日本刀の考察 6 東郷ハガネと羽山円真

東 郷 ハ ガ ネ

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洋 鋼 と 和 鋼

西洋文化が流入する明治20年頃、洋鋼の輸入は、既に国内和鋼生産の数倍に達していた。これには、価格と商品作製効率で洋鋼が圧
倒的に優れていたからである。

明治の20年代、土佐山田の鍛冶屋が播州三木で入手した洋鋼を持ち帰り、これで大鋸(おが=木挽き鋸)を作った。
密かに作っていたが、生産量が多いと関係者から不審がられ、仕方なく白状した。
その結果、洋鋼を使うようになった土佐山田の鍛冶屋の生産能率は3〜4倍の比ではなく、一気に生産量が増えた。
同じ大鋸の産地で知られる滋賀県甲南町では、明治40年頃には洋鋼の使用が主流になり、和鋼の鋸(のこ)は 1 割程度となった。
和鋼に比べて洋鋼製品の価格は1/4, 材料代は1/2, 製作の手間は1/5 であった。和鋼・和鉄が駆逐されて行く理由である。

明治10年、「井坂屋」洋鋼の取扱いを始める。
初代河合佐兵衡は打物問屋「浅草井坂屋」に寄寓していたが、明治4年(1871)3月に独立して金物業「井坂屋」を興した。
井阪屋は,江戸時代から出雲(島根)伯耆(島取)等から出る砂鉄を原料とした玉鋼およびこれを鍛錬した和鋼を取扱い、刀鍛冶、刃物・鋸・道具の鍛冶職や 野鍛冶等に納人していた。
明治に入り文明開化が進み、明治4年には廃刀令が出され、刀鍛冶は打物鍛冶への転業をするものが多かった。
また、断髪令にて「ちょんまげ」から「ざんぎり」になると、散髪鋏やバリカンの需要が急激に増加する等、初めは舳来品であった
が次第に国産化する品が多くなった。
この様に文明開化で生活は次第に洋風化し、刃物類,諸道具等に至るまで変化があり、多様化が進み、「鋼」の需要が増加しつつ
あった。
河合佐兵衡は,文明の進歩と共に将来「鋼」の需要が必ず増加すると言う先見性から、卒先して洋鋼の取扱いを計った。
なお、従来の玉鋼、和鋼を材料にすると、特殊な技術と多量の炭を必要としたが、洋鋼には,種類、型状、寸法が多く、目的に適した
品を選べば、その労力と 炭は和鋼を使用する時の数分の一を必要とするのみにて、洋鋼の価格が和鋼に比べ安かったこともあり、
洋鋼の取扱いは非常に喜ばれた。
明治35年、店舗の新築移転を契機に、女婿の羽毛田忠吉が家督を相続して二代河合佐兵衡を襲名した。
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東 郷 ハ ガ ネ の 誕 生


東郷元帥より贈られた写真
 明治38年、日露戦争の日本海々戦にて、敵のバルチック艦隊を壊滅させ、大勝利を博した東郷
 平八郎大将は、聖将とあがめられ、世界中にアドミラルトーゴーとして名声が轟いた。

 その頃,洋鋼の輸人先である英国アンドリュー社から、「東郷大将の名前を商標に使ったらどう
 か」との話があった。

 また、アンドリュー社の専務取締役チャーレス・ベレスフォード元帥からは「東郷大将が少尉
 で英国に留学された折、軍監の操縦を教えたことがある。
 東郷大将は当時より沈着で聡明であつた。
 自分の教え子が偉大なる功績をあげられ、非常に嬉しい。
 外国ではナポレオン、ビスマルク等偉人の名を商標にすることがある。

 東郷は「To, Go」で幸先良い名前であり、英国では白分が東郷の名を登録するから、日本では
 河合が登録してはどうか」と話があった。
当時の日本では、人の各前を商標に使用することは考えも及ばなかったが、その後、東郷大将を訪問し、先の話をし、お名前を拝借
したい旨お願いしたところ、東郷大将はチャーレス元帥を記憶しておられ、「自分は若い頃から鋼に関心をもち、小刀を作った事も
ある。
アンドリューの鋼は一番良かった」と言って、鋼の商標に名前を使う事を心よくお許し頂いた。
東郷大将と言う偉大な人の名前を商標に使用させて頂くからには、お名前を汚さぬ様良い「ハガネ」を扱い、真面目に仕事をしなく
てはならない。                          ( 大正2年5月27日感謝祭の席上における河合佐兵衛の談話より )


