ページ内検索 宋の海外交易
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海上交易の拡大 | 宋の輸出品
| 沈船の貨物
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日本での出土 |
発掘された古文書などで、紀元前の太古から 海上、水路を使う船の交易が盛んに行われて いた事が判っている。 紀元1世紀頃、ローマ帝国の地中海支配によ って、海上交易に従事していたギリシア系商 人が紅海やペルシア湾からインド洋に進出し て「海の道」を既に確立していた。 小さな木造船で、方位を太陽や天体の星に頼 るしかない時代に、今日の我々の想像を絶す る海上交易が展開されていた。 東西の交易に最も活躍したのは、ユーラシア 大陸西側のアラビア半島の広大な地域を支配 していたイスラーム帝国のムスラム(イスラ ーム教徒)商人達だった。 |
インド洋の西部では、4月から9月にかけては南西から北東、11月から3月には北東から 南西に季節風が吹く。彼等はこの季節風を巧みに使い、昼は太陽を、夜は水平線から北 極星の角度を測るカマルと言う観測装置※を使って緯度を測定して航海していた。 出港する場所とインドの目的地によって距離は異なるが、アラビアからインド迄の大凡 の直線距離 4,000qの航海日数は3〜4週間必要だった。 ムスラム商人達は既に確立していたインド東北部の航路を更に南下して、マレー半島 とスマトラ島に挟まれたマラッカ海峡の南端を分岐して南のジャワ、北東の「唐」南 岸の広州(カンフー)までの航路を確立した。 |
歴代王朝の首都が置かれた華北地方(例外あり)は政治・文化の中心であった。 対して、相対的に温暖な風土の江南地方は経済が栄えていた。 江南の豊かな物資を華北に搬送することは国家の運営にとって重大事だった。 隋(581-618年、日本の飛鳥時代前期)の時代には長江と黄河を結ぶ総延長約2,500km の運河が既に完成していた。 この運河は都への租税物、米や必需品、北方に展開する軍への兵站(へいたん)、貿 易港への輸出品の集積と輸入品の各地への配送など、効率的な搬送路として重要な 役割を担っていた。 唐・宋・元・明と歴代王朝は次々と増設・改良を加え、北は北京から南は寧波(旧 明州)まで黄河、淮河(わいが)、長江などの大河を縦断する一大水路網を築いた。 建国した宋(北宋)は、北方異民族との対立で膨大な戦費を必要とした。財源確保の 有力手段として古代から続いていた海外貿易の拡大に注力した。 海外交易は南海貿易と東海貿易の二方面があり、港としては広州,泉州,明州,温 州,杭州などが古くから存在した。 宋代初期の南海貿易の重点港は唐代から続く広州(カンフー)だった。 東シナ海に面した両浙地域と広州には市舶司が置かれていた。 |
宋代、福建路泉州には製鉄場として永春県に倚洋鉄場、青渓県には青陽鉄場があったことが知ら れ、青陽鉄場と考えられる安渓下草捕遺跡では製鉄遺跡の他、鉄鉱採鉱遺跡や木炭 製造遺跡も 発見された。この鉄場では木炭による製鉄が行われていたことが想定される。 『淳熙三山志』巻十四版籍五「炉戸」には、福州の各県で抗冶業に関わる「炉戸」の数と抗場が まとめられている。福州の福清県にある抗場では、東窪場、玉処場が「江陰里鉄沙場」、南匿場 が、「臨江里鉄沙場」、練木嶼が「安夷南里鉄沙場」、高遠が「南匿里鉄沙場」にあるといい、 福清県の抗場全てが鉄沙場、つまり砂鉄の生産地に存在する。この地名を確認すると、江陰里・ 臨江里・南匿里は福清県南二十五里の孝義郷、安夷南里は福清県の東南五十里の崇徳郷にある。 福清県域の南側は海岸地域であり、この「鉄沙場」は全て海岸に沿った砂鉄の生産地と見ること ができる。 宋代福州での砂鉄を使用した製鉄を示す資料が存在している。砂鉄から鉄を作る(ママ)ことは可能 であるが、すでにある鉄素材を加工(精錬)する為の脱炭材として砂鉄を用いることもまた可能で ある。 南宋で石炭(コークス)による製鉄が行われていたことを示す事例として、広東省新会で発見され た製鉄遺跡にて、コークスが発見されているという報告がある。ここは南宋最後の皇帝となった 趙昺が福建から広東へ退却する中で建設したものとされるが、詳細は不明である。この新会は陰 |
