孤高の刀匠・小林康宏 (2) 0

斬 鉄 剣 の 検 証

日本刀の性能を考察する   | 斬鉄剣・小林康宏 | 日本刀の常識を問う | ホーム
ページ内検索  刀身の性能比較 | 斬鉄剣の性能 | 斬鉄剣と現代刀 | 真の日本刀とは

皮・心 鉄 構 造 の 妄 想

 日本刀の機能を端的に表わす俗語が「折れず、曲がらず、良く切れる」である。折れず、曲がらずとは願望であって、そんな刀は
存在しない。正しい表現は「折れ易からず、曲がり易からず、良く切れる」である。
 陸軍少将・村田経芳が、標語通りの明快な優先順位※1を示した。折れ易からず、曲がり易からずの要素は相反する。
 刀剣関係書やWebでは「軟らかい心鉄を硬い皮鉄で包む構造※2は世界に例のない日本刀独特の高度な技術」と賛美する。
 この心鉄構造は二枚鍛え、合わせ、マクリ、甲伏、三枚、四方詰め等様々に呼ばれている※3
 無節操な御用学者も追従して、これが日本刀の絶対条件と錯覚された。
 その為に、丸鍛え(無垢鍛え、一枚鍛え)は蔑視され続けて来た。
 これは鋼材に就いても同様である。
 ところが、日本刀は玉鋼を使って心鉄を皮鉄で包む構造になった為に劣化したのである。(刀匠と刀身の個体差を無視しての一般論)

 天文、或は慶長の頃、国内外の供給地鉄が鉄種を変更した。
 新鋼材が高含炭量であった為、丸鍛えをすると刀身の折損が生じるという、刀にとっては不具合な鋼材だった。
 そこで、やむを得ない方策として、軟鉄と硬鋼を貼り合わせたり、軟鉄を心棒に挟むという苦肉の策がとられた。
 永い徳川泰平の世が終わり、武家社会の解体と、明治9年の廃刀令で日本刀は無用の長物との扱いを受けるようになった。
 そうした状況で台頭してきたのが、刀身の外観に関心を寄せる愛好者たちであった。
 日本刀を賛美する中から、新々刀に準拠した日本刀神話が形創られるようになった。(「日本刀神話」の項参照)
 その中の一つが「心鉄構造※4」 だった。
 いつの間にか、それが日本刀の絶対条件であるかのように変質していった。
 小林刀匠の刀も、軍用に使われた優れた近代刀剣なども、玉鋼の皮・心鉄構造が強靱であるという妄想に依って圧殺されて来た。

       ※1 刀剣の精神参照  ※2 古代鉄先進国では有史以前から合わせの類似例あり  ※3 どの造り込みも実質の性能には関係ない
       ※4 筆者は心鉄構造になるマクリ、甲伏、三枚、四方詰めなどを全て皮・心鉄構造と呼称する

 そこで、皮・心鉄鍛えと丸鍛え(無垢鍛え)の構造を図示し、応力ベクトルを模式して粘硬性・強靱性の実態を検証する。


                  皮・心鉄構造              丸(無垢)鍛え

皮・心鉄構造(均質な硬・軟鋼の張り合わせ構造)
 新刀以降に採用された刀身構造である。軟鋼の心鉄を硬鋼の皮鉄で包み込む。
 加重衝撃を受けると、展性のある心鉄が衝撃点側(内側)に湾曲する。内側の皮鉄は衝撃点に向けて圧縮され、外側の皮鉄には衝撃
 延長軸を境に最大の引張り応力が掛かる。靱性に乏しい硬鋼は引張り応力に極めて弱い為に破断する。

 上掲左写真は皮・心鉄構造の衝撃試験の結果である。
 外側の皮鉄は破断し、内側の皮鉄は圧縮されて若干盛り上っている(日本刀の秘奥より)。
 最も顕著な例が、棟打で発生する刃切れ及び刀身の折損である。刃側は高硬度で薄い為に直ぐに刃切れが発生し、刀身は簡単に
 折損する。(小倉陸軍造兵廠試験)
 この心鉄構造で最も強靱だったのは科学的に造られた満鉄刀だった。新々刀・加州物との衝撃比較試験で4倍の加重に耐えた。
 鋼材と科学的造刀法に秘訣があった。

