軍刀抄 軍刀需給と造兵刀0
軍 刀 需 給 と 造 兵 刀
軍 刀 不 足 と 造 兵 刀
不足した将校用軍刀
満州事変〜支那事変への戦線の拡大で軍刀の供給が追いつかず、敗戦迄慢性的に軍刀は不足していた。
軍刀不足への対処申請が、相次いで陸軍省に提出されている。
九五式軍刀を将校に払い下げ (昭和十二年)
銃甲第一四〇號 將校、准尉軍装用軍刀拂下ニ關スル件 昭和十二年七月廿九日
兵器局銃砲課
(陸軍省受領 貳第二二六〇號)
陸普 副官ヨリ「各師團参謀長(第一、第二、第四、第十二師團ハ留守参謀、第二十師團ハ留守師團参謀長)、台湾軍参謀長」、教育
総監部庶務課長、参謀本部庶務課長、陸軍技術本部長、陸軍航空本部長、陸軍兵器本廠長、陸軍造兵廠長官ヘ通牒
將校、准尉ニシテ九五式軍刀ノ拂下ヲ陸軍造兵廠東京工廠及小倉工廠ヘ願出ル者ニ對シテハ便宜拂下ケ得ルコトニ定メラレタルニ付依命通牒ス 陸普第四四九九號 昭和十二年七月廿九日 陸普電六四號 昭和十二年七月廿九日
理由
今次事変ニ關シ將校、准尉軍装用軍刀 市井ニ不足ノ現況ニ鑑ミ 差當リ九五式軍刀ヲ拂下ケ 之カ緩和ヲ図ルタメ本案ノ通
注意、近衛、第一ヲ除ク「各師團及台湾軍」ニ在リテハ符號電報トセラレ度
陸造 甲第五一五號 九五式軍刀拂下ニ關スル件通牒 昭和十二年七月三十一日
陸軍省御中 陸軍造兵廠
本月廿九日 陸普第四四九九號ヲ以テ通牒セラレタル首題軍刀ノ當廠ニ於ル拂下要領ハ別紙ノ通ニ付 隷下各部隊ニ可然通達方取計
ヒ相成度
別紙 九五式軍刀拂下要領 昭和十二年七月印刷 陸軍造兵廠
一、 價格壹振 (除属品) 金参拾参圓也
一、 拂下ノ方法 出願者ハ拂下願書竝納證(別紙様式第一、第二)ニ代金ヲ添エ直接陸軍造兵廠東京又ハ小倉工廠ヘ差出シ現品ヲ受領スルモノトス 但シ現品ノ送附ヲ要スル場合ノ送料ハ出願者ノ負擔トス (以下様式略)
銃甲第一四〇號 軍装用軍刀拂下ニ關スル件 昭和十二年八月二日受領
(貳第二二六〇號其一)
陸普 省ヨリ各師團(派遣師團ハ留守)、台湾軍、教育総監部、参謀本部、陸軍技術本部、陸軍航空本部、陸軍兵器本廠ヘ通牒
七月廿九日(附 陸普第四四九九號)ヲ以テ通牒セシ九五式軍刀ノ拂下要領別紙ノ通ニ付 爲念通牒ス
各師團(近衛、第一ヲ除ク)及台湾軍ニハ()内ヲ陸普電六四ニ改メ作ル
陸普第四六一二號 昭和十二年八月四日
(以下様式は造兵廠甲第五一五號と同じ)
解説:
軍刀需要の急激な拡大で、市場での将校(准士官含む。以下同様)用軍刀の調達がかなり困難になった状況が窺える。
「拂下」とは国家財産の販売の事。ここでは製品製造と販売(企業的発想)を意味する。不用財産の消極的な販売とは意味が違う。
九五式を払い下げる前に、将校にも販売されていた通称「造兵刀」は一体どうなっていたのだろうか。
大東亜戦開始直後の昭和16年12月23日にも、再度九五式軍刀を将校に貸与する通達(陸普第九二八三號))が出されている。
部隊の大量動員で、市場調達が間に合わない将校達がかなりいた事を物語る。
それでは制式兵器の九五式軍刀が潤沢に供給されていたかというと必ずしもそうではない。
昭和15年度の九五式軍刀の生産量は、整備標準数44,000本に対して受領数24.000本と約半分の充足率である(戦史叢書より)。
名古屋陸軍造兵廠関分工場長として軍刀の監督と製造指揮を執った尾藤敬逸技術少佐の回想記「日本刀」に依れば、「九五式軍刀