商 標 の 登 録 と ラ ベ ル

明治39年(1906)、東郷大将の商標と、従来の商標を登録し、商標、商品名を印刷したカラフルな「ラベル」を作った。
ラベルを「ハガネ」に貼付することは、国内では河合が最初であり、ラベルの赤、白、黄、緑等美しい
色が「ハガネ」に色どりをそえた。
その後、ラベルには簡単な熱処理方法を印刷し、使用者の便を計る様になった。
ラベルを貼付することにより、そのハガネの保証をして、使用者が安心して購入出来る様にしたのであ
る。このラベルは、他の模倣するところとなり、ラベルのない品はハガネではないとまで言われる様に
なった。                            全国の鋼材商に掲げられた東郷ハガネの看板 →


商号改称「河合洋鋼商店」

東郷ハガネの誕生を機会に、取扱い商品をハガネ専業とした。
その他一部取扱っていたネジは佐野初太郎商店に、ヤスリは福島ヤスリ(トンボ印)にそれぞれ商権を無償譲渡した。
これを機会に、明治4年開業以来使用した商号井阪屋を、「河合洋鋼商店」と改称し、東郷ハガネの普及に全力をそそいだ。

「洋鋼虎之巻」を発行

洋鋼の需要は、日露戦争から急激に伸び始めたが、その使用方法、熱処理方法を系統的に説明した文書がなかったので、ハガネを使
用する人の便宜を考え、併せて洋鋼の普及のため、明治41年(1908)、わが国では最初のカタログ「洋鋼虎之巻」と題して発行した。
この中の十二項に、(東京帝大)俵國一工学博士の「南蛮鉄の性質」が掲載されている。
又、十三項の「鋼鉄虫印」の分析報告書は次の通り。

炭素1.07%、珪素0.12%、燐0.01%、硫黄0.01%、満俺(マンガン) 0.22%


「河合洋鋼商店規格」の東郷ハガネを販売


明治42年(1909)、二代河合佐兵衛が研究を重ねた和鋼および洋鋼の知識と、利用者からの要望を取り入れた「河合の規格」を、
英国のアンドリユー社、スウェーデンのフーホース社、およびドイツのパイルドン社に製造を依頼し、これを「河合の規格品」とし
て販売した。

これまでの洋鋼はネバリがなかったのでアンドリユー社に和鋼の見本を送り、これと同様のネバリのある材質を依頼したところ、
昔は同様の品を製造したが今は出来ないとのことであった。
そこで各国から改めて見本を集め試験した結果、スウェーデンのダンネモラ鉱山からの地金が比較的希望に近かったので、アンド
リユー社にこれの使用を依願し、漸やく希望の材質が出来たこともあったのである。(河合佐兵衛談話より) 
                       筆者注: ダンネモラ地方の鉄鉱石は燐の含有が最も少ない良鋼。産業革命と近代製鉄参照

明治43年(1910)、店舗増築を機に商号改称、「河合鋼商店」となる。


      左より、河合鋼商店 価格表 東郷ハガネ製鋼所:イギリス、スウェーデン、ドイツ 各種東郷ハガネに貼られたラベル

東郷ハガネ製鋼所として英国アンドリュー社の他、スウェーデンのフーホース社、ドイツのバイルドン社が上がっている。
東郷ハガネと総称しても三社のメーカーがあり、通常鋼、工具の炭素鋼、粘りのある刃物鋼、刀剣鋼まで使用目的に応じた各品種の
鋼が揃えられた。
最高(5円35銭/キロ)と最低(16銭/キロ)の品種で、価格は33倍の開きがあった。
全国津々浦々の鋼材商には東郷元帥の似顔絵を配した東郷ハガネの看板が掲げられた。

刃物鍛冶の名人・千代鶴是秀は先述したように、スウェーデンのダンネモラ鉱山の鋼を専ら使い、国産の鋼は切れ味が悪くて使わな
いと明言していた。
刀匠で後に刃物鍛冶になった長島宗則は「大正頃のヨーロッパの鋼は素晴らしかった」と述懐している。

河合綱商店が和鋼を基に成分規格を提示、スウェーデンのダンネモラ鉱山が産出する地鉄を使って英国のアンドリユー社が成分調整
した鋼を生産した。
千代鶴是秀が先鞭をつけた東郷ハガネの鉋(かんな)は、戦後僅かに残った在庫を使い、現在も鉋の最高級品として販売されている。

