異説・たたら製鉄と日本刀 (5)  0
弥生〜古墳時代

古 代 鉄 と 国 内 鍛 冶 刀 剣

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炒 鋼刀剣用 灌 鋼

鉄 戈 (てっか)

刀剣地鉄と構造の参考として、鉄斧と鉄戈を考察する

 


九州西北部の弥生中期の遺跡から約20振りの大型鉄戈が出土した。有樋と無樋の二種類がある。
大型鉄戈は大陸と半島での例がない為に、国内で製作されたと判断されている。
鉄戈の試料 8点の錆を分析した佐々木稔氏は、鉄戈4点に関する炭素含有量を棟部で0.1〜0.2%、刃部 は0.5〜0.6%と推定した。
又、P(リン)とCu(銅)の分析値から、始発原料は磁鉄鉱とされ、鉄戈に使用された鋼は列島外から舶載された鉄素材と推定した。

参考に掲載したペルシャ(現イラン)のルリスタン出土の短剣も棟部の錆が分析された。
棟部表面の炭素量は0.2〜0.3%の軟鋼だった(分析表割愛)
この短剣と類似のものが世界で10数振り調査された。柄頭の断面を分析した外国の研究者は、芯部がC0.4〜0.5%の鋼であるとした。

鋼の製造法を推測する為に、ペルシャ鉄剣、日本の鉄戈、古代ローマ帝国の長短二本の釘の非金属介在物が分析された。
これらの成分比較表が下表である(釘は割愛)。


 ペルシャ鉄剣、日本の鉄戈、ローマの釘も造滓材成分の比率はほぼ同じ結果を
 示し、鋼質と製造法は共通であると判定された。
 時代が遡るが、ヒッタイトのカマン・カレホユク(遺跡)V層とUd層出土の2点
 の鉄滓は石灰質材料を使用した鋼の精練滓と判定され、同じく採取された4種の
 鉄片の非晶質珪酸塩系介在物の造滓材成分もペルシャ短剣とほぼ一致した。

 時代が下がったUa層に、銑鉄に近い組成の遺物が検出され、内部に黒鉛化組織
 の残留があった。鼠銑であろうか? 原料鉄と見られている。
     ※ 紀元83年頃のイギリス・イングランド北部ブリタニア要塞遺跡から出土した
       百万本近い釘

佐々木氏は、アナトリア遺跡出土の粘土板古文書の中の「黒い鉄」と「良質の鉄」という記述に関して、『「黒い鉄」とは外から搬
入された銑鉄組成に近い「粗鉄」を指し、それを原料にして精製した鋼が「良質の鉄」の意味であろうと推論している。
即ち、カマン・カレ以外の地で造られた鉄素材(錬鉄又は銑鉄)を移入し、それを原料として「鋼」を精練していたという事になる。
但し、銑鉄組成に近い遺物に関しては類例の増加を以て慎重に判断しなければならないと述べている。
ヒッタイト帝国の製鋼実態が少し浮かび上がってくる。

海綿鉄製錬から出発した原始製鉄は、ヒッタイトの製鋼技術で一つの画期を迎えていたと思われる。
前12世紀のキプロス島から多数の鉄器が出土した。その中の小刀には滲炭処理が施されていた。
キプロス以外でも、前12世紀を境に周辺諸国の青銅器が実用鉄器に代わっていく。
ヒッタイトの滅亡で製鋼技術が一斉に拡散した。
前10世紀になるとパレスチナ、キプロス、クレータ、ギリシャでは鉄製武器が青銅製武器を上回るようになった。
鉄が実用の時代に入った事を意味している。
 
東部地中海地方では紀元前8世紀には、既に鋼の精練を行い、流動性スラグ(鉄滓)を生成させる造滓材を使用していた。
又、硬度の異なる「鉄※1」の 長所と欠点を知っていて鉄の造り分けを行っていた。
※2 鋼、銑などの言葉や概念は後世名付けたもの
時代が下がるローマ帝国の釘も、長い釘はC 0.5〜0.6%の硬い鋼、短い釘はC 0.1〜0.2%の軟らかい鋼だった。
ローマ時代のプリニウス(A.D.23〜79)の「博物誌」の鉄の項に『軟らかい「展延鉄」と、硬い「鉄の核」の二種類がある』との記述
がそれを裏付ける。
更に、製品の目的に応じて「軟らかい鉄」と「硬い鉄」を合わせた複合材の鉄製品を鍛造していた。 