を全軍に行き渡らせるため製造の時日を考えたとき、十年の後れがあった事は誠に残念であった。
又、准士官以上の軍装用軍刀についても同様であった」と述べている。
支那戦線の一部の下士官達が私物の日本刀を携行している(成瀬関次著「戦ふ日本刀」)。
九五式軍刀の整備が追いつかず、止むを得ず下士官の私物軍刀を軍が黙認していた可能性が高い。
そうでなければ、下士官達の私物日本刀佩用の説明がつかない。
1
軍刀需給の実情と将校刀身製造の意見具申
(昭和十二年陸軍戸山学校)
陸軍第一七五一號 書類送付ノ件通牒 昭和十二年八月廿四日
陸軍省御中 陸軍戸山學校提出ニ係ル左記書類別冊爲参考送付ス 教育總監部
記
將校、准尉用軍刀ノ整備ニ就テ (10部) (陸軍省受領 貳第二五三八印)
(別冊) 將校准尉用軍刀ノ整備ニ就テ (昭和十二年八月十九日陸軍戸山學校)
判決 將校准尉用軍刀ヲ陸軍造兵廠ニ於テ製造拂下ノ途ヲ講スルヲ要ス
理由
一 毎年新ニ軍刀ヲ要スル見込概數左ノ如シ
陸軍 將校 兵科 一、五〇〇 經理部 一五〇 衛生部 四〇〇 獸醫部 五〇 計 二、一〇〇
准尉 一、六〇〇 幹部候補生 三、五〇〇 合計 七、二〇〇
海軍 約 四〇〇
即チ陸軍ニ於テ大約七千 海軍を加フレハ約七千五百ノ軍刀ヲ必要トス
二、右ニ對シ現下ニ於ル日本刀ノ供給力左ノ如シ
日本刀鍛錬會(筆者注: 九段刀) 九〇〇 (一ヶ月約七十五本)
民間刀匠 一、二〇〇 (一ヶ月一人約十本 一年百二十本 刀匠約十人ト見積ル) 合計 二、一〇〇
民間ニ散在スル古來ノ日本刀ニシテ尚軍刀ニ適スル數ハ算定ノ根拠ナキモ 之ヲ常續供給力ニ充當スルコトハ危險ナリ 鍛錬會
長倉田海軍大佐ノ説ニ依レハ常人カ入手シ得ル日本刀數ハ二、三千本ニ過キサルヘシトノコトニテ 一時的ニハ需要ニ應シ得ル
モ之ニ大ナル期待ヲ置キ得サルノミナラス 古來ノ日本刀ハ價格鑑定等ノ困難アルノミナラス時代ノ關係上 名刀ト雖實用ニハ
相當ノ不安ヲ伴フコトヲモ考慮セサルヘカラス
三、從テ毎年ノ需要約七千ニ對シ供給力ハ半數ニ充タス 現ニ今次事変ニ際シ 軍刀補給難カ現實ニ之ヲ示シ 將来益々此傾向ヲ増
大スルモノト思ハサルヘカラス
五、之カ對策トシテハ民間刀匠ヲ奨励保護スルコトモ必要ナルカ將來ノ大戦ニ際シ軍刀ノ補給ニ遺憾ナカラシムル爲ニハ陸軍造兵廠
ニ於テ確實ナルモノヲ大量生産スルノ途ヲ講スルコト必要ナリ
九五式軍刀ハ本校ニテ試験ノ結果「折レス」「曲カラス」ノ二要素ヲ具備シ 切味モ日本刀中位ノ成績ヲ示シ軍刀トシテ適當ナ
リ唯將校用トシテハ美觀モ必要ナルヲ以テ將來此點ニ改良ヲ加フルヲ可トス
附記
軍刀ハ必ス初任者ニ整備セシムル如ク 特ニ現役者以外ノ者ヲ指導スルヲ要ス 拳銃、眼鏡モ今次遂ニ整備シ得スシテ出動スル
モノ相當アルカ如シ 此等モ將來考慮ヲ要スヘシ
※「四項」は欠番で「三項」の次に「五項」が続く
筆者注) 旧カナ遣いでは濁点を付けない。前後の文から濁点で読む。例: 「考慮セサルヘカラス」→「考慮せざるべからず=考慮すべきである」
解説:
陸軍戸山学校のこの具申書は当時の軍刀の実態を如実に物語る。
1.満州事変、上海事変に続く支那事変の勃発で、将校用軍刀の需要に供給が追いつかない実態に鑑み、造兵廠にて品質の確実な将
校用刀身の大量生産の必要性を具申した。
2.古作刀の中で軍刀に適する価格と鑑定は難しく、且つ、数量には限りがあってこれには頼れない(軍刀報国 昭和14年8月25日現
