日本刀の考察 刀と日本人 0 太古〜室町時代

刀 と 日 本 人

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太 古 の 刀 剣 観 

 弥生時代中期(前4世紀頃)、大陸から青銅器、鉄器が渡来した。これらの恩恵を受けたのは極めて一部の権力者だった。
 ある日、太古の人々の前に忽然(こつぜん)と出現した銅・鉄剣は人の生殺与奪に直接関わる利刃であった。
 それらを目にした人々の戦慄と感動が目に浮かぶ。たちまち畏怖・崇敬の対象となった。
 神代の人々は理解出来ない物や事象を「神のなせる技」と思い、森羅万象に神の存在を信じて疑わなかった。
 刀剣は神の依代(よりしろ)と思われた。原始呪術信仰である。
 弥生時代中期後半(前2世紀)、鉄器の普及に伴い平地の水田開発が飽和して、新たな水田確保の為に集落間の争いが頻発するようになる。
 環濠集落の出現が争いを雄弁に物語る。然し、依然として石器が中心だった。
 弥生時代晩期(前1〜)には青銅器の国産が始まっている。
 北九州は銅剣・銅矛(ほこ)を、近畿圏は銅鐸(たく)文化を形成していた。
 この中頃(紀元前後)、鉄器の急速な普及で稲作の収穫量が増大して集落小国家群が誕生する。    始期はC14法により新説に修正


卑弥呼
 「前漢書」では「100余の国あり」、「後漢書の東夷伝倭人(わじん)」の項には「倭国(わこく)大いに乱れ、更々
 (こもごも)相攻伐し・・・」とある。
 大陸から見る「倭国」とは、朝鮮半島南端〜玄海灘の島々〜北部九州と、それに山口県の一部であった。
 初期の渡来銅剣や、それに続く鉄剣の渡来は権力者の権威の象徴であり、民に対する威武が主であった。
 部族には銅(鉄)剣と鉄戈(か=ほこ)がせいぜい1本位で、族長以外は棍棒、石斧、竹槍、石・竹鏃(やじり)が主流
 の武器だった。刀剣は族長の象徴であり、呪術支配の主要神器であったろう。
 小国家群の争いが始まると刀剣は極めて大きな存在になった。特に鉄剣の利刃は竹・石の武器、銅剣とは
 隔絶した威力を持っていた。鉄剣の数が部族の雌雄を決した。
 鉄剣の威力の前に銅剣は影が薄れ、祭祀用具と化した。
 鉄剣は部族の命運を決する守護神と思われた。異族の邪、悪霊・怨霊の邪悪を退ける「辟邪(へきじゃ)の霊
 器」と見なされた。刀剣は単なる武器を超越して神の宿る「神器」と信じて疑わなかった。
 長期の争乱を治める為、小国30ヶ国が連合して邪馬台国女王・卑弥呼(B.C230年頃)を擁立したが、争乱の中に卑弥呼は没し、宗
族の台与(とよ又たいよ)が女王についてやっと争乱が治まった。宗教的呪術が世を支配していた。
 古代では伝統ある家系の者が上に立つのが正義であり、人々はその貴人に従うのが正義であると考えられていた。
 邪馬台国の女王は中国の魏帝により親魏倭王の称号が与えられていた。                 ※ 天照大御神(あまてらすおおみのかみ)

 その王家の血統を引く事は、古代に於いては最も権威のあるものであった。つまり、邪馬台国の王統に従うことが正義であった。
 邪馬台国は中国の国家制度に倣(なら)い租税制度を導入した。
 その為、役人や専属兵士を確保出来た。他の小国の兵士は農工民の兼務であり、武力の差は歴然としていた。
 大陸・半島の銅・鉄器を背景とした経済力と武力が大きく与(あずか)っていたと思われる。
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古 代 の 刀 剣 観

 卑弥呼の死の5代後、邪馬台国の一部が南進し、高天の原(たかまのはら)族の勢力の中から神武天皇が出現する。九州より東に肥沃
(ひよく)な土地がある事が判った。神武天皇は西暦300年頃、東征を開始した。    神倭伊波礼毘古命 (かむやまといわれひこのみこと)
 西暦280年頃、北部九州の小国を巻き込み乍らの大規模な東遷であった。出雲から吉備、畿内にも強大な国が既に存在していた。
 神武東征は武力による激しい闘争だった。鉄剣は殺傷力を持つ鋭利な利刃である。
 それ故、刀剣に霊力・神霊を古代人が感じたとしても不思議はない。神武天皇(九州の剣・矛文化)が畿内の銅鐸文化を制圧した。


