日本の鉄交易(1) 0

中世日本の鉄市場 (1)

宋朝・海外交易の実情

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日宋交易の隆盛は広く知られている。ただ、日本の交易資料の中で交易品の「鉄」は、舶載鉄の出土品が多く確認されているにも拘わらず殆ど無視されてきた。
南シナ海で発見された宋代(日本の平安後期〜鎌倉中期)の沈没貿易船貨物の実態が2018年に明らかになった。
これは日本の交易実態を明らかにする画期であった。この沈船の積載貨物の「鉄」が日本の遺跡から発見されていたからである。
交易は相互の国や商人達の政策と思惑が密接に関与し合って成立する。この相互の交易の必然性を二章に亘って述べることにした。
先ず、日本の相手国・宋の 交易実態の概要を述べ、次いで、日本がなぜ輸入鉄を必要としたかの鉄市場の実態を次章で述べる。

古代〜中世の東西海上交易

発掘された古文書などで、紀元前の太古から
海上、水路を使う船の交易が盛んに行われて
いた事が判っている。
紀元1世紀頃、ローマ帝国の地中海支配によ
って、海上交易に従事していたギリシア系商
人が紅海やペルシア湾からインド洋に進出し
て「海の道」を既に確立していた。
小さな木造船で、方位を太陽や天体の星に頼
るしかない時代に、今日の我々の想像を絶す
る海上交易が展開されていた。

東西の交易に最も活躍したのは、ユーラシア
大陸西側のアラビア半島の広大な地域を支配
していたイスラーム帝国のムスラム(イスラ
ーム教徒)商人達だった。
イスラーム帝国は、時代により様々な王朝が勃興したが、二代目のアッバース朝(750〜1258)の時代に交易は最盛期を迎える。
ムスラム商人が操る船は「ダウ船」と呼ばれる船長15〜20メートル、積載量180トン位の三角帆を備えた木造船だった。
三角帆の最大の特徴は逆風でも前進できることにあった。

 インド洋の西部では、4月から9月にかけては南西から北東、11月から3月には北東から
 南西に季節風が吹く。彼等はこの季節風を巧みに使い、昼は太陽を、夜は水平線から北
 極星の角度を測るカマルと言う観測装置を使って緯度を測定して航海していた。
 出港する場所とインドの目的地によって距離は異なるが、アラビアからインド迄の大凡
 の直線距離 4,000qの航海日数は3〜4週間必要だった。
 ムスラム商人達は既に確立していたインド東北部の航路を更に南下して、マレー半島
 とスマトラ島に挟まれたマラッカ海峡の南端を分岐して南のジャワ、北東の「唐」南
 岸の広州(カンフー)までの航路を確立した。
広州港市(こうし) には、色目人と呼ばれたアラブ人や西方の異人など多数の貿易従事者と移住者が居住する居留地(蕃坊=ばんぼう)が
設けられた。清浄寺というイスラーム教信仰の建物(モスク)までもが作られた。
アッバース朝の首都バクダードの人工は100〜150万人、唐の首都・長安も100万人前後(総人口8,000万人)が住む世界的な二大都市
だった。ムスラム商人達にとっては魅力的な市場であったことだろう。 (日本の平安時代前期に該当し、日本の総人口は550〜600万人前後)
今日でも、東南アジアのマレーシア連邦(人口の60%)、インドネシア共和国(87%)、ブルネイ(78%)、フィリッピン南部などに
イスラーム教徒が多いのは8世紀から活発になったムスラム商人の東南アジア交易の結果である。東南アジアに与えた影響は大きい。
         ※
中国の四大発明の一つである羅針盤の原型は、磁力を持った針を木片に埋め込んだ「指南魚」というものを後漢末(3世紀頃)
          に占い用途で使っていた。唐代末の9世紀から北宋の11世紀の間に航海に使える本格的羅針盤が出現する。
          この羅針盤によって航海術は著しく発達し、大航海時代が始まった。

海(水)路交易の優位性
遠隔地との交易には、主としてラクダを使う陸上の隊商交易と、船による海上交易とがある。
海上交易は悪天候や荒波によって船が沈没する危険を伴う命がけの交易だった。出港した船の半数が沈没したという研究もある。
因みに、日本の遣唐使船は18回出港して無事に帰国できたのは8回だった。
それでも海上交易に果敢に挑戦したのは以下のような優位点があったからである。
 @ 陸上交易は路が整備された陸続きの国しか対象にならず、ラクダの歩行振動で壊れやすい物品は運べなかった。海を隔てた対象
   国は当然に船しか輸送手段が無い。
 A 陸上輸送では事実上不可能な重量物の運搬ができる。船を使ったナイル川でのピラミッド建設用の石の運搬はその典型例。
 B 陸上に比べて一回に運べる圧倒的な物量差と輸送日数の短縮。西のアラビア半島と東のチャイナは陸続きである。北の草原ル
   ートかオアシスルートを通れば輸送はできる。ルートの途中で細かい交易ができる利点はあるが、遠隔地に大量な品物を直接
   運ぶには大変な手間と日数が掛かる。平均的ダウ船一隻の積載量はラクダ約600頭分に該当した。
   目的地が陸路と海(水)路の双方が選択できるなら船の運搬が最も効率的だった。
 C 陸路対海(水)路の一回の輸送量と輸送期間の差は輸送コストにそのまま跳ね返った。
上記以外に決定的だったのは、中央アジアの陸上貿易ルートは北方遊牧民の台頭による阻害にあって使えなくなり、東西世界を結
ぶ貿易路は海路とならざるをえなかったことである。

