武道 031

鏡 新 明 智 流・士 学 館

免 許皆伝資料類


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鈴木家系譜と収蔵刀剣類



鏡新明智流・免許皆伝巻物類


幕 末 の 三 大 道 場

幕末の江戸では剣術が隆盛し、大小500に及ぶ剣術道場があったと言われる。
そうした中で、門弟の数と質において全国に名を轟かせた道場があった。
桃井春蔵の鏡新明智流・士学館(桃井道場)、千葉周作の北辰一刀流・玄武館(千葉道場)、斎藤弥九郎の神道無念流・練兵館(斉藤道場)がそれである。
久留米藩々士で加藤田神陰流の達人であった松崎浪四郎は安政2年(1855年)3月、江戸へ武者修行に赴き著名な剣客と対戦した。
その結果、三人の剣客を挙げて「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と各々の特徴を評したものが明治になって広まり幕末の三大道場と認識されるようになった。
この他、伊庭秀業が開いた心形刀流の練武館もあった(四大道場)が、尊皇攘夷派の門弟が多かった前記三道場と比べて、ここは佐幕派の旗本の門弟が圧倒的に 多かった為、明治維新後に練武館を除外する空気が支配的となった。
これが現在にも踏襲されて、「幕末の三大道場」と一般的に呼称される事が多い。
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位の桃井道場

鏡新明智流を創始した桃井直由(初代 桃井春蔵)が、安永2年(1773年)、江戸日本橋南茅場町の長屋を道場としたのが士学館の始まりである。最初は評判が悪い道場だった。
二代目の時に竹刀打ち稽古が好評を得て少し門人が増えたものの、三代目の時に士学館は行き詰まり解散の憂き目にあう。
嘉永5年(1852年)、三代目直雄の死後、婿養子の直正が「四代目・桃井春蔵」を継ぐ。この直正の代で士学館は栄えて後生に名を残すことになった。即ち、士学館が語られるのは四代目・直正の時代のことである。
武士が剣・槍・弓などの武器を操る技を体得して磨きをかけることは基本中の基本であろう。然し武士達はそれに止まらず、更なる「高み」を目指した。武人としての「品位・人格」がそれである。
剣客の松崎浪四郎はその重要性を良く理解しており、「位の桃井」を最初に挙げた。
安政3年(1856年)、土佐勤王党の党首である武市瑞山(半平太)が岡田以蔵らを伴い江戸へ出て、士学館に入門する。岡田以蔵とは後に「人斬り以蔵」として恐れられた男である。
武市の腕前と人物を高く評価した直正は、まもなく武市に免許を与え、塾頭に任じる。
桃井道場には慶応3年(1867年)、新両替町(銀座)の料亭で喧嘩となった天童藩の槍術と剣術師範の二人を一刀の基に斬り捨てて有名を馳せた上田馬之助を始め錚々(そうそう)たる剣客が揃っていた。
この年、直正は幕府軍の遊撃隊頭取並に任じられ、将軍・徳川慶喜の警護役として上洛した。大坂玉造臨時講武所剣術師範も務める。しかし同年、大坂城での幕 府軍々議で戊辰戦争の開戦に反対して幕府軍を離脱する。開戦派に命を狙われる羽目となった直正は士学館の高弟数名とともに南河内の幸雲院という寺に落ち延 びる。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は敗れ、将軍・徳川慶喜は江戸へ逃亡。大坂城は炎上し、京坂は新政府軍に占領された。同年5月、幕府から直正に彰義隊への入隊勧誘があったがこれを断り、逆に新政府軍からの要請で天満川崎( 大阪市北区)の川崎東照宮(建国寺)境内に道場を開き、薩摩・長州・芸州の兵に撃剣を指導する。

同年、大阪府が設置されると、治安維持のために府兵局が設置され、大坂定番与力・同心を中心に府兵80名が編成された。この府兵は浪花隊(浪華隊)と呼ばれた。直正は府兵局の監軍兼撃剣師範に就き、実質的に浪花隊を率いた。
同時に、北桃谷町( 大阪市中央区)に士学館を再興して高弟の桃井多吉郎を師範代兼塾頭に任じた。
翌明治2年(1869年)には隊員数が600名を超えたが、明治3年(1870年)、兵制改革により浪花隊は解散した。

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作州津山藩士 鈴木音蔵(信道)

作州津山藩士の鈴木音蔵(信道)は廃藩置県後、大阪府に在った士学館で修業。その後、東京に移った士学館で明治4年(1871年)8月に
鏡新明智流の免許皆伝を許された。





ありし日の松 平十万石・津山城

平山城形式としては江戸城、大阪城に次ぐ日本三大名城としての偉容を誇った
(鈴木信道所蔵の印画紙写真をトリミング、左は西北面、右は西面か ?)

          
鈴木信道二態


鏡 新 明 智 流 免 許


免許全景


免許部分拡大

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鏡 新 明 智 流 印 可 巻









明治2年(1869年)6月 鏡新明智流印可巻


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鏡 新 明 智 流 二 之 目


明治2年(1869年)6月 鏡新明智流二之目(口伝)



桃井春蔵(直正)直筆の書


         
          

桃井春蔵(直正)は「書」にも造詣が深く、好んで書をしたためた
これは晩年、常陸水戸の藤田東湖が詠んだ「和文天祥正気歌」を鈴木信道(音蔵)の為に桃井春蔵が直筆した書(掛け軸)



40.7p X 34p



40p X 29p



18p X 30.1p






晩年の鈴木信道肖像画 (42p X 86p、掛け軸画像の一部)




士学館及び鈴木音蔵家収蔵刀剣類

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2019年2月10日開設
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