古代の製鉄事情 | 日本刀の地鉄 | 異説・たたら製鉄と日本刀目次
|
左図は、鳥取県・鷺山古墳の壁に描かれた双胴船の線刻図である。和船なの か大陸からの渡来船なのかは不明。他にも、古墳壁画や、土器にも船の線刻 図が複数発見されている。渡来船の可能性が高い。 右写真は、インドネシア・マカッサル博物館展示の復元模型。 |
3世紀(邪馬台国の時代)の中国の古書「南州異物志」に、「人間 700人と260トンの積荷を運ぶ」との記述あり 当時の中国は、風力を動力(帆)に使い、造船技術は世界の先端に あった (邪馬台国時代の日本の総人口は推定50万人) 13世紀のジャンク船には600トン以上の船があり、平安時代の日本 の人口は500万人だから、今の人口比で船の大きさを換算すれば、 15,000トンに匹敵する巨船となる 倭国や東鯷国から盛んに朝貢していたので、当然、それなりの船が 日本に存在していた。官よりも民間交易の方が遙かに活発だった 現代の我々が想像する以上の環シナ海交易が行われていた |
弥生時代中〜後期の頃、楽浪文化が我が国に流入した。 紀元57年、「後漢書」東夷伝に「倭奴(いど)国王は後漢に使者を送り光武 帝から印綬(漢委奴國王)を受けた」とある。 又、「107年、倭国王師升(すいしょう)等は後漢に使者を送った」と記す。 後漢の末期、遼東大守の公孫氏は楽浪郡を支配してその南部に帯方郡 を置いた(A.D205年)。 後漢書によれば、倭の女王卑弥呼はこの帯方郡を通じて公孫氏と外交関 係を持っていた。 220年に後漢が終わり、中国は魏・呉・蜀の三国時代となる。 239年、邪馬壹国の女王卑弥呼は魏に使者を送り銅鏡100枚を受ける。 翌年、帯方郡使が「親魏倭王」の金印を卑弥呼に届けた。 |
七 支 刀 372年、百済の近肖古王は東晋に遣使した。6月に「鎮東将軍領楽浪大 守」に封ずる冊封使を迎え「七支刀」が下賜された。 これは東晋で369年に鋳造され「百兵を辟(しりぞける)」という道教的呪文が 刻まれていた。朝鮮半島での復権を望む東晋の願いだった。 百済王はこの七支刀を早速「模造」して新たに銘文を象嵌(ぞうがん)し、 使者を倭国に送った。同盟への参加を求め「この刀は百済西方の谷那鉄 山(こくなてつのむれ)の鉄で造った。これを献上して両国の誼(よしみ)を固めた い」と複製七支刀を倭王に献呈した。 これが石上(いそのかみ)神社に伝わる「七支刀(ななつさやのたち)」 である。 |
山陰の遺跡数が少ないが、昭和59年に発掘された荒神谷遺跡から358本の大量の 銅剣が発掘され、出雲に強大な部族が存在していたことを示す |
鉄器の種別による比率
武器(鉄剣・鉄鏃)の出土は 九州が112件、近畿は24件で、 九州が他を圧倒する 武器は部族の勢力をそのまま 反映するので、九州に強大な 勢力があったことを示す |
← 異説・たたら製鉄と日本刀目次 日本刀の地鉄 中世地鉄は銑鉄 | 弥生〜古墳時代の製鉄と刀剣 → |