海(水)路交易の拡大
黄河流域での五代十国の騒乱を治めて960年に成立した「宋」は農業(米)の増産を推進した。造船技術の進歩で船底に竜骨の無い堅
牢な平底の帆船であるジャンク船の建造が始まった。官船は500トン、民間船は300トンが標準で、ムスラム商人のダウ船を一回り以
上大きくした重量物の運搬に適した三本マストの帆船だった。この頃から実用的な航海用羅針盤が登場した。

 歴代王朝の首都が置かれた華北地方(例外あり)は政治・文化の中心であった。
 対して、相対的に温暖な風土の江南地方は経済が栄えていた。
 江南の豊かな物資を華北に搬送することは国家の運営にとって重大事だった。
 隋(581-618年、日本の飛鳥時代前期)の時代には長江と黄河を結ぶ総延長約2,500km
 の運河が既に完成していた。
 この運河は都への租税物、米や必需品、北方に展開する軍への兵站(へいたん)、貿
 易港への輸出品の集積と輸入品の各地への配送など、効率的な搬送路として重要な
 役割を担っていた。
 唐・宋・元・明と歴代王朝は次々と増設・改良を加え、北は北京から南は寧波(
 明州)まで黄河、淮河(わいが)、長江などの大河を縦断する一大水路網を築いた。
 
 建国した宋(北宋)は、北方異民族との対立で膨大な戦費を必要とした。財源確保の
 有力手段として古代から続いていた海外貿易の拡大に注力した。
 海外交易は南海貿易と東海貿易の二方面があり、港としては広州,泉州,明州,温
 州,杭州などが古くから存在した。
 宋代初期の南海貿易の重点港は唐代から続く広州(カンフー)だった。
 東シナ海に面した両浙地域と広州には市舶司が置かれていた。
市舶司は、海上貿易を管理する役所で唐代の714年に広州に置かれた。貨物の検査や関税の徴収、民間貿易の許可証、外国商人の保護
監督などに当たった。後に泉州(広州に替わる巨大港市),明州(後の寧波)、温州、杭州などに置かれた。
1
海 外 交 易 の 隆 盛

南北朝時代から歴代の王朝が着々と進めてきた長江下流域の開発をはじめ江南地方の開発が飛躍的に進み、沿岸地帯に資本や労働力
が急速に蓄積されて行った。商業規制も緩和されたこともあって経済的には大変な繁栄期を迎えた。
唐代から広州は貿易港として著名であるが、ムスラム商人は広州のみに止まっていた訳ではない。
彼等は広州の航路を確立した後、泉州 → 福州 → 明州と東シナ海まで更に航路を延ばしていた。
宋の時代になって、広州の官吏の汚職で貿易の業務が不安定になり、交易に掛かる重税なども原因して北宋中期にはそれを忌諱した
彼等は広州の東にある福建省・珠江(しゅこう)河口にある泉州(ザイトン)を積極的に利用するようになった。
泉州は広州の次に南海(南シナ海)諸国に近く、且つ、東海(東シナ海)の明州も近くなり、商圏拡大には幸都合であった。
政権による海外交易の振興策は、南に流入する人口移動に更なる拍車を掛けることになった。
海外市場が加わることで、国内の産業規模が拡大して商業が栄えた。仕事のある処に人が集まるのは自然の流れであった。

福建省は山林が海岸まで迫る平地の少ない地形だった。その西に位置する泉州は元々が平凡な港町だった。
東晋朝(317年〜)時代、東晋朝廷は晋安郡を泉州に置いた。北方からの福建への人口流入が始まっていた。
シルクロードで「絹」を求めに来たアラビアやペルシャの商人達が広州と同様に既に泉州に居留地を設けていた。
泉州は農耕地がほとんど無い為に造船業、漁業、手工業が主たる産業だった。
農作物などの搬入、他地域への生産物の搬出は地形の関係から輸送手段は殆どが船に頼っていた。
宋の時代に入って造船技術の格段の進歩と、羅針盤の開発、海外交易の促進策と相俟(ま) ってジャンク船の建造が急増した。
福建省の広大な山林は、西側沿岸地域の広東省と共に造船に適した馬尾松(ばびしょう) という松を多量に産出した。
造船業の発展拡大は福建省の経済を大きく下支えした。
又、福建省は「生鉄」の加工業が盛んだった。「生鉄」とは溶融製錬(製鉄)で最初にできる鉄を指し、銑 (ずく)鉄のことである。
福建は鉄の産地ではないから、華北の鉄の産地から生鉄を集積して来て鋼や錬鉄を造る精錬(銑の加工)所が多数存在した。
これらの鉄素材は「福建の鉄」として鄭舜功の『日本一鑑』にも記されている。
商品としては銑・鋼・錬鉄の鉄素材のままと、これ等を鍛・鋳造して釘や鉄鍋などの様々な鉄器が造られた。

