戦史 戦艦大和ノ最期 (3) 0
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戦後日本は変わり得たか
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「戦艦大和ノ最期」 改 稿 の 軌 跡 と 戦 後 附:再び報道に就いて
改 稿 の 軌 跡
1.初稿(原文=初出テクスト)
終戦後、著者は両親の疎開先(東京都西多摩郡)に復員した。
人生の再出発を模索していた時、父親の知人で、近くに疎開していた作家の吉川英治を訪ねる。
著者は初めて「大和沈没」の自らの体験を訥々(とつとつ)と語る。
端座・瞑目してそれを聞いた吉川は、胸の奥から絞り出すようにして、「その体験を貴君は必ず書かなければならない。
第一に、それは自分自身に対する務めであり、もう一つは日本人の仲間に対する務めである」と答えた。
『魂をつき揺るがすような情動を覚えたのは、この時である。
「戦艦大和ノ最期」は、その夜、一気呵成(かせい)に書き上げた』と著者は述べている。昭和20年秋の事であった。
「戦艦大和の最期」(゛の゛はひらがな) 副題: 天号作戦に於ける軍艦大和の戦■経過(■は闘と思われる欠字)と題されていた。
これは現在流布している再稿版に比べてかなり短文である。駆逐艦名などにも明らかな記憶違いがある。
一夜で書き下ろされた原文だから、誤記、記憶間違いは当然と云えよう。この原文の終わり近くに下記の記述がある。
「・・・・戦友多キウチ我ヲ別チ再ビ天光ニ浴セシメタルモノ何ゾ、彼等終焉ノ胸中果シテ如何、虚心ナシ・・・」
ここで記された「彼等終焉ノ胸中果シテ如何」とは、多くの戦友の中で生死を分けたものは何か? 自分に生を与えたものは何か?
一瞬にして幽明を異にした戦友はどう思っているだろうか? という意味である。
改稿版の結語に使われた意味とは全く内容が違う。この初稿の写しは関係者の間で閲覧された。
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2.雑誌「創元」第一輯(昭和21年・1946年・12月発行)に掲載予定の初稿、発禁処分
昭和21年4月、この時、既に日本銀行に勤めていた吉田満のもとを作家で評論家の小林秀雄※1が訪ねた。
吉田はこの男に心当たりは無かったが、「自分たちが主催する雑誌に貴方のこの原稿を掲載したい」と言う小林の申し出を了承し
た。
小林が持参したのは著者が昭和20年秋、大学ノートに書き下ろした初稿の「戦艦大和の最期」その物であった。
占領下、GHQの言論統制は凄まじかった。
発刊される前にGHQの検閲を受け、「軍国主義的」という理由で、原文の部分削除・改変では無くて、全面削除の発禁処分となった。「GHQに依る言論統制は、日本軍の検閲とは比較にならないほど厳しいものだった」と著者は後で述懐している。
※1 小林は「戦艦大和の最期」を出版する為に、かの白洲次郎を訪ねてGHQへの説得を依頼した。白洲次郎は文学等に一切興味が無かったが、
熱心にこの本の必要性を説く小林の熱意に心を動かし交渉を引き受ける。然し、白洲をもってしてもGHQの説得は不可能であった
白洲の人の評価基準は「無私、大局観、国家の事を考えているか」であった。以来、小林との親交は生涯続く。
敗戦後、自信を喪失した政治家・官僚・国民が占領軍に卑屈に成り下がっている中で、白洲次郎は日本人の矜持を貫き通した数少ない
傑物である。
天皇陛下からの贈り物を粗略に扱おうとした時の最高権力者GHQのマッカーサー元帥を怒鳴りつけて謝らした事や、英語を流暢に操る
白洲は、サンフランシスコ講和条約の日本演説原稿を英語で書いた外務省に激怒して「日本人の演説は日本語で行え」と日本語に書き
直させた事等多くの逸話を残している。
大戦前、英国へ仕事で渡航する際に同船した日本駐在武官に、政治に関与する軍人をあけすけに批判した。
当時としては勇気の要る行為だった。
英国滞在の白洲次郎は吉田茂英国大使 (戦後外相、首相) と親交を結び民間人でありながら英国の日本大使館に起居していた。
