日本刀の考察  実戦刀 0

豪 刀         同 田 貫 (Dōdanuki)

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天覧兜割り 

勇将・加藤清正の軍団を支えた刀



加藤清正 像
(写真提供: 熊本市文化振興課)

同田貫初代・上野介正國 肖像画
(写真提供: 玉名市立歴史博物館こころピア)



銘(表)  九州肥後同田貫上野介 桃山時代
刃長: 72.2cm、反り: 2.0cm



(写真提供: 玉名市立歴史博物館こころピア)


同 田 貫 (どうだぬき)

 鎌倉時代、肥後隈本(くまもと = 後の熊本)を支配していた名門の菊池氏は、京都山城国粟田口から高麗系の名匠来國俊の流れを汲む刀工・延寿國村を招き、菊池の西寺村に居を構えた。南北朝期を迎えるとその刀工一派は周辺の村に分かれ住んだ。
 その一つが稗方村同田貫(ひかたむらどうだぬき = 地名)である。
 南北朝〜戦国時代には、外国からも日本刀の需要が高まり(特に明は、倭寇に対抗する海浜兵の武装強化の為に日本刀を大量に買い求めた)、輸出入の利便の為、良港がある海岸の玉名へ鍛刀場所を移した。
 菊池氏の後、天文23年(1553年)、豊後の大友義鎮(よししげ = 宗麟)が肥後守護職を兼ねると、大友氏の配下で実用刀を大量に生産していた豊後高田鍛冶が菊池領内に流入してきた。一方、薩州(薩摩)から波平一派が肥後川尻に進出してきて盛んに鍛刀した。

 大友宗麟(そうりん)は密貿易で日本に多大な物資を持ち込んだ「倭寇」の庇護者の一人だった。
 倭寇に困り果てた明国は、倭寇の調査をする為に役人・鄭舜功(ていしゅんこう)を日本に派遣した。
 室町幕府に疎まれた鄭舜功は、滞日終盤の半年間を大友宗麟の庇護の元に過ごした。
 彼は日本の文化・地理・風俗などを詳細に調査して、明に帰国後「日本一鑑」を著した。
 日本の鉄生産地を四箇所(豊後・越中・備中・陸奥)挙げ、この鉄が銑鉄であった事、支那の福建やシャム(タイ)から鉄を輸入しているなどの中世古刀期の鉄の事情を明らかにした。(「日本刀の地鉄」参照)

 大友氏の後、加藤清正が肥後の領主になって、刀工達は稗方村同田貫から亀甲村へ、今村木下から伊倉南方村へ、更に河内村の塩屋にも移り、各々加治屋町が生まれた。ここでの刀工集団は、いつのまにか地名の一つである「同田貫」を名乗るようになった。


天下の三名城の一つ 熊本城
質実剛健な気風は城の偉容にもよく顕れている

(写真提供: 熊本市)
 肥後熊本人は「肥後もっこす」と言われ質実剛健を旨とした。「もっこす」
 とは肥後人の気質を表す言葉で、頑固者、一徹者、気骨者などを表す言葉で
 ある。
 この地域の風土が一切の虚飾を排除し、武器本来の性能を追求した結果が
 同田貫を生んだ。この実用刀を重んじたのが豊臣秀吉に仕えた戦国以来の
 勇将・加藤清正であった。
 同田貫一派は加藤清正のお抱え刀工となり、熊本城の常備刀として全盛期を
 迎えた。
 胴田貫の刀身は反りが浅く身幅が広くて重ねが厚い。見るからに豪刀と言え
 る。作風は板目肌、焼き幅広く、沸(にえ)でき(匂いできもある)、大湾(のた)れ、
 互(ぐ)の目乱である。
 銘は「九州肥後同田貫」、「肥後州同田貫」、「肥後国菊池住同田貫」など
 と切り、個銘(刀工の名)を刻むものは少ない。
 個銘が少ないということは、為政者・清正の軍備としての刀に対する明確な
 定見があったのではなかろうか。
 そうした中で、加藤清正から一字を授かったという「九州肥後同田貫藤原正
 國、同田貫上野介」や、「木下左馬介清國」などが著名である。

 家康が武田軍団との戦いで、高天神城(たかてんじんじょう = 遠江国城東郡土方(ひじかた)=現在の静岡県掛川市上土方・下土方)を攻めての退却中、一言坂で武田の軍勢数名が道を遮った。
 家康の道案内をしていた永田正吉がそれに向かって突進し、鍋のような兜をかぶった兵を兜もろとも切り伏せた。
 正吉が振るった刀が二尺三寸九分、重ね三分の「九州肥後同田貫藤原正國」だった。
 家康が「以後鍋割と呼ぶがよろし」といったので「鍋割正國」又は「兜割正國」の名が生まれた。
 
