軍刀抄(11) 江村刀 Emura-tō0

江 村 刀  Emura-tō

官営・日本刀鍛錬所 | 軍刀 | 軍刀について | Table of contents | About a Guntō

岡山刑務所  Okayamaprison

「江村」に就いて



 従来、「江村」に就いて、岡山刑務所の看守長と一般的に言われてきた。
 今回、大村邦太郎氏が自ら発行する月刊誌「刀剣工芸」昭和17年5月号(第86号)に掲載された「江
 村」に関する記述が発掘された。
「日本刀劍新聞」5月號の栗原彦三郎氏と記者の対談記事で、「大村邦太郎氏が岡山刑務所を屡々
(しばしば)訪ねて刀剣製作を指導した」という記事を大村氏が読まれ、事実と相違していて江村所長と
 その弟子達が困られるであろうとの思いでこの記事を掲載したと述べている。
 ここで江村氏は看守長ではなく「所長」であり、刑務所内に大規模な刀剣製作工場が存在する事が
 確認された。
 当時、日本一といわれる刀剣工場である。これは将に「国営刀剣製作所」と言えるものであった。
 従来の概念に比べて、江村刀は分業を採り入れた合理的作刀法の刀だったようだ。
 従って、大村邦太郎氏も「江村刀」と態々謳っている。
 又、政治犯に造らせたという説や、銘の類似書体から陸軍受命刀匠の「長光」を江村と同一視する
 向きが一部にあったが、それは間違いと言えよう。






江 村 刀

ー 刀劍漫筆(四)ー 大村東崖(邦太郎)
                                                     ※ 要旨を現代用語に変換して記す

 大体私は「受刑者」を蔑(さげす)み得る程の正しい人間ではなく、従って世の高潔なる正義屋諸公とは江 村刀に対する見解を聊(いささ)か異にする。
 一昨年?(昭和15年?)だったと思う、「帝鐵=帝国製鉄」の伊達能氏に誘われ、越水盛俊氏と三人で岡山刑務所の作刀工場を見学に行った。
 見学に行く大分前、私は岩崎航介氏から刑務所刀の事は聞いていた。
 選(え)りにも依って囚人に刀を扱わせるなんてどうみても合点がいかず、寧ろ反感を覚えていた。
 ところが行ってみて先ず驚いたのは、江村所長※1そ の人の人柄である。               (※1 筆者注: 江村繁太郎)
 先述したが、私は私自身を非正義者とハッキリ心得ているから、所謂(いわゆる)正義屋、愛国屋、武士道 屋等々、商売往来にもないような難しい屋号のつく奴が大嫌いで、斯様な奴には付ける薬がない。
 世の中で一番始末に負えぬ者だと思っているが、幾ら非正義者の私でも未だ刑務所入りをした経験が無いので、監獄という所なり、又、そこの親玉がこんなに迄人間味たっぷりな人とは思ってもいなかった。
 殊(こと)に江村さん (「所長さん」というより「江村さん」として印象づけられたから失礼乍(なが) らそう書かして戴きます)の役人臭のカケラも無い春風駘蕩(たいとう)たる風格には全く降参してしまった。
 同時にこれは受刑者達にとってはきっと、希(まれ)なる慈父であるに違いないと思った。
 江村さんの御部屋には所謂(いわゆる)江村刀が数十振り置いてあった。
 我々は先ずそれを拝見し、概見して、「ほゝう之は相当な物だな」と思った。
 中にズバ抜けて良いのが一本あった。さる高貴な方の御身に供えたものだそうで、如何にもと感じた。
 作品拝見を終わって色々な技術上のお話があった。
 組合せの話、徐冷、江村刀製作状況についての概話があった。
 今猶(なお)ハッキリ耳底眼底に残っている事柄のみを項目書きにするとー

