海軍太刀型軍刀 (2)0

菊水刀「湊川神社正直」

Kikusui-tō "Minatogawa Jinja Masanao"

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菊水刀「湊川神社正直」

標準型 銘: 湊川神社正直、近代刀、(刃長: 63.9p・反り: 1.7p)、木鞘(黒漆塗)、切羽四種七枚、
ハバキと茎に「菊水紋」の刻印。金具:金色(瀬戸鍍金)、ハバキ留め、士官刀緒付

Kikusui-tō "Minatogawa Jinja Masanao"

Standard type: Mei: Minatogawa Jinja Masanao, Modern-sword, (Blade length: 63.9p,
Curvature: 1.7p), Black Japanese lacquerd wooden scabbard, Blade-collar stop,
With the officer knot,




















佩裏ハバキの菊水紋
A Kikusui crest on the blade collar 


 
    佩表茎の菊水紋と銘
 A Kikusui crest on the swod-tang
     

 太刀銘: 湊川神社正直
 
Tachi-mei: Minatogawa Jinja Masanao
 Ura-mei: December, 1942




 



   佩裏ハバキの菊水紋
  A Kikusui crest on the
  blade collar
 佩裏ハバキの菊水紋と年期

    
 
 裏銘: 昭和十七年十二月日
 
Ura-mei: December, 1942

菊水紋について

中国・南陽の甘谷の流水が、菊の滋液を含んだ長寿の妙薬との故事から案出された菊花と流水を組み合わせた図案。
南北朝時代、楠木正成は建武の功によって菊紋を下賜されたが、畏れ多いとして下半分を水に流した菊水紋を家紋とした。 
後醍醐帝に忠誠して湊川の戦いで自決した正成は、その死後、南朝が正当化されるに及び「大楠公」として忠臣の鑑となった。
これが湊川神社の創建に繋がる。
大東亜戦では、天皇と国家への忠誠の証しとして特攻機や特攻艦艇にこの菊水紋が描かれた。「菊水紋」は忠誠心の象徴だった。

About a "Kikusui crest"

This design is based on the historical fact that the running water which contained the nourishment of the
chrysanthemum at Nanyo in China is a miracle drug of a long life. In the Period of the Northern and Southern Dynasties, Masashige Kusunoki obtained the chrysanthemum-crest from the Emperor by the distinguished services of Kenbu.
However, since he kept the Emperor in awe, he made the family crest the Kikusui crest which passed the lower half of the chrysanthemum in water. Masashige rendered Emperor Godaigo loyalty and did self-decision by Minatogawa's battle.
After Masashige's death, since the Southern Dynasty was justified, he became Tadaomi's type.
This leads to foundation of Minatogawa Jinja. In a pre-war, the Kikusui crest was drawn on the suicide aircraft and desperate sortie warship as a proof of the loyalty to the Emperor and a state.
The "Kikusui crest" was a mark of loyalty.




柄糸は海軍刀に多い平巻き。ハバキ留めの為、鍔や切羽には駐爪を通す穴が無い
Tsuka-itoes are many Hiramaki bindings to a naval sword. There is no hole which lets a spring clip pass in a guard or a washers for a blade-colla stop.


(荻野一信氏所蔵)

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菊 水 刀



神戸湊川神社菊水鍛刀会

Kōbe Minatogawa Jinja

日本刀鍛錬会(靖国神社)で修行した日立金属(株)安来工場の村上道政(銘:正忠)・ 森脇要(銘:森光)の両氏は、昭和15年、湊川神社の御用刀匠となり海軍士官用軍刀を作刀した。此処で作刀された刀のハバキと茎には菊水紋が彫られ、「菊水刀」と呼ばれた。
             
Kōbe Minatogawa Jinja Kikusui Sword Forging Association
Both of the Murakami-MuraMitsu (Mei: Masatada) and the Moriwaki Kaname(Mei: Morimitsu) of the Hitachi Metals, Ltd.
Yasugi factory which self-trained by Japanese Sword Forging Association (Yasukuni Jinja) became a swordsmith of Minatogawa Jinja in 1941, and did the sword making of the Guntō for naval officers.
The sword which they forged with other swordsmiths engraved the Kikusui crest on the blade collar and the swod-tang.
These swords were called the "Kikusui-tō". The "Kikusui-tō" was a good Japanese sword.



