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加藤清正 像 (写真提供: 熊本市文化振興課) |
同田貫初代・上野介正國 肖像画 (写真提供: 玉名市立歴史博物館こころピア) |
天下の三名城の一つ 熊本城
質実剛健な気風は城の偉容にもよく顕れている (写真提供: 熊本市) |
肥後熊本人は「肥後もっこす」と言われ質実剛健を旨とした。「もっこす」 とは肥後人の気質を表す言葉で、頑固者、一徹者、気骨者などを表す言葉で ある。 この地域の風土が一切の虚飾を排除し、武器本来の性能を追求した結果が 同田貫を生んだ。この実用刀を重んじたのが豊臣秀吉に仕えた戦国以来の 勇将・加藤清正であった。 同田貫一派は加藤清正のお抱え刀工となり、熊本城の常備刀として全盛期を 迎えた。 胴田貫の刀身は反りが浅く身幅が広くて重ねが厚い。見るからに豪刀と言え る。作風は板目肌、焼き幅広く、沸(にえ)でき(匂いできもある)、大湾(のた)れ、 互(ぐ)の目乱である。 銘は「九州肥後同田貫」、「肥後州同田貫」、「肥後国菊池住同田貫」など と切り、個銘(刀工の名)を刻むものは少ない。 個銘が少ないということは、為政者・清正の軍備としての刀に対する明確な 定見があったのではなかろうか。 そうした中で、加藤清正から一字を授かったという「九州肥後同田貫藤原正 國、同田貫上野介」や、「木下左馬介清國」などが著名である。 |
三番手の最後が榊原鍵吉だった。直心影流を修め、幕末、幕府講武所の教授方を務めた名 手である。 榊原は明治維新で失職し、糊口(ここう)を凌ぐ為に撃剣興行を催していた。 時に58歳の老剣客は、同田貫業次(なりつぐ)の剛刀を上段に構え、魂魄の気合いと共に明珍の 南蛮鉄の桃形(ももなり)兜を斬り下げた。 刀身は六寸五分(約20センチ)も鉄を裁ち、見事に兜を斬り裂いた。 鍵吉の技と同田貫の鍛えの業が渾然と一体化した瞬間に奇跡を生んだ。 明治天皇も驚嘆され「おぅー」と声を発せられたと伝えられる。 この偉業に対し、伏見宮から榊原へ金十円という大金が下賜された。 ← 榊原鍵吉 (国立国会図書館・近代日本人の肖像より) |
上空から俯瞰する博物館は 前方後円墳を彷彿とさせる 玉名市立歴史博物館こころピア |
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