それでは、鋼質と製造法が共通と言われる前8世紀のペルシャ鉄剣と紀元1世紀の日本の鉄戈はどういう鉄だったのであろうか。
アリストテレス(B.C.384〜322)は「鉄は溶剤のピリカマスを添加し、繰り返し溶かされ、それに依って一回の熱で浄化された時より
もずっと美しく光沢のあるものとなり、この鉄だけが錆びない」と記述した。
このピリカマスが造滓材と見られている。
佐々木氏はチグリス河畔から出土した前18〜17世紀頃の粘土板文書の世界最古の釉薬(うわぐすり)調合書を引用して、炉壁の粘土と砂に
加えて石灰と硝石が造滓材として使われたと推論した。

一方の日本の鉄戈の鋼材は製塩用の塩釜築炉に使われる貝灰漆喰が造滓材成分と一致する。
後世、明代の宋応星が著わした「天工開物」の鋼精錬用溶剤として「潮泥灰」の記述がある。これが貝灰漆喰に類していると見られ
る。

上記国内鍛冶の鉄戈の鋼材は炒鋼と思われる。ペルシャ鉄剣の軟鋼は大変清純な鋼だったと確認された。
溶融と半溶融の精錬温度の差があったとしても、製鋼の考え方が東西で一致しているのは興味深い。
又、後世のアリストテレスの文献は、銑鉄を素材とした溶融精錬の可能性をも示唆しているのではないだろうか。
若しそうであれば東西の製鋼法が同じとする分析結果には何の矛盾も無い。
支那の炒鋼法がペルシャからの技術伝播と推定される根拠ともなる。

紀元前後の状況を既述の「博物誌」は『鉄の質は焼入に用いる水に左右される。スペインのビリビリス、トリアソ、イタリーのコモ
は水が良くて良質の鉄を生産する。
最高質の鉄は「セーレスの鉄」で、パルチア産がそれに次ぐ。ローマ帝国領内ではノリクムが良質の鉄鉱石を産出する。
小型鉄製品を焼き入れるには油が良い』と記している。
ローマで「セーレスの絹」は中国産の絹を指すので、「セーレスの鉄」は中国産の鉄と解釈されている(又はインド産という説もあ
る)。紀元前後、東西の交易が盛んに行われ、中国やインド産の鉄が西欧で高い評価を得ていた。
この時代に焼入の技術が日常的に行われていた。
1

板 状 鉄 斧


 左図は静岡市石川遺跡と川合遺跡から出土した弥生時代後期と見られる鉄斧で
 ある。

 片刃:石川遺跡。保存状態が良く、内部にメタルが残存していた。
 裏面(図では向こ側)はC 0.5〜0.6%の硬鋼、手前はC 0.1〜0.2%の軟鋼だった。
 厚みは約7.5o。銅、リン、チタン成分は何れも低く、原料は岩鉄鉱という推測
 しか出来なかった。上記鉄戈の鋼材とは異なる。
 岩鉄鉱とは、砂鉄も鉄鉱石の一種なので塊状の鉄鉱石を岩鉄鉱と慣用的に呼称
 して砂鉄と区別する。正式な学術用語ではない。

 両刃: 川合遺跡。頭部から錆片を採取。メタル無し。表面に僅かに残存する皮
 金はC 0.5〜0.6%の硬鋼、内部はC 0.1%位の軟鋼と推定された。
 厚みは約9.5o。リンの値が高いのは土中汚染と考えられ、原料の標識成分が特
 定できない為に鋼材の推定は出来なかった。
    注: 以上の鉄戈、ペルシャ短剣、鉄斧の分析値及び各種の見解は主として佐々木稔氏の各種論稿を参考引用し、各々に筆者の見解を加味した。
    考古学、金属学者の多くの論文の中で、刀剣、刃物に関する金属学的分析、図版及び解説は俵國一博士を除くと佐々木氏が群を抜いて多い。
    必然的に同氏の論文を多く引用する結果となった。