宋朝(北宋)の後期(1087年)に永い念願だった市舶司が設置された。泉州が両浙や広州に並ぶ法定の貿易海港となった。
時代が下がるとともに交易量は飛躍的に伸びて、東側の雄である明州、温州、福州などを超えるに至った。
その上、時の政情が更に味方した。
宋朝の華北が、北方の女真族(金)に奪い取られた。華北を追われた王侯貴族や庶民が大量に江南に逃れて来た。
1127年、淮河(わいが) 以南の地に南遷して臨時首都を臨安(現杭州)に置き「宋」の復活・再興を夢見た。「南宋」の始まりである。
日本の平安時代後期に当たる。
金との争いで軍は弱体化し、経済も疲弊した。国の再建には膨大な財源が必要となった。
南宋朝は財源の確保に海外交易を強力に推進した。国内産業を振興する為にもそれが最も効果的だったからである。
発足した南宋は平穏ではなかった。南宋の東岸地域には金の侵攻が続き、戦争が絶え間なかった。
首都臨安は杭州湾に注ぎ込む富春江の河口に近い位置にあって、絶えず南下侵攻する金との小競り合いが続く戦場になっていた。
臨安の貴族達は戦場から遠い泉州に海路で逃げ込んで来た。福建省は地形上、北方陸上からの攻撃は難しく、左右は河川で隔たって
いた。福建省の東には閩江(びんこう) 下流域に位置する福州という交易港もあったが、戦場からより遠くという心理と発展が著しい
泉州が選ばれた。更に西には未だに栄華を誇る広州もあるが、広東省の西側は陸続きの胡(こ)の脅威に晒されていたので最も安全な
泉州が選ばれた。(胡(こ)=北方・西方の異民族に対する蔑称)
建炎元年(1127年)に宋を再興(南宋)した高宗は、早くも二年後の建炎三年(1129年)に南外宗正司※1を泉州に移し、多くの皇族が泉州
に定住した。引き続き紹興四年(1134年)、金の南侵によって、六官※2を首都の臨安から海路で泉州に移転させた。
泉州は事実上の首都の様相を呈してきた。(※1 皇族の世話をする役所。※2 治・教・礼・兵・刑・事(工)を司る中央官庁)
多くの北方の士大夫(したいふ)や貴族なども泉州に移住してきた。 (士大夫 = 北宋以降、科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者)
これにより、主に上層階級に供していた海外からの奢侈(しゃし) 品・趣向品の需要が高まり、「乳香※3」の例に見られるように海外
貿易の扱い品目が大幅に増え、福建路内での販路が更に大きな広がりをみせて発展していった。
南宋の泉州の人口は唐の開元時代に主戸※4  31,600、客戸 44,525だったものが、南宋の淳祐期では主戸 197,219、客戸 58,479とな
っていた。家族が5人平均とすると人口はその五倍となる南宋最大の都市に膨れ上がっていた。               
                
※3 アフリカ北東岸、アラビア半島南岸、インド南岸に自生するカンラン科ボスウェリア属の樹木から採れる樹脂。
                   これを加工して香や香水、薬品を造る。古代では金に匹敵する高級品だった。
                ※4
主戸:土着の本国人(漢人)、客戸:ムスラム商人などの居留地住人、転入して住み着いた外国人(色目人)。

金との騒乱で両浙地域の諸港に居た商人達も泉州に移動して来た。彼等が持っていた商圏がそのまま泉州に加わることになった。
宋末・元初には遂に広州を抜き最大の貿易港に成長した。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』に、「高価な宝石・大粒の真珠などを多量に積み込んだインド海船が続々とやってくる。ザイトン
(泉州)は世界最大の貿易港の中の一つ」と述べ、十四世紀の中頃に泉州を訪れた旅行家イブン・パットゥータも『大旅行記』に
「この停泊港は、世界の数ある港のなかでも間違いなく最大規模の港であり、約百隻の大型ジヤンク船と数え切れない小船を見た」と
記している。泉州は国際色豊かな世界最大の貿易港となっていた。
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宋 人 の 海 外 へ の 進 出

唐の時代から大陸の海外交易はムスラム商人達が支配していた。南宋を滅ぼして「元」を建国したフビライ・ハーンも海外交易を
推奨し、富豪となった色目人達を要職に登用して海外交易を任せた。ムスラム商人達は大陸の沿岸部に深く根付いていた。
古くから海外交易の旨味を知っていた宋人(漢人)達は指を咥えて見ているだけではなかった。
彼等は古くから南シナ海交易と東シナ海・黄海交易(後に南海貿易、東海貿易と呼称)を行っていた。宋代に入って造船技術の飛躍的
な進歩と羅針盤の出現で遠洋航海の安全性が格段に向上したことから、より積極的に海外交易に進出するようになった。

