異説・たたら製鉄と日本刀 (4) 0
弥生〜古墳時代
古 代 の 鉄 素 材 と 鍛 冶
鉄 素 材 の 渡 来
刀剣以外の鉄器の舶載は弥生時代※
中期と見られるが、鉄素材の渡来の時期はいつ頃だったのであろうか。
福岡県春日市赤井手遺跡から鏃(ぞく・やじり)、鉄斧等の製品・加工途中の品、銅鉾鎔笵(ようはん=鋳型)、鉄素材などが多数出土した。
弥生後期後半=紀元1世紀初頭とみられている。
多数の出土品から下の写真@とAの二つの不明鉄器が分析された。各々銑鉄と鋼の二種類との結果が出た。
何れも原料鉄(鉄素材)と推定されている。
@は棒状、ABCは不定形の板状である。
この事は、国内で精練や鋳・鍛造鍛冶が既に行われていた事を意味する。
※ 弥生時代の修正
従来は紀元前300年(4世紀)中葉を弥生時代の始期とした。然し、炭素14年代測定法(C14)に依って弥生時代の始期は大幅に繰り上がる事が
確実になり、且つ周辺国の歴史との整合性にも矛盾が無い。その時期は紀元前10世紀頃といわれている。
本サイトは弥生始期を前940年代(B.C10世紀)説を採った。考古学や冶金の論文は旧来説の呼称が使われている。
新旧の始期に大凡五世紀の落差を生じている。
従って、旧来説の呼称には必要に応じて(旧)を附し、特に附記の無いものは新説に基づく呼称とする。
弥生中期後半、紀元1世紀初頭頃の鉄素材 (福岡県赤井手遺跡)
@は棒状で、C3.56%の鼠銑(ねずみずく)、リン(P)は0.16%、銅(Cu)を0.5%以上を含むので始発原料は明らかに大陸産含銅磁鉄鉱である。
AはC0.82%の板状の過共折鋼※1で、共にチタン(Ti)は無い。
長崎県壱岐原の辻と唐神遺跡(弥生中期)、山口県下関市綾羅木遺跡(弥生中期前半)に板状・棒状の鉄素材と見られるものが出土した。
国内鍛冶は、3世紀初頭の三国志・魏書東夷伝・弁辰の項の記述から、遅くとも弥生晩期の3世紀には行われていた事は確かである。
上記の出土品を鉄素材とすれば、少なくとも弥生中期前半(B.C.4世紀末)には国内精錬と鍛冶が始まっていたことの傍証となる。
ここで注目されるのは@の銑鉄素材である。これを何に加工したのであろうか。
通常ならば鋳鉄製品と考えるが、その為には溶解炉は1,150℃以上の高温でなければならない。
弥生土器の焼成温度は600〜800℃程度なので、これだけの高温を長時間維持するのは並たいていの事ではない。
この時代にそれだけの高温が得られたとすれば、国内製鉄開始時期、製錬法、得られた鉄材の抜本的な見直しが必要となってくる。
佐々木稔氏※2は
「鉄と銅の生
産の歴史」の中で、「この銑鉄素材はそのまま鍛造品の出発材料に利用出来ないし、弥生時代の工房
跡からは鋳物を製造した「鋳型」も見つかっていないので、炭素分の低減処理を行って鋼を製造する為の原材料だと考えられる」と
している。
「弥生時代の出土鉄器の鋳造品は1例※3に過ぎず、殆どが鍛造品である」との視点から鋳造鉄器には懐疑的である。
歴史遺産を破壊する試料片採取は不可能で、表面の錆片から分析される。
鋳鉄脱炭鋼でも表面の錆は鍛造組成となるのではないだろうか。
そうであれば、錆のみの分析で一概に鍛造品とは決めつけられないことになる。
又、統計学的な無機質な推論ではなく、鋳造製品が1例でも確認された事実はもっと探究されるべきであろう。