在提供総数7,176口、合格数3,855口、不合格数3,331口)。然も名刀と称されていても軍刀としての有効性に大変不安を感じてい
る。
民間刀匠の育成も必要だが、将来の大量需要を予見して造兵廠に於ける量産体制確立の必要性を提言している。
民間刀匠の見積もりを10人とした根拠は明白ではないが、明治の廃刀令で刀匠は廃業、転業して潰滅状態だった。
専業刀匠は日本刀鍛錬会(12年4名)、日本刀鍛錬伝習所(栗原門下)、堀井俊秀(室蘭)、高橋貞次(愛媛)、高橋義宗・秀次(大阪・
月山貞勝門下)、柴田 果(秋田)など、何れにしても現役刀匠は極めて少なく、例えある程度の刀匠を確保できたとしても、鍛錬
日本刀の生産性の悪さは如何ともなし難かった。
因みに九段刀(靖国刀)は一人月産10口(終戦迄月産最高20口の刀匠もいた)、終戦迄の12年間に約8,100口である。
年間平均約 675口となり戸山学校の年間 900口の見積もりを大幅に下回っている。
戸山学校が具申した造兵廠に依る刀身量産の提言は、時局と実態を睨んだ卓見と言わなければならない。
3.戸山学校は軍刀操術のメッカである。この具申時点では、栗原彦三郎軍刀修理団や成瀬関次氏などの軍刀修理班の実戦使用結果
の報告は未だ無い。
従って「名刀と雖(いえど)も実用には相当の不安を伴う」とは独自の検証に裏付けられた実感が言わしめた言葉であったろう。
九五式刀身は折れず、曲がらずの二つの要素を備え、切味は古来日本刀の中位と評価した。
独自に古来の日本刀と九五式軍刀を実践検証していた事が推測出来る。これは刀剣界から軍嘱託となった人達が主張する盲目的
日本刀礼讃とは見方が違う。観念論者と実践検証者との違いと云えよう。
将校用刀身には美観も必要であり、九五式刀身に美観を供えれば将校用刀身になるとの主張は興味深い。
4.成瀬氏は支那戦線で「陸軍の工廠でつくる造兵刀※、即ち新村田刀が相当数使用されていた。錵も匂いもない洋鉄素延べの軍刀
で部隊長級にも二三見受けた」と述べている。
一方、昭和8年の青森連隊区将校団々報に「偕行社を通じて販売された九一式下士用刀」とある。
「九一式」とは、昭和7年の「三十二年式改軍刀」の事で、後の九五式軍刀である。
将校に販売されたこの試製九一式下士用刀を通称「造兵刀」と呼称していた可能性が高い。
重要なのは、昭和12年時点のこの戸山学校の提言書に「通説造兵刀」に該当する刀身名が全く現れない事である。
将校用刀身を過去に製造していた気配も感じられない。対比されたのは九五式軍刀のみである。
「俗称造兵刀」を九一式下士用刀とすれば、昭和10年に九五式として制式化されたのでその他の刀身名が出て来る筈がない。
少なくとも砲兵工廠時代の村田刀以外に、将校専用「造兵刀」はこの時点まで存在しなかったという事である。
※ 造兵廠製の刀身を総て造兵刀と呼称していたようだ
2
将校、准士官軍装用軍刀製作命令
(昭和十三年)
銃甲第一五四號 將校、准士官軍装用軍刀製作、拂下ノ件 昭和十三年九月十四日
兵器局銃砲課
(陸軍省受領 貳第二八〇〇號)
陸普 陸軍造兵廠長官ヘ達 首題ノ件ニ関シ別紙ノ通取計フヘシ 陸普第五六六八號 昭和十三年九月十六日
陸普 副官ヨリ陸軍技術本部長ヘ通牒 首題ノ件ニ関シ陸軍造兵廠長官ニ對シ別紙寫ノ通達セラレシニ付 軍刀ノ臨時制式ニ関シテ
ハ該長官ト協議セラレ度依命通牒ス 陸普第五六六八號 昭和十三年九月十六日
