異説・たたら製鉄と日本刀 (3)  0
弥生〜古墳時代

古 代 の 舶 載 刀 剣 と 鋼 材

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( 炒 鋼  )

 鉄器は、B.C.4世紀頃に大陸から伝来したと見られるが、刀剣の舶載時期は大陸の状況が一つの参考になる。

大 陸 の 鉄 器 の 状 況


 中国大陸の初期鉄器としては河北省台西村、北京市劉家何村遺跡から殷(いん)代中期(B.C.13世紀)と言われる「鉄刃銅鉞(てつじんどうえつ=まさかり)」が出土している。これは文字通り青銅製の鉞(まさかり)に鉄の刃を嵌(は)めたものである。
 河南省衛輝府で周初(B.C.11世紀)の「鉄刃銅鉞」、「鉄援銅戈(てつえんどうか=ほこ)」も出土した。
 青銅製の戈(ほこ)の先頭部(援)に鉄を使用している。鉄部の科学分析の結果は隕鉄だった。
 日本の農工具、刃物類の割刃構造の原点が太古の大陸に萌芽していた。
 人工鉄では、春秋末〜戦国時代早期(B.C.5世紀)と見られる二十数例の出土品がある。
 江蘇省程橋鎮一号墓では銑鉄製の鉄塊、二号墓から練鉄製の鉄棒が出土した。少なくともこの時期には銑鉄と錬鉄の二種類が製錬
されていたことになる。只、副葬の武器・農工具は総て青銅製となっている。
 この時代に確認される鉄器は鋳造製の農工具が中心で武器類は少ない。気候風土を含めて青銅製武器を凌ぐ粘性、強靱性に優れた
鉄が生産されていなかったか、或は在っても生産量が少なかったかのどちらかではないだろうか。
 河南省洛陽市のセメント工場から出土した有名な鉄手斧(ちょうな)は鋳造製品の刃部に退火処理が施されている。
 俗に「可鍛鋳鉄脱炭鋼」と言われている。
 この科学的検証はなされていないが、当時の武器に使われる鉄の状況を推測する一つの材料ではある。

滲 炭 法 と 焼 入

 錬鉄を滲炭させた鍛造鉄剣・武器類は湖南省長沙市周辺の楚(B.C.3世紀)の墳墓で少数発掘され、河北省燕下都四十四號墓からは
大量に発見された。
 これらの武器類は海綿鉄を鍛錬した錬鉄、加熱徐冷によって滲炭された鋼、それらを合わせて鍛造した物などの三種類がある。
 二種の鋼を合わせた物には焼入をした物があった。焼入に依る刃金技術が既に開発されていた。
 戦国時代末から前漢時代にかけて、武器は青銅製から鉄製に急激に交替したと推測されている。

 その直後の4世紀中頃、辰韓・弁韓・馬韓の中から、各々、新羅(しらぎ)、伽耶(かや)=加羅(から)、百済(くだら)が新興した。
 高句麗の南下進攻を怖れた百済は、三国と倭国との結束を図る努力をしたが、新羅は途中から高句麗に下った。
 倭国(九州王朝)は任那(みまな)に「任那倭宰」を置き、倭軍は屡々(しばしば)半島を遠征した。
 遠征の事蹟は高句麗の広開土王碑に刻んである。
 倭国に大量な武器を造る能力と国力があった事を意味している。倭国の新羅進攻は鉄資源の確保が大きな目的だった。
 高句麗は百済・伽耶を圧迫し始めた。百済と倭国はこの状況に危機感を強めた。
 倭国はこの時、多くの俘囚を連れ帰った。
 「古事記」に依れば、3世紀末、百済から卓素という韓鍛冶(からかぬち)他工人の渡来が記されている。

満 城 一 号 墓 の 刀 剣


滿城漢墓(劉勝) 前漢(B.C 2世紀)
 @ 長さ: 42.4p 柄頭、鍔、剣身に獸形・花文金象嵌
 A 長剣二口: この内一口は心部に軟鋼(炭素0.1-0.2%)、硬鋼(炭素0.5-0.6%)の
   合わせと解説。下記朝鮮古斧から見て混合ではないか? 長さ不明
 B 62.7p 鞘入り大刀