2

鉄戈・鉄斧とペルシャ鉄剣の構造

日本で鍛造されたと思われる紀元1〜3世紀の鉄戈・ 鉄斧と、前8世紀のペルシャ鉄剣は硬・軟鋼を張り合わせた複合構造であった。
然も、硬・軟鋼の各々の炭素含有量が東西の距離と、1,000年の悠遠な時間を超えて一致しているというのは実に興味深い。
ローマ帝国の長短の釘の炭素量もこれらと一致している。
小アジアと大陸の製鋼法がほぼ同じであり、武器・刀剣の硬度と粘性を「硬い鉄」と「軟らかい鉄」の複合で両立させようとする着
想は誰しもが考え着く事なのであろう。

ここで、最大の関心事は硬鋼と軟鋼の複合方法である。複合材には「張り合わせ」と「練り・混合」の二種類がある。
現在では、文化財保護の観点から、出土した鉄戈・鉄斧・剣身を切断してその断面組成を観察する事が事実上不可能となった。
そこで、佐々木氏が各著書で必ずと言っていいほど掲載して解説する構造模式図を示す。




 試料の錆片の採取は各々表面の一箇所に限られているのでこの模式図は断面実態では無い。
 あくまで想像図である。この図から何が連想されるであろうか。
 鉄戈、両刃の鉄斧、ペルシャ短剣の構造は日本刀の皮・心鉄構造(軟鋼を硬鋼で最中のように包ん
 だ構造と定義しておく)、甲伏 (捲(まく)り)、割刃鍛え、逆甲伏を連想するに違いない。
 佐々木氏は硬・軟鋼を鍛接した片刃のものを二つに折り返したものが両刃の構造であり、日本刀
 の捲り鍛えと同じと解説している。
 即ち、佐々木氏は硬度と粘性の両立を硬・軟鋼の「張り合わせ」に求めた。
 確かに古代人が思いつく最も簡便な方法である事は間違いないであろうが、「張り合わせ」だけ
 に強靱性の理由を特定して良いものだろうか。
 その推論の妥当性は、硬・軟鋼の構造上の配分=断面組織を明らかにしなければ判断出来ない。
 既述した朝鮮古斧の分析で見られるように、各々の鋼の一方が余りにも薄い場合は他の鋼の複合
 材の可能性も考慮しなければならない。
 佐々木氏は硬鋼の厚みを1〜2oと想定している。鉄戈の根元の最大厚みは5oしかない。
 川合遺跡の両刃の鉄斧の厚みは尺度から約9.5o、残存する硬鋼の皮金は1o位の薄さである。
 硬鋼部が腐食剥落したので薄いということなのか? 若し心金が均質な軟鋼とすれば、この薄さ
 の硬鋼で充分な強度が確保出来るかどうかの再現実験が必要であろう。
 古代人の複合材の造り方が稚拙であったとして簡単に片付けられる問題とは思えない。
佐々木氏の解釈が仮に正しいとすれば、後の古直刀の構造はこれに類していなければならない。
鉄斧ですら強靱性の為に硬・軟鋼の「張り合わせ」を用いたのであれば、より長大な刀剣にこの構造が用いられて当然だからである。
然し、後述する俵國一博士の10本の古直刀の断面にこの構造は見られない。
その後の古刀も必ずしもこのような構造になっていない。
ペルシャ鉄剣及び日本鉄戈と同一の構造は古墳出土の鉄剣にみられるだけである。然も、棟の軟鋼は化粧金の目的が濃厚である。

新刀・新々刀になって、硬・軟鋼の張り合わせが登場する。この間の鍛造技術の断絶をどのように解釈すべきであろうか。
又、硬・軟鋼の合わせは「日本刀独特の構造」と賞賛して来た。
鉄斧・鉄戈や西洋剣で既に実現しているので、その主張も瓦解する。

鉄斧、鉄戈、鉄剣の構造実態が確認出来ないので、古代人が刀剣・刃物類の強靱性をどのように工夫したかの状況を推測する。
下図の右上にある「灌鋼(かんこう)」は、大陸で永く使われた刃物、刀剣用の硬・軟鋼の「練り材」であ る。
硬・軟炒鋼の練り材と並び、日本古刀の練り材に通じる重要な素材なので、如何なる鋼材かを後述する。

