日本刀の考察 090

刀 剣 の 精 神

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男爵 村 田 經 芳
Baron Tsuneyoshi Murata


 1838年、薩摩藩士の長男として生れる。藩随一の射撃の名手として知られ、戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦い
 など各地を転戦した。
 1875年、射撃技術と兵器研究のため、フランスなどヨーロッパに派遣される。

 陸軍戸山学校教官として銃の改良や射的技術の向上にあたり、1880年、かの有名な国産銃・十三年式村田銃
 を開発した。
 1890年に陸軍少将に昇進。1896年、戊辰戦争・西南戦争の軍功により男爵を授けられる。
 1921年死去。享年83。
「刀剣の精神」は、「刀の研究」第五巻第二號から第四號(大正8年2月25日〜南人社)に連載された男爵・村田経芳が講演する将官談話
会での草案である。愛刀家の(日本刀神話に浸っている)将官達への配慮もあり、直裁な言い回しを避け、婉曲的な表現になっている点
に注意。
村田刀の開発経緯、名刀と村田刀との比較、刀剣の精神(本質)が語られていて大変興味深い。
技術者が抱く日本刀観と、美術刀剣趣味人の集まりである刀剣界関係者の日本刀観とは全く異質である。
既に、この時代から、刀剣界は美術刀趣味人で占められていた。
本論は日本刀の本質及び軍刀の見識を明快に示している。
大東亜戦下に、刀剣界()の関係者が著した「軍刀本」の内容とは、軍刀の見識に於いて雲泥の差が認められる。
洋鉄を批判する日本刀趣味の刀剣家達を「刀剣の本質に基づかない趣味人」と断じている。
村田少将を初め刀剣技術者達は常に刀の実践検証に基づく刀の分析・評価を行っていた。 
(現代漢字仮名遣いに変換して要点を記した。漢字単語も一部理解し易いように現代漢字に置き換えた。( )内は筆者の補完語) 

刀 剣 の 精 神

この一遍は村田銃及び村田刀の開発者で陸軍少将男爵村田経芳氏が旧朧(陰暦12月)4日、将官談話会に於いて行われる講演会の草案である 
 
皆様御承知の通り、我が国に於いては古来種々の武器があったが、時勢の変遷に依って大抵は廃(すた)れてしまった。
更に、今後に於いても追々科学の進歩に依って当今の武器の中にも古来のように廃れる物があるかも知れない。
然し、日本刀ばかりは昔から今日に至る迄、尚盛んに愛用され、殊(こと)に将校はこれを戦地に持って行くという有様です。
今後と雖(いえど)も、この日本刀と小銃ばかりは決して廃れまいと考える。
小銃の事は他日に話す機会もあると思うので、専(もっぱ)ら日本刀に就いて述べることにする。
何故この日本刀が今も尚盛んに愛用されるかというには理由がある。 

東 西 の 剣 法

西洋人は相手に敵対行為を示す時には必ず拳を固めて相手を突こうとする姿勢を取るのが習性で、日本人はこれに反して拳を振り上げ
打つ殴るという姿勢を取るのが習性である。
従って、西洋の剣術はその習性に基づいて専ら突く剣術になっているようだが、日本の剣術は突くというよりも専ら切るという方に
なっている。
そこで日本刀はこの切るという方に最も都合良く出来ているから、古来種々の武器は廃れてもこの刀だけは廃れない訳であろうと
思う。
私はこの日本刀に就いて及ばずながら種々研究を試みて、その強弱と云う点に就いて少しく得るところがあったので、刀の精神と云
う事とその強弱と云う事に就いて話しをしておきたい。