戦後、吉田茂の要請で日本の外交、国内産業の復興に尽力。戦後占領下の日本で多大な功績を挙げた。
日本戦後史で異彩を放つ白洲次郎は意外な事に余り日本人には知られていない。
これは「無私無欲」からくる彼の人柄に依るものかも知れない。
彼のような気概ある政治家、官僚が戦後の日本に居たならば、今日の日本の荒廃は無かったであろう。
日本人の誇りを身につけた男だった。この偉大な日本人の記録として、青柳恵介著「風の男 白洲次郎」(新潮文庫)がある。
その後、著者の知人を経由してキリスト教日本人神父にこの初稿が読まれ、その神父に呼ばれた事を契機に急速に神父に傾倒して行
く。
その神父を師と仰ぎ、クリスチャンとしての洗礼を受ける。昭和23年頃の事である。
3.口語体小説「軍艦大和」(昭和24年、雑誌「サロン」)発行
占領軍GHQの厳しい言論統制に一矢報いようと関係者が画策して、GHQの検閲をすり抜ける為に十数カ所を削除し、文語体を口語体
に改めた小説「軍艦大和」が雑誌「サロン」に掲載された。
「サロン」とは、戦後に流行った肉体雑誌と謂われる次元の本であった。
著者は「不本意な形」と後に述べている。ここに筆者の最初の挫折をみる事が出来る。
4.「戦艦大和ノ最期」(昭和27年・1952年2月、創元社版)発行
昭和26年(1951年)9月8日,日本はサンフランシスコで対戦国との講和条約に調印した(翌27年4月28日発効)。
占領政策が終結して日本の独立が回復された(実態は形式に過ぎないが)。この時機にタイミングを合わせて本稿が出版された。
著者はこれを「初版」と位置づけた。初版あとがきに次の様に記している。
「この作品の初稿は、終戦の直後、ほとんど一日を以て書かれた。執筆の動機は、・・・・・戦争のもたらしたもっとも生々しい体験
を、ありのままに刻みつけてみることにあった。・・・こうした気持ちで、筆の走るままに書き上げたのである。
その後、自分以外の人の眼に触れる※必
要から、数度にわたって筆を銜(くわ)えた。その最終的な形が本稿である」。
※ 昭和21年、初稿は雑誌「創元」に掲載予定だったからこの言葉は欺瞞と云える
5.「鎮魂戦艦大和」(昭和49年12月8日、臼淵大尉の場合、祖国と敵国の間、戦艦大和ノ最期の合冊)講談社発行
著者のあとがき
「戦艦大和ノ最期」は講和条約の発効した昭和27年、はじめて本来の内容をもって発刊された。
このたびさらに20余年をへて再刊されるにあたっては、その後に公刊された戦闘詳報、戦記等を参照し、不正確な記述、公式記録の引
用に増補修正をほどこして決定稿とした」と述べている。著者は「散華の世代」の代弁者としての地位を確保した。
この本に序文を寄せた江藤淳※1は、「数百年の後にも、金石の文字をもって刻んだというにふさわしい唯一つの作品であり、叙事詩的作品」と最大の賛辞を述べている。
※
本名江頭淳夫、慶大文学部英文科卒。在学中『夏目漱石論』で気鋭の評論家として注目される。東工大、慶大教授、文藝家協会理事長歴任。
戦後日本を代表する文学者、文藝評論家。代表作『成熟と喪失』は戦後日本文学を読み解く重要文献として重要視されている。
1999年7月病に冒され66歳で自決。
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初 稿 の 発 見
然し、江藤淳は、吉田満著「戦艦大和の最期」の初稿(初出テクスト)をメリーランド大学附属マッケルディン図書館のプランゲ文庫
で発見した。江藤淳は、ロックフェラー財団の招きで渡米、プリンストン大で1963年〜1964年の2年間教鞭を執った経験がある。
「決定稿」に序文を載せた後である。
江藤淳がこの「初稿」を読んだ時の驚きと落胆は想像に難くない。
彼のその後の著作が其れを明らかにしている。
彼が、この「初稿」の存在を事前に知っていたら、昭和49年の「鎮魂戦艦大和」の賛辞の序文は決して書かなかっただろうし、書いて
もその表現は変わったものになっていた筈である。
