歴史・戦史 百人斬り裁判考(1) 0

百 人 斬 り 裁 判 考

マスメディアの大罪 | 軍刀 | 軍刀について | 軍刀評価 | 実戦刀譚 | 軍刀使用率 | 士官軍刀論

「裁判は公正」という幻想の証明



野田少尉の実家の写真立ての野田、向井
両少尉の写真と野田少尉自筆の説明文

 支那事変中の昭和12年、東京日日新聞(現毎日新聞)に掲載された浅 海一男従軍記者による第16
 師団歩兵第9連隊第3大隊(富山大隊)の若い将校である大隊副官・野田毅少尉と歩兵砲小隊長・
 向井敏明少尉の戦意昂揚を目的とした「百人斬り競争」の記事が元になって、戦後二人は中国
 に召還され、抗弁も許されず銃殺刑になった。

 「これは記者の創作記事であるから真実を話してくれ」という両将校の懇請を浅海記者及び毎
 日新聞は無視した。

 戦後、朝日新聞の本多勝一記者が更に追い打ちをかけて「百人斬り競争は真実」との本を出版
 し続けた。
 ご遺族は塗炭の苦しみを強いられ、高齢となられた為に最後の名誉回復を求めて、朝日、毎日
 両新聞社と本多勝一氏及び出版社を相手に「冤罪訴訟」を起こされた。

 この裁判の元々の争点は、記者が記事を創作したか、両少尉の話をきっかけにしたかという点
 にあり、百人斬りの虚実審理では無いという大変微妙な裁判だった。
 地裁→高裁→最高裁判所と争われたが原告敗訴に終わった。

不可解な裁判官の姿勢と判決結果


 裁判は最初から実に不可解で裁判官の異常な姿勢が際だっていた。
 地裁の裁判進行過程で、原告側申請の証人喚問拒否や陳述書の不採用などの異常な審理が進行した。
 高裁に至っては殆ど原告側に発言の機会を与えないという正常な裁判常識では考えられ無い異様な状態だった。
 これは争点の設定に起因するだけのものであろうか ? 
 又、軍組織や軍刀を知ろうともしない裁判官の姿勢は第一審から懸念されていた。「百人斬りは必ずしも虚偽とはいえず・・・」
との判断は図らずも裁判官の無知を証明し、戦後生まれの裁判官の致命的な欠陥を露呈した。
 やる気になれば軍刀性能の検証も出来た筈である。
 裁判官達は軍組織や用兵すら最後まで理解しょうとしなかった。結果として、百人斬りが事実であるかの印象を与えてしまった。

 そこまで踏み込むのであれば、原告側に対して裁判所が取った姿勢は「裁判は公正である」というのが如何に幻想であるかを証明
した事になる。戦後日本の風潮をそのまま反映した好例であろう。裁判不信を残しただけである。

 この異様な裁判の経過は、稲田朋美著「百人斬り裁判から南京へ」(文藝春秋社)に詳しく述べられている。
 この経過を読めば、本裁判と裁判官の姿勢が如何に常軌を逸していたかが良く判る。政治的な色彩が強く胡散臭さが拭えない。
 本裁判結果は、不可解、且つ、愚かな代表例として将来ともに国民は記憶せねばならない。

 従って、本裁判の争点とは別の視点で「百人斬り」への所感をここに述べる。

 本サイトは、「軍刀」を主題としている。
 従来の「百人斬り」関係の供述や出版物は、供述者・著者の利害目的を持つのが常識であり、それを「全て正しいもの」とする前
提での議論には寧ろ空しさを感じていた。証言や出版物は、時代背景や証言者、著者の立場を見極めた真偽の検証が不可欠である。
 又、「軍刀」という最も本質的な議論の欠落があった。
 本稿は「百人斬り競争」議論の最も基本となる「軍の組織と運用」、及び「軍刀」の二つの視点で所感を記す。