一帯一路(陸と海のシルクロード)政策を進めていた中華人民共和国政権は、海の シルクロードの論拠を補強する立場から、交易沈船の重要性に着目した。 然し、水中考古学者、潜水できる研究者は皆無に近い状況だった。 その為、急遽人材を欧州に派遣して水中考古学者の育成を図り、水中探査船の 建造に取りかかった。 大陸の東南沿岸部とインド洋〜アラビア海に至る交易海路には、近世に至るまで の貿易船が10万隻は沈んでいると指摘する研究者もいる。 同様な沈船が台湾海峡に約3,000隻、東シナ海には数十隻確認されている。 今回、宋代の貿易沈船三隻が引き上げられて積載貨物が調査され、宋代の輸出品 の実態が始めて明らかになった。 「百聞は一見に如(し)かず」である。 文献資料よりも確かな物証が得られた。 これまで、日本の交易資料に記載されることがなかった「鉄」が漸く確実な交易 品として考古学上に記されることになるだろう。 ← 左図の Xは三隻の沈没位置を示す。 華光礁1号沈船(西沙群島)、南海1号沈船(広東省陽江市の海陵島沖)、 爪哇海沈船(インドネシアのスマトラとジャワの間の爪哇海(ジャワ海) |
陶器底面の漢字、C14(炭素同位対比年代測定法)の結果から、800年前の宋時代の沈没船であることが 判った。 その後の調査で、象牙、布、大量の鉄 200トンと陶磁器 30トンを積んでいたことも判明した。 缶詰食品もあったが、これは乗組員用の食料であろう。 残念なことに、1996年に太平洋海洋資源会社が積み荷の本格的引き上げ作業に入るまでに長い時間 的空白があった為、漁民達によって売れそうな積み荷はかなり略奪されていたという。 彼らにとって、陶器や奢侈(しゃし)品を販売する方が漁業よりも遙かに利益が大きかったからである。 これは韓国南西部で発見された元朝時代の"新安沈船"にも言えることだった。 |
福岡大学考古学研究室の桃崎祐輔教授は、2018年3月末〜2019年3月末迄の一年間、中華人民共和国社会科 学院考古研究所に研究出張されていた。 この研究出張の最中、下記の孟原召2018論稿「華光礁一号沈船与宋代南海貿易」を入手された。 日本に帰国され、『中国沈船資料に積載された「鉄条材」と日本中世の棒状鉄素材の比較研究』と題した 論稿を早速著された。 以下の資料はその論稿に掲載された一部を流用させて戴いた。 ← 桃崎祐輔教授 |
類 別 | 華光礁一号沈船 |
南海一号沈船 |
爪哇海沈船 |
陶磁器 |
省
略 (上記表1左参照) |
省
略 (上記表1中参照) |
省
略 (上記表1右参照) |
金属器 | .
鉄条材 .(華光礁一号沈船写真参照) |
.鉄条材 (多数) .鉄鍋 (多数) .(南海一号沈船写真参照) |
.鉄条材 (多数) .鉄鍋 (多数) .(爪哇海沈船写真参照) |
.銅鏡、銅銭等 | .金器、金叶、銀器、銅器、錫器、鉛器 .銀錠、銅不(王偏に不)、銅鏡、銅銭等 |
.銅鐸、銅錠、銅鏡、青銅像、錫抉等 | |
其 他 | .漆木器、石器、串飾、朱砂等 | .玻漓、乳香、砑石、象牙等 |
この棒状鉄素材は幅が狭い楔形の板状だが、角錐形の箸状をなすものもあった。 中でも福岡県朝倉市の才田遺跡では、福岡県教育委員会の調査で、平安後期〜鎌倉期の堀をめぐらす掘立 柱建物20棟ほどが発掘され、荘園の在地領主(荘官)の居館と集落とみられている。 この SK50号土壙からは大量の各種宋代の陶磁が一括出土し、十二世紀前半の伝世陶磁器を含んでいる が、十三世紀後半に埋没した窖蔵(あなぐら)とみられた(福 岡県教育委員会1998)。 この才田遺跡の周堀からは、箸(はし)のような角錐形の棒状鉄素材が 12本出土している。 当時、桃崎教授はこの金属遺物について、支那の福建省あたりから輸入された鋳鉄素材(棒状・板状)を日 本列島で脱炭し、棒状の鋼材に再加工したのではないかと想定されていた。 桃崎教授は、孟原召氏論稿の沈船の棒状鉄素材を見られて、才田遺跡の鉄素材に酷似していることに 「驚きを禁じえなかった」と述べられている。 「孟原召氏の検討を経た今日の知見に立てば、この棒状鋼材自体が、貿易陶磁器とともに舶載された可能 性も考えられる」とされ、「才田遺跡の棒状鉄素材自体が、舶載鋳鉄(銑鉄)を日本で加工したものではな く、随伴した陶磁器と共に日本に直接舶載された可能性が高い」ことを予見された。 日本では、発掘文化財を破壊検査出来ないという制約がある。 金属の成分々析が出来ないことが日本の鉄市場を解明にする上で大きな障害となっていた。 金属分析の先人達は僅かな錆び片から苦労して元素成分を確認していた。 |
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