彼らは好むと好まざるとに拘(かか) わらず、生活の為には交易商売に関与せざるを得なかった。それが福建人の生活の糧だった。
歴史的に泉州人は知識人が多かったが「海外から帰国してきた宋の商人(漢人)達が多くの富を得ることを羨 (うらや)み、泉州人は
交易商売にみんな熱を上げていた」との史書の記録が当時の社会状況を端的に顕(あらわ)している。
宋代の福建路各地の経済は大きく発展し、農業と手工業などの進歩によって、海外貿易に豊富な物資を提供するとともに、貿易商品
に対する課税と輸入品の専売によって得る利益は国家財政の重要な財源となっていた。
市舶司が置かれた主な貿易港の守備範囲は
南海貿易が泉州、南海と東海貿易が明州(めいしゆう=後の寧波(ニンポー)、 杭州、秀州、朝鮮半島への黄海貿易が密州となっていた。
南海貿易はムスラム商圏と重複するが、宋の商人達は彼等と手を結んで相乗効果を上げていた。
一方の日本、琉球王国、朝鮮半島の高麗を対象とする東海・黄海貿易はほぼ宋商人(漢人) が独占していた。(日本では唐人と呼ぶ)
貿易相手国に居留する宋商人も次第に増えていった。彼等はやがて「華僑」と呼ばれるようになった。

宋にとって東海貿易の主要国は、人口、国の成熟度、宋が欲しがる物資の豊富さからして日本である事は論を俟 (ま)たない。
平安時代後期の平清盛の時代、日宋貿易は最盛期を迎えた。博多を始め福原の大輪田泊、瀬戸内沿岸の港が増・改修された。
これを、日本の海外交易への積極的進出とみる向きもあるが、当時の日本は高度な造船技術も航海技術も未熟だった。
危険を冒(おか) して宋から来航する交易船は復路を空船で帰る筈がない。当然日本からの輸入品を満載して帰った。
確かに、京都や博多の有力寺社や荘園主が間欠的に宋への貿易船を出していたが、日本からすれば、敢えて和船を危険な遠洋航海に
出さなくても、宋の貿易船を利用することで輸出の目的は果たされていた。
日宋貿易の隆盛は、偏(ひとえ) に宋朝廷と民間商人の「お家事情」の必要性から、終始宋側が積極的であった結果によるものと推量
する。清盛の港湾の整備は、頻繁に来港する宋の交易船の利便性を図る為の受動的な政策だったと思われる。
3
宋 の 輸 出 品

宋の輸出品には「実用品」と「嗜好品」の二種類がある。嗜好品は美術工芸品、装飾品類、貴重な食品類、香料などである。
実用品は相手国の産業振興に寄与する物、軍備の充実、民衆の生産用具・生活利便に必須の物などである。当然、宋で豊富に生産さ
れて相手国が欲しがる物、相手国が生産していても価格的に安価に提供できる物が対象になる。
農・工・漁具、公・私の建造物や建具金物、木造船用鉄釘類、軍の鎧や武器の装備品、調理用具や食器類、製塩用大型鉄釜などが実
用品の例である。これらはいずれも「鉄素材」から造られる。
「鉄は国家なり」という有名な言葉がある。
プロイセン王国(ドイツ帝国)の鉄血宰相・ビスマルクが演説に使ったこの言葉は、日本の鉄鋼メーカーも格言として好んで使った。
鉄の生産量は現在でも国力を示す重要な指標となっている。この言葉は古代ではより重きをなしていた。

宋時代に入り淮河(わいが) より北の華北地方は、無煙炭に替わって火力の更に強いコークスが一般家庭にも浸透していた。
只、江南(長江の南)では木炭を、四川では竹炭を利用していた。
南宋の時代になると中原地方に首都を置く開封でも、数百万戸の中に薪を用いる家は無かったと記録に残る。
鉄の産地はコークスと鉄が採れる華北部に集中し、華北の東には古来から鉱物資源が豊富な山東半島とその南の長江下流域がある。
北宋時代の民間の鉄生産量の95%以上が北方諸路で生産されたという。
小アジアの鉄先進国から遅れて製錬(製鉄)を開始した中国は、紀元前五〜六世紀には溶融製錬(近代的製鉄法)を開始している。
漢代の紀元前二世紀頃に製鉄技術は完成の域に達した。併せて、「炒鋼法」という西欧が十八世紀になって漸く辿り着いたパドル製
鋼法と同じ原理の近代的製鋼法を二千年前に実用化していた。 (詳しくは「大陸の製鉄」を参照)

銅山と鉄山は政府の管理下に置かれ、大きな鉱山には特別行政区である監が徐・相・兗の三州に4つ置かれ、それより少し小さい鉄山
に12ヶ所、中規模鉄山に20ヶ所、小規模鉄山に25ヶ所の監督署が置かれていて、大〜小六十ヶ所を超える鉄山が稼働していた。
鉄山に近接して設置された多くの製錬(製鉄)所は、木炭より廉価で高火力なコークスを利用する事で鉄の生産量が飛躍的に向上し、製
錬(製鉄)と精錬(製鋼)費用を大巾に下げることができた。因みに、鉄の生産量は唐代に比べて二倍となり、年間生産量は2万2千トン前
後に達した。欧州での製鉄の近代化に一番熱心だったイギリスは、十八世紀に木炭高炉からコークス高炉に転換して鉄の生産量を飛躍
させ、全欧州のトップに立っていた。この時点でのイギリスの生産量が年産5.000トンである。
宋と八百年後のイギリスとの圧倒的時代差を考慮すれば、宋代の鉄の生産量は膨大なものであり、宋は世界最大の鉄生産国だった。
「水は高きから低きに流れる」の格言通り、製鉄後進国に鉄が輸出されるのは自然であった。