刀 の 強 弱

当今軍刀には必ず日本刀が用いられているが、立派な名刀と見える物の中にも、私の愚眼では、その出来に依って実用に適さないもの
があるようだ。その為に刀の強弱と云う事には充分な注意を払わなければならない。
これに就いて私は種々の研究を重ねてみたが、各種の日本刀の中には切ってみて折れる物があり、又は曲がる物があった。
然し、その折れない物又は曲がらない物でも切味に良否の差別があり、金地(地鉄)もまた違っていると云う按配であったので、私は
各種の試験をした。
折ったり曲げたりして遂に(その数は)二十六本になった。尤も此等は理由があって実用に適さない刀を試したのだが、その中には折れ
ない物でも無理に折ってみた物もある。それで漸(ようや)く地鉄を会得(えとく)する事が出来たようだ。
然し、この二十六本の中には棟焼があって、然も役に立たない物を試してみる事が出来なかったのは甚だ残念であった。
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良 刀 の 三 要 素
元来、良刀と言われるのは折れず、曲がらず、切れると云う三要素を備えた物でなければならない。
然し、このような三要素を備えた良刀は高価な物が多いので誰でも手に入れると云う事は難しいと思う。
私の実験上、この三要素を備えた刀は沢山あるけれど、その中で特に秀でた物を大略言えば、関孫六兼元、兼定(之)、四代目三原正
家、備前秀光、元重、仙台國包(くにかね)、虎徹等である。
勿論これらに劣らぬ刀も沢山在るようであるが、以上申した物は就中(なかんずく)折れず曲がらず切れると云う三要素を備えた最上の
物と言ってよい。勿論右に申した中の古刀以外に、正宗は第一等である事は申す迄もない。
正宗は偽物が多いと云う事を聞いているので、私は未だその真正の正宗を確かに見た事もなく、又、これを試した事もないが、右の
古刀はその三要素を備えて、実用に適する点に於いては決して正宗に劣らぬ物と確信している。 

切 れ 味 の 実 験

その中、切れ味の実験に依ると四種ある。
即ち、最上大業物、大業物、良業、業物の四種で、これは皆様が御承知の事であるが、序(つい)でながらお話して置くと、その最上大業
物と云うのは実験上(試斬物を)十本が十本まで良く切れた物、大業物は十本の中七八本まで、良業はその五六本位、業物は三四
本位の物であったそうだ。然し、私の実験に依ると、これは切れ味ばかりの業物であるが、その中の良業或は業物でも出来に依って
は大業物に劣らぬ切れ味の物もある。

新 古 の 優 劣

最上大業物の中の新刀には仙台國包、興里虎徹及び興正、陸奥守忠吉、初代三善長道、多々良長幸、大阪初代助廣等があるが、この中
にも折れず曲がらず切れると言う三要素からみて実用には適し難い物も在ると思う。
一般に新刀が古刀に劣ると云う訳は、段々(時代が)末になると、昔の名刀に似せて(刀を)作ると云う事が多くなるからで、この似せる
と云う事は第一その精神に就いて劣るところがあって、形ばかりは似る物もあるだろうが実用上非常な相違がある。
例えば文字でもその通りで、どのように似せても、又は透き写しをしても、その文字は生きていない。
舶来品の偽物でも同じ事で見かけばかりは似ているが実用に適せぬ物が甚だ多い。
人間でもまたこれと同じであって、素養もなく修養も足りないのに若し妄(みだ)りに偉人に似せる者があるとすれば、此等は所謂虎を描
いても却って猫に類する結果となる。
或は流行に走る者もおりますが、この流行に走ると云う事はその人の薄弱を示すもので、確固たる不抜の精神が無くて唯表面ばかりを
似せようとするからである。こういう訳で似せた刀には役に立たぬ物が多くて名刀が無いのである。
尤も新刀にもたまには名刀もあるが、大体に於いて近来になる程(刀が)劣って来るのはこの(名刀に)似せると云う悪い流行があるからである。

実 験 の 実 用 刀

それで段々に実験してみた処が、古刀の最上大業物の中には何れも優劣は無いと考えていたけれども、その中にも私は関孫六兼元を蒐
(あつ)めてみようと思い立ち、出来れば百本蒐めてみたいと考えて六十四本まで蒐めた。然し初めの間は大分騙されて偽物を手に
入れてしまったが、次第に経験を積むと共に、後に至っては真正の物を求める事が出来るようになって六十四本になったのである。
ところで元来百本を蒐めると云う訳は、別段抜刀隊を作るためではない。この兼元が良刀であるから実用刀に熱心な余りこういう心を
起こしたのである。
然し、更に思い直してみると、百本蒐めると云う事は無意味な事になるので、後の三十六本を求める丈の費用を以て刀の精神である
三要素を備えた実用刀を作ってみたいと云う考えを起こしたのである。勿論この考えを起こすに至ったのには理由があるのである。
2 