※1
共折鋼=冷却過程の727℃で共折反応して二つの固相になる鋼
※2
1933年生。東北大学金属工学専攻・工学博士。選鉱精錬研究所を経て八幡製鉄に入社、新日本製鐵・先端
技術研究所に在籍した鉄鋼の専門家。退職後は神奈川大学歴史民俗資料学研究科で博士課程学生を指導す
るなど技術史に関する造詣も深い。これまで、古代刀と鉄、あるいは鉄砲伝来とその技術伝承について特
に専門の材質面からの研究を進めてきた。
同氏の著書で常に引用される赤井手遺跡の鉄素材の図版の説明は著書に依って錯綜しているので要注意
※3 弥生中期初頭の山口県豊浦町山の神遺跡出土の鋤先(鼠銑)
然し、高炭素の銑鉄をどのようにして鋼に精錬したのであろうか。物理的な赤熱鍛打では、銑鉄が砕け散る怖れがある。
中国でも、炒鋼法が開発されるまで、銑鉄は鋳造品か、或は鋳鉄脱炭製品しか出来なかった。
鋳鉄脱炭製品とは鋳鉄製品の表面に脱炭処理(中国では退火処理という)を施して鋳鉄の脆さに強度と靱性を持たせた製品である。
中国本土では多数出土している。我が国でも鉄斧や鏨(たがね)と
して出土する。
只、我が国では退火処理炉の遺跡が発見されず、その後もこの技術の継承が認められないとの理由で舶載品と見なされた。
又、A・B・Cの鋼素材が在るのに、何故わざわざ銑鉄を鋼にする面倒な精錬をするのであろうか。これは素朴な疑問である。
この観点の考察はなされていない。
鋳鉄素材は、必ず鋳造製品を造るか、又は鋼精錬を伴わなければその意味が無い。
弥生時代の鋼精錬の遺跡は発見されないものの、精錬を示す鉄滓は山口県綾羅木遺跡(弥生中期前半)、京都府扇谷遺跡、中期中葉の
九州西北部、山陽、山陰の沿岸部の遺跡から幾つも出土している。精錬が行われていた状況証拠は充分に揃っていた。
遺跡至上主義で見れば精錬は無かった事になるし、一方で、銑鉄素材の存在や精錬滓の存在は精錬が在った事を傍証する。
古代の考察は常に両者の鬩(せめ)ぎ合いの中にある。
遺跡至上主義からすると、三国志・魏書東夷伝韓の条の「國出鐵 韓・歳・倭皆從取之・・・」の記述は総て嘘だと言う事になる。
何故なら、朝鮮半島では確かな製錬遺跡が未だに発見されていないからである。証拠は遺跡だけではないという例えである。
これらを勘案すると、鋼精錬は確実に行われていたと思われるし、銑素材は鋳鉄製品の原料鉄の可能性も無しとは言えない。
炉跡や鋳型の未発見が、精錬や鋳造品を造っていなかった事の絶対的な証しとはならない。
この銑鉄素材の存在は極めて重要な意味を含んでいるにも拘わらず、安易に看過されていないだろうか。
1
精 錬 と 鍛 冶
最近になって、紀元3世紀末(古墳時代前期初頭)の千葉県八千代市沖塚遺跡の工房跡から火窪
(ほど)型炉跡が検出された。
各種鉄関連遺物と多量の砂鉄(2s)が回収された。
原料銑鉄を精錬する途中に生成された鉄塊系遺物(銑鉄組織残存)、精錬終了後に炉底に残った椀
(わん)形鉄滓、精錬の過程で炉外に排
出された粒状滓、半溶融状態の鉄滓の表面に生成した酸化鉄薄層(スケール)が剥離した鍛造剥片
(はくへん)が確認された。
考古学、金属学の見地から検討が行われ、遺跡と遺物はいずれも鋼の精錬工程の特徴を示す点で見解が一致した。