丸鍛え(無垢鍛え・一枚鍛え)(硬・軟鋼の練り合わせ鋼及び合金鋼)
 古刀期の練り合わせ構造 (上掲右写真)
 加重衝撃で、衝撃延長軸を境に発生する引張り応力は外側に向かうほど強くなる。
 然し、刀身全体に軟鋼が微妙に配置されているので、その展性で応力が吸収される。厚い外皮が無いので破断を引き起こし難い。
 破壊靱性の原理に依る軟鋼の塑性変形が亀裂の伝播を止める。張り合わせに比べて刀身の靱性に優れる。
 柔軟で強靱な古刀丸鍛えの秘密である。支那戦線で優秀さが実証された。

 均質合金鋼 (上掲右、小倉陸軍造兵廠による陸軍刀剣鋼の強度試験より)
       玉鋼・心鉄構造の刀身との強度試験で、最後まで刃切れも生じなかった。粘硬性の元素を含み、鉄質が抜本的に異な
       る為である。
(関連詳細は「素延べ刀」、「将校用軍刀の研究」など各々の項目を参照)
1

刀 身 の 性 能


 普通炭素鋼の粘りと硬さの両立は、硬・軟鋼の複合組織で対応してきた (特殊合金鋼は別)。
 普通鋼の刀身性能は鋼材の性質(含有元素)、含炭量、熱処理にも大きく左右されるが、硬・軟鋼の配分で大枠は決まると言って
 よい。

 粘硬性・強靱性
  一定の厚みを持つ硬・軟鋼の張り合わせは刀身が硬直化する。練り合わせは粘りと硬さの均衡が取れ、靱性が増す。

 心鉄問題
  張り合わせは心鉄を理想通りに配置し難い。多くは心鉄の配置が乱れ、危ない刀身となった。(別項の実例断面写真参照)
  この問題を解決するのは満鉄刀のような科学的造刀法しかない。
  練り材の不均質鋼は、素材の吟味と沸し方に秘訣があるが、致命的な欠陥は生じ難い(前ページ参照)
  「古刀は意外に稚拙な造り方」という永山光幹研師の言葉は含蓄がある。

 実用性
  二枚鍛えが理想的な心鉄の配置になったとしても、研ぎ直しで硬・軟鋼の配分が崩れて危険な刀身となる。実用刀として失格。
  練り合わせ鋼及び合金鋼の刀身はいくら研いでも硬・軟鋼の配分は変わらない。
  「古刀は痩せ身でも戦い易い」との成瀬関次氏の検証はこれを裏付けている。

 切れ味
  刀身表面の凹凸が秘訣となる。
  練り材は表面が硬・軟鋼の不規則な分布になり、研ぎによって表面に凹凸を生じ、切れ味はこれから生まれる。
  皮鋼と心鉄が各々に均質な皮・心鉄構造の貼り合わせ刀身はこの特色を失う。

 地肌美
  切れ味の秘訣と連動。表面に出た不均質な炭素分布が、焼入で鋼の組織の違いを生み、変化に富んだ美しい地肌になる。
  地肌美は不均質・練り材の特色で、刀身組成の裡(うち)側から湧き出るものである。
  張り合わせ均質鋼の表面を、土取りと焼入のみで生成した地肌は単調になる。(鋼の組織と熱処理は将校用軍刀の研究第4報参照)


皮・心 鉄 鍛 え 丸 鍛 え の 比 較

(均質炭素鋼の丸鍛え = 一枚鍛えの粗悪刀は除く)

                                                     ◎任意調整可
 造 り 込 み  硬・軟 鋼 複 合 構 造 実     用     性 地肌美
粘硬性 強靱性 心鉄配分 研直し 切味 錆・耐寒
 皮・心鉄鍛え
 皮・心鉄張り合わせ
×硬直
×
偏向多・危険 ×
×・△
×

 丸 鍛 え
 硬・軟鋼練り合わせ
○粘性 無用

×
 丸 鍛 え
 合金鋼 (化学調整)