 これ等の鋼材はいずれも塊錬鉄滲炭鋼、部分焼入が確認される。
 剣・刀には青銅製や玉製の装飾が付き、鍍金・鍍銀、象嵌の装飾が付く。
 高貴な被埋葬者の愛用品だったからであろうか。この時期の大刀は珍しい。
 この他、青銅長剣、短剣、刃部 に鍍金された短刀(書刀)も埋葬されていた。
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炒  鋼

 (溶融冶金の脱炭鋼)


 前漢時代、武帝の元封元年(B.C.20年)に鉄は国家の管理下に置かれ、46ヶ所に鉄官を配置した。
 この製鉄遺跡から長方形・円形煉炉、排炉(はいろ=鞴を持つ炉)、低温炒鋼炉、反射炉などの製鉄・精錬炉が多数発掘された。
 煉炉・排炉で海綿鉄や銑鉄を製錬し、炒鋼炉、反射炉で銑鉄を脱炭して鋼や錬鉄を効率良く生産した。溶融冶金の確立である。
 
 ● 江蘇省徐州市駝竜山・磚室墓から出土した前漢の全長109pの鉄剣は炭素量0.1%〜0.4%の低〜中炭素の炒鋼で造られた。
   茎に「建初二年(A.D.77年)蜀郡西工官王惜五十湅※□□□孫剣□※1」の金象嵌銘がある。     ※1 □は不明文字。以下同様
 ● 山東省蒼山県出土の後漢の全長111.5pの環頭大刀は炭素量0.6%〜0.7%の高炭素の炒鋼で造られた。
   棟部に「永初六年(A.D.112年)五月丙午造丗湅※2大刀吉羊宣子孫」と金象嵌の銘がある。
   何れの鋼も夾雑物が少ない均質清浄な炭素鋼である。                                         ※2 この字の拡大→ (れん)

 戦国時代晩期から前漢にかけて出現した鉄剣は新しい錬鋼(炒鋼)の鉄製大刀に移行していった。
 海綿鉄の人力加工に依存する錬鉄や鋼に比べて、炒鋼法による鋼精錬の効率的な生産性、夾雑物の少ない均質で清純な優れた品質
が刀剣に最適だったからであろう。生産性が高い可鍛鋳鉄の鉄剣も、鋼の脆さからその存在意義を失った。
 画期的な炒鋼の出現により鋳造鉄剣は鍛造鉄剣に移行して行った。



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舶 載 刀 剣


 大陸の状況、朝鮮の漢四郡の設置、倭国の大陸・朝鮮との交易を勘案すると、鉄剣の舶載は弥生中葉晩期位からではないだろうか。

奈良県天理市東大寺山古墳の環頭大刀

 1964年、四世紀後半の築造と考えられる前方後円墳から出土した。
 前漢のA.D.184〜188年製作 古墳時代初期のA.D.3世紀末〜4世紀中葉の舶載品と推定される。
 この刀身110pの環頭大刀は棟部の切先から区(まち)まで75pの間に、「中平□年(A.D.184-188年)五月丙午作支刀百練清鋼上應星
宿下辟□□」の金象嵌が施されている。明らかに舶載品である。

 この環頭大刀は内反りの平造り刀身に青銅製の飾り環頭を付けている。 年号銘のある我が国最古の刀剣として貴重である。




草 薙 剣


 舶載刀剣で最も有名なのは、皇室三種の神器の草薙剣である。熱田神宮の御神体
 となった。これは全く非公開で神職すら見る事が許されなかった。

 ところが80年前、熱田神宮司社家4〜5人が禁を犯してこの御神体を覗き見た。
 その時の印象を絵にしたものが左図である。
 終戦直前、草薙剣は飛騨一ノ宮の水無神社に疎開された。
 刀袋の上からの感触で長さ60.6p、重さから銅製と推定された。
  類した物は中国春秋後期の銅剣、福岡県三雲遺跡出土の銅剣など日本でかなり発見されている。大陸又は朝鮮半島からの舶載品。