軍 と 将 校

 軍の階級は「士官=兵科士官は将校という」・「下士官」・「兵」に分かれる。
             士官(将校) = 指揮官、何をするかを考えて下士官に命令を下達する
             下士官  = 士官の命令を実行する為に兵を動かし自らも動く
             兵    = 命令通り動く

 これは軍組織の根幹に拘わる役務分担で、指揮官たる「将校」と実動要員の「下士官・兵」は厳然と区分される。
 階級規律は極めて厳格で、軍はこの階級規律を根底として機能する。
 下士官・兵の軍刀が「兵器」として官給品であるのに対して、士官=将校用軍刀は「服制令の範疇の個人装備品」であることからも軍務分担の違いが浮き彫りにされる。(明治8年11月24日、太政官布告第百七十四號、及び、「士官軍刀の意義」参照)
 
 兵種は兵科と各部に分かれる (時代で兵科呼称も変動)。
 兵科は「歩兵科」・「砲兵科」・「騎兵→戦車兵科」・「航空兵科」・「工兵科」・「輜重兵科」・「憲兵科」・・・等。
 各部は「衛生部」・「経理部」・・・・「法務部」等である (各部士官は将校相当官ともいう)。
 以下、二人の兵科将校に関与する部分を中心に述べる。

 「将校」はオーケストラの指揮者と同様である。
 戦時下、将校の装備は、指揮刀兼務の軍刀と拳銃を装備するのみ(各部士官は拳銃も持たない)。
 指揮者が「指揮棒」で各演奏者に指示、意志の伝達をすることは周知の事実である。
 歩兵科は陸軍の基本を成すもので、歩兵科少尉は「小隊長」として50人前後の下士官及び兵を指揮する。
 砲声や怒号か飛び交う戦場で、広域に展開した下士官・兵への命令伝達は、指揮刀たる軍刀が唯一の命令伝達手段となる。
 歩兵将校(及び騎兵将校)には「指揮刀」は必須の装備品であって、平時は滅刃の指揮刀を常用した。
 然し、戦地では「指揮刀としての軍刀」を佩用した。(白戸少尉証言)
 滅刃の指揮刀では最悪の時の護身武器にならないし、士官軍刀は本来が全士官にとって精神的支柱そのものであった。
                      士官軍刀論: 陸海軍では士官軍刀は終始「服制令」の範疇で、武器・兵器の位置付けには無い 

 将校は戦地で下士官・兵を指揮する為、戦況の把握、上官との連絡、他部隊との連携調整、下士官への命令を的確に行う事が任務
であって、自ら「兵」と同列で敵と戦うのは将校本来の職分ではない。自ら戦ったのでは戦闘指揮も取れないことになる。
 オーケストラの指揮者が演奏者と同じ楽器を自ら持って演奏を始めたら、指揮も何もあったものではない。
 将校とは如何なる立場であるかを先ず明確にしておきたい。
 このことが「兵器」として官給される「下士官・兵用軍刀」と、個人装備品の「士官=将校用軍刀」との差となって表れる。

士 官=将校用軍刀

1.外装
 陸軍は昭和9年に、士官軍刀外装を日本古来の太刀型外装に変換した。問題は「柄」にあった。(外装解説 参照)
 柄は刀身茎(なかご=柄の中に収まる刀身の延長部分)の 形状に刳(く)り抜いた2枚の朴の木を続飯(そくい=ご飯糊)で接着した物で、極めて脆い
為、柄を鮫皮(東南アジアで採れるエイの一種)で巻き、更に柄糸(絹又は木綿)を巻き補強する。
 朴の木は柔らかな材質で丈夫な物ではない。続飯や鮫皮も水や血に濡れると直ぐに駄目になって仕舞う代物である。
 概して日本刀形式の柄は極めて脆弱な物である。
 何故この様な物を使うかと云うと、平安終期〜鎌倉時代、既に太刀(日本刀)は主武器では無くて、公家の儀仗刀、武将の象徴・守
護刀と化していた為に美観を優先するようになったからである。
 太刀が主武器の時代は、柄は刀身の延長線上で長い一体構造の鉄製柄であり、刀身の重ねが厚く身幅も広い頑丈な造りであって、
後の儀仗化した刀と全く違う。