無用

×・△ ×

       心鉄を皮鉄で包む鍛えは、練り合わせ材の丸鍛えに比べて全ての面で劣る (刀身個体の差は無視)


小 林 刀 匠 の 作 刀 理 念



  1.不純物の最も少ない素材を選択して丸鍛えする
  2.純鉄の融点1,526℃より低い温度で地鉄を沸し、折返し鍛錬する
  3.丸鍛えする時、滲炭と脱炭を使い分け、1%前後の炭素含有量を自在に調整する
  4.鉄は生きている。二度と同じ地肌は出来ない。
  5.炭素の素晴らしい変化の美が、鉄に表現されなければならない



現代刀: 刀 刃長: 74.6cm、反り: 1.1cm、樋付き
表銘: 為三井田盛孝君 康宏作  裏銘: 昭和丙辰 (ひのえたつ = 昭和51)年八月
(刀身提供元/二代康宏:小林直紀刀匠)

2

斬 鉄 剣 刀 身 性 能 の 検 証




  昭和58年、小林刀匠の取材をされた竹内海四郎氏は、その場で荒研ぎの刀身を用い、試斬をされた。対象は鋼と鉄だった

圧延加工の鋼片: (左上) 2〜3p斬り込む(左上写真)。刃毀(こぼ)れ一つ無し。木やアルミではない。鋼を斬ったのである。
工作台の鉄足: (右下) 斜めに振り下ろし鉄足に食い込む。次いで野球のバットを振るように(左下写真)満身の力で斬りつける。
       同じように鉄足に食い込むが刃毀れ一つ無し。竹内氏は試斬の全くの素人で、刃筋を立てるなど無縁であった。


現代刀: 太刀 刃長: 81.4cm、反り: 2.0cm
        表銘:廣漢一緯 為土倉央至君 誕生昭和丁巳(ひのとみ = 昭和52年)年十一月十四日康宏造
        裏銘:昭和癸亥(みずのとい = 昭和58年)年六月佳日
(刀身提供元/二代康宏:小林直紀刀匠)



武 道 家 の 評 価

● 林流居合抜刀道師範、殺陣師・林邦史朗氏談
 「現代科学のデータや機械もドシドシ使っている。古刀と比べて遜色がない。今まで、色んな刀で斬ってみたが一番良い。
 試し切りでは安心して使える」

 戸山流抜刀術四段、俳優・滝田栄氏談
 「小林先生の刀を4振り所持。20世紀でなければ作れない日本刀だ。古刀は職人の技だけで、科学的分析や全ゆる試し切りの
 データを基に作った訳ではない。戦国時代の刀と斬り合えば勝つでしょう。古刀と戦っても物怖じしないと思う。
 建設用の1pφの鉄筋が切れた。古来の刀の凄さを追求しているようですが、美術品としても凄い作品だと思う。
 本研ぎをすれば国宝級の地肌が出るでしょう」
( 58年当時、「月刊空手道」1983年7月号福昌堂刊より)
● 武道家・東郷秀信氏の試斬 (昭和59年当時)
  孟宗竹 太さ6.5p、肉厚6.5o、水入り。斜め切断。
  トタン板 軟鋼のトタン板を紙のように切り裂く。刀身に異常無し。
  鉄板  厚さ2oの鉄板に深さ2.7pまで斬り込む。刀身に異常無し。鉄板の質と硬度は判らない
  試斬の映像、及び古刀を彷彿とさせる刀身の刃文・地肌は「クォーク」誌で確認して下さい。
(「クォーク」1985年1月号講談社刊より)

3

斬 鉄 剣 と 現 代 刀

試 斬
 昔から試斬は常識だった。
 自ら命を託す佩刀の性能を知っておくことは、武士の嗜(たしな)みというよりか人情というものであろう。
 直ぐに折れるかも知れない不安な刀を差す武士など居る筈もない。刀の性能を競う藩の試斬会なども盛んに行われていたようだ。

