軍刀抄  軍刀が結ぶアイルランドとの絆  0

日本軍刀が結ぶ日本〜アイルランドの絆

A Doctor's Sword

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 英国 Royal Air Force(RAF)の軍医であったアイルランド人Dr.Aidan MacCarthyは、自らの苦い戦争体験を基に「医者の戦争」と
題した本を1979年に出版した。
 以後再販されて、内容が若干異なる二種の本(上掲・左右)が流通している。日本の捕虜生活での体験が生々しく描写されている。


Dr.Aidan MacCarthy の足跡

 彼は、1914年、アイルランドに生まれた。
 成人して医師の免許を取得したものの、当時のアイルランドでは、父親が医師でなければ医療業務に着くことが困難な状況にあっ
た。そこで彼はイギリスに職を求めて渡り、イギリス王室空軍(RAF)の軍医となった。
 1940年にフランス戦線に配属される。
 ドイツ軍の猛攻にさらされて、負傷した連合軍の軍人に付き添ってダンケルクからイギリスに避難した。
 彼は RAF Honington 基地で破壊されて炎上するウェリントン爆撃機からクルーを決死で救出し、ジョージメダルを授与された。
 1941年に極東に配属される。

 インドシナでの日本軍との激しい戦闘により、彼はジャワのスマトラで他の連合軍兵士等と日本軍の捕虜となった。
 連合軍の捕虜約900名を載せた輸送船団は海防艦などに護衛され、1944年6月3日シンガポールを出港。マニラ、台湾・高雄を経由
して日本に向かった。
 1944年6月24日深夜、日本を目前にした長崎県野母崎南西20kmの洋上で米潜水艦三隻の魚雷攻撃を受け、彼が乗船する「玉鉾丸」(6,780t) は瞬時に沈没した。

      
←輸送船「玉鉾丸」(たまほこまる)
船団に移送された連合軍捕虜 772名(米43、英190、豪267、蘭266)
米・潜水艦の雷撃で死亡した捕虜560名、
翌朝、救助船で救助された捕虜 212名(米13、英42、豪72、蘭85)
インドシナから引きあげる日本婦女子も多数が犠牲になった

 翌朝、長崎に帰港途中の民間捕鯨船に救助されたマッカーシー軍医は、長崎港に上陸した。
 彼は他の捕虜と共に福岡俘虜収容所第14分所(1943年4月22日開所 現:長崎市幸町)に収監された。
 連合軍捕虜達は三菱長崎造船所で、建造中の空母の外板リベット打ちの作業や、炭坑作業などに従事した。

 1944年秋、連合軍の捕虜の士官は、医師、歯科医師、従軍牧師を除き、全員が満州に送られた。
 その為に、少佐であったマッカーシー軍医が連合軍捕虜達の指導者の役目を負わされた。
 捕虜生活は過酷だった。彼は、俘虜収容所の看守(殆どが朝鮮人)たちから毎日のように暴行を受けた。
 日本人(含む朝鮮人)には「マッカーシー」と「マッカーサー」の言葉の区別が出来なかった。
 囚人点呼で「マッカーシー」と名乗る度に看守から頭に鉄拳制裁を受けた。
 マッカーシー軍医が、米軍の「宿敵・マッカーサー元帥」の血縁関係にあるとの流言飛語に惑わされたことによる。
 肋骨まで折られて、収容所の日本軍医の治療を受けなければならない状況だった。
 彼が後年、脳血栓を起こす要因になったとも言われている。
 収容所には若き日本軍医がいた。それが壇野陸軍々医だった。敵同士でありながら同じ医師として心を通わせていた。

 あの忌まわしい日の直前になって、連合軍の秘密放送は詳しい内容を言わないまま捕虜たちに避難するよう盛んに呼びかけていた。
 1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下された。俘虜収容所第14分所は爆心地から僅か1.7qしか離れていなかった。
 その時、彼らは三菱長崎造船所で作業していた。爆心地から3.5kmの距離にあった。
 第14分所で、片付けなどの作業をしていた捕虜は即死した。
 この被爆により、判明しているだけで9名(後遺症で帰国途上2名)の蘭・英の捕虜が死亡している(被害実数は不明)

 彼は1945年6月、福岡俘虜収容所第27分所(福岡県田川市)に移動したと日本側記録にあるが、彼の著書にその記述は無い。
 原爆で第14分所が灰燼に帰した為、終戦後、帰国準備で第26分所(嘉穂郡桂川町)に居たことが確認されている。
1