又、五代十国時代に銅の生産が落ち込んだものの、銅生産を復活し、激増する商取引に対応する為に貨幣(銅貨)が大量に造られた。
銅貨は海外にも流出していたので銅貨が不足し、紙幣を発行しなければならない程に商取引が激増していた。
あわせて、宋代は各地で窪(よう) 業が活発化して、高温で焼かれた美しい陶磁器の生産が最盛期を迎えていた。
陶磁器も絹と同様に主要輸出品に加わった。実用陶磁器が相手国の食生活を大きく支えることになった。

以上、日本の鉄輸入に無縁とも思われかねない宋の国内事情と海外貿易の概要を述べた。
理由は、日本の交易状況を考察する上で、相手輸出国の政策、貿易商人達の思惑などが強く働いたと思われるからである。
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沈 没 船 の 貨 物


 一帯一路(陸と海のシルクロード)政策を進めていた中華人民共和国政権は、海の
 シルクロードの論拠を補強する立場から、交易沈船の重要性に着目した。
 然し、水中考古学者、潜水できる研究者は皆無に近い状況だった。
 その為、急遽人材を欧州に派遣して水中考古学者の育成を図り、水中探査船の
 建造に取りかかった。

 大陸の東南沿岸部とインド洋〜アラビア海に至る交易海路には、近世に至るまで
 の貿易船が10万隻は沈んでいると指摘する研究者もいる。
 同様な沈船が台湾海峡に約3,000隻、東シナ海には数十隻確認されている。
   
 今回、宋代の貿易沈船三隻が引き上げられて積載貨物が調査され、宋代の輸出品
 の実態が始めて明らかになった。
 「百聞は一見に如 (し)かず」である。
 文献資料よりも確かな物証が得られた。
 これまで、日本の交易資料に記載されることがなかった「鉄」が漸く確実な交易
 品として考古学上に記されることになるだろう。

 ← 左図の X は三隻の沈没位置を示す。
  華光礁1号沈船(西沙群島)、南海1号沈船(広東省陽江市の海陵島沖)、
  爪哇海沈船(インドネシアのスマトラとジャワの間の爪哇海(ジャワ海)

華光礁1号沈船
1996年、中国の漁民が西沙群島の華光礁で潜水漁労をしていた時、一艘の沈没船を発見し、"華光礁1号"と名付けられた。
西沙群島は珊瑚礁の海に在り、水深22〜23メートルの浅いところで発見された。
1998年に国の博物館と海南文物部門が試験的な発掘を始め、一部の回収された陶磁器の製作年代から、この沈船は「南宋」初期の交
易船であることが判明した。
船体はかなり損傷していて、残存長:18.4メートル、船巾残存長9メートル、船体高:3〜4メートルだった。
2007年、国立博物館と海南文体庁が共同で西沙考古工作隊を組織し、海底の“華光礁1号”の考古学的発掘を本格的に開始した。
これが、中国で初めての大規模な海中の考古学的発掘となり、大量な磁器をはじめ何万点もの遺物が発見された。

南海1号沈船
1987年、広東省陽江市の海陵島沖で広州市海難救助局と英国企業が合同で「東インド会社の沈没船」を探査中、偶然にも海面下20数
メートルの海底に、厚さ2メートルの泥に埋まった南宋時代の沈没船を発見した。だが、長い歳月と海水の浸食によって船体の傷みが
激しく、「貨物と船体を別々に引き上げる」という従来の引き上げ方法では沈没船の二次破壊をもたらしてしまう恐れがあった為、
発見から20年にわたって海底に放置されていた。海陵島は古代海上交易の中継港であり、この沈船は"南海1号"と命名された。
2007年、漸く引き上げの体制が整って貨物を積んだままの状態で船体が引き上げられた。
船体の甲板から上の部分は腐って失われていたが、船体下部は比較的保存状態が良かった。
この船は突頭船で、残存船体長:約 22メートル(推定船体長 30.4メートル)、幅 9.9メートル、マストを除く船体の高さは 8mで、
排水量は 600トン、積載量は約 800トンと推定された。
探査中、潜水夫は船の船首の位置あたりで大きな石製の錨(いかり) を発見した。錨の長さは3メートル、厚さは約0.1メートルで、両端
はやや狭く、中央部は比較的広くヒシ形を呈していた。
専門家の分析により、これは宋(960-1279)・元(1206-1368)時代の典型的な石の錨であることが判明した。
船体の大部分は福建や広東に多く見られる馬尾松(ばびしょう) という松の一種で造られていた。その為、"南海1号"は南岸地域で建造され
た可能性が極めて高く、船形から「沙船型」とされたが、竜骨を持つ遠洋航行に適した「福船型」との意見もある。
積荷満載の船倉は14に仕切られており、この仕切りは船の強度保持と荷崩れによる沈没の危険を避ける為だった。