 大名やご大臣の試斬を請負った山田家代々の浅右衛門は隆盛を極めた。泰平の世でも、刀の基本が武器性能にあったからである。
 被切物は日常的な軟物の巻藁、中硬物の竹、専門業者に依る罪人の死体、究極の性能確認では石、鎧、兜などの硬物が試された。
 鎧・兜や鉄の具足は刀を防御するものである。平均的な日本刀では断ち切れないと思われるのだが、「矛・盾」の検証として行き
 着く先は鉄を試すことだった。
 古の種々の資料は誇張など信憑性に疑問な点もあるので、明治と大正時代の確かな逸話を見てみよう。

兜 割 り
 明治21年(1889)10月11日、伏見宮邸に明治天皇が行幸され、その御前で兜割りが行われた。明治天皇は衆知の愛刀家だった。
 日本刀は本来が鉄を断ち切るものではない。若しそうでなければ、鎧・兜は装着が不可能な重さになっていた筈である。

 一番手は、警視庁師範、立身流・鏡新明智流の名手逸見宗助だった。気合いを込めた白刃は、刃先を欠いて跳ね返された。
 二番手は逸見と同門の先輩で、幕末の銀座の料亭で天童藩の剣術と槍術の二人の師範を斬り捨てて勇名を馳せた上田馬之允だった。
 上田は渾身の力を込めて斬り下ろしたが、刃先を滑らして了った。
 最後が榊原鍵吉だった。直心影流を修め、幕末、幕府講武所の教授方を務めた名手である。
 時に58歳の老剣客は、同田貫業次(なりつぐ)の剛刀を上段に構え、魂魄の気合いと共に明珍の南蛮鉄の桃形(ももなり)兜を斬り下げた。
 刀身は6寸5分(約20p)も鉄を裁ち、見事に兜を斬り裂いた。鍵吉の技と同田貫の鍛えの業が渾然と一体化した瞬間に奇跡を生ん
だ。「斬鉄剣」である。
九州肥後同田貫上野介 (写真提供: 玉名市立歴史博物館こころピア)

詳しくは「豪刀・同田貫」参照

 大正3年(1914)、羽山円真が鍛えた東郷ハガネの日本刀は、兜割りの試斬で見事に兜を切断した。

(東郷ハガネと羽山円心参照)
 東郷ハガネ販売元の河合綱商店は、この刀と切断された兜を記念として東郷元帥に謹呈した。洋鋼一枚鍛えの「斬鉄剣」である。

 ここから何が読み取れるであろうか。

日 本 刀 の 性 能
 天皇の御前で、態々(わざわざ)ありきたりの試斬を天覧に供する筈がない。鉄の試斬は矢張り尋常なものではなかったと言えよう。
 明珍(みょうちん)家は平安時代から続く甲冑(かっちゅう)師の名門である。堅牢さは古今随一とされ、著名な武将達が愛用した。
 兜は鍛造された鋼であって鉄(狭義)や軟鋼ではない。
 明珍家に限らず、甲冑師達は日本刀の性能を前提に兜を造っていた筈である。従って、兜は元々刀で切れないように造られている。

 小倉陸軍造兵廠での玉鋼・心鉄構造の日本刀5口(ふり)の切断試験では、極軟鋼線(5oφシェア硬度28)を2口が切断し、3口は1/2
 しか切れなかった。
 兜より遙かに軟らかい極軟鋼板(3o厚シェア硬度28)では、全ての刀が切断不能で、且つ大きな刃毀れを引き起こした。
 これらの刀は新々刀の延長線上の刀であった。古刀はいざ知らず、新々刀と同じ鍛法の新刀も大差が無かったように思われる。

 前記、逸見宗助と上田馬之介の使用刀は判らない。不名誉の為に伏せられたのだろうか。
 少なくとも、天皇の御前で鈍刀を使う筈がない。
 逸見の刀は刃が欠けて跳ね返された。
 又、達人の上田が刃筋を狂わして兜の曲面を刀身が滑ったとは考え難い。刃曲がりを生じて刀身が滑った可能性が高い。

 日本刀の性能には大きなバラツキがあるが、これらを総合すると、平均的な日本刀の性能が浮かんで来る。


                 新撰組局長助・山南敬助の折損刀 「文久四年甲子異聞録第七」押形写
                           播州住人赤心沖光作 二尺八寸五分
                   岩城升屋での戦闘(元治元年1月8日)にて切先一尺一寸下り折損      
(小島資料館蔵)

