日本の鉄市場 (2) 0

中世日本の鉄市場 (2)

鉄市場に於ける需給量と舶載鉄

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中世日本の鉄市場(1)

世 界 の 金 属 生 産 量
新井宏氏論稿の冒頭言
『各時代の各種金属の生産量や価格の歴史は極めて重要な歴史項目であるから、どこかに資料がまとまつているはずであると思い、
それを探しまくつた。しかし、どうも世の中にそんな表や資料を作つた方はいないようである。もちろん特定な金属、特定な地域、
特定な時期の資料は部分的にまとめ上げられている場合もある。各々が苦心の賜物であり、なかなか骨の折れた仕事だつたようであ
る。ただし、それを集成したものはないし、それをただ纏めただけでは空白部分があまりにも多く、とても一覧性のある資料にはな
らない。思うに、学者は専門分野に忠実かつ微視的であり、論証できない事まで手を広げなかつたのであろうし、素人ではあまりに
も広範な歴史とか金属や度量衡、或は通貨に関する知識が必要で手が出せなかったに違いない。それなら私がやつてみよう、そして、
結論的に作り上げたのが表3の「各時代の各種金属の生産量」である』(一部ひらがなを漢字に変換した)
新井宏著「金属生産量の歴史(1)鉄」より


新井宏論稿「金属生産量の歴史(1)鉄」より、空白の欄は基礎資料無し

律令下の官へ納入する調傭の鉄は、美作国,備中国,備後国,伯香国,筑前国が指定され、断片的であるにせよ鉄に付いた木簡など
から手がかりはあった。この他『延喜式』には鉄関連の量や加工内容などのかなり詳しい記録がある。
新井氏は調庸国の鉄に加えて、調庸の鉄を出さなかった近江、播磨、出雲の鉄生産を予測して、年産400トンとされたようだ。
他国の生産量と比較して少し多いようにも思われたが、新井氏の年産400トンを借用させて戴いた。
平安初期から戦国初期まで約700年間に生産量が約600トン増えたことは不自然とは思えない。

只、戦国初期から江戸初期までの100年間に2,000トンも増産されたということに些か疑問を抱く。年間10トンの増産になる。
それ迄、年産1トンの増加であった。千種・出羽の商業タタラが出現したのは戦国時代が始まって40年後の天文(1532〜)からである。
この商用タタラの明細は一切判っていない。炉温が向上して、炉の容積が少し大きくなった位は想像できる。

英国では、木炭高炉から熱源をコークスに替えて生産量を飛躍させたが、稚拙な原始的タタラ製錬では、大正末にその火が消える迄
の1,300年の長い歴史を刻みながら、遂に製錬技術の革新は起こらなかった。
炉の容積を増やし、天秤鞴を採用した全天候型高殿タタラが江戸中期末にようやく出現しただけである。
物理的な改良だけで鉄の生産量を年産十倍も増やす為には、タタラ場の数を十倍増やさなければならない。これは至難の業である。
戦国初期から江戸開府までの間、タタラ場が十倍も増えたという証しはどこにもない。寧ろ発掘遺跡は減っている。

同様に、江戸初期(1600年)〜江戸中期(1700年)の100年間に、鉄の生産量が6,000トンも増えたのは如何かと思われる。未だ永代タタ
ラが出現する前である。商業タタラの生産地である千種、出羽、印可の各地で爆発的にタタラ場が急増したのであろうか。
新井氏が自ら述べられているように、律令の平安期以降、江戸中期までの鉄生産に関する基礎資料は皆無である。
従って、 新井氏は鉄の消費量から鉄の生産量を割り出されたのではあるまいか。
というのも、新井氏は、1250年前後(鎌倉時代から室町時代にかけて)を境として鉄仏に象徴される銑鉄使用の増加に着目されている。
確かにこの時期から鉄仏が沢山造られるようになった。
それには理由がある。宋末から元初にかけて日本から多数の禅僧達が修行の為、頻繁に大陸に赴いた。
帰国した僧侶達が鉄仏や法具の製作を積極的に促進したであろうことは容易に想像できる。
鉄仏の普及について、新井氏はタタラ製鉄の増産によるものと推論された。
氏は日本の鉄需要は全てタタラの鉄で賄われていたという前提に立たれていたようである。
筆者は、鈴木卓夫氏他の「鉄仏」論稿を二遍読んだことがあるが、二人の著者とも鉄仏の増産をタタラ製鉄の増産と論じていた。
国内鉄需要は全て和鉄で賄われていたという前提であり、舶載鉄のことなど、はなから頭になかった。
鉄に関してはこういう論調が実に多い。新井氏はこうした論文を参考にされたのだろうか。

鉄仏や法具など、十三世紀半ばに鉄の需要が急増したにも拘わらず、タタラ場の発掘遺跡数は逆に半減しているのである。
この時期は日宋貿易最盛期の終盤にあたる。輸入鉄は「生鉄=銑鉄」が最も安い。錬鉄、鋼になるに従って鉄の価格は高くなる。
この期を境にタタラ場は江戸の中期まで漸減(ぜんげん)してしまった。 (最下段の遺跡数の推移グラフを参照のこと)
舶載鉄の可能性が頭を少しでも過ぎっていれば、氏の国産鉄の生産量の判断が少し変わっていたのではないかと思われる。
江戸末期(1850年頃)の生産量14,000トンについて、明治12年の統計データによると和鉄の生産量は約13,000トンと読み取れる。
江戸末期の生産量が少し多いように思われるが誤差の範囲とし、後日の精査とする。
1
中 世 自 給 タ タ ラ の 鉄 生 産 量