神武天皇東征
 刀剣に関する神話・伝説は記紀(古事記・日本書紀)や各地の風土記に極めて多く語ら
 れる。この事は、刀剣が古代人の心を惹き、国造りに当たって如何に大きな役割を果
 たしたかの査証である。
 神武東征の400年後に編纂(へんさん)された古事記(712年)、日本書紀(720年)は、
 皇統の正統性を国史に表すのが目的だった。
 神武東征や倭建(日本武尊やまとたけるのみこと)の神話・伝説は、武闘の出来事を記述し
 たものである。                    実際は日本書紀の後に編纂

 ここで注目されるのは、草薙剣 (くさなぎのつるぎ) は武闘の利器ではなく、霊威の神剣とし
 て顕わされている事である。
 剣は神聖化され、刀剣の霊験ある神威が語られる。攻撃の利刃ではなく、護身(防御)の霊器に認識が変わっている。
 武闘で畿内(きない)を平定した政権が最も恐れたのは武力に依る反乱だった。刀剣が持つ武威は好ましくないとの編纂者の思惑が
働いたのだろうか。戦わずして剣の神威で敵を畏服させるという刀剣の呪術性を明確にした。

 百済王から倭王(雄略又は仁徳天皇)に贈られたとされる石上(いそのかみ)神宮の「七支刀」の銘文には「造百練銕七支刀 生辟百兵」
とあり「百練銕で造ったこの七支刀は百兵を辟(さ)く力を生む」となる。全ゆる剣難を避ける霊力を秘めているとの意味である。
( 古代刀参照)
 これは呪術性の神器という本質を現している。
 刻銘大刀、刻銘鉄剣も出土した。刀身に刻銘することは刀への祈りを顕(あらわ)す。
 それ故、刻銘の刀剣は本来の武器というより、祭祀の神器であったと見做される。七支刀の石上神宮は倭大王家の武器庫であっ
た。太古より、剣には霊力と神威が有ると信じられていた。その伝承を、記紀が神話の主人公に仮託して述べたと云える。

 七支刀より一世紀後の5世紀末と思われる奇怪な「蛇曲剣」が喜沢古墳(栃木県)から出土した。剣身75p、茎10pで剣身に七つの
突起を持つ異形の剣である。
 狐塚(石川県)、亀山(兵庫県)古墳からも出土した。この剣は七つの突起に依って直刀より殺傷力が強く、鋸(のこ)を引くような斬撃
に向いている。
 この剣は七支刀とは反対に攻撃の威嚇(いかく)を示す武威の利刃と思われる。
 族長達は強力な武装集団と、自らの集団を畏服させるだけの族長自身の武威が必要だった。その象徴が剣だった。
 霊剣と利刃という刀剣が持つ二つの意味が現されている。

 六世紀になって製鉄が開始された。
 石(鉄鉱石)或は砂(砂鉄)を火炎に投じて、自然界に存在しない物質(鉄)を造り出す営みはそれ自体が超人的行為であり呪術そのも
のだった。
 製鉄鍛冶は呪術師と見做(みな)されるか、呪術師と不可分の関係にあった。
 紅蓮(ぐれん)の炎から生まれる物質で造られた超自然物である刀剣は、それ自体に霊力があると信じられても不思議はない。
 各地に刀剣をご神体とする神社は多い。古代人が、刀剣を単なる武器ではなく霊的な命を宿した神器と見做していた証しである。

 記紀は 製鉄開始の約二世紀後に編纂された。そして我々の祖先達は、その刀剣の神威の伝承を信じて疑わなかった。
 記紀は天皇の証しとして、神代に於ける三種の神器を述べている。
 刀剣は族長の象徴であり、東征争乱では最も重要な役割を演じた。「家譜、家系」の証しとしての刀剣の原点はここにある。
 政権成立後、統治の為に「律=法」が生まれ、律の象徴が「鏡」だった。
 そして天皇の印である「神爾(じ)」 は「勾玉(まがたま)」で象徴された。
 先ず「剣」が在り、「勾玉」・「鏡」が設定されたのは神代の太古では無く、大和政権の発足(有史)からではなかろうか。
 記紀に述べる刀剣の霊位=即ち人智を越えた神の依代は、その後、「剣の霊威」として琵琶法師などに依って祭礼の社頭や門前で
営々と語り継がれ、古代人の心にそれが深く浸透していった。ほぼ五世紀迄に日本人の刀剣信仰は確立されたと云えよう。

