軍刀抄(5) 振武刀 Shinbu-tō0

振 武 刀 Shinbu-tō

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東洋刃物株式会社  Tōyō Hamono Co., Ltd 

振 武 刀  (耐寒刀)

日本国内での使用を前提に造られた古来の日本刀は、寒冷の満洲や北方の戦線では脆さ※1を露呈して使用に耐えられなかった。

青山橘(永十郎)正秀は、明治中期の著名刀匠青山永造青龍齊橘光秀の子息で、早くも20代の青年期に日本玉鋼の鍛錬極意を許された
刀匠だった。                           ※1 低温脆性は「将校用軍刀の研究」古来日本刀の弱点参照
当時、金属材料では東北帝国大学金属材料研究所が頂点に君臨していた。
永十郎正秀は従来の日本刀の鍛錬に飽き足らず、科学的日本刀鍛錬の大家として世界的に名声の高い「本多鋼」の創製者で東北帝大
総長・本多光太郎博士の研究に惹かれた。
その為、仙台市工業学校に入学。日本鋼の実地と学理を研鑽し、大正12年、東北帝大・金属材料研究所に入所した。
正秀の卓越した技量は本多博士に認められ、刃物研究部指導員に嘱託された。此処で鉄鋼学の一層の研鑽を積んだ。
大正15年に職を辞し、父の後を継いで刀匠となり、研究所時代の学理を応用して刃物類の鍛造の改良を行い賞賛を得た。


 正秀の卓越した技量は本多博士に認められ、刃物研究部指導員に嘱託され
 た。此処で鉄鋼学の一層の研鑽を積んだ。
 大正15年に職を辞し、父の後を継いで刀匠となり、研究所時代の学理を応
 用して刃物類の鍛造の改良を行い賞賛を得た。

 厳寒の戦線でガラスのように脆くなる日本刀の欠陥に対処する為、正秀は
 恩師・本多博士に科学的見地からの指導を受け、昭和12年から耐寒刀身の
 開発に着手した。正秀は実験を担当した。
 本多博士らと共に、寝食を忘れて開発に没頭し、2年の歳月を費やして昭和
 14年10月に遂に「耐寒刀」が完成した。
 特殊鋼 (タハード鋼) の丸鍛錬、特殊塩水温浴、水焼入れで造られた。
 零下40度でも損傷・折損しない科学的日本刀だった。金属材料研究所の略
 称を取って「金研刀」とも呼ばれた。

 この「耐寒刀」の完成を期に、正秀は東北帝大日本刀研究部に復職。
 熱処理爐、鍛造ハンマー機、荒研磨機、電熱焼入機、焼刃試験機等を整備
 し、従来の日本刀鍛錬とは全く異なった科学的鍛造法を確立して旧来の因
 習に浸っていた全国の刀匠に衝撃を与えた。
 刀匠達から非難の声が上がったが、正秀は本多博士の研究を唯一の信条と
 して、この科学的造刀法の信念に揺るぎはなかった。
 ← (左)青山正秀。(右)本多光太郎博士

この振武刀の製造は仙台の東洋刃物株式会社が担当した。
満洲やアリューシャン列島の北方戦線で使用され、極寒でも低温脆性のない優秀な耐寒軍刀であった。特攻隊用短刀も造られた。
この耐寒刀が研究されている同じ時期、満鉄でも耐寒性能を目的の一つとする科学的鍛造法の「満鉄刀」が誕生した。
両者共に日本刀鍛造の一大変革をもたらした。
「振武刀」・「満鉄刀」は、古来の日本刀の鋼材と作刀法を研究した結果から誕生した。
単なる刀匠の枠を越えた科学的素養のある人間が刀を造ると、帰結する所は同じように思える。
科学的鍛造法に依る刀身が古来の刀身に劣るという論拠は何も無い。
「振武刀」・「満鉄刀」・「群水刀」等の検証をみれば、寧ろ結果は逆であった。
耐寒性能は、従前の日本刀を完全に睥睨(へいげい)した。

 使用鋼材
 タハード鋼 (ニッケル・クローム・マンガン鋼) という特殊鋼。
 タハードとは、Tough (粘さ) と Hard (硬さ) を組合わせた造語である。
 日本特殊鋼 (現大同特殊鋼) から供給された。
 刀身諸元: 刃長: 68.4p、反り: 1.5p、目釘穴: 1個
 銘: 振武 裏銘: 東洋刃物株式会社
 生産期間: 昭和17年から昭和20年の敗戦まで2,000〜3,000本が生産された。

