軍刀抄(9) 関の軍用日本刀 Syōwa-tō of Seki0

戦時下    関・軍 用 日 本 刀  Syōwa-tō of Seki

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戦時下の関  Wartime Seki

関 刃 物 工 業 組 合

 美濃國は古来より、我が国刀剣の一大生産拠点であった。昭和5年7月19日、この地方を襲った集中豪雨は注文生産を主体としてい
た同地の刃物産業 (ポケットナイフ・鋏〜洋食器等多品種) に甚大な損害をもたらした。
 これを契機に、翌年6月15日、「関刃物工業組合」(日吉町: 組合長加茂町長)が設立された。
 昭和8年9月より、大阪玉鋼製鋼鰍謔閨A玉鋼などの原材料の共同購入が始まった。
 国内購買力の激減と貿易不振、金融界の混乱等の悪条件の中、本格的見込み生産の形態に移行して行った。
 
 この頃の打刃物の流れは、事業家が自己資本によって設備した工場で形抜きされた半製品を、自工場又は小規模な家内工業=即ち、加工業者の「すき屋」と称する処で、研磨機で荒削りの研磨を行い、刃付け成形する家に渡され、再びメーカーといわれる刃物業者に依って焼き入れが行われ、次の仕上げ研磨から仕組みは、農閑期を利用した家の片隅を仕事場とする家内手工業などによってその大半が支えられ営まれていた。
 昭和16年、同組合では、同業者の為に、企業の能率合理化を図って、先に設置した第一共同施設場(研磨)、第二共同施設場(鍍金)
に加えて、特殊焼入機を考案して一層の刃物産業の振興を図った。

美濃刀匠擁護会と日本刀鍛錬塾

 昭和6年勃発した満洲事変は、翌7年(1932)1月、列強の利害が交錯する上海に飛び火して、これらの戦線で日本刀が脚光を浴びる事となった。
 昭和8年、関町の有力者後藤治兵衛、椎名威、遠藤斎治郎、兼村虎之助、山田長蔵、森豊らが中心となって「美濃刀匠擁護会」 (会長を後藤治兵衛)が組織された。昭和9年(1934)に渡辺兼永を立てて「日本刀伝習所」を興させ、昭和10年12月に鍛錬所(春日神社の西隣接地)を新築して活発な活動を展開していった。
 昭和13年、関伝日本刀鍛錬技法の正統を若者に伝える為、日本刀伝習所は道場と宿舎を設備して、「日本刀鍛錬塾」と改称、渡辺兼永を塾頭として全国から塾生を集め、その養成を行った。


写真左:  「日本刀鍛錬伝習場」(全景写真の左の建物)の看板を背に立つ渡邊兼永塾長。写真右:  鍛錬塾全景写真。中央左に四人の刀匠が写っている。
右側の建物が宿泊施設、中央の建物(棟換気がある屋根)が鍛錬所、最も左の建物は、素延した刀の土置や乾燥、研ぎなどの施設などではないかと推測される。
(写真提供: K.森田氏)
 
 この年、兼永は日本刀匠協会の鍛冶総匠に推され、翌14年、水無瀬神宮 (祭神: 後鳥羽上皇) で挙行された後鳥羽天皇700年祭に、日本刀匠を代表して神火をいただき、神前で日本刀鍛錬を奉納した。

The sword of Seki.

 Mino was a 1 large production base of the sword of our country more from ancient times. In 1876, the Meiji government forbade the carrying of the sword. Therefore, production of the sword stopped in Seki. The industry of Seki converted
to production of an edged tool or Western tableware using sword-making technology. The Manchurian Incident broke out
and the demand of military swords grew. In January, 1932, war fire spread to Shanghai. A Japanese sword will be
brought into the limelight in these battle lines. In order to begin a sword making in 1933 corresponding to such a situation, therefore, the "Mino swordsmith protection society" was launched in the influential person of Seki-chō.
 Joint procurement of the Tamahagane started from September, 1933.
 Kanenaga Watanabe which had inherited sword-making technology was supported, and the "Japanese sword training school"
was made to revive in 1934. In December, 1935, the Kanenaga swordsmith built the forging workshop and started training of the swordsmith and the sword making.
 In order to tell a young man the Japanese sword forging technique of the Seki-school in 1938, the Japanese Sword
Training School furnished an exercise hall and lodgings, and changed them to the "Japanese Sword Forging Workshop."
 Kanenaga of forging-workshop length gathered trainees from the whole country, and carried out the cultivation.
 This year, Kanenaga were recommended for the blacksmith spokesperson of the Japanese Swordsmith Association.
 In following 1939, he dedicated the Japanese sword forging on behalf of the Japanese swordsmith for the 700th anniversary of Emperor Go-toba at Minase Shinto shrine in the front of a shrine. In this way, the Japanese sword sword
making revived in Seki.