 儀仗化して以降の刀は、刀身に対して概ね茎が相対的に短くなっている。
 人を切る場合、切っ先から2〜30pの処(物打ちという)を使う。この脆弱な柄と刀身を固定するのが 「竹又は木」製の目釘である。
 目釘を支点とした柄への応力は刀の長さにも依るが、物打ちにかかる負荷の6〜8 倍の負荷が柄の中の茎終端に掛かる事になる。
 人を切る場合、物打ちに掛かる負荷は生半可な物ではない。茎終端の負荷は大変なものである。
 脆弱な柄や竹の目釘が一撃で破損することがあるというのは「戦ふ日本刀」成瀬関次著の報告だけではない。
 現代の試刀道でも指摘されている事であり、目釘の追加や金属目釘を使う試刀家もいる。
 軍は満洲事変直後から「下士官・兵」用新型軍刀の研究を造兵廠研究所で開始した。
 日本刀の刀身と日本刀外装構造を徹底研究した結果、その結論を昭和10年制定の九五式下士官軍刀で具現した。
 最大の特徴は柄周りの改善である。茎を長くし、柄の材質は金属製一体成型品となり、目釘は金属ボルト2本となった(最初期型は
目釘1本)。刀身の強度も徹底研究して実現したこの九五式下士官軍刀こそが「戦う軍刀」の本来の姿といえる。(九五式軍刀参照)

 何故これを「士官軍刀」に適用しなかったのか? 
 将校用軍刀は、本来が精神的支柱であり、野戦指揮刀又は守護・護身刀であったからである。
 兵科将校でも指揮刀目的以外では、軍刀は常に使う物ではなかった。
 この将校用軍刀の「柄」が改良されたのは、実に遅れて昭和18年の三式軍刀外装の制定である。(三式軍刀参照)
 戦況の悪化から、士官(将校)軍刀も実戦で使えるようにとの悲壮な状況に立ち至った為である。
 将校用軍刀が用兵上も実戦で普段に使われる物であれば、もっと早い時期に改良されていなければならなかった。
 この事一つを取っても、軍そのものが士官(将校)軍刀をどのように認識していたかが如実に証明されている。

2.刀身
 「日本刀」と統一的に呼ばれる刀の基準や共通の質といえるものはない。刀は刀匠の個別手作り武器である。
 時代に依り鋼材と刀身構造が違い、刀匠でも作刀年代に依って刀の品質が違う。
 問題は「日本刀は切れるのか、どれ位耐久力があるか」という課題である。(軍刀評価参照)
 日本刀は、品質巾が広い為に一概には云えないが、武器性能に関しては世界の青龍刀や西洋剣(ツヴァイ・ハンダー等)と比較する
と大変繊細で、脆弱な部類の武器だとも云える。剃刀(かみそり)と鉈(な た)の差と云えよう。
 美術工芸品としては世界に比類無い刀剣であるが、武器として万邦無比などという日本刀神話は虚構である。
 この日本刀の持つ繊細な武器性能が以下の問題と深く拘わってくる。
 日本刀は確かに切れる。然し絶対条件が必要となる。
 ここで極めて重要なことは「刀の物理的性能」と「使い手の技」が一体となってその答えが出るという事である。(試斬家証言参照)
 それ程に日本刀は繊細な武器であり、言葉を換えれば、ある面で「使い手の腕次第」ということもできる。