一  先ず、江村さんは愛刀家である事。
一、 江村刀は江村さんの前任地高松で着想、計画された事。
   この江村さん必死の事業は、単なる授産事業(職の無い人に仕事を与えて生計を立てさせること)ではなく、実は命がけの
   教化事業なのだ。
一  従業工員には泥棒、詐欺等々所謂破廉恥罪囚は一人もいない。人殺し、喧嘩凶状等カッとなって図らずも大罪を犯した謂(い)
   はゞ短慮者、無理に褒めれば純情人許(ばか)りだ。
   嗄(しわが)れ声でグダグダと自分のことを人様に押しつける師直や、顰(しか)め面をして王位をクスネ、おまけに兄貴の嬶(かかあ)
   でチョロマカすクロウディアスのような腹黒は半匹もいない。
一、 工員は無期懲役か軽くて十五年位の、娑婆の望みの先ず絶えた長期囚許(ばか)りだ。
一、 工員は右言った中の模範囚のその又中の上等を、全国刑務所から選り抜いた者許りだ。
   だから、この人達を仮に世間に出しても、人の手本になる事はあっても二度と再び此処へ還ってくるような者はいません、と
   看守君は肚(はら)から断言した。
一、 工員の前職は雑多であるが、此処へ来て所長さん其他の指導で各々の技術を習得した、或は収得しつヽある者。
一、 焼入れは全部江村さん御自身がやられる。銘も江村と切ってあるから江村刀。
一、 工員数はその頃鍛造部、研磨部各五十人許り、鞘其他に数人。

 所長室での見聞は先ずざっとこのような事だった。これを予備知識として我々は実地見学に移った。
 国民服の江村さんに連れられて案内されたのが平屋建工場様式の、全体では二百坪もあるような随分大きな建物。
 これこそ当の大教化道場たる岡山刑務所鍛刀場(正式な呼称は知らない)である。
 場に入る時、チラと私の脳裏を横切ったのは見学「される」人達の感情である。定めし嫌だろうなと思った。
 娑婆の奴等がチュビ髭を生やし洋服を着、君子ヅラや先生ヅラして酒蛙々々(しゃかしゃか)と見て歩く、 勝手にしやがれという気がするのではないかと思った。
 が、之は私・・・私というそれこそ奴の考える娑婆での事であった。一歩場に入ると娑婆ではない。無論監獄でもなかった。
 では何か・・・・おしまい迄読んでいたゞければ分かる。最初参考室に案内された。
 日本刀の沿革、各種の材料、夫々(それぞれ)の鍛法等々一目で分かる様に、線や数字や表や実物や模型や を縦横自在に駆使して作ってある。工員達は此処に来て黙って見ていれば、正確無比な日本刀知識のお浚(さら)いが出来るわけで、娑婆 でよくやる説教混じりのスフ入刀話などを聞かなくても済むようになっている。

 これからいよいよ作業の見学。
 私は場に入る前に「人」は成る可く見ない積もりでいた。ところがいざとなると矢張りどうしても先ず人が目につく。
 顔が見え目が動く、手が足が工具が機械が・・・・ありと全ゆるものが目につき全ゆる物音が耳に聞こえてくる。
 私はムキ出しの私を露呈した。
 見る者も見られる者も一緒くたにその雰囲気の中に溶け込んでしまった。
 皆、火が出るようにやっている。工場全体が本物の「火の玉」だ。槌からも鑢からも目に見えぬ火花が飛んでいる。
 脇見一つしない、口は無論聞かない。孜々(しし)営々無言の荒行である。
 が、フト見た行者達の顔は? 目は? あゝ何というそれは驚くべき相貌か? 前線で暫(しばら)く生命 を敵前に曝(さら)していると前線勇士特有の相貌になり、永くやっているとやがて仏相になるという。
 正しくそれに違いない。工員の皆が皆、仏菩薩乃し聖者の様な相をしている。
 娑婆の偉人や利巧人などのそれとは凡そモノが違うし、まして我々如きがいくら殊勝ヅラをしても到底斯様な相にはなれっこない。なんだか背光がさしている様にさえ覚えた。

