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ヒトラー・ユーゲント来日記念刀の帰還

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ヒトラーユーゲント親善交歓団の来日


昭和13年9月23日、ヒトラーユーゲント、横須賀の記念艦「三笠」を訪問

ヒトラーユーゲント(独: Hitlerjugend, 略号: HJ)は、1936年の法律によって10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた国
家唯一の青少年団体。「ヒトラー青年団」ともいわれる。
昭和11年(1936)の日独防共協定の締結に伴い、日・独青少年相互親善交歓事業の一環として昭和13年(1938)8月16日、HJの一行が横浜港に上陸した。シュルツェ団長、レデッカー副団長以下30名は90日間滞在して日本各地を歴訪した。

 8月16日・17日〜東京(靖国神社参拝)、19日 山中湖(富士登山)
 8月23日〜軽井沢(近衛邸レセプション他)
 8月28日〜日光中善寺湖畔(東照宮)
 8月31日〜会津若松(白虎隊々士の墓参)
 9月04日〜函館、9月05日〜札幌〜支笏湖畔
 9月10日〜岩手・仙台(政宗像)・青森(奥入瀬)・秋田(竿灯祭り)  
 9月22日〜鎌倉(鶴岡八幡宮)
 10月02日 岐阜、3日 関町(日本刀鍛錬見学)〜名古屋
 10月07日 伊勢神宮参拝、10月10日 法隆寺見学
 10月13日〜京都・大阪(清水寺、金閣寺、大阪城見学他)
 10月22日 瀬戸内海深勝(鞆ノ浦など)
 10月23日〜別府、10月25日〜宮崎(鵜戸神宮参拝)
 10月29・31日〜熊本・雲仙、11月03日 長崎(ベーロン見学)
 11月04日 福岡(博多人形・修猷館中学)
 11月07日 厳島神社見学、
 11月12日 歓送会(神戸オリエンタルホテル)、神戸港より帰国
  
  東京女子高等師範学校に於ける ヒトラーユーゲント一行歓迎式
           (お茶の水女子大学所蔵)




ヒトラーユーゲント(HJ)が上陸する横浜港には、HJを一目見ようとする 3,000人の大群衆が詰めかけ、白い制服姿の彼等を熱狂的に出
迎えた。
90日間に渡り日本全国を歴訪した彼等一行は、行く先々で地元住民の大歓迎を受け、親独気運の醸成に大きく貢献した。
日本国民挙げての歓迎ムードを背景に、10月には、国民歌謡「万歳ヒットラー・ユーゲント」(北原白秋作詞)が作られ、日本ビクター
よりレコードが発売された。

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ヒトラーユーゲント(HJ) 刀都・関町 (現: 関市) を 訪問

昭和13年10月3日朝、関町の住民約一万人が沿道に詰めかけて、二班に分かれて行動していたHJ一行の12人を出迎えた。
関町に到着した一行は白い制服に身を固め、規律正しい分列行進の隊形で町の歓迎に応えた。
10月2日・大阪朝日新聞朝刊は「H・J、関町に来訪の日はいよいよ明日に迫って刀都の歓迎準備も万事OKの布陣ぶりだ。歓迎本陣の関町当局では、お土産に贈る短刀三十一口も見事に整い、竹森町長のH・J 歓迎文も出来、もう刀都は日独親善色でいっぱいに塗られている」と報道した。
岐阜日々新聞は当日の模様を「十数台の自動車を駆って、関町に入ったのは午前九時かっきりであった。在町中・小青年学校をはじ
め、附近九ヵ町村の生徒・児童や各種団体員、一般町村民は早朝からワンサと押し寄せ、ひしめくばかりの歓迎群に町の西玄関、
栄町から本町通りを、さらに末広、相生、月見と沿道一キロ余りにずらりと堵列、一万人の人垣を造る。
ユーゲント晴れの刀都入りだ。
ナチス手旗の波と、共に期せずして起こる「万歳」の怒濤、歓迎のコーラスは乱舞曲のクライマックスに達したのだ」と記した。
当時の状況の一端が窺える。


関町住民の歓迎を受けながら行進する白い制服のHJ 団員ら  仮設された刀剣館を見学するHJ 団員ら(白い制服)
(いずれも関町内にて、当時の新聞記事)


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ヒトラーユーゲント (HJ) 来日団へ日本短刀を贈呈






 関町では、 HJ一行の来関に備え、刀都としての誇りと威信をかけて刀剣館を仮設して
 万全の準備を整えた。
 この刀剣館で日本刀の展示と日本刀鍛造の実技が披露された。
 ドイツのゾーリンゲンは刃物産地で世界的に有名だった。
 ゾーリンゲン出身の若きウェルナー・ヘルウェグさんもこの訪日HJ 団員の中にいた。
 今回、日本に返還された短刀の持ち主である。
 日本刀の神秘的な美と、ドイツの刃物とはいささか製法を異にする日本刀鍛造法に彼等
 が驚嘆したであろう事は容易に想像がつく。