 真剣で物(人)を切るというのは「剣道」・「居合道」とは全く異質のものである。
 実際に物を切る武道を、現代では「試刀道・真剣道」とか呼び、斬る対象は「畳」を主としている。
 「試斬」は同一の刀で複数人が斬る腕を競い、「試刀」は複数の刀を一人が使って武器性能の優劣を決める。
 刀を曲げたり刃毀(こぼれ)を起こさないように「刀を使いこなす」為にはかなりの修練と経験が必要とな る。
 物を斬る場合は「刃筋=刀の切り込み角度と刀身の軌道」・「間合い」・「気力」の三要素が大変重要と云われる。
 これを間違えると、どんな刀でも曲がったり刃毀(こぼれ)を起こしてしまう。
 「青竹」が切れるようになるには相当の熟練が必要となる。熟練者でも「枯れた黄竹」・「竹の節に刃筋を入れること」は禁忌で
あって、太い「孟宗竹」になると、生育した一年未満の若竹が斬れる限界と云われる。
 生半可な使い手だと大抵刀を曲げるか、刃毀を起こすか、刀を折ってしまうので「試刀道」の斬る対象から「竹」は外されている。
 素人が、日本刀を今日持って、明日から直ぐに人が切れると云うものではない※1。青龍刀や西洋剣との違いである。
 そんなに簡単に人が切れるものなら、古来から武芸家の実戦武道の厳しい修練などは全く必要なかった事になる。
 修練に依る大変な「コツ」と「経験」が必要だということである。日本刀が繊細な武器と云われる所以である。

 将校は、例え陸軍戸山学校の「軍刀操法」の教練を短時間受けたとしても実戦には殆ど役立たない。
 現代試刀道実践者の間では、その軍刀操法そのものの有効性に様々な疑問符が投げかけられている。
 日本刀の操法などは、元々将校教育の附帯的教練(騎兵科は別)の一つであって、将校にとってそんな素養など亜流であった。

 銃を相手に日本刀は論外であって、弾を打尽くした銃剣とも刀は勝負にならなかった。太い棍棒で抵抗されてもその一戦だけで柄
か刀身が損傷する事は確実である※2。 槍に刀が敵わなかったことは歴史が証明している。
 相手が武器を持つ白兵戦では、一戦交えるだけで日本刀の損傷は避けられない。

 武器を持たない相手なら無制限に斬れるのか ?
 黙って静止して斬られるのを待つ人間は何処にもいない。逃げ回る相手や動き廻る相手に対して、然も生きるか死ぬかの特殊な戦
場心理の中で、斬る部位の選択や刀の切り込み角度など冷静に見極める事など出来る訳はない。
 兎に角斬り付けるのが精一杯の状況で、刃筋も何もあったものではない。斬れば必ず骨に当たる。
 当時の軍刀使用報告では、軍刀は殆ど左に曲がり、骨に当たって刃毀(こぼれ)を起こしている※3
 曲がった刀や刃毀を起こした刀はその後使い物にならない。
 柄の脆齢性も考慮すると、素手の敵なら無制限に斬れるというのも全くの幻想に過ぎない。

 それでは「動かない無抵抗の相手=据え物」なら沢山斬れるのか? 江戸時代、首切り専門の役人がいた。
 実際は役人も嫌がり、専門の浪人(有名なのは山田浅右衛門等)が家業とし、第三頸骨と第四頸骨の間に刀を打ち込むと云われてい
る。これも長い修行と経験から出来ることで、普通の武士では勤まらなかった。
 死体を斬る「試刀」も、骨の間隙を狙う彼等プロの技であった。素人は必ず何処かの骨に当てる。刃筋に依って刀身はまず無事に
は済まない。

 又、人を斬った血刀は30分も経つと赤錆となる。人間の血肉は大変な塩分と油を含んでいて刀身に付着した血は布で拭った位では
絶対に取れないし錆の進行も止められない。錆は研ぎ直す外は取れない。刃先は鋭利な処で錆に最も弱い処である。
 数日間で錆は深く進行し刃は使えなくなる可能性が出てくる。数週間掛けて何人も斬るということは血刀の錆の問題からも現実味
は薄くなる。戦場で、人を斬る度に砥石を掛けることなどあり得る筈がない。