 天正11年(1583年)賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで武功をあげ、清正27歳の天正16年(1588年)、肥後北半国の領主に任命された。
 入国当時の肥後は長引く戦乱で国内は荒れ果てていた。
 清正は治山治水、新田開発などに力を入れ、また南蛮貿易に乗り出すなど、積極的に領地経営を進め、国は見違えるように豊かになり、領民からは神様のように慕われた。
 朝鮮出兵の文禄・慶長の役では主力として七年間戦い続けた。勇猛な清正軍団を支えた刀こそが豪刀の同田貫であった。
 秀吉の死後起きた関ヶ原の合戦で武勲を挙げ、徳川家康から肥後南半国も拝領して、実質ともに五十四万石の大々名となった。

銘(表)  九州肥後同田貫上野介 桃山時代
刃長: 71.4cm、反り: 2.3cm




戦後、この同田貫は連合軍に接収され、所謂「赤羽刀」と呼ばれる一群の日本刀の中に在った
柄の三七七のペイント番号が痛々しい
幸運にも、同田貫の故郷である玉名市に返還され、玉名市立歴史博物館にて再研磨された
(写真提供: 玉名市立歴史博物館こころピア)

 清正の死後、豊前小倉城主の細川忠利が入国した。
 細川氏は豊後高田系の刀工を多用し、これを境に同田貫は衰退して鍛刀技術も失われた。
 徳川の偃武(えんぶ = 武を納める)時代を反映して、日本刀は武士の装飾刀と化して行った。地刃の華やかな刀がもてはやされ、日本刀観が最も堕落した時代がその後続く。
 同田貫が復活するのは幕末の動乱が始まる新々刀期になってからである。
 水心子正秀に師事した「同田貫正勝・宗広」が出て広く使われるようになった。
 同田貫は実戦刀だった為に残存数が少ない。

 歴戦の武将・加藤清正は軍備と日本刀の本質を洞察していた。織田、豊臣、徳川などの諸公が質実剛健な美濃国関の日本刀を庇護して採用したのと共通する。天下を狙う大名ともなれば、実に合理的な現実主義者である。そうでなければ動乱を勝ち残れなかった。
 これらの事実は日本刀の本質とは何かを冷徹に我々に問いかけている。

鋼材と造り込み 1


脇差 銘: 九州肥後同田貫上野介 桃山時代
刃長: 45.8cm、反り: 1.3cm
刀身に 煩悩を打破する仏教用具の「素剣(すけん)= 不動明王がかざす剣」彫り。刀への祈りを顕す

(写真提供: 玉名市立歴史博物館こころピア)

 幕末の同田貫の鋼材と造り込みはほぼ想像できるものの、室町末期(戦国時代)〜安土桃山時代に造られた同田貫の実態はどのようなものだったのであろうか。玉名の東南にある阿蘇谷は古代から褐鉄鉱(リモナイトはその生成途上の物質)の一大埋蔵地だった。
 その西北端の菊池川流域には製錬遺跡が多数発掘され、古墳の副葬品に多くの鉄素材が埋葬されていた。
 然しながら、玉名地域での製錬遺跡は、平安時代を最後にぱったりと姿を消した。
 鎌倉時代以降、玉名地域の製錬が途絶えたとすれば、古刀期の同田貫の地鉄をどのように確保したのであろうか。
 今日では、文化財保護の規制から、残念ながら埋蔵の鉄素材や刀身の切断分析は不可能である。

 先述した鄭舜功の「日本一鑑」で明らかなように、戦国期の国内製鉄は、鉄鉱石かその粉鉱(砂鉄など)を原料にした銑鉄が生産されていた。その産地として、「豊後」・「越中」・「備中」・「陸奥」の四国が明記されている。
 この時代の国内製錬は規模の小さい自給タタラが主だった。国産鉄が商業的に流通する環境には無かった。
 時代が下がって、天文時代に出現した千種・出羽などの商業和鋼は鍛接材を不知な為に慶長期以降でなければ刀に使えなかった。
 同じく「日本一鑑」では、日本はシャム、支那の福建から鉄を輸入していることを述べ、鄭若曽(ていじゃくそう)著『籌海図編(ちゅうかいずへん)』他の支那の史書は、倭寇が競って鍋・釜にいたるまで鉄を欲しがったことを記録している。(以上「日本刀の地鉄」文献史学の項参照)
 倭寇は朝鮮半島の高麗、大国の明を揺るがすほどの大規模な密貿易を展開していた。
 この倭寇を庇護したのが他ならぬ
豊後の大友宗麟だった。
 大友宗麟の後を継いだ加藤清正も南蛮貿易を積極的に展開した。

 こうした状況を総合的に判断すると、豊後から肥後の領主に転じた大友宗麟が豊後鍛冶を同道すると同時に「豊後の銑鉄」の供給ルートを確保し、又、倭寇がもたらすシャムや福建の銑鉄をも併せ使っていたことが推定される。
 加藤清正の南蛮貿易で得られる「南蛮鉄」が刀に使われるのは、早くても慶長以降であろう。