軍 医 の 功  績

 マッカーシー軍医はこの被爆の惨状を目の当たりにした。
 彼は、敵・見方の区別なく、被災者の救援に全力を注ぎ、医師としての責務を果たした。
 彼は戦後、アイルランドのラジオ番組でこの時の原爆の惨状を語っている。

 戦争が終わった時、捕虜だったオーストラリア兵たちが、捕虜収容所の看守たちをリンチにかけようとした。
 既に、中国人労働者達が、日本側看守4人を惨殺する事件が起きていた。マッカーシー軍医は、看守達を咄嗟に獄房に閉じ込め、
オーストラリア兵達の暴行から看守達を守り抜いた。
 又、B-29爆撃機から投下されたペニシリンを使って、瀕死の日本少女を救済した。

 マッカーシー軍医の一連の行動に感激した日本陸軍将校が、お礼の気持ちを込めて自らの佩用軍刀をマッカーシー軍医にプレゼン
トした。物資が何一つ無い状況で、日本将校ができる精一杯の感謝の誠だった。
 敗戦後、連合軍捕虜達は、日本軍将校の軍刀を欲しがった。日本軍将校達は頑強に拒否するか、軍刀を隠匿するようになった。
 この事実は彼の著書の中に明記されている。
 日本軍将校が決して軍刀を手放さない事を知っていたマッカーシー軍医には、その誠意が直ぐに理解できた。
 彼は英国にその日本軍刀を持ち帰り「Samurai Sword」として大切に保管した。

 復帰した彼は RAF の軍医として空軍准将の地位にまで昇り、退役後、南部イギリスで医療に従事した。
 そして、1995年にロンドンで永眠した。

 彼の死後、父の遺志を受け継いだご息女たちはアイルランドで経営するパブ(著名な社交場)にその日本軍刀を展示。
 恩讐を超えた「サムライSword = 日本人の心」として今も大切に日本軍刀を守り抜いている。

                                    

〜マッカーシー軍医と日本軍刀の数奇な運命〜


 アイルランドの映画製作会社"Gambit Pictures"のプロデューサー Bob Jackson氏は13年間、マッカーシー軍医のドキュメンタリ
ーを構想してきた。そして、日本ーアイルランドのヒューマンドキュメントにストーリーが収斂した。
 2011年秋、アイルランド映画制作庁(政府の機関)と国営テレビ放送局からの支援を受け、日本、アイルランドの両国で取材が開始
された。
 一つは、マッカーシー軍医に軍刀を贈与した日本陸軍将校と遺族の探索であり、もう一つの要は日本軍刀の意義を浮き彫りする
ことにあった。

 2012年正月明けに取材チームから筆者に打診があり、1月末に長崎で3時間半のインタビューに応じた。
 インタビューの事前質問は以下の通りであった。
   
   1.第二次世界大戦中の日本の文化における日本刀の持つ意味(重要性)とは何ですか
   2.日本刀は武器だったのでしょうか、それとも象徴だったのでしょうか
   4.家族にとって日本刀を所有するということはどれくらい重要なことだったのでしょうか
   5.父親が息子へ、息子がその息子へと受け継がれていくのですか
   6.昭和初期の間に日本刀の製造に変化はありましたか
   7.日本刀の構成と素材について教えてください
   9.終戦時に連合軍の兵士に日本の兵士が刀を渡したという話をきいたことはありますか

 戦争という不幸な状況下に有りながら、敵・味方の垣根を超えた人間の心の交流を描くのがこのドキュメンタリーの目的だった。
 日本ーアイルランドの絆を結ぶ原点に存在したのが「日本軍刀」であった。
 マッカーシー軍医には、日本軍刀は日本人の心の凝縮と映った。軍刀を贈与することは「心」を差し出したも同じと認識した。
 これは、サブタイトルの 〜マッカーシー軍医と日本軍刀の数奇な運命〜 に端的に顕わされている。



上) 軍医の夫人。残念乍ら、2013年4月、映画の完成を待たずに永眠された。
下) 軍医に恩義を受けた日本人として、「日本近代刀剣研究会」の寺田会長と筆者は、
決して恥ずかしくない簪、髪留めなどの日本伝統工芸品をご遺族に贈呈した。
右は夫人、中央二人はご息女。左は我々の贈り物をご遺族に渡しているプロデューサ
ーのBob Jackson氏。

      
 上) 長崎県神社庁の東照宮で軍刀の説明をする筆者
 下) 礼に筆者に贈られてきた軍医の著書の裏表紙に
  書かれたご息女 Adrienneさん(左写真中央右)と
   Nicola さん(中央左)の自筆サイン