石 上 (いそのかみ) 神 宮 の 七 支 刀
 (ななつさやのたち / しちしとう)
 
 古墳時代初期のA.D.369年、百済王とその皇子の貴須王子が倭王の旨の為に谷那鉄山(こくなてつのむれ)の鉄を使って百済で製作された
ものと言われている※1。日本にもたらされたのはA.D.372年である。
 刀となっているが槍である。特異な形態で知られ、全長74.9p、本身刃長66.5p、茎長8.4p、両刃平造りの槍で本身の左右に段
違いで合計6本の両刃の支鉾が付く。
 槍身の表裏に60文字の金象嵌が施されている。この銘文は古代の歴史の謎を解く重要な資料であった。

 銘文は国立奈良文化財研究所がX線検査を行い、従来は判読不可能だったり、誤読された10文字の内、深錆で全く消失した3文字を
除き限界まで解読された。下図銘文の「・」の欄外の字は従来誤読された漢字を参考迄に附した。

銘 文 の 意 味

 表 泰和四(369)年5月16日丙午(中国では5月丙午は銅・鉄器を造る吉日とされている)の日中に百練銕※2でこの七支刀を造った。
   この刀は敵の大軍をも退ける。王侯が帯びるに相応しい。□□□の作。
 裏 先世以来未だこのような刀はない。百済王と貴須王子は倭王旨※3の為に造った。後世まで伝えられん事を。

                ※1 東晋で造られた物か百済での複製か、製作も舶載時期も諸説あり ※2 鉄の旧漢字 ※3 該当する倭王は不明
 
 図の下段は七支刀の本来の使用想定図である。「七」という数字は西シアジアでの聖なる数字。
 現在は幸運の数字として使われる。恐らく七支刀は「辟邪(へきじゃ)=邪悪を斥(しりぞ)ける」の祭祀用に使われたと思われる。


七支刀現物 (筆者の撮影による)


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古 代 刀 の 鉄 の 神 秘

 七支刀は茎側から三分の一の処で折損している。全体に錆で覆われていながら未だ鉄の性質を失っていなかった。
 永禄11年(1568年)、信長が大和を攻略した際に多くの宝物と共に七支刀も持ち去られ、後にへし折られて石上神社に返還された。
 社領が没収されて社人のいない神宮の宝物は、密かに神宮の御禁足地に埋蔵された。七支刀も破損したまま土中に埋められた。
 ところが、信長方になった筒井順慶に依って天正8年(1580年)に社領が安堵され、七支刀は掘り起こされて再び社殿に奉祀された。
 従って、七支刀は12年間土中に埋まっていた。
 若しこれが平安中期(11世紀)以降の日本刀だったとすれば、錆の進行が早く、その姿まで消滅したであろうが、七支刀は十数年土
中に在ったにも拘わらず伝世品同様の姿で残っていた。
 4〜8世紀の古代刀は、千数百年以上埋蔵されていてもその形姿が失われず、研磨すれば燦然たる輝きを取り戻せる部分がある。
 古代刀と日本刀の耐錆力には大きな差があり、これは鋼材の品質の相違、即ち材料と精練方法の相違である事が知られている。
 戦前、既にこれと同じ主旨の事を栗原彦三郎も具体的に例を挙げて述べている。       含銅鉄鉱の銅元素が錆の進行を防ぐ

  七支刀余談: 昭和54年(1975年)、人間国宝・月山貞一刀匠に依って七支刀の復元が試みられた。
  復元に際して最も大きな問題は左右に付く6本の両刃の支鉾が打ち出しか、後で本身に鍛接されたものかという点だった。
  X 線検査の結果、本身と支鉾の付け根の部分に鍛接の痕跡が認められなかった。
  最初、砂鉄を原料とした和鋼で製作が始まったが六支を鍛え出す事が全く出来なかった。
  試行錯誤の結果、現代の高純度の鋼を用いたところ、漸くその復元に成功したという。
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七 支 刀 及び 古 代 刀 の 鋼 の 分 析

