異説・たたら製鉄と日本刀 (2)  0

製 鉄 の 渡 来 と 古 代 考 察 の 陥 穽

古代の製鉄事情  | 日本刀の地鉄 | 異説・たたら製鉄と日本刀目次
   ページ内検索  初期鉄器時代の推移 | た たら製鉄の認識を問う | 製鉄の格差 | 先入観で古代を見る陥穽

大 陸 及び 朝 鮮 半 島 と の 交 流


 弥生時代中期頃※1(B.C5〜4 世紀)、中国春秋時代の国内争乱に追われた難民は海に逃れ、対馬暖流に乗って朝鮮や北九州に漂着
した。  ※1 C14(炭素同位対比年代測定法)で弥生始期をBC10世紀とした。但しC14法は100〜200年も遡り過ぎる傾向にあるので修正の要あり
 銅器、鉄器が伝来したのはBC4世紀頃と見られている。
 大きな危険を伴う航海だが、舟に長じた長江流域の民は縄文時代から環シナ海を頻繁に移動していた。
紀元前108年、漢が衛氏朝鮮を滅ぼし、半島中央に楽浪郡など漢四郡を置いて朝鮮半島北部を支配した。
この頃、朝鮮半島から対馬海流に乗った一団は能登半島に、対馬反流に流された一団は山陰や若狭湾に渡来したと見られている※2
漢書地理史に「楽浪海中に倭(わ・い)人あり、分かれて百余国を為す、歳時(折々に)を以て来り献見す」とある。 ※2 前ページ図参照
又、別の項に「会稽(かいけい =中国浙江省南東)海外、東鯷(とうてい)人有り。分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見す」とある。
「倭」とは九州北部と山口県の一部を指し、「東鯷」とは「倭」の東、楽浪海の外に位置する国(本州西部)があると認識していた。
倭人と東鯷人は定期的に貢ぎ物を献上していた。


 左図は、鳥取県・鷺山古墳の壁に描かれた双胴船の線刻図である。和船なの
 か大陸からの渡来船なのかは不明。他にも、古墳壁画や、土器にも船の線刻
 図が複数発見されている。渡来船の可能性が高い。
 右写真は、インドネシア・マカッサル博物館展示の復元模型。
 3世紀(邪馬台国の時代)の中国の古書「南州異物志」に、「人間
 700人と260トンの積荷を運ぶ」との記述あり
 当時の中国は、風力を動力(帆)に使い、造船技術は世界の先端に
 あった (
邪馬台国時代の日本の総人口は推定50万人)
 13世紀のジャンク船には600トン以上の船があり、平安時代の日本
 の人口は500万人だから、今の人口比で船の大きさを換算すれば、
 15,000トンに匹敵する巨船となる

 倭国や東鯷国から盛んに朝貢していたので、当然、それなりの船が
 日本に存在していた。官よりも民間交易の方が遙かに活発だった
 現代の我々が想像する以上の環シナ海交易が行われていた
 



 弥生時代中〜後期の頃、楽浪文化が我が国に流入した。
                     
 紀元57年、「後漢書」東夷伝に「倭奴(いど)国王は後漢に使者を送り光武
 帝から印綬(漢委奴國王)を受けた」とある。
 又、「107年、倭国王師升(すいしょう)等は後漢に使者を送った」と記す。
 後漢の末期、遼東大守の公孫氏は楽浪郡を支配してその南部に帯方郡
 を置いた(A.D205年)。
 後漢書によれば、倭の女王卑弥呼はこの帯方郡を通じて公孫氏と外交関
 係を持っていた。
 220年に後漢が終わり、中国は魏・呉・蜀の三国時代となる。

 239年、邪馬壹国の女王卑弥呼は魏に使者を送り銅鏡100枚を受ける。
 翌年、帯方郡使が「親魏倭王」の金印を卑弥呼に届けた。
 弥生時代後期、朝鮮半島の帯方郡から南部は韓と言われ、辰韓・弁韓・馬韓の三国が鼎立(ていりつ)していた。
 三国志・魏書東夷伝韓の条に「國出鐵 韓・濊(わい)・倭皆從取之 諸市買皆用鐵 如中國用錢 又以供給二郡」とある。