 このドキュメンタリー "A Doctor's Sword " は、かなりの時間をかけて基本編集を了え、関係機関に提示された。
 この内容は、アイルランドの文化大臣と在日アイルランド大使ジョン・ニアリー氏からの特別なサポートも受けて、2013年5月に
国営放送と映画製作庁が、本年11月の正式放映を決定した。
 この決定を受けて、最終取材が日本で8月に行われ、日本ーアイルランド両国の遺族の対面が収録される。
 その時、アイルランドから持ち込む日本軍刀が大きなポイントになる。
2

日本への軍刀持ち込みに関して

 芸術・遺産・ゲールタハト大臣及び同省(日本の文科省に該当)は日本の官憲に宛てて次ぎのような趣旨の要請文を発行し、この交渉の一切を筆者に任せると連絡してきた。


Gambit Pictures(株)は、アイルランド(国営)放送局より、ドキュメンタリーを制作
 するための資金が与えられた。
 ドキュメンタリーは、「ある軍医の刀」という物語で、第二次世界大戦中のエイダ
 ン・マッカーシー軍医の経験を明らかにするものです。
 マッカーシー軍医は長崎の原子爆弾攻撃を生き延びた戦争時の連合軍捕虜のうちの一
 人であり、その余波の中で救援活動を手伝った人でもありました。
 長崎の廃墟の中、敵味方関係なく生存者を助けることに尽力し活動したマッカーシー
 軍医は感謝の印として日本軍刀を授与された。
 ドキュメンタリーはマッカーシー軍医の物語を伝え、彼に軍刀を与えた日本軍将校の
 家族と刀を再び繋ぎ合わせることにある。
 これには2013年7月に、(贈呈された)日本軍刀とニコラ・マッカーシー(マッカーシー
 軍医のご息女)が日本を訪問する必要がある。
 事前に刀を持ち込む許可を得る為の連絡を千葉県公安委員会に行った。
 然し、このようなケースは今までなく、警視庁に判断を任せることになった。
 警視庁は、刀を日本に持ち込むに十分な理由が必要との懸念を強調しています。
 前回、2012年2月の日本での撮影(アイルランドの映画制作庁が出資)で、日本近代刀剣研究会の顧問であるMr.Ohmuraが日本文化における日本刀の重要性を説明するためのインタビューを受けました。
 それは後に立証されることになりましたが、私たちの認識では、Mr.Ohmuraが最適任者であると考えている。
 日本刀の日本への持ち込みは、今回のドキュメンタリーの制作目的として、マッカーシー軍医のご息女が日本刀を贈呈した日本軍将校のご家族と会い、本来の刀の持ち主であった家族との再会と絆を描くのに必要不可欠です。
 マッカーシー軍医の経験はアイルランド、日本およびその他の場所で一般の人には比較的知られていません。
 連合軍捕虜が長崎で原爆攻撃の犠牲者だったこと、彼らが非常に積極的に救援活動に協力していたという事実は、歴史的な出来事に新たな視点を提供します。
 マッカーシー軍医は、原子爆弾攻撃の被害者を助けるための努力を惜しまず、彼の努力への感謝を表すための印として刀を贈られたという事実は、アイルランドと日本間の文化的、歴史的絆への見識を提供し、両国の文化的、歴史的絆を知らない公共へ意識の向上をもたらします。 芸術・遺産・ゲールタハト大臣及び同省(日本の文科省に該当)は、日本への刀の持ち込み許可の要求を支援します

 この趣旨に、このドキュメンタリーの基本的意義が全て顕されている。
 果たして日本軍刀が持ち込めるであろうか・・・・。その前には「銃刀法」と「美術刀」が立ち塞がっている。
 言うまでも無く、これは単なる軍刀の話ではない。
 凶器と歴史遺産の区別ができる成熟した国になれるであろうか。
 国際的繋がりを強めなければならない現状の日本にとって、国際社会の中の日本の姿勢が問われることになる。
 日本軍刀の持ち込みは、世界に通用する常識が問われる試金石ともなった。
 筆者と寺田会長は、日本に刀が持ち込めた場合、全く手入れがされていない刀身を研磨してお返しする段取りまでつけた。
 筆者は、この要請文を持って、警視庁、横浜、福岡、長崎の各公安委員会を訪ねて、マッカーシー軍医に贈呈された軍刀の日本への持ち込み交渉を行ったが、結局はタライ廻しにされただけで「銃刀法」を楯に刀の持ち込みは不可能だった。
 国内の「銃刀法」が国際親善交流に何の意味があるのであろうか ? 母国に持ち込めない「日本刀」とは ?
 この刀を大切に守って来た彼等は一体どう思ったであろうか。これが戦後日本の歪んだ現実だった。