精錬遺跡に付随する砂鉄の集積は、精錬工程での脱炭材の目的以外は考え難い。
又、遺物から、精錬鍛冶(大鍛冶)と小鍛冶がセットになった工房である事が改めて確認された。
このことから、銑鉄(ズク)を砂鉄で脱炭する鋼製錬(製鋼)の実態が裏付けられた。(「中
世地鉄は銑鉄」参照)
下関市綾羅木遺跡の棒状・板状銑鉄半製品の例を採れば、弥生時代中期前半(B.C.4世紀末)には、これを原料鉄にした鋳造や鋼精錬が
実現していた可能性も考えられる。
又、鉄滓の化学組成から推測される低チタン砂鉄を脱炭材に使用した事実は、我が国古代製鉄の定説 = 砂鉄を始発原料とした直説製
鉄法(たたら製鉄)を根底か見直さざるを得ない事になる。何故なら、チタンの検出を理由に始発原料を砂鉄としていたからである。
これと同じ鋼精錬特有の形状(ルチルに近い組織)を示す鉄滓は各地方で4世紀前半以降の遺跡から出土している。
この組織は砂鉄を木炭で還元して生成するには到底困難で、銑鉄浴中の炭素(C)と結合して生成されたとしか考えられない。
詳細は「中世地鉄は銑鉄」の項を参照されたい。
佐々木氏は、溶融再酸化鉄が主体の小鍛冶滓のアルミナ(AL2O3)と酸化カルシューム及び酸化マンガンの比率から、各地遺跡の精錬法
は同じものと分析している。
鉄滓、鉄塊系遺物の組成から精錬温度と鋼の炭素量が推定出来る筈だが、どの研究者も何故かこの事には触れていない。
重要な精錬法に関しては単に「鋼精錬」と述べるだけである。炉温が不明な為に肝心な精錬内容が推論出来ない。
佐々木氏は近世たたら製鉄の大鍛冶(左下鉄)を想定して「鋼製造は大鍛冶と同じ」と述べている。これは疑問である。
炉壁に使われる一般的な粘土の成分は酸化アルミニュウム(AL2O3=.40.1%)と酸化珪素(SiO2=.
58.1%)が主体であり、鉄滓の酸化カルシューム及び酸化マンガンは異常に高い数値を示している。
この事から造滓材の使用が推測され、更に、脱炭材としての砂鉄がある。
造滓材と脱炭材の使用を前提とすれば、どうしても炒鋼法に近似した化学的溶融精錬を想像して仕舞う。
溶融精錬では理解出来るが、半溶融銑鉄を鍛打脱炭する物理的大鍛冶作業での造滓材と脱炭材の使用法とその効果が解らない。
後世、慶長以降、大鍛冶で使われた藁灰(わらばい)と泥水がそれ
に該当するのであろうか。
赤井手遺跡の出土品の中に両端が溶けて滴(しずく)状になった鉄材がある。
これは鉄材を溶かす程の炉温があったことを示唆している。
青銅器の鋳造経験、弥生中期後半と確認されるガラス(溶融点1,300℃)鋳型の出土を考えると、かなりの高温が得られた事を窺わせ
る。高温の長時間持続は別としても、銑鉄であれば容易に溶融出来たのではないだろうか。
一部の地域に限定されたとしても、若し銑鉄の溶融精錬が確認されれば、古代製鉄〜精錬の景色は一変することになる。
2
国 内 精 錬 の 推 測
先ず、一つの遺跡の例を以て国内の総ての精錬方法と技術レベルをそれに当てはめる事は出来ない。
渡来人の時期と保有技術は様々であったろうし、製錬、精錬技術は当時の最も貴重な技術であり、技術保持者の損得からもその技術
は秘匿された筈である。
この事は中共の考古学者が文献を引用して指摘している。情報を共有する等という今日的感覚で判断は出来ない。