 半島南端は3世紀中頃から倭国領土(狗邪韓国こやかんこく)だった。中南部の韓族、濊族と倭族は弁辰に鉄を求めていた。
 中国の古書「南州異物志」に依ると、大型のゴンドラに似た舟が使われ、想像以上の人と物資を運んでいた。驚く他はない。
 既に、弥生時代の初期から、中国大陸や朝鮮半島との交流が盛んに行われていた。
 倭国が二郡を介して大陸王朝に遣使する際、南端の弁韓と南西の馬韓とは倭国に便宜を与えていた。通交の物理的位置に依る。
 この事は弁韓・馬韓の国益にも適っていた。

 313〜4年、高句麗(こうくり)は南下して二郡を滅ぼし、400年続いた中国勢力を排除した。
 その直後の4世紀中頃、辰韓・弁韓・馬韓の中から、各々、新羅(しらぎ)、伽耶(かや)=加羅(から)、百済(くだら)が新興した。
 高句麗の南下進攻を怖れた百済は、三国と倭国との結束を図る努力をしたが、新羅は途中から高句麗に下った。
 倭国(九州王朝)は任那(みまな)に「任那倭宰」を置き、倭軍は屡々(しばしば)半島を遠征した。
 遠征の事蹟は高句麗の広開土王碑に刻んである。
 倭国に大量な武器を造る能力と国力があった事を意味している。倭国の新羅進攻は鉄資源の確保が大きな目的だった。
 高句麗は百済・伽耶を圧迫し始めた。百済と倭国はこの状況に危機感を強めた。
 倭国はこの時、多くの俘囚を連れ帰った。
 「古事記」に依れば、3世紀末、百済から卓素という韓鍛冶(からかぬち)他工人の渡来が記されている。



 七 支 刀


 372年、百済の近肖古王は東晋に遣使した。6月に「鎮東将軍領楽浪大
 守」に封ずる冊封使を迎え「七支刀」が下賜された。
 これは東晋で369年に鋳造され「百兵を辟(しりぞける)」という道教的呪文が
 刻まれていた。朝鮮半島での復権を望む東晋の願いだった。

 百済王はこの七支刀を早速「模造」して新たに銘文を象嵌(ぞうがん)し、
 使者を倭国に送った。同盟への参加を求め「この刀は百済西方の谷那鉄
 山(こくなてつのむれ)の鉄で造った。これを献上して両国の誼(よしみ)を固めた
 い」と複製七支刀を倭王に献呈した。
 これが石上(いそのかみ)神社に伝わる「七支刀(ななつさやのたち)」である。
 こうして百済・伽耶・倭国連合と高句麗・新羅との対立の構図が出来た。
 562年、伽耶が新羅に滅ぼされ、伽耶に移植していた倭人達が技術や文化を持って倭国に帰国したと思われる。

 その後、百済は新羅、高句麗との離合集散と戦闘を繰り返した。660年、新たに生まれた唐の進攻で百済は滅亡した。
 663年、百済の復興を目指して、百済の残兵と倭国水軍は白村江で唐・新羅の連合軍と戦ったが大敗を喫した。
 その結果、百済の貴族や流民が大量に倭国に移住したと見られている。
 朝鮮半島での鉄資源の確保が困難となった我が国は、鉄資源の本格的開発と鉄の自給生産の必要性に迫られた。
1

初 期 鉄 器 時 代 の 推 移

 我が国の鉄器文化の開始は弥生時代からと見られている。それ以前の縄文遺跡から鉄器が発見されていない為である。
 鉄器利用の推移は大凡次の三つの段階を踏んだ。

 1.鉄器の舶載品利用(極めて一部の特権階級)
 2.舶載鉄素材を利用した国内鍛冶による鉄器生産(埼玉・稲荷山古墳の「百練利刀」は舶載炒鋼を使って471年に我が国で製作さ
   れた物と言われる)
 3.6世紀末頃から国内製鉄の本格的取り組み開始 (一部の地域では、5世紀中庸、或はそれ以前に遡る可能性も出てきた)