爪哇海(ジャワ海)沈船
1980年代、インドネシアの漁師がスマトラとジャワの間のジャワ海(中国名:爪哇海)で難破船を発見した。
米国の海難救助会社・Pacific Ocean Resourcesは、これらの遺物の一部を拾い上げ、シカゴのフィールド自然史博物館に送った。
2018年5月、同館の考古学者 Lisa Niziolek氏は調査結果を発表した。

陶器底面の漢字、C14(炭素同位対比年代測定法)の結果から、800年前の宋時代の沈没船であることが
判った。
その後の調査で、象牙、布、大量の鉄 200トンと陶磁器 30トンを積んでいたことも判明した。
缶詰食品もあったが、これは乗組員用の食料であろう。
残念なことに、1996年に太平洋海洋資源会社が積み荷の本格的引き上げ作業に入るまでに長い時間
的空白があった為、漁民達によって売れそうな積み荷はかなり略奪されていたという。
彼らにとって、陶器や奢侈 (しゃし)品を販売する方が漁業よりも遙かに利益が大きかったからである。
これは韓国南西部で発見された元朝時代の"新安沈船"にも言えることだった。

沈 船 貨 物 の 調 査 報 告


 福岡大学考古学研究室の桃崎祐輔教授は、2018年3月末〜2019年3月末迄の一年間、中華人民共和国社会科
 学院考古研究所に研究出張されていた。
 この研究出張の最中、下記『孟原召2018論稿「華光礁一号沈船与宋代南海貿易」』を入手された。

 日本に帰国され、『 中国沈船資料に積載された「鉄条材」と日本中世の棒状鉄素材の比較研究』と題した
 論稿を早速著された。
 以下の資料はその論稿に掲載された一部を流用させて戴いた。
 ← 桃崎祐輔教授

     歴史学専門雑誌 『博物院』2018年2期の沈船特集、孟原召2018論稿「華光礁一号沈船与宋代南海貿易」の一部



以下は桃崎論稿から引用した資料 (画像配置と説明は一部修正している)





沈 没 船 三 艘 の 積 荷 比 較



表1 南宋時代沈没船三艘の遺物類対照表
類  別 華光礁一号沈船
南海一号沈船
爪哇海沈船
陶磁器
省 略 (上記表1左参照)
省 略 (上記表1中参照)
省 略 (上記表1右参照)
金属器 .鉄条材

.(華光礁一号沈船写真参照)
.鉄条材 (多数)
.鉄鍋 (多数)
.(南海一号沈船写真参照)
.鉄条材 (多数)
.鉄鍋 (多数)
.(爪哇海沈船写真参照)
.銅鏡、銅銭等 .金器、金叶、銀器、銅器、錫器、鉛器
.銀錠、銅不(王偏に不)、銅鏡、銅銭等
.銅鐸、銅錠、銅鏡、青銅像、錫抉等
其 他
.漆木器、石器、串飾、朱砂等 .玻漓、乳香、砑石、象牙等
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日本で出土した沈船の鉄素材

桃崎教授は、日本の中世遺跡から出土する棒状鉄素材について集成分析され、2008年「中世棒状鉄素材に関する基礎的研究」と題し
た論文を『七隈史学』第10号 に発表されていた。


 この棒状鉄素材は幅が狭い楔形の板状だが、角錐形の箸状をなすものもあった。
 中でも福岡県朝倉市の才田遺跡では、福岡県教育委員会の調査で、平安後期〜鎌倉期の堀をめぐらす掘立
 柱建物20棟ほどが発掘され、荘園の在地領主(荘官)の居館と集落とみられている。この SK50号土壙から
 は大量の各種宋代の陶磁が一括出土し、十二世紀前半の伝世陶磁器を含んでいるが、十三世紀後半に埋没
 した窖蔵(あなぐら)とみられた(福岡県教育委員会1998)。
 この才田遺跡の周堀からは、箸(はし)のような角錐形の棒状鉄素材が12本出土している。
 当時、桃崎教授はこの金属遺物について、支那の福建省あたりから輸入された鋳鉄素材(棒状・板状)を日
 本列島で脱炭し、棒状の鋼材に再加工したのではないかと想定されていた。

 桃崎教授は、孟原召氏論稿の沈船の棒状鉄素材を見られて、才田遺跡の鉄素材に酷似していることに
「驚きを禁じえなかった」と述べられている。
「孟原召氏の検討を経た今日の知見に立てば、この棒状鋼材自体が、貿易陶磁器とともに舶載された可能
 性も考えられる」とされ、「才田遺跡の棒状鉄素材自体が、舶載鋳鉄(銑鉄)を日本で加工したものではな
 く、随伴した陶磁器と共に日本に直接舶載された可能性が高い」ことを予見された。
 日本では、発掘文化財を破壊検査出来ないという制約がある。金属の成分々析が出来ないことが日本の鉄
 市場を解明にする上で大きな障害となっていた。
 金属分析の先人達は僅かな錆び片から苦労して元素成分を確認していた。