別紙 將校、准士官軍装用軍刀製作、拂下ニ關スル件
一、陸軍造兵廠ハ拂下ノ目的ヲ以テ 堅牢且實用的ナル將校、准士官軍装用軍刀(一振外装共八十圓以内)用刀身年産三、〇〇〇
振リヲ製作スルコト
二、當分ノ内 外装ハ黄銅ヲ使用セス實用本位ノモノタラシムルコト 但シ製作圖等ニ關シテハ陸軍技術本部長ト所要ノ協定ヲ爲シ
陸軍大臣ノ許可を承クルモノトス
三、製品拂下ノ取扱ハ財團法人偕行社、同軍人會ヲシテ實施セシムルコト
解説:
1.将校用軍刀不足の実態と陸軍戸山学校からの具申を受けて、この陸軍省通達が発せられたと推測する。
十三年制式外装に拘らず、「当分の間」の外装簡略化を指示している。この表現から陸軍は事変の早期終結を予想していた節が
ある。
不足軍刀を一時的な現象と捉え、臨時処置をしておけば需給バランスは何れ正常になると読んでいたのではないだろうか。
「黄銅を使用しない外装」とは緊急処置として工作の簡略化を狙ったのであろう。後に結果として三式外装となって姿を現し
た。刀身は年産3,000口の目標を明示し、且つ「年産」表現から継続生産の意図が読み取れる。
造兵廠の直接製造か、業者を使う監督製造かは定かでない。戸山学校の意見が採り入れられているとすれば、刀身は造兵廠直接
製造の量産刀身でなければならない。臨時制式に就いては造兵廠長官と技術本部長とが協定して決めるよう指示している。
2.陸軍戸山学校の具申書同様、この将校用軍刀製作通達書にも「通称造兵刀」の陰が全く感じられない。
昭和の早い時期に将校に販売された通称「造兵刀」は九一式下士用刀と見られる。
満州事変以来、戦火は拡大の一途だった。将校用軍刀不足の時局を考えると、九一式→九五式刀身の設備の活用が最も早道だっ
た。然し、この通達書は原価目標も設定した新規格の刀身製造を明らかに示唆している。
将校軍刀には「美観」も必要と具申した戸山学校の意見が尊重されたのだろうか。
3.昭和13年10月10日、主催団体を代表して財団法人軍人会館は陸軍省に「軍装用軍刀頒布ニ關スル件願」(會庶第八七號)を提出
し受理された(受領番号 壹第四九六三號)。
これは将校軍刀不足に鑑み、偕行社、水交社と共に一般蔵刀家の日本刀供出を促し、軍刀適否の審査を経て軍刀適合品を買い上
げて将校、准士官、将校生徒及び陸海軍文官並びに軍属に実費で販売するという企てだった。
所謂「軍刀報国」運動の提唱に当たり、陸軍省の後援と軍刀審査委員の派遣を求めたものである。
この趣意書の中に「乍併(しかしながら)事變勃發以來事態の壙大に伴ひ、出動兵力の揄チと共に軍刀の需要又著しき數量に上った事
は當然であり、此の急激なる需要の搗蛯ヘ、傳家の寶刀及造兵廠刀のみを以て克く其の供給を充足し得なかった事も亦已むを得
ざる所であった」と「造兵廠刀」という呼称を明記した。
偕行社は昭和7年頃「九一式下士用刀」と呼称した。
軍人会館、偕行社は共に陸軍と一体の組織である。将校向け造兵廠製刀身の独占販売窓口だった。
その組織が述べた「造兵廠刀」及び「九一式下士用刀」の言葉は看過出来ない。
偕行社の「九一式下士用刀」が通称造兵刀を端的に表現している様だ。
軍人会館は「九一式」及び前年(昭和12年)に払い下げが示達された「九五式」を総称して「造兵廠刀」と呼んだと解釈出来る。
成瀬氏呼称の「造兵刀」は「造兵廠が製造する量産刀身」を意味する一般呼称であろう。
便宜上、将校に販売されたこれらの刀身を「前期造兵刀」と呼称しておく。