銅剣発掘の分布を下図に示した。




九州 近畿 中国 関東 中部 四国 東北
 遺 跡 数 54% 12% 10% 10% 9% 4% 1%
 鉄 器 数 63% 15% 7% 5% 6% 3% -
 剣・刀・矛・戈  91% 1% - 1% 4% 1% -
 鏃 53% 23% 7% 3% 7% 6% -

 山陰の遺跡数が少ないが、昭和59年に発掘された荒神谷遺跡から358本の大量の
 銅剣が発掘され、出雲に強大な部族が存在していたことを示す
      
下図は昭和45年時点での弥生時代遺跡の発掘地域と鉄器の分布状況 (現在は更に増えている)



  鉄器の種別による比率

工具 農具 漁具 武器
21% 7% 1% 34% 36%

 武器(鉄剣・鉄鏃)の出土は
 九州が112件、近畿は24件で、
 九州が他を圧倒する

 武器は部族の勢力をそのまま
 反映するので、九州に強大な
 勢力があったことを示す

 甕棺(かめかん)古墳からは銅鏡、銅鉾、銅戈等が出土し、弥生古墳からは鉄剣、鉄鏃(てつやじり)、鉄戈(てっか)等が現れる。
 これ等の出土品は圧倒的に北部九州に集中している。大陸・半島との交流拠点は主に北九州だったことが分かる。

2

た た ら 製 鉄 と 原 料 


 今迄に、錚々(そうそう)たる学者・専門家の方々が種々の論文を著されている。この要約をするだけなら、今更ここで述べる必要は全くない。鉄の文化は技術論だけでは理解出来ないし、それだけで技術が定着するものでもない。
 又、古代遺跡の分析は近年長足の進歩を遂げ、古い定説が幾つも覆えされている。
 更に、研究者に依る見解の対立があり、何れが穏当かの判断に立ち止まる事が屡々(しばしば)あった。
 本稿は、今までに感じた素人であるが故の疑問点や困惑に基づいて筆者の私見を述べるものである。 
3

た た ら 製 鉄 の 認 識 を 問 う

 直接法から出発した小アジアの原始製鉄は、その後原料や燃料の変化を伴って国や地域に独特な製鉄基盤を築いていった。
 何故技術の落差を生じたのかという社会学・人文学的な背景の考察が余り行われていない。
 鉄は国家の基盤を支えるものである。鉄文化の定着は気候風土、埋蔵資源、関連技術の熟成度、民族の知的レベル、そして社会や
 国家的要請(特に国防や戦争) 等が総合されたものである。就中(なかんずく)、社会・国家の要請が最大の要因となる。
 国産製鉄は大陸や朝鮮半島の鉄先進国から遙かに後退した稚拙な手法と規模で遅くに出発した。

  ● 鉄器の渡来から国産製鉄の開始までに1,000年もの長い時間を要した理由は何故なのか ?
  ● 原始零細たたらの開始から、1,200年もの間、製鉄の革新(間接製鉄=量産) が進まなかった理由は何故なのか ?

 これは、我が国の民力度・技術力が低かったからであろうか・・・? 
 必要とあらば、我が民族は巨大鋳造仏(大仏)を造立し、大仏殿・出雲の空中神殿等、世界最大の木造建築物を造った実績を持つ。
 技能・技術の勃興と発展は、自然に生まれるものではない。必ず社会・国家の要求が契機となって興(おこ)るものである。
 答えは一つしかない。
 室町期、日本の国情を調査した明の鄭瞬功は、「鉄はシャムや福建からの輸入に多くを頼っている」と述べている(日本一鑑)
 即ち、古代から江戸中期まで、ある時期を除き※1、潤沢な舶載鉄の流入に依って、鉄の国産化も、量産性の改革も社会的必要性
が殆(ほとん)ど無かったからに他ならない。永いタタラの歴史の中で、なぜ製鉄法の進化がなかったかの謎がこれで全て氷塊する。

