軍刀制定勅令(6) 三式軍刀制定0

陸 軍 将 校 用 新 軍 刀 (通称:三式) 改 正

Gunto revision for army officers 1943 Type 3

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戦 時 軍 刀

 将校用軍刀は勅令の「服制令」で定められていた。
 昭和18年の「服制中改正」では将校軍刀改正の項目が記述されていない。
 この為に、通称三式は制式軍刀ではないという説が一部に流布された。
 然し、この新型軍刀は、昭和13年9月16日、陸普第五六六八號にて臨時制式として製作通達が発せられた。
 これを受けて兵器本部長は仕様と図面を完成して、昭和15年8月10日、陸軍大臣に陸兵作甲第六九三號を申請し17日に認可された。年末迄に若干の試作軍刀を完成して翌16年初頭に新聞紙上で公表した。

 これは、量産試作品を実戦検証して制式化するという兵器では普通にある手順を軍刀で初めて採用した。
 昭和13年時点に於けるこの臨時制式の意図と、昭和15〜6年時点の状況は様変わりしている。当然意図も変質したと思われる。
 大量の量産試作刀が前線で検証されたと思われるが、その後の制式通達が発見されていない。
 然し、軍と造兵廠は「制式」以外の兵器類を用兵したり、継続生産出来る組織体ではない。
 弊サイト掲載例でも明らかなようにこの新軍刀は国力の変化を外装に反映している。
 この事は量産試作(臨時制式)で終わったものではなく、継続生産の事実を物語る。継続製造の事実の方が遙かに「制式」の確かな
証明となるであろう。

 米・英・蘭との全面戦争に突入する直前の昭和16年1月、主要新聞紙上で、この「新軍刀」が既に予告報道されている。

陸軍新軍刀の試作・実験報道



  朝日新聞昭和16年1月9日(木曜)第7面報道
 軍刀も純日本式

 東条陸相は八日昭和の“葉隠論語”ともいうべき『戦陣訓』を全軍に示達して昭和武
 人の人格完成を諄々(じゅんじゅん)と説いたが、今度は軍人の魂とも言うべき軍刀が従来
 の西洋臭をかなぐり捨てて日本古来の打刀式に改められようとしている。
 陸軍の軍刀は、文官がフランスのエペーを採用したのに対してドイツのサーベルを模
 倣し、日露戦争の時既に幾多の短所があげられ改正が叫ばれたが、それが実現したの
 は昭和九年のこと、満州、上海両事変体験を生かしてサーベル式から一躍鎌倉末期の
 太刀型に改正された。
 然し鎌倉末期の太刀は足利将軍が好みにまかせて造った謂はゞ儀礼刀でまだ十分に実
 戦的とは言えず、今次聖戦の尊い血をもってあがなわれた貴重な体験の結果、今度の
 改正に際して戦国時代に盛んに使われた刀を継承した徳川時代の打刀の型式が多分に
 採り入れられ、ここに鉄製鞘などに残っていた従来の西洋風を完全に一蹴して純日本
 風の軍刀が昭和軍人の腰間を飾る事になる様である。
 今度改正されんとする主要点は従来七寸乃至七寸五分であった柄が八寸以上と規定さ
 れ、然も殆ど(柄の)反りがなくなったこと、柄木は朴が今事変で折れた実例に鑑み、
 武士の象徴とも言うべき丈夫な桜木にしたこと、鉄製の鞘が木製になって軽くなり、
 しかも修理が野戦でも簡単に出来るようになったこと、柄糸も弱い絹糸の代わりに麻
 糸が登場して巻き方も菱形巻から片手一本巻に改められ、真鍮製の透かし鍔が一枚物
 の無地の軟鉄製の丸鍔に改められて強度を増した等、何れも外観を度外視して実戦を
 主にしているのが改正の眼目だ。