3

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鉄 斧 の 考 察

@は、軟鋼が均質で皮金が薄いケースである。両刃鉄斧の断面に残存する皮金は極めて薄い。
   この場合は強度上で実用に耐えられない。
Aは、元々の皮金が或る程度の厚みをもっていたと仮定した。最低2oは必要ではなかろうか。
   強靱性を確保するのに均質な硬・軟鋼を貼り合わせるのは最も簡便な方法であったと思われる。
   日本刀の皮・心鉄構造、甲伏・捲りがこの着想の範疇にある。日本刀の造り込みは、鍛接する鋼材の数、折返し鍛接などによ
   って様々な呼称を付けているが、基本的には上図の6種に絞られる。硬・軟鋼の合わせは日本刀独特の構造ではない。
Bは、硬・軟の鉄鋌(てってい)を交互に鍛接したケースを想定した。舶載鉄素材には不定形と、鉄鋌のような定型鉄素材がある。
   この鉄斧が造られた時代に、鉄鋌が舶載されていたかどうかは不明。但し、古代刀にはこの縞状構造が確認されている。
Cは、硬・軟鋼を「混合」した鋼材を心金に使った場合を想定した。既述した朝鮮古斧がこの構造である。
   皮金は保護材のようなものなので薄くて構わない。硬・軟鋼の練り合わせは、粘硬性を確保する有力な鍛冶技術であった。
   長期に亘る「灌鋼」の利用がそれを裏付ける。

朝鮮古斧の実例があり、「練り材」の鍛冶技術が我が国に伝播していた可能性は充分にある。
朝鮮古斧は「意図的」に粘硬性を求めたものであるが、古代たたら製鉄の和鋼を鍛錬した鋼や、卸し鉄は「偶然の結果」として同様
な効果を持つ不均質な練り材となった。恐らく無意識の結果であろう。
古刀の複合組成の無垢鍛(丸鍛)、割刃鍛えがこの範疇に入る。和鋼は炭素鋼だが、近代になって、粘硬性、強靱性、防錆などの為に、
チタン、ニッケル、クローム、マンガン等を添加した特殊合金鋼の軍用一枚鍛えはこの発展型と考えて良い。

以上、@〜Cの構造の中で可能性が高いのはAとCであろう。Bは日本古代刀で採用されている。

鉄 斧 の 鋼 材

石川遺跡の片刃の鉄斧は岩鉄鉱としか言えない。大陸の含銅磁鉄鉱ではないので、朝鮮半島産出の鋼ではないだろうか。
川合遺跡の両刃鉄斧の鋼材は推定出来なかったが、恐らく片刃と同じではないかと見られる。
弥生時代後期の半島との交流を考えると、舶載鉄素材は圧倒的に半島産だったと思われる。


(写真は西田進様のHPより引用)
 左の写真は鉄の生産地・伽耶(加羅)の福泉洞古墳群から出土した鉄鉱
 石、砂鉄、鉄鋌(てってい)である。
 鉄鉱石と砂鉄の両原料の出土に大変興味を惹かれる。
 各々を始発原料にしたのか、或は精練の脱炭材に砂鉄を使ったのか。
 日本の製練法の鍵を握るので、実態を知りたいところである。
 金海地方の磁鉄鉱はチタンを含有する。砂鉄原料と誤解され易い。
 一方、東海岸江原道尉珍郡には豊富な山砂鉄が存在し、慶州や釜山で
 砂鉄製錬が行われていた。
 そうだとすれば鉄鉱石と砂鉄の両製練法が並立していたことになる。


鉄  戈 (てっか)

Dは、有樋鉄戈の断面である。最大厚みは根元で5o、中央で4oとなっている。樋の凹部の厚みは3oしかない。
各々の鋼材の厚みからみて、恐らく均質な硬・軟鋼を貼り合わせただけではなかろうか。
鉄戈の長さと、長い樋を勘案すると強度上の問題があり、実用武器としては疑問符が付く。
この有樋鉄戈はやはり祭祀用であろう。実用武器としては無樋鉄戈という事になる。
5

灌 鋼 に 就 い て

( かんこう = 刃物・刀剣用鋼 )

宋代の官僚・沈括は、随筆集「夢渓筆談」(A.D.1086〜1093年頃)に、灌鋼に就いて「鋼鉄とは生柔を雑煉して刀鎌を作る」と記述し
ている。「生」とは銑鉄、「鍒」(金偏に柔)とは錬鉄を指す。「灌鋼」は刀剣や刃物用の鋼だった。




