日本の鉄交易(1) 0

中世日本の鉄市場 (1)

宋朝・海外交易の実情

ページ内検索 宋の海外交易 | 海上交易の拡大 | 宋の輸出品 | 沈船の貨物 | 日本での出土
  
日宋交易の隆盛は広く知られている。ただ、日本の交易資料の中で交易品の「鉄」は、舶載鉄の出土品が多く確認されているにも拘わらず殆ど無視されてきた。
南シナ海で発見された宋代(日本の平安後期〜鎌倉中期)の沈没貿易船貨物の実態が2018年に明らかになった。
これは日本の交易実態を明らかにする画期であった。この沈船の積載貨物の「鉄」が日本の遺跡から発見されていたからである。
交易は相互の国や商人達の政策と思惑が密接に関与し合って成立する。この相互の交易の必然性を二章に亘って述べることにした。
先ず、日本の相手国・宋の交易実態の概要を述べ、次いで、日本がなぜ輸入鉄を必要としたかの鉄市場の実態を次章で述べる。

古代〜中世の東西海上交易

発掘された古文書などで、紀元前の太古から
海上、水路を使う船の交易が盛んに行われて
いた事が判っている。
紀元1世紀頃、ローマ帝国の地中海支配によ
って、海上交易に従事していたギリシア系商
人が紅海やペルシア湾からインド洋に進出し
て「海の道」を既に確立していた。
小さな木造船で、方位を太陽や天体の星に頼
るしかない時代に、今日の我々の想像を絶す
る海上交易が展開されていた。

東西の交易に最も活躍したのは、ユーラシア
大陸西側のアラビア半島の広大な地域を支配
していたイスラーム帝国のムスラム(イスラ
ーム教徒)商人達だった。
イスラーム帝国は、時代により様々な王朝が勃興したが、二代目のアッバース朝(750〜1258)の時代に交易は最盛期を迎える。
ムスラム商人が操る船は「ダウ船」と呼ばれる船長15〜20メートル、積載量180トン位の三角帆を備えた木造船だった。
三角帆の最大の特徴は逆風でも前進できることにあった。

 インド洋の西部では、4月から9月にかけては南西から北東、11月から3月には北東から
 南西に季節風が吹く。彼等はこの季節風を巧みに使い、昼は太陽を、夜は水平線から北
 極星の角度を測るカマルと言う観測装置を使って緯度を測定して航海していた。
 出港する場所とインドの目的地によって距離は異なるが、アラビアからインド迄の大凡
 の直線距離 4,000qの航海日数は3〜4週間必要だった。
 ムスラム商人達は既に確立していたインド東北部の航路を更に南下して、マレー半島
 とスマトラ島に挟まれたマラッカ海峡の南端を分岐して南のジャワ、北東の「唐」南
 岸の広州(カンフー)までの航路を確立した。
広州港市(こうし)には、色目人と呼ばれたアラブ人や西方の異人など多数の貿易従事者と移住者が居住する居留地(蕃坊=ばんぼう)が
設けられた。清浄寺というイスラーム教信仰の建物(モスク)までもが作られた。
アッバース朝の首都バクダードの人工は100〜150万人、唐の首都・長安も100万人前後(総人口8,000万人)が住む世界的な二大都市
だった。ムスラム商人達にとっては魅力的な市場であったことだろう。(日本の平安時代前期に該当し、日本の総人口は550〜600万人前後)
今日でも、東南アジアのマレーシア連邦(人口の60%)、インドネシア共和国(87%)、ブルネイ(78%)、フィリッピン南部などに
イスラーム教徒が多いのは8世紀から活発になったムスラム商人の東南アジア交易の結果である。東南アジアに与えた影響は大きい。
         ※ 中国の四大発明の一つである羅針盤の原型は、磁力を持った針を木片に埋め込んだ「指南魚」というものを後漢末(3世紀頃)
          に占い用途で使っていた。唐代末の9世紀から北宋の11世紀の間に航海に使える本格的羅針盤が出現する。
          この羅針盤によって航海術は著しく発達し、大航海時代が始まった。

海(水)路交易の優位性
遠隔地との交易には、主としてラクダを使う陸上の隊商交易と、船による海上交易とがある。
海上交易は悪天候や荒波によって船が沈没する危険を伴う命がけの交易だった。出港した船の半数が沈没したという研究もある。
因みに、日本の遣唐使船は18回出港して無事に帰国できたのは8回だった。
それでも海上交易に果敢に挑戦したのは以下のような優位点があったからである。
 @ 陸上交易は路が整備された陸続きの国しか対象にならず、ラクダの歩行振動で壊れやすい物品は運べなかった。海を隔てた対象
   国は当然に船しか輸送手段が無い。
 A 陸上輸送では事実上不可能な重量物の運搬ができる。船を使ったナイル川でのピラミッド建設用の石の運搬はその典型例。
 B 陸上に比べて一回に運べる圧倒的な物量差と輸送日数の短縮。西のアラビア半島と東のチャイナは陸続きである。北の草原ル
   ートかオアシスルートを通れば輸送はできる。ルートの途中で細かい交易ができる利点はあるが、遠隔地に大量な品物を直接
   運ぶには大変な手間と日数が掛かる。平均的ダウ船一隻の積載量はラクダ約600頭分に該当した。
   目的地が陸路と海(水)路の双方が選択できるなら船の運搬が最も効率的だった。
 C 陸路対海(水)路の一回の輸送量と輸送期間の差は輸送コストにそのまま跳ね返った。
上記以外に決定的だったのは、中央アジアの陸上貿易ルートは北方遊牧民の台頭による阻害にあって使えなくなり、東西世界を結
ぶ貿易路は海路とならざるをえなかったことである。