 更に、関町では、日独親善の証しとして、HJ 隊員達に贈呈する短刀を事前に準備してい
 た。この年に改称された「日本刀鍛錬塾」の若き刀匠・兼秀 (本名:中田勇、当時24歳)
 他が 31 口作刀した。これらの短刀は白鞘に収められ、HJ 団員全てに贈呈された。

   銘: 大日本國關鍛錬塾兼秀作
   裏銘: 為 ヒットラー・ユーゲント来訪記念
   刃長: 六寸五分 (20p)

訪問団の関町での驚嘆は『関鍛冶の歴史を語る仮設¨刀剣館¨をのぞいて「それが孫六です」という説明に、一行は「マゴロク、マゴロク」を連発し、銀線棚曳く銘刀の数々にしばし釘づけ・・・・。渡辺兼永翁と、その愛弟子の演ずる鍛刀の神技を凝視したが、神秘な鎚の音と共に銑塊火花の散る壮観は先進文化のナチ青年に驚嘆の眼を開かせた』 と新聞に報じられた。


短 刀 返 還 の 経 緯

来日時19歳だったウェルナー・ヘルウェグさんはドイツに帰国後、ドイツ空軍(Luft Waffe)の戦闘機パイロットになった。
然し、昭和15年(1940)12月28日、ヨーロッパ戦線の空中戦に於いて21歳の若さで戦死した。
ヘルウェグさんの死後も遺族が大切に形見の短刀を保管していたが、1998年になって甥のエルンスト・ニーゲロ氏が短刀を遺産相続し
た。

ニーゲロ氏はゾーリンゲンで美粧用刃物の製造会社を経営し、関の刃物卸会社「(株)井戸正」の井戸誠嗣社長と取引上の親交があっ
た。
この親交には布石がある。
ドイツ国立刃物博物館に、「銘: 濃州関住兼秀謹作、裏銘: 昭和二十七年八月吉日」刃長三尺八寸五分、重量10s余、兼秀刀匠三十九
歳の傑作大刀がある(今般、柄を外して銘が判明)。
井戸誠嗣社長のご尊父・正一氏はドイツ訪問の度にこの太刀の手入れをされていた。
跡を継がれた誠嗣社長も定期的なドイツ訪問時に、先代・正一社長と同様に太刀の手入れを継続されていた。
国立刃物博物館に於ける井戸誠嗣社長の行為は、ドイツの夜のテレビで大きく放映され、翌朝の新聞にも大々的に報道された。



  井戸誠嗣氏を報じるドイツ地元新聞
 新聞記事の要約は「この刀は魂と力を込めて造られた。日本のビジネス マン井戸誠嗣
 氏が、ショーケースから慎重に刀を取り出した。自分の腕で抱えて刀を検査した。
 井戸氏は博物館に今年も来訪。そしてゾーリンゲンの刃物メーカーのいくつかを訪問
 する。今回も伝統に従って刀の手入れを行った。
 そしてドクター・バーバラ・シェーバーズ館長は、この刀には歴史があると次ぎのよう
 に述べた。
 "これは父親の正一氏が、昭和37年(1962)、日独修交百年を記念して、感謝の意味を込
 めて(当博物館に)贈られたもので、博物館として記念すべき寄贈品である。
 以来、定期的にゾーリンゲンを訪問する度に(正一氏が)手入れを行ってきたが、父亡き
 あと、二代目の子息に引き継がれ、今年も行われた。
 柄を外すと作者と制作年代が判った。この刀は精神を込めて作られたと書いてある。
 そして、井戸さんと博物館を結ぶ友情で出来ている"」との内容であった。

縁あって、平成10年(1998)、井戸誠嗣氏の取引先であるエルンスト・ニーゲロ社長と対面。短刀を見せてもらい手入れの方法を指導
し、併せて鑑定を行った。これが件のヒトラーユーゲント団員への贈呈短刀だった。
六寸五分の短刀で、地鉄よくつみ、刃文は湾(のた)れに尖り刃交じり、志津を狙った氏房を彷彿とさせる出来映えだった。

井戸誠嗣氏は帰国後、ニーゲロ社長から次ぎのような手紙を受け取った。
「私は関の極めて貴重な刀工の手芸になる傑作を保有していることを誇りに思う。この作品を大切に永久に保管していくことを約束し
ます」
短刀はこのままニーゲロ氏の手元で保存される筈だった。