 灌鋼の製造法は、錬鉄の長い薄板に銑鉄粒を夾んでコイル状に
 巻き、泥で封じてから炉内で高温に加熱する。
 加熱後取り出して鍛打鍛造する。
 銑鉄は炭素を放出して硬鋼となり、錬鉄は滲炭されて軟鋼に変
 わる。
  C 4%の銑鉄は1145℃で溶融するが、低炭素の錬鉄の溶融点は
 約1500℃と高い。
 銑鉄から吸炭して錬鉄の融点が下がっても、鍛冶炉の中では完全
 に溶融しない。半溶融状態である。
 従って、灌鋼は、異種鋼が練り合わさった不均質複合
 組成
の 鋼となる。

 ← 硬・軟鋼の練り材

単に硬を造るには反射炉や炒鋼法が優れている。只、 反射炉や炒鋼法での溶融鋼は一般的に均質な鋼になる。
均質な硬鋼は折れ易く、均質な軟鋼は直ぐに曲がる。硬鋼であれ軟鋼であれ、そのままでは刀材として使えない。
均質な鋼が刀剣に不向きであることは、古代より、硬・軟鋼の「合わせ」や「練り」が工夫されてきた事で証明されていた。
紀元前の漢の時代、硬鋼と軟鋼の各々の相反要素を両立さすのに、硬鋼と軟鋼を「練り合わせた」不均質な鋼が刃物や長大な刀剣に
最適である事を発見した。
この硬・軟鋼を練り合わせた不均質な鋼は「灌鋼」と名付けられた。
英国に於ける古代支那の科学技術の研究家ニーダム博士はこの方法を実験した。                      
溶融した銑鉄から炭素が練鉄の中に拡散して全体が鋼になる事を確認して共融法と名付けた。漢代の遺跡からこの炉が発見された。

沈括は百練鋼が真の鋼だと言 いながら、一般的には灌鋼が広く普及していたと述べている。               
数百年後の明代末に、これと全く同じことを学者である宋應星が「天工開物」で、『官(国営)の製鉄所で造る鋼が「真の鋼」だが、
刃物・刀剣には何故か「偽鋼の灌鋼」が広く使われている』と記している。
時代を超えて、二人がいみじくも言う「真の鋼」と「偽鋼」という概念が一致しているのは面白い。
各々、官僚や学者である二人は、刃物・刀剣にはズブの素人で、刃物にとって最適な鋼は何かという視点が完全に欠落していて、単に
「鋼の均質性」のみで鋼を評価してしまった。
沈括、及び宋應星の評価にも拘わらず、この紀元前に開発された灌鋼は明代に至って更に改良され、刀剣・刃物鋼として、1,600年以
上の長きに亘って使い続けられていた。

翻って、日本刀の鋼材はどうであったのだろうか。
中世の国内タタラ製鉄は「銑鉄(ずく)」を生成していた。銑鉄、硬鋼、軟鋼も舶載していた ※ 中世日本の鉄市場参照
以下に古刀と新々刀の刀身断面の例を示す。


(左): ズク卸しの硬・軟不均質鋼
   ズクは刀剣に使えないので「火窪」で加熱・脱炭して鋼に転換する。只、火窪内の部位によって火力と送風(酸素供給)にバラ
   つきが生じるので、どうしても炭素量の異なる不均質となる。結果として「灌鋼」と類似の鋼となる。
   丸鍛えに刃金を付ける(割刃金)こともある(吉包、祐定)。
(中央): 硬・軟鋼の練り材
   均質な硬鋼と軟鋼の薄板を交互に重ねて数回の赤熱折り返し鍛打を行って得られる練り材。鋼の性質としてはズク卸しの不均
   質鋼に近似する。丸鍛えに刃金を付けることもある(兼氏)。新々刀の勝村徳勝の刀身は現代刀・小林康宏の斬鉄剣と類似。
(右): 硬・軟鋼の合わせ
   硬鋼と軟鋼を縦に合わせる(相州廣光)。
   刀は棟部の衝撃に弱い。関兼元は不均質鋼の本体棟部に硬鋼を合わせ、刃金と共に棟部にも焼入れをしている。実戦刀の面目
   躍如たる刀身と言える(通称:関の孫六)。