性 能 検 証
 幕末の動乱は、刀の実戦検証でもあった。新撰組の「池田屋騒動」の損傷刀は別記した(「名刀とは何か」参照)。局長助(副長)・
 山南敬助知信の折損刀は、この5ヶ月前に発生した。赤心沖光が何時の時代の刀工か確認出来ない。新刀又は新々刀と思われる。
 山南(さんなん)ほどの剣客だから充分に吟味された刀であろう。一説に依ると、戦闘中に石垣に当たったという。
 それにしても物打ちでの盛大な折損である。

 大東亜戦争の大陸での実戦検証は別項に述べた。新々刀は古刀に比べて概して脆い傾向を示している(「実戦刀譚」参照)

 刃物・刀剣研究家の岩崎航介氏は、古今の資料から、戦闘と試斬に依る70項目100例以上の折損刀の例を挙げた。
 水心子正秀著「刀劍實用論」からの折損刀引用例も多い。「刀は案外折れるものだとの認識を持ってもらいたい。曲がった刀の記
 録は少ないが、これは刀が曲がらないということではなくて、記録に態々(わざわざ)残すような珍しいことではなかったからである。
 それに比べて刀の折損は、激戦の記録として、又、注目すべき関心事として記録に残した。
 刀が切れるか切れないかは二の次である。武人は先ず折れない事に最大の関心を払った。
 折れない刀は曲がり易い、曲がらぬ刀は折れやすい。武人も刀匠も折れず曲がらずを望んでいた。
 「武具要説」で丹波の赤井悪右衛門が「刀を試すのは切味ではない。折れず曲がらずの刀を持って身を捨てて打てば、敵をしとめ
 ぬ事はない」と記しているのは(刀に求められる条件として)最も要を得た言葉である」と述べている。
「日本刀講座」第十五巻歴史に現れた刀劍中篇(歴史及び説話一)より

 石、鉄、兜の試し切り、白刃を交える戦闘では肯けるが、犬、人、柱などを斬っての折損例を見ると、刀は折れるものとの感を深
 くする。新刀、新々刀だけではなく、古刀も地鉄や焼きの適否によって折れている。
 古刀は丸鍛えから、末期の合わせ鍛えまで刀身構造と鋼材の範囲が広い。どの刀身構造が折損し易かったかまでは立ち入って考察
 されていない。
 刀の刃毀れは恒常的なようだ。前述資料で新撰組隊士と浪士の戦闘で損傷した両者の刀が写真で紹介されている。

 昭和45年(1970)、陸上自衛隊東部総監部(市ヶ谷)で自決した作家の三島由紀夫の愛刀は、軍刀拵えの末関物無銘だった。
 三島の介錯人は、骨を断てずに刃毀れを引き起こした。介錯人の腕にも影響されただろうが、それだけの理由とは思えない。

 乃木将軍と共に殉死した静子夫人の短刀は一分以上も切先が欠け、刃は5〜6分ほど鋸(のこぎり)状になっていた。
 新々刀最後の刀匠で帝室技芸員であった月山貞一銘の短刀だった

 山田英氏は「新々刀、現代刀の鉄質は肉眼には緻密細美と見えても、その実、日本刀としては最劣等の粗質である」と述べる
 同氏は戦前、靖国神社遊就館の専属研ぎ師で、戦後は中央刀剣会の会長を務めた。差し込み研ぎの名人と言われ、数多くの刀の地
 鉄に直接触れてきた玄人職人の冷徹な見解であった。
静子夫人の自決後の短刀を研ぎ直した故・山田英研師の著書「日本刀禅的鑑賞」より

 こうしてみると、榊原鍵吉の剣技が抜群であったとしても、同田貫の強靱性が平均的日本刀に比べて隔絶していたことが判る。
 刀身が強靱でなければ、例え練達の使い手でも刀身は損傷したであろう。同田貫は加藤清正に仕えた刀工一派。文禄、慶長の役に
 清正軍の進撃を支えたのが同田貫だった。実戦刀の為に残存数が少ない。