     ※ 記紀では、神武天皇は紀元前660年に大和の橿原の宮で初代天皇として即位したと記す。これが日本の皇紀歴元年となった。
       神代の時代を1,000年近く遡らせた。初代〜九代天皇は架空とされ、本稿は大和政権の実質初代天皇は第10代の崇神天皇とした

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飛 鳥 〜 平 安 時 代

 6世紀末期(592年)から8世紀初頭(710年)まで飛鳥に大和朝廷があった。遣隋使や遣唐使を送って中国文化を学んでいる。
 7世紀初め、聖徳太子によって国家としての大宝律令が整備され、日本(やまと又はひのもと)という国名が定められた。
 従来、「大王」と呼ばれた「クニの大君」の呼称が「天皇」号になったのもこの頃と云われる。
 豪族は貴族となり、一般の農民は公民となって、豪族の土地・人民は天皇のものとなった。
 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ 天智天皇)らによる大化の改新があった。7世紀後期には百済(くだら)の要請で朝鮮半島に出兵し、
唐と新羅(しらぎ)の連合軍と戦うが、663年、白村江(はくすきのえ)の戦いで敗れる。
 その為、日本防衛を強化する必要から、防人(さきもり)の制度を設け、九州に太宰府を置き、守りを固める。
 衛士(えし)は都の警護に当たった。
 朝鮮出兵にはかなりの刀剣・武器が必要だった。それを賄(まかな)うだけの生産力が既に確立されていた事になる。
 国産刀剣が貴族以外にもかなり普及していた事が窺(うかが)える。

 国家としての法令や体制の整備に力が注がれた。皇位を争う壬申の乱(672年)が発生するが、この内乱が収まった後、持統女帝
四年(690年)、「神璽の剣鏡」を奏上したとの記録を最後に、剣についての記録は沈黙した。
 時代が武威から文化へと転換したからであろう。
 百済から仏教が伝来し、飛鳥(あすか)文化や白鳳文化と呼ばれる仏教文化が花開いた。律令制がほぼ完成した。
 この時代の史書は殆(ほとん)ど無い。記紀のみが飛鳥時代以前の歴史を知る唯一の手掛かりである。防人は弓と剣を携えた。
 貴人や朝廷の官吏が佩く剣は、儀礼剣と身分を象徴する装飾剣だった。衛士の剣、防人の剣(自前調達)は利刃であった筈である。

 8世紀初頭(710年)、元明女帝は奈良の平城京に都を移した。
 前代の大宝律令を改訂しながら、律令国家・天皇中心の中央集権国家を目指した。また、仏教が隆盛して天平文化が華開いた。
 記紀や風土記が編纂され、文学が勃興して「万葉集」が編纂される。
 この撰者で歌人の大伴家持は元々武臣であった。防人の歌では刀剣が「剣大刀」・「大刀」と詠まれ、「剣」から「大刀」に
呼称が変わった。
 724年、聖武帝の御代となり天平文化の頂点を迎えた。

  ※ おおとものやかもち:「続日本紀」にある「海行かば 水漬くかばね 山行かば 草むすかばね 大君の辺にこそ死なめ のどには死なじ」の
   天平の古歌は、武の名門・大伴氏が一族の武人としての覚悟を天皇への忠誠心と共に詠い上げたものである。
   「天皇の為には命を惜しまず戦おう」という勇壮な出撃譜であった。明治13年(1880)、海軍は宮内省雅楽部(東儀季芳)に依頼してこの古歌に曲を
   付け、将官礼式曲「海行かば」を制定した。
   昭和12年、NHKが企画した「国民唱歌」として、大伴家持が「続日本紀」の終句を「かえりみはせじ」に改訂して「万葉集」で詠んた「海行かば」
   に、信時潔 (東京音楽学校教授) が作曲した新たな「海行かば」が誕生した。最初は出撃譜として戦況ラジオニュースの背景音楽に使われた。
   然し、昭和18年以降、戦況ニュースの背景に流れる「海行かば」は、日本軍敗退の内容と重なり、いつの間にか葬送曲として認識されるように
   なった。