福岡県中部を流れる筑後川北岸は古代から中世にかけての遺跡の宝庫地帯である。
大陸製陶磁器が多量に出土しているが、これら陶磁器の内、才田遺跡50号土坑出土の「黄釉褐彩四耳壺」は十二世紀(北宋後半〜南宋
前半)頃、福建省泉州市にあった磁灶窯(じそうよう) で焼かれたものであることが比定されている。
これに酷似した「四耳壺」は福岡県糟屋郡久山町白山神社経塚からも出土していた。
この経塚から出土した壺の中の青銅製経筒には、天仁二年(1109)の日本元号が刻まれていて、この壺が十一世紀末〜十二世紀頃に日
本に舶来された可能性が高く、才田遺跡も、ほぼ同じ時期にあたると考えられている。
この壺を焼いた福建は生鉄の一大加工地であったことは前述した。この事実は重要である。
才田遺跡の金属遺物の成分々析はできないが、外見の考察と随伴陶磁器との関連から、沈船に積載されていた棒状鉄素材と同じ鉄が
宋の泉州から日本に向けて舶載されていたと判断しても間違いないと言えよう。
先に、泉州は主に南海貿易の港であると述べたが、陶磁器や鉄の重量物を一旦東側の明州に集積して、ここから東海貿易の船に積み
替えることは作業の負担からして考え難い。泉州から直接日本にも貿易船が出ていたと言えるだろう。

又、才田遺跡の棒状鉄素材は、宋・貿易船の鉄の積載量からみても、才田遺跡に止まらず、当然のことながら日本各地に移送された
であろうことは容易に想定される。
この棒状鉄素材は、日本各地で出土した「鉄鋌状鉄素材と酷似していることからもそれが裏付けられるであろう。
金属分析の専門家・佐々木稔氏の呼称  
桃崎教授は今回の沈船貨物の発見を機に、2019年度に四つの研究テーマを設定され、
『1.「山東鉄」 「福建鉄」 「 鉄条材」 「鉄鍋」 「 鉄銭 」などの項目をキーワードに、 近年の中国の中世鉄流通に関連する
    関連文物・ 議論について研究現状を整理し、日宋・日元・南海貿易における鉄流通の実態を考える。
 2. 宋代( 11世紀)から清代(19世紀)までの発行年が明らかな鉄銭を収集し、分析のサンプルとする。
 3. 朝倉市才田遺跡で中国宋代の陶磁器類と共伴した棒状鉄素材など、日本中世の鉄流通に関わる重要資料を調査し、理化学的分
    析についても交渉する。
 4. 中国水下考古学中心の辛光灿氏・丁見祥氏、孟原召氏らの知己を得たので、日中の鉄素材の理化学的データの比較を提案し、
    共同研究の実現に努力したい 』
と述べられた。
「鉄」及び「日本中世の鉄事情」を知りたい者にとっては垂涎(すいぜん) のテーマが並ぶ。
今後の桃崎教授の研究に大いに期待するところである。

これまで、日宋貿易を主に述べてきたが、南宋を滅ぼしたモンゴルのフビライハーンの「元」も貿易を振興したことは既に述べた。
その後の「明」朝は解禁策をとったものの、貿易を生業にしていた海商人達は生活の為に密貿易に走り、明と日本の双方の商人達が
手を組んで「倭寇」の全盛時代を迎えた。中世の日本は海外交易と縁を切ることがなかった。
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貿易品から「鉄」が消える不思議

古代から近世に至る日本の歴史資料、貿易資料、考古学資料に「鉄の交易」は殆ど出てこない。
古代の朝鮮半島に関連する資料と、明代の官吏・学者達が書き残した資料の中に日本交易の鉄が僅かに触れられているだけである。
日本の考古学資料で顔を出す「鉄」は、タタラ製鉄との関連だけに止まっていた。

そうした状況だけに、発見された沈船貨物の「物証」は極めて重要な意味を持つことになった。
沈船貨物の鉄情報の発信元は、沈船の調査研究に携わった考古学者と、現物を保管展示している中国の国立博物館である。
幸いなことに、考古学者の貴重な調査報告書を桃崎教授から頂いた。
若しこの資料が無ければ、鉄の物証は恐らく得られなかったに違いない。
何故かというと、一般人に考古学会の論文は馴染みが薄い。勢い、情報の収集は博物館などに頼ることになる。

この沈船貨物を保管する国立「海上シルクロード博物館」の沈船積載物の情報は以下のようなものだった。
「14,000点以上の文化財、2575点の標本、55トンの凝結物。磁器は13.000点以上、金器は151点、銀器は124点、銅器は170点、銅銭は
約17,000枚、大量の動植物の標本」とあり、大量の鉄素材、釘、鍋などの鉄器類の説明は一切なかった。
孟原召氏の論稿にある写真を見たからこそ、「凝結物」というのが鉄素材や鉄製品の塊 (かたまり)であることが推測できた。
一般人には「凝結物」という表現だけで、その内容など理解できる筈がない。
捉え方によっては、鉄素材や鉄器類を単に凝結物の一言で片付けているところに「鉄」を軽視・無視している姿勢が窺える。
日本の風潮と同じものを感じ取った。

広東省陽江市・海陵島の国立「海上シルクロード博物館」(南海一号の専門展示館)

 左の写真は広大な南海一号展示館の一部。
 引き上げた巨大な船体までそのまま保存展示している。
 広大な施設なので鉄素材や鉄器を展示するスペースがない
 ということではない。

 現物と展示写真の中に鉄素材と鉄器は表れない。
 鉄関連で紹介されているのは銅貨や銅鏡、装飾品の腕輪な
 どである。
 取るに足らない刃の欠けた小さな木製の櫛が紹介されてい
 るにも拘わらず、貨物の中で無視できない質量を占めてい
 た「鉄」の紹介が全く無いのである。
 「鉄素材」と 「鉄器」は一体どこに消えたのであろうか ?