 私は驚いた。実に驚いた。迚(とて)も適(かな)わん と思った。
 そして刑務所工場というような特殊な境(遇の欠字と思われる)に於いてこそ初めて目睹(めみ)し得る芸術神、否、日本刀神の強烈無
比なる活動の特殊様相を魂の底から拝んだ事であった。
 鍛造部にはその頃、鍛錬用の火床が確か四カ所(その他にも在ったと思うが)と、落下ハンマーが三十貫と二十五貫? のと二台、
その他鑢場銓(はかり)スキ場等々色々な設備が出来ていたし、それらに就いても夫々説明は聞いたが今と なっては余り記憶に残っていない。
 ただ鍛刀場としては恐らく日本一(その当時は)の大工場だなと思った事と、技術上の多少の差異点(工程の)に気がついた事等を
覚えている。
 何しろ謂はゞお上の仕事だから炭や材料はケチケチしないでドンドンジャンジャンとやっている。
 よく一心に働く事を「こま鼠の様に働く」等と謂うが、此処の働き振りは左様なチョロチョロ型ではなく、まるで狂者のような、
又、阿修羅のような血みどろ奮闘である。
 それも決して受け身ではない。
 監督者としては看守君が只一人入り口に立っているだけで、我々が研磨工場の方へ行ってしまっても、ドンドンジャンジャンは些
かの弛(ゆる)みもなく続けられていたのである。
 研磨部は鍛造部よりも遙かに狭かったかと思うが、我々の職場の何十倍もある大したものであった。
 此処も大体分業になっており、素地、砥目抜、仕上げと夫々分担になっていた。只、仕上げの方は流石に静かで、皆工員は息を止
めた様だった。
 先刻、所長室で拝見した研ぎはいずれも立派に出来てはいたが、ちょっと・・・・ほんのちょっとではあるが私に心付いた事があ
った。
 それは地がも少しコナれていたらズンと良くなるがなと思われる事であった。それで地艶の所へ来た時フトそれを思い出した。

 私は所長さんの許可を得て、一工人の持ち場に行った。
 「私はご同職なのですが、私の参考の為、貴方のお使いになっている艶を拝見させて戴く訳には参りませんでしょうか」。
 三十にはならない未だ若い人だったが、こんな不躾な事を言われて嫌な顔もせず、人懐っこい眼・・・実に綺麗な眼を輝かして
「ハイ」と答えるより早くボール函を持って来た。
 あるはあるは貼ツヤが一杯ある。私はその中から丹念に十枚許り撰り出し私の最も好みに適った二枚許りその人に渡して「私はこ
の程度の石をこんな風にして之々しかじかして使っておりますが、物は試しで一ぺんやられてみては如何ですか・・・・生意気を言
って失礼ですが自分で良いと思うものですから、つい・・・」、直ぐその後、「しまった、出過ぎた!」と悔やんでいると、あゝ何という素直さであろうか真情を流露させて、「ハイ・・・・有り難う御座います・・・」、私は思わずその手を取りたい衝動を感じた。
 今、思い出されるこの見学の印象は大体こんな事である。

 私は尚、一二の説明を補足しておく必要がある。
 私はこの事業を命がけの事業だと言った。それは仮に・・・仮にだ・・・百人の荒くれ男(でもあり得ぬ事はない)が、お手のもの
たる日本刀を執ってワッと蜂起したとしたら、この小さな刑務所がどうなるかを想像した丈でも分かろう。
 又、工員の活動を能動的だと言った。
 それは彼等が
 一、一切の「娑婆」的希望を絶った諦観者であり
 二、贖罪(しょくざい)に日も之足りない大勇者であり
 三、初めて知る造刀三眛(ざんまい)に対する熾烈灼(や)く ような感恩者である事に想い至れば、少しく魂の持ち合わせある者ならば、兒(こ)女子と雖も分かろう。日本に生を享(う)けなが ら、ふとした事から完全に「一生を棒に振った」不幸な兒達にとって「鍛刀場行」は最大至高の栄誉であり「復活」なのである。否、成仏の大機なのである。
 作刀活動が彼等に於いて生存の全意義となる事は言う迄もない。純粋熾烈な報謝の営みとなる事は言う迄もない。
 烈々たる銃後の意識、それは彼等の境(遇)を思い、又、製作物が何であるかを一顧すれば直ちに分かろう。
 曾(かっ)てのシタタカ者も、仕事がうまく行った時はただ子供のように喜び(記憶せよ、此処では賞状も 無ければ金牌も無い。
 まして帝展入選などと田舎新聞で噂される事は間違っても無いのだ)、代わりに、うまく行かない時の彼等の懊悩(おうの う)はどう
か。大の男が泣くのである。二日も三日もメシを喰わぬ(看守君の実話)、いや、喉を通らんのである。