 桜が咲き誇る都に君臨する聖武帝の和名は「豊桜彦天皇 (とよさくらひこのすめらみこと)」。
 花を讃える都に武威の剣はしばし影を潜める。武臣の大伴家持も花を詠んだ。
 花の文化を享受する一方で、皇統の争いや藤原氏を巡る貴族の対立が激しくなった。

 この時代の末期から、蝦夷(えみし)との三十八年間に亘る熾烈な奥羽争乱が始まる。
 朝廷軍や東国の防人の武器は弓と大刀であった。
 激しい武闘は刀剣の神威だけでは制圧出来ない。
 朝廷軍は弓や蕨手(わらびて)刀と騎馬を駆使する蝦夷軍に苦戦した。
 武器の利刃と兵の力が求められた。
 それでも前線の防人達は大刀の神威と神の加護を必死に祈ったに違いない。
 8世紀末(794年)、蝦夷との奥羽争乱の最中、桓武天皇が平安京(京都)に都を移して平安時代となる。
 弘仁2年(811年)、漸く奥羽が平定された。
 この争乱の経験が馬上で扱う反りのある太刀を後に生み出したように思われる。
 争乱の終息後、信心が厚い武臣の征夷大将軍・坂上田村麻呂は、再び剣を執る時代を永久に封じる祈願を込めて、生涯武闘に用いた佩剣を、都の鎮護寺の一つの鞍馬寺に奉納した。
 朝廷の「武」を司る彼のこの行為は、平安宮廷人達の「辟邪の剣」という古代神話の刀剣感覚の継承を物語る。

 戦乱の弱者は常に民であり、防人の兵役も負わされた。皇威の及ぶところ、刀剣を神庫に納め再び手にする事がないように人々は祈った。
 民にとって刀剣は武器である以前に、神庫に秘蔵される神器・神体であった。
 刀剣は、宮廷人が衣冠束帯の禮装に帯びる儀仗剣、位階を示す装飾剣であって、戦闘の武器でない事を望んだ。
 この感覚は古代に既に萌芽していた刀剣という武器に対する畏怖・恐怖に依るものではなかったろうか。
 人々は刀剣を日常の生活次元から排除し、殺生を忌(い)むべきとする感性の中に生きていた。仏教の影響も否定出来ない。
 弘仁3年(812年)2月、嵯峨帝は宮中神泉苑に於いて盛代な花宴を催した。
 これは泰平の宣言であり、泰平と豊穣の永続を諸神に祈念する儀式だった。
 この祈りのように、128年間、九代の治世に亘(わた)り泰平が続いた。律令制から課税権を委譲する王朝国家体制に移行した。


「古今和歌集」(905年)が編纂され、泰平の世がこの和歌集を「花と恋の歌集」にした。
「竹取物語」・「伊勢物語」も恋の物語を綴(つづ)り、刀剣の威武は出てこない。
 王朝人は自然の四季と花々を愛で、歌を詠み、人の愛を無上の価値としていた。

 然し、都を離れた東国では土豪(どごう)が率いる群盗が跳梁(ちょうりょう)するようになる。

 平安中期には土地の開墾が進み、「荘園公領制度」が導入される。
 これは武士が勃興する一つの要因となった。
 朝廷は武官の派遣と併せて武芸者を認定し、各地荘園での争いを抑える軍事・警察の
 任に当たらせた。武士の始まりである。

 東国と西国で殆ど同時に平将門、藤原純友の乱(939年)が起きた。
 朝廷は驚愕し、その為、乱の鎮圧に勲功のあった者が「武芸の家」と認定された。
 清和源氏、桓武平氏、秀郷流藤原氏である。新たな軍事貴族(武家)の誕生だった。