湊川神社境内の鍛刀場
  
寺本武治少将
  
朝日新聞(大阪)昭和16年1月8日


海 の士官に"菊水の刀"
湊川神社でトッテンカン

聖戦第五年の春に巣立つ若き海軍士官や海軍大 學校の卒業生にもののふの心を象徴する日本刀を頒(わか)たうと大楠公を祭祀する神戸湊川神社境内に鍛刀場がつくられ、伯耆(ほうき)、出雲の國から刀匠を迎へて魂こめて日本刀づくりがは じめられたーー

「昨今」神戸在郷の海軍將官現海軍大學校兵學教授嘱託寺本武治少將が、神戸海軍監督長森住松雄少將らと語らって菊水鍛刀會をつくったが、これは陸軍関係學 校卒業生に日本刀を頒ってゐる靖国神社境内の日本刀鍛錬會(理事長歴代陸軍次官)と呼應して全海軍が敬崇(けいすう)する大楠公の湊川神社に鍛刀場をまうけ海軍士官に日本刀を頒たうとするものだ。
大西洋、地中海の波騒ぐ時、波静かな太平洋の海もいつ波立つか餘斷を許されない。この非常の時期に海軍兵學校を、機関學校を海軍
大學校を卒業する夢多き海軍士官にその進むべき道をしめさうとするのがこの日本刀頒布の尊い目標だ。
「日本刀鍛錬會」では昭和七年から頒布してゐるのに海軍士官のためのかうした鍛刀場のないのを歎(なげ)い た寺本少將らは、湊川神社後藤宮司らの賛助をえて昨年十一月同神社西門わきに木の香もかぐはしい鍛刀場を設け、出雲の國の刀匠村上道政、伯耆の刀匠・森脇要の兩氏を迎えた。舊臘(きゅうろう=昨年終わり)二十五 日火入式打初式を行ったがいま二人の刀匠は四人の先手とともに斎戒沐浴(さいかいもくよく)して一心不亂 の鍛刀をつゞけてゐる。
この日本刀頒布は海軍省の後援をえて永久的事業としてつゞけられ菊水鍛刀會も近く財團法人の組織に拡充されるが鍛刀場はさらに今春湊川神社にほど近い大楠公ゆかりの遺跡會下山に移され毎年二、三百振の日本刀を鍛へあげることゝなってゐる。
「沈黙」の力を尊ぶ海軍では毎年海軍大學校、兵學校の卒業生に古今東西武將として最も尊崇する大楠公を祭祀する湊川神社から、摂、河、泉の楠公遺跡を巡拝 させてゐるが菊水鍛刀會ではこのゆかりの地で鍛へあげられた日本刀には菊水の紋章を刻み身をもって楠公精神に生きんとする若き士官に頒つことゝなった。
寺本少将談=楠公精神即日本精神だ。われわれは片時も楠公精神を忘れてはならない。
この楠公ゆかりの地ではじめられた意義ある仕事を將來ますますひろげてゆきたいと思ってゐる。

筆者注: この新聞記事により、菊水鍛刀会の設立の経緯と発足時の概要が明らかになっ た。俊秀の鍛刀式の一ヶ月後に行われた火入れ式は、村上、森脇の二人の刀匠が中心に行われた。上掲「正直」は森脇守光の門弟で、岡田正直という。

