戦史 「戦艦大和ノ最期」(2)  0
救助艇状況の検証

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救助艇指揮官「戦艦大和ノ最期」の虚偽を明かす

  (産経新聞掲載記事)
吉田満著書 乗組員救助の記述 戦艦大和の最期 残虐さ独り歩き
救助艇指揮官「事実無根」

 戦艦大和の沈没の様子を克明に記したとして新聞記事に引用されることの多い戦記文学『戦艦大和ノ最期』(吉田満著)の中で、
救助艇の船べりをつかんだ大和の乗組員らの手首を軍刀で斬(き)ったと書かれた当時の指揮官が産経新聞の取材に応じ、「事実無根
だ」と証言した。
 手首斬りの記述は朝日新聞一面コラム「天声人語」でも紹介され、軍隊の残虐性を示す事実として“独り歩き”しているが、指揮
官は「海軍全体の名誉のためにも誤解を解きたい」と訴えている。

 『戦艦大和ノ最期』は昭和二十年四月、沖縄に向けて出撃する大和に海軍少尉として乗り組み、奇跡的に生還した吉田満氏(昭和
五十四年九月十七日、五十六歳で死去)が作戦の一部始終を実体験に基づいて書き残した戦記文学。
 この中で、大和沈没後に駆逐艦「初霜」の救助艇に救われた砲術士の目撃談として、救助艇が満杯となり、なおも多くの漂流者
(兵士)が船べりをつかんだため、指揮官らが「用意ノ日本刀ノ鞘(さや)ヲ払ヒ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ
捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス」と記述していた。

 これに対し、初霜の通信士で救助艇の指揮官を務めた松井一彦さん(80才)は「初霜は現場付近にいたが、巡洋艦矢矧(やはぎ)の救助にあたり、大和の救助はしていない」とした上で、「別の救助艇の話であっても、軍刀で手首を斬るなど考えられない」と反論。
その理由として

 (1)海軍士官が軍刀を常時携行することはなく、まして救助艇には持ち込まない
 (2)救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない
 (3)救助時には敵機の再攻撃もなく、漂流者が先を争って助けを求める状況ではなかった−と指摘した。

 松井さんは昭和四十二年、『戦艦大和ノ最期』が再出版されると知って吉田氏に手紙を送り、「あまりにも事実を歪曲(わいきょく)するもの」と削除を要請した。
 吉田氏からは「次の出版の機会に削除するかどうか、充分判断し決断したい」との返書が届いたが、手首斬りの記述は変更されな
かった。
 松井さんはこれまで、「海軍士官なので言い訳めいたことはしたくなかった」とし、旧軍関係者以外に当時の様子を語ったり、吉
田氏との手紙のやり取りを公表することはなかった。

 しかし、朝日新聞が四月七日付の天声人語で、同著の手首斬りの記述を史実のように取り上げたため、「戦後六十年を機に事実関
係をはっきりさせたい」として産経新聞の取材を受けた。
 戦前戦中の旧日本軍の行為をめぐっては、残虐性を強調するような信憑(しんぴょう)性のない話が史実として独り歩きするケースも少なくない。
 沖縄戦の際には旧日本軍の命令により離島で集団自決が行われたと長く信じられ、教科書に掲載されることもあったが、最近の調
査で「軍命令はなかった」との説が有力になっている。
 松井さんは「戦後、旧軍の行為が非人道的に誇張されるケースが多く、手首斬りの話はその典型的な例だ。
 しかし私が知る限り、当時の軍人にもヒューマニティーがあった」と話している。

 『戦艦大和ノ最期』
 戦記文学の傑作として繰り返し紹介され、ほぼ漢字と片仮名だけの文語体にもかかわらず、現在出版されている講談社文芸文庫版
は10年余で24刷を重ねる。英訳のほか市川崑氏がドラマ化、朗読劇にもなった。
 昭和21年に雑誌掲載予定だった原文は、連合国軍総司令部(GHQ)参謀2部の検閲で「軍国主義的」と発禁処分を受けたため、吉田
満氏が改稿して27年に出版したところ「戦争肯定の文学」と批判された。
 現在流布しているのはこの改稿版を下敷きにしたもの。
 原文は米メリーランド大プランゲ文庫で故江藤淳氏が発掘し、56年刊の自著『落葉の掃き寄せ』(文芸春秋)などに収めている。
 