 昭和30年代以降、文化財保護の観点から、発掘物分析の為の切断・試料片の切削は困難となった (国指定物は不可)。
 検査は錆などの収集片等で行われる。国宝指定の七支刀の本体検査は不可能であり、外観だけでは七支刀の鋼材は判らない。
 そこで、七支刀が造られた年代・地域がほぼ同じ百済の古都公州(旧・熊津)の土壙(古墳より古い墓)出土の鉄斧・鉄鉾を試料とし
て新日鐵第一技術研究所が鋼材の科学分析を行った。



皮 金: 皮金が極めて薄い。板状にする為に鍛造比率(鍛延)が高い。高炭素の箇所は小さく分散している。
     平均炭素量は0.3%、ビッカース硬度で200を超す処は無い(軟らかい)。
     又、フェライトの結晶粒も大きいので焼入したとは思われない。
心 金:  腐食試験で0.7〜0.8%の高炭素の塊りがいくつか現れ、ベースは0.2〜0.3%のフェライトの多い組織だった。
     金属組成の分布から見て、溶融銑鉄や溶鋼を鋳造したものでもない。高炭素の鉄塊と低炭素の鋼を混ぜた鍛造品であっ
     た。

 分析者※1はこの地金の製造技術の見解を以下のように述べている。                   ※1 新日鐵日吉製鉄史同好会
 炭素量0.7〜0.8%及び0.2%の二種類の鋼が素材として用いられている。前者は中国で言うところの炒鋼炉で溶銑を撹拌し、中程度
に脱炭したものであろう。後者の判断が難しい。
 心金部に残っている不純な非鉄金属介在物は余り変形していないので、加熱・鍛打の繰り返しに依る脱炭はなされていない。
 従って、石井氏※2論稿で述べられている百練銕、八十練銕の製造(製鋼)法は当時ここでは既に古式の技術だった注1という事になる。                                                        ※2 日刀保常任審査員
 石井氏論稿の写真(割愛)はX線マイクロアナライザーに依って介在物の含有元素の分布を調べた結果の一例で、ウスタイトが酸化
カルシュウムの化合物で取り囲まれた様子を示している。更に、前表(石井論稿の表=割愛)から、酸化カルシュウムと酸化ケイ素の
比 = 塩基度を求めるとほぼ6という値になる。(現代の)通常の転炉滓では3〜4であり非常に高い。
 これらの事実から、炉壁の被覆材に石灰と珪砂の焼成物を使用し、溶融状態で鋼の酸化精錬を行って低炭素高を製造していたと考
えざるを得ない。
 塩基性の製鋼法は十九世紀になって西欧で確立した技術であるが、規模の大小は別にして既に四〜五世紀に東北アジアに於いて行
われていた事はほぼ間違いない。
 この表に附記した奈良市うわなべ古墳の鉄鋌(てってい)の分析値は、朝鮮古斧の心金と非常によく似た組成である。
 鉄鋌は武具用の地金と考えられ、厚さ数ミリの定型延べ板である。
 古墳は五世紀後半と比定されており、多量の鉄鋌(てってい)が副葬されていた。
 この時代になると相当量の素材鉄が南朝鮮から輸入されていたと考えられる。

 古代中国、南朝鮮及び古代日本の一部では、鉄は鉄鉱石から間接製鋼法で造られていたが、日本ではその後、砂鉄から直接製鋼法
で作るようになった。その時期は上古刀(石井氏論稿中のB=上表高館横穴出土の大刀子)の研究試験で、七世紀中葉まで遡る事が出来た※3                                          ※3 我が国の鉄素材と断定出来るだろうか
 炉跡の発掘調査で七世紀初頭という報告が最近出てきている。
 日本には間接製鋼法が何故定着しなかったのか、ここにまた新たな疑問が生ずる。(筆者も全く同感である)
                                   (新日鐵日吉製鉄史同好会「古斧が語る当時の製鉄技術」より)