 戦闘で100人を斬ると云う「幻想・戯言」は全くの論外として、「据え物斬り」でも使い手の腕にも依るが、同一の刀で斬れる数
は、柄の脆弱性、刃毀や錆の問題などで自ずと限られてくる。日本刀は大変繊細な武器と云う事である。
 日本刀拵えの軍刀柄や刀身を少しでも知っている人、「試刀」を一度でも経験した人であれば、例え「据え物斬り」でも素人の
「100人斬り」が如何に現実を無視した「虚構・出鱈目」であるかが議論をするまでも無く解る事である。  

      ※1 柄や刀身の損傷等どうでもよければ一人や二人は斬れるであろう
      ※2 荒木又右衛門の史実は有名、徒士(かち)小者に刀を棒で払われて刀を折った
      
※3 小泉久雄海軍大佐著「日本刀の近代的研究」・成瀬関次著「戦ふ日本刀」、試刀道家などの聞き取り証言・他
        日本人は右効きの為、右上段から左下段に刀を振り下ろす右袈裟懸けが一番自然。逆袈裟懸けは力が入らず殆ど使わない。
        実際に右袈裟懸けを行ってみれば直ぐに解る事だが、刀身が右に自然に傾いたまま打ち込む (斬るのではなく叩いてしまう) 為に
        刀身は殆ど左に曲がる


実 相 推 定

 戦後、浅海記者は虚報を追求されて、野田、向井両少尉に「聞いた話」を記事にした丈で、「実際に百人斬りの現場を見た訳では
無い」と主張を変えた。然も記事を連載している期間、二人には一度も会っていない。
 さも見てきたような記事を書いた人間の発言である。
 責任を二人の将校の「発言」にすり替えた。
 例えは悪いが、犯罪被疑者が「無実」と言ったら、「事件は無実である」と書くのだろうか ? これと同じことである。
 そうであれば、新聞報道とは一体何なのか ? 「真実」が聞いて呆れる。 語るに落ちるとはこの事である。

 従軍記者として「ネタ」探しをしていた浅海記者が、たまたま二人の将校と出会い、そこで出た「冗談話」にヒントを得て、功名
心から想像を逞しくした。戦意昂揚の大衆受けを狙った「創作記事」の姿が浮かび上がってくる。
 その後の問題と悲劇は、悲しいかな、この浅海記者が「軍を知らず、軍刀の何たるかも知らなかった」ことである。
 それを検証する為に、「軍と将校」・「士官軍刀」を先述した。
 当時の浅海記者の「百人斬り競争」記事を読めば解るが、誰が見ても現実離れした当時の新聞に共通する典型的な「煽動記事」で
ある。三文小説顔負けの内容は低俗の極みといって良い。以下、百人斬り肯定派及び裁判官の無知を述べる。

1.軍と将校に関する無知

@ 野田毅少尉は「大隊副官」である。大隊副官とは大隊長の女房役で事務職(命令書・戦闘詳報の作成、上下部隊との作戦調整、補
  給手配、大隊長の雑用等)である。大隊本部と大隊長の傍を片時も離れることは出来ない。
  大隊本部は実戦部隊の司令中枢で、そこの副官が作戦(実戦)部隊の範疇の戦闘又は類似行動に出しゃばるということは作戦部隊
  指揮権の干犯である。副官軍務と軍律、少尉という階級からみても太陽が西から昇るに等しい。
  「百人斬り競争」というからには、例え「据え物斬り」でもかなりの時間をそれに費やすことになる。作戦行動中の部隊本部は
  多忙を極める。そんな個人的「遊び」が本部付下級将校に許される筈がない。
  それとも、この大隊は何もすることがなくて、2週間、大陸の平原で全将兵が昼寝をしていたのであろうか?