展示現物、展示写真の一部。鉄素材、鉄器類の現物や写真は無い

念のため、南海一号、華光礁一号、爪哇海各沈船の紹介をしている彼の国の幾つかの Webサイトを調べてみた。
各沈船の陶磁器や奢侈品は紹介されているが、膨大な量の「鉄素材と鉄器」はほとんど触れられていなかった。
情報発信元の当該博物館が鉄を軽視・無視している風潮だから、当然といえば当然の結果ではあった。
この情報の偏(かたよ)りは由々しき問題ではなかろうか。

「凝結物」と「重量」から、それが鉄の塊(かたまり) だと連想できる考古学者・研究者は恐らく少なかったことであろう。
例え気がついた研究者がいたとしても、その多くは書画骨董、陶磁器、奢侈品、趣向品、珍品などに関心が偏っていて、見てくれの
悪い鉄塊や鉄器などには全く興味が湧かず、恐らくこの「凝結物」をパスするのが落ちであろうと思う。
舶載鉄と推定される鉄素材が日本の遺跡からかなり発掘されているのに、輸入鉄に触れる日本の交易資料は無いに等しかった。
鉄素材を使った完成製品(例えば日本刀、艦船・兵器、輸送車・・・など、機能や美的に優れる製品)に関心を示す人はいても、その
基になる見てくれも悪い得体の知れない鉄素材などに興味を持つ人は殆どいない。市場でも人気がない。だから取り上げる価値も無
いというループの結果であろうと思われる。ただ、歴史の真実は趣味・趣向に左右されてよい筈がない。
その好例として、明の学者の鄭若曽は、当時の倭寇が鉄を漁り尽くしていたにも拘わらず、倭寇が好むものとして茶の湯用の珍品鉄
鍋・鉄錬しか取り上げていない。
彼は珍品・高級品にしか興味がなく、倭寇が最も多く収奪したであろう実用鉄鍋・鉄器類は取り上げなかった。
幸い、明の他の官吏や学者の記録に倭寇が争って買った鉄鍋等の記録があったので、鄭若曽の記録の偏りが判明した。
若し鄭若曽の著書しか読まなかった人は、倭寇が購入(又は 略奪)した鉄は珍品・高級品の鉄だけだったという認識になる。
これは陶磁器も同様で、高級品は必ず取り上げられるが、実際に輸入量の多い実用陶磁器は概して無視される傾向にあった。
日本の輸入鉄に関しては、金属の化学分析を行った一握りの金属学者のみが僅かに触れるに過ぎなかった。
   (「 鉄の交易資料の問題点」参照) 
こうした様相が、歴史書や交易資料に「鉄」が顔を出さない一つの理由のように思われる。
南海一号沈船専用のこの国立博物館ですらそのような傾向にあった。日本だけの現象ではなかったのである。

一般人は、そうした状況の情報発信元から必要情報を入手する。考古学に関係する研究者であっても、鉄への関心が薄い方々の大半
は、信頼できそうな機関や研究者が発信する情報を知識ベースにされるのが普通であろう。
その方々は、宋の貿易船に「鉄」が積載されていた事などを知る由もない。
こうした研究者達が著作物やインターネットなどを通じて情報の再発信をする。ネズミ算式にその偏った情報が世の中に拡散する。
そして、何時の間にか、貿易船に積載されていた「交易品の鉄」は歴史の事実から消し去られてしまう。
俗にいう「一般常識」の恐ろしさである。

今回の沈船貨物の実証は、それ自体が貴重な出来事だったが、もう一つの教訓を我々に与えてくれた。
歴史書や交易書は文献史学として重要ではあるが、情報の発信元には趣向の混入や、情報の欠落もあり得るということである。
日本の交易文献に「鉄」の記載がないからと言って、輸入鉄は無かったということにはならないことを我々に教えてくれた。

又、従来、断片的な舶載鉄資料はあったが、中世の鉄市場を俯瞰するには「隔靴掻痒」の思いだった。
今回、桃崎教授が発掘された宋代沈没船の積載品資料により、日本中世の鉄市場の状況がかなり鮮明になってきた。
桃崎教授の功績は大であった。
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桃ア祐輔(ももさき ゆうすけ)教授 略歴

         福岡大学人文学部教授(考古学)、福岡県福岡市出身 筑波大学大学院文化人類学博士課程修了。
         東京国立博物館事務補佐員、筑波大学助手を経て2004年に福岡大学に着任。
         2018年、中華人民共和国社会科学院考古研究所・吉林大学・西北大学で1年間の在外研究に従事。
         ユーラシア騎馬文化・中近世仏教考古学が専門で「中世とは何か」の解明をめざす。著作多数。

宋沈船の資料ご提供元:福岡大学考古学研究室・桃崎教授
参考・引用資料: 「参考文献目録」参照

中世日本の鉄市場 (2) に続く

2019年7月10日より
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