    ヒ(ケラ)塊
  鋼、錬鉄、銑、夾雑物が
      混在する鉄塊

諸    元
備      考
炉寸法
  長手: 1.0〜1.8m
 妻手: 0.5〜1.1m
 高さ: 0.8m
  炉の大きさと形状は、地域と年代によって様々
 発掘遺跡の炉は破壊しているので高さは不明
 従って、炉高は高めの推定値とした
フイゴ
  踏鞴(吹子)
  古代は自然通風 → 皮吹子(かわふいご)
 8世紀頃、足踏み吹子(踏鞴=ふみふいご) が登場する
 吹差し吹子(箱吹子)の登場は13世紀以降(普及は15世紀から)
収穫物
   銑 鉄
  真砂は還元性が悪い。身近な赤目や浜砂鉄が多く使われた
 得られるヒ塊は銑(ズク)が一般的だった


収穫量

 小型炉
 鋼:0.003t 銑:0.45t
 大型炉(末期)
 鋼:0.09t  銑:1.3t
  単位:トン=t
  タタラ製鉄が資料に残っているのは江戸元禄末に出現した永代
 タタラのみ。古代〜天文年間に出現した商用タタラ迄の詳細は
 不明である
 従って、ズク押し永代タタラの平均的生産量を基準に、自給タ
 タラ炉の容量比率に換算して生産量を割り出した
  明の下級官吏・鄭舜功著「日本一鑑」に明記( ここを参照)

タ タ ラ 製 鉄 の 平 均 的 生 産 量

中世の自給タタラ炉は上に記したように大小様々な容積の炉があった。ここで単純な平均的炉の容積に基づいて生産量を出してみた。
 鋼 =   0.22t/タタラ炉1基
 銑鉄 = 0.69t/タタラ炉1基
これらの成果物には非鉄金属の夾雑物、ノロを多量に含んでいるので、使える鉄素材としては甘くみて1/2〜1/3に減少する。
江戸後期に出現して小割選別された夾雑物の比較的少ない良質の鋼(玉鋼)でも、赤熱鍛打の夾雑物除去作業で体積は半分になる。
(いわん)んや中世のタタラ炉においてをや・・・である。
仮に甘く見て、有効な鋼と銑の収穫量を1/2とすると、鉄の生産量は 0.45トンとなる。

全国で年産400トンの鉄を生産する為には、平均的な容量のタタラ炉が一代(ひとよ=4昼夜燃焼)で常時889基稼働していたことになる。
一ヶ所のタタラ場は年間数代作業をするので、タタラ場の数はかなり少なくなる。
この時代は「野タタラ」なので、年間の製錬作業回数は江戸中期以降の全天候型永代タタラよりかなり少ないものであった。
梅雨、台風、冬期の季節を避けて一ヶ所のタタラ場が年間何回作業できたのか、又、大〜中〜小のタタラ炉の内訳は全く不明である。
一代(ズク押しの場合=四日)の作業中に雨に降られて製錬に失敗するケースも多かった。
製錬の失敗で各地に残る「牛の背」と呼ばれる銑塊は、硬くて破砕する手段がない為にそのまま放置された製錬遺物である。
又、野タタラは、燃料の木、鉱石や砂鉄、粘土を求めて移動していた。
従って、発掘されたタタラ場の数を累計して鉄の生産量を割り出すことはできない。捨てられたタタラ場が多く存在するからである。

いずれにしろ、基礎資料が皆無であるから、緻密な生産量を出すことは不可能であった。
そこで、以下のような推定をして鉄の需給量の差を割り出してみた。
ただ、下記した平安後期の人口に関しては新井論稿とは別の資料を使ったので若干の相違があるが大勢には影響しない。
2