海(水)路交易の拡大
黄河流域での五代十国の騒乱を治めて960年に成立した「宋」は農業(米)の増産を推進した。造船技術の進歩で船底に竜骨の無い堅
牢な平底の帆船であるジャンク船の建造が始まった。官船は500トン、民間船は300トンが標準で、ムスラム商人のダウ船を一回り以
上大きくした重量物の運搬に適した三本マストの帆船だった。この頃から実用的な航海用羅針盤が登場した。

 歴代王朝の首都が置かれた華北地方(例外あり)は政治・文化の中心であった。
 対して、相対的に温暖な風土の江南地方は経済が栄えていた。
 江南の豊かな物資を華北に搬送することは国家の運営にとって重大事だった。
 隋(581-618年、日本の飛鳥時代前期)の時代には長江と黄河を結ぶ総延長約2,500km
 の運河が既に完成していた。
 この運河は都への租税物、米や必需品、北方に展開する軍への兵站(へいたん)、貿
 易港への輸出品の集積と輸入品の各地への配送など、効率的な搬送路として重要な
 役割を担っていた。
 唐・宋・元・明と歴代王朝は次々と増設・改良を加え、北は北京から南は寧波(
 明州)まで黄河、淮河(わいが)、長江などの大河を縦断する一大水路網を築いた。
 
 建国した宋(北宋)は、北方異民族との対立で膨大な戦費を必要とした。財源確保の
 有力手段として古代から続いていた海外貿易の拡大に注力した。
 海外交易は南海貿易と東海貿易の二方面があり、港としては広州,泉州,明州,温
 州,杭州などが古くから存在した。
 宋代初期の南海貿易の重点港は唐代から続く広州(カンフー)だった。
 東シナ海に面した両浙地域と広州には市舶司が置かれていた。
市舶司は、海上貿易を管理する役所で唐代の714年に広州に置かれた。貨物の検査や関税の徴収、民間貿易の許可証、外国商人の保護
監督などに当たった。後に泉州(広州に替わる巨大港市),明州(後の寧波)、温州、杭州などに置かれた。
1
海 外 交 易 の 隆 盛

南北朝時代から歴代の王朝が着々と進めてきた長江下流域の開発をはじめ江南地方の開発が飛躍的に進み、沿岸地帯に資本や労働力
が急速に蓄積されて行った。商業規制も緩和されたこともあって経済的には大変な繁栄期を迎えた。
唐代から広州は貿易港として著名であるが、ムスラム商人は広州のみに止まっていた訳ではない。
彼等は広州の航路を確立した後、泉州 → 福州 → 明州と東シナ海まで更に航路を延ばしていた。
宋の時代になって、広州の官吏の汚職で貿易の業務が不安定になり、交易に掛かる重税なども原因して北宋中期にはそれを忌諱した
彼等は広州の東にある福建省・珠江(しゅこう)河口にある泉州(ザイトン)を積極的に利用するようになった。
泉州は広州の次に南海(南シナ海)諸国に近く、且つ、東海(東シナ海)の明州も近くなり、商圏拡大には好都合であった。
政権による海外交易の振興策は、南に流入する人口移動に更なる拍車を掛けることになった。
海外市場が加わることで、国内の産業規模が拡大して商業が栄えた。仕事のある処に人が集まるのは自然の流れであった。

福建省は山林が海岸まで迫る平地の少ない地形だった。その西に位置する泉州は元々が平凡な港町だった。
東晋朝(317年〜)時代、東晋朝廷は晋安郡を泉州に置いた。北方からの福建への人口流入が始まっていた。
シルクロードで「絹」を求めに来たアラビアやペルシャの商人達が広州と同様に既に泉州に居留地を設けていた。
泉州は農耕地がほとんど無い為に造船業、漁業、手工業が主たる産業だった。
農作物などの搬入、他地域への生産物の搬出は地形の関係から輸送手段は殆どが船に頼っていた。
宋の時代に入って造船技術の格段の進歩と、羅針盤の開発、海外交易の促進策と相俟(ま)ってジャンク船の建造が急増した。
福建省の広大な山林は、西側沿岸地域の広東省と共に造船に適した馬尾松(ばびしょう)という松を多量に産出した。
造船業の発展拡大は福建省の経済を大きく下支えした。

又、福建省は製鉄業が栄え(後述)、「生鉄」の加工業も盛んだった。「生鉄」とは溶融製錬(製鉄)で最初にできる鉄を指し、銑(ずく)
鉄のことである。他の鉄の産地から生鉄を集積して来て鋼や錬鉄を造る精錬(銑の加工)所が多数存在した。
これらの鉄素材や鉄器類は時代が遙かに下がった明の時代にも密貿易や倭寇に依って日本に流入していた事が「福建の鉄」として鄭舜
功の『日本一鑑』にも記されている。
銑・鋼・錬鉄の鉄素材のままと、これ等を鍛・鋳造して釘や鉄鍋などに加工した鉄器類が商品として輸出された。