 実戦刀として抜群の知名度をもつのが長曽祢興里入道乕徹である。越前国の甲冑師だったが、五十歳の頃江戸に出て刀工に転身す
 る。年齢的には小林刀匠も同じ経緯を辿っている。
 虎徹(後に乕徹)刀の検証データを知らないが、盾(たて)を造った人間が矛(ほこ)を造ったのだから虎徹刀が兜を断ち割っても不思議は
 ない(?)。然し、村田少将の記述からは、虎徹刀の別の実態が浮かび上がる。刀個体のバラツキであろうか。

 又、新々刀最後の刀匠・羽山円真の洋鋼(東郷ハガネ)丸鍛えの刀は見事に兜を裁ち切り、同田貫や虎徹に匹敵する強靱さを発揮し
 た。
 尚、心鉄構造の満鉄刀は厚さ五厘(約1.5o)、幅一寸(約3p)、長さ六尺の軟鋼板を重ねて四枚まで切断し、刃こぼれも刃切れも生
 じなかった。兜とは違うが一種の斬鉄剣と云えよう。
満鉄・興亜一心刀

詳しくは「満鉄刀の全貌」参照
 満鉄刀の凄みは、一刀だけの例外では無く、全製品が均質に同じ性能を備えていたことにある。
 因みに、小倉陸軍造兵廠での玉鋼・心鉄構造の強度試験では、5口の中で5oφ極軟鋼線を切断したのは2振のみ、3o厚の極軟
 鋼板は、どの刀も切断不能で大きな刃こぼれを引き起こした。

 これらの例は、洋鋼や丸鍛えの刀はポキポキ折れると主張して来た刀剣界の嘘を見事に暴いた。

昭 和 の 斬 鉄 剣
 明治・大正の兜割りと小林康宏刀匠の刀の性能を比較して貰いたい。
 被切物の違いはあるが、鉄鋼を対象にした厳しい試斬で刀身は全く損傷していない。
 既に、平均的な日本刀を強靱性で完全に凌駕(りょうが)している。
 小林刀は「折れ易からず、曲がり易からず、良く切れる」の根本要件を遙かに高い次元で実現した。
 昭和の同田貫、昭和の虎徹と言っても過言ではない。地肌も見事である
 武道家の方々は畏敬の念を込めてこの刀を「斬鉄剣」と呼んだ。
小林刀匠の刀には刃文・地肌美を備えた物と単調な地肌の大きく二種類がある
 然しながら、戦後の美術刀剣界は、鋼材や作刀の機械化が伝統的でないとの理由で異端視し、小林刀匠を無視し続けた。


現 代 刀
 そういう彼等が造る戦後の現代刀は如何なるものであろうか。
 武道家の方々に虚飾は通用しない。
 「巻藁を斬っただけで刃毀れしたり、お粗末なものは刀が折れる。段ボールを斬っただけで刃毀れしたものがある始末」との指摘
 が多く聞かれる。
 因みに、小倉陸軍造兵廠の強度試験で、刀剣展で最高入賞をした刀匠達が造った玉鋼・心鉄構造 32刀の中、12刀 (40%弱) が実
 用に堪えられない刀身だった。刀身地刃の美と、刀身性能は全く無関係であることが実証されている。
 古刀を真摯に追求されている刀匠も居られるが、現代刀の大勢はこのような実態であろう。

 戦後は占領政策で「武器、武術は忌まわしいもの、武器は悪」と徹底的に刷り込まれた。
 こうして日本刀の根本性能を完全に排除し、美術性のみ再現する「美術刀」が生まれた。
 未だ、武器性能が求められていた新々刀にあっても、刀の機能は古刀に比べて既に後退していた。
 この事からみても、新々刀に準拠し、且つ、刀の根本条件を欠落させた現代刀の性能が如何なるものかは言を俟(ま)たない。

