日本刀の考察  古刀への挑戦 0

斬鉄剣       孤 高 の 刀 匠・小 林 康 宏

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古 刀 未 だ 遙 か な り


水垢離する小林康宏刀匠
「月刊空手道」(1983年7月号)より
 新刀以降、刀匠の目標は古刀の再現にあったと言っても過言ではない。
 戦後、一貫して古刀を探究した天田昭次刀匠(人間国宝)は、著書「鉄と日本刀」の中で
 栗原彦三郎昭秀の同門だった宮入昭平刀匠(人間国宝)に触れ、「古刀を目指した宮入刀
 匠の作刀結果は、その目標とは裏腹に次第に古刀から遠のいて行った」と述べている。

 天田刀匠自身も、古刀は未だ遙か彼方にあると述懐している。
 刀匠の頂きに昇り詰めた刀匠達を以てしても、古刀に到達することができなかった。
 筆者は「日本刀の地鉄」の項で、天田刀匠の意外な側面を指摘した。
 天田刀匠が、古刀には丸鍛え※1が多く、心鉄が刀の機能を阻害することなどを晩年ま
 で知らなかった事実である。これが刀剣界の実態を表している。
 心鉄の矛盾は柴田刀匠や研究家達が指摘し、恩師の栗原昭秀も一枚鍛えの史実を明らか
 にしていた。
 戦後の美術刀に関して、永山光幹師(人間国宝)は、新々刀の鍛法を棄てるよう鋭い問題
 提起をしている※2
 それでも刀剣界の大勢は新々刀を古来からの伝統と信じ込み、この固定概念から脱却す
 ることができなかった。この因習は骨の髄まで染み込んでいた。
 これが古刀の再現を妨げた大きな要因だったように思われる。
※1 無垢鍛え及び割刃鍛え ※2 日本刀の常識を問う参照
 そうした現代刀剣界にあって異彩を放つ刀工がいた。初代・小林康宏刀匠である。
 因習の柵(しがらみ)がない小林刀匠は古刀の再現を見据えていた。経験・勘という不確かな技を避け、科学的素養を駆使して古刀の
再現を目指した。小林刀匠の刀は、鉄をも裁ち切る「斬鉄剣」として広く武術界で知られている。

 身体文化研究家の竹内海四郎氏は「月刊空手道」(1983年7月号)、「クォーク」(1985年1月号)誌上でこの希有な刀工を紹介され
た。小林刀匠の古刀に対する不動の信念は、日本刀の本質を世に問いかけている。
 この刀匠の信念とその作品を再認識することは、日本刀の本質を忘れ去った現代にこそ大変意義あることと思われる。
 併せて、小林刀匠の取組みは、古刀及び近代刀の考察に多くの示唆を含んでいるので、両誌を参考に筆者の所感を交えて異色の刀
匠をご紹介する。

康宏刀 硬・軟鋼練り材の丸鍛え



現代刀 銘: 康宏 刃長: 72.6cm、反り: 2.5cm
地中の白い斑点は「飛び焼き」、棟にも焼入れ。(写真右下)切先付近の地紋 
(刀身提供元/三井田盛孝氏)

刀匠への道
 大正3年(1914)、山梨県東八代郡豊富村に生まれる。甲府の商業学校卒業後、東京にてレコード店を営む。
 陸軍に召集されて中支派遣軍に配属。漢文の素養があった為に特務機関の宣撫工作員となる。昭和17年に除隊。
 翌年に再び召集され支那戦線に投入される。
 以前の特務機関の戦友達は無謀なインパール作戦に投入され、無念のうちに斃れていった。

 昭和21年に復員。進駐軍基地への冷凍機の商売を始める。
 昭和35年(1960)頃、懇意な刀鍛冶の鍛刀所で秋元昭友(戦中、栗原彦三郎昭秀門)と知り合い、後援者のようなことを始めた。
 日本刀の作刀が再開されたとはいえ、この当時、刀材は完全に枯渇していた。刀匠達は刀の材料の確保に大変な苦労をしていた。
 こうした状況の中で「地鉄を研究しょうと思い立ち、仕事を放っぽり出して一生懸命に鉄を作って秋元刀匠の元に持って行った。
 そして良い刀ができた。
 ところが、この刀匠が蔭に廻ると、小林さんは素人でいい加減なことを言って困る。この金で作れ、あの金で刀を作れと言って
困る・・・と何時も他人に話している。
 こりゃしょうがない。いかん。自分でやろうということになった」・・・これが刀匠となるきっかけだった。