中 世・日 本 国 内 の 鉄 市 場

鉄 の 生 産 量 と 需 要 量

時   代
人口
(万人)
鉄の生産量(トン)
( )内は一人当たり
年間鉄需要量
試算 1
年間鉄需要量
試算 2
鉄 不 足 量
平安時代後期
700
400トン /年
57グラム /1人
1,400トン /年
200グラム /1人
1,400トン /年
200グラム /1人
1,000トン /年
143グラム /1人
                                  人口統計原典:社会工学研究所(1974)、Biraben(1993, 2005年)
鉄需要量の試算ー1
農・工・商にかかわる人員比率、所帯数、荘園数(農具、武器類)、防人・兵(つわもの)数、タタラ炉の稼働数・・・等、鉄の需給量を
推測する基礎資料がほとんど無い。
それでも、新井論稿を基に需要予測を試みた。極めて荒っぽい予測であることをご了解いただきたい。
尚、鉄の生産量400トンの内、窪田蔵朗氏は延喜式を基にして官が必要とする鍬(くわ)等の農機具、太刀・小刀などの刃物、鉄鋌など
の年間消費量を少なく見積もっても30〜50トン、原島礼二氏は官の年間鉄使用量を大凡24〜33万斤(150〜200トン)とした。
 窪田蔵朗著「改訂鉄の考古学」、原島礼二著「律令国家の鉄使用量」-「続日本記研究」
当時の律令下で、鉄の多くが調傭(ちょうよう=租税)だったので、仮に官への納入を150トンとすると、民への供給量は250トンとなる。
供給量は一人 35グラムである。一家十人構成とすると、各戸(家庭)に年間供給可能な鉄量は 350グラムである。
これは鋳物土瓶の一個分にしか過ぎない。勿論、鉄は工具、寺社の法具、建築物・建具などの金具、武士団の装備などに使われる。
平安中期には東西で「承平・天慶の乱」が起きた。期末には「源平合戦」の大乱があり、鉄の消耗が続いた。
これより200年前の白村江の戦いで、倭軍は軍装50トンの鉄を失ったといわれる。戦ではかなりの鉄が消費された。
従って、民間市場への鉄供給量は戸当たり350グラムは多すぎる。鍋一個すらも買えない少ない供給量だったと思われる。
社会で最も多いとみなされる農工具は荘園の所有物だから、一般家庭の鉄器は炊事用具、少量の鎌・鋤類であったろう。

平安末から鎌倉・室町までの500年間に鉄生産量は600トン伸びた。年1.2トン(0.003%)の増加である。
一方、十二〜十三世紀の百年間で人口は100万人・・・年1万人(0.01%)が増えた。鉄生産の伸び率よりはるかに多い。
二十年のスパンでみれば、鉄の生産量に大きな変化がないから、毎年市場に供給される鉄器類の二十年間の累計は8,000トンとなる。
これに、二十年以前から社会に蓄積されていた鉄器類が加算され、その時点に於ける社会全体の鉄製品の総量となる。
鋼・軟鉄は錆び易く、鋳物は壊れ易い。鉄器類の平均寿命を40年と仮定すると、大凡15,000トン以上の鉄器類が各分野に存在した。
使用上での破損による買い換え、戦争で損耗した武器・装具品の補填、人口増と社会経済の伸展に伴う需要増を加味して、世の中で
使われている鉄器類の5%の新需要があったと仮定すると年間750トンの鉄供給が必要になる。
更に、金属成分から舶載鉄と思われる鉄素材と鉄器が全国的に出土していて、それらを加味すると市場で使われている鉄器類の総量
は少なくとも倍以上の30,000トン以上はあったと推定される。そうであれば、年間に必要な鉄の供給量は1,500トン以上となる。
これから国産鉄の年間供給量400トンを差し引くと、年間約1,100トン以上の鉄が不足していた。

我が国に来港する宋の貿易船の鉄積載量を平均100トンとすれば十隻分の積載量に該当する。
危険な航海なので、普通は三〜五隻以上の船団を組んで来港した筈だ。
年間約1,000トンの鉄の不足を補うには、年間僅か十隻の貿易船の来港で賄えた。実際はもっと頻繁な来港だった筈だ。
新井氏は著書の中で、各国の鉄生産量と比較して、(近世に至るまでの)「日本は鉄生産の貧乏国」だったと喝破されている。

鉄需要量の試算ー2
計算基礎資料が皆無に近い中で、生活環境と生活習慣が近似する国で、且、自国の鉄生産だけで鉄の国内需要が賄えている国を参考
にする手がある。欧州では生活環境も習慣も違い過ぎる。結局のところそれを大陸にしか求める外はない。
当時の宋は世界一の鉄生産国だった。鉄の供給量は国民一人当たり400グラムである。日本の十倍に近い。
只、鉄の生産量が倍増したのは熱源の革命が起きた宋時代からで、宋の鉄は財源確保の為の有力な戦略物資の一つだった。
参考になるデーターは比較的輸出が少なかった漢〜唐の時代で、その生産量は一人当たり200グラムだった。その大部が国内消費に当
てられたとみても当たらずとも遠からずであろう。
これを日本に当てはめると、鉄需要は年間1,400トンとなる。国産鉄の供給量が400トンだから、年間約1,000トンの鉄が不足していた
ことになる。これは「鉄需要量の試算ー1」とほぼ近似していた。

この鉄不足は古代では朝鮮半島から、ある時期から主として大陸からの輸入に頼っていた。
3


宋 の 輸 出 鉄 と 才 田 遺 跡 の 鉄 材


才田遺跡全景
 福岡県朝倉市の南西部入地にある才田遺跡は、筑後川支流
 の沖積平野上に立地する奈良〜平安時代の遺跡である。
 大分自動車道の建設に伴い、昭和59・60年度に発掘調査が
 行われた。

 調査の結果、平安時代後期(11〜12世紀)を中心とする
 掘立柱建物跡20棟、井戸1基、木棺墓2基、溝16条、土坑
 83基などで構成される集落遺跡が検出され、多くの貿易陶
 磁器が出土しした。特に50号土坑からは完形に近い青白磁
 碗や褐釉鉢のほか、白山神社経塚から出土したと伝えられ
 るものと酷似する黄釉褐彩壺が見つかっている。
 多数の掘立柱建物の存在や、膨大な貿易陶磁器の出土など
 から、荘園に関連した遺跡と考えられている。
 ← 掘立柱建物跡の柱穴が多数見える
(九州歴史資料館展示解説シート29より)