宋朝(北宋)の後期(1087年)に永い念願だった市舶司が設置された。泉州が両浙や広州に並ぶ法定の貿易海港となった。
時代が下がるとともに交易量は飛躍的に伸びて、東側の雄である明州、温州、福州などを超えるに至った。
その上、時の政情が更に味方した。
宋朝の華北が、北方の女真族(金)に奪い取られた。華北を追われた王侯貴族や庶民が大量に江南に逃れて来た。
1127年、淮河(わいが) 以南の地に南遷して臨時首都を臨安(現杭州)に置き「宋」の復活・再興を夢見た。「南宋」の始まりである。
日本の平安時代後期に当たる。
金との争いで軍は弱体化し、経済も疲弊した。国の再建には膨大な財源が必要となった。
南宋朝は財源の確保に海外交易を強力に推進した。国内産業を振興する為にもそれが最も効果的だったからである。
発足した南宋は平穏ではなかった。南宋の東岸地域には金の侵攻が続き、戦争が絶え間なかった。
首都臨安は杭州湾に注ぎ込む富春江の河口に近い位置にあって、絶えず南下侵攻する金との小競り合いが続く戦場になっていた。
臨安の貴族達は戦場から遠い泉州に海路で逃げ込んで来た。福建省は地形上、北方陸上からの攻撃は難しく、左右は河川で隔たって
いた。福建省の東には閩江(びんこう)下流域に位置する福州という交易港もあったが、戦場からより遠くという心理と発展が著しい
泉州が選ばれた。更に西には未だに栄華を誇る広州もあるが、広東省の西側は陸続きの胡(こ)の脅威に晒されていたので最も安全な
泉州が選ばれた。(胡(こ)=北方・西方の異民族に対する蔑称)
建炎元年(1127年)に宋を再興(南宋)した高宗は、早くも二年後の建炎三年(1129年)に南外宗正司※1を泉州に移し、多くの皇族が泉州
に定住した。引き続き紹興四年(1134年)、金の南侵によって、六官※2を首都の臨安から海路で泉州に移転させた。
泉州は事実上の首都の様相を呈してきた。 (※1 皇族の世話をする役所。 ※2 治・教・礼・兵・刑・事(工)を司る中央官庁)
多くの北方の士大夫(したいふ)や貴族なども泉州に移住してきた。(士大夫 = 北宋以降、科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者)
これにより、主に上層階級に供していた海外からの奢侈(しゃし)品・趣向品の需要が高まり、「乳香※3」の例に見られるように海外
貿易の扱い品目が大幅に増え、福建路内での販路が更に大きな広がりをみせて発展していった。
南宋の泉州の人口は唐の開元時代に主戸※4 31,600、客戸44,525だったものが、南宋の淳祐期では主戸 197,219、客戸 58,479とな
っていた。家族が5人平均とすると人口はその五倍となる南宋最大の都市に膨れ上がっていた。
                 ※3アフリカ北東岸、アラビア半島南岸、インド南岸に自生するカンラン科ボスウェリア属の樹木から採れる樹脂。
                  これを加工して香や香水、薬品を造る。古代では金に匹敵する高級品だった。
                 ※4 主戸:土着の本国人(漢人)、客戸:ムスラム商人などの居留地住人、転入して住み着いた外国人(色目人)。
金との騒乱で両浙地域の諸港に居た商人達も泉州に移動して来た。彼等が持っていた商圏がそのまま泉州に加わることになった。
宋末・元初には遂に広州を抜き最大の貿易港に成長した。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』に、「高価な宝石・大粒の真珠などを多量に積み込んだインド海船が続々とやってくる。ザイトン
(泉州)は世界最大の貿易港の中の一つ」と述べ、十四世紀の中頃に泉州を訪れた旅行家イブン・パットゥータも『大旅行記』に
「この停泊港は、世界の数ある港のなかでも間違いなく最大規模の港であり、約百隻の大型ジヤンク船と数え切れない小船を見た」と
記している。泉州は国際色豊かな世界最大の貿易港となっていた。
2
宋 人 の 海 外 へ の 進 出

唐の時代から大陸の海外交易はムスラム商人達が支配していた。南宋を滅ぼして「元」を建国したフビライ・ハーンも海外交易を
推奨し、富豪となった色目人達を要職に登用して海外交易を任せた。ムスラム商人達は大陸の沿岸部に深く根付いていた。
古くから海外交易の旨味を知っていた宋人(漢人)達は指を咥えて見ているだけではなかった。
彼等は古くから南シナ海交易と東シナ海・黄海交易(後に南海貿易、東海貿易と呼称)を行っていた。宋代に入って造船技術の飛躍的
な進歩と羅針盤の出現で遠洋航海の安全性が格段に向上したことから、より積極的に海外交易に進出するようになった。