 昭和43年(1968)頃、会社(50名程)を解散して、東京高輪のビル内に鍛錬場を設けた。昭和45年(1970)1月20日刀匠の認可が下り
た。特定の師を持たない為、認可までに一年半の時間を要した。
 電気ハンマーを使う街中の作業所の限界を感じ、昭和52年(1977)、故郷の山梨県に帰る。小林康宏55歳、人生の秋だった。

悪貨は良貨を駆逐する
 市井の人・小林林(本名)が、いつ頃から日本刀に関心を持ち、冶金学的見地からその研究を始めたかの背景は判からない。
 秋元昭友刀匠に師事したとの言が散見されるが、刀匠を思い立った経緯(いきさつ)から見て、それは間違いである事が明白である。
 知人の鍛刀所に出入りしている段階で、既に小林氏の頭には明確な日本刀像があったことが窺える。
 だからこそ、仕事を放棄してまで様々な鉄作りに没頭したのである。既に、日本刀の本質を見据えていたことが判る。
 小林自身は刀を打てないので、自ら描いた日本刀を検証する為に、秋元刀匠に作刀を依頼していた。
 従って、例え刀が打てなくとも、師は寧(むし)ろ小林氏の方であったと言うべきであろう。

 「井の中の蛙、大海を知らず」という。
 大海が必ずしも正しいとは言えないが、井の中と大海のどちらが正しいかを知る為にも大海(異なる見識)を知ろうとする姿勢が
要る。それが凡庸と非凡を分ける境となる。
 秋元刀匠にとって、小林氏との出会いは日本刀の視野を広める絶好の機会であったろう。
 只、因習に浸りきっている凡庸な集団が、非凡な少数の人間を異端児として排斥するのが世の中の常であった。
 曲解を承知の上で、グレシャムの法則の言葉を借用すれば、「悪貨は良貨を駆逐する」との表現がピッタリする。
 これはどの世界でも変わらない。
1

目 指 す は 古 刀

地鉄の追求
 小林刀匠は自由な作刀環境を求めて昭和55年(1980)7月、山梨県巨摩郡の無人の林の中に新たな鍛錬所を設けた。
 既に(財)日本美術刀剣保存協会が52年より玉鋼の供給を開始していたが、自ら信じる鋼材を造ることも移転の目的だった。
 小林刀匠は製練に挑んた。
 自宅前の丘の斜面に自然通風を利用して「登り窯」を造った。常識といわれた開放型たたら炉ではなかった。
 密閉型の自然通風の登り窯は温度が上がらず、古刀期同様の鉄が採れる筈という計算に基づいていた。
 小林刀匠の登り窯は全長6m、原料には砂鉄を、燃料には赤松の薪が使われた。
 流動ズクを生成していたとのことなので、炉温は1,200℃を超えていた。低温製錬の海綿鉄(800℃位)、塊錬鉄(1,000℃位)では
なかった。
 丸鍛えの前提は、ひとえに地鉄の工夫にある。下記の着想をみれば、最初からズク押しを狙っていたのかも知れない。


                 全長6mの登り窯                     独特の閉鎖炉
2
地鉄の製法
昭和59年 (1984年) 頃の地鉄の造り方

 @ 素鋼は蜂目ズクと錬鉄(スウェーデン鋼)。
   銑(ズク)押し製錬で得られた溶融銑は鋳型に流してインゴット状にして使う。この時の表面が氷のように滑らかなので氷目ズク
   という。
   蜂目ズクとは氷目ズクを適度に脱炭したズクのこと。表面に蜂の巣のような穴が開いているので蜂目ズクと呼ばれる。
   純鉄は0.02%以下の炭素含有量の鉄。純粋な純鉄は殆ど存在しない。必ず少量の炭素を含有するので錬鉄の呼称が相応しい。
 A 蜂目ズクと錬鉄を組合わせ、独自考案の密閉型火炉(ほど)に装入して沸かす。ズクと錬鉄の組合わせ方及び炉温が地金の質を決
   定する。
 B 赤熱した蜂目ズクと錬鉄の塊を取り出し、鍛打して一つの地鉄に纏めて混合・練り材を造った。これが重要な鍵となる。
   この時点の銑の製錬原料が砂鉄かどうかは記述にない。