遺跡の周堀から出土した鉄素材と鉄器
(福岡県教育委員会1998『九州横断自動車道関係埋蔵文化財調査報告書48』)
鉄素材


   記号:443〜445はタガネ状の鉄材で443が5本、444と445が2本づつ錆着で合計12本。完存する446(平板)は全長20p、
     本資料でタガネ状となっている角柱錐と平板状素材を桃崎教授は一括して「棒状鉄素材」と表現している。
     この素材は、下図の佐々木稔氏が呼称する全国で出土した「鉄鋌状鉄素材」とも近似している。


 華光礁1号沈船「鉄条材」 才田遺跡SD1溝              全国出土の鉄素材
   南宋13世紀前半頃   13世紀前半頃             佐々木稔著「鉄と銅の生産の歴史」の鉄鋌状鉄素材

左の華光礁1号沈船の「鉄条材」は日本の箸のように一方が太く一方が細い角錘形、もしくはやや扁平な楔形の鉄棒が数十本束ねられ
た結果、丁度円錐形に近い束をなしているものと、不定形の鉄片を竹籠に入れたものなど様々で、海底に沈むうちに銹着(錆着)して
塊状となっている(桃崎論稿より)。
その右の才田遺跡SD1溝(荘園領主居館の壕)から出土したタガネ(角錐)状の鉄素材は5本が土中で銹着(錆着)して出土した。
宋から出荷する時、鉄素材は当然ながら、ある単位で結束又は竹籠などに入れて出荷されたであろう。
沈船の角錘形鉄条材は丁度きりが良いように20本単位で結束されていたように見える。
陶磁器は土中にあっても腐らないので輸入製品のまま(破損していても)出土するから出土数は圧倒的に多い。
一方、積載された鉄素材は鍛冶炉で鉄器に加工されるから、鉄素材として出土する数は圧倒的に少ない。
才田遺跡の角錘形鉄素材は一束20本位あった内の未加工の残り5本とみれば、沈船の鉄条材のボリュームとほぼ一致する。
カラーとモノクロの違いはあっても酷似というよりか全く同じものと見て差し支えないだろう。
右の佐々木稔氏命名の「鉄鋌状鉄素材」もほとんどが「角錐形」である。ボリュームのある物は銹着(錆着)した鉄塊だと判る。
今回の沈船鉄素材と才田遺跡の鉄素材の形状が確認できたことで、佐々木氏命名の鉄鋌状鉄素材の実態が漸く明らかとなった。

加工鉄器



     449・450は刀子、449は復元全長218p。455は鎌、453は鎌の先端部と思われる。456〜460は鏃(やじり)。461は不明。
    462は桂甲(けいこう=うちかけよろい)の小札(こざね=鎧の札)。463は環状品で用途不明。464・467は釘と思われる。
    別に出土した釘は現存長52oだった。
「釘」は宋船に多量に積載されていたので、才田の鍛冶爐で加工されたものではなく、宋から持ち込まれた製品だった可能性もある。

共伴出土の陶磁器


(九州歴史資料館展示解説シート29より)

大量に出土する陶磁器は破損したものが多い。上掲写真は完品に近い陶磁器類である。
この中の「黄釉褐彩四耳壺」が、随伴(共伴)出土した角錐状及び板状鉄素材の比定に重要な意味を持つこととなった。
このことは前章でも触れた。
この「四耳壺」は北宋後期〜南宋前期頃の福建省泉州市にあった磁灶窯(じそうよう)で焼かれたものと特定されていたからである。
福建は生鉄(銑鉄)の一大加工地であった。
明の役人で、弘治二年(1556年)に倭寇の対策と日本の実情調査のために来日し、二年間に亘る調査結果を『日本一鑑』に著した鄭舜功
によれば、シャム(タイ)や福建からの密輸品の鉄で鉄砲が作られていたことを述べている。(「鉄の需要」参照のこと) 
明の時代になっても「福建の鉄」は有名だった。シャムというのは明の海商人が解禁令を誤魔化すもので、実際は福建の鉄をシャム
経由で日本に入れるか、シャムへの輸出と偽って日本に直接持ち込んでいた。
随伴出土した「四耳壺」は棒状鉄素材の産地を特定する有力な傍証となった。



4
環東シナ海貿易(東海貿易)

前章は主に南シナ海貿易(南海貿易)を述べた。
日本、高麗、琉球を対象とする東シナ海貿易を、後年に「東海貿易」と呼称した。

海外との交流は古くから行われていて、磐井の乱(527年)の後、九州・博多の那珂川河口の那津(なのつ)に外交施設として那津官家が
設置された。
飛鳥時代(592-710年)から海外交流や貿易の施設として鴻臚館(こうろかん)が設置されたことからも海外との交流が盛んだった。
遣隋使の頃、筑紫太宰が駐在して行政機関の太宰府が設置されると、筑紫の鴻臚館は行政機能がなくなり筑紫館と呼ばれた。
以後、海外貿易は筑紫の太宰府の管轄下に置かれ、太宰府は日本最大の行政機関となった。
畿内の難波津(なにわつ)には難波館が設置され、平安京には主に渤海使のための鴻臚館があった。
遣唐使船は、難波津を出港して北路か南路を進んだ。
金を産出してその貿易を管理していた奥州・藤原氏は独自のルートを用い、北方貿易とも呼ばれた。