 製造方法
 前半期の工程: 鍛造後、焼なまし、荒削り、焼入れ、焼戻し、粗研磨、仕上研磨
 後半期の工程: @調整済みの鋼材で鍛接は省略、
        A刀の外形の切り取り、粗研磨後日本刀の形に成型、
        B粘度質の土置きは刃先を薄く本体は厚塗りして乾燥、C全体焼入れ、全体焼き戻し、
        D歪みを取って仕上研磨した。

後半期は、鋼材メーカーに充分に圧延調整された鋼材を準備させ、鋼材受入後の鍛接の工程を省略して造刀効率の向上を図った。
これは軍部からの増産要求が一層強くなり、造刀工程を効率化する為の処置であった。
但し、型鍛造は省略したが、伝統的焼入れ手法を採り入れている為に、振武刀の品質を著しく低下させるものでは無かった。

振武刀の後半の工程効率化に関連して、実に興味を惹く話がある。

「丸津田」・「助直」・「真改」などの丸鍛え


日本刀研究家の佐藤富太郎※1は、「丸津田※2」、「助直」、 「真改」等の激賞されている刀身を切断して、一折一鍛も加えていない刀身がある事を突き止めて、昭和11年、「刀剣と歴史」誌でこれを発表した。
「彼等の利口なところは、製鉄山に頃合いの鋼を特別に造らせて、之をレールの如き棒状で納入させ、直ちに一鍛も加えずに刀を造っ
た」と。
佐藤富太郎は、同条件で錵匂いの発現実験を行い、顕微鏡上の論拠からもこれは間違い無いと断定している。

天文の播州千種鋼(直接製鋼法)の出現で、中世の自給たたら製鉄(銑鉄製造)は徐々に衰退して行くが、江戸時代に入っても一部に残存
し、尚暫くは継承されていたとみられる。
他の複数の日本刀研究者が「新刀にも(古刀同様の)丸鍛えがかなりあった」と同様な証言をしていることからも、中世たたらの残存が
推測される。何故なら、均質化した千種、出羽鋼での一枚鍛えは実用性に乏しいからである。

名匠と目される彼等は、理由があって丸(一枚)鍛えの刀を造った筈だ・・・・・・と我々は考えがちである。
然し、二枚構造を常識とした今日的感覚で一枚鍛えを捉えるからそういう発想になるのであって、ここに大きな考察の落とし穴がある
ような気がする。
刀匠は極めて保守的であり、造刀法の継承は特にそうである。
永く、銑卸しの丸鍛えが当たり前だったとすると、新たに出現した商業鋼こそが異端であり、まして、折損の恐れがある為に心鉄を合
わせる等という事は、伝承技術からしても到底容認出来ることではなかった筈である。
そうだとすれば、彼等には丸鍛えにする「特別な理由」などはなかった。
それが当たり前であり、二枚の合わせ鍛えこそが「異端」であったからに他ならない。
只、古刀期と違う点は、商業製鉄の出現に依り、自ら銑を卸していた面倒な製鋼作業を、製鉄専業者に任せたことである。
鍛錬=製鋼が必ずしも刀匠の仕事ではないことに気づいたとも言える。
そして、新たに出現した量産鋼では、望むような刀が出来なかった。
従って、彼等が特別に造らせた刀材は、古刀と同様な「銑卸しの鋼=硬・軟鋼が練り合わさった不均質鋼」ではなかったかと推測され
る。
このことに依って、彼等の造刀効率は大幅に向上したと思われる。

別項で触れている様に、和鋼鍛錬の意味と鋼質を理解すれば、予め調整された適切な鋼があれば、鍛錬は徒労であり、硬・軟鋼を合わ
せなければならない必然性がない事が解る。それで刀身性能を損なう事は無い※3
鋼材が、既に硬・軟鋼を練り合わせているか、又は、粘硬性の金属元素を添加して、鋼そのものが粘硬な材質に変化している為であ
る。
その性能は、優秀な各種素延べ刀身で既に実証されている※4
又、附帯価値の刀身美も焼刃土の工夫次第で実現できている。
現に、彼等の作刀法と鋼材の実態を知らない刀剣界は、一鍛もしていない「丸津田」・「助直」・「真改」等のこれらの刀身を絶賛し
ていた訳である。折り返し鍛錬こそ日本刀と妄信している人達は、こうした現実をどう見るのであろうか。