 写真(「クォーク」1985年1月号)に依る地鉄の精錬状況から判断すると、銑と錬鉄は半溶融の状態で鍛造されているので、密閉型
火炉の温度は1,200〜1,300℃位と推定される。
 Aの組合せの具体的な状態の確認がとれないが、どのような組合せであれ、
 Bの下鍛えに依って低炭素(錬鉄)部と高炭素(ズク)部が半固溶で混じり合った練り材の地鉄ができた筈である。
 これは、大陸の刀剣用灌鋼の製造法(右図)と酷似している。漢代から造られ、日本の室町期にも改良されながら1,600年以上に亘
って大陸で使われ続けていた。
 灌鋼と着想が近似したのは偶然の結果なのか、予めそれを習知していたのか興味を惹かれる。
 何れにしろ鋭い着想と云わざるを得ない。


                                       古代鉄「灌鋼」参照
古刀の地鉄
 小林刀匠の日本刀に対する見識は明快だった。
 「応永年間(1394-1427)迄の古刀は良かった。
 戦国時代、刀の需要が急増して今まで棄てていたヒ(ケラ)の中の玉鋼で刀を造り始めた。
 この方法が江戸時代に定着してしまった。玉鋼のような不純物が多い鋼は、古来の美術性の高い古刀には使われていないんだ。
 以来、約550年間の刀鍛冶は玉鋼を日本刀の材料と思い込んでしまった。良い古刀には不純物が殆ど入っていない。
 それが鎌倉時代になると4〜5種類も入り、現代刀では不純物が十数種類も増えている。
 伝統、伝統と言っても間違った伝統なんか何にもならない。
 今の刀鍛冶は玉鋼で造るのが正しいと思っているが、それなら何故古刀と同じものが出来ないのか? 
 私がそれを指摘しても、あの素人がと言うんだな。実際に古刀を超える日本刀を造れば、私の作刀理論は否定出来ないだろう」、「何故、こんな簡単なことにみんなが気付かないのかと、夜、情けなくて涙がこぼれた」と無念の思いを竹内氏に語っている。
天文の量産和鋼を広義に「玉鋼」と呼んでいる

  新刀以降の多くの刀匠達が鍛法、焼入からも古刀を追求したが全て
 徒労に了った。何故古刀に近づけなかったのか ?

  古刀期の刀匠と比較して作刀技術に遜色があったとは思えない。
  古刀との差は造刀法ではなく「鉄質」の相違にあったからである。

  古刀は600年の永きに亘る。
  古刀初期から末期の間、海綿鉄・塊錬鉄から銑製造に巾を広げた。
  一方、鉄器・鉄刀の分析では古刀期まで舶載鉄が主流を占めていた。
  最も根本となる鉄質の違いを見逃していた

←精練中の小林刀匠(「月刊空手道」より)          ※ 日本刀の地鉄参照

 国産鉄に限れば、鎌倉〜応永の頃まで、刀材は銑卸し(間接製鋼)が主だったと推定される。
 戦乱の需要拡大で作刀効率が問題となった。最も時間を要するのが鋼の精錬だった。
 ヒ(ケラ)は精錬時間が短縮出来る。銑(ズク)押し製錬ではヒの量が少ない。
 天文の頃、大資本の製鉄山がたたらをヒ押し法(直接製鋼)に転換し、出羽・千種などの商業用量産鋼が生まれた。
 皮肉なことに刀匠達はこの鋼※1を敬遠して、従来の刀材(支那鉄卸し推定)を慶長まで使い続けた。これらの量産鋼はそれまでの銑卸しの鋼とは異質のものであった。新刀以降、刀匠達は、量産鋼を使って鉄質の違う古刀を再現しょうとした。
※1 高温製錬の為、鍛接剤としての有用なノロを失い、従来の手法では鉄の鍛接が出来なかったから刀に使えなかった