 右について、昭和十三年二月から約九ヶ月間蓮沼部隊に軍属として従軍、戦線で軍刀
 の修理にあたった日本刀の研究家成瀬関次氏は語る。
 今度の改正は何れも戦国時代の人々の研究とぴったり一致しているので面白いと思っ
 ております。柄を八寸以上にしたことは居合術の祖である林崎甚助が出羽の館岡の林
 崎明神に百日参籠して祈願の結果、満願の日に霊感を得て製作した奇怪卍剣の柄が八
 寸であったことに符号し、片手一本巻とは通称勘助巻と言って武田信玄の軍師、山本
 勘助が陣中で自ら考案したと伝えられる巻き方で、この方法によると従来の菱形巻が
 巻くのに半日や一日かかったのが僅か三十分位で出来ます。
 柄糸も麻糸の方が丈夫で、それも眞田紐が一番使ってみて成績が良かったです。 
 鞘も木製となってその上を生木皮で覆い、柄と共に薄く漆を塗って防水を施すそうですが、私の考えが採用されて嬉しく思ってお
ります。これで漸く陸軍の軍刀が純日本式に遡るわけです。

完成した新軍刀 全国刀匠の手で年に三千口


朝日新聞昭和16年1月17日(金曜)第7面報道

 軍刀の改良について陸軍では今事変の尊い経験に鑑み、つとに鋭意研究を進めていたが「軍刀は美術品ではなく飽くまで戦闘を主
としたる武器である」との建前から、白兵戦闘裡に遭遇すべきあらゆる場合を考慮した新軍刀を完成。いよいよ実戦に使用されるこ
とになった。従来不良刀匠や悪徳ブローカーが外観だけで売りつけたものが危機一髪の実戦にポッキリ折れた例があったり、伝家の
宝刀と自負して携えたものが意外にも曲がったなどの例もあり、陸軍で独自の研究を進める傍ら刀剣現地修理班として戦地で活躍し
た民間の刀剣研究家の報告も採り入れ“斬撃刺突”の効果を十分に発揮し得る理想的な軍刀を陸軍戸山学校、陸軍技術本部の協力の
下に小倉陸軍造兵廠で試作研究の結果、新軍刀の誕生となったもので、今後毎年約三千口を製作、偕行社と軍人会館から戦地用とし
て発売することになった。
 新軍刀の特徴は先ず刀身については

一、原料並びに鍛錬法-折れず、曲がらず、刃こぼれせず切味良好を第一条件とし之に白兵戦闘の場合に於ける操作の容易、堅牢の
  点を考慮して、硬く(曲がらず切味良好)しかも軟く(折れず刃こぼれせず)という相反した条件を満足させる為に、和鋼を鍛錬す
  る古来の日本刀式に機械力を利用する部分を折込こんである
二、形状寸法-鎬造り、華表反りの豪壮な形姿、先ず古来の相州伝に近く、切先、先身幅、地肉半径並びに反りの調和を計り、「突
  き」及び斬撃の両面を兼ね備え、また地肉を十分保たせ小鎬と松葉角支点の重ねを厚くして打ちおろしの張切った姿にしてあ
  る。刃渡りの寸法は二尺一寸、二尺二寸、二尺三寸の三種とし、重量は百九十五匁乃至二百廿五匁である。

 次に外装については佩用、使用に便なるように実用本位に改正し打刀造りの型式を多分に採り入れたものを選定してあり、柄の折
損、鍔元の緩みなど防止に留意し、柄と頭金の形、目貫の位置、柄糸の巻方、鍔の形状等を操作に便なようにしてある他、鞘は木製
とし朴の木に皮をかぶせて漆をかけたもので軽くして固く、自動車で轢いた位では折れず、金属製のように水が入る心配がない等の
特徴を持っている。
 この新日本刀の製作は現代有為の刀匠を選び、材料は官給とし出来上がったものは刀身、外装とも造兵廠検査官が綿密な検査を行
った上で供給しょうというのである。
 但し、この新軍刀の規格は直ちに制式として制定されるものではなく、これを実戦に採用し更に改良の余地があるか否かを確かめ
た上、正式に制定の運びとなる。それ迄は外装も在来のままで差し支えないわけである。