日 本 刀 の 短 所

その理由と云うのは、従来の日本刀は正面から、即ち刃の方から切れば充分であるが、若し強く峰打ちすれば如何なる名刀でも必ず
刃切れを生じ、又は折れるものである。
それは無理もない訳で、刃の方には焼刃を作ってあるが、背の方には焼きが無い事と、もう一つ、刃の方は切れるように厚みが極
めて薄く、物への切れ込みが良いから抵抗力が激しくない。
背の方は刃の方に比べて何倍と云う厚みがあるから、物に切り込む事が出来ない為に(打った時の)その抵抗力は非常に激しいの
で、刃の方に響きが強いからそれで刃切れを生じたり、又は折れたりするのである。然し、古刀には偶(たま)に背の方に焼きを入れた
物があって、私の所持している応永の三原正家には、背の方に皆飛び焼きが入っている。
或は「皆焼(ひたつら)」と云って刀身全体に焼きの入った物がある。
又、私は未だ見た事がないが、正宗の刀にも背の方に焼きの入った物があると聞いている。
然し大体に於いて従来の日本刀には背の方に焼きの入ったのが希であるから背打ちすれば、刃切れが出るか、又は折れるかである。
従来の剣術は背打ちしないよう充分に稽古したものであるから、誤って背打ちの為に刀を折る者も少なかったようである。
又、昔の戦闘に用いた刀の記録に、反りの多いほど背打ちする事が少ないようである。然し乱戦の場合に敵を前後左右に受けて激闘す
ると、或は刀の背が他の物に当たって大刃切れを生じ、又は折れた物が余程あったと云う事である。

それなのに当今の将校は昔と違って戦術上及びその他の学問、研究が益々必要になって来たので、昔の様に充分剣術を稽古する事が
出来ないのであるから、戦場に臨んで乱戦となった場合、稍(やや)もすれば咄嗟(とっさ)の間に思わず知らず刀の背が他の物に当たったり、又は平打ちしたりする事があるかも知れない。それで大な る刃切れを生じ又は折れ曲がると云う訳である。
然し「サーベル」形に拵えてある物は背打ちする事は無いと思うが、私は例え背打ちをしても折れず、平打ちしても曲がらぬ物を作ってみたいと云う考えを持った。
然し、折れさえしなければ曲がっても大きな差し支えは無いと言う人も居るが、尤(もっと)も、折れるよりは曲がる方が宜しいけれども、実戦の場合に於いては曲がったのを直している暇がないのと、曲がった儘(まま)用いる事はなかなか困難であるから、矢張り曲が
らぬと云う事は折れず切れると云う事と共に刀の精神でなければならない。

実 用 的 軍 刀

もう一つの理由は上等の日本刀ほど益々高価であり、高価でない物にも往々軍刀に用いるべき物もあるようだが、実用に適する物は
大抵高価なようである。それなのに、その実用に適する軍刀を最も多く使用する者は尉官であろう。
佐官以上になると馬上で指揮する事が多いから、その刀は専ら指揮刀である。勿論尉官に於いても同じく指揮刀ではあるが、殊に尉官
は乱戦の場合に於いて、もしくは日本軍隊の最も得意な吶喊(とっかん=ときの声を挙げる)の場合に於いて先頭に立って敵陣に切り込む時、
実用に適する軍刀が一層必要であるのに、その実用的な刀が容易に入手出来ない事があるかも知れないから、私は折れず曲がらず切れ
ると云う三要素を備えた軍刀を容易に得られるように作ってみたいと考えたのである。
3 

村 田 刀 の 由 来

そこで私は種々研究を積み苦心を重ねたが、遂に砲兵工廠で西洋鋼鉄を選んで作ってみた。それは大倉組より砲兵工廠に納めた西洋刀剣地鉄があって、検査に不合格の為不用になった所へ行って見た。
ところがその地鉄は世界で有名なドイツの「ゾーリンゲン」と云う刀剣製造所で見た地鉄と色合いからその他総て能く似ていたので、私はその地鉄を少し貰って試みに刀を打ってみた処が非常に良かったので、更にこれを小銃製造所の銃剣地鉄に用いてみたが、この
地鉄で作った当時の銃剣は非常に能く切れた。
故にその地鉄で私の新作刀を作った処が、幸いにその目的を達して折れず曲がらず切れると云う三要素を備えた物を極めて少額の費用
で作る事ができた。故に誰でも容易に之を入手する事が出来るようになって、日清・日露の役にも実用的軍刀として使用され、
これを村田刀と唱えられたのである。