 日本刀研究家の佐藤富太郎は「鐵なるものは(製錬の)低、中、高の熱度に依り本質的の相違を來たすものである※2
 然るに、新刀期の刀工は此の理由を知らず、徒(いたず)らに古刀の地鐵を謳歌し、研究と稱し、苦心と言ひ、殆んど半生、否、畢生(ひっせい)の努力を傾注して此の本質的に相違せる(天文以降の)大量製産の鐵を以て古刀を造らんと欲した。
 之、麥(むぎ)を煮て米飯を焚(た)くに等しく、其の愚や笑ふ可(べ)く、憐むべきものあり」と述べている(「日本刀の秘奥」より)
 水心子正秀も「刀劍實用論」で出羽・千種鋼は古刀とは(鉄質が)一変したと述べる。
 「量産鋼で古刀を造ろうとするのは、麦を焚いて白米の飯を作ることと同じ」との表現は的確で分かり易い。
 舶載鉄なら尚更のことであった。

 小林刀匠は時代が下がると共に鋼の不純物が増えると述べた※2
 東京帝大の俵國一博士は「日本刀の科学的研究」で古刀→新刀と時代が下がるにつれて地鉄が汚れて行く事を化学分析で証明した。
 古直刀は最も清浄だったので、舶載鉄も同様の傾向だったのであろう。
 佐藤富太郎も、「推古朝以前の地鉄は精麗、平安末期まで精良で、御番鍛冶時代に入り鉄質は悪化した。応永時代の鉄質の悪化は
鍛錬で補修された。
 (幕末の)文化・文政の頃の大量製産の鉄(玉鋼)はますます悪変し、従来の積み沸しや鍛錬では精良な地鉄を得ることが難しくなっ
たので、遂に、水心子正秀の卸し鉄法や清麿の精錬法が案出された」と述べ、製鉄業の革新※2が鉄質の悪化をもたらしたとの認識
を示している。現代刀はこの悪化した玉鋼を継承してしまった。

       ※2 非金属介在物は、古刀期の低温製錬(〜1,200℃)ではノロに固溶し、天文以降の高温製錬(1,300℃〜)では鉄に固溶する(汚れた鉄)
       ※1※2 詳しくは「日本刀地鉄が慶長期に変化した要因」参照

 小林刀匠はスウェーデン鋼も使った。日本刀の本質(目的)を実現する為に、その手段として最良と思われる鋼材を試行するのは当
然である。スウェーデン鋼を使った理由を「不純物が極めて少ない清良な鋼だから」と竹内氏に語っている。
 その清純さは世界に知られていた。
 古刀は同時代の鉄器・鉄刀類の分析から、舶載鉄を主に使ったことはほぼ間違いない。先入観のない探究の姿勢こそが重要だった。
 地鉄造りの要点は不用介在物の除去、炭素量の調整とその配分である。スウェーデン鋼は不用介在物が予め除去された綺麗な鋼で
あり、和鋼は鉄滓等を咬み込んでいて、鍛錬(精錬)しなければ使い物にならない物理的に汚れた「粗鋼」だった。

 鉄滓を除く為に折り返し鍛錬という無駄な労力を強いられた。これは製鉄山の仕事であって刀匠本来の仕事ではない。
 又、手である必要の無い工程は迷わずに機械化した。
 古に機械があれば刀匠達は迷わずに使っただろう。手段とはそういうものである。
 刀剣界は、枝葉末節の形を伝統と勘違いし、こうした小林刀匠の合理的な姿勢を異端視した。
 小林刀匠の無念の思いが伝わってくる。
 手段と目的の履き違えが刀剣界を支配している。古代刀以来、時代に応じた異なる鋼材が使われて来た。連続性など元々無かった。
 手段である地鉄を伝統の条件とすれば、日本刀の歴史は大きく分断されてしまう。
 近世の玉鋼が伝統の条件なら、舶載鉄を鍛えた古の刀匠達とその作品を否定することになる。
 後世の人間が勝手に手段(地鉄や構造)を設定すると、日本刀の歴史そのものが否定される。そのような無謀な権利は誰にもない。

