日本刀の考察 020

砂 上 の 楼 閣

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「砂上の楼閣」とは、砂の上に建てた楼閣は、見かけは立派に見えるが、土台が弱い為、風雨や波によって脆くも崩れ去るという例え


鑑 定 の 虚 構 と 愚 か し さ

 
町 人 鑑 定

昔、桑名松平家の家中では、武士の刀剣は必ずお抱えの刀匠及び研師に見させて、けっして町人鑑定者には見させない厳しい法度が
あった。
今日では、刀の姿、地紋、刃紋の具合を見ただけで、これは何々だとあっさり云うことを鑑定の仕方だと思っている者が多い。
所詮入札鑑定と云うが、刀屋の卵を養成する町人道であって、武士の道ではない。

昔は他人の差し料を見て、一見何々だろうという事は、禁中の禁、無礼中の無礼とされて居た。
本阿弥家というのは、古来からこうした態度であったと見えて、近衛三藐院信尹(さんびょういんのぶおさ)公が、その頃有名であった光悦の軽
率な鼻柱をくじいてやろうと、密かに京の鍛冶に命じて、所持の短刀を寸分に模造せしめて置き、ある時光悦がやって来たので、これ
を極めよと云って出した。
すると本阿弥がちょっとそれを抜いて見るなり即座に「正宗です」と云ったので、こっぴどく叱りつけられて当分出入りをさせなかっ
た事が「橘窓自語」及び他の二三の書に書き残されている。

水心子正秀がある刀の模造をした事があった。
果たしてその作に見えるかどうかを試みる為、無銘のまま中心に古い錆をつくり、当時鑑刀で名高かった鎌田魚妙に見せたところ、
何々という折り紙をつけた上に誉(ほ)めあげたと言うので、水心子が弟子と顔を見合わせて笑ったという事を彼の手記で見た。

(かっ)て水戸義公から扶持(ふち)せられた刀匠大村加卜(かぼく)が、粟田口久國を模造して佩刀中、明暦の大火で焼き身となり、これを古
備前に焼き直した物を偽物師正信小右衛門が五両で買い取って本阿弥光温に見せたところが、光温は「此の刀は久國の思い寄りはある
が見た處古備前なり」と云って、代三百五十両と折り紙つけた事、及びその越中則重の模造を白銀師勘兵衛が買い取り、更に某家の家
老安藤氏に七両で売った物が、同じ本阿弥がこれを則重と鑑定して一躍名刀の列に入った事等が彼の手記に残されている。
こうした実話は幾らでもある。刀というものは一寸見て本当に解るものではない。
故今村長賀翁ですら、贋物師かじ平が明治二十年頃鍛えた虎徹の偽物を本物と鑑定した事さえある。

「百草屋(もぐさや)老人語」の中に、「本阿弥家で無銘の刀に誰彼と中心(茎)に象嵌(ぞうがん)銘または朱銘を入れ、或いは無銘そのまま
でも折り紙を出すのは一向の拠(よ)り所もなき無益の所業である。
刀の造りたる人と交わりて其の作りの刀を目に見慣れてすら、出来口の違いたるに至っては目利(めきき)の違う事もある。
まして、日本国内上古より今に至る迄幾千万という刀鍛冶の作を、誰か確かに見定むべきや。
本阿弥が家にて、これは正宗が掟に似たり依って正宗に極む、これは貞宗の押形に似かように依って貞宗と定まる、というような事
でほんの当(あて)推量である。
其の証拠には、是迄志津の極めのついた刀などを高位の人か富家かが手に入れて折り紙を隠し、本阿弥の目利にやれば、謝礼の多き
につれて正宗にも貞宗にもきまる。
無銘は無銘でも其の刀さえ良ければ、誰作と極めずとよいのであるのに、作名がなければ刀が役に立たぬ様に心得ているのは笑うべ
き事である」という意味の事があった。
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正 宗 刀 と は


(かっ)て皇室の御物御蔵刀鑑定に参与した斯界(しかい)の権威者今村長賀という人が、明治29年、「在銘及び真性の正宗と信用すべき物
は一つもない」と読売新聞紙上に発表して、「正宗抹殺論」にまで発展し、爾来(じらい)正宗という人間と刀の“有無”が議論され、
やがて半世紀に垂(なんな)んとする今日になっても、未だに本当の鳧(けり)がつかずにいる。

