日本刀の考察  刀都・関 点描0

刀 都・関 点 描

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歴 史

 関における刃物の歴史は古い。約780年前の鎌倉時代、九州の刀匠・元重が美濃國武儀郡関に移住した。
 南北朝時代には正宗の門人と伝えられる金重が越前から関に移住し,関鍛冶の基を築いたとされ、やがて備前と並ぶ刀の一大生産
地となった。
 室町時代には、刀匠も 300人を数え、孫六兼元、志津三郎兼氏、和泉守兼定などの有名刀匠を輩出した。
 中でも、孫六兼元は独特の作風を起こし、実用二枚合わせの刀身構造と三本杉の刃文により、その名声は広く天下に鳴り響いた。
 安土・桃山時代には織田信長から鍛冶職役免除の朱印状を受けるなど、質実剛健な関の刀は高く評価され、刀の産地として栄えた。

 時代の変遷により、泰平の世の江戸中期(元禄時代)には刀の需要も減り、一部の刀匠は包丁、鎌などを打つ農鍛冶に転じた。
 明治9年に廃刀令が施行されるに及び、刀鍛冶の殆どが実用的な家庭用刃物の生産に転向し、欧米から紹介されたポケットナイフ
の生産も始められた。
 明治27年には朝鮮へ打刃物類が輸出され、明治30年にはカナダへポケットナイフが出荷された。
 大正8年には金属洋食器(スプーン、フォーク、ナイフ)、昭和7年にはカミソリの生産がはじまり、東南アジアへの輸出も盛ん
に行われた。

 昭和に入って軍用日本刀の需要が新たに喚起され、再び、刀の都として、古の活況を取り戻すこととなった。
 昭和14年時点には、関鍛冶刀匠として232名が登録され、室町時代の最盛期iニ比肩する刀匠達が日本刀の生産に従事した。
 厖大な軍刀需要に伴い、旧来の造刀法に加え、古式半鍛錬刀という新たな機械化造刀法なども開発された。
 陸軍名古屋造兵廠関分工場が新たに設置され、軍用刀剣の生産を開始した。
 大量需要に応える為、家庭の主婦まで生産に従事し、官民挙げて生産に邁進した結果、文字通り軍刀生産の一大メッカとなった。



機械化鍛造工房。前列右: 土岐亮信(勇一)刀匠 (兼信刀匠に師事、陸軍受命刀匠。現、東亜シーザ鞄y岐邦彦社長の叔父上)。  
後列左: 中田兼秀(日本刀鍛錬塾・塾生長時代)、後列右: 光信刀匠 (兼信刀匠に師事)。共に後の陸軍受命刀匠。




戦時下、古式鍛造の風景




   棟部に硬鋼を配した古来・関伝独特の刀身構造
  後世の心鉄構造と違い、研ぎ減りしても硬・軟鋼の配分
  は変わらない
  関・実戦刀の面目躍如たる刀身構造といえる



軍刀製作の最終工程。後方には完成軍刀が多量に立てかけて並ぶ







出荷を待つ軍刀の山
1

軍 刀 生 産

 関町、及びその周辺地区で軍刀の生産に携わった企業は約60社の多きに亘る。
 昭和14年度、関刃物工業組合検査製品の対象となった軍用日本刀剣の年間生産数は以下の通り。
  刀剣(荒地=半製品)    48,257本/年
  刀剣(完成製品)      33,829本/年
 荒地・完成品は合計約8万本/年となり、生産額は約138万円/年となった。これは、支那事変勃発前の10倍に達する生産額であっ
た。これには、関刃物工業組合検査対象外である古式鍛錬による軍用日本刀は含まれていない。

 又、名古屋陸軍造兵廠関分工場で生産された造兵刀 (18年度不明、19年末期月産1,300振り)、陸軍制式現代鍛錬刀 (18年度不明、
19年末期月産800振り)、九五式軍刀 (10〜18年度生産数不明、19年末期月産3,500振り)、及び同工場、関刃物(株)で造られた三十
年式銃剣は一切含まれていない。
 これ等を勘案すると、関は軍刀生産の最大拠点だったことが分かる。

 このような戦時下・関の歴史と刀剣観に関して目を疑う記述がある。「ブルータス ! お前もか」との思いがして極めて残念なこ
とだった。
2
関市立桜ヶ丘中学校に見る教育の現実