彼らは好むと好まざるとに拘(かか)わらず、生活の為には交易商売に関与せざるを得なかった。それが福建人の生活の糧だった。
歴史的に泉州人は知識人が多かったが「海外から帰国してきた宋の商人(漢人)達が多くの富を得ることを羨(うらや)み、泉州人は交易
商売にみんな熱を上げていた」との史書の記録が当時の社会状況を端的に顕(あらわ)している。
宋代の福建路各地の経済は大きく発展し、農業と手工業などの進歩によって、海外貿易に豊富な物資を提供するとともに、貿易商品
に対する課税と輸入品の専売によって得る利益は国家財政の重要な財源となっていた。
市舶司が置かれた主な貿易港の守備範囲は
南海貿易が泉州、南海と東海貿易が明州(めいしゆう=後の寧波(ニンポー)、杭州、秀州、朝鮮半島への黄海貿易が密州となっていた。
南海貿易はムスラム商圏と重複するが、宋の商人達は彼等と手を結んで相乗効果を上げていた。
一方の日本、琉球王国、朝鮮半島の高麗を対象とする東海・黄海貿易はほぼ宋商人(漢人)が独占していた。(日本では唐人と呼ぶ)
貿易相手国に居留する宋商人も次第に増えていった。彼等はやがて「華僑」と呼ばれるようになった。

宋にとって東海貿易の主要国は、人口、国の成熟度、宋が欲しがる物資の豊富さからして日本である事は論を俟(ま)たない。
平安時代後期の平清盛の時代、日宋貿易は最盛期を迎えた。博多を始め福原の大輪田泊、瀬戸内沿岸の港が増・改修された。
これを、日本の海外交易への積極的進出とみる向きもあるが、当時の日本は高度な造船技術も航海技術も未熟だった。
危険を冒(おか)して宋から来航する交易船は復路を空船で帰る筈がない。当然日本からの輸入品を満載して帰った。
確かに、京都や博多の有力寺社や荘園主が間欠的に宋への貿易船を出していたが、日本からすれば、敢えて和船を危険な遠洋航海に
出さなくても、宋の貿易船を利用することで輸出の目的は果たされていた。
日宋貿易の隆盛は、偏(ひとえ)に宋朝廷と民間商人の「お家事情」の必要性から、終始宋側が積極的であった結果によるものと推量
する。清盛の港湾の整備は、頻繁に来港する宋の交易船の利便性を図る為の受動的な政策だったと思われる。
3
宋 の 輸 出 品

宋の輸出品には「実用品」と「嗜好品」の二種類がある。嗜好品は美術工芸品、装飾品類、貴重な食品類、香料などである。
実用品は相手国の産業振興に寄与する物、軍備の充実、民衆の生産用具・生活利便に必須の物などである。当然、宋で豊富に生産さ
れて相手国が欲しがる物、相手国が生産していても価格的に安価に提供できる物が対象になる。
農・工・漁具、公・私の建造物や建具金物、木造船用鉄釘類、軍の鎧や武器の装備品、調理用具や食器類、製塩用大型鉄釜などが実
用品の例である。これらはいずれも「鉄素材」から造られる。
「鉄は国家なり」という有名な言葉がある。
プロイセン王国(ドイツ帝国)の鉄血宰相・ビスマルクが演説に使ったこの言葉は、日本の鉄鋼メーカーも格言として好んで使った。
鉄の生産量は現在でも国力を示す重要な指標となっている。この言葉は古代ではより重きをなしていた。

宋代に入り淮河(わいが)より北の華北地方は、無煙炭に替わって火力の更に強いコークスが一般家庭にも浸透していた。
只、江南(長江の南)では木炭を、四川では竹炭を利用していた。
南宋の時代になると中原地方に首都を置く開封でも、数百万戸の中に薪を用いる家は無かったと記録に残る。
鉄の産地はコークスと鉄が採れる華北部に集中し、華北の東には古来から鉱物資源が豊富な山東半島とその南の長江下流域がある。
北宋時代の民間の鉄生産量の95%以上が北方諸路で生産されたという。
小アジアの鉄先進国から遅れて製錬(製鉄)を開始した中国は、紀元前五〜六世紀には溶融製錬(近代的製鉄法)を開始している。
漢代の紀元前二世紀頃に製鉄技術は完成の域に達した。併せて、「炒鋼法」という西欧が十八世紀になって漸く辿り着いたパドル製
鋼法と同じ原理の近代的製鋼法を二千年前に実用化していた。 (詳しくは「大陸の製鉄」を参照)

銅山と鉄山は政府の管理下に置かれ、大きな鉱山には特別行政区である監が徐・相・兗の三州に4つ置かれ、それより少し小さい鉄
山に12ヶ所、中規模鉄山に20ヶ所、小規模鉄山に25ヶ所の監督署が置かれていて、大〜小六十ヶ所を超える鉄山が稼働していた。
鉄山に近接して設置された多くの製錬(製鉄)所は、木炭より廉価で高火力なコークスを利用する事で鉄の生産量が飛躍的に向上し、製
錬(製鉄)と精錬(製鋼)費用を大巾に下げることができた。因みに、鉄の生産量は唐代に比べて二倍となり、年間生産量は2万2千トン前
後に達した。欧州での製鉄の近代化に一番熱心だったイギリスは、十八世紀に木炭高炉からコークス高炉に転換して鉄の生産量を飛躍
させ、全欧州のトップに立っていた。この時点でのイギリスの生産量が年産5.000トンである。
宋と八百年後のイギリスとの圧倒的時代差を考慮すれば、宋代の鉄の生産量は膨大なものであり、宋は世界最大の鉄生産国だった。
「水は高きから低きに流れる」の格言通り、製鉄後進国に鉄が輸出されるのは自然であった。