明確な精錬遺跡の確認は無いものの、銑鉄素材の存在と精錬遺物の状況証拠から、鋳造製品の可能性と鋼精錬を推測してみる。
その為には鉄素材(原料鉄)の流通性と価格が一つの判断材料になる。
1.鉄素材の供給量と需要
溶融冶金の時代になって製錬では銑鉄が造られた。鉄原料としては先ず銑鉄が先にあった。
勿論、海綿鉄製錬も併存したので、それから造られる錬鉄や鋼も鉄原料として供給されたと思う。
然し、銑鉄に比較すると、生産性が悪い錬鉄や鋼の流通量は少なかったに違いない。
銑鉄の供給量が圧倒的に多かった筈である。炒鋼法が出現して鋼の生産量が増大したが、原料鉄の需要は鋼だけではない。
強度を要する刃物類は鋼であるが、鋳鉄製品の需要及び銑鉄から造られる錬鉄製品は鋼製品よりはるかに多かったであろう事は
日本の後世を見ても明らかである。江戸時代、同じ鍛造品でも錬鉄需要8割に対して、鋼の需要は2割に過ぎなかった。
2.鉄素材の価格差
銑鉄素材と鋼素材を製錬〜精錬の製造工程で見れば、その製造コストの差は歴然としている。
手数の掛かる鋼が銑鉄に比べて高価であろう事は誰がみても明らかである。
又、同じ鋼でも清純な低炭素鋼(例えば百練鉄)と高炭素鋼(三十練鉄)では当然価格差があったと思われる。
先に、赤井手遺跡のところで銑鉄と鋼の二種類の鉄素材を持ちながら、何故銑鉄をわざわざ鋼に精錬しなければならないかという疑
問を述べた。鋳鉄製品の製造は別として、この流通性とコストが銑鉄を鋼に精錬する理由の一つではなかったろうか。
銑鉄を鋼に精錬し直せば、結局価格は高くなる。只、何かの理由で鋼の入手が困難であったとすれば鋼精錬の必然性が生まれる。
炒鋼法は論理的に低〜中〜高炭素鋼を自在に造り分けられる。
然し、朝鮮鉄斧や我が国出土刀剣は何故かC 0.1〜0.2%の低炭素鋼とC 0.7〜0.8%の高炭素鋼に偏(かたよ)っている。
炒鋼法では中間の炭素量の制御が難しかったのか、製造側又は流通段階の何らかの事情に依って市場流通の鉄素材(半製品)が偏って
いたのではないだろうか。
赤井手遺跡では二つの鉄素材しか分析されなかった。その一つの鋼はC 0.82%の過共折鋼(普通の共折鋼はC 0.7%)の硬鋼である。
他の鋼の炭素含有量が不明な為に何とも断定出来ないが、偏った炭素鋼しか確保できなければ、所望の炭素鋼を得る為に銑鉄を鋼精
錬しなければならないことになる。
こうした鉄素材の流通性とコストの要因で、銑鉄を鋼精錬する必要があったのではなかろうか。この視点での論文を見た事がない。
3
舶 載 鉄 素 材 と 国 内 鍛 冶
出土品と鉄滓及び鉄塊遺跡の分析を基に、舶載鉄素材を使った国内精錬と鋳造及び鍛造鍛冶を下図に模式した。
@ 鋳造推定
銑鉄の最も効率的な使い方は鋳造品の製造である。国内では時代が少し下がり、坩堝及び地炉の銅の溶融遺跡が発掘されている。
銅の溶融温度は1,084.5℃。銑鉄の溶融には1,200℃の炉温を必要とする。僅か120℃の差しかないが、古代におけるこの僅かな炉温
の改善は大変大きな壁であったろう。
下図の赤井手遺跡の両端が溶融した鉄材や、ガラス鋳型の存在などから鋳鉄製造の可能性を推定した。
但し、鋳型と鋳造遺跡は確認されていない。
A溶融精錬推定