4.年産,3,000口を目標とする刀身はどのような物だったのであろうか。
弊サイトに小倉造兵廠製の刀身を掲載している。樋と直刃の刃文が付いている。この刀身は前期造兵刀とは思えない。
この刀身は他でも確認されているので、量産品と見て間違いなさそうだ。
軟・硬二種の陸軍刀剣鋼を使った皮心鉄構造という説があるが、下記の申請と認可は玉鋼の本鍛錬刀身となっている。
3
将校、准士官用刀製作申請と認可
(昭和十五年)
銃伍第一六九號 將校、准士官用刀製作、拂下ノ件 昭和十五年八月十六日 陸軍兵器本部
(陸軍省受領 伍第七一九號)
付箋 將校用軍刀ノ入手漸次困難トナリ且實用ニ適セサルモノ少ナカラサル現状ニ鑑ミ刀身外装共ニ堅牢實用的ナルモノヲ製作セシ
メタルモノナリ 刀身ハ玉鋼本鍛トス
陸兵作甲第六九三號 將校准士官軍装用軍刀製作拂下ニ關スル件申請 昭和十五年八月十日
陸軍大臣 東条英機殿 陸軍兵器本部長 齋藤彌平太
昭和十三年九月十六日附陸普第五六六八號ニ依ル首題ノ件別紙製作圖竝ニ左記ニ依リ製作、拂下ヲ實施度ニ付認可セラレ度
左記
一、刀匠竝ニ業者ヲ利用シ本年度若干振 昭和十六年度以降年三〇〇〇振リヲ製作ス、其ノ價格ハ一振約一一〇圓(刀身八十圓、
外装約三〇圓)ノ見込ナリ
二、製品ハ兵器廠ノ檢査ヲ行ヒ 製品拂下ノ取扱ハ財團法人偕行社竝ニ軍人會ヲシテ實施セシム
陸普 陸軍兵器本部長ヘ指令
八月十日附陸兵作甲第六九三號首題ノ件申請ノ通リ認可ス
陸普第五七一六號 昭和十五年八月十七日
解説:
これは昭和13年9月16日附陸普第五六六八號通達に対する兵器本部の回答と実施認可を陸軍大臣に求めたものである。
1.造兵廠の量産刀身ではなく、刀匠及び業者に下請けさせる玉鋼の本鍛錬刀身となっている。今からみると全く実態に即さない判
断と思える。
只、先述したように、陸軍省及び兵器本部は、支那事変は早晩終結すると高を括(くく)っていたのではないだろうか。
時間経過と共に事態は悪化の一途を辿ったにも拘わらず昭和13年の起案時の方針に修正を加えないまま申請認可をした。
2.内容は昭和16年1月に新聞で報道された戦用軍刀(後の通称三式)の製作認可である。15年度に若干製作し、16年度から年産
3,000口とした。新聞報道で明らかなように、制式に至る前の大量試作の認可である。
3.戸山学校が提言したように、効率の悪い鍛錬刀だけで急増する軍刀需要に対応出来ない事は火を見るより明らかである。
量産刀身を兵器本部は如何に考えていたのであろうか。
刀匠に依る鍛錬刀とは別に、小倉陸軍造兵廠は古来の日本刀製作法に機械力を応用した試作刀身を造っていた (新聞報道)。
昭和14年5月〜17年1月迄の「造兵彙報」で各種鋼材と作刀法の試作と試験内容が詳細に確認される。これも13年陸普第五六六八
號通達に基づく試案の一環であった事は間違いない。然し未だ最終案が発見されていない。
これが昭和18年から本格的に生産が始まった「造兵刀」であろう。この「造兵刀」は制式固有名である。
これを昭和初期の造兵刀に対して「後期造兵刀」としておく。
この造兵刀を推測するには、昭和19年12月、陸軍兵器行政本部主催の「陸軍軍刀技術奨励会展覧会」の「造兵刀の部」の出品者
がヒントになる。即ち、(有)関共進社の「義昌、兼茂、義忠、兼正」、服部軍刀製造(株)の「頼正」らの名前である。