又、五代十国時代に銅の生産が落ち込んだものの、銅生産を復活し、激増する商取引に対応する為に貨幣(銅貨)が大量に造られた。
銅貨は海外にも流出していたので銅貨が不足し、紙幣を発行しなければならない程に商取引が激増していた。
あわせて、宋代は各地で窪(よう)業が活発化して、高温で焼かれた美しい陶磁器の生産が最盛期を迎えていた。
陶磁器も絹と同様に主要輸出品に加わった。実用陶磁器が相手国の食生活を大きく支えることになった。

福建の鉄
大陸古代の製鉄と言えば兎角に華北地域の製鉄が取り上げられるが、当然、江南(長江以南)地域でも製鉄は行われていた。
「1966年、福建省泉州市安渓県で青陽冶鉄遺跡が発見された。面積100万uにも及ぶ広大な製鉄遺跡で、2019年〜2020年にその中核で
ある下草捕遺跡の第一次発掘が行われ、調査面積は1800uに及んだ。鉄鉱石は磁鉄鉱を主体に、少量の黄鉄鋼とマンガン鉱石を伴っ
た。磁鉄鉱石は30〜50pの大塊から粉砕された2p以下のものまであるが、10〜15pのものが最も多かった。この遺跡は塊錬鉄(鉄鉱
石を木炭で1000度程度の低温で還元して得られる夾雑物の多い鉄)、生鉄、鋼の生産が可能な泉州を代表する製鉄遺跡で、C14年代測
定と随伴出土品より南宋末頃から本格操業し、元の時代に最盛期を迎えたと考えられる。又、安渓宋元冶鉄場では山の斜面に沿って
製錬炉が営まれ、標高の低い処から一定の高度まで登ると冶鉄場はそのまま廃棄され、別の場所に移る。さらに下草捕遺跡と周辺の
関連遺跡を取り囲むように古道や水路が連結しており、生産された鉄は海のシルクロードにおける重要な貿易商品であったと考えら
れる」(桃崎祐輔2023)。
  宋代、福建路泉州には製鉄場として永春県に倚洋鉄場、青渓県には青陽鉄場があったことが知ら
 れ、青陽鉄場と考えられる安渓下草捕遺跡では製鉄遺跡の他、鉄鉱採鉱遺跡や木炭 製造遺跡も
 発見された。この鉄場では木炭による製鉄が行われていたことが想定される。
 『淳熙三山志』巻十四版籍五「炉戸」には、福州の各県で抗冶業に関わる「炉戸」の数と抗場が
 まとめられている。福州の福清県にある抗場では、東窪場、玉処場が「江陰里鉄沙場」、南匿場
 が、「臨江里鉄沙場」、練木嶼が「安夷南里鉄沙場」、高遠が「南匿里鉄沙場」にあるといい、
 福清県の抗場全てが鉄沙場、つまり砂鉄の生産地に存在する。この地名を確認すると、江陰里・
 臨江里・南匿里は福清県南二十五里の孝義郷、安夷南里は福清県の東南五十里の崇徳郷にある。
 福清県域の南側は海岸地域であり、この「鉄沙場」は全て海岸に沿った砂鉄の生産地と見ること
 ができる。
 宋代福州での砂鉄を使用した製鉄を示す資料が存在している。砂鉄から鉄を作る(ママ)ことは可能
 であるが、すでにある鉄素材を加工(精錬)する為の脱炭材として砂鉄を用いることもまた可能で
 ある。
 南宋で石炭(コークス)による製鉄が行われていたことを示す事例として、広東省新会で発見され
 た製鉄遺跡にて、コークスが発見されているという報告がある。ここは南宋最後の皇帝となった
 趙昺が福建から広東へ退却する中で建設したものとされるが、詳細は不明である。この新会は陰
河下流沿いにあり、海岸からも遠くないところにある。内陸に存在する安渓下草捕遺跡とは立地において大きな違いがある。新会
での製鉄の可能性があることは、製品の移動に便のある海岸近くに貿易用の鉄器加工が行われていたことも示唆できるのではないだ
ろうか。海に近ければ、他地域からの鉄素材、また場合によっては燃料としてコークスを持ち込むことも考えられる。北宋では、特
に北部でコークス利用の製鉄により鉄生産が行われ、貨幣に於ても鉄銭が使われていた。
金は宋の北部を占領した後、この鉄
を回収し、その多くがモンゴルへ流れて兵器にも転用されたという記載が残されている。
だが、鉄銭使用地域ではない福建省にも一ヵ所のみであるが、約5トンに及ぶ鉄銭が発見された。
鉄銭については良質の鉄銭が民間で溶解され、鉄銭の額面価格よりも高価格の鉄製品として転売されているという記載もある。
北宋以降に海上交通による物資の集積地であったとみられる山東省胶州市の板橋鎮遺跡では、数十トンに及ぶ鉄銭が凝結した状態で
発見された。この鉄銭の用途は不明だが、板橋鎮が物資の集散地であることを考えると、鉄銭も鉄素材として他地域へ輸出するため
に集積されたものと言えるかもしれない。
また、福州における鉄生産は、琉球弧、特に地理的に近い八重山列島の鉄器の伝播への影響を考える必要があるだろう。波照間島大
泊浜貝塚、西表島上村遺跡の棒状鉄素材の形態もまた、南海1号の棒状鉄素材に類似している。福建から台湾を経由すれば大型船でな
くとも到達可能な八重山諸島には、鉄器やその加工方法がもたらされていたという見方も可能ではないだろうか(石黒ひさ子2023)。
製鉄法の伝播
福岡県香春町宮原金山遺跡は、香春岳一ノ岳周辺の斜面に存在する大量の磁鉄鉱石より製鉄を行っていた日本では珍しい鉄鉱石製鉄
遺跡で、径3〜4pに破砕された磁鉄鉱と、炉壁や製鉄滓が大量に出土している。操業は10世紀後半〜13世紀前半代で、ピークは
操業初期にあると考えられる(九州歴史資料館2012)。
従来、前後の時期や周辺地域につながりが見い出せない孤立した鉄鉱石製鉄の系譜は不明であったが、泉州市下草捕遺跡と共通点が多
い点に注目すれば、博多や芦屋(福岡県遠賀郡)を通じて福建の製鉄技術が導入された可能性も生じてくる(桃崎祐輔2023)。