一閃・鉄兜も断つ 実戦本意・陸軍新軍刀




写真説明(上) 新軍刀外装、(下) 刀身

  東京日日新聞(後の毎日新聞)
 昭和16年1月17日(金曜)第5面報道

 陸軍では今事変以来、実戦における軍刀について種々の経験に鑑み軍刀を飽くまで戦闘を主と
 した武器とすべく新軍刀の製作に関し第一線の実戦報告並びに刀剣家卅余名による現地修理班
 の意見報告を基礎として研究していたが、この程一案を得たのでこれを製作、第一線将兵に試
 用させることに決定した。将校、准士官の腰間に新威力を発揮することになった新軍刀は折れ
 ず、曲がらず、刃毀れせず、切れ味良好を主眼として、人を対象とするほか近代戦の白兵戦闘
 において遭遇すべき銃槍、鉄兜、防寒被服類等に対する斬撃刺突の効果を考慮し、単一成分の
 洋刀の遠く及ばぬ和鋼(軟鉄、硬鋼)を使用、全国著名刀匠に委嘱、その試作品につき実用価値
 を確かめ、更に小倉陸軍造兵廠で試作、その鍛錬法も古来の手作業に更に機械力をも利用した
 もので年々各刀匠の手によって約三千振りを作らせ偕行社、軍人会館等で頒ち注文にも応ずる
 ことになり、既に実施中である。
 新軍刀の外観は鎬造り、華表そりの豪壮なもので古来の相州ものに近い。

 新軍刀の特徴
 一、切先、先身巾、地肉半径並びに反りの調和を計り、小鎬と松葉角交点の重ねを特に厚く
   し、打ちおろしの張姿とした
 一、刃こぼれの場合、再研磨により実用に供し得る程度とし、錵の状態は刃こぼれ及び刀身の
   折損防止のため刃縁は匂い深く小錵絡みとした
 一、刃渡りは二尺一寸、二尺二寸、二尺三寸の三種、重量は百九十五匁乃至二百廿五匁、
    また外装の型式は佩用、使用に便なる様「打刀造り」とし
 一、目釘穴を中心とする柄の折損、鍔元の緩み、発條の耗損、佩鐶の摩損を防止
 一、中柄、頭金の形状、目貫の位置、柄糸の巻方、鍔の形状等も操用に便利にし
 一、鞘は朴の木に生皮をかぶせ漆塗り、自動車に轢かせても破損せぬ強靱性を持ち浸水による
   錆びを防止する
 一、各部分の金具は従来の黄銅にかえ軟鋼に銅鍍金を施す
                                           
 新軍刀実験結果
 陸軍戸山学校教官森永少佐等、同校助教授等の実験の結果は左の如く優秀なものである
▲巻藁斬り=一昼夜水に浸した二俵分の藁束を斬る時は手応え軽く斬味良好、平均斬込量百七十
 パーセント(人間胴体と略同)、刀身異常なし
▲青竹斬り=径三〇-三五ミリの青竹を一俵の藁の心に入れて一昼夜水に浸したものを垂直に立て
 て斬る時手応え軽く、刀身異常なし
▲鉄兜斬り=水に浸した綿布で覆った鉄兜を斬る時はその一部長さ廿ミリを斬込み(従来のは概し
 て斬れぬ)僅かの刃まくれを生じたのみでその他異常なし

尚、この新軍刀は試用の効果如何(いかん)によって将来制式に採用される筈。



 陸軍は、戦線の急激な拡大に依る将校用軍刀の供給不足に鑑み、冒頭に述べた如く昭和13年9月16日に造兵廠長官と技術本部長に外装簡略化を含む堅牢で実 用的な新軍刀製作の示達をした。陸軍省はこの時、「当分の内」として臨時制式と考えていた様である。
 新軍刀の具体的仕様を検討する段階で、支那事変の実戦体 験や成瀬関次氏などに依る軍刀修理班の軍刀実態の報告等を参考にして、昭和九年制定軍刀(九四式、その延長の九八式)とは考え方が抜本的に異なる新軍刀案を纏めて行った。

 この具体案策定の2年間に、国内外の情勢は大きく変化した。支那事変は収束するどころか日米間も一触即発の状況に立ち至った。「当分の内」という臨時制式の意図が昭和15年の実施申請の段階では「本格的且つ大がかりな改正」に変質した。