 石井昌國氏は新日鐵第一研究所の科学分析について「七支刀の謎」の中で次ぎのように述べている。
 新日鐵第一研究所で各種の科学分析を行ったところ、今回初めて(七支刀の)銘文中にある百練銕の正体を検出する事が出来た。
 即ち、百練銕とは従来の説のように刀鍛冶が素材の鉄地鉄を百回近く折返し鍛練して刀に仕上げる製刀工程を表す言葉ではない。
 それは製刀の前の製鉄の工程で仕上げられた刀槍用の最高級鉄地金(今日的に言えば低炭素の清浄な軟鋼)をいう。
 従って、製刀法も自ずと異なってくる。
 この百練銕は鉄鉱石を溶融還元し、更に溶融状態で脱炭し鍛打・ 加熱を百回近く繰り返して造られた注1(完全な解釈違い)
 上古刀の金銀象嵌文字には、百練の他に八十練(熊本県江田船山古墳)、三十練(中国ュ山)の銘文も発見されており、百練は最も清
浄で軟らかく象嵌もし易い鉄、また八十練、三十練は各々百練に対応した品位を表していたと推定される。
 又、この百済の鉄(朝鮮古斧)と日本古墳の刀との関連を知る為に、韓鍛冶の作品と見られる早期の上古刀二振り(上図@とAの直
刀と大刀)、倭鍛冶の作品と見られる一振り(上図Bの大刀子)の合計三振を厳選し、前述の鉄斧、鉄鋌とあわせて科学分析を行ったが、その結果、@、Aは百済の鉄斧と同様、鉄鉱石を原料として溶融還元した鍛造品で、Bは砂鉄を原料とする半溶融の海綿鉄を鍛
練した事が解明された。
 古代文化史上鉄器の占める地位は非常に高い。特に上古刀の科学的研究は古代文化史研究の鍵ともなるべきものであり、その意味
から我が国で初めて実施された今回の科学的分析は画期的な意義を持つものということができよう。

 注1: 石井氏は刀剣研究の著名人。新日鐵の分析で初めて「百練銕」の意味が解ったと前段で述べ乍ら、直後の百練銕の説明で注1
   
のアンダーラインのように「鍛打・加熱を百回近く繰り返して造られた」と解釈している。
   炒鋼法及び炒鋼を全く理解出来ず、和鋼の人力鍛練と同じ作業を想定している。
   和鋼鍛錬の呪縛から抜けきれない根深さを端的に表している。
   新日鐵の分析者は、刀剣研究の先輩に対して、あからさまに間違いだと指摘できないので、「石井氏論稿で述べられている
   (百練鉄などの)製造法は(海綿鉄の製鋼法であって炒鋼法の時代からみると)ここでは既に古式の技術だったという事になる」
   と婉曲的に石井氏の解釈違いを指摘している。(以上の ( ) は筆者注)


 前掲Aの金鑽(かなさな)神 社古墳出土の直刀は鍛接時のスケール(加熱時に生成される金属表面
 の酸化層)で鍛接面が容易に確認される。心金の平均炭素量は0.2%、刃先部で0.57%であった。
 皮金にマルテンサイト組成がないので意識的な焼入は認められないが、パーライトの組成が
 刃先に向かって微細になるので意識していない「軽度の焼き入れ」があったようだと分析さ
 れた。心金は朝鮮古斧と同じ方法で製作された鋼と推定された。
 この他、含銅鉱石を製練した地金(炒鋼)と確認された古代刀は以下となっている。

           ●長野県横和村出土の直刀(俵博士分析の55号刀)
           ●千葉県米倉古墳刀(A.D.7世紀)
           ●群馬県玉村角渕(俵博士分析の50号刀)
           ●群馬県二子塚の直刀
           ●千葉県神崎古墳の刀
           ●埼玉県稲荷山古墳の直刀
                  
               (これらの分析データは紙面の関係で割愛。一部は後述する)