 泰平は終わりを告げ、洛中・畿内の治安は極端に悪化していった。
 洛中・洛外の人々は、蛭巻黒漆(ひるまきくろうるし)の無骨な太刀を佩き、都大路を横行する粗野な武士を怖れた。
 彼等の佩く太刀は、王朝人が佩く飾り太刀とは異質の禍々(まがまが)しい凶器と映じた。
 文化の中に生きて来た王朝人は極度にこれを嫌悪した。刀剣は神庫に鎮座する霊器であり、血塗られた武勲譚を忌み嫌っていた。
 こうした争乱の後に「枕草紙(996年)」、「源氏物語(1001年)」が生まれる。恋が謳われて、武勲に関する物語は一切ない。

 平安後期、鳥羽上皇が没すると、治天の君の座を巡って天皇家・摂関家を巻き込む保元の乱が起こった(1156年)。
 続いて、1159年、平治の乱が発生した。これらの政争に介入した平清盛は公卿となり、後の平氏政権へと繋がっていった。



奈良・万葉の時代、「花」とは唐から伝わった梅を意味し、紫宸殿も「左近の梅」であった。奈良後期から平安初期にかけて、
人々の美観は桜に移行した 平安朝・仁明天皇の時代(859年〜877年頃)に紫宸殿の梅は桜に植え替えられ、「左近の桜」となった。
この桜はヤマザクラと云い、後に八重桜が生まれる
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桜 と 日 本 人

 五世紀初頭、倭国大王履中帝が桜の発見を瑞祥(ずいしょう=目出度い)として、その宮居を磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)と名付けて以来、桜は日本の聖樹となった。青によしと歌われた平城京・寧楽(なら)の都は咲く花の匂う桜の都だった。
この都に君臨する帝の名は「豊桜彦」。
 奈良の文化は桜と共に開花し、平安朝に隆盛を極める。
 枯死した紫宸殿の梅は桜に植え換えられ、左近の桜と名付けられた。
 桜は全ゆる美の極限であった。美は全てを超越した善であり、至福であった。醜は悪であり、悪霊邪気を招く凶であった。
 桜は至高の美なるが故に、悪霊邪気を払う神威を秘めていると信じられた。聖樹と云われる所以である。
 日本神話が語るイザナギの佩剣アメノオハバリ、天孫降臨のアメノムラクモ(草薙剣)の剣も、悪霊邪気を払う辟邪の剣なるが故に神剣と尊崇された。桜と剣は根元的にその「聖性」は同一だった。
 古代、日本の心は「桜」と「剣」に収斂 (しゅうれん) されていたように思える。
 桜こそ唯美の極み、美は全てを超越した善という王朝人の倫理が確立していた。
 王朝文化は桜と共に全国に伝えられ、日本の文化、日本の心を形成していった。
 命輝く聖なる樹という桜の認識は五世紀以降十世紀頃までの500年間に、確呼たる文化をこの国に築き上げた。

 新興の軍事貴族である平家も、王朝の桜文化に染まっていた。
 「平家物語」は忠度(ただのり)を語る。
 この平家の武将は、我が歌一首を遺(のこ)す事のみを願って、五条京極の藤原俊成の門を叩く。
 歌百余首を書き留めた一巻を手渡し、「屍を野山に曝(さら)さば曝せ、憂き名を西海の波に流さば流せ、今や憂き世に思い置く事なし」と言い遺して西に立ち去った。
 源平の一ノ谷の合戦で敗走中、武蔵国の岡部六弥太に討ちとられた忠度の箙(えびら)には次ぎの一首が書き留められていた。
矢を入れる筒
          行 き 暮 れ て  木 の 下 蔭 を  宿 と せ ば  花 や 今 宵 の  主 な ら ま し

 この黒糸縅 (おどし) の鎧を着用した平家の武将が薩摩守忠度と知られ、敵も味方も皆、鎧の袖を濡らしたと語る。
 王朝の花と歌、そして、もののあわれを識る武将の最期であった。
 この感性は時代を遙かに下がった明治になって「青葉の笛」として再び謳われる。

   一ノ谷の戦やぶれ 討たれし平家の 公達あわれ あかつき寒き 須磨の嵐に 聞こえしはこれか 青葉の笛
   更くる夜半に 門をたたき わが師に託せし 言の葉あわれ いまわの際まで 持ちし箙に 残れるは「花や今宵」のうた

 武者達が凶なる太刀を振るって王朝が最も忌む死穢(しえ)血穢(けつえ)の死闘を重ね、保元の乱(1159)〜平家滅亡(1185)の30年間に渉(わた)る動乱は平安王朝を崩壊させた。王朝の桜文化は平家の滅亡と共に崩壊し、開拓農園主である武士の時代に移行する。