 私が岡山刑務所に赴いたのは、後にも先にもこの見学一回きりである。
 強いて言えば、磨きの技術に就いて某工場(実は岡山刑務所の同工場を対象として)を仮設して本誌に何か書いた事があり、又、大
阪朝日に一寸「江村刀」について投稿した事があるが、之は「指導」には関係無い。
 思うにこの勘違いは、私が曾って同所見学の感激を誰かに対し「若し江村さんの要請があれば、盛俊さん(同氏もひどく感激されていた)と私は何時でもこの工場に行って、工場の諸君と同じキモノを着、同じメシを喰い、同じ働きを働いて技術を交換する覚悟だ」と語った事がある。
 それが「屡々赴いて指導」と誤り伝えられたものであろう。
                                                       (資料ご提供: K.森田様)

     


 以上の資料に基づき「江村刀」の大変興味ある事実が確認された。

1.江村氏は看守長ではなく、「所長」である。愛刀家であり、役人とは思えない人間的魅力のある人柄であった。
2.江村氏は前任地の四国・高松刑務所時代、教化事業としての刀剣製作を着想、計画した。
3.刀剣製作事業は、囚人への単なる授産事業ではなく、命がけの教化事業だった。
  一看守が手慰みの趣味で行ったものではなく、法務省=国が公認した「国営事業」で、鍛造、研磨他100名を超す日本一とも言え
  る大規模な刀剣製作工場だった。
  鍛造に機械ハンマーが用いられ、鍛造、研磨は分業化し、従来の零細個人作刀とは違う工業的製作法が採り入れられていた。
  炭や資材がふんだんに使えた。
4.刀剣製作に携わった囚人達の多くは出所見込みの無い重刑者であり、全国から選り抜かれた囚人が集められた。
  彼等は、刀剣製作に自らの生き甲斐と意義を見い出し、積極的且つ真摯に仕事に取り組んでいた。
5.焼入れと銘切りは必ず江村所長が行っていた。
6.製作刀への評価は、大村邦太郎氏の表現からみてもかなり優れていた。

 作刀法は新々刀の鍛法と作り込みに準拠していたのではなかろうか。
 只、鍛造の部分に機械ハンマーが用いられているし、刀剣界が浸っていた工程と少しの相違があった事が窺える。

 江村所長は徳島県出身、昭和35年没。単なる「刀匠」ではなかったという事が判る。

About a swordsmith "Emura"

 Conventionally, there was no clear information about "Emura."
 This time, the report published by the monthly "sword technical" May, 1942 issue (No. 86) which Mr. Kunitaro Omura famous for a sword community publishes himself about "Emura" was unearthed.
 He has called at the Okayama prison sword factory once.

 Therefore, Mr. Emura is not a chief warden but the "head", and it was checked by this description of his that a large-scale sword manufacture factory exists in a prison. This can be said to be a "national sword factory."
 Since the font of mei of  "Emura"and army commission swordsmiths"Nagamitsu", was alike, some persons of a sword community had the view of identifying both in the same category until now, but it can be said to be a mistake.
1. Mr. Emura is the head of the Okayama prison. He is not a chief warden. Emura was a person who loves a sword. He was the personal character with personal magnetism out of character with a government official.
2. Mr. Emura hit on an idea of the sword manufacture as the Takamatsu prison age in Shikoku of a former post, and educational work.
3. The sword manufacture enterprise was not a mere vocational aid enterprise but the desperate educational work to the prisoner.
 The Okayama prison sword factory was the "state enterprise" which the Ministry of Justice authorized. The operative exceeded 100 persons besides a forge and polish, and was the No.1 large-scale sword factory of Japan.
 The machine hammer was used for the forge. A forge and polish were specialized and the different industrial manufacturing method from the conventional individual sword making was adopted. For government management, charcoal and materials were able to be used abundantly.
4. Many of prisoners engaged in sword manufacture are felon persons without the source hope, and the prisoners selected from the whole country were assembled. They found out their definite aim in life and meaning to sword manufacture, and were tackling work positively and seriously.
5. Director Emura was always performing cutting of Mei and hardening by himself.
6. Mr. Kunitaro Omura is evaluating the Emura sword highly.
 It seems that the sword-making method was based on the method of forging a Shin Shin-to. However, the machine hammer
is used for the portion of the forge. As for this forging method, some processes were mechanized.

                                            Refer to the blade of "Emura"



  2013年9月20日より  直接ご訪問(経由を含まず
ページのトップへ▲

← 耐錆鋼刀  ホーム 軍刀 軍刀について  受命刀匠規格刀 
← Stainless steel swords About a Guntō Contents 
Commission swordsmith standard sword