 これらの刀剣は調査時期、分析者、解析技術の水準が各々異なるものの、第一の共通点は鉱石を「炒鋼法」で精錬した地金を使
い、第二に、刀剣固体に若干の相違があるが、0.7〜0.8%の高炭素鋼(硬鋼)と0.1〜0.2%の低炭素鋼(軟鋼)の二種類を使っていた。
 そして、銅を0.1%〜0.2%含む地金は含銅鉄鉱石を長期に亘って利用出来た中国で製造されたものと考えざるを得ない
                                                                  ( 東京工大製鉄史研究会所見の一部を引用)
5

古 代 刀 剣 鋼 材 と 刀 身 構 造


 中国の製鉄の始まりは、海綿鉄を生成する直接法だった。
 多くの鉄滓を咬み込んだ海綿鉄から鋼を造るには大変な労力を必要とした。鉄滓除去との戦いだった。
 やがて炉温の改良で鉄の溶融還元を実現した。液状になった鉄は鉄滓を容易に分離出来て、不純物の少ない鉄が効率良く出来るよ
うになった。但しこの鉄は炭素を4%も含む銑鉄で、硬くて脆い為に鋳造品の農・工具に利用するだけだった。

 この銑鉄を脱炭して鋼を造る「炒鋼法」が生まれたのは前漢時代と言われる。
 鉄滓を効率良く分離する為に、カルシュームを含む人工造滓材が、脱炭材に鉄鉱石粉が使われた。
 低炭素で不純物が少ない清浄な鋼の安定供給が可能となり、刀剣などの武器も大量に造れるようになった。
 鋼としての優秀性は、千数百年以上も土中に在りながら、尚も形姿を残して出土する刀剣類がそれを証明している。


朝 鮮 古 斧 か ら 読 み 取 れ る も の

  


 朝 鮮 古 斧

 1.皮金は極めて薄く、平均炭素含有量は心金の0.2%に比して0.3%と大した差がない。軟鋼の部類である。
   心金部と同一材を板状に鍛延して皮金が造られた。
   高炭素の部分が小さく点状に散らばっている。
   心金と同材を使って若干平均炭素量が高いのは薄板なので鍛造時に硬・軟鋼が良く練れたのか、或は赤
   熱鍛延で吸炭したとも考えられる。心金と同程度の皮金の硬度は、皮金の意味を推論する参考になる。

 2.心金は低炭素部(C 0.1〜0.2%のフェライト)の中に高炭素部(C 0.7〜0.8%のフェライトとパーライトの
   混合組織)が島状に散在する。 C = 炭素
   これは数 p 塊の硬鋼と片状の軟鋼を混合し、加熱・鍛打を数回繰り返して鍛造成形したものである。
   スケールから見て、混合の折返しは1〜2回程度のようだ。
   混合には鉄塊や鉄鋌を使わずに小さな鉄片や鉄粒が使われている。
   その理由は鍛冶で硬・軟の鋼材を混合し易かった為であろう。この硬・軟鋼の混合は重要な意味を持つ。

 ● 即ち、既に硬・軟鋼の各々の得失を知っていて、刃物の強度と粘性を両立させる意図で複合材の心金を造っていた。
 従って、この心金は本体と言うべきであり、不均質鋼一枚鍛えの日本古刀の原点をここに見る。

 薄い皮金の硬度(ビッカース硬度200)から、日本の新刀以降の皮鉄の概念とは全く意味が違う。
 硬・軟鋼の「合わせ」と必ず解説されているが、ここでの皮金、心金、或は「合わせ」の呼称は誤解を招く。

 それでは皮金は何の為なのか? 
 心金(本体)部の耐摩耗又は耐寒保護材か、表面成形を滑らかにする化粧金(俵博士の表現) か、刀剣では象嵌(ぞうがん)用などが考え
られる。象嵌用なら化粧金の表現が言い得て妙である。