平安末、後鳥羽上皇 〜桜美を写す神威の太刀〜

 古代の桜文化は崩壊し、武士の時代への転換期に、文芸・武技に優れた異色の帝王が出現した。後鳥羽上皇である。
 花と剣は古代以来の日本の心であった。古代人は桜の清明美に魅了され、桜に命の輝き、至純なものを見た。
 剣は神の依り代として一切の邪を退け、国の護りとなる神威を顕す聖なるものとして信仰されてきた。
 永い争乱の末に、上皇は至高の桜美に依って日本の心を歌(新古今和歌集) と剣に蘇らせようとした。
 太刀は東国の野の果てより生い立った武士の殺傷を目的とするものであってはならなかった。
 辟邪(へきじゃ)の剣として、太刀の本質である鋭利強靱を損なわず、刀身に王朝の雅(桜美)を再現することを上皇は希求した。
 太刀に至高至善の美である桜を写し、武を納め、古代以来の日本の「心」に依る治世を希求された。

 上皇は12人の月番と一人の奉仕鍛冶の名匠達に上皇の熾烈な美学(桜の清明美)を刀剣に写す事を命じた。
 武将達にとって野生味を備えた豪壮な太刀は魅力的であろうとも、王朝の聖樹である桜の清明美に依って武者どもの闘争の具である凶なる武器の太刀を浄化し、神話伝承にある神威の霊力を太刀に蘇(よみがえ)らせる事にあった。
 然し、上皇が求めた桜美を写した太刀は、朝儀用飾り太刀ではなく、闘争時の馬上刀でもあることを求めた。
 「承久記」に、これらの太刀は倒幕の為に造られ、仙洞御所守護の西面の武士、追討の院宣(いんぜん)を奉じた在京の御家人らにも下賜されたとある。
 これらの太刀は武士達の好む蛭巻(ひるまき)拵えではなく、壮麗な兵庫鎖(ひょうごくさり)拵えでなくてはならなかった。
 上皇は自らも太刀に刃文を付けられ、茎に十六弁の菊花紋が毛彫りされた。
 桜ではなく中華の瑞花の菊を刻んだのは、重陽(ちょうよう)の節会(せちえ)に菊酒、菊枕によって長久長寿を願うことに因(ちな)み、王朝長久の祈願を籠(こ)めた故である。
 以降、天皇家は、この菊紋をもって家紋とするようになった。
 上皇は幕府御家人の各地での武威・私威の暴圧を抑えて、文治によって世を治めようとした。
 この時代、記紀伝承は真実と信じられ、上皇には神代より伝わる十拳剣(とつかのつるぎ)、アメノハヤキリノツルギ、草薙剣( くさなぎのつるぎ) の三霊力を太刀に蘇らせる悲願があった。
 上皇は鎌倉将軍実朝(さねとも) の暗殺後、幕府の動揺を衝(つ)いて倒幕の兵を挙げた。
 執権北条義時追討の院宣(いんぜん)が全国へ下されたが、東国武士達はこれに応ぜず、幕府に敗北(承久の乱=1221年)して後鳥羽上皇の文治の夢は消えた。
 然し、後鳥羽上皇の作刀が以降の刀剣美の規範となった。
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鎌 倉・南 北 朝・室 町 時 代 の 刀 剣 観

 王朝に代わる武家政権下、土地開拓農園主の後裔(こうえい)である武士達は全国規模で武装し、覇権を争って闘争を繰り返した。
 伝統の無い武士達にとって、権威(官位・位階)や勢力は自らの武力と、手を血で汚して勝ち取るものだった。これが武士の美学だ
った。その為に、刀剣は鋭利強靱でなければならなかった。神庫に眠る神剣の霊力で敵を倒せるものではなかった。
 花と歌と人を愛し、直接手を汚す事の無い王朝貴族(文官・武官)の刀剣観とは決定的な違いであった。


 日本への属国を要求するモンゴルのフビライハンの要求をはねつけた為、文永
 の役(1274年)、弘安の役(1281年)と2回に渡り筑紫の博多湾に元寇が襲来した。
 湾に臨む箱崎宮に「敵国降伏」の額を掲げ、神の加護を祈った。
 暴風の助けがあって辛うじて勝利し、武士達は神の加護により神風が吹いたと
 信じて疑わなかった。