A 向井敏明少尉は「歩兵砲小隊長」である。「歩兵砲」小隊の任務は前線の歩兵の後方に位置して「歩兵砲=小口径各種の砲」で歩
  兵部隊を支援する小隊である。
  敵の防御陣地や、集団敵兵を砲撃で制圧するのが役割であり、敵の歩兵と直接近接戦をする立場ではない。
  最前線の歩兵将校と緊密な連絡を取り、目標物の選定と射撃指揮をするのが小隊長の任務である。
  前線の歩兵将校達や上級指揮官は、戦闘で歩兵を支援すべき歩兵砲小隊長が「百人斬り競争」の為に「歩兵砲」の指揮軍務を離
  脱する事を許したのであろうか。不可解・不思議な話である。
  
 皇軍の「軍律」は世界の軍隊と比べても極めて厳しい。 記者の誘いに応じて「冗談話」位はしたかも知れない。
 然し、この「軍律」と「自らの軍務」を一番解っているのは外ならぬ当の二人の少尉である。
 「百人斬り競争」を個人として行う事は「将校自らの軍務の放棄」であり、「下士官・兵と同列の行為を将校が行う」事を意味す
 る。通常の戦況では絶対あり得ない。軍務の放棄は「軍法会議」の重罪の対象である。
 
 軍を知る者が、仮に「百人斬り競争」を企図すれば、兵科の必然から、敵歩兵と接戦する「歩兵科」が対象となる。
 軍の用兵を知っていれば、その中でも「歩兵小隊」を想定するのが当然であり、主人公は歴戦の軍曹が適任となる。
 燃し「歩兵砲将校」が之を行ったとすれば、明らかに「歩兵将校」への侮辱であり、面子・体面を重んじる軍人にとって通常只で
 は済まされない。記者に軍務の知識があったなら、誰が主役に適任かを考えた筈だ。
 軍律や二人の所属軍務から考えると、この二人の将校を「百人斬り競争」の主役にする事は極めて不自然であって、大変な無理が
 あることは誰がみても明らかである。更に、将校と下士官・兵の役割を混同するのも甚だしい。
 浅海記者が軍務に無知な為、「創作劇の主人公」の設定を結果として誤った。自ら墓穴を掘った事になる。
 主役が「本部副官」や「歩兵砲将校」ではなくて、せめて「歩兵将校」であれば「嘘」でも少しは真実味を帯びていた。
 当時の当該記事では、少尉である「小隊長」を「部隊長」と書いたり、「鉄帽」を鉄兜と呼称したりしている。
 「部隊長」とは少なくとも大隊長クラス(少佐)を指すのが常識であり、軍では鉄帽を決して鉄兜とは云わない。
 この一例からしても如何にお粗末な内容かがよく解る。浅海記者はそれすら気づいていなかった。杜撰(ずさん)と いう外はない。

 戦意昂揚を国民に煽った提灯(ちょうちん)記事や、記者の資質とはこんなものであった。この本質は今も 変わっていない。
 新聞やメディアの報道が真実と無条件に信じる人がいるとすれば、「幼児か、或は余程お目出度い人」としか言いようが無い。

2.軍刀に関する無知

 二人の将校の佩刀は「無銘の波平」と「関の孫六」であったという。各々何代目の作か「苗字」に続く刀匠銘が解らない為に何と
 も云えないが、薄給の少尉の身分で簡単に入手できる代物ではなかった。
 守護・護身刀の意味で佩用するなら解るが、「俗に云う」そんな名刀を勿体なくて簡単に実戦で使うだろうか ? 
 素朴ではあるが極めて現実味を帯びた疑問である。
 二人はそれまで人斬りの経験もなければ「試刀」で修練を積んだということも無い。
 殆どの将校(士官)がそうであった様に、この二人の将校も軍刀操法に関しては全くの素人である。(居合斬道家に聞く参照)
 その結果がどうなるかは、前節の「刀身の物理的性能と使い手の技」の部分で触れたので再度参照願いたい。
 「鉄兜もろとも唐竹割・・・」の記事に至っては荒唐無稽を通り越している。「劇画」も色褪せる話である。
 刀は鉄を斬る為の物では無い。鎧(よろい)さえ斬れなかった刀が、鋼鉄の軍帽を斬れる訳がない
浅海記者に少しでも日本刀の知識が有れば、とても素面(しらふ)でこんな記事を書けたものではない。
無知故(ゆえ)の恐ろしさを絵に描いたような話しではある。              斬 鉄剣・小林康宏の項、日本刀の性能参照