関鍛冶の新作日本刀 太刀銘:河合兼義(本名義文、明治35年10月25日生・加茂郡加治田村)古式本鍛錬で、九八式略式外装に収まっている
The new work Japanese sword which the swordsmith of Seki forged. Tachi-mei:   Kaneyoshi Kawai         (米山高仁氏所蔵)


金属試験場の設立と古式鍛錬の機械化


 
 昭和12年4月、金属工業の改良発達を図る為、関町及び関刃物工業組合が建築設備などの費用を寄付して
 「岐阜県立金属試験場」 (初代場長: 理学博士上野収蔵) が設置され、昭和13年(1938)8月、金属試験場
 (南春日) が落成して業務が開始された。
 機械鍛造の経験から、昭和14年頃、日本刀・古式鍛錬のエアーハンマーによる機械化に成功。業者指導を行い
 造刀効率向上に多大な成果を挙げた。
 これは古式半鍛錬と呼ばれる造刀法である。主な設備は、ロックウェル硬度計、引掻強度計、ベルトーロ
 (変圧整流器)、電気溶接機、エアーハンマー、金切鋸盤などであった。

  Establishment of a metal examination site and mechanization of an ancient rite forging.
 In order to aim at improvement and development of metal industry in April, 1937, Seki-cho and
 Seki Cutlery Industrial Guild invested, the "Gifu Prefectural Metal Examination Site" was
 installed, and the metal examination site was completed in August,1938.
 The demand of military swords was expanded rapidly.
 The forging of a Japanese sword was very inefficient. It succeeded in the mechanization with
 the air hammer of an ancient rite forging of a Japanese sword from experience of the machine
 forge in 1941.
 This was innovation of sword-making efficiency. This is a sword-making method called "an ancient
 rite half forging." Therefore, the manufacturing efficiency of the Japanese sword improved by
 this new sword making method.

                刀剣生産の急増

 昭和12年3月、関鍛冶刀匠は新組織として「関刀剣鍛冶組合」(長住町)を組織して、技術の向上・統制・
 原材料の購入と配給などの充実に努め、組合員を増加させていった。
 同年7月に、北京郊外の盧溝橋に端を発した日華事変により、列強諸国が対中国援助政策を推進して輸出
 不振に陥り、ナイフ・包丁・洋食器類は相当の打撃を受けたが、刀剣の生産は、事変前に年生産額15万円
 前後であったものが一躍激増し、刀都としてその需要を一手に引き受けていった。
 刀剣の修理や新作刀剣の研磨業も日々繁盛し、関町を中心とした武儀・加茂・山形三郡の研磨業者は、
 昭和12年10月に「美濃刀剣研磨業組合」(新町: 昭和15年春時点の組合員250名、組合長武藤明)を結成して
 技術の進歩・改良を図った。


            昭和14年度、関刃物工業組合検査製品(主たる製品21品目の内、刀剣のみ抽出)

        刀剣(荒地=半製品)    48,257本   軍納入品は荒地=鍛冶研ぎが過半を占めている
        刀剣(完成製品)      33,829本   荒地・完成品合計生産額 約138万円/年

                   時局柄、刀剣=特殊軍刀身。古式鍛錬法による日本刀は無検査に依りこの数字に含まず
                    他の生産品目に比べて軍刀の生産高は郡を抜いて多い

軍 刀 価 格 表
(昭和18年以降か? 給料が75円位の時代)

新 作 日 本 刀 値 段
外 装 新 調 値 段
軍刀一式価格



 古式本鍛錬刀・白鞘入




 古式半鍛錬刀・白鞘入






 100〜150円




 70〜80円

  陸軍制式1等外装  40 円


 90〜190円

  陸軍制式2等外装  35円
 陸軍制式3等外装  30円
 陸軍略式1等外装  24円
 陸軍略式2等外装  20円
 海軍制式1等外装  50円  120〜200円
 海軍制式2等外装  40円  110〜190円
完 成 品 ( 特殊軍刀身 + 外装 ) 一式