 同校パソコン部が「関の刃物の謎に迫る!」というサイトを開設している。これは関市の刃物の歴史を勉強した結果を発表したも
ので、地元中学生として郷土の歴史に関心を寄せた真面目な取り組みは評価されてよい。
 然し、残念なのは生徒に説明した軍刀の内容にある。

http://www5.city.seki.gifu.jp/sakuragaoka-chu/7paso/18hamono/index.htm0
上記URLはトップページが表示される。そのページの左のインデックスから「現在の刃物産業」→「軍刀について」と辿って下さい


教室で生徒に軍刀の講義をする武井忠義氏

軍 刀 の 講 義 を 聞 い て

生徒の記述 1
 軍刀についてはこの人に聞いて分かりました。軍刀は関市も少しは作っていたようです。

生徒の記述 2 (平成18年当初からの記述)
 他にもいろいろな事を聞きました。

生徒の記述 2 (近年に変更加筆された記述)
 他にもいろいろな事を聞きました。
 どうも軍刀は戦争の時に月に6万本位は生産されていたようです。世界第二次世界大戦では組合役員の努力によって生産を一手引
 き受けることとなり刀剣作りに総力を挙げることになった。
 この刀は、昔の刀と作り方が違い鋼材を素延べし、焼入れし、形を整えた程度の量産品だったそうです(原文のママ)
 この変更追加された記述2は、掲載して暫く後、誰かに指摘されて調べ直したようである。

 生徒達が訪問して勉強した先は、フェザーミュージアム、岐阜県刃物会館、関鍛冶伝承館、関市役所の4ヶ所で、説明担当者が写
真入りで紹介されている。この内、学校の教室で軍刀の話をしたのが、岐阜県刃物会館専務理事の武井忠義氏だった。
 これを聞いた生徒の率直な感想が、「軍刀は関市も少しは作っていた」だった。
 他の生徒二名が軍刀に関する六項目の感想を述べている。
 その一人は、「軍刀と刀では作り方が全然違うため強度や切れ味も違います。まず軍刀では鋼材を素延べして焼入れし、形を整え
 ただけの量産品なので、刀と違い折れやすく切れ味もそれほど良くありません。
 しかし刀なら、折り返し鍛錬などで不純物を取り除いたりするので折れにくく切れ味の良いものになります」という感想だった。
 「本鍛刀は軍刀より優れていた」と中学生達は理解している。
 他の五項目も大同小異で、要は「軍刀は刀ではない。軍刀は刀に劣る」と言うものだった。
 他にも記述に多くの誤りが見受けられる。
 生徒達は話を聞くだけでなく、各団体から資料も提供されて参考にしている。従って、これが関市の最大公約数の見解なのだろ
う。
 生徒達に罪はない。筆者は生徒達を批評するつもりもないが、一般所見だけは述べておきたい。
3

軍 刀 認 識 の 間 違 い


 「軍刀」とは刀剣の用途を指すものである。従って、刀身は古作刀、古式鍛法の新作刀、特殊綱刀、機械化古式半鍛錬刀・・など
の各種が存在した。軍刀の意味が正しく理解されていない。恐らく、本鍛刀以外を軍刀と呼んだのであろう。
 戦場の実戦検証で、新々刀及びそれに準拠した本鍛刀は一般的に脆く、満鉄刀などの量産刀やスプリング刀は武器性能で優れてい
た。小倉陸軍造兵廠の実験で、玉鋼の新作本鍛刀の4割が実用に不適な刀だった。古式鍛法の刀は概して実用に耐えられなかった。
 寧ろ、機械化造刀(量産)した刀の方が品質が安定して優れていた。耐寒、耐錆、粘硬性では特殊刀の方が遙かに優れていた。
 古式鍛法の刀は、利刀から駄刀まで大きなバラつきがある。軍用刀身にも古作刀を遙かに凌ぐ優秀な刀から、悪徳業者による粗悪
刀まで様々だった。
 日本刀として統一された性能の刀は存在しないのに、古式鍛法の刀となると、いつも最高に理想的な刀しか想像しない。
 古式鍛法の刀は常に最良の刀を想定し、軍用刀剣は常に最悪の刀のみを採りあげて一刀両断に評価をする。
 一般社会でこんな不公平な比較をしたら、恐らく爪弾きされるだろう。