名 刀 と 名 将


 殊に蜈蚣切丸は右の様な由緒があって実に希代の名刀であるが、独り名刀である許(ばか)りでな
 く、これを所持した秀郷は日本第一の剛の者と言われた名誉の武将で赫々(かくかく)たる戦功は歴
 史の上に輝いている。
 更に秀郷の尊ぶ処は実にその人物の立派な点である。
 初め平将門が謀反を起こして下総の猿島に兵を挙げた時、ある日秀郷が将門を訪ねた。
 この時、将門は食事中だったが、秀郷ほどの武将が味方になってくれれば天下は忽(たちま)ち我
 が物であると悦び、食事半ばに箸を投げ打ち取るものも取り敢えず秀郷を出迎えて座に請じ入
 れた。
 余りにも慌(あわ)てたので食膳は狼藉を極め、飯粒散乱の有様だった。
 秀郷は一目これを見て、将門は大事を共にすべき人でないと考え、寧ろ天下の為にこれを討ち
 取り滅ぼそうと思った。
 即ち平貞盛と共に将門を平らげたのである。
 この一目見て決心を定めた英断果決はなかなか尋常一様では出来ない。
 秀郷の人物が衆に抜きん出た処は即ちここにある。
 これは刀の話の余事となったが、こういう人物で且つ有名な武将の秀郷が持っていた蜈蚣切丸
 であるから私はその形を選んだ。
4 

名 刀 と 洋 鉄

それなのに市中では盛んに偽村田刀を作って売る者がいたので、村田刀は折れると云う評判になり、希望者が余程少なくなったのである。
これは製作法を会得しないで、唯、見かけばかりを真似たものであるから折れるに違はないのである。
私はこの為に非常な迷惑をしているが、私は現役中、砲兵工廠に於いて製作した物は必ず三要素を備えた物である事を確信して居る。
勿論その作り方は実用を主とした物で見た目では別段の趣向も無く、立派ではないから、刀剣家の間には往々褒(ほ)めない者もあるようで、西洋地鉄であるとか、何とか批判されるようである。
然し稍(やや)もすれば刀剣家がこの洋鉄を嫌うと言う精神は別段憎むべき事でもあるまいと思う。
この心はひたすら西洋に拘泥(こうでい)せず、或る場合には誠に結構な心であると思うのである。勿論西洋の長所を採って我の短所を補
う事は実に良い事であるが、これはなかなか難しい事で、西洋の長所でも我が国に不適当な事があり、甚だしきは、我の長所をも棄て
た事は是迄往々在ったようであるから、その取捨を誤った事が少なくないようである。
(筆者注: 明治は圧倒的に西洋化を急いだ時代だった。軍刀もサーベルだった) 
それで、この西洋に拘泥しないと言う心は殊に我が国体及び政体には結構な事でこれは一般に注意しなければならない大切な事であ
る。それでも、旧来の日本刀でも西洋鉄を入れて作った物がある。
現に虎徹などは、瓢箪地鉄と言って和蘭(オランダ)から輸入された瓢箪形の鉄が大阪城の天守内に格納されていたものを見い出してそれ
を混ぜて(刀を)作ったと言う事である。
(こと)に第一等の名刀である正宗でさえも南蛮鉄を用いていたそうである。
又、昔の名刀にも、幾分背の方に焼きを入れた物があり、此等は背打ちしても容易に折れない為の研究もあったからであろう。
それは耐える力が強くなる為で有ろうと思う。
(そもそ)も刀を作るにはその鍛え方を第一とし、焼き、湯加減、戻し方に熟練しなければ刀身中に不平均な所が出来て力の強弱を生じ
るのであるが、昔の名刀はこの要点を全(まっと)うしている為に、三要素を備える事が出来たのである。
殊に当今は製鉄法が大いに進み、従来のように打ち殴ると言うのみでなく、これを締めて鍛えるようになったので、その鍛えた鉄に
硬軟の不揃いがなく、力の平均を得るようになった。
我が国でも、近来製鉄法が大いに進歩して来たから三要素を備えた刀を作る事が一層容易となったと思う。 