名門刀匠 堀井家と湊川神社の縁は深い。
堀井胤吉は大楠公五百五十年大祭(明治18年)に神前で、月山貞一と共に太刀短刀二振りを鍛刀し天覧に供した。
この時の貞一刀は明治天皇のお買い上げとなった※1
昭和10年の六百年祭では堀井俊秀が刀を鍛え、5月下旬に奉納した※2
昭和15年11月17〜23日、皇紀二千六百年を記念して室蘭製鋼所から堀井俊秀が招聘され、門弟7名を従えた俊秀たちによって湊川神社の神前で鍛刀式が挙行された(副島靖堂の記述)※3
従った門弟は信秀、胤次、渡部保秀、沼澤俊光、長谷川俊長、中尾忠次、藤田忠光だった。

           (上掲新聞、「刀剣と歴史」※1 第88号、※2 昭和10年7月号、※3 「日本刀及日本趣味」昭和16年新年号ご提供: 森良雄様)
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楠木正成の精神とは

余談となるが、戦前、戦中の刀剣書には「日本精神」という言葉が頻繁に登場する。
然し、日本史教育の欠落もあって、戦後生まれの人達にはその意味が解らずに戸惑う方も多いに違いない。
上掲新聞記事で寺本少将は「日本精神」とは「楠公精神」と同義であると述べている。
その「楠公精神」の意味が理解出来ないと、特攻機や特攻艦艇の菊水紋、菊水刀に刻まれた菊水紋の意味も理解出来ないことであろ
う。
そこで「楠公精神」とは何かに就て少し触れて置きたい。
「楠公」或は「大楠公」とは、歴史上著名な武将・楠木正成(くすのきまさしげ)の尊称である。
武士道の原点は、鎌倉武士の「戦いの掟」だったが、奈良時代、武臣であった大伴氏は万葉集で武人のあるべき姿を「海ゆかば」に託
して詠んでいる。それは天皇に対する絶対の忠誠心と武勇であった。
天皇に従うことが絶対の正義であるとの理念が確立していた。
鎌倉時代以降、武家が政権を執った後もこれは不変の条理であった。
例え強大な勢力でも、天皇に弓引く者は逆賊とされ、必ず滅亡に追い込まれることを知っていた。
武士達は何よりも「逆賊」の汚名を怖れた。
武家の頭領達は、天皇からの認知を望み、挙(こぞ)って天皇の権威を利用しょうとした。錦の御旗にひれ 伏した明治維新はその典型例だった。

永い歴史の中で皇統の争いは何度もあった。その中で、二つの皇統が対立する南北朝は特異なケースであった。
鎌倉幕府の専横による国家の荒廃を憂え、後醍醐天皇は天皇復権の親政を望まれて幕府討伐を計画した。
この討幕計画が事前に発覚し、後醍醐天皇は隠岐に流され、幕府は持明院統の光厳天皇を擁立した。
元弘元年(1331年)、後醍醐帝に呼応した楠木正成らは鎌倉倒幕の兵を挙げた。
多くの武将も天皇を助け、時の執権北条氏の大軍を打ち破り鎌倉幕府を終わらせた。元弘3年(1333年)に後醍醐帝は京に帰還した。
これが世に云う「建武の中興」である。
然し、論功行賞の不満、律令制回帰への不満が渦巻き、間もなく足利尊氏が反旗を翻した。
尊氏は奥州国府の北畠顕家(あきいえ)らに敗れて九州へ敗走したが、大軍を集めて東上する際、持明院統 の光厳上皇の院宣を得て再び京都に攻め上ってきた。二つの皇統の争いとなった。
地方の武士団からすれば、どちらに見方しても賊軍になる虞(おそれ)がなかった。
楠木正成は軍事専門家としての軍略を後醍醐天皇に奏上したが聞き入れられず、延元元年(1336年)、手勢七百余騎を率いて敗北必至
の湊川に出陣し、躊躇(ためら)うことなく数万の足利軍と激戦を展開した。予期した通り衆寡敵せず、 楠木正成は自刃して果てた。
今際(いまわ)の際(きわ)に、正成は弟の正季に「生 まれ変わったらどうしたい」と問うた。
正季が「七度生まれて賊を滅す」と答えたのを聞き「自分も同じ考えならん」と述べて一気に刺し違えたと伝えられる。
正成は忠誠と正義とを以て生涯を貫いた。これが「楠公精神」と言われている。