    現  代  式  造  刀
 陸 軍 制 式 軍 刀 拵
 65〜75円
 海 軍 制 式 軍 刀 拵
 75〜85円

 戦時下の関では、古式本鍛錬刀、古式半鍛錬刀 (エアーハンマーによる鍛錬刀)、無垢鍛刀 (機械鍛造又は手鍛造)、造兵刀、銃剣
に至る多種の作刀法が存在し、使用鋼材も和鋼、刀剣鋼、耐錆鋼と多岐に亘っている。

 In Seki under wartime, the sword-making method and steel materials of the sword continued variably.
 Sword-making method: Ancient rite forging sword, Ancient rite half forging sword, The one-piece forging made from a machine.
 Steel materials:  Tamahagane, Sword steel, Stainless steel. etc,

「関」・「桜に昭」検査刻印に就いて

 昭和12年の日華事変 (支那事変) 以来、軍刀需要が次第に多くなり、東京近郊で鍛錬された昭和刀が不評を買った事もあって、関
町の刀剣商は、古式刀に劣らぬ実用的な新作刀を他刀と区別して売り出す為、昭和12年10月にいち早く「関刀剣商組合」 (吾妻町:
昭和15年春時点の組合員76名、組合長; 遠藤斎治郎) を組織した。
 国・県当局に運動して、鋼材から生産する新作日本刀は全部、「関刃物工業組合」の検査を受けさせ、合格品には刀剣の中心(茎)に
「関」の検査刻印を打った。
 昭和14年頃から名古屋陸軍造兵廠関分工場が検査印「関」を使用するようになった。推定
 その為、内務省令に依る「桜の中に昭」の字を配した検査刻印に変更した。
 こうした検査刻印を打たせることで品質を保証させる事に成功し、全刀剣需要の大半を独占するに至った
                            (過渡期に「関」・「昭」両刻印が打たれた茎を持つ刀身もある)

About "Seki" and "Shō" stamp

 The demand of military swords has increased rapidly since the China incident in 1937. Since forging swords ran short, the "Shōwa sword" of the simple sword-making method was made in the Tōkyō suburbs. However, it is of inferior quality and was disreputable. The dealer in swords of Seki organized the "Seki Swords Dealer Association" in October, 1937 in order to put on the market the practical new work sword which is not inferior to an ancient rite forging sword in distinction from other swords.
 The association all appealed for the new work Japanese sword produced from steel materials to the country and the prefecture that "Seki Cutlery Industrial Guild" inspects. The acceptable product was fixed that it stamps the "Seki" character on the swod-tang of a sword. Behind, therefore, an acceptable product came to stamp the mark of "being a character of Shō in cherry blossoms" on instruction of the Department of the Interior. A "Shō" character is the abbreviated name for "Shōwa." This guarantees the quality of a practical use sword. Since it succeeded in Seki-chō making the quality of a practical use sword guarantee, most of all the sword demand has been monopolized.

昭和刀  関刻印

  
  初期の検査印
 Initial inspection mark of "Seki"
  名古屋陸軍造兵廠関分工場が
 「關」刻印を使用する以前
 
  内務省令の検査印
 Inspection mark of the ministerial ordinance
 of the Department of the Interior
 名古屋陸軍造兵廠関分工場が
 「關」刻印を使用する以降

 関刃物工業組合の検査対象は昭和刀 (古式半鍛錬、素延刀)のみ。古式本鍛錬刀は無検査の為、原則としてこの刻印は打たないが
刀匠の気に入った本鍛錬刀にも打ったという説もある。
 This inspection mark is not stamped on the sword of a traditional manufacturing process.


茎に「関」刻印を持つ無銘の刀身 (太刀型海軍外装)
It is the "Seki" stamp to a swod-tang(Type Tachi mounting).




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刃長: 67.35 cm、反り: 1.5 cm  銘: 関住兼則作 「桜に昭」の刻印、  裏銘: 昭和十二二(四)年十月日
九八式略式外装入り


従来、名古屋陸軍造兵廠関分工場長・尾藤敬逸技術少佐の回想記「日本刀」、及び「関史」資料により、「関」と「桜に昭」検査刻印の切り替え時期を昭和17年末頃と推定していたが、昭和14年期の「桜に昭」検査刻刻印を持つ刀身の出現に依り、再調査を行った。
「関伝日本刀鍛錬技術保存会」井戸誠嗣会長のご協力により、昭和15年、当時の関町が発行した「刀都関」誌に、『 関刃物工業組合の厳重な検査に合格した刀身に「桜花に昭字」の刻印が打たれ、実用刀として天下無敵の好評を博している 』との記述が発見された。これにより、昭和14年には、新たな検査刻印が使用されていた可能性が高くなった。
当事者の「関刃物工業組合」の資料は未だに発見されていない。刻印を変えた理由、その正式な切り替え時期は未だに不明である。

