日本刀の考察 刀と日本人 0 | 太古〜室町時代 |
日本人にとって日本刀とは何か。時代に依る日本刀観 | ホーム | 日本刀 | 刀と日本人(2) |
卑弥呼
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「前漢書」では「100余の国あり」、「後漢書の東夷伝倭人(わじん)」の項には「倭国(わこく)大いに乱れ、更々 (こもごも)相攻伐し・・・」とある。 大陸から見る「倭国」とは、朝鮮半島南端〜玄海灘の島々〜北部九州と、それに山口県の一部であった。 初期の渡来銅剣や、それに続く鉄剣の渡来は権力者の権威の象徴であり、民に対する威武が主であった。 部族には銅(鉄)剣と鉄戈(か=ほこ)がせいぜい1本位で、族長以外は棍棒、石斧、竹槍、石・竹鏃(やじり)が主流 の武器だった。刀剣は族長の象徴であり、呪術支配の主要神器であったろう。 小国家群の争いが始まると刀剣は極めて大きな存在になった。特に鉄剣の利刃は竹・石の武器、銅剣とは 隔絶した威力を持っていた。鉄剣の数が部族の雌雄を決した。 鉄剣の威力の前に銅剣は影が薄れ、祭祀用具と化した。 鉄剣は部族の命運を決する守護神と思われた。異族の邪、悪霊・怨霊の邪悪を退ける「辟邪(へきじゃ)の霊 器」と見なされた。刀剣は単なる武器を超越して神の宿る「神器」と信じて疑わなかった。 |
神武天皇東征
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刀剣に関する神話・伝説は記紀(古事記・日本書紀)や各地の風土記に極めて多く語ら れる。この事は、刀剣が古代人の心を惹き、国造りに当たって如何に大きな役割を果 たしたかの査証である。 神武東征の400年後に編纂(へんさん)された古事記(712年※)、日本書紀(720年)は、 皇統の正統性を国史に表すのが目的だった。 神武東征や倭建(日本武尊やまとたけるのみこと)の神話・伝説は、武闘の出来事を記述し たものである。 ※ 実際は日本書紀の後に編纂 ここで注目されるのは、草薙剣 (くさなぎのつるぎ) は武闘の利器ではなく、霊威の神剣とし て顕わされている事である。 |
桜が咲き誇る都に君臨する聖武帝の和名は「豊桜彦天皇 (とよさくらひこのすめらみこと)」。 花を讃える都に武威の剣はしばし影を潜める。武臣の大伴家持も花を詠んだ。 花の文化を享受する一方で、皇統の争いや藤原氏を巡る貴族の対立が激しくなった。 この時代の末期から、蝦夷(えみし)との三十八年間に亘る熾烈な奥羽争乱が始まる。 朝廷軍や東国の防人の武器は弓と大刀であった。 激しい武闘は刀剣の神威だけでは制圧出来ない。 朝廷軍は弓や蕨手(わらびて)刀と騎馬を駆使する蝦夷軍に苦戦した。 武器の利刃と兵の力が求められた。 それでも前線の防人達は大刀の神威と神の加護を必死に祈ったに違いない。 |
「古今和歌集」(905年)が編纂され、泰平の世がこの和歌集を「花と恋の歌集」にした。 「竹取物語」・「伊勢物語」も恋の物語を綴(つづ)り、刀剣の威武は出てこない。 王朝人は自然の四季と花々を愛で、歌を詠み、人の愛を無上の価値としていた。 然し、都を離れた東国では土豪(どごう)が率いる群盗が跳梁(ちょうりょう)するようになる。 平安中期には土地の開墾が進み、「荘園公領制度」が導入される。 これは武士が勃興する一つの要因となった。 朝廷は武官の派遣と併せて武芸者を認定し、各地荘園での争いを抑える軍事・警察の 任に当たらせた。武士の始まりである。 |
日本への属国を要求するモンゴルのフビライハンの要求をはねつけた為、文永 の役(1274年)、弘安の役(1281年)と2回に渡り筑紫の博多湾に元寇が襲来した。 湾に臨む箱崎宮に「敵国降伏」の額を掲げ、神の加護を祈った。 暴風の助けがあって辛うじて勝利し、武士達は神の加護により神風が吹いたと 信じて疑わなかった。 従来の太刀では元寇の革鎧を斬れなかった。 これ以降、身幅が広く、重ねが薄く、反りの浅い体配の刀に代わった。 相州伝鎌倉刀が確立した。その代表が正宗だった。 |
この神威・聖性の太刀は、承久の乱の150年後の元弘三年(1333年)、後醍醐帝の 命に依る新田義貞の鎌倉攻めの折り、鎌倉・稲村ヶ崎より太刀を海中に投じた 有名な逸話が「太平記」(1373年頃)で語られる。 鎌倉は三方を山に囲まれ、海側に切り通しの路一本しか無い要塞であった。 義貞は稲村ヶ崎の巌頭から金銅兵庫鎖太刀を海中に投じた。 すると、海神は霊験を顕し、岬の干潟は潮を引き、路が開けて新田の軍勢は鎌倉 に攻め入る事が出来た。 「太平記」は、武将も太刀の神威を疑うことがなかった証と説いている。 この精神性と情緒は日本人だけの特異な、それ故に繊細な感性の所以(ゆえん)であ った。 ← 兵庫鎖太刀を海の龍神に捧げる新田義貞 |
騎馬武者像(高師直(こうのもろなお))
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鎌倉から南北朝にかけての元寇来襲や頻発する国内動乱は、刀剣の機能を極限まで要求 し、刀匠達は作刀技術の限界に挑戦してその能力を発揮した。 将に太刀の黄金期が築かれたのは鎌倉〜南北朝期であった。 南北朝時代は、鎌倉期の鋭利強靱という刀剣観をその儘受け継いでいる。 王朝文化とは違う武家政権では、この刀剣観は当然の帰結であった。 第三代将軍足利義満は、元中9年/明徳3年(1392年)、南北朝合一を実現し、60年に わたる朝廷の分裂を終結させた。 義満は応永の乱(1399年)で対抗勢力を駆逐して将軍権力を固めた。 これで体制は安定したかに見えたが、守護大名に依る内乱が打ち続いた。 一方では、茶の湯、能楽、水墨画などの文化が花開いた。 因習に囚われない社会風潮が台頭した。婆沙羅(ばさら)という。 |
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