この時代の武士達は私利私欲に目敏敏(めざと)く、利の為には平気で寝返り、目まぐるしい離合集散を繰 り返していた。
足利尊氏側も上皇の院宣で体裁を整えていた為、武将達は利益配分が高いと思われる優勢な尊氏側に加担した。
こうした中にあって楠木正成は「利」に背を向け、正義と信じる天皇に忠誠を尽くした。
我が身にとって如何に不利であろうとも、死をも厭(いと)わず自ら信じる「義」を貫き通した。武士道の 根幹を為す徳目だった。

江戸時代、朱子学が幕府の教学だった。
武士達は、外来の儒教の摂取に止まらず、これに孔孟の教えを掘り下げ、日本独自の解釈を付加して「武士道」を体系化し、独自の倫
理と美意識を生み出した。
忠義、尚武、仁政、礼節、誠実、名誉、克己等が武士の備えるべき徳性となり行動規範となった。
これは武士に留まらず、庶民にも支持されて日本人の精神的支柱となって行った。
南朝の正当性が認められたことに依り、楠木正成は智・仁・勇の三徳を備える武士の鑑(かがみ)と賞賛さ れ、武士道の手本となって蘇生
した。
豊臣秀吉は検地の際に正成の塚に特別な配慮をし、水戸光圀は信奉心から正成の墓所を新たに建立した。
西郷隆盛、吉田松陰などの幕末の志士達も正成を崇拝して盛んに参詣したと云われ、明治維新に係わった武士達に多大な精神的影響を
与えていた。
幕末から維新にかけて、大楠公の奉斎を望む国民運動が盛んになり、明治天皇のご意志もあって、明治5年(1872年)5月24日、湊川神
社が創建された。

明治3年(1870)、日本の視察に来たアメリカ人グリフィスは、「日本史の中で誰を最も尊敬するか」と尋ね歩いた。
すると、誰もが楠木正成の名を挙げたという。
楠木正成の生き様が武士道の鑑と認識され、庶民の心の琴線に触れていたということである。
正成が遺(のこ)した今際(いまわ)の言の葉は、大東 亜戦の末期に「七生報國」として特攻隊員の鉢巻きに印された。

西洋の精神的支柱は宗教である。
ベルギーの法学大家ド・ラブレーに質問された新渡戸稲造は「日本には宗教教育は無い」と答えた。
答えるや否や、彼は突然打ち驚いて「宗教なし ! どうして道徳教育を授けるのか」と繰り返し言った。
新渡戸博士は即答できなかった。
これが動機となって明治32年(1899)、新渡戸博士は滞在中のアメリカで英文による“Bushido, the Soul of Japan”「武士道ー
日本の魂」を著した。新渡戸博士は、本書で武士道こそ日本人の道徳の基礎にあるものだとその詳細を欧米人に知らしめた。
「武士道は、日本の表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」と説いた。「武士道はやがて国民全体の憧れとなり、そ
の精神となった。
庶民は武士の道徳的高みにまで達することはできなかったが、日本人全体の道徳の基礎となっている」と新渡戸博士は述べている。

台湾には今も「リップンチェンシン=日本精神」という言葉が残っていると云う。道徳の模範として語られている。
弊サイトにも欧米から多くのメールを頂戴する。"Bushido", "Samurai"という言葉が畏敬と憧れの思いで使われている。
戦後の日本人が忘れ去った美しい日本の心を外国人が理解し、尊敬し、高く評価してくれている。



2013年11月3日より
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