(刀身写真提供元/美術刀剣「刀心」・町井勲 様)

関 鍛 冶 刀 匠 の 登 録

 昭和14年(1939)には刀剣産業の復興期を迎え、新作日本刀の検査監督を徹底し、関鍛冶刀剣の品質を保証する為、関刃物工業組合
に公認の刀剣検査監督官として、県商工技手吉岡周一が任命され、改めて組合員の刀匠調査が行われた。
 総ての刀工は、その技量の差を問わず刀匠銘が用いられ、昭和14年10月28日を期限とし、期日迄に届け出た刀匠は61名を数えたが、義務付けされなかった為、著名刀匠で見届け者もあった。
 その後、関刃物工業組合への登録刀匠が次第に増え、その数233名に達した。
 昭和17年(1942)12月の全国鍛冶刀匠405名の位列表が作成され、これに関鍛冶67名の記載があり、神品の列に渡辺兼永、貴品の列に藤原兼房・小島兼道・松原兼吉・交告兼上(かねたか)の名がある。

昭 和 刀 の 鋼 材

 昭和17年当時の主要鋼材は旧来に倣(なら)って、出雲鋼(神戸・出雲和鋼梶A東京・出雲製鋼梶A京都・邑智特殊製鋼所、大阪・玉鋼製鋼梶A島根・八雲製鋼梶A島根・帝国製鉄)に依存していたが、打刃物の主材料である玉鋼・包丁鐵・鑪銑(ろせん)が価格統制令により最高販売価格が指定された。
 刀剣鍛錬には一定の鋼材が使用されたが、昭和19年(1944)頃には、材料不足と共に鋼材も廃材を使用するようになり、品質は低下
していった。

刀 剣 会 社・刀 剣 商 及び 外 装 会 社

 昭和13年5月、古式鍛錬技術を有する丹羽兼信・丹羽兼延・交告兼上(かねたか)・土岐亮信(すけのぶ)・村山兼俊らを専属刀匠とする国内最大手の刀剣製作工場「関刀剣株式会社」(末広町)が設立された。
 これら刀工によって責任鍛錬された刀剣は、専属研師(20名)によって研磨され、その他約100名に及ぶ従業員によって外装されて大部分が軍部に納入され、一般の注文には応じ切れない状況にあった。
 同年、「株式会社濃州日本刀鍛錬所」 (清見町)が設立され、専属刀匠を置き、考案の特殊坩堝鋼、厳選した安来鋼を材料として、古式鍛錬の技法を遺憾なく発揮して優秀軍刀を鍛造し、厳密な検査の上、一つ一つに責任保証を付け、全国及び満洲 ・支那の取引店や需要者直接の注文制作も引き受け、更に、新古刀の鑑定・研ぎ・修理・彫刻にも応じていった。

社     名 住所 刀          匠
 関刀剣 末町 丹羽兼信、丹羽兼延、交告兼上(かねたか)、土岐亮信(すけのぶ)、村山兼俊
 株Z州日本刀鍛錬所 清見町
 褐東ウ商会 吉本町 丹羽兼延、栗山兼明、加藤寿命、研師松井秀一
 後藤治鍛治場
纐纈(こうけつ)源三郎兼上、小川外藤
 佐口鍬三刀剣製作所 春日町 小島吉道
 佐口刀剣製作所 駅前 篠田氏房
 糾ヨ共進社 鍛冶町 小島兼道、兼則、武山義尚、三輪兼友、藤井兼藤、栗本兼正、塚原兼次、加藤兼治、松本嘉則
 滑ヨ日本刀鍛錬所 長住町 一文字源天秀、正真子源兼宗、秀俊
 中部日本刀鍛錬所
兼永、兼次、河合兼義、顧問刀匠渡邊兼永
 伊那波鍛刀会
兼上、外藤、兼光、兼成、松原秀吉、兼松満、坂井清