 朝鮮半島の鉄利権消失※1→ 国産製鉄の勃興、対宋・対明交易・倭寇の隆盛 → 平安期以降のタタラの衰退※2、戦国期 → 商業タタラの出現、江戸鎖国による舶載鉄の払底 →「永代たたら」の出現など、「たたら」の興亡は常に対外交易と密接していた。

 ようやく出現した大規模「永代たたら※3」も、原始たたら炉の容積を物理的に大きくしたに過ぎず、革新的な製鉄法ではかった。
 江戸末期、国防と近代兵器の整備は外圧に屈しない為の喫緊(きっきん)の課題となった。
 然し、砂鉄の「和銑」は脆くて流動性が無く、鍋島藩で造った16門の大砲はことごとく破裂して使いものにならなかった※5
 鍋島藩は、密輸の南蛮鉄を使ってズクの粘性を解決した。
 幕末、西洋の科学知識を学んでいた南部藩の大島高任(たかとう)は「砂鉄原料のたたら銑鉄は脆弱で使えない※5。どうしても磁鉄鉱か
ら製錬した銑鉄でなければ鋳鉄砲は出来ない」と反射炉の建設を推進した。使用目的によって鋼材の評価は一転する。
 又、非効率な「たたら製鉄」は生産性でも対応出来なかった。
 鉄の生産量を確保する為にも、たたら製鉄法は不適であり、大島高任は高炉製錬法を強硬に主張した。
 水戸藩、薩摩藩などは蘭学を学んだ技術者を集め、この西洋の製鉄法を積極的に導入し、漸く大砲の製造に成功した※5

 我が国が近代製鉄の端緒についたのは安政(1854〜)の直前からだった。
 幕末から明治維新にかけて、たたら製鉄は社会・国家の要請に応えられなかった。
 社会の要請に寄与出来ない技術は、例え優秀な技術であっても社会的評価は得られない。
 若し、たたら製鉄から脱却していなければ、国防装備にも支障をきたし、日本は近隣諸国と同様に西欧列強の植民地になっていた
可能性もある。それでも尚、たたら製鉄は「世界に冠たる技術※3」と嘯(うそぶ)いていられようか。
 近代国家成立の根幹を支える鉄生産の中で、「たたら製鉄」に如何なる存在理由を求めれば良いのであろう※4
 たたら製鉄賛歌の声は日本刀と同様に世の中に横溢している。客観性を欠いたタタラ製鉄の認識は如何かと思われる。

   ※1 7世紀の朝鮮半島・白村江の敗北。 これが国産製鉄勃興の契機となった  ※2 平安時代の箱型製鉄炉遺跡の数は、奈良時代の1/5まで
     激減した
(穴澤義功論稿「考古学的に見た日本の製鉄遺跡の歴史」)。  ※3 その実態は技能的な稚拙製錬
   
※4 生産効率とコストは東郷ハガネの項参照  ※5 国産の石見銑(いわみずく)では珪素(Si)リン(P)が低く、且、たたら製錬は低温の為
     に元素の働きが鈍い。その為、低炭素がセメンタイトの白ズクになって極めて脆い。鉱石や洋鋼は
リン(P)を含み、珪素(Si)や炭素(C)の
     反応を促進して炭素を黒鉛
に変え、靱性を備えた鼠(ねずみ)ズクとなるその為には高炉などの高温製錬が必要だった。リン(P)は有害
     元素として嫌われるが、融点を下げ、溶鉄中の炭素(C)の活量を高める元素であるから,ねずみズク化にはSiと共に有効である。