 改正の着目点は古来の日本刀の弱点(短い茎とそれに伴う柄廻りの損傷、刀身品質のバラツキ、非生産性)の改良、悪徳業者の粗悪
刀の排除、物資節約と生産効率化の為の外装の簡略化、保守などである。       詳しい経緯は「軍刀需給の実情と造兵刀」参照
 
 将校軍刀は明治8年11月24日太政官布告第百七十四號で武官軍服の一部と規定された。
 刀身は材質を「鋼」と規定するのみで、将校の自由選択に任せられていた。日本刀に規格など無い為である。
 以来、服制に於ける義務づけられた私的装備品であり、「軍装用軍刀」と呼ばれた。
 将校軍刀不足の為に、昭和6〜7年頃、試製九一式下士用刀(三十二年式改=陸軍刀剣鋼の一枚鍛え)を偕行社から将校に販売した。
 これが世間で言われる通称「造兵刀」である。軍刀不足は深刻で、粗悪刀が横行し始めていた。
 今回のこの新軍刀は「外装」と「刀身」の両方を制式化する意図が明確に表されている。寧ろ、刀身の制式化に重点がある。
 従来の外装を主とした改正とは全く次元が違う。
 「儀仗・指揮用」であった将校軍刀の用途を「兵仗用」に大きく転換したものと思われる。

 この刀身諸元は、後の陸軍受命刀匠規格刀(陸軍制式現代鍛錬刀=名古屋造兵廠尾藤技術少佐の呼称)の仕様と完全に一致している。「全国の著名刀匠に試作させ」とは、既にこの時期から受命刀匠制度が実質的に始まっていたということであろう。
 又、小倉陸軍造兵廠では「和鋼を鍛錬する古来の日本刀式に機械力を利用して試作した」とある。
 小倉陸軍造兵廠は、この新刀身試作の段階で、九州帝国大学工学部谷村X(ひろむ)教授と共に、機械ハンマーに依る効率的な製造方法を確立した。
 谷村教授は東京帝大俵國一博士の教え子で、九州帝大の日本刀鍛錬所で各地の刀匠を招き、昭和11年から日本刀の製作工程を冶金
学的に研究していた。
 小倉陸軍 造兵廠は九五式刀身の量産を行っていた。新たな製造法の確立は下士官刀とは違う刀身の製造を意味する。
 この時期以降、この新刀身の完成型(造兵刀=制式 名)の製造を始めたと思われる。
 昭和17年に発足した陸軍兵器行政本部の将校軍刀監査委員会の趣意書にある「造兵刀」の明記がそれを裏付ける。
 従って将校に販売された「造兵刀」は昭和初期(通称)と大東亜戦開戦後(制式)では刀身が全く違っている事になる。

 陸軍の将校用「制式刀身」は、鍛造法の違い、即ち民間刀匠に依る手作りの「受命刀匠規格刀=制式現代鍛錬刀」と造兵廠及び協力会社が機械を併用して造る工 業的「造兵刀」に収斂された。
 昭和18年11月、陸軍々刀展の「造兵刀」の出展、昭和19年12月陸軍々刀展に於ける「特殊綱刀の部」、「造兵刀の部」、「鍛錬刀
の部」という三つの刀剣区分がそれを物語る。
 又、陸軍が大きな岡山刑務所刀剣工場を見過ごすだろうか。
 江村刀の鍛造法は、小倉陸軍造兵廠の機械化製法に近似しているように思えてならない。
 同じ国営組織として、制式刀身の製造工場の一環に組み込まれていたのではなかろうか。

 この新軍刀は「襤褸(らんる)」誌で「三式」として販売されたとの記事が、三式呼称の始まりという(情報ご提供:進藤進氏)
 試作新軍刀は実戦検証を行う事になっている。
 検証と手直し、最終案がまとまった後、生産体制の準備にもにかなりの時間を要した事は想像に難くない。
 17年から本格的に展開された受命刀匠規格刀の体制作り、18年から名古屋陸軍造兵廠関分工場における造兵刀の増産体制の開始を
勘案すると、この新軍刀の制式は昭和18年からとみるのが自然である。
 現在、現物確認される通称「三式」の標準は木製鞘ではなくて鉄製の鞘である。
 第一次試作案の後、検証結果を反映して試行錯誤が相当あった事が窺える。
 尾藤少佐(名古屋陸軍造兵廠)の回想記で、鉄鞘が標準であった事が確認されている。
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新型軍刀を「正式外装」として公表