新 作 刀 試 験

ところで、私の新作刀に対して、前述した通り刀剣家の中には、稍(やや)もすれば西洋地鉄が入っていると言って(村田刀を)褒めない
者も居るようであるが、何故西洋鉄が混じっていると悪いかと言う理由を見い出す事ができずに苦しむものである。
察する処、これは三要素の精神を基としないで、見かけばかりの趣味に惹かれ、骨董的な愛玩が心から生ずる為ではあるまいか。
元来この趣味と言う事は平常に於ける慰みに過ぎないもので、実戦の場合には、元より趣味などの必要は少しも無いのである。
殊に日本の軍隊は世界に名高き得意の吶喊が多い為に、その隊長は真っ先に吶喊する訳であるから一層利刀が必要であると思う。
従って骨董品的な弊害は是非取り除かねばならないと思う。
然し、刀剣家の間には、私の作った刀に対して種々の批評が有ったそうで、その為に、皆様御承知の通り刀剣の鑑定で有名な故今村
長賀君から実験の申し込みがあって、同君と私とが、旧来の日本刀と私の新作刀との試験を実施した。

試 験 の 成 績

この時の試験の実地を簡単に述べれば、試験用として二十四斤(きん)の豚を一匹備えて、今村君は種々の刀を持って来られたが、この
中に青江の刀があり、之なら大丈夫だと言う事であった。この試し斬りに於いては私が自分で切ると面白くないので、私の親友籠
手田安定君が太刀筋の確実な撃剣の達人であり、又、刀剣家で何事にも虚飾しない実地を専らにする人で、私とは剣術の流儀を異に
しながら常に互いに太刀筋の事を談じ、武道を以て交わっていた。
同君も尚、旧来の日本刀に信頼を置き、私の新作刀を古刀に比べてその優劣に躊躇(ちゅうちょ)しておられたので幸いこの人に斬り方を
頼んだ。同君はこれを快諾してくれた。
そこで愈々(いよいよ)斬ると云う前に、私は今村君に、貴君の刀と私の新作刀とどちらから先に斬るかと相談したら、私の新作刀から先に斬ってくれと言う事であった。
そこで籠手田(こてだ)君は先ず新作刀を以て豚の胴を斬ったところ、胴を切り通して下の土壇に切り込んだ。
次に今村君の青江で斬ったところ、殆ど胴の三分の二が切れた。
これは切れ味を試したのみで、次は刃の強弱を試す為に、豚の前額が一番堅いから其れを試してみた。
新作刀は其れを残らず切り通す事は出来なかったが、三分の二以上切る事が出来た。
それから今村君の青江の刀で斬ったが、「カツ」と言う音と共に刀が曲がって、刃に曲がった所もあり折れた所もあった。
然しその刃の曲がった所の金味はなかなか良いと私は考えた。これは刀が古いからその曲がった所には自然に弱味が出て来て無理も
ないかも知れない。
そうして青江の切れ味は殆ど三分の一余り切れたのである。
この時に、陸軍歩兵大佐、今の陸軍少将土屋可成閣下も虎徹刀を持って来られたが、それを見ると、誠に立派な名刀だった。
そうではあるが、私が以前に虎徹で試した時、非常に破損した事があった。
その時の虎徹は大乱れであったが、土屋君のは直刃であったので損ずる事はあるまいと思ったものの、この名刀を若し再た破損する
事が有っては惜しいものだと考えて、貴君の刀は確かであると思うが、先ず(試斬を)お見合わせになったら如何ですかと申し、土屋
君は私の言う事を承諾されて試すのを止められた。
こう言う訳で私の新作刀は、刄味も、切れ味も良かったのである。 

鑑 定 の 名 家

尚、この前後にも新作刀は充分に各種の試験をしたのである。然し、実用的一方で、見たところ趣味が無い為刀剣家には余り褒められ
なかったのであるが、今の伯爵田中光顕閣下は新作刀を見て、その実用を専らとする処を好まれ、自ら実験されて、三要素の備わっているのを確信された上、軍刀はこれに限ると賞賛されその製作を所望された。
その所望に任せ、一本打って贈った事があったが、閣下は刀剣の鑑定には今村君に劣らぬ名家であった。
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不 折 不 曲