@の鋳鉄製造があったとすれば、銑鉄から鋼への溶融精錬の可能性は充分ある。造滓材と脱炭材は溶融精錬で最大効果を発揮する。
溶融精錬があったと仮定すると、何故、後代に伝わらず、原始的な物理的精錬法に逆戻りしたかと言う反論が出るだろう。
北京鋼鉄学院の韓氏は、百練鋼と透光鏡を例に挙げ「技術は職人の生活手段であった為にその子孫のみに伝えられた。秘伝を守る
事が結局その技術の根絶に繋がった」と述べている。これがその反論に対する一つの答えである。
これは製鉄法の推定にも当てはまる。
B精錬鍛冶
Bは基本的に江戸時代の和鋼の大鍛冶と同じである。相違点は造滓材と脱炭材の内容であろうか。
この方法だと鋼は不均質となり、非金属介在物が残存する。
この時期、又は地域に、1,100℃以下の低温炉しかなければ、この流れが製鋼法だったという事になる。
支那では遅くとも B.C.5世紀には溶融製錬が実用化されていた。
弥生晩期から見れば、鉄器の渡来から1,100年以上、大陸での溶融冶金の開始から800年以上もの間、製鉄工人の渡来や製鉄、精錬技
術の伝播が無かったのであろうか。
3世紀末の韓鍛冶の渡来(古事記)、4世紀末の新羅遠征(広開土王碑文)は鉄の獲得戦だった(日本書紀)。
新羅に次ぐ鉄生産地の真番(別名鉄国)まで進攻し、鉄資源と同時に多くの俘囚を連れ帰っている。
刀剣茎の俘囚の銘がそれを如実に裏付ける。鉄の産地の加羅及び任那は既に倭の実効支配下にあった。
鍛冶工人のみを連れ帰り、肝心な製鉄工人を放置していたとはとても考え難い。
この時期、半島の最新技術が渡来していたと推論しても強(あなが)ち暴論とも言えないだろう。
寧ろ、無かったとする方が不自然である。
4
国 内 鍛 冶 未 製 品 (加工途中品)
H 両端が滴状に溶融した鉄材
上図は福岡県赤井手遺跡出土の鍛冶加工の未製品である。
@〜Cは鏃、Dは刀剣の茎、E〜Gは鉄斧。Hは両端が溶融して滴のようになった鉄素材である。
これ等は遺跡内の別々の場所から出土した。
これに類した未製品は門田辻田、三雲加賀石、三雲番上、馬場山N=21、馬場山DA=2などからも出土している。
製品の場合は舶載か国産かの判断が難しいが、未製品(加工途中品)は間違いなく国内鍛冶が手がけたものと判断出来る。
55
鉄 鋌(てってい) の 出 現
大和6号墳鉄鋌
|
大きさ |
化学成分(%)
Cu Si
|
炭素含有
(%)
|
重量
(g) |
1.小型
|
0.05 0.15 |
0.08
|
30 |
2.小型
|
0.22 0.05 |
0.10 |
- |
3.小型
|
0.04 0.12 |
0.20
|
15 |
4.大型
|
0.20 0.01 |
0.23
|
340 |
5.小型
|
0.11 0.08 |
0.28
|
21 |
6.小型
|
0.07 0.14 |
0.29
|
28 |
7.大型
|
0.03 0.07 |
0.32
|
509 |
8.大型
|
0.03 0.24 |
0.70
|
299 |
|
大和6号墳鉄鋌と花聳(はなそげ)2号墳の
大小鉄鋌の比較 |
最初は不定形だった鉄素材も、古墳時代の5世紀中頃に入って一定の規格性をもった流通半製品が大量に出現する。
最も典型的なものが「鉄鋌」である。
奈良県宇和奈辺古墳陪塚大和6号墳から、大小合わせて872枚、140sの大量の鉄鋌が出土した。