慶長以降に出現した軟鋼の心鉄を硬鋼の皮鉄で包む皮・心鉄構造(最中構造=新刀)の刀身は上掲の刀身に比べて強靱性に劣り、且つ
実戦向きとは言えない。実戦刀は研ぎ直しが必須であり、皮・心鉄構造の刀身は研ぐ度に硬鋼の皮鉄が磨り減って硬・軟鋼のバランスが崩れるからである。支那戦線で軍刀修理を行った成瀬関次氏は「古刀は磨り減ったものでも戦い易い」と述べている
                            「日本刀の刀身構造」、「斬鉄剣の検証」、「実戦刀譚」他の項目参照のこと
硬・軟鋼が混ざりあった不均質刀材の優位点を再認識する必要があるだろう。

6

稲 佐 山 鉄 剣

辛亥(しんがい)鉄剣

埼玉県稲佐山古墳(5世紀末〜6世紀初め)から出土した鉄剣。剣身表裏の棟に115文字の象嵌銘文がある。
銘文の「辛亥」から471年に我が国で鍛造された剣と判明した。
大化の改新(645年)以前の我が国古代に関する文献資料は極めて少く、銘文にワカタケル大王=雄略天皇の名があり、115文字の内容が
我が国5世紀の姿を初めて浮かび上がらせた。
銘文の「利刀」はこの鉄剣が儀仗ではない証しだろう。左の「百練利刀」は銘の中の原字。丸みを帯びた文字である。

    
  


              錆試料の化学組成     ※錆片採取位置
成分 Cu Mn Ca Mg Al Ti 推定炭素量
% 0.35 0.18 0.025 0.006 0.018 <0.01 0.2〜0.3
 
 

仕様:全長 73.5p、刃長58.0p、茎長15.5p、元幅3.15p、重ね0.43p、目釘穴2ヶ。元幅の断面を実測値に基づき図示した。

鋼材: 鉄剣の棟の象嵌銘の傍の黒錆片が新日鐵滑礎研究所で分析された。銅(Cu)が0.35%、マンガン(Mn)が0.18%と高い数値を示
   し、原料鉱石は含銅磁鉄鉱の炒鋼と判断された。
   刻銘鉄剣の例に違わず、棟金は0.2〜0.3%の軟鋼だった。
   残念ながら心金の試料片採取は不可能で、炭素量は判らない。造滓材は成分々析(表割愛)から貝灰漆喰に近似していた。

百練の意味: 「百練」の意味を確かめる為に二つの錆片の非金属介在物が検査された。
   一つは不定形で20μm位、他の一つは5μm位の薄く延ばされた介在物だった。
   鍛錬回数で前者は5〜6回、後者で10数回と見られている。
   従って「百練」は鍛打の回数を意味するのではなく、上質の鋼を表現する意味に変わっている。
   それでは、中国の古代文献が説明する「百練」・・・「五十練」「三十練」は、文字通りの絶対的鍛錬回数を示しているのだ
   ろうか? 
   鋼を百回も折返し鍛錬したらヘニャヘニャの鉄になってしまう。矢張り「白髪三千丈の国」の表現と解すべきようだ。
構造:剣身 断面を検査出来ないので構造は判らない。
   ペルシャ短剣や日本鉄戈の構造を想定した。深錆で剥落した皮金部に心金が顔を出し、皮金が薄い事が確認された。刻銘出来
   る厚さがあれば良かったのであろう。焼入されたらしい跡が確認されている。
   実用鉄剣であった事を窺わせる。
   軟鋼の皮金が薄いのであれば、均質な硬・軟鋼の張り合わせで剣身の強靱性を図ったとは考え難くなる。
   心鉄は硬・軟鋼の練り合わせ材の可能性も想定されて然るべきではなかろうか。

復元: 昭和58年、NHKが企画して鉄剣を復元した。新日鐵が鋼材を造り、人間国宝隅谷正峯刀匠が造刀した。往時と同じ鋼が造れな
   い為、真空加熱炉で銅とマンガンを添加して当時に近い電解合金が造られた。
   藤代松雄氏が研ぎを担当。苔日仙e氏が象嵌した。日程の関係で象嵌は6文字で終った。
   構造は心金に硬鋼を使い、皮金は軟鋼の合わせとなっている。




復元辛亥(しんがい)鉄剣  「稲佐山鉄剣の六片の錆」(日吉製鉄史同好会)より


本ページの分析値及び図版は主に佐々木稔氏の各種著書、新日鐵日吉製鉄史同好会の論稿を引用して一部を加工した。
その他の図版は筆者の作図に依る。


2013年9月2日より2021年9月15日改訂
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