以上、宋の国内事情と海外貿易の概要を述べた。
理由は、日本の交易状況を考察する上で、相手輸出国の政策、貿易商人達の思惑などが強く働いたと思われるからである。
4

沈 没 船 の 貨 物


 一帯一路(陸と海のシルクロード)政策を進めていた中華人民共和国政権は、海の
 シルクロードの論拠を補強する立場から、交易沈船の重要性に着目した。
 然し、水中考古学者、潜水できる研究者は皆無に近い状況だった。
 その為、急遽人材を欧州に派遣して水中考古学者の育成を図り、水中探査船の
 建造に取りかかった。

 大陸の東南沿岸部とインド洋〜アラビア海に至る交易海路には、近世に至るまで
 の貿易船が10万隻は沈んでいると指摘する研究者もいる。
 同様な沈船が台湾海峡に約3,000隻、東シナ海には数十隻確認されている。
   
 今回、宋代の貿易沈船三隻が引き上げられて積載貨物が調査され、宋代の輸出品
 の実態が始めて明らかになった。
 「百聞は一見に如(し)かず」である。
 文献資料よりも確かな物証が得られた。
 これまで、日本の交易資料に記載されることがなかった「鉄」が漸く確実な交易
 品として考古学上に記されることになるだろう。

 ← 左図の Xは三隻の沈没位置を示す。
  華光礁1号沈船(西沙群島)、南海1号沈船(広東省陽江市の海陵島沖)、
  爪哇海沈船(インドネシアのスマトラとジャワの間の爪哇海(ジャワ海)

華光礁1号沈船
1996年、中国の漁民が西沙群島の華光礁で潜水漁労をしていた時、一艘の沈没船を発見し、"華光礁1号"と名付けられた。
西沙群島は珊瑚礁の海に在り、水深22〜23メートルの浅いところで発見された。
1998年に国の博物館と海南文物部門が試験的な発掘を始め、一部の回収された陶磁器の製作年代から、この沈船は「南宋」初期の交
易船であることが判明した。
船体はかなり損傷していて、残存長:18.4メートル、船巾残存長9メートル、船体高:3〜4メートルだった。
2007年、国立博物館と海南文体庁が共同で西沙考古工作隊を組織し、海底の“華光礁1号”の考古学的発掘を本格的に開始した。
これが、中国で初めての大規模な海中の考古学的発掘となり、大量な磁器をはじめ何万点もの遺物が発見された。

南海1号沈船
1987年、広東省陽江市の海陵島沖で広州市海難救助局と英国企業が合同で「東インド会社の沈没船」を探査中、偶然にも海面下20数
メートルの海底に、厚さ2メートルの泥に埋まった南宋時代の沈没船を発見した。だが、長い歳月と海水の浸食によって船体の傷みが
激しく、「貨物と船体を別々に引き上げる」という従来の引き上げ方法では沈没船の二次破壊をもたらしてしまう恐れがあった為、
発見から20年にわたって海底に放置されていた。海陵島は古代海上交易の中継港であり、この沈船は"南海1号"と命名された。
2007年、漸く引き上げの体制が整って貨物を積んだままの状態で船体が引き上げられた。
船体の甲板から上の部分は腐って失われていたが、船体下部は比較的保存状態が良かった。
この船は突頭船で、残存船体長:約 22メートル(推定船体長 30.4メートル)、幅 9.9メートル、マストを除く船体の高さは 8mで、
排水量は 600トン、積載量は約 800トンと推定された。
探査中、潜水夫は船の船首の位置あたりで大きな石製の錨(いかり)を発見した。錨の長さは3メートル、厚さは約0.1メートルで、両端
はやや狭く、中央部は比較的広くヒシ形を呈していた。
専門家の分析により、これは宋(960-1279)・元(1206-1368)時代の典型的な石の錨であることが判明した。
船体の大部分は福建や広東に多く見られる馬尾松(ばびしょう)という松の一種で造られていた。その為、"南海1号"は南岸地域で建造され
た可能性が極めて高く、船形から「沙船型」とされたが、竜骨を持つ遠洋航行に適した「福船型」との意見もある。
積荷満載の船倉は14に仕切られており、この仕切りは船の強度保持と荷崩れによる沈没の危険を避ける為だった。



爪哇海(ジャワ海)沈船
1980年代、インドネシアの漁師がスマトラとジャワの間のジャワ海(中国名:爪哇海)で難破船を発見した。
米国の海難救助会社・Pacific Ocean Resourcesは、これらの遺物の一部を拾い上げ、シカゴのフィールド自然史博物館に送った。
2018年5月、同館の考古学者 Lisa Niziolek氏は調査結果を発表した。