3. 軍刀引用文献の意図的曲解

 成瀬関次著「戦ふ日本刀」がよく引用される。
  「百人斬り競争肯定派」はこの本のお世辞の部分(即ち日本刀神話礼讃の都合の良い部分)のみを利用している。
 当時の言論・出版統制がどの様な状況であったかを知っているのであろうか。
 おそらく知っていて恣意的に使っているのであろう。その解釈は稚拙過ぎる。
 当時は「軍」に関する出版の検閲は特に厳しかった。その為にこの本も敢えて軍の高官に推薦書きを頼んでいる。
 軍や軍人、軍の装備品(含む軍刀)を少しでも批判した内容だと出版は不可能であり、無断で出版すれば「非国民」扱いか、必ず特
高警察のお世話になることになる。
 従ってこの本は軍及び世相に配慮した歯の浮くような「日本刀礼賛」のお世辞の部分と、結果として日本刀神話を崩壊させた「軍
刀の実態=日本刀神話の否定」という矛盾する記述内容とならざるを得なかった。
 当時の世状に照らすと、よくぞ勇気を持って日本刀の実態を書き得たものだというのが実感である。
 神話の否定は著者の良心を満足させるのみで、著者には何の利益もない。寧ろ危険である。
 神話の否定は軍と世相の期待に背くものであり、一歩間違えれば大変 な騒ぎとなった。
 危険を冒して迄主張をしている部分こそが真実に決まっている。
 当時の言論統制を単純な引き算のフィルターに掛ければ、何が真実かは誰にも解る 話である。
 将校の武勇伝の記述も、自慢話は殆ど「誇張」が常識である。これすら直裁に批評出来ない世相であった。
 その為、軍人(武勇伝)批評の記述も言論自由の現代感覚からすれば部分的には婉曲表現に過ぎる傾(きらい)が ある。
 それが当時としては精一杯の表現方法であったろう。
 この事が、枝葉末節を捉えた読解力不足の愚かな解釈を生み、恣意的曲解者に都合良く利用されている。
 「木を見て森を見ず」の例えである。正常な感覚の読者であれば著者の真意は手に取るように解るものである。(実戦刀譚参照)

4.稚拙な解釈(志々目彰証言の一例)

 内地に一時帰還した野田少尉の故郷(鹿児島)の小学校での話しを聞いたと称する志々目証言をどう解釈するか。
 100歩譲ってそれを事実と仮定しょう。英雄に祭り上げられた野田少尉がさぞ驚いたであろう事は想像に難くない。
 当時の戦時下の状況を考えてみればよい。
 この時「あの記事は全くの出鱈目であった」と公然と否定できる勇気を誰が持ち得たであろうか。
 然も現役の軍人である。否定すれば、戦意昂揚に沸いている世論と軍への挑戦であり、その結果がどうなるかは火を見るより明ら
かである。
 故郷に錦を飾った野田少尉が世間の要望に応えて話さざるを得ない・・・激流に翻弄される普通の人間の・・・姿がそこに在る。
 例え意に添わなくても、止むを得ずそうせざるを得ないということは今でも普通にある話である。
 況(いわん)や当時の世相に於いては尚のことであろう。誰がこれを非難できようか。

 志々目氏と同じく野田少尉の講演を聞いた別の複数の方々は「そんな話は全く無かった」と証言している。
 捕虜を斬ったという話を聞いたと主張するのは志々目氏一人に過ぎず、講演を聴いた他の複数の人々は誰一人そんな話は無かった
と証言した。裁判所はそれらの方々の証人喚問をことごとく拒否した。裁判官は最初から原告の訴えを聞く耳を持っていなかった。