江藤淳は「閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本」などで、GHQによる戦後日本のマスコミへの検閲、GHQの呪縛から脱却できな
い戦後民主主義※2を鋭く批判した。
アメリカが日本での言論検閲を如何に準備し、如何に執拗に実行したかを論証し、「日本の言語空間に自由はない」と痛烈な警鐘を鳴
らしている。
江藤は「落葉の掃き寄せ」(文芸春秋社発行昭和56年11月25日第一刷)の中に、初稿「戦艦大和の最期」を掲載した。
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江 藤 は 言 う
江藤は『「戦艦大和ノ最期」初出の問題』で言う。
吉田満の最初の敗北は昭和24年の小説「軍艦大和」であった。米軍への賞賛の言葉まで挿入されている。
著者は決定稿の作成段階で「記憶の誤り」程度の修正はしたと云うが、実はそれ丈ではない。
著者は更に敗北を深めていった・・・と。
講和条約成立後、「戦艦大和ノ最期」の結語は「初稿」に戻れた筈なのに、何故か改稿のまま押し通された。
日本は物理的敗北をした丈ではない。戦後更に、精神的敗北という二度目の敗北を重ねてしまった。
吉田満は、昭和27年(初版)・昭和49年(決定稿)のあとがきに「本来の内容」・「事実の記述」を殊更強調している。
これこそ著者の欺瞞であり、著者の変心を雄弁に物語っている。著者は「初稿」が没収された事で、「初稿」が再び人目に触れる事が
無いと判断してそう書いたのであろう。初稿と改稿版を比較するとその差は歴然としている。
著者が言う「事実」とは、昭和27年・昭和49年に於ける「著者の変心の上に成り立った事実」であって、決して「大和沈没時の事実」
で無い事は明白である。
本来あるべき「戦艦大和ノ最期」(初稿)の異形版(再稿版)に接してきた私たちは、著者とともに「敗北」のみを獲得し続けてきたのではないか・・・と。
「いったい人は、他人が書いた物語(GHQ制定憲法とその拘束)のなかで、いつまで便々と生き続けられるものだろうか ?
むしろ人は、自分の物語を発見しつづける手応えを喪失し、他人の物語をおうむ返しに繰り返しはじめたとき、人は実に生きる屍に
なり下がり、なにものをも創ることができなくなるのではないだろうか。・・・・」 (「落葉の掃き寄せ」より)
江藤淳が戦後日本人に問いかけたこの言葉の意味は重い。私が「戦艦大和ノ最期」の改稿に拘った所以でもある。
※2 関連推薦書:、藤原正彦著「国家の品格」(新潮社)
戦後日本の自由・民主主義の愚かしさと虚構を平易に且つ明快に浮き彫りにした日本人必読の書
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戦 後 日 本 は 変 わ り 得 た か
再び「報道」に就いて
戦前、戦中の新聞紙面を見ると、その誇張された見出しと内容は三文小説も顔負けするようだ。
その大時代的な表現は寧ろ滑稽でさえある。新聞社は販売部数の拡大に躍起となり、国民も面白可笑しい内容を歓迎した。
昭和13年と言えば、国家非常時体制が叫ばれて、日本は泥沼の戦争に突入していた。
肉親を戦場に送り出した家族は、その身を案じて戦況の推移に多大な関心を持っていた。新聞社にとっては恰好のネタ材料だった。
新聞社はこぞって戦意昂揚の記事を誇張して掲載し続けた。世論もそれに沸いた。
新聞社のそうした姿勢と、それを面白がる読者を冷静に批判する人達もいた。「新聞は戦争を劇化する」という見出しで、端的にその
実態を述べている。
新 聞 は 戦 争 を 劇 化 す る
「大体新聞がヨタリすぎる。読者もまた寄席気分でそのヨタ記事を歓迎している。殊に戦争記事はこれだ。
現地方面では、寧ろ憤慨の傾向にあるとか。
突撃戦である。腰の一刀を引き抜き、支那軍塹壕へ斬り込むのだ。真甲(ママ)唐竹割。えゝとばかり打ち下ろせば、敵もさる者、両手
で鉄砲を握り、はっしと受けた。だが、日本刀の切れ味を見よや、新聞記事だと、鉄砲もろとも頭が真っ二つ !