 左図は東シナ海(東海)貿易の代表的ルートと港を示す。
 北の「北路」、中央の「南路」、南の「南島路」の三ルートを確立していた。

 「北路」は新羅を通るルート。航海術に未熟な和船は、朝鮮半島の西海岸に沿って
 北上し、山東半島の北岸にある登州に着く航路で、遣隋使船が使った。
 当初は北路が選ばれたが、日本と新羅の関係が悪化すると南路が選ばれるようになる。
 
 「南路」は五島列島を経由するルート、博多への直接ルート、坊津経由のルートが
 あった。 遣唐使船は直接ルートで慶元(明州)に渡った。
 五島列島は、大宰府と対馬を結ぶ拠点でもあった。
 唐の時代以降、明州(明代は寧波に改名)は日本船の指定港となった。
 
 「南島路」は琉球、及び日本への中継航路だった。宋の時代までは季節風と潮流に流さ
 れた貿易船の予備的航路だった。「元」の時代に入って元は琉球を朝貢国として貿易の
 便を与え、日本への中継基地としても栄えた。

貿易には、官が主体又は認可する公式貿易と、民間で運営する私貿易の二種類がある。
 公式貿易:  勘合貿易、朱印船貿易、公認の私貿易(宋の市舶司の官券を持つ民間貿易)など。
 民間貿易: 私貿易(厳密には密貿易)、倭寇。
       (荘園主、豪族などの貿易。寺社の勧進貿易、後の有力大名等の貿易は区分けが不明瞭)
この内、交易資料に残るのは公式貿易が主で、民間の私貿易は記録にほとんど出てこない。
実際は民間貿易の方が遙かに大きかった。
室町幕府の勘合貿易は約150年間に19回、一回の船団は2〜3隻。一方、十六世紀中葉の民間貿易(密輸、倭寇)の回数は538回、一回の
船団は数十隻から数百隻の規模だった。扱う物量は公式貿易など話しにならなかった。

宋の時代になると、宋の商人達は博多に多数居留し、但馬国や越前の敦賀に来航して居留をした「唐人」達もいた。
(大陸から来る人達を全て唐人と呼び慣わした)
宋の貿易船の船長は綱首と呼ばれ、博多に滞在する博多綱首たちは地元の有力寺社と友好関係を結び、手厚い保護を受けた。
綱首の中には日本で土地を所有する者もいた。
唐人の貿易関係者はまとまって居留したので、その居留地を「唐房」と言い、その地名が全国に残っている。
貿易船には100人前後の船員が乗っていた。季節風の関係で秋から冬に来日し、春から夏に帰国する貿易船は数ヶ月間日本の港に止ま
ることになる。五隻の船団だと約500人の船員が逗留する場所も必要だった。


 左図は九州の主な「唐房」地。
 右図は日宋貿易の玄関口である博多の「唐房」を
 示した。現在は海が埋め立てられているので、当時
 の海岸線はもっと陸側に引き込んでいた。
 筥崎は朝廷直轄の筥崎宮がある場所で、元寇の時
 「敵国降伏」の額を掲げて日本の勝利を祈願した
 神社として知られる。
 筥崎港は官貿易が多く、那の津や他の港は民間貿易の
 停泊地だった。
 唐房の規模は「那の津(博多津)」が一番大きかった。
 こうした唐房は全国の貿易船寄港地に存在した。
唐房の規模を知る逸話がある。
承徳元年(1097年)に、大宰府の長官が亡くなった。その時の葬儀の記録に「博多にはべりける唐人ども、あまた詣で来て弔ひける」
とある。又、貿易の利権に絡み大きなトラブルがあった。これに怒った大宰府の官吏が軍兵を率いて筥崎の唐房を襲った。宋(唐人)
の王昇という商人の後家さん宅以下千六百余家の資財を奪うという事件を起した。
当時の千六百余戸というのは大変な戸数である。
輸入品の荷下ろし、選別、国内商人との商い、輸出品の買い付け、船への積み込みなど、貿易にまつわる仕事に多くの関係者を必要
とした。これだけ多くの唐人達が生活していたということは、貿易が如何に活発であったかの証でもあった。
財力を蓄えた彼等は、博多の山腹に仏教伽藍を造営した。繁栄の様相が窺える。
桃崎祐輔論稿「北部九州の山岳寺院と博多の中国商人の関係」に詳しい
平安時代、大量に流入した宋銭が日本の貨幣経済を確立した。
南宋の東南海岸の密貿易を取り締っていた包恢は、日本から来航する貿易船について、「船高、船幅、船長が大きく、100名も乗せる
倭船が毎年40〜50隻、板木や螺頭(海産物か?)、 硫黄を積んで明州に入り、もっぱら銅銭を持ち帰る」と記した。
                        日 本に大型船の建造能力がないので宋船をチャーターしたものと思われる
平氏政権後の鎌倉幕府は民間貿易を認め、幕府みずから御分唐船という貿易船を出した。
大陸ではモンゴル帝国の内紛によって1240年代は南征がなく、その影響で南宋や朝鮮半島の高麗と日本との交流が盛んになった。
僧侶の往来が急増して、日本側は博多、大陸側は慶元が拠点となった。
慶元では市舶司が貿易を管理したが、商船の減少によって官貿易は廃止された。
十三世紀に宋からの陶磁器の種類と搬入量が急増した。
こうした陶磁器は鎌倉に大量に移送された。
また、ジャコウネコやインコなどの珍しい鳥獣を輸入して貴族や富裕層の贈り物にすることが流行した。
唐物の増加により物価が上がり、幕府は建長六年(1254年)に宋船の入港を5艘に制限しようとしたが失敗した。
それだけ貿易が盛んだったということである。
平安末期から鎌倉時代にかけての日本の主要な実用輸出品は、砂金、木材(羅木や周防の松杉)と硫黄だった。
硫黄は、宋の時代から軍備を支える火薬の材料であり、大陸より硫黄の産出が多い日本は日明貿易に入っても輸出が続いた。
仏教僧の移動が活発で、貿易船に乗って日本、高麗、元を往来した。
鎌倉幕府も、寺院や鎌倉大仏の造営費のために寺社造営料唐船と呼ばれる勧進船を派遣した。
韓国の新安郡で発見された新安沈船も、京都・東福寺、博多・筥(箱)崎宮の木簡が見つかり、寺社造営料唐船だったと判断された。