 ところが不可解なことに、刀剣界に限っては、均衡を欠いた頭脳回路が何の疑いもなく通用している。
 これから育つ中学生達に、こうした公正を欠くものの捉え方を普通と思われたら将来が案じられる。
 それに、筆者には、何を基準にして軍刀は悪く、刀 (恐らく新々刀準拠の刀を指している) が一方的に良いのか理解出来ない。
 古式鍛法は科学技術が無い時代の日本刀の一つの造り方に過ぎない。他に選択肢は無く「これ以外の造り方ができなかった」だけ
である。
 若し、戦国時代の日本に科学技術があったなら、刀匠達はどうしたであろうか ?
 折り返し鍛打に機械が使え、折り返し鍛打すら必要ない粘硬性があって錆にも強い合金鋼が手に入り、一方、戦乱の諸大名から、
短納期・低コスト、実用性能を条件とする大量の刀の発注があったとしたら、刀匠達はどう応えたであろうか・・・。
 刀匠は迷わずに新鋼材を選択し、新造刀法に移行した筈である。
 そうでなければ、大名側も、刀匠側もその時代には生き残れなかった。
 「コストが高くても刀身地刃が綺麗でなければ刀ではない」等と言う寝呆けた大名がいたら、たちどころに敵に滅ぼされていたで
あろう。

 関は、室町期、就中(なかんずく)戦国期、諸大名の時代の要求 (量産性、コスト、合理的実用性) に応え、質実剛健な実用刀を供給し
た。武器である刀のこれが本道である。
 織田信長は積極的に関を保護し、豊臣秀吉、徳川家康などの諸大名も美濃、末関の刀で武力を整備した。
 天下を狙う大名ともなれば、実に合理的な現実主義者である。そうでなければ勝ち残れなかった。

 ところが、 美術刀剣界はこれを「関物」と言い、どちらかというと「数打ち物」というニュアンスの侮蔑の意味で使っている。
 これは、日本刀の本質が解らず、軍事力整備が何たるかの基本も解らない、美術刀呆けした見解である。
 戦国大名にとって、軍事費の負担は重大事であった。少ない費用で、如何に効果的な軍事力を整備するかが戦いの勝敗を分ける。
 関物は、その時代の要求に応えた抜群の実戦日本刀だった。
 だからこそ雄藩が庇護し、備前を凌ぐ刀剣供給地になり得たのである。
 逆説的には、効果/費用に優れた関・実戦刀が、織田、豊臣、徳川の天下取りを下支えしたとも言えるであろう。
4

目 的 と 手 段 の 履 き 違 え

過去技術の再現と、時代に合った刀を造ることの錯覚

 戦国時代から数百年の時代が下がり、再び実用日本刀が求められた。それが昭和の軍刀だった。既に科学文明の時代だった。
 軍用日本刀に求められる条件は、耐寒、耐錆性能など、使用環境も古作刀の時代とは異なっていた。
 戦国期には不可能だった鋼材や作刀手段も利用できた。
 刀という道具を造る為の鋼材や作刀法は、日本刀の目的を実現する「手段」である。
 時代によって最適の手段を用いるのは必然である。
 岐阜県立金属試験場では造刀効率を上げる為、古式半鍛錬という機械化造刀法を開発した。
 関刃物工業組合は粗悪刀を排除する為に、現代造刀法による刀には厳格な検査を施し、合格した刀に検査印を刻印して刀身の品質
を保証していた。
 これらの軍用刀が、「刀」でないという理由が理解できない。
 刀という道具の「目的」は、時代が要求する「性能・仕様」を満足することである。