 陶器底面の漢字、C14(炭素同位対比年代測定法)の結果から、800年前の宋時代の沈没船であることが
 判った。
 その後の調査で、象牙、布、大量の鉄 200トンと陶磁器 30トンを積んでいたことも判明した。
 缶詰食品もあったが、これは乗組員用の食料であろう。
 残念なことに、1996年に太平洋海洋資源会社が積み荷の本格的引き上げ作業に入るまでに長い時間
 的空白があった為、漁民達によって売れそうな積み荷はかなり略奪されていたという。
 彼らにとって、陶器や奢侈(しゃし)品を販売する方が漁業よりも遙かに利益が大きかったからである。
 これは韓国南西部で発見された元朝時代の"新安沈船"にも言えることだった。

沈 船 貨 物 の 調 査 報 告


 福岡大学考古学研究室の桃崎祐輔教授は、2018年3月末〜2019年3月末迄の一年間、中華人民共和国社会科
 学院考古研究所に研究出張されていた。
 この研究出張の最中、下記の孟原召2018論稿「華光礁一号沈船与宋代南海貿易」を入手された。

 日本に帰国され、『中国沈船資料に積載された「鉄条材」と日本中世の棒状鉄素材の比較研究』と題した
  論稿を早速著された。
 以下の資料はその論稿に掲載された一部を流用させて戴いた。
 ← 桃崎祐輔教授

     歴史学専門雑誌 『博物院』2018年2期の沈船特集、孟原召2018論稿「華光礁一号沈船与宋代南海貿易」の一部



以下は桃崎論稿から引用した資料 (画像配置と説明は一部修正している)





沈 没 船 三 艘 の 積 荷 比 較



表1 南宋時代沈没船三艘の遺物類対照表
類  別 華光礁一号沈船
南海一号沈船
爪哇海沈船
陶磁器
省 略 (上記表1左参照)
省 略 (上記表1中参照)
省 略 (上記表1右参照)
金属器 . 鉄条材

.(華光礁一号沈船写真参照)
.鉄条材 (多数)
.鉄鍋 (多数)
.(南海一号沈船写真参照)
.鉄条材 (多数)
.鉄鍋 (多数)
.(爪哇海沈船写真参照)
.銅鏡、銅銭等 .金器、金叶、銀器、銅器、錫器、鉛器
.銀錠、銅不(王偏に不)、銅鏡、銅銭等
.銅鐸、銅錠、銅鏡、青銅像、錫抉等
其 他
.漆木器、石器、串飾、朱砂等 .玻漓、乳香、砑石、象牙等
5

沈没船三艘のうち比較的保存状態が良い鉄条材、鉄鍋、鉄釘の成分々析が行われた。
 
  鉄条材・鉄鍋分析:張玄微論稿『南海1号出土鉄器及鉄質凝結物分析「客家文博」2020年第1期』
   鉄釘分析: 万鑫・毛志平・張治国・李秀輝論論稿
『南海1号沈船出水鉄鍋、鉄釘分析研究「中国文物科学研究」2016年第2期』
   石黒ひさ子氏翻訳論稿2022の一部を抜粋編集して下図に示した。
                                      
   ※ 明治大学、日本古代学研究所・客員研究員

                                                                               
化学分析の結果、鉄条材と鉄釘は鍛鉄(軟鋼に近い)、鉄鍋は銑鉄の鋳造品である事が判明した。
これらの鉄器には石炭による製鉄を示すものがあり、南海1号の鉄器は複数の生産地から貿易用に集積された船貨であることが指摘で
きる(
石黒ひさ子2022)。

5
日本で出土した沈船の鉄素材

桃崎教授は、日本の中世遺跡から出土する棒状鉄素材について集成分析され、2008年「中世棒状鉄素材に関する基礎的研究」と題し
た論稿を『七隈史学』第10号に発表されていた。


 この棒状鉄素材は幅が狭い楔形の板状だが、角錐形の箸状をなすものもあった。
 中でも福岡県朝倉市の才田遺跡では、福岡県教育委員会の調査で、平安後期〜鎌倉期の堀をめぐらす掘立
 柱建物20棟ほどが発掘され、荘園の在地領主(荘官)の居館と集落とみられている。
 この SK50号土壙からは大量の各種宋代の陶磁が一括出土し、十二世紀前半の伝世陶磁器を含んでいる
 が、十三世紀後半に埋没した窖蔵(あなぐら)とみられた(福 岡県教育委員会1998)
 この才田遺跡の周堀からは、箸(はし)のような角錐形の棒状鉄素材が 12本出土している。
 当時、桃崎教授はこの金属遺物について、支那の福建省あたりから輸入された鋳鉄素材(棒状・板状)を日
 本列島で脱炭し、棒状の鋼材に再加工したのではないかと想定されていた。

 桃崎教授は、孟原召氏論稿の沈船の棒状鉄素材を見られて、才田遺跡の鉄素材に酷似していることに
「驚きを禁じえなかった」と述べられている。
「孟原召氏の検討を経た今日の知見に立てば、この棒状鋼材自体が、貿易陶磁器とともに舶載された可能
 性も考えられる」とされ、「才田遺跡の棒状鉄素材自体が、舶載鋳鉄(銑鉄)を日本で加工したものではな
 く、随伴した陶磁器と共に日本に直接舶載された可能性が高い」ことを予見された。
 日本では、発掘文化財を破壊検査出来ないという制約がある。
 金属の成分々析が出来ないことが日本の鉄市場を解明にする上で大きな障害となっていた。
 金属分析の先人達は僅かな錆び片から苦労して元素成分を確認していた。