 皮金の硬度で、兵仗と儀仗に区分する論もあるが必ずしもそうとは言えない。
 何故なら斧は寧ろ刀剣よりも実用的な刃物だからである。出土刀剣には皮金がC 0.5%前後のものもあるが、概してC 0.2〜3%の軟
鋼が多い。時代に依 り、兵仗でもこの斧と同様であったと推測する。
 前掲した中国出土の大刀二例※1の、 年代に依る硬度の差がそれを示唆している。

 中国では刀剣への模様や銘の象嵌を常とした。象嵌するには皮金は軟鋼でなければならなかった。
 これらの事が古代刀の皮金の意味を良く表している。
 軟鋼の皮金が儀仗用に多いとは思うが、時代と地域差に理由を求めるべきで、儀仗限定説には賛同出来ない。
 硬い皮金や意図して焼入た物は、時代が下がった兵仗であろう。
 只、兵仗とみられる中にも皮金や焼入の無いものがあった(後述する)

 考古学や冶金の研究者が、古代刀剣の皮・心金を、新刀以降の日本刀の概念で一律に解説しているが、固定観念という外はない。
 朝鮮古斧や、同様の心部構造と軟鋼皮金で造られた出土大刀類がその誤りを証明していると言えよう。
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百 練 銕 の 意 味

 煉・湅・錬・練  音符の「柬(古字)・東(俗字)=かん / れん」は、偏に依って「ねる」又は「選ぶ」の意味となる。
 百練銕〜五十練銕〜丗練銕の意味は、製鋼法とその鉄素材の品質を表す言葉である。漢字は表意文字なので実に面白い。

● 海綿鉄の時代、赤熱・鍛打して鋼を造った。その時の漢字は「火で鉄をねる」=「煉」又は「金属をねる」=「錬」であったろ
  う。
  この時代に「百煉(錬)銕」・・・「五十煉銕」・・・「丗(さんじゅう)煉銕」と言う鋼品質の識別呼称が生まれたのであろうか。

● 炒鋼では「湅(れん) = 三ズイに柬、上左から2番目の文字」が現れた。
  前記した徐州市駝竜山、山東省蒼山県出土の大刀銘がこれである。
  文字の意味は「水や液状のものをねる」という意味である。炒鋼法で解るように将に棒で溶鋼(液状)をねっている。
 「ねる」回数が多い程、脱滓・脱炭して低炭素の清純な「軟鋼」が生まれ、ねり方が少ないと夾雑物が残る脱炭の少ない「硬鋼」
  となる。
  百湅(れん)銕は低炭素鋼、五十湅銕は中炭素鋼、丗湅銕は高炭素鋼である。当該大刀の銘と炭素含有量がぴったり符号する※1

● 炒鋼が鉄素材として一般化した後、本来の意味が薄れ、鍛冶鍛造の「煉」又は「錬」の字となったのではあるまいか。

● 舶載鉄鋌を使った国産・稲佐山古墳の鉄剣には「糸をねる、紡ぐ」=「練」の字が刻まれている。
  東大寺山古墳の舶載環頭大刀も炒鋼との推定だが、何故か「練※2」である。シルクロードで伝わった製鉄技術だから「糸偏」な
  のであろうか。そうであれば「練」が最も古い表現となる。謎は深い。

          ※1 徐州市駝竜山大刀(A.D.77)「五十湅」=炭素含有量0.1%〜0.4%、山東省蒼山県大刀(A.D.112)「丗湅」=炭素含有量0.6%〜0.7%
         ※2 この銘の「れん」の原字が「練」である事を、東京国立博物館日本考古上席研究員の望月幹夫様よりご教示戴いた

筆者注: 北京鋼鉄学院冶金史研究室の韓汝玢氏は「百練鋼は炒鋼を百回折返し鍛錬した物」、「五十練鋼は五十回、丗練鋼は三十回折返し鍛錬した」と説明する。そうであれば、炒鋼は海綿鉄や塊錬鉄と同様の夾雑物の多い汚い鋼だったという事になる。
朝鮮古斧の分析、炒鋼の製鋼手法からしても、韓氏の解説は間違いと言わざるを得ない。




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