 わかり易い身近な例を取り上げてみよう。
 計算機(器)という道具がある。
 この道具の「目的」は、「正確に、より速く四則演算処理をする」ことにある。
 この道具を造るには、様々な材料・造り方の手法があった。
 太古は、石、木切れ、鳥の羽、紐の結び目、両手、両足の指などを目的達成の道具(手段)に使った。 
 時代が下がって、算盤(そろばん)という道具(手段)が登場した。
 やがて、計算尺、手動の機械計算機の時代を経て、今日では、電子素子を材料に使う量産各種電卓が一般的である。
 今日に於て、「木と竹を使って手作りする「そろばん」こそが日本の伝統的な最高の計算機(器)であって、量産された電卓などは
計算機ではない」などという人がいたら、世間はどんな反応をするだろうか ? 穏やかにみても「気は確かか ?」であろう。
 いつの間にか、計算機の目的は「ソロバンを作ること」にすり替わってしまっている・・・・目的と手段の完全な倒錯である。
 刀の目的は「美しい新々刀を造ること」という刀剣界の風潮が将にこの倒錯にあたる。
 昔の製造法の保全・再現と、時代にマッチした刀を造ることを完全に勘違いしてしまった。

 今、木の樽が造れる職人はほとんどいない。今でも、木の樽は「特定の用途」では充分な存在価値を持っている。その為に、その
技術を保全しょうという人がいた。ところが、この技能保有者は、「木の樽が最高の伝統技術で、プラスチックの器は器ではない」
などと決して言わなかった。「使用目的によって、木の樽と樹脂の容器の利点の棲み分けがハッキリしていますから・・・・」と。
 即ち、この職人は「目的」と「手段」を明確に理解していたことである。

 昔のある時期の日本刀製作手段を、無形文化財として再現する事はそれなりに意味があることと思う。
 然し、そのことと、時代の要求に即した実用刀を造る事は全く別次元の話である。

 武器である日本刀が、新々刀で終わったり、新々刀から進歩してはいけない理由などある筈がない。
 それに、「伝統」という言葉を簡単に使うが、いつの時代の鋼材や作刀法を指して「伝統」と言っているのか極めて不明瞭である。
 若し、鎌倉〜室町期の刀に伝統の立ち位置を置く人がいたら、新々刀などは刀ではないと言うであろう。
 伝統という言葉の定義すらも曖昧模糊(あいまいもこ)としていて、都合の良いように勝手に使っている。
 土台、太古の昔から今日に至るまで、不変(普遍)な工芸品や道具がどれだけあるだろうか。
 筆者が思いつく物で、その例を簡単に挙げることは困難である。
 それとも、古来とは江戸期のみを指し、江戸期の諸事こそが伝統であって、最高のものであると言うのであろうか。
 鋼材も「玉鋼」至上主義が強調されているが、古刀からの刀材の変遷をみると、それは如何なものであろうか。
 和鋼は原始稚拙製錬の結果、炭素以外の元素をほとんど固溶しない単純炭素鋼となった。刀材としてこれが最高なのか※1 ?
 
 そうであれば、関では現在も尚、刀と同類の実用的打刃物類を江戸期の鋼材と手法で製造し続けていなければならない。
 又、軍刀は全て駄目で、刀が全てに勝れているという見解に至っては、どこでボタンの掛け違いをしたのであろうか ?
 日本刀剣史上最後の実戦検証となった先の戦場での日本刀の実態を知らなかったと言うなら、刀都の名が泣くことになる。
 耐寒、耐錆刀や、粘硬性を備えた特殊鋼刀は何故生まれたのか ? これ等は気紛れや遊びで造られたものではない。
 「古式鍛法の刀」では、時代が要求する条件を満足できないから新たに生み出されたのである※2
                               ※1 合金が化学的に造れる現代では、単純炭素鋼は並品である。
                                 詳しくは「日本刀神話」、「たたら製鉄と日本刀」の「灌鋼」の項を参照
                               ※2「軍刀について」の軍用日本刀を参照されたい


 戦国時代の関・実用刀の誇り、戦時下、全町挙げて軍刀製作に取り組んだ関係者の方々の汗の努力は一体何だったのであろうか ?
 まして、将来を担う中学生達に、祖父母の時代の懸命な刀造りの努力を蔑むような意識を植え付けたことは残念でならない。

 若し現在、ナイフや包丁などの打刃物類に合金鋼を使ったり、機械鍛造しているとすれば、昭和激動の時代に、刀だけが変化をし
てはいけない理由を伺いたいと思う。
 そして、古式鍛法の刀が、先の大戦で最良だったという証拠を、是非にも聞かせて頂きたいと願うものである。




(写真提供: 祖父江光起氏)


                     2013年9月11日より 無料カウンター 直接ご訪問(経由を含まず)
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