福岡県中部を流れる筑後川北岸は古代から中世にかけての遺跡の宝庫地帯である。
大陸製陶磁器が多量に出土しているが、これら陶磁器の内、才田遺跡50号土坑出土の「黄釉褐彩四耳壺」は十二世紀(北宋後半〜南宋
前半)
頃、福建省泉州市にあった磁灶窯(じそうよう)で焼かれたものであることが比定されている。
これに酷似した「四耳壺」は福岡県糟屋郡久山町白山神社経塚からも出土していた。
この経塚から出土した壺の中の青銅製経筒には、天仁二年(1109)の日本元号が刻まれていて、この壺が十一世紀末〜十二世紀頃に日
本に舶来された可能性が高く、才田遺跡もほぼ同じ時期にあたると考えられている。
この壺を焼いた福建は生鉄の一大加工地であったことは前述した。この事実は重要である。
才田遺跡の金属遺物は破壊検査が禁じられているので成分々析はできないが、外見の考察と随伴陶磁器との関連から、沈船に積載さ
れていた棒状鉄素材と同じ鉄が宋の泉州から日本に向けて舶載されていたと判断しても間違いないと言えよう。
先に、泉州は主に南海貿易の港であると述べたが、陶磁器や鉄の重量物を一旦東側の明州に集積して、ここから東海貿易の船に積み
替えることは作業の負担からして考え難い。泉州から直接日本にも貿易船が出ていたと言えるだろう。

又、才田遺跡の棒状鉄素材は、宋・貿易船の鉄の積載量からみても、才田遺跡に止まらず、当然のことながら日本各地に移送された
であろうことは容易に想定される。
この棒状鉄素材は、日本各地で出土した"鉄鋌状鉄素材"と酷似していることからもそれが裏付けられる。
金属分析の専門家・佐々木稔氏が命名  
桃崎教授は今回の沈船貨物の発見を機に、2019年度に四つの研究テーマを設定された。
『1.「山東鉄」、「福建鉄」、「鉄条材」、「鉄鍋」、「鉄銭」などの項目をキーワードに、 近年の中国の中世鉄流通に関連する
    関連文物・ 議論について研究現状を整理し、日宋・日元・南海貿易における鉄流通の実態を考える。
 2. 宋代(11世紀)から清代(19世紀)までの発行年が明らかな鉄銭を収集し、分析のサンプルとする。
 3. 朝倉市才田遺跡で中国宋代の陶磁器類と共伴した棒状鉄素材など、日本中世の鉄流通に関わる重要資料を調査し、理化学的分
    析についても交渉する。
 4. 中国水下考古学中心の辛光灿氏・丁見祥氏、孟原召氏らの知己を得たので、日中の鉄素材の理化学的データの比較を提案し、
    共同研究の実現に努力したい 』

この研究は、「日中文明遺物の産地探索をめざす中近世沈船・舶載遺物の考古学と自然科学の融合研究」(研究代表:桃ア祐輔)として、令和2〜4年度文部科学省・科学研究費助成事業(基盤研究C)として認定され た。

 第一回研究発表会
  日時: ;令和4年(2022年)3月5日 場所: 九州国立博物館
  併設展示会
  場所: 九州国立博物館1階ミュージアムホール

 第二回研究発表会
 日時: ;令和5年(2023年)3月11日 場所: 福岡大学理学部会議室
             
 研究会、及び研究内容等については、こちらの「アジアを変えた鉄」をご覧下さい。

沈船積載の鉄条材や鉄器の分析が前述したように中国では進行している。問題は日本出土の棒状鉄素材である。外形の酷似は確認され
るがより完璧を期す為には素材の化学的分析が必須となる。破壊検査が出来ない現状を鑑みると前途は厳しい。それ故に今後の研究に
期待するところが大である。

これまで、日宋貿易を主に述べてきたが、南宋を滅ぼしたモンゴルのフビライハーンの「元」も貿易を振興したことは既に述べた。
その後の「明」朝は海禁策をとったものの、貿易を生業にしていた海商人達は生活の為に密貿易に走り、明と日本の双方の商人達が
手を組んで「倭寇」の全盛時代を迎えた。中世の日本は海外交易と縁を切ることがなかった。


7

桃ア祐輔(ももさき ゆうすけ)教授 略歴
         福岡大学人文学部教授(考古学)、福岡県福岡市出身 筑波大学大学院文化人類学博士課程修了。
         東京国立博物館事務補佐員、筑波大学助手を経て2004年に福岡大学に着任。
         2018年、中華人民共和国社会科学院考古研究所・吉林大学・西北大学で1年間の在外研究に従事。
         ユーラシア騎馬文化・中近世仏教考古学が専門で「中世とは何か」の解明をめざす。著作多数。

宋沈船の資料ご提供元:福岡大学考古学研究室・桃崎教授
参考・引用資料: 「参考文献目録」参照

中世日本の鉄市場 (2) に続く

2019年7月10日より
ページのトップへ

← アジアを変えた鉄  日本刀考 異説・たたら製鉄と日本刀  たたら製鉄とは何か   中世日本の鉄市場(2) →