ところが、8年後の平成18年(2006) 11月、井戸氏が訪独してニーゲロ氏に会った時「家族で60年以上大切にしてきたが、今こそ故郷
(の日本)にお返しする好機だ」との手紙と共にニーゲロ氏から短刀を譲り渡された。事態は急転直下の展開となった。
お互いの信頼関係が根底にあってこそ成り立つ話であった。全て井戸氏の功績に負う。

短刀を譲渡された井戸誠嗣氏は、12月25日、関市・後藤昭夫市長を訪ねてこの短刀を市に寄贈された。
後藤市長は「六十年以上前のものとは思えない美しさで、当時の技術のすばらしさを感じられる貴重な刀。大切に保管させて頂く」とお礼の言葉を述べた。
ヒトラー・ユーゲントが関町を行進した時、小学生だった後藤市長も歓迎の人垣の中にいた。
「ドイツの無名の若者が関で手に入れ、その死後も守り抜かれた一振りの短刀。関のためを思って返していただき、ありがたい。
ヒトラーとナチスの問題はあるにしても、ドイツの若者たちが、関を訪れた意味はあったのではないか」と語った。
この短刀は紛れもない歴史の生き証人である。
関市はこの短刀を「関鍛冶伝承館」(同市南春日町)に展示して一般に公開した。


井戸誠嗣氏(右)が手にするのはヒトラー・ユーゲント来訪記念の帰還短刀 (関市役所にて=新聞より)


 
短刀と白鞘を手にする井戸氏。白鞘には「濃州関日本刀
鍛錬塾兼秀作」と書かれている (関市の(株)井戸正にて)
  
   ヒトラーから直筆手紙と共に贈呈された
    西洋兜(上)、短刀々身(下左)と白鞘(下右)

刀身、鞘共に保存状態が良好で、兼秀刀匠の長男・正直刀匠(本名: 中田勝郎氏) は、「とても出来がいい。若かった父の勢いを感じ
る」と語った。
この短刀の展示に際し、当時、関町の団体がヒトラーに贈った日本刀の返礼として、ヒトラー直筆の手紙と共に届いた西洋兜も展
示された。
ヒトラーはユダヤ人虐殺などで歴史に悪名を残し、ナチスに関わるものは一切タブー視されて来た。
この西洋兜は、70年以上も封印されて関鍛冶伝承館の倉庫に眠っていたが、歴史的資料として短刀と共に展示に踏み切った。
これは、戦後日本の歪みの中にあって、極めて健全な判断であったと評価される。
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歴 史 に 学 ぶ と い う こ と

(歴史遺産の意義)

歴史というものは、封印したり、歪曲・捏造したり、抹殺したりしては絶対にならないものである。
何故なら、現在と未来の在り方を考える時、歴史の教訓は最も有効な勉強材料だからである。
ドイツ鉄血宰相・ビスマルクの「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは将に至言である。
歴史を忘れない為に、或は忘れ勝ちな歴史を思い起こさせる為に、最も有効で直裁的な手段は「歴史物象」の保全である。
その為に、近代的民主国家は、後世の歴史評価の善悪を問わず、例外なく自国の在りのままの歴史経緯と歴史遺産を保全している。

それに引き替え、戦後の日本はどうであろうか。
戦前、戦中への極端な反動から、戦争に関する歴史や遺産となると立ちどころに思考停止し、封印、歪曲、抹殺を繰り返して来た。
下等動物の条件反射に等しい。
果たしてこれが健全な国家として正しい在り様であろうか。否、自ら勉強材料と考察を放棄したのである。
この硬直した思考は、独裁国家、未開の野蛮国家と同じである。
敗戦に至るまでの近代昭和史を無条件に圧殺・封印することを、さも平和主義者であるかの如く錯覚している連中は、「歴史に学ぶ」
という賢者の道を自ら閉ざし続けて来た。戦前の悪しき部分と同根である。こうした連中に限って再び歴史の過ちを繰り返す。

刀都・関では、軍刀が抹殺の対象になった。
如何なる理由が有ろうとも、歴史と歴史遺産を破壊することは先進国家として許されない蛮行である。
戦後「銃刀法」の最大の誤りは、その適用を歴史遺産にまで遡らせた事である。実に愚かな国家的犯罪と言うべきであろう。
遅きに失したが、平和という美名に酔い痴れて、正常な感覚を麻痺させてきた日本人は、そろそろ覚醒すべきであろうと思う。
関市の今回の勇断に異を唱える連中が例え出現しても、関市には、歴史の証言者として毅然たる態度を貫いて頂きたいと願うものであ
る。


(参考資料:「君はヒトラー・ユーゲントを見たか ?」、資料提供: 祖父江光紀氏)
短刀全景、茎の表銘は、関鍛冶伝承館の展示ケース越しに筆者が撮影した





2013年9月21日より(旧サイトから移転)
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