といったあんばいでは、講談師はだしだ。
戦争は高座じゃないぜ」 (これは東京日々新聞の、向井、野田両少尉の百人斬り報道を痛烈に皮肉ったもの)
(「文藝春秋」昭和13年2月号)
新 聞 社 の 実 態
毎日新聞は平成元年(1989)3月に発刊した「昭和史全記録」で、昭和12年の向井、野田両少尉の「百人斬り競争」は新聞記者の捏造記事であったと記述した。
然し、今般行われた「百人斬り冤罪裁判」では、原告にこの件を糺されると「誰かが勝手に書いたもので、毎日新聞は知らない」とい
う驚くべき主張を展開した。自ら刊行した資料の内容を知らないから責任は無いというのだ。先ず、知らない筈は無い。
仮に本当に知らなかったのなら、別の大変な問題を提起した事になる。
都合の良い事は自分の手柄にし、都合が悪くなると他人に責任を転嫁するという誠に卑劣な姿勢が浮かび上がる。
こんな稚拙な嘘が通用するとでも思っているのだろうか。幼児の嘘でももっとましなことを言うだろう。
これに加えて、毎日新聞の代理人(著名な弁護士)が当該法廷で驚くべき証言をした。
「新聞に事実を報道する義務はない」と・・・。
これも「弁護士が勝手に言ったことで関係ない」と嘯(うそぶ)くのであろうか。
「新聞に事実を報道する義務はない」・・・・・。
報道機関の最も基本的理念を自ら放棄したこの言葉を国民は充分に噛みしめておかなければならない
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報 道 と は 何 か
「戦艦大和ノ最期」の報道
4月7日付朝日新聞「天声人語」が前記軍刀による残虐行為を史実として採り上げた事が、長く沈黙を守ってきたサイレントネービー
(必要以外は喋らない=不言実行の海軍) の士官に真実の証言をさせる切っ掛けになった。
無責任な情報を垂れ流した朝日新聞が「藪を突いて蛇を出す」結果になった。
戦中、大本営発表(戦後は嘘の代名詞となった)に勝るとも劣らない軍部の提灯記事や捏造記事を、販売部数拡大の為に平然と書き、国民への戦意昂揚を煽った代表的A新聞社は、戦後一変して全ゆる反日報道を全力で流し続けている。
日本の過去を「全て悪」と言い募り、その糾弾を生き甲斐としているようだが、その「悪」と称するお先棒を担ぎ、積極的に煽ったの
は何処の新聞社だったのだろうか。
自社が行った戦前の軍部への迎合提灯記事や大本営発表も顔負けする戦意昂揚の煽り記事の責任を総括して国民に詫び、本来の報道機
関に立ち戻るのが先決ではないのか。
社会の公器と自惚れるからには記事に責任を取るというのは不可欠の条件である。
真偽の検証もせず、責任も取らず、何処かの国の都合の良い一方的偏向情報を垂れ流す体質は報道機関とは云えない。
平然と日本に難癖をつけ、自国民やチベット民衆を大量に粛正殺害している近隣軍事大国の事実などはどうして報道しないのか ?
その国が行う事は全て「正義」と思っているのか ? それとも彼の国の出先機関なのか ?