要するに、刀の精神は折れず曲がらず切れると言う三要素の他は無いのである。
その切れると言うにも刃の付け方に依って相違があり、刃の付け方は、その斬るべき物の堅い柔らかいに依って差別がある。
即ち斬り試しをする時又は実用にする刀には必ず根太刃を付けたものである。
昔のは、蛤(はまぐり)刃・鏨(たがね)刃を多く付けた事を聞いている。その根太刃は肉物には良いが、堅い物には蛤刃・鏨刃でなければその刃の持ちが悪いのである。当今の戦闘に用いる刀は根太刃と蛤刃との間を取って刃を付けた方が宜しいと思う。
何故かと言うと、今日の戦いでも、昔の甲冑時代の戦いと同じく専ら銃剣もしくは銃に対するからである。
然し肉身に向かっては蛤刃・鏨刃は根太刃に比べて味が宜しくないので、銃剣もしくは銃でない限りは根太刃で充分であると思う。
当今の戦いに於いて、銃剣等に向かっての実験の方々は、その実験上、お考えに依って刃を付けられたら宜しいと思う。
昔、鹿児島藩で或る人が戦地に用いて非常に功のあった刀を持っていたが、その息子が斬り試しの際にその刀を用いてみた処、切れ
味が非常に悪かった。
その親にどう云う訳かと聞き糺(ただ)した。親が言うには、それは蛤刃であって甲冑武者を敲(たた)き散らす為に作った物で鎧の隙間に
切り込む事もあるが、元来は専ら鎧に向かった物であるから鉄棒に刃を付けたような物だと言ったそうである。
時勢が変われば刀の刃の付け方も自ずから違って来る様である。
然しながら肉を斬るのには如何なる刀でも切れない物はないであろう。
尤も、その切れ方には鋭鈍の差別はあるが、切れる切れないと言う事よりも折れず曲がらずと言う方が第一であると私は考える。
尤も、普通用いる護身用の物、又は老年者が用いる刀などもこの折れず曲がらずは勿論、切れるという事も大いに望む処であろうが、壮年将校諸君の軍刀に於いては第一折れず曲がらずという事が肝要であると思う。
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村 田 刀 の 特 徴

一寸お断りして置きたいのは、私の研究して出来た刀は村田刀に相違はないが、一般に村田刀と唱えられてからは私もその名称に従う
ものの、その以前に於いては、私は之を「新作刀」と申しておりましたので左様ご承知を願います。
この新作刀は三要素を備える事を専らと致しましたのみならず、又その軽重とその形に於いても種々研究を重ねたものでした。
先ずその軽重に基づく切り方から言えば、軽いのよりは重い方が幾分切れが良い。それは即ち重い力の為である。尤も刀の軽重は
その切り手の力に相応するのが宜しいのである。
若し刀の重さが切り手の力に不相応な場合には、その重さの為に負けて、却って切り込みが鈍くなるのであるから、私は軽くして
然も切れ味の良い物を作りたいと苦心して、漸(ようや)くその目的を達したようである。 

形 状 の 良 否

それから形であるが、これは集古十種を始めとし古来の名刀を調べてみたが、その中で一番良い形は小烏丸と蜈蚣(むかで)切丸と
であると思った。この小烏丸は御存知の通り平家の宝刀で、今は宮中の御蔵に納められ、蜈蚣切丸は俵藤太秀郷の所持していた物
で、今は伊勢の大神宮の御宝物になって居る。この様な名刀であるから両刀共にその形は実に立派である。
その中、作り方が容易で費用が安く上がるのは蜈蚣切丸であったが、両刀共に立派な形であったので、軍刀には是非この形を取りた
いと思い、新作刀はこれを選んだ。

           ・・・・・以下小烏丸と蜈蚣切丸の故事来歴は神話伝説なので略す・・・・・

後に蜈蚣切丸と稱する物はこの時秀郷が差していた物か又は龍神から授けられた物なのか定かではないが、こういう由緒があって、
その形が実に立派だったので私の新作刀はこの形を選んだ。