陸軍兵器行政本部嘱託・渡邊國雄著「軍刀」(昭和19年7月25日発行)



 本図は軍提供の図面であろう。注目すべきは「正式外装」と明記している点にある。
 戦時情報統制は大変厳しく、特に軍に関する情報は「軍の検閲」を通らないと出版出来なかった。制式図を民間で勝手に作図・公
開するなど不可能である。又、木本益雄陸軍中将が本書に序文を寄せている。
 これらを総合すると、軍刀図は軍から支給され、軍支援の基に出版された事は明らかである。
  従って「正式外装」との記述は、文字が違っていても、この軍刀が「制式」である事を軍が公認していた事に他ならない。
 「制式」と「正式」の文字の取り違えは民間人ではザラにあった。
 刀身は三種の内の「中」が描かれ、柄は何故か諸捻巻きである。片手巻きでない理由は不明。
 その他は現存する「三式」そのものである。

 本文で、従来の外装(注:九八式)の問題を多々述べて「早く戦用外装(改正された新外装)に換へたが宜しい」と訴え、更に、九八式の鋳型や資材の在庫問題・職人の慣れ・将校の好みで九八式の供給が続き、外装業者がなかなか野戦新軍刀に転向しないという。
 無下にも(注:業者の経営上の問題もあって新軍刀への切り替えを)進められず、新軍刀普及の遅れを嘆き、外装業者と九八式を好む将校達
を盛んに牽制している。九八式外装継続理由の一端が窺える。
 これらの記述はこの新軍刀が「制式」であった動かぬ証拠である。

 著者の緒言から、原稿は昭和18年初夏に脱稿し、本文で「最近の改正」、「今回の改正」等と述べている。
 従って、この新軍刀の制定時期は18年初夏以前でなければならない。
 この新軍刀の制定時期の諸説(19年式・1944 Type説)は訂正を求められるだろう。

                  ※ 軍刀外装図:佩鐶を持つ外装は「太刀」であるにも拘わらず、名称や刀置きを打刀としている。
                   軍の嘱託に登用された刀剣専門家と称する人達の新刀以降の「打刀」にどっぷり染まった実態がよく窺える

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制 定 が 勅 令 で な い 理 由


 陸軍が、こうして本格的に取り組んだ新軍刀が勅令裁可をしなかった理由を推定する。

1.陸軍省は昭和13年「陸普」通達でこの新軍刀の臨時制式を示達した。支那事変の白兵戦の戦訓から、仕様検討の段階で将校軍刀
  の認識を転換した公算が大きい。
  即ち儀仗・指揮刀の服制装備品から「準兵器」へと認識を転換したと思われる。この新軍刀の第一次試作が発表された11ヶ月後
  に大東亜戦争(狭義)に突入した。開戦劈頭の勝利は短く、昭和17年のミッドウェイ海戦の大敗、ガダルカナル撤退と早くも戦況
  に陰りが出始めていた。
  この新軍刀を制式化する昭和18年時点の国内外の情勢は十三年改正時とは雲泥の差があった。
  国家総力戦が叫ばれていた時期である。
  危機感を強めた陸軍が将校軍刀を「準兵器」と位置づけても不思議はない(佩用将校が軍刀を有効な武器と認識するのか、先進
  国相手に軍刀が武器となり得るかとは別問題)。
  そうであれば、下士官刀と同様に陸軍独自の制式採用により「陸軍通達」等での布告となる。
  この新軍刀の出発点は「陸普」通達だった。

2.兵器であれば軍機密である。九五式下士官刀は制定時、図面の配布部署と配布枚数が明記されているが、実際の九五式軍刀図面
  は一切添付されていない(防衛庁戦史室にも確認済み)。
  成瀬関次氏が「刀と剣道」(昭和16年3月號)誌で著述したこの新軍刀の説明は外装に詳しいが、刀身の製造法は「軍機密」とし
  ている。従来の外装制定の取り扱いとは全く違っている事が確認される。