日本の終戦間近、日ソ不可侵条約を一方的に破り、満洲に侵攻して日本民間人に暴虐の限りを尽くし、60万人の日本軍将兵をシベリア
に強制連行して虐待し、6万人を虐殺したソ連は「正義」なのか ?
終戦後も、千島列島で日本軍を攻撃し続けたソ連は全て正しいのか ?
焼夷弾の無差別爆撃や原爆で、市民数十万人を大量殺戮した米軍の行為も「正義」と云うのか。
全てそれらを「日本の旧悪を言い募る」事で相殺しょうとでも言うのであろうか。
是非聞かせて貰いたいところである。
「報道の自由や知る権利」を声高に主張する資格など全く無い。
ましてや報道機関を自負する等は笑止の限りと言わざるを得ない。プロパガンダの単なる発信基地に過ぎない。
朝日新聞の「天声人語」の記述に関し、百歩譲って軍刀の手首斬りがあったと仮定しょう。
その部分の引用では「危険状態ニ陥ル、更ニ拾収セバ転覆避ケ難ク、全員空シク海ノ藻屑トナラン・・・・セメテ、スデニ救助艇ニア
ル者ヲ救ワントノ苦肉ノ策ナルモ、・・・」という重要な記述を意図的に削除し、軍刀に依る「手首斬り」だけを抽出して「残虐性」
のみを読者に印象づけようとした事は明らかである。
これがプロパガンダ(煽動)でなくて何であろうか。
省略された記述が有るか無いかに依って「手首斬り」は単なる残虐行為では無く、全く違った解釈を生じる事になる。
組織や人は「極限の状況」に陥って、ある「非情の決断」を迫られる事は充分に有り得る話しである。
「戦争」が持つ悲惨・非情・不条理は誰しもが解っている。
その戦争の是非を云わんが為に、国を信じ、国に殉じた将兵を冒涜する事で議論をすり替えようと云うのか。
この新聞社には戦前・戦中の教訓や反省が何一つ生かされていない。
マスコミ報道の本質は、戦前・戦中も現在も何一つ変わっていない。
こうした姿勢の新聞社やマスコミが今日の日本の社会の荒廃、教育の荒廃に大きく寄与した事だけは確かである。
長い沈黙を破って、今日の偏向報道に立ち向かわれた松井一彦さんの勇気ある発言に声援を送りたい。
本来、当たり前の事なのだが、発言を躊躇せざるを得ない異常な世相の雰囲気が戦後の現実であった。
自分たちの意に反する人達に、言いたい事さえも言い難い世論を作り上げ、世論操作をしたのはマスコミである。
「道徳」と言えばすぐに「反動」と云い、「国の自立や国防」を言えば直ぐに「右翼」のレッテルを貼り、軍国主義・戦争に直結する
とヒステリックに大騒ぎする。
この短絡的で何の議論の介在も許さない硬直した考え方は戦前の「暗黒の思想統制」と同質のものである。
軍や政治を少しでも批判したり、良識の発言をしたら無条件に「赤」の烙印を押されて迫害された戦前の状況と、戦後から今日に至る
迄の世相の状況の何処に相違があると言えようか。単に針が右から左に振れているだけである。
憲法問題や国の安全問題に触れるだけで罷免された政治家・閣僚の話はつい昨日の出来事である。
幸いにしてここ最近、国民の意識変革の兆候が急激に且つ鮮明に現れ始めている。
終戦前、現在死語となっている「国賊・売国奴」という言葉が在った。
国民が自虐史観の呪縛から解き放され、心と魂の敗北を了(お)わらせた秋(とき)、この言葉は現実味を帯びて蘇生するのではあるまい
か。
「国益」という言葉が使われ始めたのは極めて最近である。今までは口にも出せない世相の雰囲気と言葉であった。
「国賊・売国奴」とは、国家及び国民の利益に反する組織又は個人を指す。「国益」と密接不可分の言葉である。
国民はそれほど愚かでは無いという事に彼の新聞社はそろそろ気が付くべきであろう。
2013年9月13日より
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