 戦記「戦艦大和ノ最期」の記述 吉田氏「事実明白でない」 反論の指揮官に返書
 松井さん「手首斬りなかった」
 戦記文学の名著とされる『戦艦大和ノ最期』の手首斬りの記述は、昭和二十一年に発禁処分となった原文には含まれていないこと
が分かった。三十八年前には、著者の吉田満氏(故人)が漂流者の手首を斬ったとされる救助艇の指揮官の反論を受け、事実関係に
ついて「明らかでない」とする手紙を送っていたことも判明した。
 沈没した大和から奇跡的に生還した吉田氏が『戦艦大和ノ最期』を最初に書き上げたのは昭和二十一年。
 雑誌に掲載しようとしたところ、連合国軍総司令部(GHQ)から「軍国主義的」と発禁処分を受け、改稿のうえ、二十七年八月にようやく出版された。
 ところが、二十一年の原文と二十七年以降の出版本を見比べると、出版本の後半部分にある手首斬りの記述が原文にはなく、
大和を護衛した駆逐艦のその後の行動が簡単に説明されているだけだった。
 手首斬りの記述は、「軍国主義的」との批判を払拭(ふっしょく)するためあえて挿入された可能性もあるとみられる。

 吉田氏はこの部分の記述について、事実と断定できないとも認識していたようだ

 昭和四十二年、救助艇指揮官の松井一彦さん(80才)が「手首斬りは事実無根」と反論したのを受け、返書の手紙を送付。
 「どこまでが『物理的』事実であったか、それは何びとにも明らかではない」と弁明していた。ただ、「自分がその時得た事実を
意識して歪めたり誇張したりしなかったことは確信できる」とし、問題の記述については「(残虐とか非人道的とかの問題ではなく)あのようなことがあり得るのが現代の戦争の特質であり、それが個人の良心や責任を超えた非情のものであることを描いた点で一つの意味があった」と説明した。
 その一方、「当事者の一人として、(手首斬りが)事実でなかったという立場から抗議をされる気持ちも今の状況からみれば大変
よく分かる」とし、「次の出版の機会に削除するかどうか、私の立場と考え合わせながら充分判断し決断したい」としていた。
 松井さんは手紙のやり取りについて、「救助艇に日本刀を携行するなどありえないと具体的に指摘したつもりだが、明確な返答がなかったのは残念だった」と振り返る。
 当時の状況については「目を負傷した兵士が不安になって『助けて』と叫んでいたほかは、みんな海軍将兵らしく、静かに救助の
順番を待っていた。救助艇は何回も往復し、見渡す限り全員を救助した。手首斬りのような修羅場はなかった」と改めて訴える。

 松井さんは大和沈没後、より危険な特殊潜航艇への乗船を志願し、同艇長で終戦を迎えた。戦後は東大に入学し直し、司法試験に
合格、弁護士として活躍してきた。
 今回の証言について「戦前戦中の出来事を全否定するあまり、当時の人間性まで歪められて伝えられることが多い。
 本当にそうなのか、考え直すきっかけになれば」と話している。

      文藝春秋8月号208pに「戦艦大和ノ最期」60年目の証言として松井一彦さんのより詳しい証言が掲載されています。
       7ページに渡り、救助の状況と吉田満氏との遣り取りが大変詳しく記述されています。上記新聞は簡略ですから、こちら
       を読まれる事をお薦めします。松井中尉が指揮した救助艇が内火艇であった事が明らかになりました。


戦艦大和の最期 「爆沈…今もまぶたに」松井さん

 バーンという大音響、舞い上がる火柱、空中に吹き飛ぶ将兵ら…。駆逐艦初霜の通信士、松井一彦さんが目の当たりにした戦艦大
和の最期は、壮絶なものだった。一瞬にして三千人の命が道連れとなった光景は、「今もまぶたに焼きついて離れない」という。
 松井さんは昭和十九年九月、海軍中尉で初霜に乗り組み、二十年四月六日、大和とともに沖縄突入作戦に出撃した。
 しかし、七日午後零時四十一分、米軍機が攻撃をしかけ、二時間にわたる死闘が展開された。
 戦闘中、初霜は大和の右斜め後方千五百メートルの位置で護衛に努め、甲板上の松井さんは、戦闘の一部始終を悲痛な思いで見つ
めていた。
 雲の切れ間から米軍機がパッ、パッと現れ、「雲の中に敵機が充満しているようだった」と振り返る。
 大和の周囲にいた駆逐艦などが魚雷や直撃弾で相次いで沈没するなか、大和は十本前後の魚雷と四発の直撃弾を受けても航行を続
 け、「不沈戦艦の名に恥じない威容だった」。しかし、午後二時ごろから、左の傾斜が激しくなった。
 最期が近づいていることは誰の目にも明らかだった。敵機も攻撃の手を緩め、上空で様子をうかがっている状況。
 そんななか、雷撃機がすうっと下りてきてとどめの魚雷を放った。
 左舷に水柱が上がった。大和はほとんど横倒しになり、赤い船腹の上に無数の将兵がはい上がるのが見えた。
 その時、船体の中央で大爆発が起こり、将兵らが吹き飛んだ。爆風は松井さんにも届き、顔面に強烈な熱気を感じた。