4

製 鉄 格 差 の 疑 問

 我が国に多大な影響を及ぼしたと思われる大陸の鉄器文化の二つの流れも大きな疑問の一つである。
 中国・古代製鉄の特徴は小アジアの技術伝播を受け、短期に銑鉄(白銑・鼠銑)製造を開始し、鋳造鉄器を使用した事にある。
 前漢時代に、現代製鉄と同理論の「炒鋼法」が実用化された。
 これは、溶融還元された銑鉄を粒状に破砕して、耐火性の石灰質の粘土の炉に装入し、溶解させた銑鉄を木の棒で撹拌しながら
溶銑の炭素分を空気に触れさせ、空気中の酸素と化学反応を起こさせて二酸化炭素ガスにして放出除去するものである。
 撹拌を続けるに従って溶銑の炭素分は次第に減じて鋼に変化する。
 西洋で溶鋼炉が始まったのは14世紀からであり、炒鋼法と同じ原理のパドル製鋼法が開発されたのは18世紀になってからである。
 海綿鉄製錬や、我が国たたら製鉄のような直接法は固体に咬み込んだ鉄滓の除去と炭素量の調整を、非効率な物理的赤熱鍛打で
行わなければならない。炒鋼法は鉄滓を化学的に鉄から分離する造滓材や脱炭材まで使っている。
 銑鉄も鋼も液状で造るので、鉄滓などの介在物が容易に分離し、混じり物の少ない清純な鋼が大量に製造出来るようになった。
 ヨーロッパが溶鋼中の燐を石灰で除去する為に苦心して、塩基性耐火煉瓦を開発したのは19世紀に入ってからである。
 中国は驚くことに漢〜三国時代迄に近代的溶融冶金を確立していた。
 製鉄後進国の中国が、先進的な溶鋼技術を何故短期に確立できたのであろうか。それには以下の環境が要因となった。

  @ 古代から高度な製銅、銅器の鋳造技術を確立していた。
  A 製陶技術が発達して窪(くぼ)、通風装置燃料の改善などで既に高温の焼成温度(1,280℃以上と推定される)を確保していた。
  B 含燐鉄鉱石が多く、燐は溶鉱炉で鉱石の融点を下げ、鉱石の溶融が容易であった。
  C 石灰質の耐火粘土に恵まれて、早い時期から坩堝(るつぼ)や耐火煉瓦が発達していた。石灰は鉱石中の燐を除去する。
  D 薪・木炭に換えて、身近に産出する火力の強い石炭(燐を含まない無煙炭)を燃料に使えた。
  E 紀元1世紀には複動ピストン鞴が登場して連続送風を可能にした。これらの要素が相乗し、溶融冶金=鉄の量産を実現した。

 然し、遺跡の検証からこの技術は華北地方と河南地方のことであって、江南地方は全く違う海綿鉄の製鉄法だった。



 吉田光邦氏は「中国科学技術史論集」で「華北は火山岩系の磁鉄鉱、赤鉄鉱が多く、磁鉄鉱は融点が高い為に、炉は一層高温に向
かわなければならなかった。高温を得る為に各種送風装置が考案され、排(はい)という鞴(ふいご)を発明した。
 一方、河南、湖北では水成岩の赤鉄鉱、鏡鉄鉱、褐鉄鉱、砂鉄である。華北の磁鉄鉱に比して概して低い温度で還元できる。
 原始的な床型や竪炉で充分還元できた・・・と埋蔵資源の観点でこの差異を考察している。

 然し、江南地方が直接法の海綿鉄や塊錬鉄を中心に展開した理由は、埋蔵資源の視点だけでは納得出来ない。
 大陸は激しい離合集散の戦いを長期に亘り繰り返した。鉄製武器は国の興亡を決する重要な要素である。
 激しい争乱の中で、重要な製鉄法や武器の鍛造法も、捕虜や製鉄工人の争奪で相互に情報蒐集したであろう事は想像に難くない。
 江南の直接法は、海綿鉄・塊錬鉄を人力鍛練に依って鋼にしなければならない。大変効率が悪く量産には向かない。
 対して、華北・河南の溶融精錬は最も進化しており、銑で鋳造品が大量生産出来るし、炒鋼炉・反射炉で鋼も自在に製造出来る。
 製造コストも当然安い。江南では融点が低い赤鉄鉱、褐鉄鉱、砂鉄の溶融冶金が何故実現されなかったのであろうか。
 伝播技術の違いは製鉄開始時に影響を与えても、社会的要請から改良するのが当然と思われる。この点の疑問は残ったままである。
 我が国のたたら製鉄が、原始製錬から脱却出来なかった理由を解明する為にも、総合的な考察が必要と思われる。