3
丸鍛えの信念
 小林刀匠の造り込みは迷わず丸鍛えであった。何時、その確証を得たかは定かでない。刀身構造は鋼材の質と表裏一体である。
 秋元刀匠に各種の鉄を届ける段階で確信を持っていたことは間違いないであろう。
 北宋の沈括による11世紀の産業技術書「夢渓筆談」、明代末の17世紀、宋應星の「天工開物」等に刀剣鋼材や製鉄法が載っている。
 竹内氏は、漢書の素養がある小林刀匠が大陸の宣撫工作員の時代に各種の情報を得ていたのではないかとの見解を筆者に語られた。
 大陸の地鉄や古代刀剣の実態などを学んでいた可能性もある。スウェーデン鋼を混合した村田刀なども参考にしたかも知れない。
 朝鮮古斧は炒鋼の硬・軟鋼を練り合わせた実質丸鍛えだった。
 多くの日本文化がそうであるように、大陸と半島の影響を無視できない。
 大陸の地鉄や造刀法の実態の中に、日本古刀の謎を解く重要な鍵があったかも知れない。
 これらの事には目もくれず、日本刀は古来から玉鋼と心鉄構造(合わせ)だったという因習に浸りきっていた事が、古刀に近づけな
かった理由のように思える。

 俵國一博士の古代刀10本の分析では、異なる炭素量が不均質に分布する丸鍛えが大半を占めていた(一部三枚合わせあり※1
 天田刀匠も、工藤治人博士(安来製鋼社長)、久我春氏(化学者・日本刀研究家)の教えを受け、鎌倉時代の大和物を切断して次々と割刃
鍛えであることを確認した。「古刀全般に心鉄を使わなかったとは断言出来ないが、決して少くはなかったろう」と述懐している。
 古刀十数本を切断した刀剣研究家の西村勝政氏は「全て丸鍛えだった」と報告し、俵博士の研究でも末古刀の祐定は丸鍛えだった。
 佐藤富太郎も切断刀身の考察から、「御番鍛冶(13世紀)の直前までは丸鍛えのみで、稀に割刃鍛えがある。   ※1 の解釈は疑問
 太刀黄金期は応永直後まで続くが、未だ沢山の丸鍛えと割刃鍛えが続く。
 慶長新刀の時代になっても、肥前忠吉、筑州信国、埋忠、大和守安定、越中藤原重清、仙台の永重などは量産鋼を使わず、舶載鉄
を使っていた。天文の量産鋼は刀工間で余程の厄介物だったのであろう※2と言う。         ※2 鍛接剤がないと使えなかった

 水心子も「この鋼は強すぎて刀剣に用いると害が多く、益は少ない」と述べている(劍工秘傳志巻之上)
 佐藤は「大量製産鉄の含炭量が多い為、新刀期の大勢は丸鍛えは少く、殆ど三枚(心鉄構造)である。
 大量製産鉄の鍛錬発明者と云うべき南紀(重國)及び堀川一派だが、南紀は千種の中位(中炭素鋼)の物を用いた一枚鍛えで、堀川国
広は硬・軟二種の量産鋼を使って二枚鍛えとした。然し、国広の門弟達は中位の量産鋼を使った丸鍛えが多い。
 そぼろ助廣、丸津田、助直、一竿子、真改、丹波守吉道、京の五鍛冶、尾崎助驕A尾州江戸住正國、弟子國次、國栄なども丸鍛え
である」と述べている。

 天文に出現した出羽(急冷・硬鋼)、千種(放冷・軟鋼)、印可の商業鋼は直ちに刀剣には使われなかった。高温製錬の為、鍛接剤と
しての有用なウスタイト系ノロを失ったからである。60年近く後の慶長時代に入って漸(ようや)く使われ始めた理由が浮かび上がる。
 これらは高炭素鋼の為、丸(一枚)鍛えでは刀身折損の虞(おそ)れがあり、決して望ましい鋼ではなかった。
 古刀を伝承していた刀匠達にとって、鉄質の変化に伴う新たな合わせ鍛えの造り込みには相当の抵抗感があった事を示している。

