歴史 

貿易資料から「鉄」が消える不思議

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古代から近世に至る日本の歴史資料、貿易資料、考古学資料に「鉄の交易」は殆ど出てこない。
古代の朝鮮半島に関連する資料と、明代の官吏・学者達が書き残した資料の中に日本交易の鉄が僅かに触れられているだけである。
日本の考古学資料で顔を出す「鉄」は、タタラ製鉄との関連だけに止まっていた。

そうした状況だけに、発見された宋代沈没船貨物の「鉄の物証」は極めて重要な意味を持つことになった。
沈船貨物の鉄情報の発信元は、沈船の調査研究に携わった考古学者と、現物を保管展示している中国の国立博物館である。
幸いなことに、考古学者の貴重な調査報告書を桃崎教授が発掘された。
若しこの資料が無ければ、鉄の物証は恐らく得られなかったに違いない。
何故かというと、一般人に考古学会の論文は馴染みが薄い。勢い、情報の収集は博物館などに頼ることになる。

この沈船「南海1号貨物を保管する国立「海上シルクロード博物館」の沈船積載物の情報は以下のようなものだった。
「14,000点以上の文化財、2575点の標本、55トンの凝結物。磁器は13.000点以上、金器は151点、銀器は124点、銅器は170点、銅銭
は約17,000枚、大量の動植物の標本」とあり、大量の鉄条材、鉄釘、鉄鍋などの鉄器類の説明は一切なかった。

100トンにも及ぶ膨大な容量の鉄条材、鉄鍋、鉄釘は何処に消えたのだろうか?



孟原召氏の論稿にある写真を見たからこそ、「凝結物」というのが鉄条材や鉄器類の塊(かたまり)であることが確認できた。
一般人には「凝結物」という表現だけで、その内容など理解できる筈がない。
捉え方によっては、鉄素材や鉄器類を単に凝結物の一言で片付けているところに「鉄」を軽視・無視している姿勢が窺える。
日本の風潮と同じものを感じ取った。

広東省陽江市・海陵島の国立「海上シルクロード博物館」(南海一号の専門展示館)


 左の写真は広大な南海一号展示館の一部。
 引き上げた巨大な船体までそのまま保存展示している。
 広大な施設なので鉄素材や鉄器を展示するスペースがない
 ということではない。

 現物と展示写真の中に鉄条材と鉄器は表れない。
 鉄関連で紹介されているのは銅貨や銅鏡、装飾品の腕輪な
 どである。
 取るに足らない刃の欠けた小さな木製の櫛が紹介されてい
 るにも拘わらず、貨物の中で無視できない質量を占めてい
 た「鉄器類」の紹介が全く無いのである。
 「鉄条材」と「鉄器」は一体どこに消えたのであろうか ?


展示現物、展示写真の一部。鉄素材、鉄器類の現物や写真は無い

念のため、南海一号、華光礁一号、爪哇海各沈船の紹介をしている彼の国の幾つかの Webサイトを調べてみた。
各沈船の陶磁器や奢侈品は紹介されているが、膨大な量の「鉄条材と鉄器」はほとんど触れられていなかった。
情報発信元の当該博物館が鉄を軽視・無視している風潮だから、当然といえば当然の結果ではあった。
この情報の偏(かたよ)りは由々しき問題ではなかろうか。

「凝結物」と「重量」から、それが鉄の塊(かたまり)だと連想できる考古学者・研究者は恐らく少なかったことであろう。
例え気がついた研究者がいたとしても、その多くは書画骨董、陶磁器、奢侈品、趣向品、珍品などに関心が偏っていて、見てくれの
悪い鉄塊や鉄器などには全く興味が湧かず、恐らくこの「凝結物」をパスするのが落ちであろうと思う。
舶載鉄と推定される鉄条材が日本の遺跡からかなり発掘されているのに、輸入鉄に触れる日本の交易資料は無いに等しかった。
鉄素材を使った完成製品(例えば日本刀、艦船・兵器、輸送車・・・など、機能や美的に優れる製品)に関心を示す人はいても、その
基になる見てくれも悪い得体の知れない鉄素材などに興味を持つ人は殆どいない。市場でも人気がない。だから取り上げる価値も無
いというループの結果であろうと思われる。ただ、歴史の真実は趣味・趣向に左右されてよい筈がない。
その好例として、明の学者の鄭若曽は、当時の倭寇が鉄を漁り尽くしていたにも拘わらず、倭寇が好むものとして茶の湯用の珍品鉄
鍋・鉄錬しか取り上げていない。
彼は珍品・高級品にしか興味がなく、倭寇が最も多く収奪したであろう実用鉄鍋・鉄器類は取り上げなかった。
幸い、明の他の官吏や学者の記録に倭寇が争って買った鉄鍋等の記録があったので、鄭若曽の記録の偏りが判明した。
若し鄭若曽の著書しか読まなかった人は、倭寇が購入(又は略奪)した鉄は珍品・高級品の鉄だけだったという認識になる。
これは陶磁器も同様で、高級品は必ず取り上げられるが、実際に輸入量の多い実用陶磁器は概して無視される傾向にあった。
日本の輸入鉄に関しては、金属の化学分析を行った一握りの金属学者のみが僅かに触れるに過ぎなかった。
   (「鉄の交易資料の問題点」参照) 

こうした様相が、歴史書や交易資料に「鉄」が顔を出さない一つの理由であろうと思われる。
南海1号沈船専用のこの国立博物館ですらそのような傾向にあった。日本だけの現象ではなかったのである。

一般人は、そうした状況の情報発信元から必要情報を入手する。考古学に関係する研究者であっても、鉄への関心が薄い方々の大半
は、信頼できそうな機関や研究者が発信する情報を知識ベースにされるのが普通であろう。
その方々は、宋の貿易船に「鉄」が積載されていた事などを知る由もない。
こうした研究者達が著作物やインターネットなどを通じて情報の再発信をする。ネズミ算式にその偏った情報が世の中に拡散する。
そして、何時の間にか、貿易船に積載されていた「交易品の鉄」は歴史の事実から消し去られてしまう。
俗にいう「一般常識」の恐ろしさである。

今回の沈船貨物の実証は、それ自体が貴重な出来事だったが、もう一つの教訓を我々に与えてくれた。
歴史書や交易資料は文献史学として重要ではあるが、情報の発信元には趣向の混入や、情報の欠落があり得るということである。
現に、日本東北地方の某自治体の遺跡発掘担当官から「担当者の興味の度合いで発掘品記録の取捨選択が日常的に行われている」と
の証言を得ている。
日本の交易文献に「鉄」の記載がないからと言って、輸入鉄は無かったということにはならないことを我々に教えてくれた。
又、従来、断片的な舶載鉄資料はあったが、中世の鉄市場を俯瞰するには「隔靴掻痒」の思いだった。
今回、桃崎教授が発掘された宋代沈没船の積載品資料により、日本中世の鉄市場の状況がかなり鮮明になってきた。



2023年4月14日より再設定
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