      1975年7月,韓国全羅南道新安那智島邑道の沖合いで漁船の網に数点の青磁がかかり、沈没船の存在が判明 した。
      水深20〜25mに横たわる船体長:約30.1m、幅9.4m、高さ4mで、当時の平均的ジャンク船だった。
      南宋・元時代の青磁、白磁、黒釉陶など1万8000点以上、金属製品5000点以上、銅銭28トン(800万枚)、黒胡椒、香木、紫壇木1千本、
      高麗青磁7点など膨大な交易品が引き揚げられた。日本製の遺物も見つかり、日本人も同乗していた。
      「東福寺」・「筥崎宮」銘の木簡が発見され、この船は神社仏閣のほか多くの商人が資本を出し合って仕立てた船とみられる。
      日本から持ち込んだ砂金と支那の輸出品を交換し、慶元を出港して博多に向かう途中の遭難とみられる。
      元の至治三年(1323)銘の木簡が複数発見されたので元時代の貿易船と認定された。盗掘団が暗躍し、かなりの遺物が盗まれていた。
      只、「鉄」は積まれていなかったのだろうか? 気になるところである。これについては前章を参照のこと。

南宋を滅ぼしたモンゴルのフビライは、鎌倉幕府に朝貢を求めたが、日本が拒否した為、属国の高麗を焚き付けて日本に侵攻してき
た。1281年、二度目の弘安の役では、漢人で構成する江南軍10万、高麗軍約8,000人が大量の軍船に乗って日本へ押し寄せたが、鎮西
武士団の活躍と悪天候に阻まれて遁走した。生還した者はわずか一〜二割足らずだった。捕虜となったモンゴル人と高麗人は処刑さ
れたが、古くから日本と交流のあった南宋人(漢人)は助命され、手に職を持つ旧南宋人はそれなりの扱いを受けた。
この戦いで、元軍は火薬が爆発する投擲弾を使い、鎮西武士団を驚かせた。黒色火薬を使う「「てつはう」という新兵器だった。
黒色火薬は中国の四大発明の一つと言われ、唐の時代に開発された。硝石・硫黄・炭を混ぜて作る。
硝石と炭は大陸で産出するが、硫黄はほとんど産出しなかった。当時、硫黄はムスラム商人達が西から供給していたと思われる。
琉球の最北端、薩摩の南西30qのところに硫黄島があり、硫黄がふんだんに産出した。宋の商人が見逃す筈がなく、宋の輸入品の一
つの目玉になった。火薬を知らない日本は喜んで輸出したことだろう。その硫黄を使って日本が攻撃されるとは何とも皮肉な話しで
はあった。
元は日本との貿易を戦争中も許可しており、元寇の後も貿易は続いた。
元寇の後、日本は武装した貿易船を高麗や元の東南沿岸に進出させた。前期倭寇の始まりとなった。

明の失政

 モンゴル人が支配する元を北方に追いやった漢人の明は、国の権威を発
 揚する為に朝貢政策を推し進めた。
 朝貢政策とは世界の中で自国が最も偉大な国(中華)で、他国を服属させる
 冊封(さくほう)体制のことである。
 明朝は、永楽三年(1404年)6月、色目人の武将であり宦官の鄭和に命じて、
 西洋に通使させた。
 鄭和は巨艦を含む大小62隻の官船と士卒27,800余名を率い、多くの金幣を
 乗せて遠くアラビアからアフリカに七回も遠征した。
 巨艦は宝船と呼ばれ、船長:150m、幅62m。
 現在に換算すると8,000トンクラスの大きさの船だった。