 松井さんは連合艦隊司令部に「大和、更ニ雷撃ヲ受ケ、一四二三左ニ四五度傾斜シテ誘爆、瞬時ニシテ沈没ス」と電報を打った。
 乗員三千三百三十二人中、救出されたのはわずか二百七十六人だったとされる。
(以上、産経新聞平成17年6月20日朝刊)



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「戦艦大和ノ最期」の手首斬り

救 助 艇 を 検 証 す る


 艦艇搭載の舟艇は「短艇」と呼ばれ、「機動艇」と人力による「橈艇」(カッター)・「櫓艇」(伝馬船)がある。
 機動艇の内、内燃機関を主動力とする短艇を「内火艇」と総称する。
 帝国海軍の艦艇は「軍艦=艦首に菊の御紋章が付く」(戦艦、航空母艦(空母)、一等(重)・二等(軽)巡洋艦・・・・・)、「補助艦艇」(一等・二等駆逐艦、一等(伊號)・二等(呂號)潜水艦・・・)、「特務艦艇」の種別に依って艦載舟艇の大きさと搭載隻数が各々
異なる。(昭和16年時点)

 一等駆逐艦の艦載標準短艇は「7.5メートル内火艇」と「7メートル橈艇=カッター」である。      各6m短艇搭載の例もある



 7.5m内火艇。30馬力のガソリンエンジン推進。
 最大23人搭載。
 この他に6m内火艇、「長官艇」「艦載水雷艇」等大小
 各種内火艇がある

両舷8挺の櫂(オール)で漕ぐ搭載人員28名の7mカッター
舵を握る艇長、「艇指揮」、漕手で操船する
この他12挺、6挺(6m)のカッターがある

「天一号作戦」 (沖縄水上特攻) では戦艦「大和」、軽巡「矢矧」、駆逐艦「朝霜」・「磯風」・「浜風」・「朝霜」・「霞」沈没、駆逐艦「涼月」大破、残存駆逐艦は「冬月」・「雪風」・「初霜」の三隻のみ。生存者救助はこれら駆逐艦々載の短艇で行われた。
 救助艇には「カッター」が使用される。「初霜」では「内火艇」X1、「カッター」X1〜2が救助艇となった。

 昭和16年6月10日付け海軍の「短艇教範」では、「救助艇ハ両弦ニ一隻宛準備シカッターヲ以テ之ニ充ツルヲ例トス」と記載されている。
 緊急時に揚収に手間取る内火艇は不向きな為であろう。
 ほぼ同じ全長の7mカッターと、鈍重な7.5m内火艇では排水量で各々0.8t、と 2.775t という3倍以上の違いがあり、スクリュ
ウを持つ内火艇は漂流者を損傷させる危険性が大きい為に、救助艇は「カッター」と規定されていた。
 然し、残存三隻の駆逐艦搭載カッターでは数が足りない為に、短艇は全て動員したようである。

 救助艇に使われた上掲載の「内火艇」と「カッター」の構造と状況を見て戴きたい。これは平時の写真である。
 どちらもボートを大きくしたものと想像されると理解が早い。カッターは櫂(オール)を漕ぐ水兵がそのまま救援者でもある。

 「初霜」は指令に依り軽巡「矢矧」の救助に向かい、「大和」の漂流者救出には「冬月」と「雪風」が当たった。
「雪風」は「内火艇」・「カッター」各1艇搭載※1。「冬月」も同様と思われる※2
 従って、前記砲術士が内火艇かカッターのどちらに救助されたかは不明。
 沈没した艦艇の周辺海域は一面が重油の海であり、漂流者は「重油汚れの真っ黒の状態」であった※3
 その漂流者を拾い上げた救助艇内が重油で汚れている事は当然である。
 内火艇々指揮※4の松井一彦さんは「救助艇は狭くてバランスが悪い上、重油で滑りやすく、軍刀などは扱えない。救助艇は手こぎボートが数回り大きくなった程度のもので、重油で滑る船ばたに立って軍刀を振り回したら、バランスを崩して自分の足を切りかねないし、転落の怖れもある」と証言をされている。それが「カッター」であれば尚更の事である。※4 短艇の指揮官を「艇指揮」という