 従来の太刀では元寇の革鎧を斬れなかった。
 これ以降、身幅が広く、重ねが薄く、反りの浅い体配の刀に代わった。
 相州伝鎌倉刀が確立した。その代表が正宗だった。
 武士の鎌倉刀から後鳥羽院の桜の祈りは消えた。然し、武士達は鋭利強靱だけを刀に求めた訳ではない。
 仏教、特に禅宗が武士社会に浸透していった。武士達は、刀に神仏の加護が宿る事を信じた。
 来国行の太刀には密教法具の独鈷(どっこ)が刻まれている。


 この時代から刀身に彫刻が施されるようになった。その彫刻は独鈷、不動明王、梵字(ぼんじ)等 である。死穢(しえ)血穢(けつえ)の死闘に直接関わる武士だからこそ、武器の本性でもある凶を清め
 たいと願った。
 凶の浄化と護身の祈願を籠めて、刀身に彫刻が施された。鎌倉武士の太刀への祈りだった。
 ※ 「鈷」とはインドの「ひのし型」の武器。手で握る両横に一つの本身がある物を「独鈷」、三つある物を「三鈷」という。煩悩を打破する仏具

 刀に魂や美を求める思想は西欧にも中華を自負する中国にも存在しない。
 日本人は古代、渡来した刀剣にも、刀剣の神威・霊力が宿っていると信じた。
 その後、後鳥羽上皇の祈りと美学は太刀への聖性と美の頂点を極めた。
 この神威・聖性の太刀は、承久の乱の150年後の元弘三年(1333年)、後醍醐帝の命に依る新田義貞の鎌倉攻めの折り、鎌倉・稲村
ヶ崎より太刀を海中に投じた有名な逸話が「太平記」(1373年頃)で語られる。
 鎌倉は三方を山に囲まれ、海側に切り通しの路一本しか無い要塞であった。
 義貞は稲村ヶ崎の巌頭から金銅兵庫鎖太刀を海中に投じた。すると、海神は霊験を顕し、岬の干潟は潮を引き、路が開けて新田の
軍勢は鎌倉に攻め入る事が出来た。「太平記」は、武将も太刀の神威を疑うことがなかった証と説いている。
 この精神性と情緒は日本人だけの特異な、それ故に繊細な感性の所以(ゆえん)である。

 鎌倉幕府は崩壊し、後醍醐帝に依る天皇の復権は果たされたが、恩賞に不満を持つ武士達が足利尊氏に従い、光明天皇を擁立して
幕府を開く(北朝)。
 後醍醐天皇は京都を脱出して吉野へ逃れ南朝(吉野朝廷)を開いた。南朝と北朝の争いは公家も武家も様々な紆余曲折の興亡を重
ね、この動乱は約一世紀に及び、楠木正成(まさしげ)の湊川の敗戦で収束に向かった。


    足利尊氏と言われる騎馬武者
 鎌倉から南北朝にかけての元寇来襲や頻発する国内動乱は、刀剣の機能を極限まで要求
 し、刀匠達は作刀技術の限界に挑戦してその能力を発揮した。
 将に太刀の黄金期が築かれたのは鎌倉〜南北朝期であった。

 南北朝時代は、鎌倉期の鋭利強靱という刀剣観をその儘受け継いでいる。
 王朝文化とは違う武家政権では、この刀剣観は当然の帰結であった。
 第三代将軍足利義満は、元中9年/明徳3年(1392年)、南北朝合一を実現し、60年に
 わたる朝廷の分裂を終結させた。
 義満は応永の乱(1399年)で対抗勢力を駆逐して将軍権力を固めた。
 これで体制は安定したかに見えたが、守護大名に依る内乱が打ち続いた。

 一方では、茶の湯、能楽、水墨画などの文化が花開いた。
 因習に囚われない社会風潮が台頭した。婆沙羅(ばさら)という。
 
 神仏をも恐れない織田信長などが婆沙羅の典型的な例であろう。これが下克上の風潮となって戦国期に突入して行った。

 その後の集団戦の大勢は、騎馬戦から徒歩戦に戦法が変わり、太刀は徒歩(かち)立ち向きに磨上げられ、打刀に移行した。

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