 数少ない他の末古刀の分析に照らすと、和銑鉄、及び舶載銑鉄を卸した「卸し鉄」を使い、強靱な刀身から推察するに丸鍛えの刀身構造ではなかったかと思われる。

2

天 覧 の 兜 割 り


 明治21年(1889年)10月11日、東京府麹町区紀尾井町の伏見宮貞愛親王邸に明治天皇が行幸され、弓術、鉢試し、席画、能楽、狂言が催された。
 鉢試しとは、刀、槍、弓の武術を天覧に供するもので、刀の部では兜の試斬に剣客の榊原鍵吉、逸見宗助、上田馬之允の三名が指名された。明治天皇は愛刀家として知られる。
  
 一番手は、警視庁師範、立身流・鏡新明智流の名手逸見宗助だった。気合いを込めた白刃は、刃先を欠いて跳ね返された。
 二番手は逸見と同門の先輩で、幕末の銀座の料亭で天童藩の剣術と槍術の二人の師範を斬り捨てて勇名を馳せた鏡新明智流の上田馬之允だった。上田は渾身の力を込めて斬り下ろしたが、刃先を滑らせて了った。達人の上田が刃筋を狂わしたとは考え難い。刃曲がりを生じて刀身が滑った可能性が高い。
 日本刀は本来が鉄を断ち切るものではない。この兜割りは尋常な試斬ではなかった。
 逸見宗助と上田馬之允の使用刀は判らない。不名誉の為に伏せられたのだろうか。
 少なくとも、天皇の御前で鈍刀を使う筈がない。
 明珍(みょうちん)家は平安時代から続く甲冑(かっちゅう)師の名門である。堅牢さは古今随一とされ、著名な武将達が愛用した。
 兜は鍛造された鋼であって鉄や軟鋼ではない。
 明珍家に限らず、甲冑師達は日本刀の性能を前提に兜を造っていた筈である。従って、兜は元々刀で斬れないように造られていた。


 
 三番手の最後が榊原鍵吉だった。直心影流を修め、幕末、幕府講武所の教授方を務めた名
 手である。
 榊原は明治維新で失職し、糊口(ここう)を凌ぐ為に撃剣興行を催していた。
 時に58歳の老剣客は、同田貫業次(なりつぐ)の剛刀を上段に構え、魂魄の気合いと共に明珍の
 南蛮鉄の桃形(ももなり)兜を斬り下げた。
 刀身は六寸五分(約20センチ)も鉄を裁ち、見事に兜を斬り裂いた。
 鍵吉の技と同田貫の鍛えの業が渾然と一体化した瞬間に奇跡を生んだ。

 明治天皇も驚嘆され「おぅー」と声を発せられたと伝えられる。
 この偉業に対し、伏見宮から榊原へ金十円という大金が下賜された。


 ← 榊原鍵吉 (国立国会図書館・近代日本人の肖像より)

 榊原鍵吉は天覧の鉢試しに臨み、二つの逸話を残している。
 鉢試しの一ヶ月前、榊原は「刀にて兜を切ること能(あた)わず」と出場を辞退したが認められず、様々な刀で試したが失敗し、
当日悲壮な覚悟で家を出ようとしたところ刀剣商から同田貫を手渡されたという。
 別の逸話によれば、彼は以前に同田貫を用いて将軍・徳川家茂の御前で兜割りに成功したことがあり、相当自信を持っていたが、
手元に同田貫がなく、刀剣商から当日に手渡されたとしている。(玉林晴朗「剣客榊原鍵吉」)
 いずれにしても、榊原は当日偶然にも同田貫を手にしたことになる。
 それも事前に自ら吟味した手慣れた刀ではなかった。このことは同田貫の評価を更に高めた。

 この天覧兜割りは、榊原の剣豪としての名声を高め、併せて肥後・同田貫の群を抜く強靱さを世に知らしめることとなった。



余 録
 筆者は同田貫の調査で「玉名市立歴史博物館」を訪問した。展示室の入り口で母親らしきご婦人を伴ったうら若き女性が模造刀を手にしてポーズを取っている情景に出くわした。
 刀に興味を持つ女性の姿に、些か奇異な思いが過ぎった。学芸員の方に率直に疑問をお尋ねしたら、刀剣乱舞というゲームの影響で、遠路、東京や関西からも女性の訪問者が引きも切らないというお話だった。メディアでも報道されている事を知った。
 時代の変化に疎いことを思い知らされた。
 展示室には二口の同田貫が展示されていた。係長の方に丁寧なご案内と説明を戴いた。そこにも外人女性の姿があった。
 刀だけではなく、製錬遺跡の復元模型、それに基づく中世の製錬絵図など、実に興味を惹く展示内容だった。
 動機はどうあろうとも、美術刀剣界ではあまり取り上げない「武用日本刀 = 本来の日本刀」を一人でも多くの方に認識して頂けることは喜ばしい限りである。熊本観光のルートに乗りやすいので、一度は訪問されることをお勧めしたい。



 上空から俯瞰する博物館は
 前方後円墳を彷彿とさせる

 玉名市立歴史博物館こころピア





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