右図は大和6号墳の1は 長辺約37pの大型鉄鋌、2と3は 長辺約17.5pの小型鉄鋌、その右の4は、福岡県小郡市花聳(はなそげ)2号墳
の長辺約31pの中型鉄鋌。
大型鉄鋌の現物を目の当たりにすると、これ一つで刀ができるのではないかと錯覚する程大きい。
形
状:
一定の規格性を持つ。福岡県小郡市花聳2号墳と大和6号墳の鉄鋌の形状差は製鉄所の違いと思われる。
厚さは数oしかない。鋳造品ではなく、鍛造品の為に小型、大型共に各々重量差がある。鋼を鋳造出来る高温炉が無かったようだ。
小型の鉄鋌は、鎧などの武具用と見られている。中国で「鋌」の字は「兵」を意味する。
「鉄鋌」は武器・武具用の鉄素材とされている。
炭素量:
872枚の中から8枚が分析された。抽出の仕方が解らないので何とも言えないが、サンプルでは低炭素の軟鋼が多い。
中炭素の下限に近い鋼2枚と高炭素の硬鋼が1枚となっている。
花聳2号墳の中型鉄鋌は2枚が分析された。一枚はC 0.86%の共折鋼に近いパーライト組成と分析された。
他の一枚はC 0.1〜0.2%の軟鋼だった。
花聳(はなそげ)の鉄鋌にも硬・軟二種類の鉄鋌がある事が判った。
生産地:銅の含有率が高い。大和6号墳の8例を含めて29例中、銅を0.1%以上含むものが9例あった。
この時期、日本と朝鮮での製鉄開始はないと見做されている。
大陸の山東半島から長江の下流域にかけて含銅磁鉄鉱の鉱床がある。
従ってこの地方で精錬された物が日本に直接舶載されたか、或は南部朝鮮経由で加工精錬されたかのどちらかと推定される。
含銅磁鉄鉱は日本の釜石(岩手)と赤谷(新潟)、朝鮮半島で1ヶ所が知られる。朝鮮南部の古墳からも鉄鋌は出土する。
鉄
鋌断面:花聳2号墳の中型鉄鋌断面は殆ど一様な組織になっている。極めて均質な鋼と確認された。
然し、大和6号墳の軟鋼の鉄鋌の中に炭素量や介在物が異なる何枚かの鋼片を鍛接した構造のものがあった。
下の右側断面写真がそれである。
佐々木稔氏は「表面層には清純な鋼を、内部には非金属介在物の多い汚い鋼が鍛接されていて、鉄鋌の商品価値を高める為に意図的
に造られた可能性がある」と指摘した。然し、この断面組成の分析は始発原料の対立論争に発展した。
炒鋼ではなく、海綿鉄、塊錬鉄の直接製鉄法の鋼だかとの見方が出てきた。
花聳(はなそげ)2号墳の鉄鋌は断面組成から見て、銑鉄の溶融精錬、即ち炒鋼と見て差し支えないだろう。
溶融精錬された鋼の断面組成は一般的に均質である。溶融状態の銑鉄には懸濁した夾雑物が均質に分布し、海綿鉄、塊錬鉄、銑鉄を
物理的に鍛打精錬した不均質に分布する非金属介在物とは成因と組成が異なる。
問題は大和6号墳の鉄鋌をどう見るかである。
佐々木稔氏は ガラス質珪酸塩の介在物を理由に炒鋼説を採った。
国立歴史民俗博物館が、佐々木氏とは別の3枚の鉄鋌を中性子放射化分析し、直接製鉄法の鉄素材を使用したと判定した。
上掲の「汚い鉄鋌」は、炒鋼精練の工程が粗末な為に単に非金属物が完全に分離しなかった不良炒鋼なのか、或は、直接法で製錬し
た鋼素材と見るかの見解の対立が生まれた。
これは鉄素材舶載説と国内生産説との対立でもあった。
直接法で始まった南部朝鮮の製錬も、遺跡の発掘で、いつかの時期に間接製鉄法に転換したとの報告がある。