       ※1 堀井秀明との共著「日本刀の秘奥」(雄山閣)を著す。日本刀を科学的に解明しょうとした希有な存在だが、彼を以てしても
           新々刀の概念に支配されていて、著書の中の造り込みや洋鉄に関しての考察にかなり偏った部分がある。
        ※2 津田越前守助廣: 延宝二年から表裏とも銘が草書体になる。これ以前を「角津田」これ以後を「丸津田」と区別
        ※3 折返し鍛錬と強度、日本刀の常識を問う参照  ※4 素延べ刀の刀身構造参照

Shinbu-tō (A cold bearable sword)


In the Manchuria of chill, or the north battle line, the conventional Japanese sword built on the assumption that the use in Japan exposed weakness, and was useless. In order to cope with the defect of the Japanese sword which becomes weak like glass in an intense cold battle line, Seijurō Masahide Aoyama developed a proof against the cold sword by instruction of Dr. Mitsutarō Honda of a Tōhoku Imperial University Metal Mmaterial Research Institute, and Tōyō-Hamono Co., Ltd. in Sendai manufactured it.
This blade carried out the one-piece forging of special steel, special salt water hot bath, and water hardening, and was manufactured. This sword took the abbreviated name of a "Metal Material Research Institute", and was also called  "Kinken-tō". This sword was an excellent a proof against the cold  Guntō which is used in a Manchuria or the north battle line of the Aleutian Islands, and does not have cold brittleness at the intense cold.
The knife for specially attack parties(Kamikaze) was also built .
One of the purposes of Kōa Issin-tō overlaps with having suited realization of the performance which bears cold.
Use steel materials
Special steel called "Tahado" steel (nickel chromium manganese steel).
"Tahado" is the coined word which combined Tough and Hard.
This steel was supplied to Tōyō Hamono Co., Ltd. from Japan Special Steel (present Daido Special Steel Co., Ltd.).
Period of production:   2,000-3,000 were produced to the defeat in 1942 to 1945.
The manufacture method of this blade is different in the first half and the second half.
Tōyō Hamono Co., Ltd made the steel-materials maker make the steel which fully rolled and were adjusted in the second half. And Tōyō Hamono skipped the process of a forging after receiving the steel, and aimed at improvement in the efficiency which makes a sword.
Since the production increase demand from the military authorities became still stronger, this was the disposal for increasing the efficiency of the process which manufactures a sword. However, although the forging was omitted, since the technique of traditional hardening was taken in, the quality of this blade did not deteriorate.

There is a talk which charms the interest relevant to this process increase in efficiency of the second half.
There were prominent swordsmiths who tried to build a sword from ancient times efficiently without spoiling the perfor-mance of a blade. The swordsmith is not forging the sword with a hobby or play.
Tomitarō Satō , the Japanese sword investigator who cut and studied blades praised highly, such as Marutsuda, Sukenao, and Shinkai, discovered that there was a blade which is not forge, and announced this in the "Sword and History" paper in 1936. He says,"They are very clever. They ordered the suitable steel for an iron mill specially.
They made it supply with a rail-like stick, and built the sword immediately without forging.
Sato conducted the experiment which reproduces a Nie and a Nioi on these conditions, and it is concluded also from the basis on a microscope that this is infallible.
If there is right steel beforehand adjusted when considering the reason of why Tamahagane needs to be forge as I was also touching in another section, it turns out that they are completely unnecessary labors, such as forging.
Blade performance is not spoiled by that. If there are suitable steel materials, the performance is already proved by the excellent practical use Gunto's blade besides "Ensyu-Kotetsu" of a spring sword. The blade beauty of incidental value is also obtained
The sword community which does not know the actual condition of such steel materials had extolled actually blades,
such as "Marutsuda, Sukenao, and Shinkai", etc. which have not forge.
What do people who believe by return that forging is just a Japanese sword blindly, and are playing in the made-up world think of such the actual condition ?





Edge length: 68.4cm,  Curvature: 1.5cm, Mekugi hole: One piece




九八式中期外装入





            猪首切先、刃文が認められる

 ← 銘: 振武刀                       裏銘→
 Mei: Shinbu-to                 東洋刃物株式会社作

                        Uramei:
                        Toyo Hamono Co., Ltd


(Photograph offer: Mr.Alfred Tan)
http://www.japanesesword.com/ 

(資料ご提供: 東洋刃物株式会社管理部総務課 鈴木 淳一様)



  2013年9月17日より(旧サイトから移転)
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