3.戦時非常時体制では「防諜=機密情報漏洩及びスパイ防止」統制が徹底していた。勅令(官報公示)情報は敵国に筒抜けとなる。
  昭和18年の新軍刀制定時、決戦兵器と認識していたら、勅令に依る制定は不可能である。
  昭和18年(10月12日)の服制改正の項目から軍刀が除外されても不思議はない。
  兵器類の制定は「勅令」ではなく、型式の採番が制定を意味し、全軍への布告は「陸達」・「陸普」等で処理される。
  加えて戦時には通達布告の形式よりも「防諜」への配慮が何より優先されていた。

4.昭和9年陸軍制式軍刀から、天皇佩刀外装は陸軍将校と同一になった。
  大元帥佩刀と将校軍刀との外装を同一としたのには大きな意味があった。即ち将兵達に及ぼす士気の影響である。
  三式外装は実戦向きを建前としているが、実態は物資節約と生産性向上の為の工作簡略化が目的である。
  九八式に比べて外装品位は明らかに劣る。
  天皇佩刀と将校佩刀を区別する考えもあるが、その場合は外装を同一とした意義が失われて仕舞う。
  さりとて三式外装を天皇佩刀とするには余りにも畏れ多くて忍びなかった。当時の世情としては大問題であったと推測する。
  天皇佩刀への配慮も大きく働き、苦肉の策として「昭和18年服制中改正(三式)」から軍刀を除外し、この新軍刀は昭和13年の臨
  時制式同様に「陸普」での示達を採ったと考えられる。その為、服制としての九八式外装はそのまま存続させざるを得なかっ
  た。

 三式制定はこれらを総合的に判断した結果と思われる。
 只、「野戦用」という言葉が強調され過ぎている。昭和19年の「陸軍々刀技術展」の出展項目に「野戦外装」が区分されている。
 この為に、内地で九八式を、戦地は三式という解釈を一部に生んでいるが、18年末からの学徒出陣などに依る少尉の大量誕生で軍刀は絶対的に不足していた。内地編成部隊は次々と戦地に送られ、内地・外地の区別すらもない戦時非常時体制だった。
 こうした物資不足と、状況の中で、内地と戦地用に二重に軍刀を整備することなどは考えられない。

軍 刀 需 給 の 実 情

 軍の本音は将校軍刀の「兵仗化」にあった。新軍刀の趣旨、渡邊國雄著「軍刀」の新軍刀択一の主張からも明白である。
 然し、天皇佩刀(九八式外装)との整合性の為には「戦用、戦時用、決戦用」を強調する必要があった。
 即ち、この新軍刀があたかも時限例外処置であるかの印象を与える事で二重制式の矛盾を正当化できるし、外装簡素化の大義名分
も成り立つ。「野戦用」はそういう政治的配慮をも込めて強調された通称と思われる。
 「野戦用」を言葉通りの戦地向けと解釈するのは表層的であろう。
 九八式天皇佩刀を除き、九八式の需要が予想外に継続した事は軍として目論見違いであったに違いない。

残る課題

1.現在、弊サイトにご協力頂いている森様が膨大な陸軍通達の調査をされている。
  昭和18年度分では未だこの新軍刀の制式通達類が発見されていない。
  昭和13年の臨時制式を拡大継続したか、或は別の実質制式示達を行った可能性もある。
  通達類が発見されていない「制式兵器類」は他にも存在する。
  「軍刀に関しては軍機密ということもあって旧軍の記録にも今は無い」との名古屋陸軍造兵廠で軍刀生産の指揮を執った尾藤少
  佐の言葉が困難な状況を端的に物語っている。
2.非常時体制と深刻な物資不足の中で九八式と三式が併行生産(二重制定)されていた真の理由の解明が必要である。

 弊サイトは、今後の新資料の発掘により本説が誤りと確定しない限り、通称三式を昭和18年制定軍刀と見做す。

(上記新聞記事の調査とご提供: 森良雄 様) 著書と経歴は「ご協力者」の項に掲載



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