 刀への畏敬の念、辟邪(へきじゃ)の願い、守護の祈りは、日本刀の根本である武器性能に端を発している。
 刀身の美は、基本性能を支える鋼材や造り込みの刀身の裡(うち)から滲(に じ)み出て来るものである。
 刀の土台を欠き、見てくれの表面だけを模倣している戦後の美術刀は、模造刀と言わずして何と言うのであろう。
 何故なら、大東亜戦が終結する迄の日本刀剣史1,000年の中で、物も斬れない刀が日本刀と認知された時代はどこにも無かった。
 刀身美に溺れていた江戸泰平の世ですら、戦闘が無い故に、試斬での刀の性能検証が盛んに行われた。
 物も斬れない刀は、端午の節句のお飾り刀か、子供の玩具位であろう。そんな玩具を誰が日本刀と思っただろうか。
 過去の歴史に存在しなかった様な刀、在っても日本刀とは認識もされなかった様な刀がどうして伝統的日本刀と言えようか。
 日本刀に限らず、戦後は全ゆる誤魔化しと錯覚の上に成り立っている。誤魔化しはそろそろ止めにすべきであろう。
4
真 の 日 本 刀 と は
 そうした虚構の中にあって、小林康宏刀匠の日本刀への信念は一際大きな光を放っている。この輝きを忘れてはならない。
 歴史上、日本刀は武芸と密接不可分のものであった。武芸なくして日本刀はあり得なかった。これは明白な事実である。

 現代刀剣界では日本刀の鑑賞が主流を占めているが、日本刀の本質からすれば、これは附帯的側面にしか過ぎない。
 太古より、刀剣は畏怖、畏敬の対象だった。刀剣の本質(利刃)が畏怖を生み、その裏返しが畏敬だった。
 たちどころに信仰の対象となった。
 以来、刀剣は国造りと政治に密着して歴史を重ねて来た。武士の道が「弓馬」の時代にも刀剣は特別な存在だった。
 火縄銃の伝来以降も刀を抜きにして日本史は語れない。

 刀剣が持つ畏怖・畏敬、霊威・武威の多面性は、全て武器の本質から生まれたものである。
 又、伝統とは物理的な形のみを言うのではない。
 刀剣をご神体と崇めた祖先達の祈り、後鳥羽院の刀剣への願い、鎌倉武士の太刀への祈り、刀に矜持を求めた武士の心、尊皇攘夷
 を刀に誓った志士達の夢、軍刀に心を装った将兵達の魂・・・等、刀は常に民族の心と魂とに係わる精神性と一対をなしてきた。

 戦後、それらは悉(ことごと)く否定され失われたものである。
 刀の本質を否定した戦後の美術刀は、その誕生の経緯からみても、刀に対する認識からみても伝統的日本刀とは異質の刀である。
 本来は「模造刀」と言うべきものを「美術刀」とすり替えて呼ぶようになった。それが、武器を悪と決めつけた戦後の風潮には適
 っていた。
 都合の良い時だけ、否定した伝統を持ち出し、伝統とは程遠い刀を伝統と誤魔化すのは歴史の冒涜に外ならない。
 物も斬れない刀を日本刀と言うべきではない。そうでなければ日本の歴史そのものを改竄(かいざん)することになる。

 伝統の日本刀を蘇生した小林刀匠は、晩年には電解鉄に挑戦していた。
 昭和62年(1987)年5月、この孤高の刀匠は美術刀剣界から無視されたまま、心半ばにして世を去った。
 惜しみて余りあるものがある。
 現在、日本刀に関する古の伝統が継承されているとすれば、日本刀と向き合い、日々心身の鍛練に精進されている武術・武道界に
 僅かに存在するだけであろう。初代・小林刀匠の斬鉄剣は、この武道界で今も尚、真の日本刀として生き続けている。
 伝統的武芸、武道家の方々が、日本刀のあるべき姿を積極的に主張して頂きたいと願うものである。


小林康宏刀匠の作品

日本刀の実態:(渓流詩人の徒然日記) 信州松代藩荒試し

「月刊空手道」・「クォーク」誌ご提供: 祖父江光紀様、ご協力: 竹内海四郎様
斬鉄剣断面写真ご提供: 森雅宣様、参考資料: 山田英著「日本刀禅的鑑賞」

          

   2013年8月29日より 無料カウンター 直接ご訪問(経由を含まず)
ヘージのトップへ▲

斬鉄剣・小林康宏  ホーム  日本刀 小林康宏作品集