 ← マラッカ「鄭和博物館」の大船団模型より。中央が巨船の宝船

元初(1304年)から日本の武装商船(倭寇、海賊)の活動が始まる。明はこの防止策として洪武四年(1371)に「海禁令」を施行した。
海禁とは「下海通蕃之禁」(出海し外国に通交することを禁止する)の略語である。
以来、時々の情勢に合わせて内容が異なる「海禁令」が度々施行され、海外諸国とは朝貢貿易のみを許していた。
その結果、民間の貿易を制限することになった。
貿易の制限は、沿岸部にいた大勢の海商人と貿易関連の仕事に携わる人々の深刻な死活問題だった。
これに反発した明の商人達は一斉に密貿易に走り、倭寇と手を組んだりしてその活動を拡大していった。
自由貿易と違って、官憲の取り締まりの目を盗んでの密貿易は不自由である。一方、物資が必要な日本側の商人達は物資を確保する
為に密貿易を支援し、強奪も辞さない構えを取らざるを得なかった。
これを取締ろうとした明朝は、かえって嘉靖(1522〜66年)の「大倭寇」といわれる倭寇の跳梁を招く結果となった。
又、民間貿易の制限は、インドまで進出していたポルトガルやオランダにチャンスを与えた。明の手薄な貿易の間隙をついて、両国
の東アジアへの進出を許してしまった。これが清時代のアヘン戦争の伏線となった。( 倭寇についてはこちらを参照)

歴代の王朝が財源確保の重要施策として貿易の振興に力を尽くしてきたのに、財源の持ち出しが多い朝貢貿易は相手国の貿易船が活
発になるだけで、明の海商達には何のメリットもなかった。こうした状況から、明の船も200トンクラスの小型化に向かった。
そして、1436年、ついに遠洋航海用の船舶の建造が中止されてしまった。
朝貢政策は愚かな政策だったと言わざるを得ない。只、理由は分からない訳でもない。
異民族に支配された元時代の反動もあって「漢人の中華」を目指したものと思われる。
然し、倭寇の対策で国防費は財政を圧迫し、倭寇の跳梁はそれに追い打ちをかけて国を疲弊させた。

ついに隆慶元年(1567)、明は海禁令を解き、海外渡航の緩和策が取られた。
但し、倭寇を恐れた明は、日本に対してのみ渡航を禁止し、輸出品も「硝石・硫黄・銅・鉄」は禁止した。

世の中の交易資料、歴史書はとかく奢侈品・趣向品・珍品を取り上げがちである。
この分野で大陸は、相手国の宗教や社会習慣に合わせて輸出品を選んでいた。然しこれ等の品々は国家、産業、社会生活の基盤作り
に何も影響を与えない。確かに、奢侈品、珍品、絹などは利益巾が大きかったに違いない。
然し日本市場でそれらを求めるのは特権階級・上流階級と言われる僅かな人達にしか過ぎない。物量からすればたかが知れている。
これらが貿易の主目的だとすると、大船団を率いた密貿易や倭寇の跳梁は説明がつかない。
時の政権が黙認し、大名さえもが後ろ盾になった密貿易・倭寇の対象物は、国家・社会にとっての必需品以外には考え難い。
その物資が何であるかを明が明確に答えていた。

即ち、明が輸出を禁止した「硝石・硫黄・銅・鉄」などがそれである。これらは国防装備・産業(農工業)振興・社会の基礎作りに万
国共通で欠かせない物資であった。
戦国時代に入り大量の鉄と火薬が必要になった。明の都合でこれ等の輸入品が少くなったり止まることは由々しき問題だった。
火縄銃の伝来で鉄砲の製造が急増した。世界一の鉄砲保有国にまで成長した。
豊後の大友宗麟は福建やシャムからの鉄を入れる為に豊後府内に港を整備した。
日本で産出しない火薬用硝石は輸入するしか方法がなかった。効率を考える貿易船が硝石のみを積載したとは考えられない。
倭寇が争って奪った鉄器類を思えば、当然に鉄も積載された。日本の和銑では火縄銃が造れなかったからである。
倭寇が明の商人達とも結託し、鍋鎌・鉄器などを金を払ってまで必死に漁った理由が解ろうというものである。

戦国の世が終わり、鉄の需要も減ったであろう安土桃山時代から江戸初期にかけて、オランダ貿易の南蛮鉄が流入した。明は日本へ
の鉄の輸出を禁止していたが、明の史料「明神宗実録」の1612年の条に「鉄は(日本で)もとの値の二十倍になる」との記述がある。
この鉄は「熟鉄=軟鋼」だった。江戸慶長期に入っても、従来の「生=ズク」に加えて密貿易の「熟鉄=軟鋼」を輸入していた。
鎖国令後も平戸→長崎にオランダ商館を置き貿易は継続されていた。
江戸・紀尾井町遺跡の江戸・前〜中期〜明治初期の鋳鉄片と釘の7点が分析され、原料は磁鉄鉱石及び舶載銑鉄だった。
又、島根県獅子谷遺跡一帯の大鍛冶場の中から、砂鉄とは違う磁鉄鉱石材料が検出された。17世紀後半〜明治初期とみなされた。
幕末期、火縄銃と同様に和銑は大砲製造に使えなかった。鍋島藩は自藩の軍艦や貿易船のバラストと偽った洋銑を入れた。
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貿易船一艘が積載する鉄量の意味

中世日本の鉄の需給状態を推測する上で、時代毎の遺跡数の推移も参考となる。下にその推移を東西地域と炉形の状況を一覧表とし
て示した。これは製鉄炉の分析に詳しい穴澤義功論稿からの引用である。