「注進物」(昭和16年から629年前、正宗50歳の時)に「政宗、備前三郎國宗ガ子、後ニ銘ヲカヘタリ」とある。
備前三郎國宗は、粟田口國綱と共に相洲鍛冶の創始者であるところから、(政宗が)正宗同人と断定して差し支えない。
慶長以前に判明している事は、当時「政宗は一名正宗」で通っていた事、五郎入道と称した事、備前三郎國宗の子か又は國宗の弟子
の國光に師事し、行光とは相弟子で、刀の作風は大たはなる乱れ焼であった事だけが明らかで、且つ名匠として知られていた事は確
かである。以上が慶長以前の文献の總てから得られる正宗の情報である。

正宗の刀が、鎌倉北条氏中期に出現しながら、其の後の諸戦争に武功記や物斬り話しの出ていないのは不思議である。
そんな事を考え合わせて、正宗は、鉄と水と技術を求めて生涯の大半を全国遊歴に送り、其の作刀は当時極めて少数であり、其の時々
の変名で銘を打ち、正宗と称したのは晩年の事であり、且つその作刀は殆ど指を屈する程ではなかったろうか。
正宗を粉飾作為した張本人は、万事に抜け目の無かった豊臣秀吉と石田三成で、その手先となって活躍したのは、足利幕府の御刀所
に勤仕していた本阿弥光刹・光徳父子であった。



日本刀に研磨の美が現出したのは、足利時代に入ってからの事で、そうした発明者としての本阿弥氏の功績は刀剣鑑定法の伝統的記
載學の完成と共に不滅の足跡を残したが、太閤の手先に踊って、正宗一類を製造乱発した事だけは、功績と切り離して検討決別しな
ければならない。

四囲の事情から推して、鎌倉時代の刀は、かすかに地肌や焼がわかる程度であったろうと思われる。
足利時代初期までの大部分の日本刀は、今日のように、鏡の如くに研磨された物ではなく、俗に鍛冶屋研といわれた粗雑な物に多少
手の加わった程度(白研ぎ)のものらしく思える。
 だから、正宗の頃などは、地肌、鉄色、沸、匂、刃文等の美を意識的に作った物では無かったのだが、足利中期から末期に至り、
研磨の術が進歩して来て、綺麗に仕上げて見ると、偶然にも正宗の刀が異彩を放ち、古来名工中第一位の美術刀となって現れたから、
そこえ目をつけたのが一因となった。
研磨の功によって顕現された正宗が一躍刀の王とされたのは、天正十四年に秀吉が太政大臣となり、豊臣の姓を賜うてから慶長三年
に死去する迄の平和な九年間がその一期であって、此の間に正宗の新系図及び伝記の原型が作成され、本阿弥光徳は正宗掘り出しに
都合の良い相洲伝鑑刀の掟三十ケ條を定め、盛んに似通った刀を集めては正宗をつくったが、本阿弥の掘り出し正宗だけでは事欠く
に至って、國廣をして正宗を偽作させた。弟子の出羽大掾國路も同様に担当させた。
 
であればこそ、慶長を境として正宗が素晴らしい勢いで声価を上げるに至ったもので、それ以前の正宗にも増して、粉飾作為がその
素性にまで及んだのもまた止むを得ない事と思われる。實に、正宗歿後約二百五十年後に突然降って湧いた話しである。

何が故に秀吉が正宗に目を付けたかと云うに、足利以降豊臣時代にかけては、武功の将士に恩賞として土地を濫賞した結果、もはや
余す所の寸土も無きに至ったので、窮余の一策として刀剣の恩賞が重視さるるに至ったのである。
たまたま研磨の発達から正宗が有名になり、手当たり次第に華美壮麗な刀を探し出しては、諸大名の刀剣知識に暗いのを奇貨(きか=もっけのさいわい)として恩賞刀としたのであったが、此の政策が図に当たって、正宗の名が天下に宣伝されるに至ったのである。
本阿弥家は正宗刀3,000振りと云うが、全部無銘であって、正真銘は一振りも確認されていない。
武器に銘を打つのは「延喜式」朝廷の掟である。正宗程の名工で、朝命に反して銘を入れない事は受け入れられない。
本阿弥一類十二家でやった正宗の公然の折り紙、内々の小札等は3,000振りを遙かに超える。
一家一代で2〜30振りの折り紙を出しただけでその數である。
同時代、備前、城州、武州、備後に正宗と称する刀工は十数名いた。この刀匠達は不思議に作風が似通っている。
当時の作刀は最短21日(鋼材から卸すと更に必要)掛かるとして、この3,000振りを完成するには、172年を必要とする。
正宗は81歳で死去しているから、生まれて一日も休まずに作刀したとして、死後、尚 91年はあの世で作刀したことになる。
慶長以降、鑑定公許が本阿弥一家の独占であった。この事から本阿弥家折り紙が如何なる物かが窺える。