彼等は何れも陸軍受命刀匠又は刀匠である。後期造兵刀が陸軍刀剣鋼の一枚鍛えの刃文も無いような九五式の延長線上の刀身だ
ったとしたら、こうした刀匠達が作刀して展覧会にまで出品するような品であろうか。素朴な疑問である。
後期造兵刀とは鍛錬に機械を使った「機械化鍛錬刀=古式半鍛錬刀」の姿を想像する (造兵刀の谷村教授戦後談参照)。
小倉、名古屋陸軍造兵廠関分工場を中心に民間刀剣会社と協力して製作された。然し、生産の開始は余りにも遅過ぎた。
尾藤技術少佐(名古屋陸軍造兵廠)によれば、生産が軌道に乗ったのは昭和19年からという。起案から実に6年後の話である。
軍刀行政の誤りが際立っている。
この責任の大半は、古来の日本刀に固執した刀剣界の軍嘱託や日本刀神話を妄信する軍関係者にあったと言ってよい。
日本刀の本質も理解出来ず、時局を読む大局観も持ち合わせていない彼等が、科学的に研究された優秀な各種量産軍刀の生産を
妨げた。軍刀の圧倒的不足は、結果として悪徳業者に依る粗悪刀の蔓延をもたらした。
彼等に粗悪刀を非難する資格などない。粗悪刀を生み出す原因は彼等が創り出したも同然だからである。
兵器行政本部の将校軍刀監査委員会等はその典型であろう。「特殊綱刀、造兵刀、満鉄興亜一心刀は代用軍刀として採用してい
るが、何れ鍛錬刀に切り替える」と主張した。下記時局を考えると彼等の主張は狂気の沙汰だった (日本刀諸情報の所感参照)。
4.国家総動員として昭和16年10月から学徒の徴用が始まり、昭和18年12月、約13万人の学徒が出陣した。彼等は直ちに見習い士官
となったので13万本の将校軍刀の需要が発生している。終戦迄に出陣した学徒は約30万人と推定される。
動員は学徒だけではない。この夥しい軍刀需要に対して、昭和15年の年産3,000口という申請認可は余りに現実離れしている
し、非効率な鍛錬刀で賄えるとでも思っていたのだろうか。こうした軍刀行政の愚かしさは、総て偏狭な日本刀妄想に起因して
いた。
4
尾藤敬逸技術少佐回想記「日本刀」
(名古屋陸軍造兵廠関分工場長)
本書は昭和55年3月10日、陸軍砲兵工科学校、同工科学校、同兵器学校の卒業生及び教職員の為に、大戦末期、全軍の軍刀整備の担当責任者であった筆者が当時の実情を知って貰う為に喜寿(77歳)で纏められた資料である。
「私の思い出と戦後散失を免れた少ない資料とをとり交え纏めた。私は大東亜戦開戦後、内蒙古の第一線より名古屋陸軍造兵廠附に
転勤し熱田製造所にて中小口径火砲の製造検査を担当していたが、後、名古屋陸軍造兵廠熱田製造所、関分工場長(軍刀専門工場)兼
名古屋陸軍造兵廠関監督班長として関刀剣株式会社他十七会社の監督官として服務することになった。
思えば陸軍刀に関することは今は旧軍の記録にもなく又当時軍の機密に属する事にて推測の域を出なかった記録しか残っていなかっ
た。
おそきに失した事を残念に思います」と述べられている。
本書は日本刀の俗説解説が大部を占めているので以下必要部分のみ記す。
1.陸軍制式現代鍛錬刀
七百年の伝統ある関伝の鍛錬法が実用上には最もよいとしてこれを採り入れた。関鍛冶伝統の四方詰は比較的容易であり又実戦
上最高のものなので陸軍の現代鍛錬刀の鍛刀法に採用されていた※1。
陸軍検査規格では荒研ぎの終わったところで試切検査 を行い、厚さ1.2o、巾15oの軟鋼板を三ヶ所にて切断して刃切れ、刃
こぼれ及刀身の曲がり等なき事を確認した。
2.造兵刀