 漂流者を拾い上げる時、或いは漂流者が「船べり」に手を掛けたりして船縁(べり)も当然重油まみれになっている。
 短艇は極めて不安定な船体構造である。短艇と立ち上がった人の大きさを想像して対比して頂きたい。
 短艇の船縁の巾が一体何pあるというのか ?
 幅の狭い重油にまみれた船縁を、軍刀を持って走り回るという記述は、短艇の構造と艇の揺れ、人の大きさを勘案すれば余りにも
現実離れし過ぎている。物理的にも到底説明出来ない。
 言葉では誤魔化せても、映像で解る短艇の構造と漂流者積載状況の現実は、動かし難い事実を物語っている。

 再度、上掲写真の短艇が、救助された将兵で溢れている状況を想像して件(くだん)の記述にある
 「・・・剣ヲ揮(ふる)フ身モ、顔面蒼白、脂汗滴リ、喘(あえ)ギツツ船ベリヲ走リ廻ル・・・・」を対比させて貰いたい。
 仮に救助の下士官が軍刀を持っていた(実際はあり得ない)としても、記述の信憑性は物理的に無いと言わざるを得ない。

 今回の産経新聞の努力は一応多とするものの、不満が残る結果であった。真相の解明に対して詰めが甘過ぎる。
 手首斬りの信憑性検証には、海軍刀の実態(軍刀の意味・佩用階級)、救助艇の構造や救助艇配置要員の階級等をより具体的に聞き
可能な限りの論理的・物理的証言を求めるべきだった。
 現在の新聞読者の大半は軍や軍刀も救助艇も知らない。記述内容を無条件に信じて仕舞う。
 だからこそ誰もが納得する内容を、より具体的に説明すべきであった。その一つの試みが上記救助艇の検証である。

 海軍では「士官」が常用するのは短剣で(陸戦隊は別)、士官短剣・軍刀は全て士官の「私物」である。
 艦艇沈没時の軍刀所持が如何に危険であるかは、戦争末期、戦訓として士官に広く知られていた(回天特攻隊は別)。  
 松井中尉は「いざ沖縄に上陸したら必要になるから」と軍刀を艦内に持ち込まれたが、一般的には生還期し難い出撃に際して「私
物」は殆ど「形見」として整理された可能性が高い。
 軍刀の意味は陸軍と海軍では大きく違う。
 記者は、海軍に於ける「軍刀の意義」、海軍下士官が軍刀を佩用出来ない事(陸軍は下士官でも軍刀を佩用する)や、士官と下士官
の区別すら知らなかったのではなかろうか。
 「用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払ヒ・・・」とは ? 艦艇が装備する「日本刀」などある筈がない。海軍刀を日本刀と呼称する事も無い。
 「用意ノ日本刀」は何処から降って湧いて来たのだろうか ? 
 救助艇が如何なる物かも解らず、海軍刀の実態も知らなくて、救助された砲術士の手首斬り目撃談と称する記述への有効な検証や
反論が導き出せる筈が無い。記者の資質が問われても仕方が無いと言えよう。

 然し・・・残虐性の証しに「軍刀」が何故何時も利用されるのであろうか。軍刀の本質も知らない人達に依って・・・・。


注: 弊サイトの救助艇質問に対して、戦記作家の上原光晴様が関係者の聞き取り調査を行われ、その結果をご連絡頂いた。
  「初霜」酒匂艦長は内火艇・カッター各2艇(艦載定数)と過去話されていた。松井様は、内火艇X1、カッターX1〜2と話された。
  「浜風」乗組士官で救助された武田光雄様(海兵70期)は、「浜風」・「雪風」は内火艇X1、カッターX1であったと思うと直近に
  証言された。
  又、松井様と海兵同期(73期)の阿部三郎様(飛行)は、内火艇X1、カッターX1であったと思うと証言された。
  上原様が過去、「初霜」酒匂艦長から聞かれた内容(録音テープあり)と各々違うが、酒匂艦長がご高齢で、現在会話不能との事
  で再度の確認は取れない状況にある。過去、念押しをしておけば良かったと述懐された。

 新鋭駆逐艦「浜風」・「雪風」の例から、「初霜」も内火艇・カッター各1艇ではなかったかとの推論もあるが、時間の壁は余りに大き過ぎる。
 何れの証言者の方々も、記憶を思い起こしての「予断」であって「確証」では無い。
 決死(生還期し難い)の作戦で、艦載短艇は最低限しか搭載しなかったという説が根強いが、『「初霜」の搭載短艇が内火艇X2、カ
ッターX2だったとの酒匂艦長証言を上原様が発表された当時、その証言に異論を唱える人はいなかった。
 酒匂艦長は慎重な性格なので、短艇を定数搭載していた事もあり得る』とも附言された。


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