斬 手 問 題

前略・・・・・更に力以外の原因を調べてみる為に粘土の台を作ってそれを切ってみた。壮年時代にはその切り込んだ幅が刀の厚み
と同じだったのに、老年になるとその幅が刀の厚みより広くなるのは太刀筋の狂った証拠である。
故に壮年者でも太刀筋が狂うとこれと同じ訳だから、刀の切れ味が、斬り手に依って差別があるのは即ち太刀筋の為である。 

刀 肉 と 刃 肉

同作の刀二本の中で、一本が能く切れて、他の一本が劣る事が間々ある。これはその出来栄えにも依るのであろうが、肉合いにも依る
事が多いと思う。私はこれに就いて研究してみたが、初代の関兼元と私の新作刀とを試してみると新作刀の切れ味が兼元に幾分劣ったのでどういう訳であるか兼元の全体の刀肉と刃肉とを研究したいと思い、疵物で折っても構わぬ物を中央から切断して見て初
めて肉合いが判った。
この肉合いに依って作り直して試してみた処、兼元に一歩も劣らぬ切れ味の物が出来た。そうして折って見た兼元は短いまゝで今も
大切に保管している。この肉合いと言うものが非常に大切であるが、研師の巧拙に依ってその肉合いを崩すので研師は充分に選ば
なければならない。殊に名刀程その必要がある。
それは研ぎ上げの時ばかりでなく、荒研ぎの際が最も大切で、下手な研師はその時、刀の肉合いを崩す事があるからである。
若し鞘下地まで研ぎ止められる方々は或は上手な研師でなくても宜しいと言う考えで凡庸な研師に懸けられる事が往々にあるようで
あるが、それは大いに注意すべき事で、荒研ぎの場合が一番大切であって、若し下手な研師に懸けると刀の肉合いから総ての形を
毀損(きそん)する。これは刀の為に極めて大切な事であるから重複ながら特にご注意を望んで置く。 

刀 疵 の 種 類

刀の疵(きず)にも段々あるが、一番害があって恐ろしいのは横割れである。「シナイ」も決して油断ならないが、然し、「シナイ」から
刀の折れた事は私の試験上では無かった。何と言っても横割れが一番危ないのである。
この他の疵はその道の刀剣家にお尋ね願いたい。
又、外見上極めて小さい疵で普通には判り難いものでも中で大きくなっているものもある。
此等は却って老練な研師の方が詳しいと思うから念の為申し上げて置く。研師は成る可く巧者を選ぶ方が宜しい。 

一 と 刃 切 れ

尚一つお話して置きたいのは、一と刃切れと言う刀があると云う事である。
これは一度限りで切れなくなってしまう刀で、滅多に無い物であるが、私は試験中、屡々(しばしば)この一と刃切れに邂逅(かいこう)した。
これには二種あり、顕微鏡でその刃を見ると刃の切った所だけは色々に(刃が)毀(こぼ)れているのと、もう一つは、色々に刃を引い
た様になっている二種である。これは両方共多分骨に当たった所だろうと思う。それで如何なる刀でもその儘(まま)数回使用すると切
れ味が段々劣る訳であろうと思うが、その切れ味を長く保つのが即ち名刀の名刀たる所以(ゆえん)であろうと思う。 

長 刀 の 必 要

老年になると体力が衰て切れ味の良い刀と長刀が必要になってくる。・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・。
壮年時代に用いる刀は三要素を備えた物は尚宜しいけれど、例え切れ味が第二番でも、折れず曲がらずと言う事を第一としなければ
ならない。
元より、その切れ味の見事なのが無論必要であるけれども、切れ味以上に更に必要なのが即ち折れず曲がらずと言う事であって、
外見よりも実用を主とせねばならないのである。従って刀の選定と言う事が極めて大切なのである。


                              (完)
 
筆者注
愛刀家達は日本刀神話や伝説を信じていた。村田経芳はそうした将官達の自尊心に配慮しながら刀の本質を説いている。
その為に、旧来の日本刀の性能評価や所感をあからさまに述べることを避け、婉曲的に表現している事を斟酌して本意を読まなけれ
ばならない。
虎徹刀の試験を思い止まらせた件(くだり)などはその良い例である。村田少将は随分気配りをする人物だったようだ。



                       (資料ご提供: 森良雄様  刀身写真ご提供: 寺田憲司様)


2013年8月29日より(旧サイトから移転)
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