 歴史上、日本刀は丸鍛え(無垢=一枚鍛え)が基本だった。丸鍛えで強靱性、粘硬性を確保した秘訣は、地鉄の工夫と熱処理である。
 地鉄の工夫の一つが硬・軟鋼の「練り材」だった。これが自然の地肌美をも生み出した。練り材の造り方には三種がある。

1.原始低温製錬の海綿鉄、塊錬鉄の時代は、素鋼そのものが炭素量の不均質な練り材だった。稚拙製錬の偶然の結果による。
2.中温製錬の溶融銑は脱炭して鋼にする。卸し方に依って炭素量がバラツク不均質鋼となる。所謂卸し鉄である。
3.硬鋼(銑)と軟鋼(錬鉄)を意図して混合する。小林刀匠は「ズクと錬鉄の混合」を採り、地金の鍛錬に独特な工夫を凝らした
この重要な混合の細部がつかめていない
4
小 林 刀 匠 の 丸 鍛 え (一枚鍛え)   


         
 刃部マルテンサイトの顕微鏡写真

←刀身断面の硬・軟鋼は木目年輪状の分布。

 刀身表面は不規則な硬・軟組織の分布の為、
 これが変化に富んだ自然な地肌美を生んだ。
 中央及び左右は折返し鍛接面と思われる
         
     写真ご提供: 潟nチオウ会長・森雅宣様


       小林康宏の造刀
        1. 上記Bで下鍛えした地鉄を二つに切断。二つを重ねて3回位折返し鍛錬する。
        2. この地鉄を電気ハンマーで少しづつ打ち延ばして刀の祖形を造る。
        3. 鎚(つち)で火造り鍛延して刀の形を整える。解放型火炉は1,000℃以下。
        4. 小槌で切先から最終的な形を整える。
        5. 砥石の粉と松炭、粘土を混ぜた焼刃土を塗る。
        6. 消し炭約800℃中で赤熱、水中焼入。
        7. 焼き戻しの詳細不明。
        8. 鍛冶研ぎ。
5

折 り 返 し 鍛 錬 の 考 察


 新刀以降: 折り返し鍛錬とは直接製錬の和鋼の宿命である鉄滓(非鉄金属介在物=以下不純物と記す)の除去と炭素量の調整である。
 一石二鳥のように思われているが、二兎を追った為に歪みを生じた。下記模式図の上の流れ(硬鋼の例)でその理由を説明する。

  鍛錬と刀身構造模式図

 新刀以降の玉鋼折返し鍛錬と
 二枚鍛え 皮鉄(硬鋼)の例 →



 硬・軟鋼練り合わせ材と
 丸鍛え  古刀想定  →


新々刀の折り返し鍛錬(上図の上の流れ)
@ 量産鋼を赤熱鍛打して平らに打ち延ばす。火炉の赤熱で表面は酸化脱炭される(錬鉄の場合は吸炭させる)。鍛打に依って表面に
  出てきた不純物はスケールと共に飛散除去される。
A この鋼を二つに折り曲げる。その結果、
B 鋼の中に脱炭層が形成され、元の炭素量と低炭素量との複合組織となる。鋼の中の不純物は依然と残ったままである。
  残存不純物を表面に出す為に、折り返し鍛錬を何回も繰り返すことになる。
C 鍛錬を10回も繰り返すと1,024の折り返し鍛接層が形成される。一つの層は、元の炭素層を脱炭層が夾むので、二倍の2,048の炭
  素層が形成される。
  一方、鍛打毎に表面層が飛散して、10回も折り返し鍛錬すると鋼材の量は1/2に減じ、鋼材の厚みが半分になる。
  従って各層は限りなく薄い。これだけの薄層だと、既に途中の段階で炭素交換に依って高・低炭素量の差が消滅してしまう。
  折り込まれた脱炭層で全体が充満され、炭素含有量は1/2に減少し、且つ、炭素の分布が均質になる。
  鋼単体としては品質が向上(炭素分布が均質化したという意味)した。
  ところが、均質な普通鋼は、熱処理(焼入、焼鈍し)を如何に工夫しても、粘りと硬度の両立に自ずと限界があった
スプリングの熱処理は別
 均質な鋼が刀材に適している訳ではない。
 その為、硬・軟鋼を貼り合わせる種々の造り込みが考案された。所謂(いわゆる)合わせ鍛えである。
 この合わせ鍛えは理想の刀身構造だろうか ? 
 後述するように、強靱性は工夫された丸(無垢)鍛えに劣る。心鉄構造は研ぎ直しの観点からも実用性がない。
 均質鋼は地肌の美も後退させた。それにも拘わらず、何故このような手段に固執したのであろうか。
 それは、「和鋼、折り返し鍛錬、心鉄構造」という新刀以降の固定観念に囚われていた為である。
 確かに、多くの不純物を巻き込んだ直接製錬の和鋼を清純にする為に、折り返し鍛錬は不可欠な手段であった。
 加えて、折り返し鍛錬が鋼を強靱にすると云う妄想に支配され、鍛錬回数が多いことを良しとした。(「折り返し鍛錬と強度」参照)
 辿りついた結果が、古刀より退化した日本刀だった。