筆者注 成瀬関次氏は「実戦刀譚」の中で、膨大な古文書を駆使して37ページに渡り正宗を論じている
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鑑 定 の 疑 問


足利幕府に使えた本阿弥家は研ぎを通して刀身の姿や地刃を帰納法で体系化したのであろうが、刀匠に確認したものはいざ知らず、
室町末期から遡る何百年間も前の刀匠銘や、直接本人に確認出来ない刀匠銘をどうやって真正と見極めたのであろうか。
素朴な疑問である。
同一刀匠といえども時代の環境変化で鋼材も変われば技能も変化するであろう。
一生かけて作風や銘を全く変えなかったとは信じ難い。
作風一つをとっても刀匠の数とその組合せは無限に広がる。利刀も鈍刀もあったであろう。これを見極めたのならとても人間技とは
思えない。恐らく、超能力者か神様だったのだろう。どうしても呪術、占い、八卦の世界と重なってしまう。

現物の刀身を目の前にして姿や地刃を見るのに銘が如何ほどの意味を持つのであろうか。
刀の偽名は常識であり、判断の元となる銘が不確かなら銘の鑑定自体が無意味である。
その銘に依る格付け自体にも疑問が付きまとう。
その為に、銘の生半可な知識を持てば刀身を見る目が逆に曇るという弊害を引き起こす。銘で刀身を判断するのは百害あって一利も
ない。刀身の現物こそが総てであって、それ以外の雑音は邪魔ですらある。無銘で構わない。

山田英研師の言う「日本刀禅的鑑賞」とはそうしたことを含んでの示唆のように思える。
茎の銘に拘らない人には刀の透明な見方ができる。刀身が語りかける素性と内容を素直に感受できる。
刀剣界が創り上げた鑑定寓話の蟻地獄から脱出しないと、刀身の真の姿は掴めないように思うのだが・・・・・。

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千 代 鶴 是 秀 の 刀


「洋鉄考」で記した千代鶴さんの逸話である。天田刀匠(人間国宝)が感銘を受けた小刀の作者である。
刃物製作にはスウェーデン鋼を使った人だが若い頃は玉鋼を使ったという。
千代鶴さんは明治三十三年の刀剣会(後の中央刀剣会)に刀を出品した。
当日、公開鑑定会を傍聴に行ったところ、鑑定員の間で次のような遣り取りがあった。

本阿弥琳雅・・・「備前伝の作風だが、新作刀のようじゃないところがあります」
松平頼平子爵・「あたしの考えでは、これは無銘の古刀に今の人が銘を切ったもので、出品者が我々の鑑定力を試されたように思い
ますな」と最後に言った。
「そういう物なら、この作は出品作として記録には留めない事にしょう」と誰かが言い足し、千代鶴の新作刀の合評はそれで終わっ
た。

千代鶴さんは後年、楠瀬日年先生に、刀工の家に生まれながら刀を鍛(う)たぬ所以を尋ねられ、上記逸事を物語った後、「あたしはこの時以来、刀を鍛っておりません」と締めくくったという。(白崎秀雄著「千代鶴是秀」より)

千代鶴さんが50年も前に生まれていれば、間違いなく幕末の名刀匠になっていたと天田刀匠が評した人である。
これは、刀剣界の愚かしさと空しさに対する千代鶴さんの無言の反抗であったと云える。

これらの例は、美術刀剣界の実態を端的に浮き彫りにしている。刀の評価や鑑定は将に「砂上の楼閣」と言えよう。
現代も尚、某財団法人を中心に、刀の架空の価値を高める為に「折り紙」が乱発され、利権に群がる連中が血眼になって「泡沫(バブル)」を追いかけ廻している。
刀剣に趣味を持つ人達が賢明にならない限り、この空しい鑑定遊技は終わらないだろう。


 

2013年9月4日より
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