであろうか。
この澄みきった鋼の輝きの魅惑こそ私たちにもう一つの日本美を体感で教えてくれる。
もう一つの魅力は、一振りごとに人と歴史が籠められている。それ故、刀は家譜と家系の証として伝承してきた。
人と歴史による詩的想像性が刀剣を武器を超えた精神的存在にさせた。神話に見る刀剣伝承がそれを物語る 』と述べ、
刀剣を「武器」・「美」・「歴史家譜」の三点が重層された物と捉えている。
著者は、後鳥羽上皇〜明治維新を主軸に、王朝、武家貴族、武士、庶民が時代に依ってどのような刀剣観を持っていたかを、後鳥羽上
皇の「新古今和歌集」の中の「桜の歌」、江戸後期の頼山陽の詩集「日本楽府」に注目して解き明かそうとした。
十六世紀の天文12年(1543年)、火縄銃が伝来し、銃による戦国の終焉となった後も、なぜ日本人は尚も刀剣に精神性を求め続けたのか
を解明しょうとした新しい切り口の労作である。

著者・小川氏との刀剣個体(造り込み等)の認識の相異、並びに太古・古代の刀剣観に就いては私の持論を述べた。


(参考・引用:小川和佑著「刀と日本人」、「歴史書」、「製鉄史」他)


2013年9月8日より
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