形状寸法等概ね鍛錬刀に準じたもので刀身は刀剣鋼(C1.0%-1.1%)を使用し火造り素延べ成形し反りを付して油焼入(温度840
度)焼戻(530度)したものを鍛錬刀に準じて上研ぎした。油焼入れのため折れないけれども焼刃はない※2。
3.九五式軍刀
刀身地鉄は造兵刀と同じ刀剣鋼にて寸法、重量は造兵刀より稍軽量、細身で圧延ロール及機械ハンマー等により鍛造成型し、造
兵刀と同様油焼処理し、主として乾燥研磨による機械仕上げをした。
4.昭和刀
一見して鍛錬刀と区別出来にくい。一般市販品の主流をなし動員将兵の父兄が高価に仕入れたものであるが刀身は普通硬
鋼、特に自動車用平ばね、鉄道レール等を主材料として鍛造成型鍛錬刀と同様焼刃土を使用し水焼入れして作ってあるから一見
鍛錬刀と変わりなく見えるから高価に取引されたが、高炭素鋼の丸鍛えであるがため肝心の白兵戦の場合折れる心配があった
※3。
5.ステンレス刀
海軍士官専用のものであって長いこと海上勤務して海水に浸ったり、汐風に当っても錆びないよう十八クローム鋼を主材料とし
たものであり、現時各家庭で使用されているステンレス包丁と思えば大差ないが切味は炭素鋼に及ばない※4。
本刀は海軍武道師範の高山範士が考案指導したから「高山刀」とも言った。
制式軍刀について
軍刀の不足は夥しく製造元に矢の様な催促を受けた。
鍛錬刀は大量生産の道なく、せめて造兵刀の大量生産へと思い直営生産を主体として民間工場と共に十九年の初頭生産を軌道に
乗せた。
十九年末期に於ける各種軍刀の生産量(民間共月産)は次の通り (筆者注 関分工場分と思われる)
九五式軍刀(完成品) 3,500振り
造兵刀(完成品) 1,200振り
鍛錬刀(愛知・岐阜県下) 800振り (この数は鍛錬刀の全国生産数の約半数であった)
注釈
※1: 陸軍制式現代鍛錬刀とは陸軍受命刀匠規格刀の事である。造り込みは刀匠の得意に任せられていたから愛知・岐阜県下の刀匠
に限りそのような指導をしたのであろうか。又関伝は四方詰だけではない。実戦刀には他に優れた合わせ鍛の関伝があった。
尾藤少佐の思い込みか、刀剣関係者から戦後に得た情報が錯綜したようだ。「現代鍛錬刀」が制式名称だったのか?
※2: これが後期造兵刀だとすれば成形手法と研磨が違うだけで九五式と態々区別する意味を感じない。この仕様だと、鍛錬刀との
比較に於いて生産量が少なすぎるように思える。
又、小倉陸軍造兵廠の嘱託だった九州帝大谷村教授の「玉鋼の機械化鍛錬刀だった」という論文内容と違う。
後期造兵刀の真相を知りたいところである。
※3:
大変残念な見解である。各種優れた特殊軍刀身をご存じなかったようだ。一般刀剣界の誤った風評そのものを述べている。
※4: 陸軍でも使われた。単純に18クロームだけではない。優秀な耐錆鋼刀もあり、斬味も様々だった。
これは本来一級資料である。然し、35年後に、ご高齢且つ断片資料を頼りに纏められた為か疑問点があるのが残念である。
制式造兵刀に関しては新たな資料が得られ次第内容修正を致します。
尾藤少佐回想記「日本刀」は森良雄様ご提供 森様は尾藤氏の自宅を訪問されたが既に鬼籍に入られていて疑問点の確認や、より詳し
いお話をお聞きする途は永久に閉ざされた。慚愧に堪えない
2013年9月22日より(旧サイトから移転)
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