小林刀匠の地金と鍛錬 (上図の下の流れ)
 例え炭素量が不均質な鉄素材であっても、不純物を絞り出すのに鍛錬回数を多くすると均質な地鉄となってしまう。
 鍛錬を少くするには不純物の少ない素材を選ぶ必要があった。
 又、少ない鍛錬は有用な鉄滓(ウスタイト系ノロ)を残留させる効果もあった(工藤博士の論理)。
 液状の溶融製錬では、鉄滓が溶銑中から浮揚して容易に銑と分離出来る。又、銑(ズク)の融点は低く、不用元素の固溶も少ない。
 不均質鋼を造るには、銑卸しか、灌鋼の様に銑鉄(ズク)と錬鉄を混合するか、炒鋼などの清浄な硬・軟鋼を混合する方法があった。                                                              
 銑卸しは、卸す工程で不純物と不用元素が混入するリスクがある。小林刀匠は灌鋼近似の手法を採った。     
 錬鉄にはスウェーデン鋼を選んだ。最初から不純物の少ない清純な素材に拘った。
 清良な素材は、刀匠を不純物の絞り出し作業から解放し、炭素量の調整と、その配分に専念させることが出来た。
 地鉄造りには独自に考案した密閉型火炉が使われた。蜂目ズクとスウェーデン鋼の組合せ方と沸し方が最大の鍵になる。
 上図は、融点が高いスウェーデン鋼を小塊に砕いて組み合わせる大陸の「灌鋼」近似の例を図示した。
 然し、上掲小林刀の刀身断面の炭素分布を見ると、平板状の硬・軟鋼を交互に鍛接し、数回の折返し鍛錬で練り合わせをしている。
 より複雑に硬・軟鋼を練り合わせる為の折り返し鍛錬は、均質鋼を造る為の折り返し鍛錬とは意味が全く違う。
 火炉の沸しでは両素材の炭素交換が始まる。ズクが炭素を放出して硬鋼になり、錬鉄が吸炭して軟鋼に変化する。
 1,500℃位の高温で沸かすと吸炭した錬鉄の融点が下がり、下手をすればズクと錬鉄が完全溶融して均質鋼になる。
 1,200℃前後で沸かすと脱炭したズクの融点が上がり、半溶解にならない可能性がある。
 両素材の混合比率に依って適温を制御する秘訣があったと思われる。


古 名 刀 の 条 件


 小林刀匠の地鉄と鍛法は「銑を卸したヒ(鋼の意味)と包丁鉄(錬鉄)を併せ、折り返し鍛錬を少くして丸鍛えする」という工藤治人
博士の古名刀に対する洞察と同じだった。

           1. 打上げた時 C 0.45〜 0.5になるように素材を選ぶ事
           2. 初め高温に熱して除滓する和鋼独特※1の作業をしない事
           3. 心金を用いず丸ギタエにする事、
           4. なるべく低温に焼く事、
           5. 折り返しは少なくする事。

 これは鎌倉・南北朝の古名刀の地鉄に対する工藤博士の不動の考えだった。
 工藤博士は安来鋼の開発者で、古刀研究の第一人者である※2           ※1 新々刀の鍛法を指す ※2日本刀の地鉄」参照

 小林刀匠の信念は古刀の本質に迫ったもので、異端児扱いされる謂われなど毛頭無かった。

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