 日本訪問を控え、マッカーシー軍医の厖大な遺品を整理していたご息女が、7月末、軍刀を贈与した日本陸軍将校の写真を発見さ
れた。写真の裏に書かれた餞別の献辞で確定的となった。


マッカーシー軍医の遺品から発見された楠野勲少尉の写真と裏の献辞

 ■ しき友マッカーシー少佐に餞別と共に贈る
 君のご多幸を祈る
  昭和二十年八月平和到来の日
            楠 野

 欠字■は写真をアルバムから剥がした時に消失した。■=「親」と推定される。
 又、別の英文資料から、第14分所、第26分所に配属された楠野いさお(後に漢字が「勲」と確認)陸軍少尉と判明した。
3

日本軍将校のご遺族探索


 筆者は、楠野少尉の勤務地が福岡県嘉穂郡であることから、ご遺族の居住地は福岡周辺の可能性が高いと判断し、ご遺族の探索には、新聞とテレビの力を借りる必要性を感じ、西日本地区では最大部数を誇る西日本新聞社を訪ねて、遺族探索のご助力をお願いした。併せて、8月10日の筆者とニコラさんとの対談に合わせて、NHKにも遺族探索のお願いをしていた。

 西日本新聞社のご協力を頂き、8月9日の朝刊に、かなり大きく取り上げて頂いた。


西日本新聞 2013年8月9日の朝刊記事

 マスメディアの力を改めて思い知らされた。
 翌、8月10日のニコラさんとの対談一時間前、奇跡が起きた。今まで、十数年の探索で不明だったご遺族が、この新聞記事を見られて名乗り出られた。8月15日の終戦の日を控え、一瞬、英霊のお導きに違いないと疑う事無く信じた。それほどの奇跡だった。
 ニコラさんも、アイルランドスタッフの5人も、驚きを通り超して「ミラクル」だと言葉を失った。
 この対談には、西日本新聞社とNHKが取材に入った。NHKには、遺族探索をお願いしていた訳だが、急遽、対談がメインの取材となった。この対談は、翌日、西日本新聞の朝刊と、NHKの朝のニュースで放映された。





2013年8月11日、NHK 朝7時のニュース(ニコラさんを迎えて対談する筆者)

 
 
上) 西日本新聞8月11日朝刊の、ご遺族判明の報道記事  

右) 同じく西日本新聞8月11日のニコラさんと筆者の
対談を伝える記事
対談では、当時の日本人にとっての軍刀の意味をニコ
ラさんから主に聞かれ、写真裏の献辞から、楠野少尉
とマッカーシー軍医との立ち位置の関係を、国文学の
 大部淑子女史共々説明をした。


 アイルランド側にとって、僅かな滞在期間の中で、且、最終取材の土壇場でご遺族が判明したことは、何よりの収穫だった。ご協
力戴いた西日本新聞社大久保総局長、中野記者に篤く御礼申し上げる次第です。
4

テレビ放映ガイダンス偏


小サイズ動画 640X360(限定公開)
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 アイルランドでの本放送は、2013年11月に放映されました。

 この放送後、アイルランドのコーク映画祭の2014年ドキュメンタリー部門に "A Doctor's Sword" がノミネートされ、2014年11月16日に同映画祭で上映されました。

2015年7月27日、ディレクターのボブ・ジャクソン氏(Mr.Bob Jackson)より下記の連絡を頂戴した。
この記録映画が世界に配信されるのを記念して、日本と米国大使館、マッカーシー氏のご家族、コーク市や郡議会、コーク大学などの代表が出席してコーク大学にて最大なセレモニーが開催されましたと。

 この半年後の2016年2月初旬、この記録映画のDVDが発売され、筆者の手元に送られて来た。



 Bob Jackson氏は日本滞在中にNHKとのコンタクトを取り、このドキュメンタリーの内容を説明していた。
 アイルランド国営放送が放映した後、日本での放映交渉を本格的に行ったが、NHKが受け入れてくれなかったとの連絡が入った。
 NHKの偏向報道の酷さを考えると、日本軍人の美談に属するような内容は敬遠するのではないかという悪い予感が頭を過ぎっていたが、これが適中する結果となった。日本、及び日本軍を貶める内容なら喜んで取り上げたに違いない。
 日本は何処かが狂ってしまったように思えてならない。


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