 これに関連して、前記アフリカのマンダラ地方、インド中部では今日に至る迄、たたら製鉄に近似した原始製鉄が行われている。
 明治42年、朝鮮咸鏡北道富寧の南東にある抄河洞の輪域川の河原で、極めて原始的な製鉄現場が確認された。
 その方法は、河原に乾いた砂鉄を60p積み、その上に大量の薪を乗せ、一夜燃やし続けて翌日に鉄塊を拾い集める方法だった
 最も原始的な製鉄法である。弁韓・辰韓・新羅で製鉄の伝統を持つ国の話である。          京城の加藤灌覚氏の実見談
 我が国古代製鉄に深く関わる韓国のこの現代に於ける原始製鉄の風景は、我が国原始製鉄の謎を解く鍵を持つかも知れない。

5

先 入 観 の 陥 穽 (かんせい=おとしあな)

 日本は、砂鉄の埋蔵量が圧倒的に多い。だから、日本の製鉄は古代から砂鉄を使っていたとの先入観が強いようである。
 アジア各地からの渡来は太古の昔から連綿と続いていた。製鉄原料の選択は渡来人(移民)の経験に基づき選択された筈である。
 製鉄技術は保持者の生活防衛の為に秘匿されるのが普通であり、部族によって異なる製鉄原料が使われていて不思議はない。
 世界的に見て、身近で簡単に採取でき、且つ低温で還元する湖沼鉄 (リモナイト、褐鉄鉱など) は、原始の鉄原料として普遍的に
使われていた
 9世紀の欧州を席巻した古代北欧バイキングの武器原料として知られているのはその一例である。
 日本でも、昭和5年から終戦までの15年間、製鉄原料として八幡製鉄所などで使われ続けていた。
 ただ、簡便な炉で鉄ができる古代リモナイト製錬は、遺跡が残り難いという実証上の難点がある。
 その為に、日本考古学では湖沼鉄製錬を看過してしまった。先入観を拭い去ることが求められる。
 砂鉄が当然という前提は、現代感覚の誤謬(ごびゅう)といえる。
 こうした先入観が、遺跡の分析や我が国製鉄の開始時期に陰を落としていないだろうか。
( 湖沼鉄については「古代・褐鉄鉱製練の可能性」参照)
                     
「月の輪古墳」の製鉄原料論争が提起したもの
  
 製鉄原料を推定する指標は、細部に問題があるにせよ、砂鉄のチタン、鉄鉱石のマンガン、銅、リンであるのが定説となっている。
 ところが、朝鮮の黄海道には高含チタン磁鉄鉱石が存在し、南部の接触鉱床は屡々(しばしば)チタンを含んでいる事が知られている。
 月の輪古墳(岡山県久米郡柵原町飯岡)の鉄器の分析結果から、一人の研究者は遠隔地の山陽道の赤目砂鉄を想定した。
 他の研究者は、現地の鉄鉱石と川砂鉄の原料混用説を唱えた。柵原町は鉄鉱石と川砂鉄が産出する。
 後者は「チタンの確認をもって直ちに原料を国内の砂鉄とするのは素朴に過ぎる」と前者に反論した。問題は評価にあった。