 敗戦後、すべての柵(しがらみ)を解かれた野田少尉が、処刑の直前に吐露した内容こそが真実と云ってよ い。
 発言・証言は常にその人が置かれた立場や世相の状況を勘案して検証するのが常識だ。
 肯定派の主張や裁判官の判断は全く状況を無視して「本人が言ったから事実である」という単純さである。
 この幼児性は犯罪被疑者の発言を例に先述した。
 当時の国情も知らず、真偽検証の原則すら知らない肯定派や裁判官に共通する無知、稚拙さの一例である。

5.不可解な結末  

 戦後、野田少尉が「自分にも責任の一端がある」と言ったのは、「戦地での冗談話」を指してのことであれば話の筋が通る。
 最期に臨み、記者を恨むでも無いこの発言に、野田少尉の人柄と潔さが滲みでている。
 そこまで至純な人間を追いつめたのは誰か・・・虚報を書いた浅海記者に他ならない。
 野田少尉と対比してその卑劣さが際だっている。
 「両少尉の発言を記事にした丈の記者に責任が無い」という肯定派には、良心や正義の欠片(かけら)も無 い。

 最高裁の判決で「百人斬り」の真実に決着がついた訳ではない。
 向井・野田両少尉と同じ第16師団歩兵第9連隊第3歩兵砲中隊にいた京都在住のM氏は、当時の戦闘状況を詳しく証言されている。
 M氏以外に、第16師団の関係者が何人も証言されていて、共通しているのは、「南京への進軍は退却する支那兵の追撃戦であり、銃火器の戦いで軍刀を使うような戦いではない。歩兵に後続する歩兵砲部隊では、支那兵や民間人を見る事は殆ど無かった。
 両少尉の軍務からして、百人斬りなどあり得ない。行軍中に誰も「百人斬り競争」など聞いたことも無い・・・・」であった。
 かの有名な「百人斬り競争」を同じ部隊の将兵が誰も知らなかったとは不思議な話である。
 尤も、「百人斬り競争」が架空の話だったら当然のことであった。
                         (詳しくは先述した稲田朋美著「百人斬り裁判から南京へ」(文藝 春秋社)を閲読下さい)

 東京日々新聞の「百人斬り競争」報道は元々「戦闘に依る百人斬り」と戦意昂揚の為の報道だった。
 戦後、百人斬り論争で、本田勝一らは、戦闘での百人斬りは流石に不可能だと認めざるを得なくなった。そこで、上官命令による
殺人ゲームだと言い始めた。それにも無理が出てきたので「捕虜の据え者斬り」だったと話を変えた。
 最も重要な論争の原点をころころ変え、新聞報道とかけ離れた主張を強引に展開した事実を見れば、本田勝一らにとっては百人斬
りをどうしてもデッチ上げなければならない思惑があったからに他ならない。
 彼等の目的は中国を利する為に、日本を咎める徹底した反日思想に貫かれていた。

 本「百人斬り」の真偽は、軍の組織と運用、当時の戦闘状況、軍刀の性能などの全ゆる面からしてあり得ない話である。
 それにも拘わらず裁判官は被告側の資料のみを尊重して、原告側証人の証言を一切取り上げようとしない一方的なものだった。
 明らかに何らかの意図が働いたとしか思えない。裁判官の愚かしさの証明だけを残した。

 原告側の証拠や証人を意図的に忌諱した裁判は新たな裁判不信を生み出した。裁判とは一体何だったのであろうか。
 本裁判以外でも、裁判官と一般人との感覚のズレが顕著になり、裁判官の資質が問われて久しい。
 今年から新たな裁判員制度が発足する。
 若し、国民を任意に抽出したこの制度で裁判を行ったら、恐らく逆の結論が出ていたに違いない。
 「裁判は公正」などと言うのは全くの幻想である。それほど本裁判の判断は国民の一般常識から逸脱していたと言えよう。
 百人斬りの冤罪は決して終わっていない。新たな出発が必要であろう。



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