その転換時期の如何に依っては我が国で製造された鉄鋌という事にもなりかねない。
古代史をも塗り替える問題を孕(はら)んでいる。未だ決着が着いていない。
(※
分析値・鉄鋌断面写真は佐々木稔氏の著書、赤井手遺跡出土品は福岡県教育委員会の資料を加工した。その他の図版は筆者の作図に依る)
こうした論争に少なからず影響を与えるであろう大量の鉄鋌が朝鮮半島で発掘された。
2008年2月に福岡大学で開催された、東アジア考古学会と韓国の中原文化財研究院との第2回研究交流会の席で弾琴台土城の発掘成果
が披露され、40枚という大量の鉄鋌の出土が報告された。
|
福岡大学人文学部・武末純一教授の踏査を伝える新聞記事
(西日本新聞朝刊2011年3月24日)
|
発掘された随伴土器の年代は4世紀が多く、5世紀初頭が限界だった。場所は半島の中央部に位置して、百済と高句麗に接する新羅
の西北部にあたる。
それまでの朝鮮三国時代や日本の古墳時代の鉄素材として知られた厚さ0.2センチ前後で両端がひろがる薄い鉄鋌とは異なって、分
厚く直線的な形状だった。5枚一組のくくりがそれぞれ3列、2列、3列にまとめられ、一つの塊となって出た。
本来は二倍の長さのものを半分に折ったとみられる。
弾琴台土城外の南東麓には4世紀後半の漆琴洞製鉄遺跡があり、ここで生産されたとの意見もある。
こうした時期と、40枚という数字から想起されるのは、『日本書紀』の「神功皇后紀」46(366年)年条で、百済の肖古王が斯摩宿禰
(しまのすくね)の従者である爾波移(にはや)に「鉄鋌40枚を与えた」とある。
また、同52(372年)年9月丙午の条には、百済王が千熊長彦に会って七支刀を与え、谷那
(こくな)鉄山での鉄生産を約束したとの記事
もある。
弾琴台土城の鉄鋌は、4世紀の百済の鉄生産、ひいては日本の古墳時代の鉄素材問題を考える上できわめて重要な資料であり、日本と
も関わる谷那鉄山の位置については諸説あるから、現地見学を切望していた。
日本の古墳時代鉄器・鉄素材研究は、これらを踏まえて展開せねばならない。
(考古学トピックス 武末純一=福岡大学教授の要点抜粋)
これに続いて2013年春、朝鮮半島の5世紀中頃と比定される忠清北道忠州市老隠面佳新里山(朝鮮半島中部よりやや南)の文城里18号
住居跡から大・小7枚の鉄鋌が出土した。
鉄鋌の大3枚は長さ37〜40p、幅3.5〜4p 、厚さ1.5p 。小4枚は長さ24〜28p、幅2.5〜3p 、厚さ1.2〜1.3p だった。
弾琴台土城の鉄鋌と形状がほぼ近似している。
(福岡大学人文学部・武末純一教授の現地立ち会い報告。撮影及び写真提供: 武末教授)
弾琴台土城の鉄鋌と共に更なる研究が、大和6号墳の鉄鋌論争に決着をもたらすことを期待したい。
今後の調査が期待されるが、ご多分にもれず、文化財保護という制約で、メタルの破壊検査が不可能な状況にある。
尚、北部九州と山陽地方で発掘された鍛冶工房の遺跡は、5世紀前葉から6世紀初頭にかけて近畿地方に多数出現する。
鉄器生産の拠点が近畿地方に移ったとみられている。宇和奈辺古墳陪塚大和6号墳の大量の鉄鋌もそれを物語るのであろう。
2013年9月2日より
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