さく岩機と東郷鋼
 1914(大正3)年、足尾さく岩機株式会社(栃木県日光市)の前身会社に依って、硬い岩盤に打撃式で孔を明ける「鑿(さく)岩機」が開発
 された。これは「足尾式3番型鑿岩機」と呼ばれ、国産初の「さく岩機」となった。
 硬度と強度、切削性能を要求されるロックドリルの先端工具(ロッド)に東郷鋼が最初から使用された事は、東郷鋼の優秀さを物語る
 逸話として注目に値する。

   
ロックドリルの先端工具(ロッド):岩盤を一分間に約2千回打撃しても摩耗・破損しない性能が必要

資料提供: 足尾さく岩機株式会社 (furukawarockdrill.co.jp)

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東 郷 ハ ガ ネ の 評 価



 刃物鍛冶・中野武夫氏製作、高級鉋「東郷」のこと

 昔、「東郷ハガネ」と呼ばれる優秀鋼がありました。
 そのハガネは、抜群の研ぎ易さ、削り肌の艶の良さ、そして強靭な粘りで、玉鋼を鍛えた和鋼に取って
 代わるものでした。
 しかしながら、この優秀鋼は刃物製作上の温度管理の難しさがあり、また昭和の初めには時局の変遷に
 伴ってもはや輸入されることはなくなりました。
「昔の鉋は良く切れた」と「戦前の鋼」を惜しむ声も聞かれ続けて参りましたが、最近そのハガネが少量ながら発見されました。
そこで現代の温度管理設備のもとで、幻の切れ味を甦らせるべく試作を繰り返し、ついに、良い鉋にまとめ上げる事が出来ました。甦った「東郷」鉋で、その東郷ハガネの「幻の切れ味」を是非実感して頂きたいと思っております。      (味方屋サイトより)

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東郷ハガネで「兜」の試し切り

玉鋼で鍛えた日本刀は、15回繰り返し鍛錬すると、32,768枚重ねたことになり、このため靱性が非常に強くなる※1
河合の規格で製造した「東郷ハガネ」で、刀匠羽山円真氏(源清麿系)に日本刀※2を作ってもらい、大正3年(1914)、兜の試し斬りを
したところ、見事に真二つに切れ、硬さも靭性も強いことが証明された。

この日本刀と兜を東郷元帥に贈ったところ、元帥は非常に喜ばれて、著名人りの写真と明治44年に英国皇帝戴冠式に参列された後、
アンドリユー社を訪問された時に使用された杖を項いた。

          ※1 社史の編纂者が従来の日本刀の虚構をそのまま記したもの。折り返し鍛錬は強度・靱性に関係しない。「鍛えと強度」参照
          
※2 予め成分調整されているアンドリュー社の刀剣用途の鋼であれば、鋼を鍛錬する必要が無い為、丸鍛えと思われる



(「河合鋼鉄111年の歩み」誌ご提供;株式会社カワイスチィール(旧河合綱商店) 山本様 )




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羽 山 円 真 と 東 郷 ハ ガ ネ








                    


             

刃長73.3p・反り1.1p、元幅3.37p、先幅2.22p、元重0.84p、先重0.5p、庵棟、中切先、刃紋: のたれ互の目匂い出来、梨地肌

                       銘:  一 浄雲斎羽山圓眞造之
                       裏銘: 大正二年八月吉日



      羽 山 円 真


 源清麿は備前伝の小丁子を焼いていたが、江戸に出て作風を一変し、互の目乱刃を
 得意とした。
 門下には正雄を始め信秀、清人などの著名刀工を多く排出した新々刀を代表する名
 工である。

 羽山円真は豊橋藩の藩士で、江戸で清麿門下の著名刀工鈴木正雄に弟子入りした。
 羽山円真は清麿に多大な影響を受けた新々刀期最後の刀匠の一人である。

 月山貞一が大正7年(1918)に84歳で、羽山円真が同9年に75歳で、宮本包則が
 同15年に97歳で亡くなると、新々刀期の刀工はほぼ絶えた。

 円心は明治・大正を代表する名工で、好んで洋鉄地鉄の刀を鍛えた。
 浄雲斎羽山圓眞浩之と号し、洋鉄刀では円真の右に出る刀工はいない。
 掲載の刀は円真晩年の作である。

 和鋼を使っても、新々刀の地肌は無機質で単調だか、円真の洋鉄刀は見事な梨地肌
 である。梨地肌は興亜一心刀や群水刀にも共通する。
 科学的洋鋼の特色であろうか。丸鍛えの刀に地肌が無いという事はない。
 円真が使った洋鉄は東郷ハガネだった。


(写真ご提供:戸山流居合道会 三重支部長 光本雅弘様)


2013年9月4日より
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