 この他、小島打刃物製作所 (大平町)、広瀬製作所 (日吉町)、河村刃物工場 (鍛冶町)、兼永刃物製作所 (常盤町)、関軍刀外装
等合わせて60社があった (全会社名簿があるが標章との照合が出来ていない)。

名 古 屋 陸 軍 造 兵 廠 関 分 工 場

(刀剣専門工場。工場長: 尾藤敬逸技術大尉(後に少佐)
  
 分工場規模:
 作刀設備24台、職員75人、徴用工50人、女子学徒挺身隊(岐阜県立武儀高等女学校)約50人(主として軍刀の仕組み担当)

        造兵刀  完成品 1,300振り/月産(19年末期)

 昭和18年、尾藤大尉の指揮の基、関刀剣滑O17社が傘下に入り、陸軍将校用「造兵刀」が大量に造られるようになった。
 この刀身の詳細は不明であるが、陸軍制式現代鍛錬刀の量産型と推測される。「古式半鍛錬刀」と同等のものではないだろうか。
 通称三式外装への仕組み(外装調製と製品仕上げ)など軍の協力工場の一員として関では町を挙げて製造に取り組んだ。
 ここで云う「造兵刀」とは陸軍造兵廠製軍刀身の型式の一つで三二年式・九五式刀身と同様の固有制式名称である。
 尾藤少佐の回想記に依れば、「大戦末期の物資欠乏で造兵刀及び九五式軍刀の鉄鞘は木鞘の使用が許された。輪島の漆器協同組合
 の協力に依り、朴の木の木鞘に麻上布バイヤスを巻き、漆を接着塗布して国防色の梨地乾燥仕上げをした」とある。

        九五式軍刀 完成品 3,500振り/月産(19年末期)
        陸軍制式現代鍛錬刀愛知・岐阜県下の陸軍受命刀匠の作刀 800振り/月産(19年末期)
                                                 詳細は造兵刀」参照


関 刃 物 株 式 会 社
 銃剣 
 大東亜戦に突入して、関刃物(株)の洋食器加工技術設備は特別許可により保存され、川崎重工業株式会社の下請けとして、鍛造
 加工技術を生かした銃剣を製造した。従業員2,000名を擁していた。
                                      ※
筆者注:銃剣の刻印に川崎重工の標章が未だ確認されていない

関 一 般

 ポケットナイフ ポケットナイフは関の主要生産品であった。庶民の生活では、果物の皮むきから鉛筆削り、ちょっとした細工に
 至るまで、身近にポケットナイフが無ければ不自由を感じるほどの必需品であった。
 用途に応じて幾種類かを持っているのは常識であって、戦地に向けての慰問袋にも、必ず一つは忍ばせてあったという。

Nagoya Army Arsenal Seki Part Factory
(sword special factory)

 Factory manager: K. Bitō technical captain (he is a major behind).
 Part plant size: 24 sword-making equipment, 75personnel, 50 conscript laborers, about 50 woman student volunteer corps (Gifu prefectural Bugi girls' high school) (Mainly assembly charge of a military swords)
Zōhei-tō: Finished goods 1,300/monthly output (19-year last stage).
 In the basis of Captain Bitō's command, and below Seki Sword Co,Ltd, 17 companies enter under the influence, and the object for military officers "Zōhei-tō" came to be forged in large quantities in 1943.
 Although the details of this blade are unknown, the mass-produced type of an army formality present age forging sword is conjectured. Isn't it equivalent to an "ancient rite half forging sword"?
 It is one of the form of the blade made from an army arsenal as "Zōhei-tō." It is the same peculiar formality name as Type 32 and the Type 95 blade.
 ype 95 Guntō: Finished goods 3,500/monthly output (19-year last stage).
 Army formality present age forging sword: Sword making of the army commission swordsmith in Gifu and Aichi:
800/monthly output (19-year last stage).

Seki Cutlery Co,Ltd.

Bayonet: It rushed into the Second World War and Western tableware processing technology equipment of Seki Cutlery Co,Ltd was specially saved by permission. As a subcontract of Kawasaki Heavy Industries, Ltd., the bayonet was manufactured using forge processing technology. There were 2,000employees.

General Seki

 Pocket knife: The pocket knives were main manufactured goods of Seki.
 In the life of people, from peeling of fruit to a pencil sharpener and little workmanship, when there was no pocket knife close, they were necessaries to the extent that inconvenience is felt.
 According to a use, common sense has several kinds, and one always put into the comfort bag towards a battlefield.



(資料ご提供: 関市役所商工観光課桜田様)


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