 中国では紀元2世紀頃、銑鉄精錬の固体脱炭剤として鉄鉱石粉(粉鉱 = 砂鉄など)を同時に使用する事が知られている。
 日本の精錬炉の遺跡からも砂鉄が発見されている。精錬の脱炭材に砂鉄が使われていた。(「中世地鉄は銑鉄」参照)
 更に、我が国の原始製鉄で想定される1,000℃位の開放型の低温原始炉で、砂鉄のみの製錬が可能であろうか。
 砂鉄の平均粒度は50メッシュと言われる。H.C.Richardsonの実験に依れば、「原始的な開放炉では如何に通風を制御しても全砂
鉄作業は不可能である」と報告している。砂が消火材でもある事を想起すれば、この報告は一般論として肯(うなず)ける。
概1/50インチ
 砂鉄は炉内通風を阻害して、低い炉温を更に下げる結果となる。然も、砂鉄の含有チタンは製錬を阻害する要因である。
 古代では決して望ましい原料ではなかったのではないだろうか。
 又、古墳の年代から舶載鉄素材の可能性も考えなければならない。
 南部朝鮮、昌寧の鉄鋌(てってい)と月の輪古墳出土の鉄器が比較された。
 結果、月の輪鉄器固有の成分Ag.(銀)、Pb.(鉛)、Zn.(亜鉛)が確認された。この成分は柵原鉱山の硫化鉄鉱、磁硫化鉄鉱の成分と
 一致した。従って、柵原の鉄鉱石が砂鉄と共に製鉄原料、又は精錬工程で使われた事は先ず間違いないと言えよう。
 遠隔地の山陽道の赤目砂鉄説は、古代の重量物の運搬手段からしても必然性は無い。

 一方、鉄器の成分のみで製鉄原料は特定出来ない。
 製錬で原料が混用されたか、精錬で砂鉄が脱炭材として使われたか、別々の鋼材を鍛接したかが判らない為である。
 従来、「製錬遺跡」とされていた説が、最新の検証に依って「鍛冶又は精錬遺跡」と訂正されるケースが増えてきている。
 チタンの検出を理由に、始発原料が砂鉄との判断は早計であろう。砂鉄が脱炭材に使われれば当然チタン成分が鉄滓に残留する。
 「日本刀の地金」の項で法隆寺の古釘の成分の矛盾を述べた。
 これは異なる鋼材の鍛接で説明がつくが、同一試料片にも矛盾が起こり得る話である。
 前記したように、原始砂鉄製錬の困難さ、原材料混用の可能性、舶載素材との関連まで含めて総合判断が必要になる。
 製錬、精錬滓の成分結果だけで、始発原料が鉄鉱石か砂鉄かという単一原料を前提とした推測は危険と言わなければならない。
 日本刀神話と同様に、考古学、自然科学の分野でも、我が国は古代から砂鉄製錬だったとの思い込みが強すぎるように思える。
 

製 鉄 開 始 時 期

 遺跡の確認は大変重要である。然し、6世紀後半以前に製錬炉が発見されないからといって弥生期に国内製鉄が無かったという事
 にはならない。
 遺跡が確認出来ていないという丈のことに過ぎない。
 日本全国が隈無く発掘された訳ではないし、例え製鉄が行われていたとしても、原始湖沼鉄製錬や、先述した韓国の例に見られる
ような極めて稚拙な遺跡はその痕跡すら残り難いであろう。
 製鉄に関する古文書は幾つもある。これらも重要な傍証である。
 従って、古代製鉄の推論は、遺跡の実証と文献史学の均衡の中で見い出す他はない。
 大和6号墳の鉄鋌(てってい)の鉄素材輸入説と国産説の論争も、製鉄開始時期とその製鉄法に深く関わっている。
 それが特定出来ずに議論をしてもあくまで仮定の話にしか過ぎない。
 

日 本 刀 の 構 造


 古墳出土の鉄戈・鉄剣などに硬・軟鋼の合わせがある。これに後代の皮・心鉄構造と同様の解説がなされている。
 若しそうであれば、後に現れる古刀の一枚構造や割刃鍛えはそれより後退した刀という事になる。
 ここにも現代の先入観が働いていないだろうか。
 俵国一博士は「日本刀の科学的研究」の中で古代刀の皮鉄を「化粧金」と表現されている。将に卓見と言える。
 古代刀の硬・軟鋼の合わせは強度保持の目的以外の理由によるものではないだろうか。この件は以降の各々の項目で触れる。



  2013年9月1日より 無料カウンター 直接ご訪問(経由を除く)
ページのトップ

異説・たたら製鉄と日本刀目次  日本刀の地鉄  中世地鉄は銑鉄 弥生〜古墳時代の製鉄と刀剣 →