 穴澤義功論稿「我が国の製鉄遺跡の歴史」の一部を修正した
 左縦軸が発見遺跡数、横軸は時代・年代である。
 右上がりの直線は一基あたりの鉄生産の推移を示す。
 筆者は、江戸中期末の永代タタラが出現する迄はもっと低い直線で、永代
 タタラのところで直線が立ち上がる逆 L 字型曲線ではないかと思う。
 時代区分に就いて、平安中期から中世と意識しているが中世の区分では説
 明し難いので穴澤論稿を修正して時代表示とした。
 
   
 遺跡数には三つのピークがある。@のピークは白村江の戦いで朝鮮半島の
 鉄利権を失い国産鉄の必要に迫られた為と思われる。
 Bのピークは永代タタラの出現ではっきりしている。
問題はAのピークをどう見るかである。平安は安寧の時代との印象があるが、780年〜802年の22年間、朝廷と蝦夷の激しい戦いが繰
り広げられた。朝廷は関東に兵站基地を置き、武器の生産を命じた。平安後期まで東日本に遺跡が多いのはこの影響を受けたのでは
なかろうか。これを皮切りに実に48回もの大きな戦いがあった。最後が源平合戦と河尻の戦いで終わる。これとの関連が想定される。
ただ、平安中期以降、西日本で急に箱形炉が復活した理由は分からない。

さて、ここでの本題は、平安末期から江戸の中期まで製鉄遺跡が激減していることである。普通は、時代と共に製鉄炉の数は最低でも
現状維持、常識的には増加していくものだと思う。炉数の減少で尚、需要を賄う為には一基あたりの炉の生産を飛躍的に向上させな
ければならない。原始的製鉄法を最後まで押し通したタタラ製鉄では欧州のような鉄生産の技術革新はなかった。
タタラ炉の容積は時代と共に徐々に拡大していったと思うが、それでも限界があった。(「たたら製鉄とは何か」を参照)
炉容積の拡大だけでは、拡大する鉄需要に対して激減しているタタラ炉で賄うことは不可能である。
この需要と供給のギャップを埋めたのが平安時代の後期から盛んになった鉄の輸入だった。これしか説明がつかない。

発見された貿易沈没船は一艘当たり数十トン〜二百トンの鉄素材と鉄器を積載していた。
一艘が100トン舶載したとすると、幕末の永代タタラ四十二基分の一代の生産量に匹敵する。平安後期から鎌倉中期の零細自給タタラ
であれば、一代・九十一基分以上の生産量に相当する。



遺跡から出土する鉄素材は陶磁器に比べて圧倒的に少ない。舶載された鉄素材は鍛冶場で鉄器に加工される宿命にあるから当然と言
える。鉄素材は見てくれも悪いし、美的鑑賞の対象などとは更々無縁である。これもさることながら、出土する量の少なさも、鉄が
余り注目されない理由であろう。鉄が輸入されていたと言う意識が薄らぐのは止むを得ない事かも知れない。
只、通信販売やインターネットが普及している今日と違い、必要最低限の物がその都度いつでも少量で買える時代ではない。
舶載鉄素材が一片でも出土したら、その背景には一隻あたり数十トンから数百トンの鉄が舶載されていたと見做さなければならない。
何故なら、貿易船が入港するのは季節風の関係で一年に一回である。100トン積んでも不思議はない。
今回の宋の沈船三隻の中、鉄を200トンも積載していた船もあった。

先に、国内中世での鉄不足を約1,000トンと試算した。鉄100トンを積んだ船が10隻も来航すれば事足りた。当時の外洋航海は危険を
伴うので、貿易船は5〜10隻の船団を組むのが普通であった。
鉄消費のピークは、戦国時代と外圧の危険に晒された幕末である。
戦国時代は大量の火縄銃が造られた。幕末は海防の為に各藩が大量の大砲を鋳造した。
因みに、24ポンドのカノン砲一門につき約 2.7トンの鋳鉄を必要とした。従来と隔絶した鉄の消費量だった。
然し、火縄銃も大砲も国産の和銑は脆くて使い物にならず、各雄藩は江戸開府前までは明の福建の鉄を、幕末にはオランダや清から
銑鉄を入手した。 (鋳造技術が未熟な初期には鋼を鍛造して造られた物がある。鍛造は極めて非効率で量産には向かず、鋳造で量産された)

永代タタラの生産量は銑鉄八割に鋼が二割である。需要は銑鉄が圧倒的に多かった。この比率は中世に遡っても変わらない。
国内の鉄の需要は有り余るタタラの鉄で賄われていたとの論を見かけるが、明確な論拠が示されていない。
若しそうなら、最も需要の多い銑鉄を舶載鉄にとって代わられたら「鉄山」は干上がってしまう。( 鉄山 = 製鉄の経営事業主)
在庫の山に苦しんで鉄山が倒産したという話しを寡聞にして知らない。
裏を返せば、舶載鉄が流入しても鉄山が殆ど影響を受けない程度の生産量しかなかったという傍証でもあった。
又、別章 で述べるが、大量に流入する舶載鉄は、タタラ製鉄の技術革新を妨げる要因ともなった。

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福岡県教育委員会1998『九州横断自動車道関係埋蔵文化財調査報告書48』ご提供元: 九州歴史資料館 様
引用文献: 九州歴史資料館展示解説シート29

参考・引用: 「製鉄・地鉄の参考文献目録」参照

2019年7月10日より   
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